【2010年2月20日(土)水戸街道 我孫子宿】
手賀沼の北側一帯を市域とする我孫子(あびこ)市は、手賀沼を借景とした如何にも浮世離れした田園地帯が作品を生み出すには好適地だったようで、明治末期から大正期にかけて多くの文化人が別荘や邸宅を築いて移り住んだ。主な面々を挙げると、白樺派の柳宗悦や志賀直哉に武者小路実篤、陶芸家のバーナードリーチ、明治から昭和初期にかけて活躍したジャーナリストの杉村楚人冠である。そして先述した文化人とは少々一線を画するが、”裸の大将”でお馴染みの放浪の天才画家・山下清は、我孫子駅の駅弁屋弥生軒で昭和17年頃から約5年間働いていた。弥生軒の名は我孫子駅構内の立食い蕎麦屋に受け継がれている。
そんな近代我孫子市の原点となったのが水戸街道の我孫子宿で、天保14年(1843年)当時の記録によると本陣1、脇本陣1、家数114軒で継立業務の常備人馬数は10人・10疋。宿場水戸方外れで布佐・木下・成田方面へ向かう布川街道(成田街道)が分岐していた。布川街道は取手宿成立以前の古水戸街道とも言うべき道筋で、天和年間~貞享年間(1681年~1688年)にかけて取手宿・藤代宿経由の道筋に付け替えられる以前は、我孫子宿から利根川に沿って布佐に至り、布佐で利根川を越えて布川・中田切・紅葉内を経て若柴宿に至っていた。


常磐線を越えて我孫子宿へ入る水戸街道。

我孫子宿江戸方(西側)の町並み。道幅は広げられ宿場町の面影は残っていない。

我孫子駅入口交差点角に鎮座する白山の八坂神社。現在の社殿は明治12年(1879年)の再建。駅前という一等地にあるため、後々は小金宿の八坂神社と同じ運命を辿るのかもしれない。

本町2丁目辺りの我孫子宿は最近になって道が拡幅されたため、往時の面影は更に失われてしまった。

割烹旅館の角松本店。かつては松島楼という屋号で旅籠を営んでいた。

我孫子宿の中心にある大光寺。

角松本店や大光寺がある辺りで宿内の街道は左右に曲げられ、旧道らしさを残している。

寿1丁目の街道筋に立つ「従是子神道」道標。寛政元年(1789年)の建立。我孫子宿内の水戸街道から子の神大黒天へ至る近道が分岐する場所に今も残されている。

我孫子宿本陣跡。見ての通り本陣の遺構は跡形も無くなっているが、本陣の離れが大正10年(1921年)に解体移築され、旧村川別荘の母家として現存している。旧村川別荘は寿2丁目の”子の神大黒天”隣地にあるのだが、街道から少々離れているため今回はパス。

我孫子宿の脇本陣を務めた小熊家住宅。天保2年(1831年)建築という茅葺屋根の母屋を残している。今となっては唯一残る我孫子宿の語り部的存在の建物。

明治12年(1879年)創業の老舗割烹、鈴木屋本店。

宿場水戸方外れ、水戸街道と布川(成田)街道の分岐点。左斜めに進む道が水戸街道、直進する道が古水戸街道とも言うべき布川(成田)街道。

水戸街道と布川街道の分岐点に残る石造物群。成田山や成田道と刻まれた道標が無造作に集められている。つまり、水戸街道や布川街道は成田山への参詣の道として多くの人々に利用されたという証であろう。前記事に書いた根戸の成田山道法供養塔もそのことを物語っているわけだ。
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