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小山宿

【旧日光街道歩き 第5日目】小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿



【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小山宿】
小山宿は慶長13年(1608年)から元和5年(1619年)にかけて、本多正純が居城とした小山城(祇園城)の城下町として発展した町である。間々田宿の記事で「次が小山城下であることを考えれば、昔の旅人がここで旅装を解いたことは想像に難くない。」と書いてしまったが、小山城は本多正純が宇都宮へ転封すると同時に廃城となっており、江戸中期から幕末にかけての小山は城下町としての側面は全く無くなっていた。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み12町13間(約1.3km)、人口1392人、家数423軒、本陣1、脇本陣2、旅籠74軒とあり、間々田宿と同様に旅籠数の多さに目を惹かれ、宿場町として繁栄していたことがうかがい知れる。遊郭というか、岡場所というべきか、今で言う大きな歓楽街が存在し、近隣からの遊興客も多かったのだろう。


須賀神社参道
須賀神社参道。小山宿江戸方(南側)外れの旧日光街道に面して参道入口がある。


須賀神社 須賀神社
天慶3年(940年)、藤原秀郷が京都の八坂神社から分霊を勧請して創建したという須賀神社。毎年7月には本家本元に倣って祇園祭が行われる。藤原秀郷は俵藤太とも称され、平将門を追討したことで知られる平安時代の武将。


小山宿
この辺りが小山宿の中心部で本陣・脇本陣・問屋場が置かれていた所である。


脇本陣高橋家
小山宿で唯一宿場の名残を留める脇本陣高橋家。当時の玄関を残しており、「明治天皇御駐輦之碑」と「明治天皇小山行在所」と刻まれた2つの碑が建てられている。近代化された町並みに抗うかのような雰囲気が漂う。


小山宿02
小山宿本陣と問屋場跡。かつては常陽銀行の辺りに問屋場と旅籠屋小倉藤十郎(小倉屋)があり、向かい側に建つ褐色のマンション辺りに本陣があった。現況は全く面影を留めていないどころか、その跡地を示すものもない。


小山宿本陣跡
今から4年前の2005年に撮影した小山宿本陣跡付近の様子。現在は空地となっている褐色のマンションの隣に麸屋商店という魚屋があった。この時はまだ宿場らしい町並みが残っていたのだが、もったいないことをしたものだ。


思季彩館
小山のアンテナショップ、思季彩館。小山産の野菜や果物、特産品を扱っている。以前は八百忠という店の建物を新装して平成19年にオープンした。ビルの谷間にある旧商家風の建物に目を惹かれるが、その経緯についてはわからない。とにかくビルやマンションにならなくて済んでよかったー。


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小山城址

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小山宿】
小山城の正式な名称は祇園城という。現在では小山城と呼んだほうが一般的なので、ここではこの名称に従う。小山城の起源は平安時代にまで溯り、藤原秀郷が築いたとも、その後裔の小山政光によって築かれたとも言われ、築城時に守り神として祇園社(現 須賀神社)を祀ったことから祇園城と名付けられたという。しかし、記録に見えるのは小山氏が居城としていた14世紀後半頃からで、正確な築城者や築造年代については不明である。小山城は鎌倉・室町時代の中世に渡って幾多の戦乱を潜り抜けながら小山氏が居城としてきたが、戦国乱世の時代になると上杉謙信や北条氏政といった有力大名に攻略され、終には天正18年(1590年)の豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすに至る小田原征伐に参陣しなかったため、小山城は豊臣方の結城氏に攻め落とされ小山氏は追放された。
小山城縄張図
時代は戦国時代終末期となる慶長5年(1600年)、秀吉の死後に国政の実権を握った徳川家康が、会津の上杉景勝討伐に向かう途次、石田三成挙兵の報を受けて急遽開かれた軍議が小山評定である。その場所は小山城内だった現在の市役所辺りと言われている。小山評定から関ヶ原合戦へと向かう歴史の動きについては、ここで語るべくもないだろう。江戸幕府が成立してからは本多正純が小山城に3万石で入封したが、元和5年(1619年)宇都宮へ移封と同時に小山城は廃城となる。後に将軍休泊用の小山御殿が城内に設けられたのだが、その御殿も天和元年(1681年)の台風で一部倒壊し、翌年には解体された。幕末には完全に城跡と化していたようで、当時の様子を再び清河八郎の言を借りて紹介することにしよう。

『千駄塚村を過、粟の宮をとふり、一里半にて小山宿にいたる。至てよろしき宿なり。西に小山判官朝政の城跡あり。東西五丁、南北四丁、全城郭構なり。惣堀、土手、井戸共にあり。土居に松杉の大木有。切岸高く、屏風の如くにて、人馬通行相成がたく、深さ壱丈余、巾五、六尺あらざるとぞ。』清河八郎「西遊草」より。
小山城址を敢えて小山判官朝政の城跡と書いているところが気になった。江戸時代の人なら、同時代人として馴染み深い本多正純の城跡と書きそうなものなのだが、おそらくこれは「吾妻鏡」の影響を受けてのものなのだろう。それとも既に徳川幕府に見切りをつけていた清河八郎は、本多の名を書く気にもならかなかったのだろうか…。奇妙なり八郎!


小山評定跡
小山市役所の敷地内にある小山評定跡の碑。まさに、歴史が動いた場所である。


小山御殿跡
同じく小山市役所敷地内にある小山御殿跡。見ての通り現在発掘調査中。小山御殿は小山評定の吉例にならい、この場所に建てられたという。


小山城址
観晃橋より小山城址を望む。思川東岸の丘陵地に築かれた小山城は、西方が川の侵食によって形成された崖に守られる天然の要害地。江戸初期に廃城になっているにもかかわらず、土塁や空堀などの遺構が状態良く残っている。


思川
思川にて。


小山城本丸跡
小山城本丸跡。


観晃橋
小山城址より観晃橋と思川を望む。


祗園橋
本丸曲輪と馬出し曲輪を繋ぐ祗園橋。橋の下は深い空堀となっており、かつては結城道の道筋になっていた。


小山城曲輪跡 小山城空堀跡
小山城馬出し曲輪跡と空堀跡。小山城址は縄張りの様子も良く留めており見ごたえがある。


大銀杏
小山城址の大銀杏。落城の際に井戸へ身を投げた姫君の霊が宿り、実を付けなくなったと伝わり”実なしイチョウ”とも呼ばれる。晩秋を迎えると黄金色の美しい葉に包まれるのだろう。


小山城空堀跡・旧結城道
旧結城道の空堀底から祗園橋を望む。「切岸高く、屏風の如くにて…」清河八郎が語る通りの深い空堀と土塁は今も健在である。


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喜沢追分

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小山宿→新田宿 道中】
小山宿から日光街道を北へ3kmも行けば、壬生道が分岐する喜沢追分に着く。現在は県道265号粟宮喜沢線から県道18号小山壬生線が分岐する喜沢東交差点となっている地点がその場所である。壬生道は壬生通りとも称され、喜沢追分から壬生宿を経て楡木宿で日光例幣使街道と合流し、今市宿で再び日光街道と道を共通にして日光坊中へ至る街道。宇都宮宿を経由する日光街道より5km程近道だったことから、日光参詣目的の庶民は壬生道を利用することが多かった。また、歴代徳川将軍の日光参詣の際、往路は宇都宮宿経由の日光街道、復路は壬生道が利用されたという。

日光街道・壬生道分岐


県道265号・小山市本郷町
小山城址を後にし、小山市本郷から旧日光街道(県道粟宮喜沢線)に歩みを戻す。


興法寺
小山氏の祈願所だった興法寺。


県道265号・愛宕神社前
小山市本郷を行く県道粟宮喜沢線。写真右に見える鳥居は愛宕神社で、小山城の鬼門除けだった。


第一奥州街道踏切
第一奥州街道踏切で両毛線を渡る。


県道265号・喜沢
第一奥州街道踏切を越えた先からは、かつての喜沢村の家並み。


日枝神社参道 日枝神社
喜沢の日枝神社。旧日光街道の県道から参道(左写真)が延びているのだが、国道4号にばっさりと分断されている。しかしながら、この参道には樹齢400年という大ケヤキをはじめとする古木が立ち並び、なかなかの見ごたえ。


喜沢東交差点
現代の喜沢追分こと、喜沢東交差点。左方向の道が県道小山壬生線の旧壬生道で、手前から右方向へ直進する道が県道粟宮喜沢線。旧日光街道の道筋は交差点から県道粟宮喜沢線を右に分岐する小径である。


旧日光街道・喜沢南交差点
喜沢東交差点の日光街道旧道入口。ここから新田宿まで車の喧騒を離れて歩ける。


喜沢追分の馬頭観音碑
喜沢追分の石碑群。明治27年(1894年)建立の馬頭観音や出征馬碑、道標を兼ねた供養塔が立ち並ぶ。供養塔には「左壬生道 右宇都宮道」と刻まれる。


蛸屋
喜沢東交差点角に”蛸屋”という和菓子店があり、立ち寄ってみることに。
店内に入って早々、買い物もしてもいない私に「お茶をどうぞ。」と店員さん。「いやいや、そんな気を使わんでください。」と言いつつもお茶をすすりながら一休み。私の風貌を見て感ずいたのか、「日光街道を歩かれているのですか?」と聞かれ、「ええ、そうなんです。」とすかさず返したら、「この時期になると結構歩かれている方が多いんですよ。」と、にっこり笑顔の店員さん。お茶を飲み終えて、”小山銘菓 みかもの月”とやらを購入して店を後に。現代の追分茶屋とも言うべき蛸屋であった。


みかもの月
これが”小山銘菓 みかもの月”。確かに美味しい和菓子なのだが、仙台の”萩の月”に良く似ているような…。今度食べ比べをしてみようと思う。


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喜沢の旧道

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小山宿→新田宿 道中】
喜沢追分からの日光街道の旧道は、国道4号と東北新幹線の間に細々と生き残っている。日光街道歩きでもしていなければ、案内板も標識も全く無いので、この道がかつての幹線道である五街道の一つだと気付くこともない。しかしながらこの区間には両塚が現存する喜沢一里塚があり、往時の日光街道を留めている貴重な場所になっている。喜沢を過ぎれば間もなく国道4号に合流し、新田宿へと入っていく。


喜沢の旧道
喜沢追分(喜沢東交差点)付近の旧道。写真は旧道から追分方向を望んでいる。


喜沢の旧道
喜沢を行く日光街道旧道。


喜沢一里塚
旧道左に見える盛土が喜沢一里塚の西塚。説明板どころか標識も無いので、これが本当に一里塚なのかという確信は私にも無いが、ほぼ間違いないだろう。江戸日本橋から21里目(約82km)の一里塚。


喜沢一里塚
西塚から旧道を挟んだ向かいの空地には、東塚跡と思われる盛土が残っている。


喜沢の旧道
喜沢の旧道筋にはお城風の家が・・・。


喜沢の旧道
やがて旧道は東北新幹線の高架下を並行して進む。


喜沢にて
にっこり笑って、はいポーズ!喜沢の旧道にて。


羽川の旧道 羽川の旧道02
左写真の地点で高架下の道から左斜めに分かれ、国道4号に合流する。右写真がその合流点で、この辺りが新田宿の入口にあたる。


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新田宿

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 新田宿】
日光・奥州街道の第13宿となる新田宿。天保14年(1843年)当時の記録によると人口244人、家数59軒、本陣1、脇本陣1、旅籠11軒という宿場規模で、日光道中で最も人口が少ない。その記録が示す通り、寂れた小さな宿場だったようで、幕末の様子を清河八郎の言葉を借りると「芋から新田といふみにくき宿をすぎ、廿九丁にて小金井にいたり…」と述べられ、”みにくき宿”などというこっ酷い表現が使われている。ちなみに”芋から新田”とは”芋柄新田”のことで、新田は芋柄新田とも呼ばれていたことによる。明治6年(1873年)に新田宿は羽川宿と改称されたため、現在新田宿周辺は小山市羽川という地名となっており、芋柄新田の名は歴史の中に葬られた。私の勝手な推測であるが芋柄(うから)が転訛して”うかわ”となって”羽川”の字が当てられ、更に訓読みとなって”はねかわ”という名が誕生したのではなかろうか。


新田宿
新田宿南側の町並み。予備知識がなければ、ここが宿場町だったとは誰も思わないだろう。


新田宿01
新田宿にて。


新田宿
新田宿中心部の町並み。脇本陣跡辺りから斜向かいに本陣跡を望む。悲しくなるぐらいに宿場の面影は無くなっている。


新田宿本陣・青木家
新田宿本陣を務めた青木家。当時の本陣門を残している。


羽川薬師堂
新田宿の人々を見守ってきた羽川薬師堂。江戸中期、小金井の慈眼寺末寺に玉性院という寺が新田宿にあり、その住職が宿場の安寧を願い薬師如来を祀って御堂を建立したことに創建の由来がある。時期は不明であるが玉性院は廃寺となり、この薬師堂だけが残されたようだ。


橿原神社
新田宿の北外れから参道が延びる橿原(かしはら)神社。新田宿だった頃は星宮神社として鎮座していたが、明治5年(1872年)祭神を九州の宮崎神宮より勧請して橿原神社と名を改め創建された。翌年、新田宿も羽川宿に名が改められている。明治39年(1906年)汽車からの飛び火により社殿が焼失し大正3年(1914年)に再建。近年になって東北新幹線が着工されるにあたり、昭和49年(1974年)西側の現在地へ移転した。


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失われた日光街道 羽川

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 新田宿→小金井宿 道中】
新田宿を抜けた先からの日光街道旧道は銅市金属工業(ドーイチ)の敷地内から国道4号西側に200m程の道筋を残しているが、その先は小山市と下野市の境界付近まで消失しており辿ることはできない。”うおとみ”というスーパーの裏手から旧道の道筋が出現し、小金井一里塚へと向かう。下図[A]地点に石仏群が旧道筋に向かって並んでおり、旧道入口の目印となっている。

日光街道・羽川


羽川の旧道
[A]地点から小金井宿方面の旧道を望む。ドーイチの倉庫前が旧道であり、写真左に見える”通学路徐行”の看板裏に石仏が倉庫に向かって並んでいる。つまり倉庫側が旧道であることを示している。


羽川の石仏群 観世音石塔
ドーイチの倉庫裏に並ぶ石仏群。左写真の中央に見える青面金剛塔には新田宿下組講中と刻まれており、新田宿が存在していたことを今に伝える数少ない語り部だろう。理由はわからないが、右写真の観世音石塔だけが小堂に納められている。


羽川の旧道
ドーイチ倉庫前の砂利道を進むと”通り抜けできません”の立て看板が…。一瞬立ち止まったが、道は続いているので先へ。


羽川の旧道
[B]地点から小金井宿方面の旧道を望む。この先も道が続いているが、通り抜けられないようなので右折して並行する国道4号を歩くのが無難。


羽川の旧道 羽川の旧道
左写真は[C]地点から新田宿方面、右写真が小金井宿方面の旧道跡を望んでいる。道筋が残ってはいるが、道としての役割は果たしていない。


羽川の旧道
[D]地点から新田宿方面の旧道を望む。僅かに旧道が残っているのを確認できる。


羽川の旧道
[D]地点から先は舗装道となって小金井宿方面へ続いている。若寿司の先で小山市羽川から下野市川中子へと行政区域が変わる。


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小金井一里塚

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 新田宿→小金井宿 道中】
江戸日本橋から22里目(約86.4km)となる小金井一里塚。両塚が原形を留めて現存し、国指定史跡となっている。現役の頃は一辺約9mの方形に築かれた塚上に榎が植えられるという風貌だったが、現在は長年の風雨に晒されて円形になり、東塚の上に何代目かの榎とクヌギが同居して生えている。どういった経緯で破壊を免れたのかわからないが、周辺の日光街道が消失しているにもかかわらず生き残った。奇跡と言ってよいだろう。

日光街道・小金井一里塚


旧日光街道・川中子
川中子を行く旧日光街道。


旧日光街道・小金井
先に見える大木が小金井一里塚。その手前で旧道は畑の中に途切れている。


小金井一里塚02
両塚が現存する小金井一里塚。かつては両塚の間を日光街道が通ってだんだなあ…と、当時の道幅を実感できる貴重な史跡である。


小金井一里塚04
小金井一里塚から新田宿方面の旧道跡を望む。


国道4号・小金井
小金井一里塚から先は国道4号を歩いて小金井宿へ。


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小金井宿

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小金井宿】
小金井宿の発祥は宿場より西にあった金井村という集落にあり、慶長9年(1604年)村民が街道沿いの現在地に移住して小金井村と名のり、それから約80年後の延宝9年(1681年)になって宿駅として制定された。”金井”という地名には黄金の湧き出づる井戸という意味が込められていると伝わり、本当にそんな夢のような井戸があったのかどうかは、名を付けた先人達が知るのみで、今となっては想像を膨らませるしかない。天保14年(1843年)当時の記録によると小金井宿は町並み南北6町42間(約731m)、人口767人、家数165軒、本陣1、脇本陣2、旅籠43軒という宿場規模で、日光方より上町・中町・下町と分かれていた。

小金井宿を訪れた清河八郎は「随分よき所にて、宿の四、五丁左りに、小金井といふ名水あり。炎天にもかれずとぞ。」と西遊草に書き、”みにくき宿”と扱下した新田宿とはうって変わって、”随分よき所”と賞賛しているのが興味深い。この文言にある”小金井といふ名水”はどこにあったのか、或いはあるのかわからない。それが”金井”という地名の由来になった井戸だとするならば、渇水期にも水を湛える”黄金に値する井戸”ということになろう。小金井の名水について情報をお持ちの方は教えてください。
m(_ _)m


小金井宿下町
小金井宿へ。江戸方(南側)の町並み。


慈眼寺
建久7年(1196年)新田義兼によって建立された慈眼寺。義兼は清和源氏新田氏本宗家の2代目であり、新田義貞はその8代目にあたる。慈眼寺は歴代将軍の日光社参の折、御昼休み所として利用された。


金井神社 金井神社本殿
小金井宿本陣隣に鎮座する金井神社。宝暦4年(1754年)金井村字余又の地より現在地に遷座し、以来小金井宿鎮守となった。入母屋造の本殿は壁面に透彫りや丸彫りの精巧で美しい彫刻が施されており、一見の価値がある見事なもの。江戸末期の製作だという。


小金井宿中町
小金井宿の中心部だった中町の町並み。本陣や脇本陣が置かれていた。旧商家の建物や本陣門が残り、宿場の面影をそれなりに留めている。


大越本陣
本陣を務めた大越家に残る本陣門。


小金井宿旧商家
宿場時代の佇まいを残す旧商家の建物。長年の風雨に耐えてきた黒ずんだ白壁を、どれだけ多くの旅人が目にしてきたのだろう。そんなことを考えてしまう。これからも小金井宿の歴史を後世に伝えてほしい。


小金井上町
小金井宿上町の町並み。小金井北交差点の先、右側に”大嶋屋”という旅籠があったらしいが、痕跡が全く無いので跡地の所在不明。


蓮行寺
蓮行寺。歴代将軍の日光社参の折、宇都宮城主はこの寺まで足を運び将軍を出迎えたという。


薬師堂
小金井宿日光方(北側)外れにある薬師堂。朱塗りが印象的な御堂には行基作と伝わる本尊が納められている。


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笹原の旧道

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小金井宿→石橋宿 道中】
小金井宿から先の旧日光街道は国道4号と道を共通にして北へ進む。途中で国道4号の西側に旧道の道筋は消失するが、下野市笹原と小金井の境界付近で出現し、そのまま北上して笹原立場跡へと至る。更に旧道は約1.5km北上するのだが、上三川町梁の飛び地まで来たところで旧道は再び薮の中へ消失する。

旧日光街道・笹沢の旧道


国道4号・小金井
小金井宿を出て国道4号を歩いていくと、間もなく写真の[A]地点に差しかかる。ここで国道4号は不自然にS字カーブを描いており、この先から旧道の道筋は国道4号の左(西側)を通っていたと思われる。


笹原の旧道
[B]地点から石橋宿方面を望む。畑と民家の間に旧道の道筋が出現する。


笹原の旧道
パチンコクイーンエリザベスの裏手を進む旧道。


狂犬ハチ公
パチンコクイーンエリザベスの裏にいる犬。番犬として飼われているせいなのか、人を見ればとにかく吠えまくる。檻の中にいるとはいえ恐怖すら感じた。狂犬ハチ公と勝手に名付けることに。


笹原の旧道
笹原を行く旧道。


笹原立場
笹原立場跡。かつては数軒の茶屋が軒を連ねたのだろう。


笹原の旧道 笹原の旧道
笹原立場跡から[C]地点にかけての旧道。車の通行もほとんど無く、長閑な畑の中をのんびりと歩ける。


小金井の旧道
[C]地から先の旧道は雑木林の中へ消える。


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失われた日光街道 下石橋

【2009年10月4日(日) 旧日光街道 小金井宿→石橋宿 道中】
前の記事からの続き。[C]地点から雑木林の中へ消失した旧道の道筋は、上三川町梁の飛び地内を縦断して下石橋に入り、下石橋交差点辺りから国道4号と同ルートを辿る。この消失した旧道筋には下石橋一里塚があったのだが、近年の調査でこの一里塚が雑木林の中に残存していることが確認されている。勇気と根性のある日光街道ウォーカーは薮を掻き分けて下石橋一里塚らしき土盛りを見つけているようだが…。私にはそんな勇気や根性も無く、旧道跡付近をちら見しながら国道4号で普通にスルーすることに。

日光街道・下石橋


上三川町飛び地の旧道
上三川町梁飛び地内の旧道跡付近。[D]地点から小金井宿方面を望む。正面突き当たりに見える雑木林内に日本橋から23里目(約90km)となる下石橋一里塚が残存しているらしいが…。


石橋消防署 丸大食品
[E]地点付近の旧道は石橋消防署や丸大食品の敷地と化しており完全に消失している。


夕顔橋の石仏群
夕顔橋の石仏群。[F]地点の下石橋北交差点から少し南側、国道4号に背を向けて石仏が並んでいる。旧道が国道4号より少し西側にあったことを意味しているようだ。


石橋宿夜景
すっかり日が暮れた18時前、石橋宿に入る。


石橋宿夜景
石橋宿・石橋交差点付近の夜景。旧日光街道歩き第5日目の旅はここで終わり。


石橋駅
駅前の清水蕎麦屋で夕食を済ませ、JR石橋駅から帰途につく。

【旧日光街道 第5日目】踏破距離 約15.5km(小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿)日本橋から約98km 日光まで約50km
日光連山が視界に!


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石橋宿

【旧日光街道歩き 第6日目】石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿



【2009年10月25日(日) 旧日光街道 石橋宿】
日光・奥州街道の第15宿となる石橋宿。宿名は池上明神前に架けられていた石橋に由来するというが、今となってはその明神や石橋がどこにあったのかもわからない。本陣・脇本陣・問屋・名主の宿役人はいずれも伊沢家が務め、現在も伊澤茶舗や伊沢写真館等、伊沢姓の家が多い。伊沢家は宇都宮氏一族の多功城主多功氏に仕える家柄だったが、戦国時代末期に宇都宮氏が没落すると石橋の地に土着したという。

天保14年(1843年)当時の記録によると、石橋宿は町並み南北5町28間(約596m)、人口414人、家数79軒、本陣1、脇本陣1、旅籠30軒という宿場規模で、北条雄之助代官所の支配下にある幕府領であった。宿名は明治期から近年に至るまで石橋町となって受け継がれてきたが、平成18年に隣接する国分寺町・南河内町と合併して下野市が発足し、石橋町は消滅した。余談だが、石橋は栃木県の特産品である干瓢(かんぴょう)の産地であり、日本全国に出回っている国産干瓢のほとんどが栃木県産である。


石橋愛宕神社
石橋宿の江戸方(南側)外れに鎮座する石橋愛宕神社。


石橋宿・脇本陣跡付近
写真右に見える伊沢写真館が脇本陣跡。


伊沢本陣跡
いとうや薬品の建つ敷地が石橋宿本陣跡。店の横に祀られている祠は本陣伊沢家の氏神様なのだろうか。


伊澤茶舗
本陣跡から街道を挟んだ斜向かいにある伊澤茶舗。問屋場跡。


石橋宿・石橋交差点北側
石橋交差点付近の町並み。


開運寺
石橋山の扁額を山門に掲げる開運寺。徳川将軍日光社参の際、休息場として境内に御殿所が設けられた。


石橋宿・上町バス停
石橋宿日光方(北側)外れの上町を行く旧日光街道。バス停に上町の名が残されている。


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鞘堂の追分

【2009年10月25日(日) 旧日光街道 石橋宿→雀宮宿 道中】
石橋宿から国道4号を北上して約7km先の雀宮宿を目指す。その石橋宿と雀宮宿のちょうど中間、鞘堂に日光街道と日光東往還の追分(分岐点)があった。日光東往還は日光街道の脇街道として整備された道で、鞘堂の追分から結城城下を経て茨城県を南下し、江戸川を越えた関宿城下から千葉県内を南東へ進んで、水戸街道の小金宿と我孫子宿の間(千葉県柏市豊四季)で水戸街道に合流する街道である。徳川将軍日光社参の際には、警護の任に就く諸大名の通行に利用された。江戸幕府の定めた正式名称は”関宿通多功道”と言う。

日光街道・日光東往還分岐


国道4号・下野市と上三川町の境
下野市下古山から上三川町鞘堂へ入る国道4号。近くに陸上自衛隊の駐屯地があるため、自衛隊車両の通行が多い。


上三川町鞘堂にて
上三川町鞘堂の国道4号沿道にて。蕎麦屋の廃墟のようだが、一体これは…。


鞘堂地蔵尊
鞘堂という地名の由来であろう鞘堂地蔵尊。南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)の下野守護小山義政と宇都宮氏の合戦によって戦死した兵士の鞘を集めて埋め、その上に御堂を築いて地蔵を安置したものという。


星宮神社
鞘堂新田村の鎮守として祀られた星宮神社。現在の鞘堂辺りは、かつて鞘堂新田村という集落だった。


鞘堂の追分
日光街道と日光東往還の分岐点だった鞘堂の追分。写真は宇都宮方面の国道4号を写しており、正面に見える高架道は北関東自動車道。追分は右側道手前の電柱と奥の電柱の間である。


鞘堂の追分
日光東往還から追分方向を望む。突き当たりの合流する道が日光街道(現 国道4号)である。かつては行く先を示す道標が置かれていたのだろうが、現在は追分を示すものは何も無い。


高秀土木工業
北関東自動車道を潜り抜けると高秀土木工業の敷地内に謎の塚が現れる。塚上には3体のお稲荷様が祀られており、一見すると一里塚のようにも見えるが…。一体これは何なんだろうか。


国道4号・下野市と宇都宮市の境
下野市下古山から宇都宮市茂原へ。下古山から雀宮宿にかけて約3kmの道程は淡々と国道を歩くだけ。


国道4号・安塚街道入口交差点
安塚街道入口交差点を過ぎれば間もなく雀宮宿。この交差点南側付近に江戸日本橋から25里目(約98km)を示す雀宮一里塚があったが、現在は痕跡が残っておらず位置不明。


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雀宮宿

【2009年10月25日(日) 旧日光街道 雀宮宿】
雀宮とは何ともメルヘンで平和的な地名であるが、この辺りは室町時代に小山氏と宇都宮氏の勢力争いの場となり、度々合戦が起こって血が流れた場所でもある。前の記事に書いた鞘堂地蔵尊はそんな歴史を今に伝える語り部だ。雀宮宿が誕生するのは江戸期の日光街道が整備されてからで、街道沿いにあった台新田村の集落が発展して宿場の体裁を整え、寛永年間(1624年~1643年)には宿駅として成立していた。宿場名の由来は宿場北外れに鎮座している雀宮神社であるが、神社の由緒については後述する。天保14年(1843年)当時の記録によると、雀宮宿の町並み南北5町20間(約582m)、人口268人、家数72軒、本陣1、脇本陣1、旅籠38軒という小さな宿場町であったが、その規模に比して旅籠の数が多く、また大きな旅籠も多かった。日光東往還が合流し、更に次が宇都宮城下であることがその要因なのだろう。


雀宮宿
雀宮宿の町並みに宿場の面影は残っていない。


雀宮宿本陣跡
雀宮宿本陣小倉家跡。現在は西松屋の敷地になっており、駐車場入口に「雀宮本陣跡」の石碑が置かれている。


雀宮宿本陣跡
西松屋裏手の本陣跡地には”雀の宮本陣ヴィレッジ”という2棟のアパートが建てられている。


雀宮宿本陣跡
西松屋の建屋横に残る祠。本陣小倉家の氏神様だろうか。


仮本陣芦谷家
名主で仮本陣を務めた芦谷家。黒塗りの門構えが威厳を感じさせ、仮本陣を偲ばせる佇まい。主屋には玄関の式台、上段の間が残されているという。


雀宮神社
長徳3年(997年)創建と伝わる雀宮神社。正徳3年(1713年)天皇より金文字で”雀宮”と書かれた勅額を下賜され、以来その額を社頭に掲げていたため、将軍家をはじめとする諸大名の通行の際には社前で下乗して参拝したという。気になる”雀宮”という名の由来については、諸説あって定かではない。雀宮地域のホームページの「歴史探訪」内に詳しく書かれているので、ご参照を。


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雀の宮から不動堂前へ

【2009年10月25日(日) 旧日光街道 雀宮宿→宇都宮宿 道中】
雀の宮から宮の内、横田新町、台新田、上横田町、江曽島町、西原町といった宇都宮市の地域内をひたすら国道4号を歩いて北上。西原交差点まで来たところで国道119号に道筋を変え、陽南、川田町を抜けて不動堂前へ至る。不動堂前から不動堂通りを進めば間もなく宇都宮城下である。この雀の宮から不動堂前にかけての街道筋には台新田村の立場や江曽島一里塚等があったのだが、現在はごく普通な郊外の国道筋と化しており、旧街道を感じさせる見所はこれといって無い。


国道4号・宮の内2丁目交差点
国道4号・宮の内2丁目交差点。雀の宮から宇都宮城下入口の不動前まで約5km、国道をひらすら歩く。


国道4号・横田新町交差点
横田新町を行く国道4号。


国道4号・上横田町 寿鶴薬師堂
東京から102km地点の標識が立つ上横田町。右写真は上横田町の国道沿いにある寿鶴薬師堂。


国道4号・台新田
台新田を行く国道4号。かつてこの辺りには茶屋が軒を連ねる立場があり、台新田村の高札場が置かれていた。


菅原神社
台新田の菅原神社。学問の神様、菅原道真を祀る。


国道4号・一里バス停
江戸日本橋から26里目(約102km)となる江曽島一里塚跡付近。一里塚は東北本線の敷設によって完全に消滅してしまっているが、バス停名と信号名に一里の名が残されている。


国道4号・西原交差点
旧日光街道は西原交差点で国道4号から分かれ、国道119号の道筋を辿って宇都宮市街へ。


国道119号・陽南
西原交差点から先は国道119号が現在の日光街道である。また、宇都宮市内の国道119号と西原交差点以南の国道4号には東京街道という別称もある。


不動前通り・不動前交差点
不動前交差点で国道119号を更に左へ分岐し、不動堂通りを進めば宇都宮城下である。


不動堂
国道119号と不動通りの分岐点にある不動堂。江戸方面から来る旅人にとっては宇都宮城下へ入る目印となっていた。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
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