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新宿

【2010年2月7日(日)水戸街道 新宿】
中川橋を渡れば新宿(にいじゅく)の町並みである。宿場を貫く街道は直角の曲り角が3ヶ所設けられ、今も残る道筋に旧宿場町の雰囲気が感じられるが、沿道に並ぶ建物に往時の面影は残っていない。宿内の北(水戸方)外れで佐倉城下を経て成田山新勝寺へ至る佐倉街道(成田街道)が分岐していた。また、水戸佐倉道分間延絵図を見てみると、宿内に生洲(食用川魚の生け簀と考えられる)と山王池が描かれており、街道はその池を避けるように3ヶ所の曲り角が設けられていたことがわかる。現在は生洲、山王池とも埋め立てられて跡形も無い。

新宿は戦国時代に小田原北条氏の支配下にあった葛西城址から中川を隔てた北側に位置しており、当初は葛西城の町場として整備されたと考えられている。江戸幕府によって水戸佐倉道が整備されると、江戸からの常陸国・下総国への分岐点であり、逆に江戸へ向かうと中川を渡河する”新宿の渡し”が控えていたことから、新宿の町場に問屋場を置き宿場町として整備されたのだろう。天保14年(1843年)当時の記録によると、人口956人、家数174軒、本陣無し、脇本陣無し、旅籠4軒とあり、本陣・脇本陣が置かれず、荷役の人馬継立てを行う問屋場だけが置かれていたことがわかる。

”新宿の渡し”に初めて中川橋が架橋されたのは明治17年(1884年)のことで、当初は通行料を徴収したために”賃取橋”とも呼ばれ、通行料は新宿町と亀有村で7対3で分配しており、新宿町にとっては重要な財源となっていた。そのため常磐線が敷設されるにあたって、新宿町に駅を置いて松戸へ向かうルートが計画されたが、中川橋の通行料が取れなくなるという理由で新宿町の住民から反対され、迂回するルートになったらしい。現代の地図で綾瀬駅と松戸駅間の常磐線を見てみると、亀有駅と金町駅のある辺りで新宿を避けているのがわかる。きっと反対運動が無ければ新宿駅が置かれ、今見る閑散とした姿とは随分と違っていたのだろう。

旧水戸街道・新宿



中川橋を渡って新宿へ
中川橋を渡って新宿へ。


宝蓮寺
新宿の江戸方入口にある宝蓮寺。近年に新宿内をショートカットする新道(都道467号)が敷設されたため、街道から延びていた参道は分断されている。


新宿
新宿・上宿(江戸方)の町並み。新宿は中川を越えてから上宿、中宿と続き、日枝神社付近の曲り角から先が下宿であった。


新宿
新宿・中宿の町並み。写真の突き当たりが中宿と下宿の境で、街道は直角に左折している。中宿の東側沿道に問屋場が置かれていたが、その跡地は特定できない。


西念寺
文安5年(1448年)浄円が草庵を結んだことに由来があるという西念寺。今も昔と変わらず街道から本堂に続く参道が延びている。


新宿
中宿と下宿の境界である曲り角から江戸方を望む。


日枝神社
新宿の鎮守、日枝神社。かつては山王権現とか山王社と呼ばれた。


中屋せんべい 中屋せんべい02
新宿の街道沿いにある中屋せんべい。ポピュラーな醤油味の大判せんべいと唐辛子味のせんべいを購入。以前に紹介した草加煎餅ほどの固さはないものの、ほどよい歯ごたえにしっかりとした味付けは、ビールのお供にしても秀逸なおつまみ。

中屋せんべいの詳細はこちらから↓
中屋せんべいのホームページ

浄心寺 清水巡査部長の墓
新宿下宿にある浄心寺。古くは下寺と呼ばれ両国回向院、小塚原回向院の住職が隠居した寺だという。現代に置き換えれば、名寺住職の天下り先といったところかな。2・26事件で殉職した清水巡査部長の墓がある。


水戸街道・佐倉街道の追分
水戸街道と佐倉街道(成田街道)の追分。写真はその追分から国道6号を挟んで佐倉街道を望んでいる。最近までこの分岐点には安永2年(1773年)建立の「左水戸街道、右なりたちば寺道」と刻まれた石造道標が残されていたが、今は葛飾区郷土と天文の博物館に移されている。道標なんてものは博物館なんぞに展示しても誰も興味なんか持たないと思う。元々置かれていた場所にあってこそ、歴史的な価値があるというものだ。


水戸街道・国分道の追分 帝釈道道標
宿場を抜けて間もなく、新宿4丁目内に水戸街道と国分道の追分がある。ここで水戸街道から分岐する国分道は、柴又帝釈天を経て矢切の渡しで江戸川を渡河する道。そのため分岐点には明治30年(1897年)建立の”帝釈道”と刻まれた道標が残されている。


新宿4丁目の石仏群
水戸街道と国分道の追分にある新宿4丁目の石仏群。「旧水戸街道道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い新宿四丁目二番地先より現在地に移転」と記念碑に刻まれていた。平成10年(1998年)のことである。


浜街道踏切
浜街道踏切で新金貨物線を跨ぐ。踏切名にある浜街道とはこの道の旧名称で、明治5年(1872年)に新しく付けられた水戸街道の別称のこと。ここから200m程行けば金町4丁目へ入る。


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金町

【2010年2月7日(日)水戸街道 新宿→松戸宿 道中】
新宿と松戸宿の中間に位置する旧金町村。かつては農村の畑が広がる地域だったが、現在は駅周辺に商業施設が密集し、国道6号にはひっきりなしに車が往来して騒がしい。水戸街道の江戸川渡河地点に当たり、金町側の渡船場には金町松戸関所が置かれていたが、それも河川敷の中に消失している。

金町は明治末期頃から”金町コカブ”と呼ばれる小かぶが盛んに生産されて千住市場に出荷し、青物の乏しい4月に早取りできることから消費者に重宝されたようだ。現在、全国で生産されている小かぶは”金町コカブ”を改良したもので、市場に出回っている国産の小かぶは、ここ金町が発祥地ということだ。また、金町や水元、新宿辺り一帯は、昭和中期まで千住ネギの産地としても知られていた。今となっては想像し難い話だがね…。

水戸街道・金町松戸関所跡


旧水戸街道・金町5丁目
金町5丁目に残る旧道の道筋。


旧水戸街道・金町5丁目
旧道は間もなく国道6号の大道に合流する。


都道307号・金町
国道6号から都道307号(王子金町江戸川線)に進んで常磐線のガード下を潜り抜ける。


金蓮院 金蓮院のラカンマキ
東金町3丁目にある金蓮院。都道307号と旧道の分岐点から広々とした参道が延びている。天正年間(1504年~1520年)の創建と伝わり、境内に樹齢約400~500年というラカンマキの大木と、宝永7年(1710年)二十六夜待講中の人々によって建立された愛染明王石像がある。


旧水戸街道・金町4丁目
左の道が都道307号(王子金町江戸川線)で右に延びる小径が水戸街道の旧道。旧道に入ってすぐ先に葛西神社が鎮座している。


葛西神社 葛西神社
元暦元年(1184年)下総国香取神宮の御分霊を勧請し、葛西三十三郷の総鎮守として創建された葛西神社。東京都無形文化財に指定される葛西囃子(かさいばやし)の発祥地。


旧水戸街道・東金町6丁目
東金町6丁目に残る旧道の道筋は江戸川土手に遮られ、その先は河川敷に消失する。


江戸川土手
江戸川土手を歩いて。かつての水戸街道はこの河川敷の中を通っていた。


金町関所之記
江戸川の河川敷に消失した金町松戸関所を偲んで建てられた金町関所之記。堤防外の東金町ポンプ場付近にある。


金町松戸関所跡
東金町ポンプ場付近の堤防上から金町松戸関所跡を望む。対岸は松戸宿である。かつて関所のあった一帯は金町御番所町と呼ばれ、4名の関所番が置かれていた。明治2年(1869年)に廃関となり、後の江戸川改修によって河川敷の中に消失して現在はゴルフ練習場になっている。


江戸川
葛飾橋を渡って松戸へ。ここに初めて架橋されたのは明治44年(1911年)のことで、初代は木製の橋だった。


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松戸宿

【2010年2月7日(日)水戸街道 松戸宿】
金町松戸の渡しで江戸川を越えて下総国に入り、川岸から水戸街道第三宿となる松戸宿の町並みの中を行く。一昔の旅人はそんなルートを辿って金町から松戸に至っていた。江戸時代、松戸宿までの水戸街道は道中奉行の支配下に置かれており、松戸宿から先は勘定奉行の支配下に置かれていた。つまり、道中奉行の支配下ということは幕府の意向が強い五街道と同等の直轄地であり、勘定奉行の支配下ということは幕府の意向が強く及ばない委任地だったと考えてよいだろう。何ゆえ松戸宿を境にこのような棲み分けがされていたのかよくわからないが、松戸宿から先の水戸街道は徳川御三家の一つ水戸徳川家の支配力が強かったと見ることができよう。

江戸時代初期、後に水戸徳川家の礎を築く徳川頼房が水戸に君臨してから、江戸と水戸城下を結ぶ街道として整備されたのが水戸街道。それに併せて小さな集落だった松戸村を整備して置かれた宿場が松戸宿である。天保14年(1843年)当時の記録によると、人口1886人、家数436軒、本陣1、脇本陣1、旅籠28軒とあり、渡し場から先が下横町で水戸街道の曲り角から南側が角町、北側に宮前町・三丁目・二丁目・一丁目と続き、江戸時代後期にはかなりの発展を遂げていたことがわかる。利根川の布佐河岸(現 千葉県我孫子市布佐)から江戸川の納屋河岸に魚を運ぶ鮮魚(なま)街道が松戸宿を通り、更に松戸から江戸川を下って江戸深川方面へ人荷を運ぶ水運も大きく発達したことにより、宿場付近の平潟には遊郭(飯盛旅籠の集まった場所)ができて、松戸宿は大いに賑わったようだ。

旧水戸街道・松戸宿


松戸宿入口 「是より御料松戸宿」碑
江戸川畔から松戸宿(下横町)に入る水戸街道。その入口に”是より御料松戸宿”と刻まれた傍示杭が復元され置かれている。


松戸宿本陣跡
”メゾンドール松戸”というマンションの建つ敷地が松戸宿本陣跡。残念ながら平成16年(2004年)に解体されてしまった。江戸時代前期は吉岡家、中期以降は伊藤家が代々本陣を務め、水戸徳川家をはじめとする参勤交代で往来した常陸・奥州国十数家の大名が宿泊した。


松戸神社
寛永3年(1626年)創建の松戸総鎮守、松戸神社。江戸期には御嶽権現と称していたが、明治15年(1882年)に現社名に変更された。


松戸宿
松戸宿南側(旧宮前町)の町並み。宿場の中央を横切る坂川から南側の宿場は、旅籠が多くあった。写真の右手前にある旧商家の建物は相幸酒店(堀切家)で明治末期の建築。


松戸宿
春雨橋南詰の松戸宿町並み。写真右手に見える町山ミシン商会は大正期の典型的な看板建築。その隣の”栄泉堂 岡松”は明治末期の建築で創業90年以上という老舗の和菓子屋。


坂川と春雨橋
宿場の中央を横切る坂川。水戸街道には春雨橋が架かる。松戸宿の町並みは春雨橋を挟んだ両側に旧商家の古い建屋が残り、往時の面影を感じさせる。写真に見える春雨橋袂の福岡家は江戸期から薪や炭を商う旧商家で、隣の”やまだ屋”と共に明治末期の建築である。


宝光院 千葉周作修行之地
松戸宿には南側から圓慶寺、松龍寺、宝光院、善照寺、西蓮寺といった寺が街道沿いに並ぶ。宿場の中心部、宝光院と善照寺の間に、青年期の千葉周作が剣術の手ほどきを受けた浅利又七郎の道場があったという。千葉周作は幕末の剣豪で、北辰一刀流の開祖。ちなみに今、大河ドラマで脚光を浴びる坂本龍馬は北辰一刀流の免許皆伝(皆伝状が現存しておらず真偽は不明)といわれるが、龍馬が師事したのは千葉周作の弟千葉定吉である。


松戸宿
春雨橋から北側の松戸宿(旧二丁目)町並み。近代化の荒波に逆らうが如く、原田家の旧商家が建っている。原田家は元文2年(1737年)創業の商家で幕末から米屋を営んだ。現在も旧商家の向かい側に新店舗を構え、”おこめと笑顔の店 ハラダ”として健在である。


松戸宿
松戸宿(旧一丁目)の町並み。宿内の北外れにあたる。


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納屋河岸跡

【2010年2月7日(日)水戸街道 松戸宿】
松戸宿で本日の歩き旅は終わり。日が落ちて急激に冷え込む中、江戸川河畔の納屋河岸跡まで足を運んでみた。前の記事でも少し触れたが、松戸は水戸街道の宿場町という役割だけでなく、舟運の中継地としての一面もあり、むしろ舟運で発展してきたと言っても過言ではないくらいだ。鉄道輸送が発達する以前は、水運が大量の荷を運ぶ最も効率の良い輸送方法であり、江戸時代初期の河川工事により関宿で利根川から江戸川が分流する今見る流路となって繋がると、両河川は銚子沖で水揚げされた魚を運ぶルートとして利用されてきた。しかし、関宿廻りの航行は輸送距離が長くなり時間がかかるうえ、渇水期には船が航行できない等の理由から、布佐河岸・木下河岸(現 我孫子市布佐)で一旦水揚げし、陸路によるショートカットで江戸川へ輸送するルートが確立された。

当初は木下河岸から白井宿・鎌ヶ谷宿・八幡宿を経て行徳新河岸(現 市川市本行徳)を繋ぐ木下街道のルートが利用されたが、各宿場で荷継ぎをしなければならない煩わしさから、通し馬(荷継ぎをせず同じ馬を使う)で荷を運べる鮮魚(なま)街道、つまり布佐河岸から平塚・藤ヶ谷・金ヶ作を経て松戸の納屋河岸へ至るルートが利用されるようになった。以来、生ものが腐りやすい夏場を除いて、この鮮魚街道が主流の輸送ルートとなり松戸宿の発展に寄与することになる。しかし、明治中期に利根川と江戸川をショートカットする水路の利根運河が開削され、更に明治後期に開発された後の常磐線や総武本線の鉄道網により鮮魚街道は廃れ、歴史という闇の中へ消えていく。


納屋河岸跡
松戸宿から鮮魚街道を歩いて納屋河岸跡へ。


納屋河岸跡
納屋河岸跡の土手上から鮮魚街道を望む。写真左手に見える白壁に黒塗りの板塀が巡る家は納屋河岸の歴史を今に伝える青木家。かつては”源内”という屋号で船問屋を営み、下河岸(水戸街道の渡船場付近)の太兵衛(梨本家)と共に松戸河岸の中心となって舟運の繁栄を支えた。


江戸川
土手上からマジックアワーを迎える江戸川を望む。頬を撫でる川風がやけに冷たい。対岸の遠方には富士山の陰影を望み、左に目を転じると建設中の東京スカイツリーが見えた。松戸からスカイツリーが見えるとは思わなかったので、ちょっとした発見にご満悦。


JR松戸駅
再び鮮魚街道を歩いて松戸市街へ戻り、松戸駅前の吉野家で腹ごしらえをして帰途につく。

【水戸街道歩き 第1日目】踏破距離 約12.8km(千住宿→新宿→松戸宿)
千住宿から約13km 水戸宿まで約101km
終日風は強く吹いていたが好天に恵まれ、水戸街道の第一歩を踏みしめるには幸先の良い日曜日だった。まだまだ水戸は遠いぞー。


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戸定邸

【水戸街道歩き 第2日目】松戸宿→小金宿→呼塚河岸跡



【2010年2月13日(土)水戸街道 松戸宿】
小雪が舞い散る真冬らしい寒さに見舞われた土曜日の朝。”めざましどようび”を見ながら行くべきか、行かざるべきかと随分悩んだが、できるだけの厚着に身を包んでとにかく家を出ることに。行く先はもちろん水戸街道歩きの再開地点である松戸。家を出てから30分程でJR松戸駅に到着し、駅東口前にあるドトールで朝食(レタスドッグとブレンドコーヒー)を済ませる。まずは水戸街道へ歩みを戻す前に戸定が丘歴史公園へ立ち寄ってみた。

松戸市街の東側は台地になっており、その台地南端にあたる場所に戸定が丘歴史公園がある。眼下に江戸川の流れる関東平野、その彼方に富士山も望める名勝地で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の異母弟、徳川昭武(水戸藩最後の藩主)の別邸として、明治17年(1884年)この地に戸定邸は築かれた。明治前期の上流建築を伝える屋敷は国の重要文化財に指定され、有難いことに徳川家の旧居宅で一般公開しているのはこの戸定邸だけである。併設する戸定歴史館では昭武の写真や自身が趣味として撮影した写真、昭武や慶喜ゆかりの品々が展示されている。


戸定邸玄関
戸定邸玄関。


戸定邸客間
賓客をもてなした客間。部屋の周囲に入側が配され、窓越しに美しい庭園を眺める。


戸定邸書斎
客間と対をなす書院。戸定邸の中で最も眺望の良い部屋で、実際には徳川昭武の書斎として利用された。


戸定邸八重ノ間
奥座敷にあたる八重ノ間。昭武の妻、八重が使った部屋。


戸定邸秋庭ノ間
昭武の実母、万里小路睦子(までのこうじちかこ、秋庭と号す)が使った奥座敷の秋庭ノ間(しゅうていのま)。万里小路睦子は水戸藩9代藩主徳川斉昭の側室で、明治17年(1884年)昭武と共にここへ移り住んだ。


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北松戸

【2010年2月13日(土)水戸街道 松戸宿→小金宿 道中】
松戸宿を出た水戸街道は根本・竹ヶ花・南花島を経て上本郷で国道6号に合流し北松戸に入る。更に喧騒の国道を北上して新作・中根を通り抜け馬橋に至るのだが、この松戸と馬橋間には旧街道の面影は残っておらず、これといった見所も無い。しいて言うなら上本郷の台地上に本福寺という吉田松陰が訪れた寺があるのだが、街道から少々離れた場所にあり今回はスルー。ここは軽く流して先へ急ごう。


旧水戸街道・根本交差点
松戸宿を出てすぐ、根本交差点を行く旧水戸街道。かつて根本天満宮付近の街道両脇に一里塚があったというから、この交差点辺りが跡地と推定される。根本の一里塚は江戸日本橋から5里目(約20km)にあたる。


金山神社
根本の東側台地上に鎮座する金山神社。参道は常磐線によって分断されているが、歩道橋が架けられている。中世に築かれた根本城跡の一部と伝わるが、今となってはその本当の歴史を知る由もない。


山長餅菓子店 松戸焼
根本から竹ヶ花に入ってすぐの街道沿いにある山長餅菓子店。道中のエネルギー補給用に松戸焼なる菓子を購入。結局、家に帰るまで食べなかったんだけどね…。


旧水戸街道・竹ヶ花
写真右から常磐線に向かってくる道が水戸街道。ここで街道は常磐線に分断されているが、その分断地点に歩道橋が架けられている。


旧水戸街道・竹ヶ花
竹ヶ花を行く水戸街道。


雷電神社
竹ヶ花の街道東側台地上に鎮座する雷電神社。


旧水戸街道・竹ヶ花交差点
竹ヶ花交差点を越えて南花島に入る。


旧水戸街道・上本郷
上本郷で水戸街道は国道6号に合流。


国道6号・北松戸
車の往来が激しい国道6号を歩いて北松戸へ。


旧水戸街道・北松戸
右の高台上に龍善寺があり、その裾を街道(国道6号)は通り抜ける。そして馬橋へ。


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馬橋

【2010年2月13日(土)水戸街道 松戸宿→小金宿 道中】
馬橋の地名は馬橋という橋に由来がある。旧道の道筋は中根立体入口交差点から国道6号を左に離れて馬橋に入るのだが、その江戸方入口付近を流れる長津川に架かる小さな橋が馬橋と言う。馬橋には鎌倉時代初期の創建と伝わる萬満寺(創建当初は大日寺)があり、また本土寺過去帳にある室町時代の記述に”まはし”の名が見られ、古くから萬満寺の門前町として形成されていたことがうかがえる。

水戸街道・馬橋


中根立体入口交差点
中根立体入口交差点で旧道は国道6号を左斜めに離れる。


馬橋
これが長津川に架かる馬橋。元々は洪水時の対策として鞍型の橋が架けられて馬橋と名付けられたという。


旧水戸街道・馬橋
馬橋を渡り馬橋の町へ入る。なんか、ややこやしいなあ…。


栢日庵立砂の居宅跡
江戸中期の俳諧人、油屋平右衛門こと栢日庵立砂の居宅跡。現在は東京ベイ信用金庫の敷地と化している。栢日庵立砂は小林一茶から爺と慕われ、一茶の良き理解者であり庇護者であった。


旧水戸街道・馬橋
門前町としての面影を感じる馬橋の町並み。正面に見える建物が萬満寺。


萬満寺山門
萬満寺山門。


萬満寺本堂
鎌倉時代初期の建長8年(1256年)、当時の下総国守護職千葉頼胤により鎌倉歴代将軍と千葉家一門の菩提寺として建立された大日寺が萬満寺の所以と伝わる。 室町時代に真言律宗だった大日寺を臨済宗に改宗し、萬満寺として再興したのが当時の鎌倉公方足利氏満。時の将軍足利義満と自身の名にある互いの”満”という字をとって萬満寺としたらしい。


王子神社
萬満寺の隣に鎮座する王子神社。萬満寺の前身、大日寺の創建時に諏訪明神を勧請して寺領の鎮守として祀ったことに起源がある。文明年間(1469年~1487年)に王子権現を分祀し、天文6年(1537年)王子権現社に改称された。


江戸見坂
馬橋の町中を北上した水戸街道は、萬満寺山門前で北西方向へ曲り、国道6号へ向かって上り坂となる。この上り坂がかつて江戸見坂と呼ばれた坂道で、遠く江戸を望める場所だったのだろう。千住宿を発って初めての本格的な坂道である。


馬橋にて
馬橋の旧道筋にて。


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二ツ木の旧道

【2010年2月13日(土)水戸街道 松戸宿→小金宿 道中】
江戸見坂の旧道を上りきった所で国道6号に合流。この合流点である八ヶ崎交差点がかつての水戸街道と印西道の分岐点で、交差点角に「左水戸街道 右印西道」と刻まれた文化3年(1806年)建立の道標が残されている。やっぱり道標はその存在を示す場所にあってこそ価値があるものだと、トラックの轟音で騒々しい国道脇に立つこの道標を見て思うのだ。さてさて、八ヶ崎交差点から国道6号を北上して二ツ木交差点を過ぎると間もなく左手に蘇羽鷹神社が鎮座する。ここで旧道は国道を右に離れて下り道となり、武蔵野線の高架橋を潜り抜けた所で上りに転じて小金宿へと向かう。この蘇羽鷹神社から小金宿入口にあたる北小金駅入口交差点までの約900mは当時の道筋を残しており、蛇行しながら上下する道に旧街道の趣を感じさせる。

水戸街道・二ツ木の旧道


国道6号・八ヶ崎交差点 「水戸街道・印西道」道標
国道6号と江戸見坂の旧道が合流する八ヶ崎交差点。ここはかつての水戸街道と印西道の分岐点で、交差点角に右写真の道標が残されている。


一里塚跡
八ヶ崎の国道6号沿いにある一里塚跡。江戸日本橋から6里目(約24km)にあたる。


国道6号 八ヶ崎・二ツ木
国道6号を北上して。


蘇羽鷹神社前の旧道入口
蘇羽鷹神社前、二ツ木の旧道入口。写真の国道6号を右斜めに分岐する道が旧道。


蘇羽鷹神社
国之常立神(くにのとこたちのかみ)を祀る蘇羽鷹神社。中世に千葉氏によって築かれた馬橋城の鬼門除けとして祀られたことに起源があるらしい。馬橋城は三ヶ月(みこぜ)の地にあったとされるが、昭和期の宅地造成によって破壊され正確な位置がわからなくなっている。


二ツ木の旧道入口に立つ説明標柱 旧水戸街道 八ヶ崎・二ツ木
二ツ木の旧道入口に立つ説明標柱。こういった配慮は有難い。右の写真は武蔵野線の高架下を潜り抜ける旧道。


旧水戸街道・二ツ木
江戸屋酒店の前に延びる旧道。


旧水戸街道・二ツ木
常光院裏手、庚申堂付近の旧道。


北小金駅入口交差点
旧道は北小金駅入口交差点で国道6号と交差する。その先から小金宿の町並みである。


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小金宿

【2010年2月13日(土)水戸街道 小金宿】
小金宿の成り立ちは古く、室町時代後期に築かれた小金城の町場だったことに所以がある。近隣に本土寺や東漸寺といった名高い古刹があり、それ以前から付近に門前町が形成されていたと思われるが、大規模な小金城が築城されるに至って周辺の町家が集められ小金宿の原形ができたのだろう。ここで小金宿の成立に深く関わった小金城について少し書いておく。小金城は別名を大谷口城と言い、天文6年(1537年)千葉氏の家老、原氏の一族である高城胤吉によって築城され、以来高城氏は本拠を根木内城から小金城に移して三代(53年間)に渡り居城とした。入り組んだ谷津の地形と空堀によって巧みに縄張りを施し、東西800m・南北600mにも及ぶ平山城形式の大規模な城郭だった。

寛政元年(1789年)の記録によると小金宿は本陣1・脇本陣1・家数169軒とあり、本来の本陣(大塚家)とは別に小金御殿とも称される水戸藩専用の本陣(日暮家)が置かれた。小金宿から先の水戸街道は勘定奉行支配となるため、継立業務の常備人馬数は8人・8疋と少ない。また、小金宿と次の我孫子宿間の水戸街道は、小金牧(幕府の軍馬放牧場)内を通っており、北は現在の野田市、南は習志野市辺りに及ぶ広大な小金牧の中央部を横断する形になっている。その小金牧を管轄した野馬奉行綿貫氏の役宅が、旧八坂神社(現 北小金サティ)の西に置かれていた。

水戸街道・小金宿


小金宿・永妻家付近
小金宿江戸方入口付近の町並み。写真は一月寺付近から松戸宿方面を望んでいる。かつて”あめや”の屋号で飴の製造販売業を営んだ長妻家(写真の街道左手)がある。


一月寺
鎌倉時代に金先禅師によって創建されたと伝わる一月寺。元々は青梅の鈴法寺と共に関東地方の普化宗諸派の本山で、いわゆる時代劇で馴染み深い虚無僧の拠点といった寺であった。明治4年(1871年)太政官布告によって普化宗は廃止となり一月寺は廃寺となったが、昭和30年代に日蓮正宗に改宗し、更に”いちげつでら”から”いちがつじ”に読みを変えて再興された。


旅籠玉屋
今となっては小金宿で唯一、宿場時代を偲ばせる旅籠玉屋(鈴木家)。東京のベッドタウンと化しているこの北小金の地にあって、千本格子の格子戸を残す元旅籠屋の建物が残っていること自体が奇跡である。小金宿最大の見所と言ってよいだろう。


小金宿本陣跡
代々に渡り小金宿本陣を務めた大塚家。屋号を井筒屋といった。


小金宿
小金宿中心部の町並み。


東漸寺山門 東漸寺本堂
東漸寺は文明13年(1481年)根木内城付近(現 松戸市根木内)に開創され、高城氏が小金城に移ると同時に現在地へ移転した。江戸時代初期に関東十八檀林の一つに数えられた名刹である。ここで特筆したいのは境内にある維新勤皇の志士、竹内廉之助・哲次郎の記念碑だ。

天保9年(1838年)小金宿の商家に生を受けた竹内廉之助とその弟哲次郎は、尊皇攘夷の急先鋒となった水戸天狗党の挙兵に参加。哲次郎は敵対する幕府軍によって負傷し、24歳の若さで自害して最期を遂げるが、廉之助は幕府に捕らわれの身となって土浦に投獄される。後に釈放され謹慎の身となるが、大政奉還によって世の中が大きく動き始めると、後の赤報隊隊長となる相楽総三と運命の出会いを果たして赤報隊に参加する。赤報隊については以前の記事に詳しく書いたので参照してほしいのだが、竹内廉之助とは後の金原忠蔵のことだったのだ。追分戦争で致命傷を負い非業の死を遂げた金原忠蔵が小金宿の出身だったとは…この事実を知った時にはちょっと身震いがしたよ。



北小金駅交差点 水戸道中道標
旧道は北小金駅前の交差点で右折、直進する道が本土寺への参道だった。交差点角に「右水戸道中 左なかれ山え」と「水戸海道」と刻まれた2基の道標がある。右写真の左手に見える建物が北小金サティで八坂神社の跡地であり、その対面にあるマツキヨは知る人ぞ知るマツキヨの旧本社ビルで、1階の店舗は出店2号目(実際の表記は22号店)であり、現存する最古(初出店の店舗は柏にあったが閉店)のマツキヨである。


本土寺道の道標
北小金駅前の交差点に残る本土寺道の道標。文化5年(1808年)小金町講中により建立されたもの。


本土寺参道と仁王門
本土地へちょっと寄り道。本土寺参道と仁王門。


本土寺本堂
長谷山本土寺は源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝わる地に、当時の領主曽谷教信の支援を得て、日蓮聖人より寺号を授かって開創したと伝わる。池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に”朗門の三長三山”と並び称されるほど往時は威容を誇り、日蓮宗不受不施派の拠点であった。しかし江戸期に入って不受不施派の法難と明治期の廃仏毀釈によって衰退した。現在は往時の山容を取り戻しつつ境内には1万株もの紫陽花が植えられ、”アジサイ寺”として世間に名を知られるようになった。同じく”アジサイ寺”として有名な北鎌倉の明月院に対して”北の鎌倉”とも呼ばれる。


本土寺の菖蒲池
6月頃初旬から中旬にかけて見頃を迎える本土寺の花菖蒲と紫陽花。さすがに時期が早過ぎた…。


小金宿
参道を歩いて再び小金宿へ戻り、小金宿内の水戸方外れへ。意外に見所の多い北小金だった。


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根木内城址

【2010年2月13日(土)水戸街道 小金宿→我孫子宿 道中】
小金宿を出ると水戸街道は根木内城址の台地横をすり抜けて北上する道筋を辿る。前の記事にも少し書いたが、根木内城は高城氏が小金城に本拠を移す前に居城としていた連郭式の縄張りで、小金城を一回り小さくしたような構造だったようだ。築城は寛正3年(1462年)という説が有力であるが、永正5年(1508年)とする古文書もある。現在は城域の中心に国道6号が通って分断される格好になっており、国道から北西側の城域は宅地化により失われているが、南東側の城跡に空堀や土塁、郭等の遺構が良く残っており、根木内歴史公園として整備されている。

ここで一つ注意事項。水戸街道は根木内交差点で国道6号を越えると間もなく柏市内へと入る。柏市民である私もそうなのだが、柏市周辺の住民は水戸街道と言えば現在の国道6号のことを指し、旧道の道筋である県道261号(松戸柏線)のことは旧水戸と呼び分けている。旧水戸は国道6号の裏道的な存在である。”水戸街道っ!”の記事にも書いたが、ここで書く水戸街道とは旧水戸を指すことを改めて記しておく。


根木内交差点 吉野家北小金店
牛丼一筋300年~♪根木内交差点付近にある吉野家でかなり遅めの昼食に。


大手口土橋
かつての大手口から土橋を渡って根木内城址へ。


根木内城址
根木内城址の郭跡。


根木内城址にて
根木内城址にて。


根木内城址を分断する国道6号
根木内城址を分断する国道6号。城域の台地を開削して国道が通されている。


根木内城址
写真奥に見える木々に覆われた台地が根木内城址で、その西側は上富士川が流れる低湿地帯となっている。


上富士川と根木内城址
上富士川と根木内城址。


旧水戸街道・根木内
上富士川を越えて上り坂となる水戸街道。この坂道の途中で松戸市から柏市へ入る。


中新宿の庚申塔
坂道を上りきった地点に中新宿の庚申塔がある。付近にある庚申塚というバス停名はこの庚申塔に由来があると思われる。左が享保9年(1724年)、右は宝暦12年(1762年)建立の古いもので、いずれも中新宿村の講中により築かれたもの。


旧水戸街道・中新宿
中新宿の庚申塚バス停付近を行く水戸街道。


行念寺
中新宿1丁目の街道沿いにある行念寺。小金の東漸寺末寺。明応2年(1493年)東漸寺開山の經譽愚底上人により開基と伝わる。


香取神社
中新宿の庚申塔から500m程進むと、いったん柏市を抜けて流山市の向小金に入り、更に約800m程進んだ所で再び柏市に入るという複雑な行政区域となっている。その流山市向小金の街道沿いにある香取神社は江戸時代初期の創建で、旧向小金新田の産土神として崇められた。


向小金一里塚跡
かつて香取神社の前には一里塚が築かれており、江戸日本橋から7里目(約28km)を示していた。現在、一里塚の遺構は全く残っておらず、往時を偲んで一里塚の碑が建てられている。


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小金牧

【2010年2月13日(土)水戸街道 小金宿→我孫子宿 道中】
まずは小金牧の概要について説明する。千葉県北西部の北総台地上は、古の昔から軍馬の育成に適した地であり、関東に割拠する有力者に多くの軍馬を供給してきた。この事は平安時代の記録にも残っているほどで、当然ながら平将門やその軍勢の足となる軍馬の多くは北総台地で育ったものだろう。この地をそのまま利用して幕府の軍馬放牧場として設けられたのが小金牧と佐倉牧で、ここでは水戸街道が通る小金牧についてのみ詳述する。小金牧は現在の野田市から習志野市や千葉市花見川区辺りの南北にかけて置かれた放牧場で、庄内牧・高田台牧・上野牧・中野牧・印西牧・下野牧と呼ばれる5ヶ所の牧で構成される。その小金牧の一つ、上野牧を横断するようにかつての水戸街道は通っており、現在の南柏駅辺りから柏市街の中心部にかけてがその道筋で、牧への出入口にあたる南柏側に新木戸、柏側に柏木戸が設けられていた。

水戸土浦道中絵図
柏神社前の説明板より


旧水戸街道・今谷上町
水戸街道は流山市から柏市の今谷上町へ入る。今谷上町は江戸末期から明治初期にかけて斬首刑が執行されてきた今谷刑場があった場所である。


今谷上町の野馬土手跡
今谷上町に残る野馬土手跡。特に説明板も無く住宅街の中に放置されている状態。牧の周囲には馬の脱走を防ぐ目的でこのような野馬除けの土手(野馬土手)が築かれ、今もその名残が千葉県北西部の各地に見られる。


今谷上町の稲荷神社
今谷上町の稲荷神社。実に面白い形をした茅葺屋根を持つ社殿だ。


今谷上町の八坂神社
稲荷神社のすぐ近く、同じく今谷上町の街道沿いに鎮座する八坂神社。境内に”水戸街道の松並木”の案内板が設置されている。


水戸街道の松並木
八坂神社前の案内板より。かつて柏市内の水戸街道は小金牧の原野を通っていたため、真夏の直射日光や風雨を防ぐために街道の両脇に松が植えられていた。また、道に迷わないように道標の役目もあったようだ。今となっては幕府の放牧場や松並木の街道があったなんてことは、全く想像できない有り様になっているが…。


水戸街道・日光東往還の分岐点 水戸街道・日光東往還分岐点
”屋台とんこつラーメン とん吉”や”柏ヤングボウル”のある三叉路がかつて水戸街道と日光東往還の追分(分岐点)だった所である。この地点は上野牧内に位置しており、追分の小金宿寄りに新木戸が設けられていた。日光東往還はここから関宿城下、結城城下を経て石橋宿と雀宮宿の中間、鞘堂(栃木県河内郡上三川町)で日光街道に合流する街道である。




新木戸バス停
上野牧の江戸方出入口にあたる新木戸は跡形も無くなっているが、僅かにバス停名にその名を留めている。


別雷神社 豊受稲荷本宮
共に豊四季の水戸街道沿いに鎮座する別雷神社・稲荷神社(右写真)と豊受稲荷本宮(左写真)。ここで余談を一つ。小金牧と佐倉牧は明治期になって開墾され、その順に数字が付され地名が付けられた。初富(鎌ケ谷市)・二和(船橋市)・三咲(船橋市)・豊四季(柏市)・五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄(富里町)・八街(八街市)・九美上(香取市)・十倉(富里町)・十余一(白井市)・十余二(柏市)・十余三(成田市及び多古町)がその地名であり、つまり豊四季は4番目に開墾された地ということである。


富里の神明神社
神明神社の鎮座する地点で豊四季から富里へと行政区域が変わる。富里は昭和42年(1967年)に改名された地名で、それ以前は豊四季の一部であった。


旧水戸街道・富里
富里を行く水戸街道。ここで東武野田線の高架下を潜り抜ける。


旧水戸街道・柏
柏市街の中心部、柏神社前を行く水戸街道。この辺りに上野牧の水戸方出入口にあたる柏木戸が設けられていた。


柏神社
柏神社は江戸時代初期に八坂神社の御分霊を勧請して創建されたのが始まり。明治中期に羽黒台に鎮座していた羽黒神社を境内へ遷宮し、明治40年(1907年)に合祀された。柏神社と名付けられたのは昭和49年(1974年)のことで、それ以前は天王様とか羽黒神社とも呼んでいたらしい。


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呼塚河岸跡

【2010年2月13日(土)水戸街道 小金宿→我孫子宿 道中】
柏市街で日没を迎え、暗がりの夜道と化した水戸街道を北柏の呼塚河岸(よばつかかし)まで歩く。呼塚河岸は手賀沼に注ぐ大堀川と水戸街道の交点にあった船着場で、現在の呼塚橋(国道6号)が架かる辺りがその跡地。江戸時代に大堀川から手賀沼を経て利根川を下る水運のルートが確立され、佐原や銚子方面との物資(米や小麦等)流通の場として、また成田や香取、鹿島へ参詣目的の旅人を乗せる船が発着して賑わった。ここで船問屋を営んでいたのが桜井家で、その敷地には常夜灯が置かれ船や旅人の目印となっていた。現在、この常夜灯は下流にある北柏橋付近に移設されている。

河岸の名に付けられている呼塚とは、平安時代末期に活躍した名馬、生食(いけずき)が葬られた塚があったことに由来する。現在の柏市内(小金牧の元となる放牧場)で生まれた生食は、八幡神の使いと信じられるほどに名を轟かせ、後に源頼朝に献上されたという。頼朝は木曽義仲を滅ぼすことになる宇治川の戦いで佐々木高綱に生食を与え、その名馬に跨る佐々木高綱と愛馬磨墨(するすみ)に跨る梶原景季の先陣争いは世に広く知られるところだ。なお、呼塚の名は現在も柏市内の国道16号と国道6号の交差点名に残されており、ラジオの渋滞情報で良く耳にする悪名高き”呼塚交差点”である。


旧水戸街道・柏
柏神社から繁華な柏の中心部を行く。


諏訪神社 柏の一里塚跡
商店街を抜けた柏5丁目に鎮座する諏訪神社。かつては神社前の街道両脇に江戸日本橋から8里目(約32km)の一里塚が築かれていた。遺構は全く現存しない。


旧水戸街道入口交差点
旧道と国道16号が交差する旧水戸街道入口交差点。写真の横切る道が国道16号。


旧水戸街道・柏
旧水戸街道入口交差点の先から街灯が減って暗い夜道になる。常磐線を越える跨線橋手前で旧道は右に離れ、線路の西側を辿る。


旧水戸街道・柏
常磐線の西側を線路に沿って延びる旧道。写真の先に見える歩道橋で線路の向こうへ渡る。


常磐線の歩道橋より
常磐線に架かる歩道橋より柏方面を望む。線路左横に沿って延びる道が旧道で、この歩道橋が架かる地点で常磐線に分断されている。


馬頭観音石碑
北柏入口手前の旧道筋に残る馬頭観音碑。


呼塚河岸跡
本日のゴールとなる大堀川の呼塚河岸跡。舟運で賑わったのも今は昔…。さてさて、すっかり日も暮れたし、ここから歩いて帰宅することに。

【水戸街道歩き 第2日目】
踏破距離 約14.5km(松戸宿→小金宿→呼塚河岸跡)
千住宿から約27km 水戸宿まで約87km
一日中、小雪が舞い散る真冬らしい天候。家に着いてから近郊にある”手賀沼温泉 満天の湯”で冷えきった上に疲れた体を癒した。近いようで水戸は遠いなあ…。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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