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小右衛門一里塚

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 幸手宿→栗橋宿 道中】
栗橋町へ入った旧日光街道の道筋は、小右衛門という地域内を行幸堤(堤上を国道4号が通る)に沿って北へ延びる。小右衛門は権現堂調節池(行幸湖)の西側一帯にあたり、栗橋町の東端部に位置する。ここには奇跡的に一里塚が現存しており、埼玉県内の日光街道筋では蒲生一里塚(埼玉県越谷市蒲生愛宕町)とここ小右衛門一里塚の2基が遺構を残しているのみである。


旧日光街道・小右衛門 旧日光街道・小右衛門
小右衛門に入ったすぐ先で旧道の道筋は田畑の中へ消失。旧道の道筋は写真の先から直線に栗橋宿方面へ延びていた。


小右衛門一里塚
幸手宿と栗橋宿の中間に位置する小右衛門一里塚。江戸日本橋から14里目(約55km)にあたる。塚上には字堤外(現権現堂調節池)から移築されたという弁財天堂が建てられている。何故、一里塚の上に持ってきたのかは謎であるが、逆に考えると弁財天堂があったおかげで一里塚は破壊を免れたとも言える。


小右衛門一里塚の弁財天堂 弁財天堂内部
一里塚の上に建つ小右衛門一里塚の弁財天堂。お堂が朽ち果てかけてしまっているのは残念だが、弁財天が祀られる小さな祠をしっかり守っている。


小右衛門にて
小右衛門にて。


旧日光街道・小右衛門
国道4号脇下の細い道を進み、東北新幹線の高架下を通り抜ける。


旧日光街道・小右衛門
いかにも地方のストリップ劇場といった趣の栗橋大一劇場。この劇場前で国道4号に接触し、旧日光街道の道筋はすぐに左へ逸れる。


川通神社
栗橋大一劇場の裏手に鎮座する川通神社。境内がちょっとした高台になっているからなのか、富士山が望める眺望の良い場所(だった?)らしい。


旧日光街道・粟餅屋跡
粟餅屋跡(栗橋町栗橋・東6丁目境)を行く旧日光街道。かつては街道筋に8軒程の茶屋があり、中でも粟餅屋は名物店として知られていた。その粟餅屋を営んでいた柿沼家は今も健在で、庭先に会津見送り稲荷が鎮座している。


会津見送り稲荷
江戸時代に会津の武士が狐の化身に助けられたという伝説を残す”会津見送り稲荷”。二つの説が伝わっているので紹介する。真相は如何に?

[説1]
江戸時代に藩主が参勤交代によって江戸へ出向く際、先立って書面を江戸へ届けるために遣わされた藩士が栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため江戸へ向かう街道がわからず困り果てていた。そこに白髪の老人が現れ道案内をしてくれたおかげで、武士は無事にお役目を果たすことができたという。

[説2]
やはり地水のために通行できず慌てた藩士が、あろうことか大事な物まで置き忘れてしまい、困り果てた末に切腹を覚悟した。そのとき白髪の老人が現れ、死を思い止めさせた。後にこの老人は狐の化身だったとわかり、稲荷様として祀ったものだという。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

栗橋宿

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 栗橋宿】
栗橋宿は利根川の渡河地点(房川の渡し)にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する栗橋関所が置かれ、江戸の北方を守る要地だった。栗橋関所の詳細は次の記事に譲ることにして、ここでは栗橋宿に絞って書くことにする。日光街道が整備される以前、ここに町は無く、慶長年間(1596年~1615年)に栗橋村(現 茨城県五霞町元栗橋)の池田鴨之助、並木五郎平が願い出て、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾する。次第に家が増えて宿場の体裁が整い、元和2年(1616年)正式に宿駅として認められ栗橋宿は誕生した。

利根川を渡る房川(ぼうせん)の渡しを控え、また利根川の舟運によって栄えた栗橋宿は、天保14年当時の人口1741人、家数404軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒との記録が残る。栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。また、本陣を代々務めたのは栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介から続く池田家で、今も本陣跡地に健在である。余談であるが、栗橋町は宿場跡から少し離れた栗橋駅前に源義経の愛妾・静御前の墓があることで知られている。


焙烙地蔵堂 焙烙地蔵
栗橋宿南外れにある焙烙地蔵。江戸時代の昔、関所破りの刑は火あぶりの刑という極刑に処され、ここ焙烙地蔵のある場所がその処刑場だったという。土地の人が受刑者の供養のために祀ったのがこの焙烙地蔵である。線香の灰をエボに付けると治るといわれ、”エボ地蔵”との異名も。

火あぶりの刑、焙烙地蔵というと、どうしても八百屋お七が思い出されるので。そういえば、草加宿の火あぶり地蔵なんてのもあったなあ。↓


栗橋宿南側
栗橋宿南側の町並み。国道4号が旧日光街道と利根川土手の間を通っているため、車の通行量は少ない。


小林畳店
旧街道らしい佇まいの家が所々に残っている。


顕正寺 池田鴨之助の墓
代々栗橋宿本陣を務めた池田家の菩提寺である顕正(けんしょう)寺。栗橋宿の開宿に大きな功績を残した池田鴨之介の墓がある。その傍らに栗橋町教育委員会設置の説明板が置かれ、池田鴨之介の功績を詳しく解説している。こういった配慮は有難い。


深広寺 六角名号塔
深広寺に残る六角名号塔。”南無阿弥陀仏”と刻まれた総高約360cmの六面石塔が21基も立ち並んでいる。この塔は、二代住職単信上人が承応3年(1654年)から明暦2年(1657年)にかけて、伊豆大島より大石を運んで千人供養塔として20基を建立し、後の明和3年(1766年)9代住職法信上人が三千人供養塔として1基を建立したもの。


栗橋宿
栗橋宿中心部の町並み。


栗橋宿本陣跡・池田家
栗橋宿本陣を代々務めてきた池田家。今も本陣跡に健在である。


栗橋宿脇本陣跡・小林家
池田本陣から街道を挟んだ向かい側に脇本陣を務めた小林家が残る。かつては虎屋という屋号の商家(旅籠?)だった。


八坂神社 八坂神社絵馬
栗橋宿北外れにあたる八坂神社。素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神として祀り、栗橋宿の鎮守だった。ご神体は慶長年間の利根川洪水時、轟々たる水流の中を鯉と亀が運んできたものだと伝わる。絵馬にその様子が描かれていて面白い。


そば処 満留賀
時計はいつのまにか17時をまわる。昼飯抜きの強行軍で歩いてきたので、腹ごしらえをして利根川を渡ることにし、宿内を南へ戻る。そして”そば処 満留賀”で、かなり遅めのランチタイムに。大ざるを注文したら、てんこ盛りのざる蕎麦が・・・。有難い。


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栗橋関所と房川渡し

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 栗橋宿→中田宿 道中】
栗橋宿と中田宿を隔てるのは坂東太郎と称された大河、利根川。関東平野をひたすら北へ向かう日光道中では、最も険しい要害地と言えるだろう。江戸幕府は江戸を守る防衛上の理由から大河川に橋を架けることを許さず、日光街道の利根川渡河には房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれる舟渡しが利用された。この渡し場に置かれたのが栗橋関所で、中山道の碓氷関所や東海道の箱根関所、甲州街道の小仏関所と同様に、”入鉄砲に出女”を取り締まっていた。栗橋関所は正式に「房川渡中田御関所」と呼ばれ、当初は中田宿側に関所が置かれていたが、後に対岸の栗橋宿側に移され栗橋関所が通称となった。明治2年(1869年)明治維新の風が吹き荒れる中、幕府と共に栗橋関所は姿を消す。

房川渡しについて、もう少し掘り下げて書いてみる。房川渡しは日光街道が整備される以前、つまり往古の奥州街道だった頃は、幸手宿から栗橋村(現 茨城県五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。後に街道が付け替えられ、栗橋宿と中田宿間に渡船場が移り、”房川渡し・中田”となった。利根川の渡し場なのに何故”房川渡し”と呼ばれるようになったのか?諸説あるらしいが、栗橋関所跡の案内板によると、栗橋村の渡し場付近に宝泉寺という法華坊があり、そのことから”坊前の渡し”と呼ばれていたが、後に坊前が転訛して記述も変わり”房川”になったという。

栗橋関所付近の見取図
栗橋関所付近の見取図(埼玉県・栗橋町教育委員会設置の案内板より抜粋)


栗橋宿
栗橋宿から栗橋関所へと続いていた道。突き当たりの利根川堤防辺りに問屋場があった。


栗橋関所跡碑と案内板
利根川土手外側にある栗橋関所跡碑と案内板。


栗橋関所跡
利根川土手から利根川橋を望む。栗橋関所はこの河川敷の中に消えた。


利根川橋
かつては関所を通り舟渡しで川を越えるという、旅人にとっては難所だった利根川も、現在は利根川橋で簡単に渡れてしまう。この利根川橋が最初に架けられたのが大正13年(1924年)のこと。それまでは渡し船による渡河であり、川の増水時等は宿場で足止めをくらう旅人も多かったことだろう。
ここで埼玉県から茨城県の古河市へ。


利根川橋から筑波山を望む
利根川橋から筑波山を望む。茨城県なんだなあ・・・と、筑波山を見て実感するわけで。


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中田宿

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 中田宿】
中田宿は利根川を挟んだ栗橋宿の対岸にあった宿場町であるが、現在は河川敷と化し、当然ながら往時を偲ぶものどころか、宿内の街道がどこを通っていたのかも正確にわからない。宿場は川岸から船戸・山の内・仲宿(中町)・上宿(上町)と約530mに渡って続いていたが、大正期から昭和期にかけての利根川改修によって移転を余儀なくされ、今となっては全く往時を偲ぶことができなくなってしまった。天保14年(1843年)当時の中田宿は人口403人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠6軒という小規模な宿場町。

日光街道・房川渡し


利根川河川敷
利根川の河川敷に消えた中田宿。この河川敷の中に本陣や脇本陣、問屋場があったと言われても、今や想像することすら難しい。中田宿の跡地と書く意外に言葉が無い。


中田の町並み
堤防上から中田の町並みを望む。この堤防上に立ち、だだっ広い河川敷と今の中田の町を眺めるとと、宿場や家を守ってきた先人たちの苦労や悲哀を感じてしまうのだ。


中田の町並み
中田の町並み。


鶴峯八幡神社
養和元年(1181)年創建と伝わる中田の鎮守、鶴峯八幡神社。源頼朝が奥州征伐の際に戦勝祈願し、宿願果たされた後に相模国の鶴岡八幡宮から分霊を勧請して現社名となった。新田義貞も北条高時追討の際に祈願に訪れ、戦勝を得たという。明治44年(1911年)利根川改修によって現在地へ移転した。


古河中田郵便局
一風変わった佇まいの古河中田郵便局。建物は現代的な和風建築であるが、中田が宿場町だったことを考慮してデザインされたんでしょうね。


光了寺
静御前ゆかりと伝わる光了寺。当初は高柳寺と称して栗橋宿近辺にあったが、後に現在地へ移転し光了寺と称した。奥州に逃れた源義経を追って栗橋まで来た静御前が高柳寺に宿泊したと伝わり、光了寺には後白河院から賜ったという静御前の舞衣「蛙蟆龍(あまりょう)の御衣」が保管されている。静御前は栗橋から奥州へ向かう途中に義経の死を知り病死したという説をここでは採るが、静御前終焉の地は全国各地に伝わっており、その最期も諸説あって定かではない。


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中田の松原

【2009年7月25日(土) 旧日光街道 中田宿→古河宿 道中】
中田の町を歩いているところで日没を迎え、月夜の中の逃避行といった様相で古河宿へ向かう。中田宿と古河宿間には中田の松原と呼ばれた松並木が約4kmに渡って続き、その途中の茶屋新田には立場が置かれていた。美しい松並木の中に佇む茶屋、実に絵になるではないか。しかし、この松並木も権現堂堤の桜並木と同様、戦時中の燃料不足を補うため、全て伐採されてしまった。そう、松から取れる燃料とは松根油のことで、戦時中の窮乏ぶりを語る代名詞のような質の悪い燃料である。

中田の松原は近年になってようやく再生に着手されたようで、松並木と呼ぶにはまだまだ頼りない若い松が植えられその成長を待っている。ここは往時の様子を見てきた先人達の言葉を借りて紹介することにする。
『是より古河迄壱里半の道にて、仙台道中第一のきれひなる並木の道なり。なかに壱葉の松あり。虫歯の薬とやらにて、よく人のひろふ松葉なり。武田主殿などと大話しいたし、いさみ来る松原中より、古河の城櫓をながめ、且富士山も時により雲表にあらわれ、景色のよき所なり。』清河八郎著「西遊草」より


中田踏切
中田踏切を越えた先から茶屋新田へ入り、松並木の道となる。


中田の松原
中田の松原を行く県道原中田線。松並木と呼ぶにはまだ早い。失うのは一瞬のことであるが、それを再生するには途方も無い時間と労力がかかるのだ。10年後、いや20年後に中田の松原は復活しているのだろうか。


リカー&フーズ アベニュー
トワイライトに暮れゆく西の空に、三日月が小さく灯る。昔は月の明かりが貴重な照明だったのだろうが、今は自販機の方がよっぽど明るい。


県道原中田線・鴻巣 古河宿へ
茶屋新田から鴻巣、原町を一気に歩いて古河宿へ。


古河祭り
古河駅付近にて。ちょうどこの日は”古河夏の神輿まつり”が行われており、大小様々な神輿が行進し、多くの見物客で賑わっていた。

【旧日光街道 第3日目】踏破距離 約22.2km(杉戸宿→幸手宿→栗橋宿→中田宿→古河宿)
日本橋から約66km 日光まで約82km 
まだまだ遠いのお・・


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古河宿

【旧日光街道歩き 第4日目】古河宿→野木宿→間々田宿→小山宿



【2009年8月22日(土) 旧日光街道 古河宿】
古河宿は江戸時代に近代城郭として整備された古河城の下で発展してきた宿場町。しかしながらその歴史は古く、平安時代には渡良瀬川沿岸を中心に古河の町が開け、奥州方面を往来する旅人を相手にする宿場が存在していたようだ。奈良時代編纂の「万葉集」巻十四の東歌に、”許我”(こが)と記述されて二首に登場していることから、その歴史の古さは折り紙つきなのである。そのうちの一首が古河駅前にある「万葉の歌碑」に記されている。

逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我こぐ船に 君も逢はぬかも

男が読んだのか、女が読んだのかわからないが、いずれにしても淡い恋心を存分に感じさせてくれるいい歌である。この歌を送られた相手はどうしたのだろうと、今から約1300年も前のことながら余計な心配をしてしまう。日光街道・奥州街道の第九宿となる古河宿は、天保14年(1843年)当時の記録によると人口3865人、家数1105軒、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒。城下町にあっただけに隣の中田宿や野木宿とは比べものにならないくらいにデカい。


古河宿
古河宿は近代化した町並みの中を幅広な県道が通り、往時の様子をうかがい知ることはできない。


古河城御茶屋口門址 古河城御成道推定図
旧日光街道に面する古河城御茶屋口門跡。歴代徳川将軍の日光社参の折、古河城内への入城に利用されたのがここ御茶屋口である。江戸初期のごく僅かな期間、将軍をもてなす茶屋があったことからこの名が付けられた。百聞は一見にしかず、古河市教育委員会設置の案内板に載っていた古河城御成道の推定図を参照してほしい。


古河宿にて
古河宿にて。こういった配慮はとても好感がもてます。


古河宿
古河宿・中央町付近の町並み。”古河名物 八萬石最中 釜屋”今になり気になったので写真を載せてみました・・・。


古河宿本陣跡 古河宿本陣跡碑
古河宿本陣跡は足利銀行の隣にあるジョイパティオという複合型店舗に化している。本陣跡がフィリピンパブやキャバクラになってしまっていることが、ちょっとだけ悲しい・・・。


古河宿 日光街道・筑波道分岐点 日光街道・筑波道追分
県道261号 野木古河線と県道294号の分岐点が、かつての日光街道・筑波道の追分である。写真奥から交差点を右折する道筋が旧日光街道で、左折すると筑波山へ向かう道である。


日光街道古河宿道標
日光街道と筑波道の追分道標。元々あった場所から少し離れた旧日光街道沿いに置かれている。この道標は太田屋源六が願主となり、八百屋儀左衛門ほか11名によって文久元年(1861年)に建立された。


よこまち柳通り
かつて花街を形成していた”よこまち柳通り”。古河宿内の宿場らしさを最も残している。


武蔵屋本店
よこまち柳通りの中心にある武蔵屋本店。かつては遊女屋か芸妓屋を営んでいたのだろうと思わせる佇まいであるが、現在は老舗の川魚料理店となっている。この日は店前を通り過ぎるだけになってしまったが、ここ武蔵屋本店と越谷にあった温鈍屋の鰻は他日を期して必ず食べたい。


古河宿・横山町
よこまち柳通りの町並み。


正麟寺
初代古河藩主小笠原氏によって創建されたという正麟寺。”大塩平八郎の乱”の鎮圧に大きな功があった土井利位(どいとしつら)が藩主の時、古河藩家老を務めた鷹見泉石の墓があることで知られる。古河を語るうえで絶対に外せない鷹見泉石なのだが、詳細は次の記事に譲ることにする。


本成寺
よこまち柳通りの北端、つまり古河宿の北外れにあたる本成寺。古河藩五代藩主土井利益の生母(法清院殿)の墓がある。また、土井家の藩医を務め、明和9年(1772年)に解剖学の先駆となる「解屍編」を著した河口信任もここに眠っている。


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古河城と古河藩

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 古河宿】
古河は宿場町というよりも城下町の色彩が強く残る町である。平安時代末期に源氏方の下河辺行平という人が古河の地に館を築いたことにはじまり、室町時代へ時が移ると鎌倉公方の足利成氏が古河に本拠を移し、古河公方と呼ばれるようになった。この辺りから古河という地が歴史の表舞台に登場したといってよいだろう。古河城について語るにはまず古河公方を抜いては語れないが、古河公方が誕生する経緯については当時の複雑な勢力関係や諸事情が絡み合っており、ここではとうてい説明しきれない。しかし、これに触れないわけにはいかないので、できるだけ簡潔に書いてみる。

室町幕府の出先機関で関東を管轄する重職には二つあり、それぞれ鎌倉公方、関東管領と呼ばれた。足利成氏が五代目の鎌倉公方だった時に、関東管領の上杉憲忠といがみ合い、ついに憲忠を暗殺してしまう。それから公方方と管領方の対立が激化し、幕府が管領方を支援したことから、成氏は鎌倉を追われて古河に本拠を移した。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知を送り込んだが、関東には成氏を支持する勢力も多かったことから、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆堀越の地に御所を構えることになる。

このことから鎌倉公方が二つ存在することになり、それぞれ古河公方、堀越公方と呼び分けられるようになったわけである。この出来事は室町幕府の統率力が弱まっていることを意味しており、後に各地で内乱が勃発した挙句、応仁の乱という大乱となって世の中は戦国時代へと突入していくわけだ。足利成氏から始まって政氏・高基・晴氏・義氏と五代(約130年間)に渡り、室町幕府の倒幕まで存続した古河公方であるが、ついに関東の覇権を握ることはなく、乱世の波にのまれるようにして途絶えた。ちなみに、三代目足利高基の時に家督争いによって小弓公方と呼ばれる分派が発生しているのだが、ここではあくまで余談の話である。

天正18年 (1590)徳川家康が関東に入府すると、古河城に小笠原秀政が入城し古河藩主となる。以来、江戸時代末期に至る約280年間に渡って有力な譜代大名が目まぐるしく交代しながら藩主を務めた。中でも大老土井利勝を始祖とする古河藩土井家は存在感がある。5代利益の時に移封されるものの、9代利見の時に古河藩へ復帰し、延べ約160年間に渡って藩主を務めた。文政5年(1822年)から藩主となった11代利位のとき、古河城下から鷹見泉石という名家老を輩出している。最後の藩主だったのもやはり土井家で、14代目となる土井利与という人だった。

古河城は小笠原秀政からバトンを受けた歴代城主によって改修と拡張が図られ、連郭式の近代城郭としての輪郭が出来上がり、寛永10 年(1633年)土井利勝が城主の時、御三階楼と本丸御殿、二の丸御殿が造営されて完成形を見たと言ってよいだろう。以来、明治維新を迎えるまで関東有数の城郭として君臨したが、明治6年(1873年)廃城令の発布により、翌年には古河城は取り壊しとなった。更に明治末期から大正期にかけての渡良瀬川改修によって、本丸をはじめとする二の丸・三の丸といった城の主要部分が完全に消滅し、現在その跡地は河川敷や堤防と化している。


古河城下・肴町
城下町の雰囲気を残す肴町通り。この辺りは川魚を扱う御用商人が住んでいたことから肴町の名が付けられた。ここ肴町通りは城内へ米・茶・酒などの食料品を運び込む道として利用され、また、古河城下を通過する諸大名は城主へ挨拶の使者を遣わすのが慣わしで、その使者をもてなす場として使者取次所(別名を御馳走番所)が置かれていた。


和洋酒問屋 坂長
肴町通りにある”和洋酒問屋 坂長”。この建物は古河城の数少ない遺構の一つで、廃城時に城内より移築されたもの。店蔵は旧古河城文庫蔵で、隣の袖蔵が旧古河城乾蔵である。共に江戸時代後期の建築。


諏訪曲輪跡
諏訪曲輪の水堀と土塁跡。諏訪曲輪は古河城の出城で、城下から城内への入口にあたる。現在は曲輪跡の一角に古河歴史博物館が建てられている。


古河歴史博物館
古河の歴史を詳しく知りたいなら、ここ古河歴史博物館を訪ねることをお勧めする。今回の歩き旅では立ち寄らなかったが、以前古河公方に興味があって見学に来たことがある。雪の結晶を研究したことで知られる古河藩土井家11代藩主の土井利位や古河が生んだ名家老鷹見泉石についての展示は多くあるのだが、古河公方についてはあまり触れられていないのが残念。それだけ残している事績が少ないということなのだろうが・・・。


鷹見泉石記念館
諏訪曲輪から水堀を挟んだ城外にある武家屋敷。ここで鷹見泉石が最晩年を過したことから、明治維新後に鷹見家の所有となって守られてきた。現在は鷹見泉石記念館となって内部公開されており、すばらしい建築を残す必見の建物である。

ここで鷹見泉石について少しだけ書く。泉石は天明5年(1785年)古河城下に藩士の子として生まれ、土井利位が藩主の時に家老へ取り上げられた。能力が高く、また藩主をよく補佐したことから、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と賞賛されるほどの名家老だった。蘭学者の一面も持ち、Jan Hendrik Dapper(ヤン・ヘンドリック・ダップル)という蘭名を持つ。最期はここ鷹見泉石記念館となっている武家屋敷で迎えた。


鷹見泉石記念館
鷹見泉石記念館の入口。入ってもよろしいのでしょうか・・・と、一瞬思うぐらい厳かな雰囲気が漂う。


鷹見泉石記念館 鷹見泉石記念館
鷹見泉石記念館は古河最大の見所と言ってよいだろう。ここを訪れると時の流れを忘れさせる。


長谷観音
この記事の最後は長谷観音で締めよう。長谷観音は初代古河公方の足利成氏によって、鎌倉の長谷寺から勧請した観世音菩薩を本尊に祀り、古河城の鬼門除けとして建立された。古河藩が成立してからは歴代藩主の祈願所となった。今に残る古河公方の功績はこの長谷観音である。


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いざ下野国こと、栃木県へ

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 古河宿→野木宿 道中】
古河宿を後にして一路、野木宿を目指す。といっても、古河と野木の宿間距離は3km弱しかなく、あっという間に着いてしまうのだが、道中に重要なポイントが一つある。そう、茨城県と栃木県の県境である。本成寺から県道261号野木古河線を北進すると、左手にマーケットシティ古河というショッピングモールがあり、この敷地が県境を成している。この辺り、実に複雑な県境を形成しているうえ、栃木県を示す道路標識もないので、うっかり歩いていると「えっ・・・栃木県!?」なんて感じ。


旧日光街道・横山町
旧日光街道は本成寺参道前を過ぎてすぐ、県道野木古河線に合流して北上する。写真はその合流点で、手前から左斜めに進むのが旧道の道筋。


県道野木古河線・松並
古河市松並を行く県道野木古河線。松並という地域名から松並木があるのかと思いきや、淡々とした県道が続くだけである。かつては松並木の街道が続いていたのだろう。


一中通り
県道から古河第一中学校に至る一中通り(松並1丁目と2丁目の境)に、その地名らしさを感じる松並木があった。花と緑のモデル都市整備事業とやらで、平成4年に整備されたようだ。良い雰囲気の道であるが、縦横無尽に空を走る電線が邪魔くさいなあ。


塩滑地蔵堂 塩滑地蔵
身体の具合が悪い所に塩を塗ればご利益があるという塩滑地蔵。御堂前にしっかりと塩が置かれている。御堂に安置されている地蔵は著しく磨耗しており、昔は地蔵に塩を直接塗りつけていたのだろう。


県道野木古河線・茨城栃木県境
マーケットシティ古河の辺りが茨城県と栃木県の県境であるが、かなり複雑に入り組んでいてわかりにくいので、下図を参照してほしい。かつての下総国と上野国の国境は野木宿が古河藩の管轄だったことを考えれば、もう少し北寄りだったと思われる。




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野木宿

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 野木宿】
現在の野木町は栃木県であり、茨城県の古河とは一線を画しているが、かつての野木宿は古河三宿の一つで、中田・古河の宿場と共に古河藩の管轄であった。元々は野木神社の門前町として小さな集落を形成していたが、文禄年間(1592年~1595年)に街道筋へ出て継立てを始め、慶長7年(1602年)には宿場町としての体裁を整えていた。天保14年(1843年)当時の野木宿は人口527人、家数126軒、本陣1、脇本陣1、問屋場4、旅籠25軒。ごく小さな宿場町だっため、日光街道の往来が盛んになるにつれて継立業務はその負担に耐えられなくなり、周辺23ヶ村が野木宿の助郷に割り当てられていた。

将軍や大名行列等の大規模な通行があると、宿場町だけでは必要数の人足や馬がまかないきれず、周辺の村落から人馬を提供させていた。この村落に課せられた夫役のことを助郷と呼び、江戸時代に制度化されて宿場ごとに助郷村が定められていた。農繁期に助郷があると、”このクソ忙しくて人も馬も足らないときに、冗談じゃねーよ!”と、不満の声が聞こえてきそうだが、とにかく大規模な通行があると宿場もさることながら、助郷の村々も大変だったのだ。宿場の運営がどれだけ大変だったかというのは、島崎藤村が著した「夜明け前」を読むと良く理解できる。藤村の生まれた島崎家は中山道馬籠宿の本陣を務めていた。


野木神社
創建は仁徳天皇の時代という古刹、野木神社。宿場から南西側に少し外れた場所に鎮座する。延暦年間(782年~806年)坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に戦勝祈願し、蝦夷平定を果した凱旋の帰途、その報賽として現在地に社殿を造営し遷座したと伝わる。社殿は文化3年(1806年)の火災で焼失した後、当時の古河藩主土井利厚によって再建されたもの。日露戦争が勃発する2年前の明治35年(1902年)、陸軍大将乃木希典が参拝に訪れている。


野木宿
野木宿の町並み。国道4号が宿内を貫いてしまったため、往時の面影は残っていない。


木戸跡
野木宿江戸方入口にあたる木戸跡。「野木宿入口」の案内板が立てられている。


野木宿本陣跡
野木宿本陣跡と国道4号。本陣・脇本陣とも熊倉家が務め、街道を挟んだ本陣の斜向かいに脇本陣本陣があった。本陣跡のブロック塀前に野木宿の解説板が設置されているので、これが目印。


満願寺
神仏混淆の時代、野木神社の別当寺(神社に付属する寺)だった満願寺。


野木一里塚跡
江戸日本橋から17里目(約67km)の野木一里塚跡。遺構は全く残っておらず、交差点角に「一里塚跡」の案内板が立てられている。


浄明寺
浄明寺。


日光街道・太平道分岐点
日光街道と太平道の追分。古い道標が残っており、横に案内板が立られている。案内板によると『是より大平に至ると記され、かつては日光への裏道。』とあるが、道標には”太平山”と刻まれているように見える。いずれにしても、太平道はここから日光街道を分岐して北西の太平山方面へ進み、例幣使街道に合流して日光へ至る裏道として利用された。


大平道道標 日光街道・太平道分岐点
日光街道と太平道の追分に残る道標。


観音堂
野木宿北外れにひっそりと佇む観音堂。


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友沼の松並木は何処に

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 野木宿→間々田宿 道中】
野木宿を出れば下野国である。野木町友沼という地域を、引き続いて国道4号伝いに騒音と共に歩くことになり、自然とうつむき加減な早足になってしまう。そんな中、交差点名や歩道橋に”松原”と書かれていることに気付く。これは、かつての日光街道が松並木の道だったことを意味しており、松一本無い国道と化した道に、忘れ去られようとする昔日の面影を小字名として地名に託しているのだ。往時の様子を語るには再び清河八郎の文言を借りるしかない。

星のいまだ落ざるに食をととのへ、宿(古河)を出、十八丁にて野木宿なる弊邑にて馬をかへ、松原を歩み、友の間(友沼)村、乙女村を越。いづれも並木にてきれひなり。


国道4号・友沼
野木町友沼の松原を行く国道4号。かつて松並木の街道が続いていたとは想像し難い現代の様子である。松並木は何処に・・・。


友沼・街道からの風景
街道筋に広がる田園だけは、きっと昔日の風景と変わらないのだろう。


国道4号・友沼
国道4号をひたすらに北へ。


愛宕神社 観音堂
友沼の愛宕神社と観音堂。


友沼
法音寺と八幡神社の間を進む国道4号。この辺りが旧友沼村の中心と思われ、”宿通”という小字名が残っている。かつては数軒の茶屋が軒を連ねる立場で、”名物とろろ汁”で知られる”とろ屋”があった。旅人に”友沼のとろ屋”と書かれた菅笠を提供して広く知られるようになったというから、駅前のティッシュ配りの元祖といったところか。八幡神社前にある豆腐屋の野澤食品という店がそれらしい。


法音寺 法音寺の芭蕉句碑
安永9年(1780年)建立の芭蕉句碑がある法音寺。思川左岸の段丘上にあたる法音寺周辺は城跡であり、法音寺があることから法音寺城跡と呼ばれているのだが、築城年代や築城者についてはわかっていない。小山城(祇園城)の支城といった位置付けだったのだろう。法音寺の芭蕉句碑は門人によって建てられたもので、奥の細道の旅に出る5年前、「野ざらし紀行」の旅中で詠んだものである。

道ばたの むくげは馬に 喰れけり



八幡神社
友沼村の鎮守、八幡神社。歴代徳川将軍が日光社参の際、宿泊地の古河城を出てから最初の御小休所となった。


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勝利の乙女

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 野木宿→間々田宿 道中】
友沼から北へ向かえば次は乙女である。ここで野木町から小山市へと行政区域は変わる。乙女という何やら胸がトキメク地名であるが、その由来についてはよくわからない。かつては思川(おもいがわ)沿岸に乙女河岸という船着場があり、小山評定で意を決した徳川家康が江戸城へ戻る際、この河岸が使われたとの記述が徳川実記にあることから、安土桃山時代には既に存在していた地名なのだろう。思川に乙女河岸…誰がそう呼んだのか、実に美しい言葉の響きではないか。現代なら乙女というより、乙男(オトメン)という地名ができてもよさそうだが…。


国道4号・野木町と小山市の境
小山市に入ると旧乙女村の地域である。


乙女の街道筋にて
乙女の街道筋にて。もしかしたら、これが乙女の一里塚跡(江戸日本橋から18里目)かも。


若宮八幡宮 大日如来坐像
若宮八幡宮とその境内にある大日如来坐像。まさに神仏混淆、明治期の神仏分離令に廃仏毀釈とは何するものぞ!といった趣き。この大日如来坐像は宝永6年(1709年)鋳造で、戸外に安置されることから”濡れ仏様”とも呼ばれる。


乙女中妻
乙女を行く国道4号。中妻バス停付近。乙女の街道も友沼と同じく、きれいな松並木が続く道だったのだろう。


佛光寺
2代将軍徳川秀忠から十石の寺領を賜った佛光寺。


乙女八幡宮参道
乙女八幡宮の参道入口。乙女村の鎮守。


国道4号・乙女交差点
国道4号の乙女交差点。ここから国道を左へ行けば、思川の乙女河岸へ至る。


乙女河岸跡
乙女河岸跡。徳川家康は会津上杉討伐の途次、石田三成挙兵の報を聞き、小山評定により討伐を中止して江戸へ引き返す。その時に使われたのが乙女河岸で、ここから思川を下って江戸へ帰り関ヶ原合戦を迎えた。後に乙女河岸は関ヶ原合戦に勝利した吉例から、舟運の拠点として重要視されたという。そうか!勝利の乙女っていうことだ。


思川
悠久の時を流れる思川。徳川家康かあ・・・。


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間々田宿

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 間々田宿】
日光街道の中間に位置する間々田宿。日光街道が整備された翌年に宿駅として誕生していることから、宿場名の由来もその中間であることに関わりがあるのだろう。宿場から少し南に外れたところに、日光街道の中間点を示す榎が植えられており、”間(あい)の榎”と呼ばれて往来する旅人の目印となっていた。しかし、いつからか”逢(あい)の榎”と書かれるようになり、縁結びの木として信仰を集めたという。樹勢は衰えている感じはするが、今も健在である。

間々田宿は江戸方より下町・中町・上町・土手向町の4町に分かれ、天保14年(1843年)当時の記録によると町並み南北9町20間(約1018m)、人口947人、家数175軒、本陣1、脇本陣1、旅籠50軒とあり、宿場規模の割には旅籠数が多いのが特徴。江戸から日光街道を歩いてくると越谷宿・粕壁宿辺りで1泊し、間々田宿で2泊目を迎える旅人が多かったのだろう。次が小山城下であることを考えれば、昔の旅人がここで旅装を解いたことは想像に難くない。千住から奥の細道の旅に出た松尾芭蕉も、越谷宿で初泊し、間々田宿で2日目の夜を過した。

<追記>
記事中で松尾芭蕉が越谷宿で初泊したとありますが、奥の細道における芭蕉の初泊地は粕壁宿が定説となっており、現在は東陽寺か観音院かの論議があるとの情報がありました。コメントで本情報を頂いた方には、この場を借りて御礼申し上げます。記事は加筆訂正せず原文のまま掲載しております。(2018.10.14)



逢の榎 逢の榎
日光街道の中間を示す”逢の榎”。江戸から約18里(約72km)、日光へ約18里の地点である。中山道の中間点はビニールハウスの前に案内板があるだけだったが、日光街道は古くから目印とされた榎が残っており貴重である。守ってほしい。

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逢の榎(昭和34年頃)
案内板より、昭和34年(1959年)頃の”逢の榎”。現在より樹高があり街道中央まで枝が張り出している。国道4号の交通量が増し、大型車通行の邪魔になるので半分以上を切られてしまったのだろう。


間々田宿
間々田宿へ。


さやま酒店
間々田宿の江戸方(南側)入口、旧商家の佇まいを残す”さやま酒店”。内部に旧商家造りの間取りや箪笥階段が残っているらしい。立ち寄っておけばよかった・・・。


龍昌寺
さやま酒店の隣にある龍昌寺。慶安4年(1651年)徳川家光の遺骸を日光へ移送する途次、安置所が設けられた。江戸時代にこの寺の住職が疫病退散と雨乞いを願い、間々田の蛇祭りを発案したとの伝承が残る。


間々田宿
龍昌寺のすぐ先には”間々田ひも”の看板が掲げられ目を惹く。大正時代から間々田で組紐の製造販売を続けている。興味のある方は↓
間々田ひも ホームページ


間々田交差点
間々田交差点を行く国道4号。この辺りが間々田宿の中心だった。


間々田宿問屋場跡 間々田宿問屋場跡
間々田宿問屋場跡。街道に面していた敷地は駐車場となっているが、その奥に門を備えた旧家がある。問屋場を務めていた子孫の方が住まわれているのだろうか。


間々田宿本陣跡
間々田宿本陣跡。空き地となっている。


間々田八幡宮参道
間々田四丁目交差点が間々田八幡宮へ至る参道の入口である。間々田八幡宮は毎年5月5日に蛇祭りが行われる。


花屋旅館
かつては50軒もの旅籠を抱えていた間々田宿であるが、現在はここ花屋旅館が唯一の宿泊施設のようだ。


行泉寺と浄光院
国道4号を挟んで行泉寺と浄光院が向かい合って建っている。この辺りが間々田宿の日光方(北側)外れにあたる。


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失われた日光街道 間々田・千駄塚

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 間々田宿→小山宿 道中】
旧日光街道の道筋は間々田宿を抜けてからも喧騒の国道4号を辿る。生鮮市場いなや付近からセブンイレブン小山間々田店にかけて、旧道の道筋は国道4号の少し西側にあったが、区画整理により失われている(下図参照)。この消失区間には江戸日本橋から19里目(約75km)となる間々田一里塚があった。しかし、現在はこの一里塚もどこにあったのかもわからなずじまいで、蛸屋菓子店の裏手辺りと思われると書くしかない。セブンイレブンから千田塚交差点にかけて、小径の旧道らしき道筋が残っている。
日光街道・間々田~千駄塚


国道4号・生鮮市場いなや付近
旧道の道筋は生鮮市場いなや付近から国道4号の西側を辿っていた。


旧日光街道・千駄塚 旧日光街道・千駄塚04
セブンイレブン小山間々田店から千田塚交差点にかけて残る旧道。


旧日光街道・千駄塚
千田塚交差点付近の旧道。ここで国道4号に合流する。


千駄塚古墳・浅間神社 千駄塚古墳・浅間神社
千駄塚古墳。墳頂に浅間神社が祀られている。直径約70m、高さ10mの古墳で、築造年代は6世紀頃と推測される。


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日没を迎えて小山へ

【2009年8月22日(土) 旧日光街道 間々田宿→小山宿 道中】
粟宮交差点から国道4号を離れ、県道粟宮喜沢線を辿って小山宿へ。粟宮から神鳥谷・天神町・宮本町を経て小山の中心部へ至る道中は、西堀酒造と安房神社くらいしか見所がないうえ、交通量の多い県道を歩かされることになり、早足で駆け抜けることに。しかも日が暮れてしまったことで、その安房神社さえスルーしてしまう始末。道中、”神鳥谷”って何て読むんだあ!?と、一心に考えながら小山市街までもくもくと。


国道4号・粟宮
粟宮を行く国道4号。


西堀酒造
小山の銘酒、若盛(わかざかり)の醸造元である西堀酒造。明治5年(1872年)創業という老舗の蔵元である。以前に門外不出という焼酎を買った所だが、飲むのが惜しくて今だ保存してある・・・。


大橋訥庵旧居跡
幕末の尊攘思想家だった大橋訥庵の旧居跡。公武合体のために皇女和宮と14代将軍徳川家茂の婚姻を実現させた老中安藤信正を襲撃した事件、俗に言う坂下門外の変を画策した主犯格である。。そう書くと聞こえが悪いが、時代を江戸から明治へ変える原動力となった一人と言ってよいだろう。大橋訥庵は坂下門外の変の間もなく後に捕らえられるが、後に赦免され宇都宮藩預りとなる。しかし、獄中の拷問が祟ったのか、ほどなくして病死してしまう。明治時代になってから従四位を追贈された。


国道4号・粟宮交差点付近
粟宮交差点付近を行く国道4号。旧日光街道の道筋はこの交差点から国道を離れ、県道265号粟宮喜沢線を辿って小山宿へと向かう。


神鳥谷のむくのき
神鳥谷の街道筋にある”むくのき”。ここで神鳥谷について調べた結果を書く。
神鳥谷は”ひととのや”と読むのが正解。昔、付近に鷲城という出城があり、鷲は神鳥(しとと)と呼ばれたことから、その地形と合せて神鳥谷という地名が生まれたそうだ。”し”と”ひ”の違いは発音の混同によるものだろう。それにしても、誰がそう名付けたのか知らないが、難読な地名である。


須賀神社参道
須賀神社参道。ここを越えた辺りから小山宿である。


小山宿夜景
小山宿夜景。宿場跡は完全に市街地と化している。


小山駅
19時半過ぎ、小山駅から帰途につく。

【旧日光街道 第4日目】踏破距離 約16.5km(古河宿→野木宿→間々田宿→小山宿)日本橋から約82km 日光まで約66km
半分を超えた!


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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