新宿
中川橋を渡れば新宿(にいじゅく)の町並みである。宿場を貫く街道は直角の曲り角が3ヶ所設けられ、今も残る道筋に旧宿場町の雰囲気が感じられるが、沿道に並ぶ建物に往時の面影は残っていない。宿内の北(水戸方)外れで佐倉城下を経て成田山新勝寺へ至る佐倉街道(成田街道)が分岐していた。また、水戸佐倉道分間延絵図を見てみると、宿内に生洲(食用川魚の生け簀と考えられる)と山王池が描かれており、街道はその池を避けるように3ヶ所の曲り角が設けられていたことがわかる。現在は生洲、山王池とも埋め立てられて跡形も無い。
新宿は戦国時代に小田原北条氏の支配下にあった葛西城址から中川を隔てた北側に位置しており、当初は葛西城の町場として整備されたと考えられている。江戸幕府によって水戸佐倉道が整備されると、江戸からの常陸国・下総国への分岐点であり、逆に江戸へ向かうと中川を渡河する”新宿の渡し”が控えていたことから、新宿の町場に問屋場を置き宿場町として整備されたのだろう。天保14年(1843年)当時の記録によると、人口956人、家数174軒、本陣無し、脇本陣無し、旅籠4軒とあり、本陣・脇本陣が置かれず、荷役の人馬継立てを行う問屋場だけが置かれていたことがわかる。
”新宿の渡し”に初めて中川橋が架橋されたのは明治17年(1884年)のことで、当初は通行料を徴収したために”賃取橋”とも呼ばれ、通行料は新宿町と亀有村で7対3で分配しており、新宿町にとっては重要な財源となっていた。そのため常磐線が敷設されるにあたって、新宿町に駅を置いて松戸へ向かうルートが計画されたが、中川橋の通行料が取れなくなるという理由で新宿町の住民から反対され、迂回するルートになったらしい。現代の地図で綾瀬駅と松戸駅間の常磐線を見てみると、亀有駅と金町駅のある辺りで新宿を避けているのがわかる。きっと反対運動が無ければ新宿駅が置かれ、今見る閑散とした姿とは随分と違っていたのだろう。


中川橋を渡って新宿へ。

新宿の江戸方入口にある宝蓮寺。近年に新宿内をショートカットする新道(都道467号)が敷設されたため、街道から延びていた参道は分断されている。

新宿・上宿(江戸方)の町並み。新宿は中川を越えてから上宿、中宿と続き、日枝神社付近の曲り角から先が下宿であった。

新宿・中宿の町並み。写真の突き当たりが中宿と下宿の境で、街道は直角に左折している。中宿の東側沿道に問屋場が置かれていたが、その跡地は特定できない。

文安5年(1448年)浄円が草庵を結んだことに由来があるという西念寺。今も昔と変わらず街道から本堂に続く参道が延びている。

中宿と下宿の境界である曲り角から江戸方を望む。

新宿の鎮守、日枝神社。かつては山王権現とか山王社と呼ばれた。


新宿の街道沿いにある中屋せんべい。ポピュラーな醤油味の大判せんべいと唐辛子味のせんべいを購入。以前に紹介した草加煎餅ほどの固さはないものの、ほどよい歯ごたえにしっかりとした味付けは、ビールのお供にしても秀逸なおつまみ。
中屋せんべいの詳細はこちらから↓
中屋せんべいのホームページ


新宿下宿にある浄心寺。古くは下寺と呼ばれ両国回向院、小塚原回向院の住職が隠居した寺だという。現代に置き換えれば、名寺住職の天下り先といったところかな。2・26事件で殉職した清水巡査部長の墓がある。

水戸街道と佐倉街道(成田街道)の追分。写真はその追分から国道6号を挟んで佐倉街道を望んでいる。最近までこの分岐点には安永2年(1773年)建立の「左水戸街道、右なりたちば寺道」と刻まれた石造道標が残されていたが、今は葛飾区郷土と天文の博物館に移されている。道標なんてものは博物館なんぞに展示しても誰も興味なんか持たないと思う。元々置かれていた場所にあってこそ、歴史的な価値があるというものだ。


宿場を抜けて間もなく、新宿4丁目内に水戸街道と国分道の追分がある。ここで水戸街道から分岐する国分道は、柴又帝釈天を経て矢切の渡しで江戸川を渡河する道。そのため分岐点には明治30年(1897年)建立の”帝釈道”と刻まれた道標が残されている。

水戸街道と国分道の追分にある新宿4丁目の石仏群。「旧水戸街道道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工事に伴い新宿四丁目二番地先より現在地に移転」と記念碑に刻まれていた。平成10年(1998年)のことである。

浜街道踏切で新金貨物線を跨ぐ。踏切名にある浜街道とはこの道の旧名称で、明治5年(1872年)に新しく付けられた水戸街道の別称のこと。ここから200m程行けば金町4丁目へ入る。
