今市宿
日光街道に例幣使街道(壬生通り)と会津西街道(下野街道)が合流し、更に会津西街道に日光北街道が合流する場所に今市宿は位置する。必然的に交通の要衝として宿場は賑わいを見せ、天保14年(1843年)の記録によると、町並み7町21間(約802m)、人口1122人、家数236軒、本陣1、脇本陣1、旅籠21軒とあり、下野国内では城下町の宇都宮宿、小山宿に次いで人口が多い。宿場の成り立ちは東照宮造営後に元々あった今村という村落が宿場町として整備され、近隣周辺から人が移住して市が立つようになり、大いに賑わったことから今市と名を改めたという。余談であるが、日光神領の開拓事業に尽力した晩年の二宮尊徳が、業半ばに病に倒れて息を引き取った地が今市であり、宿内に二宮尊徳を祀る報徳二宮神社が鎮座している。


日光街道と例幣使街道の追分。写真右の杉並木が例幣使街道で左の車道が国道119号、更に左の端に見える杉並木が旧日光街道の道筋である。例幣使街道は中山道の倉賀野宿と今市宿を繋ぐ街道で、徳川家康忌日の旧暦4月17日(東照宮例大祭日)に京から東照宮へ幣帛を奉ずる例幣使が通った街道。起点である倉賀野宿の追分に閻魔堂があり、日光街道との合流点に追分地蔵尊がある。閻魔の先に地蔵あり…実に面白い。

高さ約2メートルもある地蔵を安置する追分地蔵尊。この地蔵は大谷川の洪水で流されてきたと伝わり、河原に埋もれていたところに石工がただの石と思ってノミを打ち込んだ。すると石から血が滲み出たといい、地蔵の背にはノミを打った跡が残されている。

今市宿は日光方より上町・中町・下町の3町に分かれ、下町辺りに本陣があったとガイド地図には書かれている。写真はその本陣跡付近の今市宿を撮影したもので、街道左手に見える関東つくば銀行と隣の電器店辺りが本陣跡らしい。しかし、日光道中分間延絵図を見ると会津西街道の追分と浄泉寺の間、上町の街道北側に本陣が描かれており、どうも辻褄があわない。その辺の事情をご存知の方はご一報をお願いします。

天保13年(1842年)創業の造り酒屋、渡邊佐平商店。

報徳二宮神社の参道にて。今も駄菓子屋は健在なのだ!

二宮尊徳を祀る報徳二宮神社。安政3年(1856年)今市で死去した二宮尊徳は如来寺で葬儀を行い、当時如来寺の境内だった現在の報徳二宮神社の地に葬られた。

報徳二宮神社の境内にある二宮尊徳の墓。埋葬当初、本人の遺言により墓碑は無く、安政5年(1858年)夫人や門人らによって墓碑が建立された。墓の状態は埋葬時のままの状態だという。

日光ショッピングプラザ付近の今市宿(中町)の町並み。今市は人通りも少ない静かな町であるが、街道(国道119号)を行き交う車は結構多い。

ショッピングプラザ日光の前にて。

晃山たまり漬の製造元、日野為商店。日光街道と会津西街道の追分に店を構えている。明治元年(1868年)創業の老舗であり、味のある店の佇まいに思わず足が向かう。大根に蕗、きゅうりのたまり漬を購入。ご飯がすすむ!美味しい漬物だよ。

日光街道(国道119号)と国道121号が交差する春日町交差点。この交差点辺りから瀧尾神社にかけての街道沿いが上町の町並み。

夕闇に暮れゆく今市の空。つんと冷えた空気は骨身にこたえるが、澄んだ空気と美しい空の色がそんなことも忘れさせ、しばらく空を眺めていた。そして山影は闇の中へ消えていく。

本日の歩き旅を終えてJR今市駅へ向かう。小さな町の今市であるが、駅前通りにはちょっとしたイルミネーションが施され、行き交う人も少ない道を彩っていた。冬場の歩き旅は日も短いうえに寒くて辛いけど、こういったことがあるから結構楽しいもんだ。

【旧日光街道 第8日目】
踏破距離 約7.3km
大沢宿→今市宿
日本橋から約139km
日光まで約9km
いよいよ次は…、日光東照宮へいざ参らん!
