栗橋宿
【2009年7月25日(土) 旧日光街道 栗橋宿】
栗橋宿は利根川の渡河地点(房川の渡し)にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する栗橋関所が置かれ、江戸の北方を守る要地だった。栗橋関所の詳細は次の記事に譲ることにして、ここでは栗橋宿に絞って書くことにする。日光街道が整備される以前、ここに町は無く、慶長年間(1596年~1615年)に栗橋村(現 茨城県五霞町元栗橋)の池田鴨之助、並木五郎平が願い出て、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾する。次第に家が増えて宿場の体裁が整い、元和2年(1616年)正式に宿駅として認められ栗橋宿は誕生した。
利根川を渡る房川(ぼうせん)の渡しを控え、また利根川の舟運によって栄えた栗橋宿は、天保14年当時の人口1741人、家数404軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒との記録が残る。栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。また、本陣を代々務めたのは栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介から続く池田家で、今も本陣跡地に健在である。余談であるが、栗橋町は宿場跡から少し離れた栗橋駅前に源義経の愛妾・静御前の墓があることで知られている。
栗橋宿南外れにある焙烙地蔵。江戸時代の昔、関所破りの刑は火あぶりの刑という極刑に処され、ここ焙烙地蔵のある場所がその処刑場だったという。土地の人が受刑者の供養のために祀ったのがこの焙烙地蔵である。線香の灰をエボに付けると治るといわれ、”エボ地蔵”との異名も。
火あぶりの刑、焙烙地蔵というと、どうしても八百屋お七が思い出されるので。そういえば、草加宿の火あぶり地蔵なんてのもあったなあ。↓
栗橋宿南側の町並み。国道4号が旧日光街道と利根川土手の間を通っているため、車の通行量は少ない。
旧街道らしい佇まいの家が所々に残っている。
代々栗橋宿本陣を務めた池田家の菩提寺である顕正(けんしょう)寺。栗橋宿の開宿に大きな功績を残した池田鴨之介の墓がある。その傍らに栗橋町教育委員会設置の説明板が置かれ、池田鴨之介の功績を詳しく解説している。こういった配慮は有難い。
深広寺に残る六角名号塔。”南無阿弥陀仏”と刻まれた総高約360cmの六面石塔が21基も立ち並んでいる。この塔は、二代住職単信上人が承応3年(1654年)から明暦2年(1657年)にかけて、伊豆大島より大石を運んで千人供養塔として20基を建立し、後の明和3年(1766年)9代住職法信上人が三千人供養塔として1基を建立したもの。
栗橋宿中心部の町並み。
栗橋宿本陣を代々務めてきた池田家。今も本陣跡に健在である。
池田本陣から街道を挟んだ向かい側に脇本陣を務めた小林家が残る。かつては虎屋という屋号の商家(旅籠?)だった。
栗橋宿北外れにあたる八坂神社。素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神として祀り、栗橋宿の鎮守だった。ご神体は慶長年間の利根川洪水時、轟々たる水流の中を鯉と亀が運んできたものだと伝わる。絵馬にその様子が描かれていて面白い。
時計はいつのまにか17時をまわる。昼飯抜きの強行軍で歩いてきたので、腹ごしらえをして利根川を渡ることにし、宿内を南へ戻る。そして”そば処 満留賀”で、かなり遅めのランチタイムに。大ざるを注文したら、てんこ盛りのざる蕎麦が・・・。有難い。
栗橋宿は利根川の渡河地点(房川の渡し)にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する栗橋関所が置かれ、江戸の北方を守る要地だった。栗橋関所の詳細は次の記事に譲ることにして、ここでは栗橋宿に絞って書くことにする。日光街道が整備される以前、ここに町は無く、慶長年間(1596年~1615年)に栗橋村(現 茨城県五霞町元栗橋)の池田鴨之助、並木五郎平が願い出て、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾する。次第に家が増えて宿場の体裁が整い、元和2年(1616年)正式に宿駅として認められ栗橋宿は誕生した。
利根川を渡る房川(ぼうせん)の渡しを控え、また利根川の舟運によって栄えた栗橋宿は、天保14年当時の人口1741人、家数404軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒との記録が残る。栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。また、本陣を代々務めたのは栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介から続く池田家で、今も本陣跡地に健在である。余談であるが、栗橋町は宿場跡から少し離れた栗橋駅前に源義経の愛妾・静御前の墓があることで知られている。
栗橋宿南外れにある焙烙地蔵。江戸時代の昔、関所破りの刑は火あぶりの刑という極刑に処され、ここ焙烙地蔵のある場所がその処刑場だったという。土地の人が受刑者の供養のために祀ったのがこの焙烙地蔵である。線香の灰をエボに付けると治るといわれ、”エボ地蔵”との異名も。
火あぶりの刑、焙烙地蔵というと、どうしても八百屋お七が思い出されるので。そういえば、草加宿の火あぶり地蔵なんてのもあったなあ。↓
栗橋宿南側の町並み。国道4号が旧日光街道と利根川土手の間を通っているため、車の通行量は少ない。
旧街道らしい佇まいの家が所々に残っている。
代々栗橋宿本陣を務めた池田家の菩提寺である顕正(けんしょう)寺。栗橋宿の開宿に大きな功績を残した池田鴨之介の墓がある。その傍らに栗橋町教育委員会設置の説明板が置かれ、池田鴨之介の功績を詳しく解説している。こういった配慮は有難い。
深広寺に残る六角名号塔。”南無阿弥陀仏”と刻まれた総高約360cmの六面石塔が21基も立ち並んでいる。この塔は、二代住職単信上人が承応3年(1654年)から明暦2年(1657年)にかけて、伊豆大島より大石を運んで千人供養塔として20基を建立し、後の明和3年(1766年)9代住職法信上人が三千人供養塔として1基を建立したもの。
栗橋宿中心部の町並み。
栗橋宿本陣を代々務めてきた池田家。今も本陣跡に健在である。
池田本陣から街道を挟んだ向かい側に脇本陣を務めた小林家が残る。かつては虎屋という屋号の商家(旅籠?)だった。
栗橋宿北外れにあたる八坂神社。素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神として祀り、栗橋宿の鎮守だった。ご神体は慶長年間の利根川洪水時、轟々たる水流の中を鯉と亀が運んできたものだと伝わる。絵馬にその様子が描かれていて面白い。
時計はいつのまにか17時をまわる。昼飯抜きの強行軍で歩いてきたので、腹ごしらえをして利根川を渡ることにし、宿内を南へ戻る。そして”そば処 満留賀”で、かなり遅めのランチタイムに。大ざるを注文したら、てんこ盛りのざる蕎麦が・・・。有難い。
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