北柏

【水戸街道歩き 第3日目】呼塚河岸跡→我孫子宿→取手宿→藤代宿



【2010年2月20日(土)水戸街道 小金宿→我孫子宿 道中】
天気は一言、晴れ。真冬の2月でも陽の下を歩いていれば暖かい。のんびりと朝の9時過ぎに家を出発し、徒歩で前回のゴール地点である呼塚河岸跡へ向かう。途中、呼塚河岸にあった常夜灯を見てから呼塚橋を渡り、次の宿場町我孫子へ向けて水戸街道に歩みを戻す。北柏から我孫子にかけての旧道は国道16号とは違ったルートになっており、それなりに旧街道の面影を感じさせる道筋を残している。

水戸街道・北柏


呼塚河岸の常夜灯
呼塚河岸の常夜灯。現在は北柏駅と慈恵医大柏病院を結ぶ道の中間、大堀川に架かる北柏橋付近に移設されている。この常夜灯は慶応元年(1865年)呼塚周辺の10ヶ村の有志によって建立された。


呼塚橋
大堀川の呼塚河岸跡に架かる呼塚橋。国道6号が橋上を通る。


根戸大坂
大堀川を越えた先から旧道は根戸の台地へ上る。かつては根戸大坂と呼ばれた。


旧水戸街道・北柏駅前
北柏駅前を行く水戸街道。駅前にある焼き鳥屋の”とんちゃん”はたまに行きます…。


妙蓮寺
水戸街道から延びる妙蓮寺参道。


根戸十字路 成田山道法供養塔
根戸十字路は県道7号(我孫子関宿線)と水戸街道の交差点で、昔はここから布施弁天東海寺へ至る布施道が分岐していた。交差点角にひっそりと成田山道法供養塔が残っている。何ゆえここに成田山道の道標があるのか…その答えは後の記事に譲ることにしよう。


旧水戸街道・根戸
水戸街道は根戸で大きく右に曲がり我孫子宿へ向かう。


我孫子市街入口交差点
我孫子市街入口交差点で国道6号を越える。


旧水戸街道 台田・我孫子
国道6号から我孫子宿へ向けて延びる水戸街道。


旧水戸街道 台田・我孫子
水戸街道は我孫子宿の手前で常磐線に分断されている。


我孫子宿
常磐線に架かる歩道橋から我孫子宿を望む。


FC2ブログランキング
スポンサーサイト

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

我孫子宿

【2010年2月20日(土)水戸街道 我孫子宿】
手賀沼の北側一帯を市域とする我孫子(あびこ)市は、手賀沼を借景とした如何にも浮世離れした田園地帯が作品を生み出すには好適地だったようで、明治末期から大正期にかけて多くの文化人が別荘や邸宅を築いて移り住んだ。主な面々を挙げると、白樺派の柳宗悦や志賀直哉に武者小路実篤、陶芸家のバーナードリーチ、明治から昭和初期にかけて活躍したジャーナリストの杉村楚人冠である。そして先述した文化人とは少々一線を画するが、”裸の大将”でお馴染みの放浪の天才画家・山下清は、我孫子駅の駅弁屋弥生軒で昭和17年頃から約5年間働いていた。弥生軒の名は我孫子駅構内の立食い蕎麦屋に受け継がれている。

そんな近代我孫子市の原点となったのが水戸街道の我孫子宿で、天保14年(1843年)当時の記録によると本陣1、脇本陣1、家数114軒で継立業務の常備人馬数は10人・10疋。宿場水戸方外れで布佐・木下・成田方面へ向かう布川街道(成田街道)が分岐していた。布川街道は取手宿成立以前の古水戸街道とも言うべき道筋で、天和年間~貞享年間(1681年~1688年)にかけて取手宿・藤代宿経由の道筋に付け替えられる以前は、我孫子宿から利根川に沿って布佐に至り、布佐で利根川を越えて布川・中田切・紅葉内を経て若柴宿に至っていた。

水戸街道・我孫子宿


旧水戸街道 本町1丁目・白山2丁目
常磐線を越えて我孫子宿へ入る水戸街道。


我孫子宿
我孫子宿江戸方(西側)の町並み。道幅は広げられ宿場町の面影は残っていない。


白山の八坂神社
我孫子駅入口交差点角に鎮座する白山の八坂神社。現在の社殿は明治12年(1879年)の再建。駅前という一等地にあるため、後々は小金宿の八坂神社と同じ運命を辿るのかもしれない。


我孫子宿
本町2丁目辺りの我孫子宿は最近になって道が拡幅されたため、往時の面影は更に失われてしまった。


角松本店
割烹旅館の角松本店。かつては松島楼という屋号で旅籠を営んでいた。


大光寺
我孫子宿の中心にある大光寺。


我孫子宿
角松本店や大光寺がある辺りで宿内の街道は左右に曲げられ、旧道らしさを残している。


「従是子神道」道標
寿1丁目の街道筋に立つ「従是子神道」道標。寛政元年(1789年)の建立。我孫子宿内の水戸街道から子の神大黒天へ至る近道が分岐する場所に今も残されている。


我孫子宿本陣跡
我孫子宿本陣跡。見ての通り本陣の遺構は跡形も無くなっているが、本陣の離れが大正10年(1921年)に解体移築され、旧村川別荘の母家として現存している。旧村川別荘は寿2丁目の”子の神大黒天”隣地にあるのだが、街道から少々離れているため今回はパス。


我孫子宿脇本陣・小熊家
我孫子宿の脇本陣を務めた小熊家住宅。天保2年(1831年)建築という茅葺屋根の母屋を残している。今となっては唯一残る我孫子宿の語り部的存在の建物。


鈴木屋本店
明治12年(1879年)創業の老舗割烹、鈴木屋本店。


水戸街道・布川街道分岐点
宿場水戸方外れ、水戸街道と布川(成田)街道の分岐点。左斜めに進む道が水戸街道、直進する道が古水戸街道とも言うべき布川(成田)街道。


水戸街道・布川街道分岐点
水戸街道と布川街道の分岐点に残る石造物群。成田山や成田道と刻まれた道標が無造作に集められている。つまり、水戸街道や布川街道は成田山への参詣の道として多くの人々に利用されたという証であろう。前記事に書いた根戸の成田山道法供養塔もそのことを物語っているわけだ。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

天王台

【2010年2月20日(土)水戸街道 我孫子宿→取手宿 道中】
布川街道と分かれた水戸街道はJR成田線を渡り、栄地区の住宅街を進む。やがて下り坂に差し掛かった所で旧道の道筋は常磐線(松戸車両センター我孫子派出所)によって分断。線路の向こう側に位置する我孫子市水道局の横から復活し、大きな屋敷が建ち並ぶ旧柴崎村の街道を進んで国道6号に合流する。この辺りの最寄り駅はJR天王台駅であり、位置を示すには柴崎より天王台と書いた方が通りが良いので、記事のタイトルは”天王台”とした。

水戸街道・柴崎


浜街道踏切
浜街道踏切を渡って成田線を越える。浜街道とは明治期以後に付けられた水戸街道の別称。


旧水戸街道 栄
常磐線に分断される「A」地点から柴崎方面を望む。


旧水戸街道 柴崎
「B」地点から我孫子宿方面を望む。かつての水戸街道は金網の先に延びて「A」地点へ続いていた。


旧水戸街道 柴崎
我孫子市水道局の横から出現する旧道。写真は「B」地点から取手宿方面を望んでいる。


旧水戸街道 柴崎
葵の園・我孫子のある交差点で水戸街道は左折する。


柴崎の庚申像
上記の交差点角、小山上に祀られる庚申像。


柴崎神社
古くは妙見社と呼ばれ明治13年(1880年)に柴崎神社と改称された。創建は天慶元年(938年)と云われ、平将門の祈願所だったとも伝わる。


円福寺
柴崎神社の隣にある真言宗豊山派、円福寺。


東源寺
戦国時代の関東の雄、北条氏康によって開基された東源寺。本堂前に樹齢約250年という榧(まがや )の大木がそびえ、千葉県の天然記念物に指定される。


旧水戸街道 柴崎
柴崎を行く水戸街道。左の理容室はその名も”理容室 平左衛門”。月代を剃られそうな店名といったら失礼かもしれないが、どうせなら床屋とか髪結い屋とした方がしっくりくるような…。


旧水戸街道 柴崎
旧柴崎村の街道沿いには旧家の屋敷が建ち並ぶ。


旧水戸街道 柴崎
旧柴崎村の集落を抜けて国道6号へ合流する。


国道6号 柴崎
柴崎から利根川に架かる大利根橋へ向かう国道6号。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

取手・青山の渡し

【2010年2月20日(土)水戸街道 我孫子宿→取手宿 道中】
千葉県内最後の集落となる青山へ。取手宿から利根川を挟んで対岸に位置する青山は、利根川氾濫原の最前線といった低地にあり、昔は頻繁に水害に見舞われて各家に備えの舟が常備されるほどだった。そんな青山の集落を抜けた先で水戸街道は河川敷の中に消失し、坂東太郎と称された利根川に阻まれる。今は大利根橋が架かり簡単に渡河できるが、大河を眼前にしたかつての旅人は、取手・青山の渡しと呼ばれる渡船によって取手宿へ向かったのだ。

水戸街道・青山


旧水戸街道 青山
青山に入ると国道6号の右側に沿って旧道の道筋が残る。


旧水戸街道 青山
青山に残る枡形の道筋。


旧水戸街道 青山
青山を行く水戸街道。


旧水戸街道 青山
大きな旧家の屋敷が残る青山。利根川の増水時には足止めを食らった旅人で賑わったのだろう。水戸街道は集落内を利根川へ向かって延びている。


旧水戸街道 青山
水戸街道は青山の集落を抜けた所で利根川の河川敷へ消える。


大利根橋
国道6号の大利根橋を渡って茨城県へ。


青山の渡し跡
大利根橋から取手・青山の渡し跡を望む。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

取手宿

【2010年2月20日(土)水戸街道 取手宿】
利根川を越えて千葉県から茨城県へ。現在の国道6号や常磐線の茨城県入口に位置する取手であるが、取手市域は旧国名で言うと下総国にあたる。かつての下総国と常陸国の境界は、取手から更に水戸街道を北上し、藤代宿の先に流れる小貝川である。その小貝川と利根川に挟まれた取手宿と藤代宿間の街道は低湿地帯を通っており、暴れ川の小貝川が度々氾濫したことから、水戸街道は「本街道」とは別に「中通り」「椚木廻り道」「大廻り道」という3本のルートが設けられ、本街道が水害によって通行困難なっても、いずれかの迂回路によって藤代宿まで行けるよう備えられていた。

天和年間~貞享年間(1681年~1688年)我孫子宿から若柴宿間の街道付け替えが行われたことは”我孫子宿”の記事に書いたが、その時に藤代宿と共に新設されたのが取手宿である。天保13年(1842年)当時の記録によると人口900人、往時は利根川水運の拠点として廻船問屋が軒を連ね、宿場町は物資集散の場としても賑わった。本陣は貞享4年(1687年)から染野家が代々務め、寛政7年(1795年)に再建された建物が現存している。取手宿本陣については詳細を記事にしたいので次に譲ろう。また、宿内には取手名物奈良漬の製造販売元「新六本店」が明治元年創業らしい佇まいを見せ、取手宿に訪れた際には本陣と共に是非とも立ち寄りたい場所だ。

水戸街道・取手宿


取手宿
取手宿江戸方入口の町並み。


取手宿
取手宿の街道筋には旧商家や造り酒屋の古い建築が所々に残っている。


伊勢利
長禅寺参道入口にある”伊勢利”。江戸時代中期より味と暖簾を守り続ける老舗の蕎麦屋である。せっかくなので、ここで昼食タイムとし、温かいお蕎麦で腹ごしらえ。いかにも手打ちらしいツルツル細麺の美味しい蕎麦だった。


長禅寺参道
街道から長禅寺の石段に向かう参道。ちょうど”取手宿ひなまつり”が開催されており、参道から取手駅方面にかけて出店が出て賑わっていた。


長禅寺の石段にて
長禅寺の石段を綺麗に彩る”さをり織り”。取手市立障害者福祉センターつつじ園の利用者によって織り上げられたもの。長い石段の上から下まで、これだけ色とりどりの織物が敷き詰められると、芸術作品の風格さえ感じる。


長禅寺 三世堂
取手大師こと長禅寺と三世堂。京都妙心寺の末寺である長禅寺は延命地蔵尊を本尊に祀る。平将門の勅願所として創建されたのが始まりと伝わり、当初は旧大鹿村(現 取手市白山)にあったが、取手宿の成立と共に現在地へ移転した。その本堂の隣にあるのが三世堂で、宝暦13年(1763年)の建築と伝わる内部は3層構造になっている。1層に本尊の十一面観音像と坂東三十三ヶ所、2層に秩父三十四ヶ所、3層には西国三十三ヶ所の各観音霊場札所の本尊が安置され、入口から順にお参りしていけば交差することなく一巡できるようになっている。つまり”さざえ堂”形式である。


新六本店
取手と言えばやっぱり奈良漬でしょう。その本家本元である新六本店。


田中酒造店
明暦元年(1655年)創業、君萬代の醸造元田中酒造店。明治天皇ゆかりの歴史を持つ造り酒屋。


田中酒造店にて
田中酒造店にて。


取手宿本陣・表門
取手宿本陣入口の表門。中の紹介は次の記事で。


八坂神社
取手宿内水戸方外れに鎮座する八坂神社。取手宿の産土神。寛永3年(1626年)の創建と伝わり、拝殿は天保3年(1832年)の建築、本殿が明治36年(1903年)に改築されたもので、いずれも市指定文化財。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

取手宿本陣染野家住宅

【2010年2月20日(土)水戸街道 取手宿】

指して行 さほのとりての 渡し舟 おもふかたへは とくつきにけり

この和歌は天保11年(1840年)水戸へ向かう水戸藩7代藩主徳川斉昭が利根川を渡る船中で詠み、その日宿泊した取手宿本陣でしたためたもの。3年後に歌碑にされて今も本陣敷地内に残る。幕末まで代々本陣を務めた染野家は、元々取手宿の名主を務めた家柄で、貞享4年(1687年)水戸徳川家によって本陣に指定されたと伝わる。以来、江戸と水戸を往来する歴代の水戸藩主や家老、藩士が休息や宿泊に利用した。

主屋は寛政6年(1794年)の火災によって焼失。翌年に再建されたのが現存するもので、昭和62年(1987年)染野家から主屋・土蔵・表門等が取手市に寄贈され解体修理工事がはじめられた。工事が完了する平成8年(1996年)に茨城県の有形文化財に指定され、翌年から内部の一般公開がはじまった。主屋には式台・玄関・上段の間等が配される本陣の建築様式を今に伝える貴重な建物である。


取手宿本陣・主屋
取手宿本陣主屋。茅葺屋根を被された入母家造りの玄関が本陣の威厳を漂わせる。


取手宿本陣・主屋
裏庭から見る本陣主屋。


取手宿本陣・土蔵
取手宿本陣土蔵。主屋が再建された時期と同じく、江戸時代後期に建てられたものと推定される。


取手宿本陣 取手宿本陣
本陣内部の様子。東京近郊で本陣の建築が生き残ったことが奇跡である。


取手宿本陣にて
取手宿本陣にて。取手宿ひなまつり縁日ということで、ちょうど雅楽演奏と舞踊が催されていた。


取手宿本陣・上段の間02
上段の間と二の間。武家専用に配された部屋で、上段の間は框(かまち)1本分床を高くしており、身分の高い大名等が使用した。式台の置かれた玄関と上段の間は本陣建築の特徴であり、封建制度の縮図を見る思いだ。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

4通りの道

【2010年2月20日(土)水戸街道 取手宿→藤代宿 道中】

取手宿から藤代宿へのルートが4通りあったことは”取手宿”の記事に書いた。西のルートから言うと、取手宿内から台宿・白山・本郷・駒場・寺田・岡・和田・山王・配松・神住を経て小貝川堤防に沿って藤代宿へ向かう”大廻り道”、同じく取手宿内から台宿・井野・桑原・毛有・清水を経て椚木で大廻り道に合流する椚木廻り道、取手宿水戸方(東側)外れの本街道から青柳・井野・毛有・清水・小浮気・谷中を経て藤代宿内江戸方で本街道に合流する”中通り”、そして吉田・長兵衛新田・清水・中田・谷中を経て藤代宿へ向かう”本街道”である。ここでは正道である本街道を進むが、迂回路の3ルートについて明治期の古地図を参考にしてルートラボにトレースしてみたので、興味のある方はご参照を。

水戸街道・取手宿→藤代宿
[大廻り道] [椚木廻り道] [中通り] [本街道]


旧水戸街道 東1丁目・東2丁目
取手宿を出て東1丁目・東2丁目の境を行く水戸街道(県道11号取手東線)。古い商家が所々に残る。


旧水戸街道 東4丁目・東5丁目
県道を外れて東4丁目・東5丁目の境を行く稲葉酒店付近の水戸街道。


新道阿夫利神社
東5丁目に鎮座する新道阿夫利神社。


旧水戸街道 本街道・中通り分岐点
本街道と中通り分岐点。ここで左折する道が中通りで、直進する道が本街道。


吉田八幡神社 旧水戸街道 吉田
吉田の江戸方入口に鎮座する吉田八幡神社(左写真)と吉田の集落を行く水戸街道(右写真)。


吉田のサイカチ
吉田の街道沿いに立つサイカチの古木。


筑波山
吉田の集落を抜けると一気に田園地帯となって視界が広がり、彼方に筑波山を望む。


土橋と旧小泉村の道標
相野谷川に架かる土橋とその袂にある旧小泉村(現 取手市清水丙)の道標。土橋と言っても現在は鉄筋コンクリート製の橋である。道標には「江戸」「水戸 十八里」「来應寺七丁」と刻まれている。


旧水戸街道 清水
清水丙を行く水戸街道。街道沿いに陸前浜街道の説明を付した標柱が立てられている。


釜神橋
釜神橋を渡る。


旧水戸街道 中田
中田の集落内を行く水戸街道。


旧陸前浜街道踏切
旧陸前浜街道踏切で常磐線を渡る。


旧水戸街道 谷中・藤代
水戸街道は国道6号と交差する。この国道6号との交差点がかつての中通りと本街道の合流点にあたる。


我孫子屋
藤代の街道沿いにある我孫子屋釣具店。店名がちょっと目に留まったので…。


藤代宿へ
茨城県道251号(守谷藤代線)を越えた先から藤代宿の町並みである。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

藤代宿

【2010年2月20日(土)水戸街道 藤代宿】
小貝川の渡河を控える藤代宿。江戸方から藤代村・片町村・宮和田村の3ヶ村で成る宿場町で、本陣・問屋場といった宿場の役務は藤代村と宮和田村で交代制になっていたらしい。とりあえずウィキってみると、両村に本陣が置かれていたと書かれているが、宮和田村の本陣は記録に残っていないとあり、本当に存在していたのか疑わしい。荷役の人馬継立て業務を行う問屋場が持ち回りになっていたというのは中山道や日光街道でも良くある形態だったので、おそらく問屋場は両村に置かれ、仮本陣的な家が宮和田村にあったのではないだろうか。記録に残る藤代宿の本陣は藤代村に置かれて代々飯田家が務め、現在の藤代中央公民館の敷地となっている場所がその跡地である。

水戸街道・藤代宿


藤代宿
大廻り道・椚木廻り道と本街道の合流点。


藤代宿
藤代宿内の街道は相馬神社前で左折してJR藤代駅方向へ向かう。


相馬神社
元享元年(1321年)の創建と伝わる相馬神社。現社殿は慶応3年(1867年)の再建。明治40年(1907年)八坂神社と富士神社を合祀して相馬神社と称した。


高蔵寺
相馬神社隣の高蔵寺。


藤代宿
相馬神社前から水戸方面の宿内を望む。右手前が坂本呉服店で、”橋のない川”で知られる小説家の住井すゑが、住んでいた牛久から通ったという老舗の呉服店である。


藤代宿
旧藤代村の藤代宿町並み。


藤代公民館 藤代宿本陣跡
藤代宿本陣跡に建つ藤代公民館。本陣は昭和30年(1955年)町村合併による庁舎建設のために取り壊された。玄関前にあった百日紅と老松だけが残り往時を語っている。


藤代宿本陣跡
小貝川堤防から本陣跡を望む。


小貝川と筑波山
同じく小貝川堤防から後を振り返って小貝川とその先に筑波山の陰影を望む。


小貝川堤防から
おぉ…太陽が沈んでいく。家に帰ろう。


藤代宿片町
渋滞する藤代宿片町の街道を歩いて。


愛宕神社
片町の愛宕神社に一日の無事を御礼して。


藤代駅
JR藤代駅から帰途につく。

【水戸街道歩き 第3日目】
踏破距離 約17.2km(呼塚河岸跡→我孫子宿→取手宿→藤代宿)
千住宿から約45km 水戸宿まで約70km
まだまだ、頬を撫でる風は冷たいな…。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

宮和田の渡し

【水戸街道歩き 第4日目】藤代宿→若柴宿→牛久宿→荒川沖宿



【2010年3月14日(日)水戸街道 藤代宿→若柴宿 道中】
そろそろ桜の開花が春の訪れを告げようとする3月中旬。サラリーマンにとっては1年で最も忙しい真っ只中の時期であるが、俗世を離れればようやく長い冬を越えて春の息吹を感じる良い季節となった。朝の清々しくも冷えびえとした空気を思い切り吸い込み、藤代宿から水戸街道歩きを再開する。天気は前回同様、ひと言晴れ。ウォーキングにはもってこいの日曜日である。

古くは小貝川の川筋が下総国と常陸国の国境であり、水戸街道を歩く旅人は宮和田の渡しと呼ばれる渡船によって小貝川を越えた。宮和田の渡しは藤代宿側川岸の熊野神社・八坂神社と川向こうの若柴宿側慈眼院を結ぶ辺りにあった渡し場で、現在の文巻橋が架かる100m程下流にあたる。正徳5年(1715年)水戸藩家臣によって書かれた”駅路鞭影記”に小貝川の渡し賃は二文とあり、宝暦・明和期(1751年~1771年)のかけそば一杯の値段が16文だったというから、単純に今の貨幣価値に換算すると渡し賃は50円位の感覚だろう。

水戸街道・宮和田の渡し


旧水戸街道 宮和田
JR藤代駅から宮和田の水戸街道を歩いて小貝川へ向かう。


旧水戸街道 宮和田
小貝川土手から宮和田の水戸街道を望む。


熊野神社と八坂神社
宮和田渡船場跡付近に鎮座する八坂神社(手前)と熊野神社(奥)。渡し舟で往来する多くの旅人がお参りしていったのだろう。熊野神社本殿は嘉永4年(1851年)の再建であるが、創建は室町期の千葉常胤とも、その子孫である戦国期の千葉俊胤とも伝わる。


文巻橋
文巻橋で小貝川を渡り対岸へ。


宮和田の渡し跡
宮和田の渡し跡。


慈眼院
宮和田の渡しの若柴宿側にある慈眼院。小通観世音と呼ばれる十一面観世音菩薩を本尊とする。創建は天慶年間(938年~947年)にまで溯り、平貞盛(平国香の嫡男、平将門とは従兄弟にあたり敵対した)によって建立された観音堂が起源と伝わる。現在の堂宇は修復を重ねているが貞享2年(1685年)再建のものだという。


旧水戸街道 小通幸谷町
小通幸谷町を行く水戸街道。


竜ヶ崎街道踏切
旧道の道筋は谷田川に阻まれるので、竜ヶ崎街道踏切方向の道へ迂回する。


往還橋
往還橋で谷田川を越える。旧道の橋は往還橋から少し上流に溯った場所に架かっていた。


牛久沼排水機場
往還橋から牛久沼排水機場を望む。


小通幸谷町の駄菓子店
小通幸谷町の街道沿いにある駄菓子屋。おそらく昔から店を営んでいるのだろうが、現代的な感じなのが残念。駄菓子屋のイメージじゃないよなあ…。


旧水戸街道 若柴町
水戸街道は若柴町へ入り、県道5号(竜ヶ崎潮来線)に合流する。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

布川街道・馴柴の追分

【2010年3月14日(日)水戸街道 藤代宿→若柴宿 道中】
県道5号(竜ヶ崎潮来線)の馴柴小入口信号から左折する小径を進み、南中島踏切で関東鉄道竜ヶ崎線を渡って馴柴の追分に至る。ここを左折して道なりに進めば間もなく若柴宿に着く。馴柴の追分は水戸街道と布川街道の分岐点にあたる三差路で、江戸時代に道を間違える旅人が多かったことから道標を置いたという。この道標は文政9年(1826年)建立で、三面に「水戸十六里」「江戸十三里」「布川三里」と刻まれている。
水戸街道・馴柴追分

ここで布川街道について触れておく。布川街道は天和年間~貞享年間(1681年~1688年)我孫子宿から若柴宿間の水戸街道が、取手宿・藤代宿経由に付け替えられる以前の水戸街道であり、我孫子宿から利根川に沿って布佐に至り、利根川を越えて布川・中田切・須藤堀・紅葉内を経て若柴宿に至る道筋を辿る。下図を参照して欲しいのだが、このルートは暴れ川と恐れられた小貝川と利根川の低湿地帯を大きく迂回しており、江戸時代初期以前の取手・藤代辺りは小貝川の治水がまともにできておらず、道も通せないほどに悪条件な土地だったことがうかがえる。
水戸街道・我孫子宿~若柴宿
[ルートラボで布川街道を見る]


馴柴小入口信号 馴柴小入口信号の石仏道標
旧道は県道5号(竜ヶ崎潮来線)から馴柴小入口信号で左折する。その三差路角に道標を兼ねた石仏(右写真)があり、「右りゅうがさきなりた」「左わかしば水戸」と刻まれる。この道標は水戸街道と布川街道への近道の方向を示している。


南中島踏切
南中島踏切で関東鉄道竜ヶ崎線を渡る。


馴柴小学校
馴柴小学校の横を行く水戸街道。


馴柴の追分
馴柴の追分。T字路の角に道標が残されている。直進する道が初期水戸街道の道筋である布川街道で、右から突き当たる道が藤代宿方面からの水戸街道である。


馴柴の追分道標
馴柴の追分に残る道標。この道標にどれだけ多くの旅人が助けられたことだろう。やっぱり道標は元の場所にあってこそ歴史的価値があるというもんだ。


旧水戸街道 若柴町
水戸街道は田園地帯を進んで若柴宿へ入って行く。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

若柴宿

【2010年3月14日(日)水戸街道 若柴宿】
水戸街道の第8宿、常陸国入口の宿駅である若柴宿。藤代宿から牛久沼を東へ迂回して牛久宿へ向かう、そのちょうど中間の台地上に位置するため、ここを避けて最短距離の牛久沼を舟で渡り牛久宿へ向かう裏道的なルートもあったらしい。江戸方から下町・仲町・上町・横町と続き、江戸方から大坂を上ってくると下町の入口に八坂神社があり、水戸方出口の横町に星宮神社が鎮座する。宿内の金龍寺には新田義貞をはじめとする新田家累代の墓があり、新田氏とゆかりの深い土地でもある。

若柴宿は江戸方の藤代宿から約5km、水戸方の牛久宿へも約5kmと、両隣の宿駅と距離が近かったことから、本陣や脇本陣は置かれなかったうえに旅籠の数も少なく、公用の荷継ぎを行う問屋場のみが置かれていた。しかしながら、常備人馬数は25人・25疋と水戸街道に常備を義務付けられた同数をしっかりと確保していたようである。明治初期に現在の国道6号の道筋にあたる牛久沼東岸沿いを進む最短ルートの新道が敷設され、若柴宿は時流に取り残されたように衰退していったようだが、国道が大きく逸れてくれたお陰で、宿内の街道筋には明治19年(1886年)の大火後に建てられた立派な塀や門構えの旧家が並び、生活道路として利用された宿場町裏手の坂道が良い状態で残されている。

水戸街道・若柴宿


大坂
若柴宿江戸方外れの大坂。


若柴八坂神社
大坂の坂上付近に鎮座する八坂神社。


若柴宿・下町
大坂を上りきった曲り角から若柴宿下町の町並みが続く。


若柴宿・仲町
若柴宿仲町。下町・仲町・上町にかけて堂々とした門構えや板塀を持つ旧家が並ぶ。


延命寺坂 会所坂
下町・仲町から牛久沼側の低地へ下りる延命寺坂(右写真)と会所坂(左写真)。宿場の人々が生活道路として利用してきた坂道である。仲町から上町にかけて足袋屋坂、鍛冶屋坂という坂道も残っている。


くじ神社
若柴宿の東側に鎮座する鬮(くじ)神社。その名の如く”くじ運”にご利益がある神社らしい。今年のサマージャンボを買った後に参拝してみようか、それとも買う直前の方がよいのかなあ…。


御手洗の池
御手洗(おみたらし)の池。かつては清水が湧き出す池だったようだが、現在は枯渇している。若柴宿の鎮守星宮神社は鰻が神の使いと信じられていたため、鰻を誤って捕ってしまった時にはこの池に放していたらしい。鰻が名物であり、うな丼の発祥地とも伝わる牛久沼近郊のこの地で、この話が本当ならば実に滑稽な話である。現実は生けす代わりに使ってたんじゃないのと、いささか思ってしまう。


金龍寺 新田家累代の墓
上町と横町の境、街道の屈曲点にある金龍寺。応永14年(1407年)上州太田の地に新田義貞の孫である貞氏が開基したと伝わる古刹で、新田家の菩提寺。天正18年(1590年)新田氏の流れを汲む由良国繋が牛久城へ移ったとき、共に金龍寺は牛久城下へ移され、変遷あって寛文6年(1666年)若柴の現在地へ移り今日に至っている。そんな経緯で新田義貞をはじめとする新田家累代の墓が境内にある。


若柴宿・上町
金龍寺参道入口より望む若柴宿上町。


田舎庵 にしんそば
若柴宿内にある唯一の飲食店”田舎庵”。古民家を利用した趣ある店構えの蕎麦屋である。暖簾をくぐって一歩店内へ入ると、若柴宿が賑わっていた昔にタイムスリップした感覚に陥る。素朴でありながら上品な味わいの蕎麦はもちろんのこと、店の雰囲気も非常に良かった。☆三つ!


若柴宿・横町
若柴宿横町。


星宮神社
若柴宿内水戸方外れに鎮座する星宮神社。天慶4年(941年)常陸国太守平貞盛の建立と伝わる。鳥居の注連縄に酒樽が吊るされているのは何故なのか…。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

成井一里塚

【2010年3月14日(日)水戸街道 若柴宿→牛久宿 道中】
若柴宿から牛久宿間の水戸街道は道筋に旧街道の面影を残している。その道中で特筆すべきは成井一里塚で、江戸日本橋から水戸街道を歩いてくると、15里目(約59km)にして初めて出会う現存する一里塚だ。ここで一里塚について少し書いておこう。一里塚とは江戸幕府成立後に築造された江戸日本橋を起点にする主要街道の里程標であり、1里(約4km)毎の街道両脇に目印として設置された土盛りのことである。一里塚の崩壊を防ぐ目的で塚上には主に榎や松が植えられていた。

成井一里塚も東海道や中山道に一里塚が築かれたのと同時期の江戸初期に築かれたものであり、成井一里塚にある説明板にも「水戸街道が整えられたのは、慶長末年から寛永初年であり、この一里塚はその頃築造されたものと思われる。」と書かれている。しかしながら、同じ説明板の文面に「この一里塚は、永禄4年(1561年)には既に存在していたといわれている。」という一見矛盾する記載が見られる。1561年の日本は戦国時代の真っ只中にあり、常陸国を支配していたのは戦国大名の佐竹氏だ。日本橋も存在していない時代から既にあったというならば、一体どういう目的で築造されたのか、理解に苦しむところである。

水戸街道 遠山町・城中町・牛久町


旧水戸街道 若柴町
若柴宿を抜け、県道243号(八代庄兵衛新田線)と交差する水戸街道。


旧水戸街道 若柴町 若柴町の道標
水戸街道から女化(おなばけ)町方面への道が分岐する地点。その分岐点に若柴青年会による大正12年(1923年)8月建立の道標が残り、三面に「女化 岡見 柏田方面」「南 若柴 佐貫 藤代方面」「原新田 成井 牛久方面」と刻まれているようだ。ちなみにこの道標が建立された翌月、関東が焼け野原と化す関東大震災が発生している。


旧水戸街道 遠山町
遠山町に残る水戸街道の道筋。


成井一里塚と水戸街道
成井一里塚と水戸街道。


成井一里塚
説明板によると永禄4年(1561年)には存在したといわれる成井一里塚。その根拠はどこから来ているのか是非とも知りたいところ。


旧水戸街道 遠山町
谷津地帯を進む水戸街道。


旧水戸街道 牛久町
旧道は牛久宿の手前で常磐線と国道6号によって分断される。写真は牛久宿方面の地図[A]地点を撮影したものであり、旧道はここでカーブせずに直進方向へ進んでいた。


国道6号 牛久町
銅像山踏切で常磐線を渡り国道6号へ迂回。


国道6号 牛久町
国道6号から左斜めに進む小径が水戸街道。牛久宿の入口である。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

牛久宿

【2010年3月14日(日)水戸街道 牛久宿】
牛久宿は天保12年(1841年)頃の記録によると本陣と旅籠15軒を含む家数124軒。戦国期の牛久城主岡見氏の頃には、既に牛久宿の原形となる町場が形成されており、寛文9年(1669年)以来、牛久藩主山口氏によって牛久陣屋が築かれてその支配下に置かれた。牛久宿と隣の荒川沖宿は同じ牛久藩領にあり、また荒川沖宿の規模が小さかったことから、両宿で継立を行う合宿の形態をとっており、荒川沖宿は上りの牛久宿へ片継ぎだけ行い、牛久宿から下りは荒川沖宿を飛ばして次の中村宿へ継立していた。そのため牛久宿の負担は大きく、継立業務の人馬数は中山道並みの50人50疋を数えることもあったという。

街道の通行量が増加するにつれ宿場だけでは人馬継立を賄いきれなくなり、周辺の村々に定助郷や加助郷といった助郷役が賦課されたことは以前にも何度か書いた。水戸街道も例外ではなく、牛久宿や荒川沖宿にも定助郷村が割り当てられ、元文5年(1740年)には牛久宿7ヶ村、荒川沖宿3ヶ村と取り決められていた。天明の大飢饉が全国に広がりをみせる頃、牛久宿と荒川沖宿は通行量増大と度重なる災害によって困窮し、更に34ヶ村の加助郷村が割り当てられることになるが、これらの加助郷村は宿場まで遠かったことから人馬提供も容易ではなく、代納として金銭を納めることも多々あった。当時飢饉と重い年貢の負担によって農村部の疲弊は甚だしく、そんな状況下で更に助郷役が賦課された加助郷村は貧窮を極め、村人と宿役人の関係に軋轢を生じさせることになり、文化元年(1804年)ついに村人は結集して百姓一揆を起こす。世に言う牛久助郷一揆で、女化稲荷神社に決起したことから女化騒動とも言う。

水戸街道 牛久宿


北浦坂
牛久宿江戸方入口の北浦坂。


牛久宿・下町
牛久宿下町の家並み。かつての宿場は下町・上町で構成され、北浦坂から現在の本牛久郵便局辺りまでが下町だった。


四国屋米穀店
宿内にある四国屋米穀店。ここで四国屋という屋号には少々目を惹かれる。昔から商いを営んでいたと思われるが、その歴史については不明。四国屋のある交差点対角に芋銭河童碑道と刻まれた道標があり、ここから水戸街道を左折すると牛久城大手門跡を経て牛久陣屋跡の小川芋銭記念館「雲魚亭」へと至る。ちなみに牛久は河童の絵で有名な日本画家小川芋銭の出身地であり、今に残る牛久沼の河童伝説は芋銭の遺産と言えよう。


明治天皇行在所
宿場の中心にある明治天皇行在所の碑。明治17年(1884年)女化原で近衛砲兵大隊の射的演習があり、明治天皇がその視察のために宿泊した場所がここ。


牛久宿・上町
牛久宿本陣跡付近。


牛久宿・上町
牛久宿がくの字状に曲がる辺り。本陣跡から水戸方面を望む。左手に正源寺の山門が見えている。


正源寺
正源寺の山門と旧観音堂。かつて馬頭観音を安置していた観音堂で、文禄元年(1593年)の建立。現在は火伏せの秋葉三尺坊を祀っている。


宮崎利兵衛酒店
牛久宿内の水戸方外れにある宮崎利兵衛酒店。慶応4年(1868年)創業と看板に書かれており、宿場時代から続く商家のようだ。


旧水戸街道 牛久町
牛久宿を抜けた水戸街道は間もなく国道6号に合流する。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

ひたち野うしく

【2010年3月14日(日)水戸街道 牛久宿→荒川沖宿 道中】
牛久宿から次の荒川沖宿への水戸街道は道程約8km。ひたち野うしくと呼ばれる地域をほぼ国道6号のルートに沿って進む。歩いても楽しくない排気ガスと共の国道歩きなのだが、道中に荒川沖・中根一里塚と呼ばれる二つの名を持つ一里塚が現存している。江戸日本橋から17里目(約67km)を示すこの一里塚は東塚(中根)が牛久市、西塚(荒川沖)が土浦市と、国道6号を挟んで行政区域が異なるため一里塚の名称も異なっており、それぞれの一里塚にそれぞれの教育委員会によって説明板が立てられている。

水戸街道 ひたち野うしく


国道6号 牛久駅付近
牛久駅入口付近の国道6号。牛久市街の国道6号は渋滞の名所。


田宮山薬師寺 薬師寺の宝篋印塔
田宮町の田宮山薬師寺。弘仁7年(816年)開基と伝わる古刹だが、幕末頃から住職が居なくなり百年以上も荒廃していたらしい。しかし現代に蘇えったことから”お目覚め薬師さま”と呼ばれる。右写真は境内にある宝篋印塔で、明和5年(1768年)天下泰平と五穀豊穣を祈念して建立されたもの。


国道6号 田宮町 田宮町の旧道
田宮町の国道6号(左写真)。ここから国道を離れて直進方向へ進む道が旧道である。右写真は田宮町に残る旧道。


かっぱ本舗 手焼せんべい
田宮町の国道沿いにある和菓子屋”かっぱ本舗”。ここで地元産コシヒカリを使用して一枚一枚焼き上げたという”手焼せんべい”を購入することに。会計の時、店員のおばちゃんが”くしゅん…くしゅん”とくしゃみが止まらない状態に陥り、「あら、どうしたのかしら…]とつぶやく。
私は「花粉症ですかね。」と白々しく労わりながら、「恐らくそれは僕が外を散々歩いて持ってきた花粉です…]とは言えずに心の中でつぶやいた。申し訳ありません。

かっぱ本舗の詳細はこちらから↓
手作処 かっぱ本舗


国道6号 猪子町・柏田町
猪子町・柏田町を行く国道6号。


小野川と圏央道
小野川と圏央道を越える。


国道6号 ひたち野うしく駅付近
ひたち野うしく駅付近を行く国道6号。この辺りは近年になって開発が進められた新興住宅地で、平成10年(1998年)常磐線にひたち野うしく駅が開業した。


中根一里塚
牛久市側の中根一里塚。


荒川沖一里塚
土浦市側の荒川沖一里塚。


国道6号 荒川沖
荒川沖を行く国道6号。荒川沖駅方面の道が旧道で、荒川沖宿へと入って行く。


テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

荒川沖宿

【2010年3月14日(日)水戸街道 荒川沖宿】
荒川沖宿は牛久宿と合宿の形態をとっており、江戸方面の牛久宿へ片継ぎだけする継立場だった。本陣は置かれず、名主が問屋場を兼ねて務め、旅籠が数軒ある程度の小さな宿場町。地名の由来は荒川沖宿の近郊を流れる乙戸川が氾濫を繰り返す荒れ川であり、その流域に荒川村(現 阿見町荒川本郷)という集落が存在したこと、水戸街道成立後に荒川村から村民を移住させ街道に宿駅を形成させたことから、荒川村の沖(遠い所という意味)ということで荒川沖の地名が作られたという。宿内に茅葺屋根の旧商家が2軒残っており、往時の様子を今に伝えている。

水戸街道 荒川沖宿


八幡神社
荒川沖宿江戸方外れに鎮座する八幡神社。


乙戸川に架かる荒川橋
乙戸川に架かる荒川橋を渡って。


乙戸川
荒川沖という地名の由来になった乙戸川。荒れ川と呼ばれ氾濫を繰り返したのも今は昔。


荒川沖宿 地震発生
荒川沖宿江戸方入口付近。ここで携帯がピーピー鳴り始め地震発生の緊急速報が入り、ここでも揺れを感じる。震源地は福島県沖の結構大きな地震で、茨城県南部は震度3だった。


荒川沖宿
荒川沖宿の町並み。


荒川沖宿
宿場の中心部には一際目を惹く板塀に囲われた大きな旧家がある。


荒川沖天満神社
学問の神様、菅原道真を祀る荒川沖天満神社。


鶴町醤油醸造元
鶴町醤油醸造元。


元旅籠 佐野屋
茅葺屋根の家屋は佐野家住宅。昔は”佐野屋”の屋号で旅籠を営んでいた。


鶴町たばこ店
鶴町たばこ店。宿場時代から商家を営んでいたのだろうが、今も茅葺屋根が美しい佇まいを残している。元旅籠の佐野屋と共に荒川沖宿を今に伝える貴重な建造物だ。


JR荒川沖駅
JR荒川沖駅から帰途につく。

【水戸街道歩き 第4日目】
踏破距離 約17.0km(藤代宿→若柴宿→牛久宿→荒川沖宿)
千住宿から約62km 水戸宿まで約53km
まだまだ寒い日が続く3月中旬、啓蟄を迎えて少しだけ春の息吹を感じる1日だった。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

Flashカレンダー
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
データ取得中...
最近のトラックバック
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

お気に入りブログ
ブログ内検索
RSSフィード
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター