今市宿

【2009年12月20日(日) 旧日光街道 今市宿】
日光街道に例幣使街道(壬生通り)と会津西街道(下野街道)が合流し、更に会津西街道に日光北街道が合流する場所に今市宿は位置する。必然的に交通の要衝として宿場は賑わいを見せ、天保14年(1843年)の記録によると、町並み7町21間(約802m)、人口1122人、家数236軒、本陣1、脇本陣1、旅籠21軒とあり、下野国内では城下町の宇都宮宿、小山宿に次いで人口が多い。宿場の成り立ちは東照宮造営後に元々あった今村という村落が宿場町として整備され、近隣周辺から人が移住して市が立つようになり、大いに賑わったことから今市と名を改めたという。余談であるが、日光神領の開拓事業に尽力した晩年の二宮尊徳が、業半ばに病に倒れて息を引き取った地が今市であり、宿内に二宮尊徳を祀る報徳二宮神社が鎮座している。

今市宿


日光街道・例幣使街道の追分
日光街道と例幣使街道の追分。写真右の杉並木が例幣使街道で左の車道が国道119号、更に左の端に見える杉並木が旧日光街道の道筋である。例幣使街道は中山道の倉賀野宿と今市宿を繋ぐ街道で、徳川家康忌日の旧暦4月17日(東照宮例大祭日)に京から東照宮へ幣帛を奉ずる例幣使が通った街道。起点である倉賀野宿の追分に閻魔堂があり、日光街道との合流点に追分地蔵尊がある。閻魔の先に地蔵あり…実に面白い。


追分地蔵尊
高さ約2メートルもある地蔵を安置する追分地蔵尊。この地蔵は大谷川の洪水で流されてきたと伝わり、河原に埋もれていたところに石工がただの石と思ってノミを打ち込んだ。すると石から血が滲み出たといい、地蔵の背にはノミを打った跡が残されている。


今市宿
今市宿は日光方より上町・中町・下町の3町に分かれ、下町辺りに本陣があったとガイド地図には書かれている。写真はその本陣跡付近の今市宿を撮影したもので、街道左手に見える関東つくば銀行と隣の電器店辺りが本陣跡らしい。しかし、日光道中分間延絵図を見ると会津西街道の追分と浄泉寺の間、上町の街道北側に本陣が描かれており、どうも辻褄があわない。その辺の事情をご存知の方はご一報をお願いします。


渡邊佐平商店
天保13年(1842年)創業の造り酒屋、渡邊佐平商店。


今市宿にて
報徳二宮神社の参道にて。今も駄菓子屋は健在なのだ!


報徳二宮神社
二宮尊徳を祀る報徳二宮神社。安政3年(1856年)今市で死去した二宮尊徳は如来寺で葬儀を行い、当時如来寺の境内だった現在の報徳二宮神社の地に葬られた。


二宮尊徳の墓
報徳二宮神社の境内にある二宮尊徳の墓。埋葬当初、本人の遺言により墓碑は無く、安政5年(1858年)夫人や門人らによって墓碑が建立された。墓の状態は埋葬時のままの状態だという。


今市宿
日光ショッピングプラザ付近の今市宿(中町)の町並み。今市は人通りも少ない静かな町であるが、街道(国道119号)を行き交う車は結構多い。


ショッピングプラザ日光の前にて
ショッピングプラザ日光の前にて。


日野為商店
晃山たまり漬の製造元、日野為商店。日光街道と会津西街道の追分に店を構えている。明治元年(1868年)創業の老舗であり、味のある店の佇まいに思わず足が向かう。大根に蕗、きゅうりのたまり漬を購入。ご飯がすすむ!美味しい漬物だよ。


春日町交差点
日光街道(国道119号)と国道121号が交差する春日町交差点。この交差点辺りから瀧尾神社にかけての街道沿いが上町の町並み。


今市宿にて
夕闇に暮れゆく今市の空。つんと冷えた空気は骨身にこたえるが、澄んだ空気と美しい空の色がそんなことも忘れさせ、しばらく空を眺めていた。そして山影は闇の中へ消えていく。


今市駅前通り
本日の歩き旅を終えてJR今市駅へ向かう。小さな町の今市であるが、駅前通りにはちょっとしたイルミネーションが施され、行き交う人も少ない道を彩っていた。冬場の歩き旅は日も短いうえに寒くて辛いけど、こういったことがあるから結構楽しいもんだ。

JR今市駅
【旧日光街道 第8日目】
踏破距離 約7.3km
大沢宿→今市宿
日本橋から約139km
日光まで約9km

いよいよ次は…、日光東照宮へいざ参らん!




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いざ日光東照宮へ向けて

【旧日光街道歩き 第9日目】今市宿→鉢石宿→日光坊中



【2010年1月10日(日) 旧日光街道 今市宿】
2010年に年も改まった正月休み明けの日曜日。気持ちも一新にして今市宿から日光街道の歩き旅を再開する。さあ、いざ日光東照宮へ向けて!
まずは前回に引き続き、今市宿について紹介しきれなかった如来寺と浄泉寺、瀧尾神社について補足する。如来寺は今市宿の中心部に位置し、二宮尊徳の葬儀が行われた寺ということは前の記事に書いた。江戸初期に三代将軍徳川家光が日光社参の際の宿泊地とするため、境内に御殿を築かせたほどの寺であり、日光分間延絵図を見てみると、江戸期にはかなり広い寺域を有していたことがうかがえる。次に浄泉寺であるが、ここは宿場の西外れに位置しており、家光が死去してその棺が日光へ運ばれる際、御小休所となった寺である。境内に沢蔵司稲荷(そば喰稲荷)があり、今市がそばの町と呼ばれる所以がここにある。瀧尾神社と共に詳細は後述しよう。


如来寺
室町時代中期の創建という如来寺。今市が日光街道の宿場町となる以前、この辺りは今村の集落があったのだが、おそらく如来寺を中心にした門前町の様相だったのだろう。


日光街道と会津西街道の追分 旧会津西街道相之道通りの標柱
日光街道と会津西街道の追分。分岐点に旧会津西街道相之道通りと書かれた標柱が置かれているが、うっかり歩いていると見逃してしまうので要注意。晃山たまり漬の日野為商店前にあたる。


浄泉寺 沢蔵司稲荷(そば喰稲荷)
浄泉寺と沢蔵司稲荷(そば喰稲荷)。二宮尊徳の子、弥太郎が文久2年(1863年)金12両を寄進し、元金を地元住民に貸与して、一割の利子の三分を浄泉寺祈料や諸雑費に当て、残りの七分を複利計算をもって稲荷の維持管理に当てる仕法を発案した。この仕法様式は大正年間まで継続し、現在は市指定文化財となっている。そば喰稲荷との別称で呼ばれるのは、弥太郎の娘に夜泣きする子がおり、稲荷にそばを献上して祈願したところ治ったことに由来があるらしい。


沢蔵司稲荷の石仏
沢蔵司稲荷の前にある石仏群。森友の来迎寺でも見た石仏と同じく半跏思惟の像である。しかし、目の周りが…何があったんだろう。ちょっとしたミステリーである。


瀧尾神社
今市宿の日光方入口に鎮座する瀧尾神社。今市の総鎮守。参道に風車が立ち並び、それぞれに短冊を付けて様々な願いが込められている。


今市の杉並木
瀧尾神社の参道前から杉並木の中へ入り、今市宿の町並みは終わり。かつては参道前に木戸が設置され、高札場が置かれていた。


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瀬川村

【2010年1月10日(日) 旧日光街道 今市宿→鉢石宿 道中】
今市宿を出て杉並木の街道を進むと間もなく瀬川一里塚に至り、そのすぐ先から杉並木が途切れて旧瀬川村の集落に入って行く。この一里塚の裏手辺りに旧南小倉村名主の旧宅である江連家住宅が移築保存され、土間の部分が土産物売場に、居住部分の座敷や茶の間が一般公開されており、当時の名主や農民の暮らしぶりを知る貴重な資料となっている。日光街道歩きの際は是非とも立ち寄ってほしい。


瀬川の杉並木
今市宿から旧瀬川村の道中に立ち並ぶ杉並木。


高龗(たかお)神社
杉並木の中に鎮座する高龗(たかお)神社。神護景雲元年(767年)の創建と伝わり、瀬川村の鎮守だった。


瀬川の杉並木
杉並木を散策しながら。


瀬川一里塚
瀬川一里塚を行く街道。日光道中最後の一里塚となる瀬川一里塚は、江戸日本橋から34里目(約134km)にあたり、両塚が現存する。


江連家住宅
瀬川一里塚の裏手、杉並木公園内にある江連家住宅。木造茅葺屋根平屋建の名主屋敷で、天保元年(1830年)の建築。


江連家住宅板の間
名主や農民の生活を今に伝える江連家住宅・板の間。


報徳仕法農家
二宮尊徳による日光神領の農村復興の一環として、慶応元年(1865年)に建てられた報徳仕法農家の復元建築物。江連家住宅のすぐ近くにあるが、元々は轟村(現 日光市轟)に建てられた農家で、内部は馬屋・土間・囲炉裏付き居間・納戸・座敷2間などが配され、当時の農家住宅の模範となっていた。この報徳仕法農家は現在”報徳庵”という手打ち蕎麦・うどんを提供する店となって利用されている。


瀬川村 大日如来
旧瀬川村の家並みと、村人が信仰した大日如来を安置する大日堂。


瀬川の七本杉伐痕
瀬川の七本杉伐痕。7本の杉の根幹が一株となった珍しい大木だったが、明治35年(1902年)の大暴風雨で1本が倒れ、後に残りの杉も倒木や枯死し、昭和期になって危険木として伐り倒された。現在は切り株によって往時の様子を想像するしかない。


鈴木彫刻工芸
瀬川の街道沿いにある鈴木彫刻工芸。日光彫の工房。


瀬川の杉並木
旧瀬川村の集落を出でて次の旧野口村へ。


砲弾打込杉
旧瀬川村と旧野口村の間にある砲弾打込杉。この辺りは戊辰戦争の際、日光に拠る旧幕府軍と新政府軍の前哨戦があり、新政府軍の放った砲弾が杉の幹に当たり破裂した。その破裂痕が残っていることから砲弾打込杉と呼ばれる。写真の左に立つ杉の幹に凹みが確認でき、おそらくこれが砲弾の破裂痕と思われる。


十文字の旧幕府軍陣地跡
砲弾打込杉から日光方面へ約500m先、瀬川と野口の境界付近に十文字という小字名が残っている。カーブする街道と小径が交差するこの辺りに、旧幕府軍の大鳥圭介が土手上に陣を張って新政府軍と対峙したが、新政府軍の砲火凄まじく、やむなく日光山へ退却する。翌日、日光山の僧が新政府軍の谷干城に「日光は険難の地ゆえ、戦となれば多くの犠牲者を出し、神廟東照宮も焼け失せるだろう」と説き、新政府軍総督板垣退助の決断によって休戦となり、日光坊中は戦火から免れた。


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野口村

【2010年1月10日(日) 旧日光街道 今市宿→鉢石宿 道中】
旧瀬川村から約2km続く杉並木の街道を通り抜ければ、旧野口村の集落に至る。前述した瀬川との境界にあたる十文字から生岡神社の参道入口までが野口の地域であり、旧村域もおそらく同じような境界を引いていたのだろう。杉並木以外にこれといった見所は無いのだが、集落内に廃寺となった竜蔵寺跡があり、そこに残された薬師堂の前に石で作られた釣鐘が置かれている。どういった経緯でこんなものが作られたのか、なにゆえ打ち捨てられたようにここに置かれたのか…。ミステリーである。


野口村
旧野口村の集落へ。


野口薬師堂
竜蔵寺跡に残る薬師堂。


野口薬師堂
これが石で作られた謎の釣鐘。かなり古い物だということは見た目から推察がつくが、いったい何の目的で作られたのだろう。


野口の杉並木
野口薬師堂を過ぎると杉並木の中へ。


野口村
杉並木の中に静かな佇まい。


野口村
旧日光街道が国道119号に合流する手前で杉並木が一旦途切れ、合間に民家が軒を連ねる。野口地区の西端にあたり、この先で国道に合流して間もなく七里地区に入る。


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七里村

【2010年1月10日(日) 旧日光街道 今市宿→鉢石宿 道中】
旧七里村は鉢石宿の手前に位置し、麻で編まれた七里頭巾が名物だった。野口から七里にかけての杉並木には、並木太郎や銀杏杉の名木があり、大砲止め杉と呼ばれる伐痕も残されている。明治9年(1876年)明治天皇が東北巡幸の帰途、七里村に立ち寄った折に御小休所となった建物が現存している。


生岡神社参道入口
生岡神社参道入口前を行く日光街道。生岡神社は七里村の総鎮守だった。


並木太郎
並木の中で最大の杉で並木太郎と呼ばれる。周囲5.35m、樹高38mという巨木。


七里の杉並木
七里の杉並木。


銀杏杉
杉の根元が銀杏の葉のように広がっていることから銀杏杉と呼ばれる。根張りの幅が約8mもあるという。


大砲止め杉
大砲止め杉の伐痕。水戸天狗党二百余名が日光参詣との知らせを聞いた日光奉行が、大砲を所持してくるとの疑念から杉を倒して街道を塞ぎ大砲止めとした。


明治天皇七里御小休所跡
明治天皇七里御小休所跡。庭園の中に明治天皇が休憩した建物が残っている。


尾立岩
JR日光線の脇にある尾立岩。その昔、日光山のご神体が宇都宮へ遷るときに蛇の姿となってこの岩の上に乗り、尾を空へ向けて立てたという伝説から尾立岩の名で呼ばれる。


七里の杉並木
杉の合間から見える雪化粧の男体山が美しい。


旧七里村
七里の集落と杉並木。


別邸向日葵
杉並木と抜けると突如として現れる洋風な建物。”別邸向日葵”という洒落た宿泊施設だった。


国道119号・七里信号
世界遺産日光の社寺までもうすぐだぞー!


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日光街道古道 野口~筋違橋

【2010年1月10日(日) 旧日光街道 今市宿→鉢石宿 道中】
七里を抜けると宝殿交差点を経て筋違橋で志渡渕川を渡る。実は野口からここ筋違橋まで歩いてきたルートは日光街道の新道であり、江戸時代初期の古道は野口からほぼ直線に進み、志渡渕川の北側を辿って筋違橋辺りに通じていた(下図参照)。寛文2年(1662年)に大谷川の大洪水が発生し、この日光街道の古道が被害を受けて損壊したため、大谷川から離れた現在のルートに付け替えられた。

日光街道古道01


筋違橋と志渡渕川
筋違橋と志渡渕川。ここで街道と志渡渕川が斜めに交差することから筋違橋と名付けられた。


麻疹(はしか)地蔵
筋違橋の袂に安置される麻疹(はしか)地蔵。橋の下(はしか)を潜り抜ければ麻疹が軽くすむという言い伝えがあり、昔は子供を潜らせる親が多くいたらしい。


宝殿の杉並木
筋違橋を越えると旧道は斜めに左折し、国道を分かれて杉並木の中へ。この辺りが日光街道の古道と新道の合流点で、古道はここで志渡渕川を渡らずに川の北側を辿っていた。


異人石
宝殿の杉並木内にある異人石。明治時代に杉並木を愛した一人の外国人が、石屋に頼んで座りやすく削らせ、毎日ここに座って杉並木を観賞したという。以来、異人石と呼ばれるようになった。


宝殿の杉並木
異人石に座って杉並木を眺めてみた。何となく思いが伝わってくる。故郷を遠く離れて異国で暮らすその外国人は、きっとここに故郷と通じる何かを見つけ、杉並木の中を行き交う日本人と交流を深めたのだろう。


宝殿の杉並木
旧日光街道にJR日光線と国道119号が同じ場所で交差し、ここで杉並木はいったん分断される。


東和町の杉並木
JR日光線を越えたところから東和町に入る。杉並木の小道は間もなく国道119号へ合流する。


相生町の杉並木
国道119号とJR日光駅の駅前通りが交差する相生町交差点。この相生町の杉並木が日光街道最後の杉並木で、付近に鉢石宿江戸方入口となる木戸が置かれていた。


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鉢石宿

【2010年1月10日(日) 旧日光街道 鉢石宿】
天平神護2年(766年)勝道上人によって日光が開山され、輪王寺や二荒山神社が建立されたことに伴い形成された門前町が鉢石宿の原形で、元々この辺りは坂本という地名で呼ばれていた。ここに鉢を伏せたような形状の石英斑岩が地表に露出し、古くから”鉢石(はついし)”と呼んで神聖視されてきた。この石が後々に地名の由来となるわけである。(*注)

元和3年(1617年)日光に東照大権現が鎮座してから17年を経た寛永11年(1634年)9月、三代将軍徳川家光が日光に社参し、1年半後に行われる家康21年忌に向けて神殿の大造営に着手する。現在の豪華絢爛な日光東照宮の原形がこのときに造られ、正保2年(1645年)になって朝廷から宮号が授与されると、東照社から現在の東照宮へと改称される。その前年の正保元年(1644年)日光道中最終の宿駅として整備されたのが鉢石宿であり、鉢石という地名はこの時に生まれた。

日光街道の第21宿となる鉢石宿は、天保14年(1843年)当時の記録によると町並み5町余(約550m)、人口985人、家数227軒、本陣2、脇本陣無し、旅籠19軒とあり、脇本陣が置かれずに本陣が2軒置かれていたところが珍しく、両本陣は入江家、高野家が務めていた。推測だが日光を参詣する諸大名や幕府重職の宿泊が重なることが多く、同格の本陣を2軒置く必要があったのだろう。現在の鉢石宿辺りは神橋から東武日光駅にかけて町並みが続くが、上鉢石町・中鉢石町・下鉢石町・御幸町が旧宿場町である。

(*注)勝道上人が托鉢の際、鉄鉢をこの石の上に置いて休んだという説もあり。


東武日光駅前
東武日光駅前を過ぎて、いよいよ門前町の中へ。


御幸町
御幸町を行く日光街道(国道119号)。


魚要(入江本陣跡)
御幸町の西外れにある”魚要”という蕎麦屋がかつての入江本陣跡。


下鉢石町
日光連山が間近に迫る下鉢石町の町並み。


鉢石宿・高野本陣跡付近
高野本陣跡付近の町並み。写真右手に見える”ゆば屋 さん・フィールド”の隣にある駐車場の敷地が高野本陣の入口で、その奥に往時の土蔵と芭蕉句碑があるらしい。未確認。


中鉢石町
中鉢石町の町並み。今や門前町の匂いがぷんぷんとする観光地である。


鉢石
中鉢石町にある日本生命横の坂道を少し下ると、鉢石宿の地名の由来となった鉢石がある。今も石の周りは注連縄で囲われ、神聖視されていることがうかがえる。


上鉢石町
鉢石宿の西方(日光方)にあたる上鉢石町の町並み。この町並みが尽きた所が大谷川、つまり日光街道の終点、神橋である。いよいよ、ゴールは近い!


鉢石宿眺望
ゴールする前に観音寺へ登り、杉並木と鉢石宿を眺望する。


神橋
そして、ついにぐぉール!横に神橋を眺めながら大谷川を渡る。歩きに歩いた延べ約143kmの道のり、中山道に比べれば多難は無かったが、やはりようやく辿り着いた後に見る神橋は何かが違う。その理由がわからないまま、しばらく神橋の下を流れる大谷川を眺めていた…。


神橋
山口県の錦帯橋、山梨の猿橋と併せて日本三奇橋の一つに数えらる神橋。日光坊中へ入る表玄関として、寛永13年(1636年)徳川家康の21年忌に合せて現在のような朱塗りの美しい橋に架け替えられた。日光街道から大谷川を渡河する地点に築かれた神橋は、将軍や例弊使、修験者しか通行を許されず、一般の通行は神橋より下流にある仮橋(現 日光橋)を渡った。今ではお金を払えば誰でも渡れるんだけどね…。

いよいよ次は、日光街道歩き旅のフィナーレとなる日光東照宮へ。


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日光東照宮っ!

【2010年1月10日(日) 旧日光街道 日光坊中】
今や世界遺産に登録された日光の社寺。折に触れて記事に書いてきたし、様々なメディアで紹介されており、ここで詳細を書くのも野暮ってもんだろう。ここは度々記事に登場させて頂いた清河八郎の文言を借りて、日光を語ることにしよう。

『日光山は勝道上人の開基にて、男体山を深院といたし、三社の明神あり。中興弘法の改修あり。夫より南光坊天海大僧正、東照大神君の尊骸を駿州久能山より此所に遷し奉りてより、神廟相起り、万代不易の霊場と相成。

後の方は信州、越後、上州及び陸奥、会津領迄相つづき、深山幽谷峨々層々とじて人跡通じがたく、前は湖水より流れ落る大谷川といふ大難水をひかへ、北にも同じく澗水を帯び、御宮の橋を切落すときは、飛鳥ならで相越べからず。

さらばとて狭隘の地にもあらず。処々に平原多く、会津領迄は五万石の兵量地をたくわへあるとぞ。故にたて籠る時は、暫らくの防禦に苦しむべからず。如何さま国家祖宗の尊体を安置せるほどの天下無双要害の地といべし。殊に天下の金財重宝尽く相会納せる所故、姦雄の由井党なども第一に目を此所に属せしなり。御当代のあらん程は、天下誰人か指さすべき。

嗚呼、自古して万世天下を領せる例もあらざれば、千載の後は計りしるべからず。唯当世の威光を仰見するには、当山の荘厳を一覧してはじめてしるべし。古より明智の主は死後の事をいましめ、一向に美麗を制する漢の孝文皇帝などもあれども、一体天下を安治するには威武第一のものにて、威武をあらわすには、人目を驚かす壮麗にあらざれば、世人仰伏せざるもの故、日光なども天下の金財をきわめ、美を尽したものなるべし。是自ら天下を治るの一術、徒にうつくしきを好むにあらざるもの也。

東叡山宮様の御門主にして、宿坊 凡 百六ヶ寺あり。其国々のもの各其寺にいたる也。宮様は毎年四月、九月両度の御祭礼の時、御成あるとぞ。平生は大僧都のあづかりなり。日光奉行両人、交代相勤め、外に八王寺千人同心の警衛あり。』

長文の紹介となってしまったが、清河八郎が見て感じた日光の様子がひしひしと伝わってきて、実に興味深い。この後にも日光山内を見て回った様子が書かれおり、更に続きを読んでみたい方は、岩波文庫より清河八郎著・小山松勝一郎校注の「西遊草」が出版されているので、購入する等して読んでみることをお勧めする。


杉並木寄進碑
日光橋の西詰、日光坊中の入口に建てられている杉並木寄進碑。”うらない地蔵”の記事で紹介した日光街道の日光神領境界にあるのと同じもの。


輪王寺三仏堂
輪王寺の大本堂である三仏堂。日光三山の本地仏である千手観音(男体山)・阿弥陀如来(女峰山)・馬頭観音(太郎山)の三仏を祀っている。


輪王寺黒門
輪王寺の表門である黒門。


二荒山神社
日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)。こちらは本地垂迹説により日光三山の三神を祀っている。男体山が大己貴命(おおなむちのみこと)、女峰山が田心姫命(たごりひめのみこと)、太郎山が味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)である。ちなみに二荒山が日光という地名の起源といわれ、二荒を音読みすると”ニコウ”になり、これに日光の字を当てたらしい。


東照宮表門
日光東照宮表門。旅の最終目的地、東照宮の中へ。


三猿
神厩舎の三猿はあまりにも有名。見ざる、聞かざる、言わざる。


陽明門
日光東照宮といえば必ず写真になるのがこの陽明門。他に類を見ない壮麗な門である。


陽明門と神輿舎
陽明門と神輿舎。日光東照宮は全ての建築物が完璧で美しい。例えるなら江戸時代のディズニーランドといったところかな。


眠り猫
そして、これまた有名な眠り猫。様々な伝説を残す江戸時代初期の名彫物師、左甚五郎の作と伝わる。もしもツアーズを見た知人から聞いた情報なのだが、眠り猫は正面から見ると眠ってるように見えるが、左から見ると獲物を狙っている表情に見えるという。なるほど…ホントかウソかは自分の目で確かめた結論が真実である。


奥宮御宝塔
眠り猫が守る坂下門から更に奥へ石段を上った場所にある奥宮御宝塔。徳川家康が眠っている墓所である。今日の東京の礎である江戸を築いた家康に、その江戸からはるばる歩いてようやく会えたよ。


きしの きしの02
東照宮を後にして、その表門付近にある”きしの”という土産物屋兼食事処といった便利な店で休憩。ここでお汁粉を頂く。疲れていたせいもあるだろうが、お世辞抜きに美味かった。


板垣退助像
日光街道歩き旅の最後は、日光を戊辰戦争の戦火から救った板垣退助像で。

Nakaさん、ピンピンシニアさん、nanaさん、ビール党さん、シェイドさん、宇田川さん、つもみさん、ビア・ヘーロ さん、kenさん、ドラゴンさん、ふみっくまさん、ヨヨ子さん、じゅげむさん、伝左衛門さん、ドテレンジャーの皆様方、washiroさん、せきねさん、ヤフテンダーさん、inata3さん(順不同)

応援のコメントや色々な情報を提供頂き、本当に有難うございました。

【旧日光街道 第9日目】踏破距離 約8.5km 今市宿→鉢石宿→日光坊中
日本橋から約148km、ついにゴール!


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日光街道を歩き終えて

中山道に比べて距離が短くアップダウンも少ない日光街道は、少々車の雑音が気にはなるが、広い国道や杉並木の歩道を歩け、街道歩きの初心者には安全で快適なウォーキングコースといえる。しかも交通の便が良く、首都圏から近いこともあり、街道周辺の自治体が協力して旧街道の道筋や史跡の整備、イベント等を企画すれば、もっとウォーキングを楽しむ人が増えるだろう。しかし、中山道の妻籠宿や奈良井宿、会津西街道の大内宿など、かつての宿場町が観光地として現在も賑わっているが、残念ながら日光街道の旧宿場町にはそういったポイントが無い。かつては五街道の一つだったというのに残念なことである。

私見であるが、その候補地が二つある。一つは利根川の渡河地点にあった栗橋宿、もう一つは鉢石宿と今市宿間の杉並木である。栗橋宿は源義経の愛妾静御前の伝説を残し、また江戸の防衛上の要所だった栗橋関所が置かれ、かつての町並みと関所を復元できれば、対岸の中田宿から古河宿にかけての中田松原に松並木を復元しようと植樹されていることから、旧日光街道のウォーキングコースとしては、絶好のロケーションとなる。渡し舟があれば尚更だ。そして鉢石宿と今市宿間の杉並木。この区間は一部に石畳等が施されているが、今市から日光まで歩いて行こうと思うと、途中に国道と重なっている部分があり、車の喧騒の中を危険を伴いながら歩かねばならない。せっかく見事な杉並木が生き残っているのにだ。この区間の旧街道は思い切って歩行者専用の道としてしまった方が良いだろう。そうすれば、今市から杉並木を歩いて日光を訪ねようという観光客も増えるはずである。

勝手なことを書き綴ってしまったが、街道をウォーキングコースとして売り出そうと思ったら、所詮、点と点に観光地や名所を作っても駄目で、それを結ぶ線が重要なのである。今の時代、メタボ対策や健康志向の増加で、ウォーキングが注目を集めはじめている。ちょっとした遊歩道や散策コースは全国各地いくらでもあるが、周辺自治体が協力し、旧街道をコースとして本気で整備できたなら、他に例が無くきっと注目を集めることができるだろう。それは名所・観光地を点ではなく、線で捉えるからである。そして、各宿場を巡るスタンプラリーならぬ、手形ラリーを道中にクイズやキーワード等をまじえながら、一興をひねってイベントとして開催すれば、子供も興味を持ち、文化や歴史の勉強ともなろう。日本には街道と宿場町というすばらしい文化があったのだから、これを利用しない手は無いと思うのだが…。

さてさて、私の意見を長く述べすぎたので話を全く変える。幸手宿について一つ補足があるので、ここで書かせていただく。幸手宿の記事に紹介した幸手駅入口交差点付近にある商家風の古建築のことだ。記事内では取り壊しを心配する内容を書いたが、これに対してinata3さんやヤフテンダーさんからメールを頂戴し、この古建築は”岸本家住宅主屋”という名称で、昨年9月に国の登録有形文化財になったことを教えて頂いた。本当に有難い。せっかくなので、最後に少しだけ岸本家住宅主屋について紹介しよう。岸本家住宅主屋は江戸時代末期の建築と推測される土蔵造二階造りの旧商家。かつて岸本家は醤油醸造業を営んでおり、この主屋は住居兼醤油販売店として使われた。往時の幸手宿を今に伝える数少ない語り部である。

それでは、最後まで私の稚拙な記事に付き合って下さり、有難うございました。次は水戸街道で会いましょう。


【 日光街道 旅の記録 】

1日目(2009/5/2) 日本橋→千住宿→草加宿 MAP

2日目(2009/5/3) 草加宿→越ヶ谷宿→粕壁宿→杉戸宿 MAP

3日目(2009/7/25) 杉戸宿→幸手宿→栗橋宿→中田宿→古河宿 MAP

4日目(2009/8/22) 古河宿→野木宿→間々田宿→小山宿 MAP

5日目(2009/10/4) 小山宿→新田宿→小金井宿→石橋宿 MAP

6日目(2009/10/25) 石橋宿→雀宮宿→宇都宮宿 MAP

7日目(2009/11/7) 宇都宮宿→徳次郎宿→大沢宿 MAP

8日目(2009/12/20) 大沢宿→今市宿 MAP

9日目(2010/1/10) 今市宿→鉢石宿→日光坊中 MAP


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水戸街道っ!

水戸街道

現在は国道6号の別称となっている水戸街道。私の住む柏市内で水戸街道と言われれば、やはり国道6号のことを指し、旧街道の道筋は旧水戸と呼び分けている。旧水戸は国道6号を並行する裏道的な存在であるが、柏市街の中心部を縦断しており、非常に交通量の多い道である。2010年の街道歩きの一発目は、そんな身近にある水戸街道を歩こうと決意した。本心としては今市宿から会津西街道を歩いて大内宿を見てみたいと思っているのだが、この冬場に会津の山中を歩くのはさすがに無謀と、まずは水戸街道を踏破しておくのも良かろうといったのが理由である。日光街道と同様、ほぼ平坦な道を行く水戸街道は、自宅からのアクセスも良く、会津の山歩きをする前のウォーミングアップには最適な街道だ。まずは、水戸街道の概要について書いておく。

もともと水戸街道とは江戸時代初期に日光街道の脇街道として整備され、日本橋を起点に江戸と水戸城下を結ぶ街道のことを指す。日本橋から千住宿までは日光街道と共通で、千住宿から日光街道と分かれて次の新宿(現 葛飾区新宿)で佐倉城下へ向かう成田街道(佐倉道)が分岐しており、そのため道中奉行の管轄下にあった千住宿から水戸街道の松戸宿、成田街道(佐倉道)の八幡宿までは水戸佐倉道とも称された。また、更に水戸から北へ先、奥州街道(仙台道)の岩沼宿までは岩城相馬街道が通じており、水戸城下と仙台城下を結んでいたが、明治5年(1872年)水戸街道と岩城相馬街道を総称して、陸前浜街道と改称されている。なお、幕府が定めた江戸と水戸を結ぶ街道の正式名称は水戸道中であり、世間一般には水戸街道や水戸海道と表記されていたが、ここでは水戸街道と書いた方が通りが良いのでこの表記に従うこととし、基本的に水戸街道と書いた場合は江戸時代に整備された旧水戸街道を指す。

水戸街道は日光街道との分岐点である千住宿から新宿・松戸・小金・我孫子・取手・藤代・若柴・牛久・荒川沖・中村・土浦・中貫・稲吉・府中・竹原・片倉・小幡・長岡の各宿場を経て水戸城下に至る延べ距離29里31丁(約117km)の街道。松戸宿の手前に江戸川の渡河地点があり、金町(松戸から対岸)側の渡し場に関所が置かれていた。各宿場には公用の旅行者や荷物の継立のために、原則(道中奉行の管轄である松戸宿まで)として人足25人・馬25疋の常備が義務付けられたが、江戸時代中期頃から街道の往来が盛んになるにつれ、宿場だけでは人足や馬を賄いきれなくなり、宿場周辺の村々に助郷役が賦課されることになる。助郷については以前の記事「野木宿」に書いたので参照してほしい。ちなみに継立業務の人馬数は東海道が人足100人・馬100疋、中山道が50人・50疋、日光街道は水戸街道と同数である人足25人・馬25疋の常備が各宿場に義務付けられていた。


千住宿
2010年2月、再び千住宿の地に立つ。天下の副将軍、水戸のご老公の御前へ、いざ参らん!


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槍掛けの松

【水戸街道歩き 第1日目】千住宿→新宿→松戸宿



【2010年2月7日(日) 水戸街道 千住宿】
本日天気晴朗ナレドモ風強シ。日光街道を踏破して間もない2月初旬、真冬の冷たい風が吹き荒れる中、約9ヶ月ぶりに千住宿に立つ。人通りもまばらな日曜日の朝、北千住駅から旧宿場内を通り、途中で朝飯にと”かどや”で槍かけだんごを購入。団子をリュックに詰め込んで、宿場北外れの日光街道と水戸街道の追分(分岐点)へ向かう。強い風が吹いているおかげで、都会の淀んだ空気が吹き飛ばされたのだろう、静かな東京の下町に流れる冷たい空気は澄んでおり、空を見上げれば天にまで届きそうな深い青空が広がっている。幸先の良い好天だ。

千住4丁目の追分から日光街道と別れて、水戸街道の第一歩を踏みしめる。千住4丁目と5丁目の境界となっている小径を進むと間もなくJR常磐線と東京メトロ千代田線のガード下を潜り、更に約100m先で東武伊勢崎線のガード下を潜り抜ける。このガードとガードの間に窮屈そうに清亮寺がある。清亮寺は元和5年(1619年)創建の追分から水戸街道を歩いて最初に目にする寺院で、かつては門前に枝が街道にまで達する見事な松の名木があり、”槍掛けの松”と呼ばれていた。そう、槍かけ団子の名の由来になった松のことである。しかし、樹齢350年といわれた”槍掛けの松”は昭和20年頃に枯死して姿を消した。生き残っていれば、水戸街道の面影を存分に伝えてくれる名松だったろうに…、本当に残念でならない。

槍掛けの松の名の由来について少し書こう。江戸時代に水戸街道も他の街道と同様、参勤交代のため大名行列が往来した。大名行列の槍持ちは如何なる理由があろうとも槍を横に倒すことは許されず、そのため街道にまで枝を張り出した
清亮寺門前の松は邪魔だったわけである。当然ながら枝を切ってしまおうとなった時、見事な枝振りの松を見た徳川光圀、つまり水戸の黄門様が枝を切ることを惜しみ、そこで妙案を思いつく。ここで松の枝に槍を立て掛けて休憩とし、出立の時に槍持ちが枝の向こう側に行って槍を取り直せば、槍を倒したことにはならないという論理である。さすがは天下の副将軍、見事な計らいである。以来、槍掛けの松と称され、ここを通行する大名行列は松の枝に槍を立て掛けて休むようになったという。


かどや
千住名物の槍かけだんごを製造販売する”かどや”。朝食用にみたらし2本とあん2本を購入。


日光街道・水戸街道追分 追分道標
旧日光街道の千住4丁目と5丁目の境界になっている交差点が、かつての日光街道と水戸街道の追分。ここに天明元年(1781年)建立の水戸海道と刻まれた追分道標が置かれていたが、現在は「北へ旧日光道中 東へ旧水戸佐倉道」と刻まれた道標に置き換えられている。古い道標は足立区郷土博物館に移されている。


日光街道・水戸街道追分
追分から望む水戸街道の道筋。今となっては名も無い小径と化している。


旧水戸街道 千住4丁目・5丁目
千住4丁目と5丁目の境界を進む旧道から振り返って追分方向を望む。本当にこれがかつての水戸街道なのかと、少々不安になる。


氷川神社
千住4丁目の氷川神社で道中の安全を祈願して。


水戸街道・日ノ出町
JR常磐線と東京メトロ千代田線のガード下を潜り抜け、日ノ出町へ入る。先に見えるガードは東武伊勢崎線。


清亮寺
東武伊勢崎線のガード横に足立たちばな幼稚園と並んで清亮寺がある。本堂は天保4年(1833年)再建の総欅造りという立派なもので、山門に掲げる扁額「久榮山」の書は明治から昭和期にかけて活躍した書家、中村不折の筆によるもの。


槍掛けの松
清亮寺境内にある解説板より。関東大震災以前に撮影された槍掛けの松。水戸街道まで松の枝が張り出していたことが
良くわかる。


槍掛けの松跡
清亮寺門前から上の写真と同じようなアングルで撮影してみた。


旧水戸街道・日ノ出町
日ノ出町から先の水戸街道は荒川の土手に阻まれる。


荒川
荒川土手から小菅方面を望む。対岸に見える大きな建物は東京拘置所。小菅へ向かう水戸街道の旧道は荒川の川底に沈んでしまった。その詳細については次の記事に譲ろう。


槍かけだんご
土手に腰を下ろし、のんびりと荒川の流れを眺めながら朝食。そんなシチュエーションで食べる”槍かけだんご”の美味しいこと!


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失われた水戸街道 荒川

【2010年2月7日(日)水戸街道 千住宿→新宿 道中】
千住宿から小菅にかけての水戸街道は、大正2年(1913年)から開削が始められた荒川(荒川放水路)によって現在は川底に消えてしまった。荒川の河川路となる以前の街道周辺は、弥五郎新田と呼ばれた田園地帯が広がり、古川(古隅田川)という小さな川が流れており、水戸街道には弥五郎橋という木橋が架けられていた。現在は旧道筋にあたる荒川の渡河地点に橋が架かっておらず、荒川上流の千住新橋か下流の掘切橋へ大きく迂回せざるをえない。千住宿から梅田にかけての日光街道旧道も水戸街道と同様、荒川によって分断されており、以前の記事”荒川放水路”に書いているのでご参照を。

水戸街道・荒川周辺


荒川河川敷(区営運動場)にて
千住新橋へ向かう途中、荒川河川敷(区営運動場)にて。ちょうど足立区民駅伝が開催されており、多くのランナーが清々しい汗を流してました。


千住新橋
千住新橋を渡って対岸に。


富士山遠望
荒川土手より富士山を遠望。東京から富士山が見えると、何故か少し得した気分になるんだよね。


スカイツリー遠望
そして富士山から川下の方へ目を向けると、建設中の東京スカイツリーが見えた。今の時点で約300mの高さ、完成すると高さ634mとなるというから、ここから更に倍の高さになるわけだ。既に相当の存在感があり、完成するとどんな新しい東京の風景ができるのだろう。今から完成が楽しみだ。


スカイツリー遠望
荒川土手から東京スカイツリーの遠望をもう1枚。


水戸街道旧道跡
水戸街道の旧道跡に立つ。ちょうど対岸(千住側)の写真中央辺りから手前(小菅側)にかけて水戸街道が続いていた。今となってはここが地続きだったなんて信じられない。


旧水戸街道・小菅
荒川土手から出現する小菅の水戸街道。写真中央、首都高の高架下から向こう側へ続く小径がその旧道である。


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小菅

【2010年2月7日(日)水戸街道 千住宿→新宿 道中】
千住から荒川を越えれば小菅である。現在は東京拘置所があることで有名な小菅であるが、江戸時代中期には将軍鷹狩り用の御休所だった小菅御殿(現 東京拘置所)が置かれ、また、幕末の安政6年(1859年)から慶応3年(1867年)にかけては、鉄銭の鋳造場である小菅銭座(現 西小菅小学校)が設けられていた。

現在の東京拘置所の敷地は、江戸時代初期には関東郡代伊奈氏の下屋敷であり、元文元年(1736年)八代将軍徳川吉宗はその屋敷内に小菅御殿を設け、以来葛西方面の鷹狩り用の将軍御休所として利用した。寛政6年(1794年)御殿が廃止になり、その跡地に飢饉に備えて籾米を貯蔵する小菅籾蔵が設置されたが、安政2年(1855年)の大地震で籾蔵は壊滅。その4年後に籾蔵跡の一角に小菅銭座が設置され、通用銭である寛永通宝の鋳造が始められた。

明治維新を迎えて小菅県の設置により、籾蔵跡地には県庁が置かれるも、明治4年(1871年)廃藩置県により僅か3年足らずで小菅県は廃止となり、東京府南葛飾郡に属することになる。それから県庁の跡地は煉瓦製造所として利用されたが、経緯あって明治11年小菅刑務所の前身となる小菅集治監がここに開設された。昭和20年(1945年)小菅刑務所に拘置所を併設し、更に昭和45年(1970年)巣鴨から東京拘置所(スガモプリズン)が小菅に移転すると、小菅刑務所から東京拘置所と改称され現在に至るわけだ。


旧水戸街道・小菅
小菅を行く水戸街道。何となく旧街道の雰囲気が漂う。


松原通り
水戸街道から小菅御殿へ向かう御成道だった松原通り。道の両脇に松が植えられていたので松原通りと呼ばれていたようだが、現在は東京拘置所の官舎へ突き当たる。車がほとんど通らないにも関わらず不自然に幅の広い道となっており、両脇の松が全て切り倒された果ての結果だと思われる。


旧水戸街道・小菅
松原通りから水戸橋にかけての水戸街道。


水戸橋
綾瀬川に架かる水戸橋は今も太鼓橋の姿を残し、ここが昔の街道だったことを実感させる趣のある橋。橋名の水戸橋にふさわしい姿形の橋だと思うのだが、残念なことに近いうちに架け替えられてしまうらしい。


水戸橋完成予想図
これが水戸橋の完成予想図。可もなく不可もない小ぎれいな橋ではあるが、勝手な言い分としては全く魅力を感じない。ここが先人たちが築き歩いた歴史ある水戸街道の橋だということが微塵も感じられないからである。


水戸橋
名残惜しく振り返って水戸橋を望む。


古隅田川
小菅に残る古隅田川の水路。かつては荒川と中川間の水戸街道北側を並行して古隅田川が流れていた。古隅田川は古の利根川河道にあたり、現在は廃川となって大部分が暗渠と化しているが、一部に水路を残している。荒川と中川に挟まれた綾瀬・亀有辺りの地図を見てほしい。足立区と葛飾区の境界がくねくねと蛇行していることに気付くと思うが、この区境が古隅田川の河道跡である。


蓮昌寺
小菅4丁目の水戸街道沿いにある蓮昌寺。 鎌倉時代末期、正安2年(1300年)の開基と伝わる古刹。


旧水戸街道・小菅三丁目交差点
小菅三丁目交差点付近の水戸街道。


昌栄稲荷神社 隋喜稲荷神社
小菅三丁目交差点を挟んで向かい合う昌栄稲荷神社と隋喜稲荷神社。何ゆえ、同じお稲荷様を祀る神社が向かい合っているのか不思議であるが、理由はわからない。


旧水戸街道・小菅三丁目交差点
隋喜稲荷神社から昌栄稲荷神社を望む。この間に水戸街道が通っており、何らかの信仰によって二つの稲荷社が向かい合って配置されたのだろう。ちょっとしたパワースポットを感じる場所である。


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亀有

【2010年2月7日(日)水戸街道 千住宿→新宿 道中】
”こち亀”ですっかり全国的な知名度を得た亀有。JR亀有駅の南北それぞれの入口前に両津勘吉像が設置され、ちょっとした観光名所となっている。と、余談はこれくらいにして話を街道歩きに戻して小菅から亀有へ向かおう。水戸街道は小菅三丁目交差点から堀切8丁目、西亀有2丁目・3丁目、亀有4丁目内を通り、亀有1丁目・2丁目と3丁目の境界を進んで中川に至る。中川を越えれば新宿であり、現在は渡河地点に中川橋が架けられているが、江戸時代には”新宿の渡し”と呼ばれる渡船場が設けられていた。

また、亀有には明暦の大火後(1657年)に開削された亀有上水(本所上水・小梅上水とも)が流れ、瓦曽根溜井(現 埼玉県越谷市)を水源にして本所・深川方面へ飲料水を供給してきたが、享保7年(1722年)に亀有上水が廃止になると、亀有村から篠原村(現 東京都葛飾区)間の水路を利用して、サッパコ(小舟に長い綱を繋ぎ、人足が土手上から綱を引いて動かす客船)が往来するようになり、帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した。以来”曳舟川”と呼ばれるようになり、江戸東郊の風物として人気を呼んだ。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」に往時の姿を見ることができる。


旧水戸街道・堀切
堀切8丁目を行く水戸街道。左斜めに進む道が亀有へ向かう旧道の道筋。


旧水戸街道・西亀有 水戸街道・西亀有
水戸街道は西亀有2丁目に入ると北東方向へ進んで常磐線に接し、すぐに南東方向へ曲がる。右の写真が常磐線と並行する水戸街道で、昔は常磐線のガード下付近に古隅田川が流れていた。


旧水戸街道・西亀有3丁目交差点
西亀有3丁目交差点で都道467号(千住新宿町線)に合流し亀有の中心部へ。


曳舟川親水公園
亀有4丁目と1丁目の境界が亀有上水、つまり曳舟川の河道跡で、現在は曳舟川親水公園として整備されている。かつてサッパコが行き交った曳舟川を目に浮かべるには、相当な想像力が必要なほどに変貌を遂げている。


旧水戸街道・亀有一里塚跡
亀有一里塚付近(亀有1丁目)の水戸街道。かつてこの辺りの街道両脇に江戸日本橋から3里目(約12km)を示す一里塚が築かれていた。


亀有一里塚跡
亀有一里塚跡。”一里塚 旧水戸街道”の石碑と解説板、その傍らにやけにリアルな黄門様と助さん・格さんの顔像が置かれている。水戸黄門ゆかりの水戸街道ということで、このモニュメントが作られたのだろう、おそらく…。


そば処花蔵
亀有2丁目の街道沿いにある”そば処 花蔵”で昼食タイム♪


アリオ亀有
水戸街道(都道467号)と環七通りが交差する角にあるアリオ亀有。亀有付近では最大の敷地面積を持つショッピングモールだろう。たまたま、関根麻里のハッピーバレンタインイベントなるものが開催されており、本人のトークショーを見るためにしばらく滞在…。


中川に架かる中川橋
アリオ亀有を過ぎればすぐに中川に至り、川の向こうは新宿である。現在は渡河地点に中川橋が架かっているが、かつては新宿の渡しと呼ばれる渡船場があった。近年まで往時の石畳が残っていたが、橋の架け替え工事等があり撤去されてしまったようだ。


中川橋(2006年撮影)
2006年に撮影した中川橋。手前の川岸に渡し場の遺構である石畳が確認できる。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

Flashカレンダー
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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