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宇都宮宿 南新町から二荒山神社へ

謹賀新年
明けましておめでとうございます。
今年は1月中に日光街道歩きを完結し、
次の歩き旅へ一歩を踏み出す所存です。
その街道の行く先は…。
本年もよろしくお願いします。



【2009年10月25日(日) 旧日光街道 宇都宮宿】
関東有数の名城宇都宮城のお膝元に宿場町を構え、日光街道と奥州街道が分岐する交通の要衝だった宇都宮宿は、その繁栄を約束された立地条件から町は大いに賑わい、日光・奥州道中では千住宿に次ぐ規模を誇った。ここを訪れた清河八郎はその様子を「西遊草」に以下のように記している。
『戸田家の城下にて奥街道第一の繁華にて、人家も殊の外うるわしく、はじめていたるものは、江戸もかくやらんとをもわるる也。素より日光道中にもあり、何事にも不都合あらず』
宇都宮宿は天保14年(1843年)当時の記録によると、人口6457人、家数1219軒、本陣2、脇本陣1、旅籠42軒とあり、江戸にも劣らぬその賑わいぶりは数字からも見て取れる。また、日光道中ではここ宇都宮宿と千住宿に貫目改所が置かれていた。

宇都宮という地名の由来には諸説あるのだが、下野国一の宮、宇都宮二荒山神社の別称宇津宮(宇都宮)大明神に由来があるとも、”一の宮”が転訛したとも、他にも”討つの宮”や”遷しの宮”など、いずれにしても二荒山神社にまつわるものばかりである。そんな宇都宮とは切っても切れない深い関係にある二荒山神社は、現在も市内中心部の高台に威厳を備えて鎮座している。江戸後期の二荒山神社の様子を再び清河八郎の言をかりて紹介する。
『明神は公儀普請にて、石壁高くたたみあげ、経営のうるわしき事、日光に継べし。されどもしら木作にて、却て品よく思わるる也。伝へいふ、王をはかり、遂滅亡に及びし平の将門のからだをまつるとぞ。首は則神田明にまつる也。』

宇都宮城下


不動前通り・不動前
不動前通りを進み東武日光線を潜る。この辺りが宇都宮城下への江戸方入口にあたり、木戸が設置されていた。


蒲生君平勅旌碑
蒲生君平勅旌(がもうくんぺいちょくせいひ)碑。蒲生君平の著した書物や行いが明治維新において大きな功績があったとして、明治天皇がその人となりを広く世間に知らしめるようにと勅命し、宇都宮入口の地に建立されたのがこの石碑である。
蒲生君平は高山彦九郎、林子平と共に”寛政の三奇人”と称された儒学者。荒廃した天皇陵を全て調査し、後に”山陵志”を著したことで有名。前方後円墳の名付け親である。


新町のケヤキ 新町のケヤキ
新町の大ケヤキ。推定樹齢800年のこのケヤキは、宇都宮城下への江戸方入口にあたる場所に立っており、旅人の目印となっていた。


台陽寺 子安地蔵尊
新町の台陽寺とその門前に安置されている子安地蔵尊。


熱木不動尊
西原の熱木(ねぎ)不動尊。初代下野の国司である宇都宮宗円(宇都宮氏の祖)が、奥州征伐の陣中で戦勝祈願のために作った三体の不動尊像のうちの一つを祀っているという。真実ならば今から約950年前の作られたものである。


蓬莱大黒通り・旧歌橋町
現在の蓬莱大黒通りに面する一条辺りはかつて歌橋町と呼ばれ、江戸時代には七のつく日に市が立って賑わったという。昔、ここに住んでいた人によって詠まれた歌が万葉集に載ったという伝説から、歌橋の町名が起こったらしい。


天満宮
西3丁目に鎮座する天満宮(蓬莱菅原神社)。宇都宮城西の守護神。


報恩寺
茅葺き屋根の山門が美しい報恩寺。寛永16年(1639年)の創建と伝わる。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)で付近の六道の辻が主戦場となったため、戦火避けがたく本堂は焼失。後に再建された。


蓬莱大黒通り・西原
旧蓬莱町の町並み。古くから蓬莱観音を祀る御堂があったことから蓬莱町と呼ばれた。


旧蓬莱町・旧茂破町の枡形跡
旧蓬莱町と旧茂破町の境に位置する枡形跡。道筋に枡形の形跡が残っている。茂破町は宇都宮城主本多正純によって城下を通る日光街道の付け替えが行われた際、茂を破って道を開き町を造ったことからこの名が付けられたという。


材木町通り・旧挽路町
旧挽路町の町並みと材木町通り。挽路町は日光街道の付け替えが行われた際、付近の道を西側へ引いて作ったことから名が付いたという。また、轆轤(ろくろ)を挽く家が多かったとの説も。


材木町通り・材木町
現在も町名が残る材木町の町並みと材木町通り。藩の御用材を商う材木問屋が軒を連ねていたことが町名の起こりという。しかしいつの頃からなのか、清水屋や江戸屋等の女郎屋が集まる遊興の地となっていたようだ。


宇都宮追分
材木町通りを突き当たり、裁判所前交差点を右折すれば日光街道と奥州街道の追分に着く。現在の大通りと清住町通りの分岐点がそれである。この追分の南側に上野本陣が置かれていた。


上野本陣跡の大イチョウ
上野本陣跡に残る大イチョウ。宇都宮宿に2軒あった本陣の遺構はいずれも失われているが、本陣上野家を見守ってきた大イチョウだけがその語り部のように残されている。住宅地や商業地と化した敷地に、窮屈そうにそびえ立っている姿が哀愁を誘う。


二荒山神社 二荒山神社
宇都宮大明神とも称された宇都宮二荒山神社。もともと宇都宮はこの神社の門前町として発展し、城下町・宿場町へと変貌を遂げてきた。清河八郎は二荒山神社について”平の将門のからだをまつるとぞ”と書いている。しかし、平将門が東国で乱を起こし、藤原秀郷がその討伐に向かう際にここで戦勝祈願したと伝わっており、そんな場所に将門の体を祀るとは到底考えられない。間違いであろう。二荒山神社は武将の尊崇厚く、藤原秀郷をはじめ源頼義・義家父子、源頼朝、徳川家康といったそうそうたる面々が戦勝祈願に訪れている。


宇都宮駅構内の来風にて
最後に宇都宮といえば、やっぱりこれ。宇都宮駅ビルPASEOにある来風にて。

JR宇都宮駅
【旧日光街道 第6日目】
踏破距離 約14.3km
石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿
日本橋から約112km
日光まで約36km

いよいよ次は、日光街道歩きのメーンである杉並木の街道を行く!



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宇都宮城

【旧日光街道歩き 第7日目】宇都宮宿→徳次郎宿→大沢宿



【2009年11月7日(土) 旧日光街道 宇都宮宿】
旧日光街道歩き第7日目のスタートは宇都宮城址の散策から。
時は今から遡ること約950年前の平安時代、藤原宗円(宇都宮氏の祖)が宇都宮の地に城を築き、以来戦国時代の末期まで宇都宮氏の居城として君臨してきた宇都宮城。戦国無双や信長の野望といったゲームに親しみのある方なら、宇都宮広綱や国綱といった名には馴染みがあるのではないだろうか。豊臣秀吉の治世になってからも生き残った宇都宮氏であるが、慶長2年(1597年)秀吉から太閤検地の際の不正を責められ改易。以来、浅野長政や蒲生秀行の治める所となり、徳川の世になると奥平家昌が10万石で入封した。

奥平家が2代目忠昌の時に下総古河藩へ移封になると、本多正純が下野小山藩から宇都宮藩へ入封。この正純が宇都宮藩主の時、城に釣天井を仕掛けて2代将軍徳川秀忠の暗殺を画策したという嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純が出羽横手へ流罪となった。世に言う宇都宮城釣天井事件で、元和8年(1622年)のことである。本多正純の父正信の頃から家康に重用された本多家は、家康死後も権勢を誇ったために秀忠や側近らに疎まれており、その失脚を狙った謀略というのが今日の見解である。首謀者は酒井忠世や土井利勝、井上正就といった幕閣重職の面々といわれる。

本多家の改易後は奥平家が再封となり、以来江戸期を通じて松平(奥平)家、本多家、奥平家、阿部家…と目まぐるしく藩家が変わり、7代続いた戸田家の時に明治維新を迎える。宇都宮藩は新政府側に恭順の態度を示したため、戊辰戦争の渦中に巻き込まれることとなり、宇都宮城は江戸から北上する大鳥圭介や新選組の土方歳三率いる旧幕府軍の攻撃を受け、新政府軍と旧幕府軍の攻防の舞台となった。宇都宮城の戦いと呼ばれる。この戦闘によって本丸御殿をはじめとする城の主要な建造物は灰燼に帰し、二荒山神社の社殿もこの時に焼失した。その後については語るべくもないだろうが、宇都宮の近代都市への開発はこの時から始まったとだけ書いておこう。


宇都宮市街にて
宇都宮市街にて。城下町の風情を残す店構えは鴨志田家具指物製作所。


宇都宮城址・清明台
近年になって本丸西側の堀や土塁、櫓が復元された宇都宮城。清明櫓と本丸土塁。


宇都宮城址・本丸跡
城址公園として整備された宇都宮城本丸跡。


富士見櫓
富士見櫓。


宇都宮城址・本丸跡
本丸跡に色づく木々。


清明館
本丸跡にある清明館。


旭町の大イチョウ 旭町の大イチョウ
推定樹齢300年以上という旭町の大イチョウ。幾多の戦火をくぐり抜けて生き残った。宇都宮城三の丸の土塁跡に立っているため、一里塚のような状態になっている。


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宇都宮宿 本郷町・新田町

【2009年11月7日(土) 旧日光街道 宇都宮宿】
かつての日光街道と奥州街道の分岐点、宇都宮追分から旧日光街道に歩みを戻す。
現在の大通り(国道119号)と清住通りの分岐点がかつての追分であり、その分岐点から北上する清住通りが旧日光街道の道筋にあたる。この追分は新石町(現 材木町・小幡1丁目・伝馬町の旧街道筋)と伝馬町(現 伝馬町・泉町の旧街道筋)の境界に位置し、ここから北上する日光街道筋には本郷町・新田町(現 小幡1丁目・泉町・清住地区の旧街道筋)の町屋が続いていた。新田町には宇都宮城下への北の入口にあたる木戸が置かれていた。


宇都宮追分
かつての日光街道と奥州街道の分岐点、宇都宮追分。大通りの直進方向が旧奥州街道で、交差点から左折する道が旧日光街道である。


旧本郷町
旧本郷町(現 小幡1丁目と泉町の境)を行く旧日光街道。


泉町にて
泉町に残る旧商家の上野本家。江戸時代中期に油屋の屋号で油売業を創業し、後に副産物の油粕を肥料として売って業容を拡大させた。


弥勒堂
小幡1丁目の弥勒堂。かつて旧本郷町に妙覚院という寺院があり、その境内にあった二十三夜尊を祀っている。


三峰神社
三峰神社。天保3年(1832年)に武州三峰山(火防の神)より分身を頂き建立された。


宝勝寺
境内に日限(ひぎり)地蔵尊を祀る宝勝寺。この地蔵尊に日を限って願掛けすれば、その願いが叶うという。


旧新田町
旧新田町の町並み。この辺りに江戸日本橋から27里目(約106km)の一里塚があったのだが、遺構は全く無くなっており所在不明。


延命院 延命院地蔵堂
泉町の延命院。門前に”蒲生君平先生少年時代修学の寺”と刻まれた石碑がある。明和5年(1768年)新石町(現 小幡1丁目)に生まれた蒲生君平は、6歳の時からここの住職に読み書きの手ほどきを受けたという。蒲生君平については前々の記事で簡単に紹介したので、関連記事を参照してみて下さい。
境内にある地蔵堂は享保年間(1716年~1735年)の建立で、宇都宮市内最古の木造建築と言われる。堂内には鎌倉時代の制作と推定される木造地蔵菩薩立像を安置する。


桂林寺 蒲生君平の墓
蒲生君平の墓がある桂林寺。文化10年(1813年)江戸で死去した蒲生君平は、谷中(東京都台東区)の臨江寺に葬られたが、後に故郷であるこの地に遺髪が分葬された。


新田町
旧新田町(現 清住1丁目・2丁目)を行く旧日光街道。


和菓子店 たまき
清住1丁目の旧日光街道筋にて。和菓子の製造販売元「たまき」。


新田町の枡形跡
和菓子店「たまき」のすぐ先で旧日光街道は枡形の道筋を辿る。ここが宇都宮城下の北西外れにあたり、付近に出入口となる木戸が設置されていたと思われる。


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上戸祭の桜並木

【2009年11月7日(土) 旧日光街道 宇都宮宿→徳次郎宿】
宇都宮城下を抜け、北西へ向けて進路を取る。
清住から引き続き清住通りを進んで星が丘、松原の地区を抜け、中戸祭に入る直前に国道119号と合流。国道歩きも飽きてきた頃、道は上戸祭の桜並木へと入っていく。上戸祭の桜並木から街道の両脇に石垣で備えたれた土盛りが見られれるようになり、歩行者は並木の外側を車道より一段高い場所を歩くことになる。この土盛りは桜並木となる以前、つまり杉並木だった頃の名残で、並木の根をしっかりと保護するために築かれた。上戸祭から鉢石宿にかけて断続的に見られる。


清住通り 星が丘・松原
宇都宮城下を出で。星が丘・松原を行く清住通り。


勝善神の碑
松原の清住通り沿道に立つ勝善神(そうぜんがみ)の碑。今までの街道歩きで馬頭観音や青面金剛、庚申塔等様々な石碑を見てきたが、”勝善神”を見るのは初めてだ。これは神道系の牛馬守護神で、いわゆる仏教系でいう馬頭観音である。主に東北地方から茨城、栃木にかけて信仰された。


松原3丁目交差点
松原3丁目交差点で左から国道119号が合流。この先から中戸祭である。


国道119号・中戸祭 柿塚神社
中戸祭を行く国道119号と中戸祭1丁目に鎮座する柿塚神社。


国道119号・上戸祭
上戸祭に入ってからも国道歩きが続く。どこにでもある風景に少々飽きてくるが、歩道は広く歩きやすい。


高尾神社
上戸祭2丁目に鎮座する高尾神社。


妙吉地蔵尊 妙吉塚
高尾神社の境内に安置される”妙吉安産子育高地蔵尊”。その裏手には妙吉塚がこんもりと築かれている。


上戸祭の桜並木
上戸祭の桜並木へ。満開の季節に歩きたい道だ。


上戸祭の一里塚
桜並木が杉並木に変わりつつある所で上戸祭の一里塚が現れる。江戸日本橋から28里目(約110km)の一里塚で、街道の並木外側に両塚が現存している。


野沢町のセブンイレブンにて
上戸祭の一里塚から歩いて間もなく野沢町に入る。その境にあるセブンイレブンで休憩。栃木といえばやっぱりコレでしょ。


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野沢村の立場

【2009年11月7日(土) 旧日光街道 宇都宮宿→徳次郎宿】
上戸祭から野沢町にかけて続いた杉並木が途切れ、弁天橋で釜川を渡ると野沢村の立場跡である。この立場は宇都宮宿と徳次郎宿の中間に位置し、光明寺の門前に茶屋が軒を連ねて、旅人はもちろんのこと、将軍も光明寺を休息所としてここで足を留めた。立場のすぐ近くには静桜という桜があり、これは静御前が奥州に落ち延びた源義経を追う途中に義経の討死を知り、その死を弔うためにここ野沢の地に1本の桜を植えたことに由来するという。静桜は八重と一重が交じったような花を見せる珍しいものだという。満開の時期に再訪したい。


野沢町の杉並木
野沢町の杉並木。


釜川
釜川を弁天橋で渡る。


野沢村の立場跡
野沢村の立場跡。宇都宮宿と徳次郎宿の中間に位置する立場だったが、現在は往時を偲ばせるようなものは残っていない。近隣に静御前のお手植えと伝わる静桜があり、是非とも拝見しておきたいところだが、紅葉が盛りの季節では…。他日を期す。


光明寺
野沢村立場の中心に位置する光明寺。徳川将軍日光社参の折、休息所として利用された。


野沢町の杉並木
再び並木道を進んで。


大杉屋
ファミリーショップ大杉屋の所で並木道は一旦途切れ、再び並木が道の両脇に戻ると下金井町である。


下金井町の杉並木にて
下金井町の杉並木にて。杉の合間に根付いた楓が、徐々に色付き始めている。


宇都宮IC入口交差点
宇都宮IC入口交差点で国道119号のバイパス下を潜り抜ける。


下金井バス停
下金井バス停辺りには金井丁場の地名が残っている。大辞林によると、丁場とは長丁場の語源である「宿場と宿場の間の距離」という意味もあるのだが、「馬子や駕籠舁き・人力車夫等のたまり場」という意味もある。金井丁場はおそらく後者にあたるのだろう。


高谷林の一里塚
江戸日本橋から29里目(約114km)にあたる高谷林の一里塚。両塚とも現存する。


徳次郎第二橋
東北自動車道の徳次郎第二橋を潜り抜ければ下徳次郎宿の町並みである。


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徳次郎宿

【2009年11月7日(土) 旧日光街道 徳次郎宿】
徳次郎宿とは…実に興味深い。ガリレオの湯川教授ではないが、宿名が実に面白い。その由来は奈良時代にまで溯り、当時日光で大きな勢力を誇っていた久次郎(くじら)氏の一族が、日光の二荒山神社から御神体を智賀都神社に勧請し、外久次郎氏と称してこの地を領有したことに始まりがあるという。”外久次郎”がいつしか字を変えて”徳次郎”になったと考えるのが自然だが、一説によると戦国時代に宇都宮氏の家臣で新田徳次郎という者がおり、その徳次郎がこの地に城を築いて居城としたことから、徳次郎に地名を改めたともある。しかし、新田徳次郎の説については俄かに信じ難く、土地を開発して自身の名を付ける例はあっても、自分が領有した土地に自身の名を付けるといった話は聞いたことが無いからだ。新田某が地名から名を貰ったと考えるのが妥当だろう。その証拠に徳次郎の読みは”とくじろう”が行政上の正式な読み方だが、古くから”とくじら”と読まれており今でも地元ではそう言うそうである。

徳次郎宿は日光方から上・中・下の三宿から構成され、天保14年(1843年)当時の記録によると、下徳次郎宿の町並み3町12間(約349m)・仮本陣1・仮脇本陣1、中徳次郎宿の町並み2町51間(約311m)・本陣1・脇本陣1、上徳次郎宿は町並み3町14間(約353m)・本陣1・脇本陣2とあり、三宿の総人口653人、総家数168軒、総旅籠数72軒で、各宿に問屋場が1ヶ所ずつ設けられていた。当初は上徳次郎宿のみが人馬の継立てを行っていたが、享保13年(1728年)に中徳次郎村と下徳次郎村が加わって合宿の形態となり、ひと月を3等分して上十日を中徳次郎、中十日を上徳次郎、下十日を下徳次郎と割り当てて人馬継立を務めた。家数に比して旅籠の数が異常に多く、日光街道に依存して生計を立てていたことがうかがえる。


大谷道道標
下徳次郎宿の江戸方入口手前に残る大谷道の道標。大谷寺こと大谷観音(宇都宮市大谷町)へ続く道がここから分岐していたが、現在は廃道となっており、どこをどう辿って大谷観音へ通じていたのかは不明。大谷町は大谷石の産地として知られる。


下徳次郎宿
富屋小学校から約350mの街道沿道が下徳次郎宿であるが、町並みに往時の面影は残っておらず、街道の先に見える本山だけが昔日の風景を残していると言えよう。


中徳次郎宿
国道119号(旧日光街道)と国道293号が交差する徳次郎交差点付近が中徳次郎宿の中心部。本陣や脇本陣が置かれていたが、いずれも場所を特定できず。


田中道道標
徳次郎交差点付近に残る田中道道標。「神社入口道五丁 田中道」と刻まれる。ここから西に進めば、徳次郎六郷の一つだった田中村に鎮座する神明神社に通じていた。


中徳次郎宿
中徳次郎宿の町並み。大谷石で築かれた石蔵が目に留まる。


宇都宮アルプス
徳次郎宿の東側裏手へまわると、本山や飯盛山、高舘山等の標高500M級の山々が連なる眺望を楽しめる。宇都宮アルプスと呼ばれる山々だ。


知賀津神社 知賀津神社の大ケヤキ
外久次郎氏ゆかりの知賀津神社。鳥居裏に立つ2本の大ケヤキは推定樹齢700年という古木。どんな時代の変遷をみてきたのだろうか。


徳次郎六本杉
中徳次郎宿と上徳次郎宿の中間にある徳次郎六本杉。中央分離帯に6本の杉が並んでいるが、近年になって往時を再現すべく植樹されたもので、木はまだまだ若い。


徳次郎の桜並木
桜並木を抜けて上徳次郎宿へ。


大網町入口道標
桜並木の中程に「宇都宮市大網町入口」と刻まれた道標が置かれている。


上徳次郎宿
上徳次郎宿江戸方入口の町並み。元祖徳次郎宿といった宿場町であるが、宿場の面影を探すのも難しい。


木村商店
上徳次郎の木村商店。宿場時代のものではないだろうが、古き良き時代の趣を残す店構えだ。


上徳次郎宿 上徳次郎宿にて
本陣や脇本陣の置かれていた上徳次郎宿の中心部は、街道がカーブしている宿場の北側にあったようだ。民家の庭先に右写真の棟門があり、何らかの宿役人を務めていた家の遺構と思われる。


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海老王子

【2009年11月7日(土) 旧日光街道 徳次郎宿→大沢宿】
徳次郎宿を出るとすぐに石那田一里塚があり、再び桜に楓、ツツジが雑じる並木道を歩くことになる。しかし、次の大沢宿へ向かう道中でマジックアワーを迎え、みるみるうちに周辺の山々は色を失い、街道は徐々に暗闇の中へ閉ざされていく。晩秋のこの時期はさすがに日没も早い。道路灯もほとんどなく歩行困難な状況に陥り、車のヘッドライトを頼りに山口バス停までたどり着いたところで歩行を断念する。この上徳次郎から山口へ至る道中に”海老王子”というバス停があり、ここを歩いているときにその名の面白さから目に留まってはいたのだが、年末に実家でのんびりとテレビを見ていたら、ナニコレ珍百景という番組にこのバス停が登場してビックリしてしまった。そんな経緯で巷では有名なバス停になってしまったようなので、ここで少しだけ紹介しよう。

”海老王子”というバス停は関東バスの宇都宮駅から今市車庫・日光東照宮へ向かう路線にあり、住所でいうと宇都宮市石那田町に存在する。ハンカチ王子やハニカミ王子で騒がれた近年のことだから、エビ王子がテレビで取り上げられることになったのだろう。実は”海老王子”と書いて”えびうち”と読み、この辺りの小字名が”恵美内”と書いてそう読むらしい。それなら普通に”恵美内”とバス停名にすればいいと思うのだが、何故だかバス停名だけが”海老王子”なのである。テレビでは関東バスや地元の方々にその由来を訪ね回っていたが、いずれもその理由はわからないとのこと。推測であるが、東京都の八王子にヒントがあるのではないかと調べてみたら、八王子の地名の由来は「牛頭天王(ごずてんのう)と8人の王子を祀る信仰により、八王子神社が建立されて地域の信仰を集め、地名として定着した」という。海老王子バス停の近くに牛頭天王を祀る石那田八坂神社があり、これはきっと偶然ではないだろう。しかし、何ゆえ”恵美”を”海老”と書き変えたうえに、王子を”うち”と読ませるのか…謎である。


石那田一里塚
徳次郎宿を出てすぐに現れる石那田一里塚。江戸日本橋から30里目(約118km)の一里塚で、北側の塚が現存している。

石那田にて
日が暮れ始めたぞぉー。先を急ぐ。


国道119号・石那田
石那田を行く国道119号。


石那田のリンゴ園にて
石那田のリンゴ園にて。


猪倉街道入口交差点
猪倉街道入口交差点。旧日光街道の国道119号から猪倉街道(猪倉山道)が分岐する。現在、猪倉街道は栃木県道149号小来川文挟石那田線のルートになっており、石那田から猪倉を経て壬生道の鹿沼へ至る道である。


半田りんご園
猪倉街道入口交差点に直売所を出している半田りんご園。日光連山の吹き下ろしの中で育ったりんごは、どんな味わいなんだろうか。


田川大橋 田川
田川に架かる田川大橋。かつては長さ八間(約14.4m)、幅二間半(約4.5m)の橋が架けられ、石灘の大橋と呼ばれていた。田川大橋から500m程下流に二宮尊徳が築いた石那田堰の跡がある。


石那田八坂神社
旧石那田村の鎮守、石那田八坂神社。毎年7月に牛頭天王を神輿に乗せて御仮屋に移す「下遷宮」を行い、厄病除けを願ってから1週間後に御仮屋から本殿に戻す「上遷宮」が行われる。この神事は「天王祭」と呼ばれ、享保年間から続くものだという。4年に一度、仲内地区の猿田彦(天狗)を先導にして、江戸時代末期から明治期にかけて製作された6地区(桑原、六本木、原坪、岡坪、仲根、坊村)の彫刻屋台が繰り出す。


マジックアワーを迎えて
マジックアワーを迎えて。


国道119号・石那田
闇に暮れゆく国道119号を歩き。


海老王子バス停
そして、問題の…というか、話題の海老王子バス停に至る。昭和30年代に設置されたというこのバス停に、どんな由来があるのか…。


山口バス停
海老王子バス停から4つ先にある山口バス停まで辿り着いたところで歩行を断念。大沢宿までは約2kmを残しているが、時間はまだ17時半だというのに辺りは暗闇に包まれてまともに歩ける状態ではない。寒空の下、関東バスの到着を待って宇都宮駅へ戻る。

【旧日光街道 第7日目】踏破距離 約19.9km(宇都宮宿から大沢宿までの距離) 宇都宮宿→徳次郎宿→大沢宿(山口バス停)
日本橋から約132km 日光まで約16km

日光連山が間近に!


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うらない地蔵

【旧日光街道歩き 第8日目】大沢宿→今市宿



【2009年12月20日(日) 旧日光街道 徳次郎宿→大沢宿 道中】
山口バス停の二つ手前、松本バス停から旧日光街道に歩みを戻す。というのは、この松本バス停付近に”うらない地蔵”という一風変わった面白い地蔵があるからだ。”うらない地蔵”は別名を”お願い地蔵”とか”うらない仏”とも呼ばれ、享保15年(1730年)建立の大谷石で造られた石仏である。体の具合が悪い所と石仏の同じ所に赤い布を巻きつけて願を掛けるとご利益があるといい、”お願い地蔵”と呼ばれる所以はここにあるのだろう。そのため、地蔵はミイラ男のように赤い布でぐるぐる巻きになっており、前回の歩き旅で訪れたときは暗闇の中にぼんやりとこの地蔵が見えて少々怖かった。その地蔵前に3個の丸石が置いてあり、願を掛けて選んだ石を持ち上げて軽く感じれば大当たり!その願いが叶うという。3つとも同じような大きさの石であり、持ち比べてみると明らかにその違いがわかるのだが、選んだ石が軽く感じるかどうかは当事者の意識しだいなわけで…。最も軽い石を選らんだら大当たり!とした方がわかりやすいのだが、持ち比べている時点で罰当たりなのかもしれない。


うらない地蔵
さてさて、私も願い事を口ずさんで選んだ石を持ち上げてみる。軽いと思えば軽いかな…。3個の石の重さを確認してみたら最も軽いのを選んでいたように思った。しかし、これはそうあって欲しいと願う自己暗示、つまり気のせいだったのか…。


新渡神社
うらない地蔵から日光方面へ向かうと右手に新渡神社に鎮座している。


上小池一里塚
新渡神社から街道を挟んだ向かいにある上小池一里塚。江戸日本橋から31里目(約122km)の一里塚で、片塚だけが残っている。案内板が無いので注意して歩いていないと気付かない。


国道119号・山口
山口を行く国道119号。正面に冠雪した男体山を望む。


国道119号・山口
ようこそここへ、イッマッイッチ♪


男体山
男体山の雄姿を眺めながら。


山口にて
山口の街道筋にて。


浅間山
山口の街道から北側へ目を向けると、おっぱい…いやいや、ふたこぶラクダのような山を眺望する。左側の山は浅間山と呼ばれるが、おっぱい山…いやいや、ふたこぶ山と呼んだほうがしっくりくるな。


国道119号・山口
ラブホのFEEL前から国道119号は二又に分かれるので、車は左へ、日光街道歩きの人は右へ進もう。


並木寄進碑
大沢の杉並木入口にある並木寄進碑。江戸時代初期に松平正綱(大河内松平家初代)が東照宮に詣でる日光街道・例幣使街道・会津西街道の両側に杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが刻まれている。この碑は並木の起点である神橋の畔と日光・例幣使・会津西街道の日光神領境界に置かれており、そのため境石と呼ばれる。


日光杉並木・大沢町
いよいよ本格的な杉並木の中を歩くことに。


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大沢宿

【2009年12月20日(日) 旧日光街道 大沢宿】
駿河国久能山に葬られていた徳川家康の遺骸が日光へ改葬された元和3年(1617年)、元々あった大沢村の集落に宿場町の体裁を整えさせ、日光街道の第19宿として大沢宿は誕生した。天保14年(1843年)当時の記録によると町並み4町4間(約444m)、人口278人、家数43軒、本陣1、脇本陣1、旅籠41軒とあり、隣の徳次郎宿と同様、宿場規模に比して旅籠の数がやたら多い。旅籠には飯盛女も多く置かれて大いに繁盛した。宿場の北外れ、街道から少し離れた場所に将軍専用の休息所として大沢御殿が設けられていた。この御殿は寛永4年(1627年)に完成したものなのだが、三代将軍徳川家光と四代将軍家綱が何度か使用しただけで、その後は無用の長物となっていたようだ。

清河八郎著の”西遊草”に大沢宿の様子が書かれているので紹介しよう。
「今市につづきたる町並のよき所にて、宿やに遊女などもあり。すべて遠近の在より寄集る都会と見えたり。或茶店にて昼食をくらひけるに、なまづの吸物あり。休達ともにあきれたる不案配とわらひながらいづる時に、いづれも落合たり。」
天保4年(1833年)に飯盛女(遊女)を旅籠に置くことを許可され、以来大沢宿は日光街道を往来する旅人だけではなく、近隣在郷の男供が集まり宿場は賑わったのだろう。清河八郎の文言からもその様子がうかがえる。ちなみに、不案配とは”まずい”という意で、なまづの吸物が笑っちゃうほどまずかったということだ。


大沢宿へ
杉並木を抜け大沢宿へ。


大沢宿
大沢宿江戸方外れの町並み。


手打ちそば みつぎ
大沢宿江戸方入口にある”手打ちそば みつぎ”で昼食を。


王子神社と大イチョウ
大沢宿の鎮守王子神社。創建は鎌倉時代にまで溯ると伝わり、社殿前に樹齢約200年の大イチョウがそびえ立つ。前々の記事で紹介した海老王子と何らかの関係がありそう。


竜蔵寺と六尺藤
大沢宿から東外れの高台にある竜蔵寺。元々は宿内(現 大沢小学校辺り)にあったが明治初期に現在地へ移った。境内には見事な枝ぶりの六尺藤があり、市指定天然記念物となっている。


大沢宿
大沢宿は度重なる大火に遭い、現在は往時の面影を残していない。


大沢宿
大沢宿日光方外れの町並み。宿場を抜けると再び杉並木の道へ。


八坂神社
杉並木の中に小ぢんまりと鎮座する八坂神社。


四本杉
四本杉。倒木を防ぐための植樹法。


大室入口交差点
大室入口交差点から街道を右斜め方向に離れる道は大沢御殿へと続き、この道を300m程行くと大沢御殿があった。


大沢御殿跡
写真に見える”御殿開田之碑”が大沢御殿跡の目印。この御殿は三代将軍家光の時に大沢の稲荷山を切り崩して造営され、寛永4年(1627年)から寛永17年(1640年)にかけて将軍社参の際に、装束を改める衣帯所として利用された。しかし、四代将軍家綱の時に大沢御殿に代わって竜蔵寺が使用されるようになり、御役御免となった御殿は自然消滅したのだろう。現在は御殿の痕跡らしき土塁が残っている。


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水無村

【2009年12月20日(日) 旧日光街道 大沢宿→今市宿 道中】
大沢宿を出てから1kmちょっと杉並木の街道を西進すると、旧水無村の集落に入る。水無の名は日光市の一地区となって受け継がれており、少々その地名の由来が気になるところ。調べてみると「水利が悪い畑地であった」とか、「清兵衛という名主宅に古木の梨樹があり、水分の多く含んだ甘い梨がなったことから”水梨”と呼ばれ村名となった」という二説があるようだ。しかし、水利の悪い場所でそんな水梨ができるとも思えず、”水梨”をわざわざ”水無”と書き変えるとも思えない。推測であるが、水利が悪い(水が無い)ように見える土地だが、実は豊富な地下水があって肥沃な土地だったということではないだろうか。水は無くとも果樹は良く育つ、不思議な土地じゃのう…といったところかな。


大沢の杉並木
大沢宿から国道119号を歩いて杉並木の中へ。


水無一里塚と日光連山
大沢宿と水無村の間、杉並木の外側に両塚を残す水無一里塚。江戸日本橋から32里目(約126km)の一里塚。


日光連山と杉並木
大室入口交差点から水無にかけての街道は歩道が狭く、杉並木の外側を歩いて西進する。日光連山を眺めながら。


水無の延命地蔵尊
旧水無村の江戸方入口にある延命地蔵尊。


旧水無村 旧水無村
旧水無村の町並み。杉並木の途切れた街道(国道119号)の両側に店や民家が軒を連ねている。


旧水無村
再び杉並木の街道へ。


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森友村

【2009年12月20日(日) 旧日光街道 大沢宿→今市宿 道中】
大沢宿と今市宿の中間に位置する森友村。水無村から日光方面へ約2km先、杉並木が途切れた街道沿いに森友村は位置し、立場茶屋が置かれていた。村名の由来は源義経の家臣に森高哉という者がおり、文治年間(1185年~1189年)その森高哉が仲間と共にこの地を開墾し、かけがえのない友を作ったことから森友村と呼ばれるようになったという。

森友村から日光にかけての街道は、戊辰戦争時に宇都宮方面から会津へ退く旧幕府軍と、それを追撃する新政府軍の攻防の場となり、森友村の名主が旧幕府軍への兵糧提供や新政府軍の動きを通謀したという嫌疑を掛けられ、新政府軍によって斬首されたらしい。おそらく旧恩に報いたい幕府贔屓の人だったのだろう。明治維新の犠牲者は多くの草莽の志士だけでなく、こんな小さな村の庶民にも及んでいたことをつくづく思う。


森友の杉並木にて
森友の杉並木にて。水無を出て間もなく、杉並木の中に写真の看板が目に留まる。アリスのたまて箱にパンドラ…、日光神領の中に入ってもやっぱりあるのね、ラブホは…。


森友の杉並木
水無からは車が走るための杉並木であり、歩行者は並木の外側を歩く。


森友の杉並木
水無から約600m程西進すると杉並木から車道が離れ、往時のように杉並木の真ん中を堂々と歩ける。道の横を流れる水路の音が心地よい。


森友村
杉並木を抜け旧森友村へ。


国道119号・下森友
立場だった森友村であるが、町並みに往時の様子を感じることはない。


古民家酒房 菜音
森友の街道沿いに”古民家酒房 菜音”という料理屋があった。古民家を利用したのか、それとも模したのか、いずれにしても良い雰囲気のお店です。


来迎寺 来迎寺の石仏群
永正14年(1517年)の開基と伝わる来迎寺。門前に4体の石仏が並びいずれも片膝を立て右手で頬を支えるポーズだ。同じような石仏を前にどこかで見たよなあ…と考えていたら思い出した。中山道追分宿の泉洞寺で見た半跏思惟(はんかしゆい)の石仏である。ただし、ポーズのとり方が左右逆だったが…。


旧森友村
森友村を出ると、街道は国道と別れて再び杉並木の中へ。


森友の杉並木
荘厳で美しい杉並木の中を歩いて。


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桜杉と並木ホテル

【2009年12月20日(日) 旧日光街道 大沢宿→今市宿 道中】
森友村から今市宿にかけて続く杉並木の中に2つの見所がある。一つは”桜杉”、もう一つは”並木ホテル”である。”桜杉”とは読んで字の如くで、杉の根元の割れ目から山桜が根を張り、今では合体して1本の立派な木と化している。いったい何年かけてこの状態になったのか…、一見の価値がある珍しいものだ。そして”並木ホテル”であるが、これはラブホでもビジネスホテルでもなく、1本の杉の愛称である。この杉は七本桜一里塚の塚上に立つ杉の大木なのだが、根元に大人が4人程入れる空洞があることから”並木ホテル”と呼ばれるようになった。きっと昔は雨を凌ぐひと時の場として、或いは一夜の宿とした旅人もいたのではなかろうか。


桜杉
桜と杉のコラボレーションといった様相の桜杉。


森友の杉並木
七本桜一里塚付近の日光街道杉並木。七本桜一里塚は江戸日本橋から33里目(約130km)にあたる一里塚。


並木ホテル
これが七本桜一里塚の塚上にある並木ホテル。根元に大きな空洞がある杉の巨木である。


並木ホテル
並木ホテルの内部から。今や街道を行き交う旅人も無く、並木ホテルは開店休業といったところかな。


今市の杉並木
七本桜一里塚のちょっと先、杉並木の中にある民家。昔はきっと茶屋だったんだろうなあ。


日光連山
杉並木を北へ外れると、日光連山の美しい山並みが眼前に広がる。


今市宿へ
杉並木を抜け今市宿へ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
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2012年7月8日(日)
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【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
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武蔵国千住宿を発ってから…
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【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
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京都三条大橋

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