【2009年8月22日(土) 旧日光街道 古河宿】
古河は宿場町というよりも城下町の色彩が強く残る町である。平安時代末期に源氏方の下河辺行平という人が古河の地に館を築いたことにはじまり、室町時代へ時が移ると鎌倉公方の足利成氏が古河に本拠を移し、古河公方と呼ばれるようになった。この辺りから古河という地が歴史の表舞台に登場したといってよいだろう。古河城について語るにはまず古河公方を抜いては語れないが、古河公方が誕生する経緯については当時の複雑な勢力関係や諸事情が絡み合っており、ここではとうてい説明しきれない。しかし、これに触れないわけにはいかないので、できるだけ簡潔に書いてみる。
室町幕府の出先機関で関東を管轄する重職には二つあり、それぞれ鎌倉公方、関東管領と呼ばれた。足利成氏が五代目の鎌倉公方だった時に、関東管領の上杉憲忠といがみ合い、ついに憲忠を暗殺してしまう。それから公方方と管領方の対立が激化し、幕府が管領方を支援したことから、成氏は鎌倉を追われて古河に本拠を移した。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知を送り込んだが、関東には成氏を支持する勢力も多かったことから、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆堀越の地に御所を構えることになる。
このことから鎌倉公方が二つ存在することになり、それぞれ古河公方、堀越公方と呼び分けられるようになったわけである。この出来事は室町幕府の統率力が弱まっていることを意味しており、後に各地で内乱が勃発した挙句、応仁の乱という大乱となって世の中は戦国時代へと突入していくわけだ。足利成氏から始まって政氏・高基・晴氏・義氏と五代(約130年間)に渡り、室町幕府の倒幕まで存続した古河公方であるが、ついに関東の覇権を握ることはなく、乱世の波にのまれるようにして途絶えた。ちなみに、三代目足利高基の時に家督争いによって小弓公方と呼ばれる分派が発生しているのだが、ここではあくまで余談の話である。
天正18年 (1590)徳川家康が関東に入府すると、古河城に小笠原秀政が入城し古河藩主となる。以来、江戸時代末期に至る約280年間に渡って有力な譜代大名が目まぐるしく交代しながら藩主を務めた。中でも大老土井利勝を始祖とする古河藩土井家は存在感がある。5代利益の時に移封されるものの、9代利見の時に古河藩へ復帰し、延べ約160年間に渡って藩主を務めた。文政5年(1822年)から藩主となった11代利位のとき、古河城下から鷹見泉石という名家老を輩出している。最後の藩主だったのもやはり土井家で、14代目となる土井利与という人だった。
古河城は小笠原秀政からバトンを受けた歴代城主によって改修と拡張が図られ、連郭式の近代城郭としての輪郭が出来上がり、寛永10 年(1633年)土井利勝が城主の時、御三階楼と本丸御殿、二の丸御殿が造営されて完成形を見たと言ってよいだろう。以来、明治維新を迎えるまで関東有数の城郭として君臨したが、明治6年(1873年)廃城令の発布により、翌年には古河城は取り壊しとなった。更に明治末期から大正期にかけての渡良瀬川改修によって、本丸をはじめとする二の丸・三の丸といった城の主要部分が完全に消滅し、現在その跡地は河川敷や堤防と化している。

城下町の雰囲気を残す肴町通り。この辺りは川魚を扱う御用商人が住んでいたことから肴町の名が付けられた。ここ肴町通りは城内へ米・茶・酒などの食料品を運び込む道として利用され、また、古河城下を通過する諸大名は城主へ挨拶の使者を遣わすのが慣わしで、その使者をもてなす場として使者取次所(別名を御馳走番所)が置かれていた。

肴町通りにある”和洋酒問屋 坂長”。この建物は古河城の数少ない遺構の一つで、廃城時に城内より移築されたもの。店蔵は旧古河城文庫蔵で、隣の袖蔵が旧古河城乾蔵である。共に江戸時代後期の建築。

諏訪曲輪の水堀と土塁跡。諏訪曲輪は古河城の出城で、城下から城内への入口にあたる。現在は曲輪跡の一角に古河歴史博物館が建てられている。

古河の歴史を詳しく知りたいなら、ここ古河歴史博物館を訪ねることをお勧めする。今回の歩き旅では立ち寄らなかったが、以前古河公方に興味があって見学に来たことがある。雪の結晶を研究したことで知られる古河藩土井家11代藩主の土井利位や古河が生んだ名家老鷹見泉石についての展示は多くあるのだが、古河公方についてはあまり触れられていないのが残念。それだけ残している事績が少ないということなのだろうが・・・。

諏訪曲輪から水堀を挟んだ城外にある武家屋敷。ここで鷹見泉石が最晩年を過したことから、明治維新後に鷹見家の所有となって守られてきた。現在は鷹見泉石記念館となって内部公開されており、すばらしい建築を残す必見の建物である。
ここで鷹見泉石について少しだけ書く。泉石は天明5年(1785年)古河城下に藩士の子として生まれ、土井利位が藩主の時に家老へ取り上げられた。能力が高く、また藩主をよく補佐したことから、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と賞賛されるほどの名家老だった。蘭学者の一面も持ち、Jan Hendrik Dapper(ヤン・ヘンドリック・ダップル)という蘭名を持つ。最期はここ鷹見泉石記念館となっている武家屋敷で迎えた。

鷹見泉石記念館の入口。入ってもよろしいのでしょうか・・・と、一瞬思うぐらい厳かな雰囲気が漂う。

鷹見泉石記念館は古河最大の見所と言ってよいだろう。ここを訪れると時の流れを忘れさせる。

この記事の最後は長谷観音で締めよう。長谷観音は初代古河公方の足利成氏によって、鎌倉の長谷寺から勧請した観世音菩薩を本尊に祀り、古河城の鬼門除けとして建立された。古河藩が成立してからは歴代藩主の祈願所となった。今に残る古河公方の功績はこの長谷観音である。
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