【2010年3月20日(土)水戸街道 土浦宿】
土浦藩主の譜代大名土屋家9万5千石の土浦城下に置かれた宿場、土浦宿。水戸街道は銭亀橋を渡って江戸方出入口の南門(高津口)から城下に入り、城郭の東側を迂回して水戸方出入口の北門(真鍋口)へ至っており、銭亀橋から北門にかけての沿道に大町・田宿町・中城町(中茶町)・本町・田町・横町の町家が並んだ。水戸街道と霞ヶ浦に通ずる桜川によって、陸運・水運の要衝として町は大いに賑わい、江戸時代中期の享保年間に2300人弱だった城下の人口は、幕末の安政3年(1856年)には5357人と倍増しており、その発展ぶりがうかがえる。水戸道中では千住・水戸に次ぐ規模を誇る商業都市だったが、周辺に良質の大豆・麦を産出する穀倉地帯があり醤油醸造の産業も発達した。
元文年間(1736年~1741年)の絵図によると本陣は2軒定められ、山口家と大塚家が務めたというが、その本陣両家は跡形も無くなっている。しかし、旧中城町の水戸街道沿道に天明5年(1785年)から呉服商を営んだ大徳が江戸時代末期建築という町家造りの見世蔵と袖蔵を残し、その向かいには安政7年(1860年)建築の商家、旧野村家が同じく古い佇まいを残している。いずれも”まちかど蔵”となって、現在は休憩所や資料展示室、土産物屋として利用されているので、是非とも立ち寄っておきたい場所だ。また、旧中城町には矢口酒店(矢口家住宅)が重厚な土蔵造りの商家建築(県指定文化財)を残しており、歩いてみると町並みもさることながら城下の町割りの様子も伝わってきて、土浦は意外に見所が多いなと感じた。


土浦宿江戸方外れに位置する大町の町並み。

現在は埋め立てられてしまったが高架道路(土浦ニューウェイ)下の道は上沼と下沼を繋ぐ水路(水堀)で、水戸街道には簀子(すのこ)橋が架かり、橋の北詰に南門が設置されていた。

元文4年(1739年)建立の東光寺瑠璃光殿。東光寺は慶長12年(1607年)開基と伝わる。寺域に華岡青洲に外科を学んだ土浦藩医辻元順の墓があり、墓地の南東隅に南門土塁の遺構が残っている。

等覚寺の銅鐘は常陸三古鐘の一つに数えれれる国指定重要文化財。建永年間(1206年~1207年)小田城主の八田知家が藤沢城下(現 土浦市藤沢)の極楽寺に寄進したもの。極楽寺は江戸時代初期に土浦城下に移され等覚寺に改称。銅鐘は城内にあって江戸期を通じて時の鐘として利用され、明治17年(1884年)等覚寺に返却された。

土浦城大手門の跡。元和8年(1622年)に設置され、明治6年(1873年)土浦城の廃城と共に撤去された。二門を備えた内枡形であり、外側が単層の門、内側が二層の櫓門だった。

老舗蕎麦屋の吾妻庵。明治初期の創業で大正期に現在地へ移転したという。

矢口酒店(矢口家住宅)の見世蔵と袖蔵は長い歴史を感じさせる重厚な佇まい。

土浦まちかど蔵「野村」。明治期より砂糖商を営んだ旧商家野村家の店舗で、安政7年(1860年)に建てられたもの。砂糖の保存庫に使われていたレンガ蔵が喫茶店として利用されている。

土浦まちかど蔵「大徳」。天明5年(1785年)創業という老舗の呉服店で、町家造りの特徴をよく伝える建物を残している。昭和49年(1974年)に駅前大通り沿いへ移転するまでここで営業を続けていた。

退筆塚不動院と琴平神社。1本の参道に鳥居と山門が並ぶ神仏混交な感じが珍しい。ここは江戸時代後期に沼尻墨僊の開いた寺子屋があった場所で、墨僊の七回忌(文久2年)に門人等によってその学徳を偲び築かれた退筆塚の碑が残る。

明治2年(1869年)創業の保立食堂。水戸街道と川口川(現 駅前通り)が交差する櫻橋西袂に位置し、その地の利から大いに繁盛したという。

川口川渡河地点の水戸街道に架けられていた桜橋跡。昭和10年(1935年)に川が埋め立てられてしまったため、欄干の親柱だけが残されている。

旧中城町を東へ進んだ水戸街道は旧本町で北へ向きを変える。

旧中町から旧田町にかけての町並み。

旧横町に鎮座する月読神社。

土浦城下水戸方出入口(真鍋口)の北門跡。門外にはS字型に街道を曲げた馬出しがあった。北門は大手門と同様、明治6年(1873年)に撤去された。
テーマ : 街道の旅
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