宇都宮宿 南新町から二荒山神社へ
明けましておめでとうございます。
今年は1月中に日光街道歩きを完結し、
次の歩き旅へ一歩を踏み出す所存です。
その街道の行く先は…。
本年もよろしくお願いします。
【2009年10月25日(日) 旧日光街道 宇都宮宿】
関東有数の名城宇都宮城のお膝元に宿場町を構え、日光街道と奥州街道が分岐する交通の要衝だった宇都宮宿は、その繁栄を約束された立地条件から町は大いに賑わい、日光・奥州道中では千住宿に次ぐ規模を誇った。ここを訪れた清河八郎はその様子を「西遊草」に以下のように記している。
『戸田家の城下にて奥街道第一の繁華にて、人家も殊の外うるわしく、はじめていたるものは、江戸もかくやらんとをもわるる也。素より日光道中にもあり、何事にも不都合あらず』
宇都宮宿は天保14年(1843年)当時の記録によると、人口6457人、家数1219軒、本陣2、脇本陣1、旅籠42軒とあり、江戸にも劣らぬその賑わいぶりは数字からも見て取れる。また、日光道中ではここ宇都宮宿と千住宿に貫目改所が置かれていた。
宇都宮という地名の由来には諸説あるのだが、下野国一の宮、宇都宮二荒山神社の別称宇津宮(宇都宮)大明神に由来があるとも、”一の宮”が転訛したとも、他にも”討つの宮”や”遷しの宮”など、いずれにしても二荒山神社にまつわるものばかりである。そんな宇都宮とは切っても切れない深い関係にある二荒山神社は、現在も市内中心部の高台に威厳を備えて鎮座している。江戸後期の二荒山神社の様子を再び清河八郎の言をかりて紹介する。
『明神は公儀普請にて、石壁高くたたみあげ、経営のうるわしき事、日光に継べし。されどもしら木作にて、却て品よく思わるる也。伝へいふ、王をはかり、遂滅亡に及びし平の将門のからだをまつるとぞ。首は則神田明にまつる也。』


不動前通りを進み東武日光線を潜る。この辺りが宇都宮城下への江戸方入口にあたり、木戸が設置されていた。

蒲生君平勅旌(がもうくんぺいちょくせいひ)碑。蒲生君平の著した書物や行いが明治維新において大きな功績があったとして、明治天皇がその人となりを広く世間に知らしめるようにと勅命し、宇都宮入口の地に建立されたのがこの石碑である。
蒲生君平は高山彦九郎、林子平と共に”寛政の三奇人”と称された儒学者。荒廃した天皇陵を全て調査し、後に”山陵志”を著したことで有名。前方後円墳の名付け親である。


新町の大ケヤキ。推定樹齢800年のこのケヤキは、宇都宮城下への江戸方入口にあたる場所に立っており、旅人の目印となっていた。


新町の台陽寺とその門前に安置されている子安地蔵尊。

西原の熱木(ねぎ)不動尊。初代下野の国司である宇都宮宗円(宇都宮氏の祖)が、奥州征伐の陣中で戦勝祈願のために作った三体の不動尊像のうちの一つを祀っているという。真実ならば今から約950年前の作られたものである。

現在の蓬莱大黒通りに面する一条辺りはかつて歌橋町と呼ばれ、江戸時代には七のつく日に市が立って賑わったという。昔、ここに住んでいた人によって詠まれた歌が万葉集に載ったという伝説から、歌橋の町名が起こったらしい。

西3丁目に鎮座する天満宮(蓬莱菅原神社)。宇都宮城西の守護神。

茅葺き屋根の山門が美しい報恩寺。寛永16年(1639年)の創建と伝わる。戊辰戦争(宇都宮城の戦い)で付近の六道の辻が主戦場となったため、戦火避けがたく本堂は焼失。後に再建された。

旧蓬莱町の町並み。古くから蓬莱観音を祀る御堂があったことから蓬莱町と呼ばれた。

旧蓬莱町と旧茂破町の境に位置する枡形跡。道筋に枡形の形跡が残っている。茂破町は宇都宮城主本多正純によって城下を通る日光街道の付け替えが行われた際、茂を破って道を開き町を造ったことからこの名が付けられたという。

旧挽路町の町並みと材木町通り。挽路町は日光街道の付け替えが行われた際、付近の道を西側へ引いて作ったことから名が付いたという。また、轆轤(ろくろ)を挽く家が多かったとの説も。

現在も町名が残る材木町の町並みと材木町通り。藩の御用材を商う材木問屋が軒を連ねていたことが町名の起こりという。しかしいつの頃からなのか、清水屋や江戸屋等の女郎屋が集まる遊興の地となっていたようだ。

材木町通りを突き当たり、裁判所前交差点を右折すれば日光街道と奥州街道の追分に着く。現在の大通りと清住町通りの分岐点がそれである。この追分の南側に上野本陣が置かれていた。

上野本陣跡に残る大イチョウ。宇都宮宿に2軒あった本陣の遺構はいずれも失われているが、本陣上野家を見守ってきた大イチョウだけがその語り部のように残されている。住宅地や商業地と化した敷地に、窮屈そうにそびえ立っている姿が哀愁を誘う。


宇都宮大明神とも称された宇都宮二荒山神社。もともと宇都宮はこの神社の門前町として発展し、城下町・宿場町へと変貌を遂げてきた。清河八郎は二荒山神社について”平の将門のからだをまつるとぞ”と書いている。しかし、平将門が東国で乱を起こし、藤原秀郷がその討伐に向かう際にここで戦勝祈願したと伝わっており、そんな場所に将門の体を祀るとは到底考えられない。間違いであろう。二荒山神社は武将の尊崇厚く、藤原秀郷をはじめ源頼義・義家父子、源頼朝、徳川家康といったそうそうたる面々が戦勝祈願に訪れている。

最後に宇都宮といえば、やっぱりこれ。宇都宮駅ビルPASEOにある来風にて。

【旧日光街道 第6日目】
踏破距離 約14.3km
石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿
日本橋から約112km
日光まで約36km
いよいよ次は、日光街道歩きのメーンである杉並木の街道を行く!
