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越ヶ谷宿 越ヶ谷2・3丁目・中町・越ヶ谷本町

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 越ヶ谷宿】
日光街道では千住宿、宇都宮宿に次ぐ規模を誇った越ヶ谷宿は、天保14年(1843年)当時の宿長さ南北18町48間(約2.0km)、人口4603人、家数1005軒、本陣1、脇本陣4、旅籠52軒。現在の越ヶ谷2・3丁目・中町・越ヶ谷本町から元荒川を挟んだ大沢にかけての旧日光街道筋がかつての越ヶ谷宿にあたり、宿場から東側(現 御殿町)の元荒川沿岸に徳川家の越ヶ谷御殿が設けられていた。この御殿は慶長9年(1604年)徳川家康によって築かれたが、明暦の大火(1657年)で江戸城が焼失した際、その再建のために解体され建材として使われたという。

なお、現在は”越谷”の表記が用いられるが、旧表記は”越ヶ谷”であるため、ここではこれに従う。


白屋旅館
旅籠の名残を感じさせる佇まいの白屋旅館。越谷宿南外れにあたる越ヶ谷2丁目の旧街道筋に今も現役で旅館業を営んでいる。


越ヶ谷宿・越ヶ谷3丁目
越ヶ谷3丁目の越谷宿町並み。横田診療所の古風な洋風建築に目を惹かれるが、この建物は大正5年(1916年)建築の旧越谷郵便局である。


木下半助商店
中町にある金物屋の木下半助商店。店内に所狭しと商品が陳列され、老舗らしい味のある店構え。


塗師屋(ぬしや)
木下半助商店の向かいにある旧商家「太物荒物店 塗師屋市右衛門」。かつては呉服店を営み、屋号が示すように漆も扱っていたという。レンガ造りの一風変わった”うだつ”を残している。


鍛冶忠
塗師屋の隣には日用雑貨を扱う鍛冶忠商店が蔵造りの見事な店舗を構えている。明治期以前は屋号からもわかるように鍛冶屋だったという。


越ヶ谷宿・本町商店会
越ヶ谷本町の越谷宿町並み。写真中央に見える河内屋旅館は創業300年といい、旅籠屋だった江戸時代から続く老舗旅館。


会田金物店
越ヶ谷本町にある会田金物店。この店の佇まいも宿場情緒を感じさせてくれる古風な店構え。越ヶ谷2・3丁目から越ヶ谷本町にかけてが越谷宿の見所と言ってよいだろう。


市神社
越ヶ谷本町の旧街道筋に鎮座する市神社。この神社は神明社であり、昔は境内で市が開かれていたのでこの別名が付けられたのだろう。草加宿の神明宮と同じことである。この神社の裏手に”宝楽”という中華料理店があったので、ここで遅めの昼食を取ることにした。


中華料理 宝楽にて
中華料理 宝楽にて。ラーメンにライス・・・普段の昼飯と変わらんなあ、と思いつつ、とにかく歩き旅には充分なエネルギーの補給が必要である。それにしてもトレーが社員食堂っぽい・・・。


米長乾物店
元荒川の手前、越ヶ谷本町の町並み。米長乾物店が絵になる旧街道の風景。


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越ヶ谷宿 御殿町・大沢

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 越ヶ谷宿】
越ヶ谷本町から大沢橋(大橋)で元荒川を越えると、本陣や脇本陣の置かれていた大沢町へと入る。つまり、越ヶ谷宿の中心は大沢町にあったのだが、残念ながらここに宿場時代の面影は留めていない。本陣や脇本陣跡を示す標識も無いため、歩いていてもどこに何があったのか、わからずじまいで通り過ぎてしまう。越谷市にはせっかく宿場町という歴史があり、それを感じさせる建物もそこそこに残っているのだから、もう少し考えてほしいものだ。


大沢橋と元荒川
元荒川に架かる大沢橋(大橋)。大沢橋の最初の架橋は江戸中期以前で、現在の橋は昭和28年(1953年)に架け替えられたものである。架け替え当初は大橋という名であったらしく、欄干には今も大橋と表記されている。


元荒川
大沢橋付近を流れる元荒川。大沢橋から元荒川沿いを東へ向かへば越ヶ谷御殿跡に着く。


越ヶ谷御殿跡
かつては徳川家康や二代将軍の秀忠が、鷹狩りに訪れ宿泊した越ヶ谷御殿跡。御殿は明暦年間に江戸城再建のため取り壊されてしまい当然ながら跡形も無くなっているが、僅かにその跡地を示す碑と説明板が設置されている。ここから元荒川を望むと何となく往時の様子がうかがえる。


大沢橋
越ヶ谷御殿跡から旧街道に歩みを戻し大沢橋を渡る。橋の袂に見える”温鈍屋(うどんや)”は元和元年(1615年)創業という老舗の川魚料理店。ここの鰻重は絶品らしい。ここで昼飯を食べたかった・・・ので、いずれまた。


越谷宿・大沢町
大沢町に入った旧街道は大沢商店会の中を先へ延びる。ここが福井本陣や山崎脇本陣、深野脇本陣が置かれる宿場の中心であった。


越谷宿・大沢町
越谷宿・大沢町を行く旧日光街道。


越谷宿・大沢町
先に見える東武伊勢崎線の高架下で越谷宿は終わり。


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元荒川

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 越ヶ谷宿→粕壁宿 道中】
越谷宿を出た旧日光街道は大林・大里・下間久里・上間久里を経て千間台で国道4号に合流。新方川を渡れば春日部市へと入る。この道中、見所といえば・・・これといって何も無い。しかし東武伊勢崎線の高架を潜り抜けた先で、越谷宿内で渡河した元荒川が最接近する。足を止めてゆったりと流れる川面を眺めるのも、街道歩きの興というものだろう。

元荒川は熊谷市佐谷田の貯水池を源にして行田市・鴻巣市・菖蒲町・桶川市・蓮田市・白岡町・さいたま市岩槻区を経て越谷市で中川へ注ぐ、埼玉県北部から南東部を流域とする延べ約60kmの河川である。かつては荒川の本流であったが、寛永6年(1629年)関東郡代伊奈氏によってその本流が和田吉野川に付け替えられ、旧河道は元荒川となった。旧中山道を歩けば元荒川の最上流部を渡河することになる。



元荒川・埼玉鴨場付近
元荒川の上流方面を望む。右岸に見える森の中に北越谷第五公園や宮内庁埼玉鴨場がある。この鴨場は約11万7千平方メートルの敷地に約1万2千平方メートルの池がある。わかりやすく言うと、東京ドーム2.5個分の敷地に野球グラウンド1面分の池があることになる。ちなみに一般人は中に入れませんので、あしからず。


元荒川
元荒川の上流方面を望む。休日にのんびりと釣り糸を垂らすというのもいいもんだ。それにしても、旧中山道を歩いている時に熊谷宿へ入る手前で越えた小さな清流が、こんなにも大きな流れになるとは・・・何となく感慨深い。


旧日光街道・大林
大林を行く旧日光街道。


旧日光街道・大里
大里で東武伊勢崎線と再び交差する。


旧日光街道・下間久里
下間久里を行く旧日光街道。


香取神社
下間久里の香取神社。毎年7月15日の例大祭で振舞われる獅子舞は、元禄6年(1693年)以前から受け継がれているといい、埼玉県の無形民俗文化財に指定される。


国道4号・千間台
千間台東で国道4号に合流する。


国道4号・戸井橋
戸井橋で新方川を越えると春日部市へ入る。


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大落古利根川

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 越ヶ谷宿→粕壁宿 道中】
春日部市へ入った後はひたすらに国道4号を歩くことになる。大枝・大畑を経て備後東まで来たところで、大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)という大層な冠名が付された利根川に接近する。現在、この川は中川水系の一流路となっているが、江戸時代初期までは利根川の本流であった。利根川東遷事業によって現在の利根川は茨城県と千葉県の県境を流れ、鹿島灘の太平洋へ注ぐ日本最大の流域面積を持つ大河川となっているが、かつての利根川は中川の流路を経て東京湾へ繋がっていたのだ。その名残が大落古利根川なのである。


国道4号・大枝
大枝を行く国道4号。道路横に会之堀川が並行して流れている。


会之堀川にて
会之堀川にて。


国道4号・歓喜院付近
大枝の国道4号沿いにある歓喜院。以前の記事に書いた待乳山聖天(東京都台東区)と同じ歓喜天(聖天)を本尊に祀り、日本三大聖天の一つとされる。


国道4号・備後
備後東を行く国道4号。


国道4号・備後(北)信号 備後一里塚跡
備後(北)信号のすぐ近く、日本橋から8里目(約32km)の備後一里塚跡。かつては両塚に榎が植えられていたというが、遺構は全く残っていない。


大落古利根川
国道から横に目を転じると大落古利根川の流れが見える。


大落古利根川
この記事の主役、大落古利根川を藤塚橋から望む。ゆったりとした流れに長い時のうつろいを感じさせる。


大落古利根川にて
ん!?鯉か・・・いや、鯰のようだ。写真ではわかりにくいが、かなりの大物。


国道4号・緑町
緑町を行く国道4号。東武野田線を潜り抜ければ、粕壁宿は近い。


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粕壁宿

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 粕壁宿】
江戸日本橋から9里余り(約36km)、日光街道の4番目となる宿場町・粕壁宿。天保14年(1843年)当時は人口3701人、家数773軒、本陣1、脇本陣1、旅籠45軒と記録にあり、古利根川の水運や街道を行き交う旅人で賑わったことは想像に難くない。江戸時代の庶民は1日に30~40kmの距離を歩いて移動したというから、江戸から日光街道を歩いてきた旅人は粕壁宿で旅装を解くことが多かったのだろう。あの松尾芭蕉も、千住宿から奥の細道へ一歩を踏み出した初日の夜は粕壁宿で過したという。

”粕壁”という文字を見てもピンとこない人も多いのではないだろうか。”かすかべ”と読むのだが、昭和29年(1954年)に表記が変わり、現在では馴染みの”春日部”となった。元々は鎌倉時代に春日部氏の所領だったことに地名の由来があり、どういった変遷を経て粕壁となったのかはよくわからないが、現在の表記は原点回帰なわけである。ちなみに春日部は”クレヨンしんちゃん”の舞台とて知られるが、ここを歩いている時に作者のあんな訃報に接することになろうとは夢にも思わなかった・・・。


東陽寺
粕壁宿の東外れにあたる東陽寺。千住宿から奥の細道を歩き始めた松尾芭蕉が、初日に宿泊したと伝わる場所。「伝芭蕉宿泊の寺」と彫られた石柱が本堂前にある。


粕壁宿・文化会館前交差点付近
文化会館前交差点付近のかすかべ大通り沿道が往時の粕壁宿の中心で、本陣や脇本陣が置かれていた。現況はその跡地を示すものが何も無く、どこにあったのかもはっきりしない。


粕壁宿・ロビンソン百貨店付近
現在の粕壁宿はロビンソン百貨店が本陣といった風情だ。


粕壁宿
粕壁宿の東側に宿場だった面影が少しだけ残っている。


日光街道粕壁宿道標
上の写真の旧家前に残る日光街道粕壁宿道標。「東 江戸」「西南 いハつき」とあり、裏側に「北 日光」と刻まれている。かつては最勝院の参道入口、現在の新町橋西交差点に置かれていたと推測される。


粕壁宿
粕壁宿東側、粕壁2丁目の町並み。慶長年間創業という米屋、永嶋庄兵衛商店が老舗らしい佇まい。その隣に見える太陽生命の辺りに”太物荒物店・油屋勘六”という大きな商家があったらしい。


はまじま美術館
所々に宿場の歴史を感じさせる建物が残っている。はまじま美術館の看板を掲げる土蔵。


最勝院
粕壁宿の西外れにあたる最勝院。境内には南朝の臣として後醍醐天皇に仕え、元弘の乱で活躍した春日部重行が葬られたという墳丘が残る。かつて最勝院の辺り一帯は寺町と呼ばれ、今も多くの寺院が集まっている。


大落古利根川と粕壁宿
新町橋西交差点から旧日光街道は北東に折れ、新町橋で大落古利根川を渡る。旅人は川の向こうに粕壁宿を眺めながら北へと向かう。


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小渕追分

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 粕壁宿→杉戸宿 道中】
大落古利根川を越えた旧日光街道は八丁目から春日部市内最後の地域となる小渕を経て杉戸町へ入っていく。小渕には日光街道と関宿往還の追分(分岐点)があり、現在もそれを示す道標が残されている。関宿は千葉県野田市の北端部、利根川と江戸川の分流点に位置し、江戸時代には城下町として栄えた。


県道惣新田春日部線・八丁目
八丁目を行く旧日光街道。新町橋から旧日光街道は県道惣新田春日部線の道筋を辿る。


小渕一里塚跡 小渕一里塚跡の庚申塔
八丁目から小渕に入ったすぐ先、旧日光街道沿道に”史蹟小渕一里塚跡”の石柱と庚申塔が並んで置かれている。小渕一里塚は江戸日本橋から9里目(約36km)の一里塚。遺構は全く残っていない。


小渕追分
ここが小渕追分。左の道が日光街道で右に分岐する道が関宿往還である。


小渕追分道標 日光街道・関宿往還道分岐
小渕追分に残る道標2基。写真手前の道標が宝暦4年(1754年)建立で、正面に「青面金剛」、左面には「左日光道」と刻まれている。そして奥に見える小さな道標は更に古いもので、宝永6年(1709年)の建立。「左方あふしう道」「右方せきやど道」と刻む。ちなみに、”あふしう”とは奥州のことである。


小渕にて
小渕追分にて。旧街道の情緒を感じさせるすばらしい古塀と屋敷林。中山道を歩いている時、北上尾で見た旧紅花仲買問屋・須田家を思い出させる。


小渕交差点
小渕交差点で国道16号を越えるとともに、旧日光街道は国道4号に合流する。


国道4号・小渕
小渕を行く国道4号。


小渕観音院
国道4号沿いにある小渕山観音院。この寺は相当の古刹で、本堂は文政8年(1825年)、山門の仁王門が元禄2年(1689年)の再建という。聖観音を本尊に祀り、この本尊が、いぼ・こぶ・あざ取りに霊験あらたかなことから、”こぶとり観音”の異名を持つ。粕壁宿の東陽寺と同じく、松尾芭蕉が奥の細道の旅に出でて、初日に宿泊したと伝わるのだが、真相は如何に・・・。


小渕観音院仁王像
小渕観音院山門の仁王像。長年の風雨に耐えてきた鬼の形相は、写真よりも実物はもっと迫力がありますよ。


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すきすきすぎーと36

【2009年5月3日(日) 旧日光街道 粕壁宿→杉戸宿 道中】
春日部市から国道4号で杉戸町に入ると、”すきすきすぎーと36”なる道路標識が目に留まる。これは自動車のために設けられた休憩所を示しているのだが、そこにあるのが謎の球体。車で通り過ぎてしまえば気にも留めないだろうが、歩きならばそうもいかない。これは一体なんだろうと、マジマジと見てしまう。答えは後に譲るとして、”すきすきすぎーと36”から堤根立場跡を経て夕闇の中を杉戸宿へ。


国道4号・春日部市・杉戸町境
国道4号を歩いて春日部市から杉戸町へ。


すきすきすぎーと36
杉戸町に入ってすぐ、国道4号沿道にある”すきすきすぎーと36”。


北緯36度線モニュメント
これが謎の球体。近づいてみると石造の地球儀だということがわかり、更によく見ると赤道と北緯36度線が引かれていることに気付く。これは北緯36度線がここを通っていることを示しており、国道4号と交差する場所に設置された杉戸町のウエルカム・モニュメントだという。
ふーん、なるほど・・・先を急ごう。


旧日光街道・堤根
堤根に入ると旧日光街道の道筋は国道4号を左に分岐して堤根立場跡へ。


堤根立場跡
堤根立場跡を行く旧日光街道。


九品寺の日光街道道標
九品寺境内に残る庚申塔を兼ねた日光街道道標。天明4年(1784年)に堤根村の農民42人によって建立された。正面に「青面金剛」、左右側面に「左日光」「右江戸」の文字が見える。


九品寺本堂
夕闇に暮れゆく九品寺本堂。


旧日光街道・堤根(南)交差点付近
堤根立場跡を過ぎた旧日光街道は堤根(南)交差点手前で再び国道4号に合流する。


馬頭院観音寺
本尊が伝教大師(最澄)の作と伝えられる馬頭院観音寺。


旧日光街道・堤根
馬頭院観音寺を過ぎれば、間もなく国道4号から県道堤根杉戸線が分岐する。この県道が旧日光街道の道筋で、ここまで来れば杉戸宿は近い。


杉戸宿
すっかり日の暮れた19時過ぎ、ようやく杉戸宿に到着。


杉戸宿
本陣跡前交差点で本日の旧日光街道の歩き旅は終わり。東武動物公園駅へ向かい帰途につく。

【旧日光街道 第2日目】踏破距離 約25.2km(草加宿→越谷宿→粕壁宿→杉戸宿)
日本橋から約44km 日光まで約104km 
まだまだ遠いのお・・・


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杉戸宿

【旧日光街道歩き 第3日目】杉戸宿→幸手宿→栗橋宿→中田宿→古河宿



【2009年7月25日(土) 旧日光街道 杉戸宿】
現在の杉戸町は東武動物公園があることで知られ、杉戸町中心部にある東武鉄道の駅名も東武動物公園駅となっている。その杉戸町の前身となる杉戸宿は、元和元年(1615年)付近の家を集め、日光街道の宿駅として誕生した。宿場ができる以前からこの辺りは、利根川(現 大落古利根川)の北岸に位置する杉林の多い土地だったことから”杉の渡(すぎのと)”と呼ばれ、”杉戸”の名が付けられる由来になったらしい。

天保14年(1843年)当時の杉戸宿は宿長さ東西16町55間(約1.85km)、人口1663人、家数365軒、本陣1、脇本陣2、旅籠46軒と記録にあり、日光道中では中規模の宿場町。宿場は新町・下町・中町・上宿に分かれ、本陣は長瀬家が務めていた。毎月5と10の付く日に市が開かれ、五十(ごとう)の市と呼ばれ賑わったという。


大落古利根川・杉戸町
まずは、杉戸という地名の由来に大きく関わった大落古利根川の流れから。


三本木一里塚跡
江戸日本橋から10里目(約39km)の三本木一里塚跡。杉戸宿の江戸方入口手前に位置し、北側が堤根村地内、南側が清地村地内という場所に築かれていた。明治中期頃に取り壊され、現在は生垣に埋もれるように説明板だけがある。


清地二丁目交差点
清地二丁目交差点付近の旧日光街道。この辺りが江戸方杉戸宿の入口と思われる。


関口酒造
清地二丁目交差点角にある関口酒造。文政5年(1822年)創業の造り酒屋で、清酒「豊泉」や「杉戸宿」の蔵元である。


近津神社
平成13年(2001年)に不審火で社殿が焼失してしまったという近津神社。最近になって社殿が再建されたようだ。


杉戸宿・本陣跡地前交差点 「明治天皇御小休所跡」碑
杉戸宿・本陣跡地前交差点付近の町並み。交差点名から察する通り、この辺りが杉戸宿の中心だった。その交差点角の中央三井信託銀行前に「明治天皇御小休所跡」と刻まれた碑があるのだが、これは明治14年(1881年)明治天皇が東北巡行の際、ここに宿泊したことを記念して建てられた。


杉戸宿・本陣跡付近
歩いているときは埼玉県信用金庫の辺りが本陣跡なのかと思っていたのだが、後で調べてみると長瀬家の本陣門が今も残されているらしい。事前の調査不足である・・・残念。


杉戸宿
杉戸宿の見所は西側にあり、今も宿場らしい佇まいを残している。


小林質店と道標
小林質店はかつての脇本陣。その向かい側に「粕壁方面 関宿方面」と刻まれた建立年月不明の道標が立っている。


木村米店
宿場時代の建物ではないのかもしれないが、木村米店の雰囲気はグッドです。


杉戸宿
杉戸宿西外れにある渡辺家。土蔵を横に携えた見事な商家造りの建物を残している。越谷宿で見た旧商家「塗師屋」と同じ造りであり、かつては大きな商家だったのだろう。


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日光御成道と合流

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 杉戸宿→幸手宿 道中】
杉戸宿を出ると、激しく往来する車やトラックと共にしばらく国道4号を歩くことになる。杉戸・大島・高野台東・茨島といった杉戸町の地域を通り抜ければ幸手市の上高野へ入り、ジョイフル本田が前に見えてきところで旧街道の道筋は左へ分岐し、ようやく国道から解放される。そこから東武日光線の踏切を越えて県道岩槻幸手線(県道65号)に合流するのだが、ここがかつての日光街道と日光御成道の合流点である。

日光御成道は東京都文京区の本郷追分から中山道を分岐し、岩槻城下を経て幸手宿の南側(現 幸手市南2丁目)で合流する日光街道の脇街道で、三代将軍徳川家光の時代に整備された。徳川将軍の東照宮参詣に利用されてきたことから御成道の名が付けられたが、岩槻藩の参勤交代に利用されたことから岩槻街道とも呼ばれた。この街道は次に歩こうと思っているので、詳細は次の歩き旅に譲ることにしよう。


旧日光街道・杉戸
杉戸宿を出た旧日光街道は右手に”薄皮たい焼き たい夢”という店があるところで国道4号に合流する。


薄皮たい焼き たい夢
ふと振り返る。「薄皮たい焼きか・・・気になるなあ。」と思いつつも、腹が全く減っていなかったので後ろ髪を引かれながら先へ。後で埼玉県民の知人に聞いてみたところ、この店のことは知っていて、ただ一言「美味しいよ。」との感想。もう少しボキャブラリーがあってもよさそうなものだが、やはり自分で食べてみないことにはわからんということだ。


国道4号・杉戸
ひたすた国道4号を北へ。


厳島神社
下高野の国道4号沿いに鎮座する厳島神社。小規模の社であるが、厳島神社らしく社殿は朱色に塗られ、境内には小さな池が配置されている。


恭倹舎
国道4号から大島交差点を右に入ったところにある恭倹舎(大島有隣遺跡)。江戸時代中期に心学者として活躍した大島有隣という人が、病没するまでの50余年間にわたり、農民や町民に心学を説いたという歴史的建築物(埼玉県指定史跡)である。この恭倹舎が建てられたのが天明5年(1785年)というから、築220年以上は経っているのだが、トタン屋根が真新しいせいか、そんな感じはしない・・・。


茨島一里塚跡
地方国道の一風景といった趣で、全く面影を留めていない茨島一里塚跡。せめてもの救いで説明板だけは設置されている。杉戸宿と幸手宿の中間に位置する江戸日本橋から11里目(約43km)の一里塚だった。


国道4号・杉戸町・幸手市境
国道4号を歩いて杉戸町から幸手市へ。


旧日光街道・上高野
旧日光街道はジョイフル本田の手前から国道4号を左に離れる。


日光道中・日光御成道合流点 日光街道・日光御成道合流
そしてこの記事の主役ともいうべき日光街道・日光御成道の合流点に至る。写真の突き当たりがその合流点で、かつては日光街道・日光御成道・羽生道(騎西領道)が交わる交通の要衝であった。現在は変則五差路の不自然な交差点となっている。


八百留
日光街道・日光御成道の合流点にある八百留商店。写真を見るだけではごく普通にある個人の食料品店なのだが、特筆すべきはこの店が中堅スーパーのベルク前で立派に営業を続けていることである。チェーンの大型スーパーやコンビニが乱立するこの世の中、原点回帰のこういった地域密着型の店が、元気に営業を続けられる世の中であってほしい。


旧日光街道・南
幸手市南を行く旧日光街道。幸手宿へ。


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幸手宿

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿】
日光街道・奥州街道の第六宿となる幸手宿。宿場外れの南側道中で日光街道と日光御成道が合流し、更に宿場を挟んだ北側の道中で筑波道が分岐する交通の要衝として発展してきた。宿場付近の権現堂河岸には江戸舟運の廻船問屋が軒を連ね、物流の中継地として多くの人や物が往来し、宿場は大いに賑わったのだろう。天保14年(1843年)当時の幸手宿は宿長さ南北9町45間(約1km)、人口3937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒。両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模を誇っていたことがわかる。

”幸手”と書いて”さって”と読むのだが、地名の由来について少しだけ。縄文・弥生時代の埼玉県南東部は古東京湾の入り江が大きく入り込んだ地形で、海抜の低い幸手辺りの大分部は海だったわけである。そこに”薩手が島”と呼ばれる島があり、日本武尊が東征の折に上陸し、田宮の雷電神社(幸手市中4丁目)に建御雷の神を祀ったと伝わっている。”幸手”の地名はこの”薩手”に由来があるとされるのだが、いつから”幸手”の文字が使われるようになったのかは定かでない。


倉松川と志手橋
倉松川を志手橋で越えて幸手宿内へ。


神明神社とたにし不動尊
幸手宿の南側入口に鎮座する神明神社。境内に菅谷不動尊こと、通称田螺(たにし)不動尊が安置されている。たにしの描かれた絵馬を奉納すると眼病が治るというご利益があるとされる。


幸手宿南側の町並み
幸手宿南側(旧 右馬之助町)の町並み。


幸手宿にて
幸手駅入口交差点付近にある商家風の古建築。以前は何らかの店を営んでいたようだが、今は営業をしている感じではない。幸手宿を偲ばせる数少ない佇まい、願わくは取り壊しなんてことにならないでほしい。


幸手宿・幸手駅入口交差点 明治天皇行在所説明板
幸手駅入口交差点とその角にある明治天皇行在所説明板。この説明板(台と屋根部分は復元)は昭和10年(1935年)文部省によって設置されたもで、文字は全く読み取れなくなっているが、近年に幸手市教育委員会によって設置された説明板に内容が記されている。「明治十四年山形秋田両縣及北海道巡幸の際七月三十一日 同御還幸の砌 十月十日行在所となり・・・云々」


陣屋稲荷
幸手駅入口交差点を左折して駅方向へ行くと、陣屋稲荷(別名を一色稲荷という)が鎮座している。幸手駅付近一帯は古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれ、陣屋稲荷は一色氏の守護神として祀られた氏神と伝わる。


幸手宿
中1丁目・中2丁目の幸手宿町並み。左に見える”旅館あさよろず”は文政2年(1819)創業というから、旅籠の時代から旅館業を続ける老舗旅館。しかしながら、建物がリニューアルされてその長い歴史を感じさせないのは残念だが、裏門に江戸時代から続く面影を留めている。


旅館あさよろずの裏門
これが”旅館あさよろず”の裏門。旅籠だった時代を偲ばせる佇まい。


幸手宿問屋場跡
中央商店街ポケットパークの敷地が問屋場跡。日光道中各宿場の問屋場は人足25人・馬25頭の常駐が義務づけられていた。ちなみに中山道は人足50人・馬50頭、東海道が人足100人・馬100頭が常備されていたというから、問屋場役のその労苦たるや並大抵のものではなかったのだろう。


幸手宿本陣跡
写真左、文房具屋の隣が幸手宿本陣知久家跡。現在は”割烹蒲焼 義語家”という和食屋になっている。知久家は幸手宿の本陣・問屋・名主という三役を務めた家柄で、明治初期に宿駅制が廃止されるまで代々本陣を務めた。


関薬局
関薬局本店。現代的な外壁の裏に商家だった宿場時代の面影が見え隠れしている。


幸手宿・荒宿
幸手宿の北側、荒宿の町並み。


聖福寺
日光社参で往来する歴代将軍や例幣使(天皇が祭礼時に遣わせる使者)の休憩地として利用された聖福寺。勅使門は約350年前に建てられたもので、将軍や例幣使の来訪時にしか開かれなかった。


幸手一里塚跡
幸手宿内を貫いてきた旧日光街道は、正福寺参道前から右折して左折という宿場の出入口らしい枡形の道筋を辿る。ここに江戸日本橋から12里目(約47km)の幸手一里塚が築かれていた。遺構は存在せず、説明板が跡地に立てられている。


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権現堂堤

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿→栗橋宿 道中】
春には桜と菜の花のツートンカラーが美しく堤を覆い、多くの花見客が訪れて賑わう権現堂堤。その歴史は古く、天正年間(1573年~1593年)には権現堂川の堤防として築かれていたといわれる。その権現堂川も利根川や江戸川の流路変更によって、現在は権現堂調節池(行幸湖)となって名残りを留めるにすぎないが、古くは利根川と江戸川という関東平野の動脈を繋ぐ河川であり、幾度も堤防を決壊させ暴れ川として恐れられてきた。江戸が日本の中枢都市として発展するにつれ、権現堂川から下流域を守る堤防の重要性は増し、補強や延伸が図られ権現堂堤は規模を大きくしていったようだ。

権現堂堤は既に大正時代から桜が植えられ花見の名所となっていたが、昭和初期に権現堂川が廃川となって権現堂堤の意義が失われたうえ、第二次世界大戦末期には物資欠乏によって多くの桜が伐採され燃料に使われてしまった。そんな荒れ果てた権現堂堤が再び桜堤として復活するのは、戦争も終わり一段落をつけた1949年(昭和24年)のことで、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った約1kmに渡り、改めてソメイヨシノが植樹され関東有数の桜の名所と言われるまでになった。


旧日光街道・幸手市北
幸手宿を出た旧日光街道は権現堂河岸へと続く道と分岐する。写真左方向の道が栗橋方面へ向かう旧日光街道で、右方向の道を行けば権現堂河岸へ至る。かつては権現堂河岸を往来する荷車が所狭しと行き交ったのだろう。


旧日光街道・幸手市北
幸手市北を行く県道岩槻幸手線。


日光街道道路標識
淡々と続く県道を歩いていると、所々で見かけるのがこの道路標識。日光街道を歩いているんだ!と、改めて意識させてくれる。間もなく県道は国道4号と合流する。


内国府間八幡神社
県道岩槻幸手線と国道4号の合流点付近に鎮座する内国府間の八幡神社。一昨年の不審火で社殿が全焼してしまい、去年の暮れに新社殿が再建された。旧街道を歩いていると沿道の神社仏閣に立ち寄る機会が多いのだが、近年に神社が焼失・・・なんて事が意外に多いよう思う。杉戸の近津神社、北本の東間浅間神社・・・惜しいことだ。


国道4号・内国府間
内国府間を行く国道4号。権現堂桜堤の西端にあたる行幸橋まで一気に歩こう。


権現堂桜堤
青々と葉が生い茂る権現堂桜堤。桜の季節にはあまりにも遅すぎた。


行幸堤之碑
権現堂桜堤の西端、行幸橋の袂に建てられている行幸堤(みゆきづつみ)之碑。明治8年(1875年)新堤防(*注)が造成された翌年、東北巡幸の際に立ち寄った明治天皇が、その労に報いるため労働者の名前を刻んだ石碑を残すように言われ、費用の一部が下賜されて建てられたのがこの石碑。以来、この新堤防は行幸堤と呼ばれるようになった。

(*注)現在の権現堂桜堤西端から権現堂川西岸の北方向へ築かれた堤防。


中川と権現堂堤
行幸橋から中川と権現堂桜堤を望む。


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外国府間と内国府間

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿→栗橋宿 道中】
行幸橋で中川を渡り外国府間の旧日光街道を歩く。
外国府間と書いて”そとごうま”と読ませる難読な地名であるが、行幸橋(中川)から北側の幸手市最北端部に位置し、日光街道から筑波道が分岐する場所だった。ちなみに行幸橋から南側は内国府間(うちごうま)という地名であり、ちょっと地名の由来が気になったので調べてみることに。

インターネットを駆使して外国府間・内国府間という地名の由来を調べてみたが、満足の得られる情報がヒットせずよくわからない。奈良時代から平安時代にかけて築かれた国府と関係があるのは想像がつくので、学生時代に愛用の高等地図帳をペラペラとめくってみると、やはりな感じだがその由来らしき理由に気付いた。下の地図を見てほしい。幸手市は下野国分寺(栃木県下野市)と下総国分寺(千葉県市川市)・武蔵国分寺(東京都国分寺市)のほぼ中間に位置しているということだ。
関東の国分寺配置図

国分寺は国分尼寺と共に聖武天皇の命によって律令国の各地に築かれた寺院。それぞれ国府の傍に置かれたというから、下野国府と下総国府・武蔵国府を結ぶ古代の官道がここ幸手市を通っていたことを意味しており、外国府間・内国府間という地名がそれを裏付けている。という、浅はかな推測で結論付けてしまったが、あながち間違いではないだろう。何ゆえ、国府間が”内””外”に分けられたのかは不明であるが・・・。国府については以前に書いた記事「垂井宿」に、美濃国府について少々書いたので参照してみて下さい。


中川と行幸橋
中川を行幸橋で越える。橋の北詰で国道4号を離れて左の小径へ。


外国府間を行く旧日光街道
外国府間を行く旧日光街道。車の喧騒から離れ、静かな道を歩けて心地よい。


日光街道・筑波道追分
日光街道と筑波道の追分。直進の道が日光街道、右に分岐する道が筑波道で霊峰として仰がれた筑波山へ続いていた。分岐点に安永4年(1775年)建立の道標が残されている。


外国府間の道標 日光街道・筑波道分岐02
日光街道・筑波道の分岐点に残る道標。「右 つくば道」「左 日光道」と刻まれているのだが、つくば道の”つ”は”津”と表記されているように見える。ここから分岐する筑波道は、80m程行った先で行幸堤上を通る国道4号に遮られる。


吉羽屋商店
外国府間の吉羽屋酒店。コンビニが乱立するこの現代で、こういったノスタルジックな店構えは貴重な存在である。


雷電社湯殿社合殿
雷電社湯殿社合殿(雷電宮・権現宮が合祀される神社)を西側へ迂回するように旧日光街道は北へ進む。この神社も前の記事「権現堂堤」の中で少々触れたが、近年(平成13年)の不審火によって焼失してしまった神社。これは木造建築の宿命なのだろうか・・・。社殿は翌年の平成14年に再建された。


旧日光街道・外国府間
田園の中を歩いて幸手市外国府間から栗橋町へ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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