小山宿
【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小山宿】
小山宿は慶長13年(1608年)から元和5年(1619年)にかけて、本多正純が居城とした小山城(祇園城)の城下町として発展した町である。間々田宿の記事で「次が小山城下であることを考えれば、昔の旅人がここで旅装を解いたことは想像に難くない。」と書いてしまったが、小山城は本多正純が宇都宮へ転封すると同時に廃城となっており、江戸中期から幕末にかけての小山は城下町としての側面は全く無くなっていた。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み12町13間(約1.3km)、人口1392人、家数423軒、本陣1、脇本陣2、旅籠74軒とあり、間々田宿と同様に旅籠数の多さに目を惹かれ、宿場町として繁栄していたことがうかがい知れる。遊郭というか、岡場所というべきか、今で言う大きな歓楽街が存在し、近隣からの遊興客も多かったのだろう。

須賀神社参道。小山宿江戸方(南側)外れの旧日光街道に面して参道入口がある。


天慶3年(940年)、藤原秀郷が京都の八坂神社から分霊を勧請して創建したという須賀神社。毎年7月には本家本元に倣って祇園祭が行われる。藤原秀郷は俵藤太とも称され、平将門を追討したことで知られる平安時代の武将。

この辺りが小山宿の中心部で本陣・脇本陣・問屋場が置かれていた所である。

小山宿で唯一宿場の名残を留める脇本陣高橋家。当時の玄関を残しており、「明治天皇御駐輦之碑」と「明治天皇小山行在所」と刻まれた2つの碑が建てられている。近代化された町並みに抗うかのような雰囲気が漂う。

小山宿本陣と問屋場跡。かつては常陽銀行の辺りに問屋場と旅籠屋小倉藤十郎(小倉屋)があり、向かい側に建つ褐色のマンション辺りに本陣があった。現況は全く面影を留めていないどころか、その跡地を示すものもない。

今から4年前の2005年に撮影した小山宿本陣跡付近の様子。現在は空地となっている褐色のマンションの隣に麸屋商店という魚屋があった。この時はまだ宿場らしい町並みが残っていたのだが、もったいないことをしたものだ。

小山のアンテナショップ、思季彩館。小山産の野菜や果物、特産品を扱っている。以前は八百忠という店の建物を新装して平成19年にオープンした。ビルの谷間にある旧商家風の建物に目を惹かれるが、その経緯についてはわからない。とにかくビルやマンションにならなくて済んでよかったー。
