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県道180号長岡水戸線

【2010年5月5日(水)水戸街道 長岡宿→水戸宿】
水戸街道は長岡十字路の先から元吉田町まで県道180号長岡水戸線のルートを辿る。途中、国道6号と道筋を共にして茨城町から水戸市へ入り、東野町交差点で左斜めに国道と分かれて再び県道180号を進む。吉沢町から元吉田町に入って間もなく、江戸日本橋から29里目(約114km)となる元吉田の一里塚に出会い、更に県道を北進して国道50号水戸バイパスを横断すれば、一里塚三差路と呼ばれるY字路に至る。ここから県道を離れて直進方向に進む道が旧道で、分岐点に牛馬頭観世音が立っている。

水戸街道 長岡・東野町・吉沢町・元吉田町


県道180号 長岡 マージャン大学 課長部屋
長岡の県道180号長岡水戸線。かつてこの辺りの街道筋は松並木だったのだが、見ての通り全くその面影は残っていない。県道と国道6号の合流点に”マージャン大学 課長部屋”なる雀荘があり、ちょっと目に留まったので…。中間管理職の隠れ家的な感じ。


国道6号 矢頭南交差点
矢頭南交差点を行く国道6号。この辺りに江戸日本橋から28里目(約110km)を示す一里塚があったらしいが、水戸街道が国道6号と化してしまった現在、遺構どころかその位置すらわからなくなっている。


長岡の国道6号沿道にて
長岡の国道6号沿道にて。もうすぐ田植えだ。


国道6号 茨城町と水戸市の境
ついに水戸市へ!


熱田神社
旧吉沢村の江戸方入口に鎮座する熱田神社。


県道180号 吉沢町
吉沢町を行く県道180号。沿道には大ケヤキがそびえ立つ。


元吉田の一里塚 元吉田の一里塚
水戸街道最後の一里塚となる元吉田の一里塚。


県道180号 吉田小南交差点 金山稲荷神社
吉田小南交差点で国道50号を横断。その交差点付近に金山稲荷神社が鎮座する。


水戸街道 元吉田
一里塚三差路と呼ばれるY字路。直進方向が旧道の道筋。


牛馬頭観世音
一里塚三差路の分岐点に立つ牛馬頭観世音碑。昭和22年(1947年)建立とあるから、新道(現県道180号)の敷設後に建てられたものだろう。


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同心町から台町へ

【2010年5月5日(水)水戸街道 長岡宿→水戸宿】
一里塚三差路から元台町の入口にかけての旧道には2ヶ所の枡形が残っており、この枡形に挟まれた街道周辺は同心町(現 元吉田町字同心町)と呼ばれた。つまり江戸方から来て1つ目の枡形が同心町の江戸方入口で、2つ目の枡形が同心町と台町(現 元台町)の境界になる。同心町はその名が示すように水戸藩の足軽階級が住む長屋が軒を連ね、台町には町家が並んで賑わったのだろう。台町の北端にあたる吉田神社の手前で街道は右に折れて藤柄坂の下りとなる。江戸時代の藤柄坂は男坂・女坂という2通りのルートが設けられていたが、現在は男坂・女坂の間に新道が敷設されて3通りになっている。

水戸街道 元吉田町・元台町・宮内町


同心町江戸方入口の枡形
今も屈曲の道筋を残す同心町江戸方入口の枡形。


水戸街道 同心町
同心町に残る旧道は県道235号下入野水戸線に分断されている。沿道に同心町と名付けられた時代の面影は残っていない。


水戸街道 同心町 同心町・台町境界の枡形
同心町・台町境界の枡形。江戸方から来ると真鍋肉店がある変則四差路を右に進み県道180号を水戸方面へ向かうのが旧道のルート。


水戸街道 元台町
元台町の町並み。元々は台町と呼ばれた地域で、現在は”元”の字が冠されている。千波湖南側の舌状台地上に位置しており、薬王院の門前町としてかなり古くから町を形成していたと思われる。


薬王院本堂
薬王院は桓武天皇の勅願により延暦年間(782年~806年)伝教大師(最澄)が創建したと伝える。現在の本堂は享禄2年(1529年)当時の領主江戸道泰の援助によって再建された建物で、国指定重要文化財。中山道御嵩宿の蟹薬師願興寺を彷彿させる大きな本堂は願興寺本堂と建築年が近く、天皇勅願所・最澄の開基・本尊が薬師如来等、共通項が多い。

関連記事


薬王院仁王門 松平亀千代丸五輪塔
江戸時代の建築という薬王院仁王門と、境内に残る松平亀千代丸五輪塔。


藤柄坂新道
元台町の北端にあたる藤柄坂の新道。ここから水戸城下入口の銷魂橋へ向けて台地を下る。陸軍航空通信学校(現 水戸市住吉町)が昭和15年(1940年)に設立された際、軍用道路として急造されたのが新道である。新道の敷設以前は男坂・女坂の2通りがあり、新道が本道となった今もその坂道を残している。


吉田神社
日本武尊が東征からの帰途、この地朝日山に兵を留めて憩わせたという故事から、日本武尊を祭神に祀り創建されたという吉田神社。創建年は不詳であるが延喜式神名帳に名を連ねる相当の古社である。水戸市街を眼下におさめる舌状台地の突端に位置しており、吉田神社の見晴台は茨城百景の一つに数えられる。


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銷魂橋

【2010年5月5日(水)水戸街道 長岡宿→水戸宿】
藤柄坂を下りきれば藤柄町に入り、水戸街道は最終コーナーを迎えて間もなく銷魂(たまげ)橋に辿り着く。銷魂橋は慶長15年(1610年)関東郡代伊奈備前守忠次によって開削された備前掘に架かり、江戸街道の起点とされる橋。水戸側から見れば水戸街道は江戸街道であり、つまり銷魂橋は水戸街道の終点ということになる。水戸城下の水戸宿入口にあたり、橋の袂には高札が置かれていた。

水戸街道 水戸宿


水戸街道 藤柄町
藤柄町の旧道は写真に示すように最終コーナーとなる鉤の手の曲りを経て銷魂橋へ向かう。藤柄町は水戸初代藩主徳川頼房の時代に遊郭が置かれ大いに賑わったが、後に町の風紀があまりに乱れて他へ移されたという。今となってはそんな話は信じられないほどに静かな町だけどね。


水戸街道 白梅4丁目・紺屋町
最後の直線!突き当たりは備前堀、いよいよ銷魂橋は近い。


水戸街道 紺屋町 金刀比羅神社
備前堀に突き当たって右折すれば銷魂橋が姿を現す。右の写真はその曲り角に鎮座する金刀比羅神社。


銷魂橋 江戸街道起点碑
水戸街道の終点となる銷魂橋とその袂にある江戸街道起点碑。元々は七軒町橋と呼ばれていたが、江戸へ向かう人をここまで見送り別れを惜しんだことから、水戸光圀公によって銷魂橋の名が付けられたと伝わる。新道の敷設以前は現在よりもう少し西側に橋が架けられていたようだ。


銷魂橋と備前堀
魂消橋と備前堀。幕末動乱の渦中にあった水戸藩、どれだけの人がここで別れを惜しんだのだのか。送る人あらば、送られる人あり。いつかまた会えると信じ、いつかまたこの橋を渡る日が来ると信じ、そしてこれが最後の別れになろうとは誰も信じなかったろう。そんな光景が脳裏をよぎる場所である。


三宝荒神竈神社
魂消橋から北西の備前堀沿いにある三宝荒神竈神社。元々は三宝荒神として水戸城内に祀られていたが、変遷あって元禄3年(1690年)から現在地に鎮座している。天保年間(1830年~1843年)竈神社に名を改められたといい、”おかまさま”の呼称で火の神・かまど神として民間で広く信仰された。

ここで無事に水戸街道を踏破できたことを報告し、次の歩き旅も無事に成し遂げられるよう祈願。ゴォール!と言いたいところだが、もう少し足を延ばして水戸宿を終着点にしよう。


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水戸宿

【2010年5月5日(水)水戸街道 水戸宿】
まずは水戸城下の構造を簡単に説明しておく。かつての千波湖は現在の水戸駅南側一帯を占める大きな水域があり、その千波湖と那珂川に挟まれた高台に水戸城(本丸・二の丸・三の丸・下の丸)が築かれ、周辺を武家屋敷が取り囲んでいた。その中心部から西側台地に上市(現 泉町・大工町)、東南側低地に下市(現 本町)と呼ばれる町屋が形成されており、水戸街道の宿場は下市にあって本陣・脇本陣・問屋場・旅籠のほか様々な商家が軒を連ね賑わったという。水戸街道をはじめ岩城相馬街道や棚倉街道、飯沼街道が下市から、南郷街道・結城街道・瀬戸井街道が上市から延びており、水戸は四方八方から諸街道が集う交通の要衝だった。さすがは徳川御三家の城下町である。


旧七軒町
銷魂橋から旧七軒町(現 本町1丁目)を歩いて水戸宿へ向かう。この辺りは江戸時代初期に開かれた町の一部で、当時七軒の商家があったので七軒町と名付けられた。


水戸宿
ハミングロード513(本町商店街)西側入口。ここから水戸宿の中心部へ。


能化稲荷神社
旧本一丁目に鎮座する水戸光圀公ゆかりの能化稲荷神社。


水戸宿
かつての水戸宿はハミングロード513(本町商店街)となっている。水戸は戦時中に空襲を受け、下市辺りの建物も全て焼けてしまったという。宿場町を偲ばせる建物は残っていない。


水戸宿 江戸(水戸)街道宿場跡碑
商店街の中に立つ江戸(水戸)街道宿場跡碑。


水戸宿
ハミングロード513東側入口の交差点(旧本四丁目)が水戸街道の終着点。ここがゴールだあ!…と、内心喜びつつも何か呆気ない感じ。ここにある陸前浜街道起点碑の頭を撫でなでして自らの労をねぎらう。


陸前浜街道起点碑
陸前浜街道起点碑。ここから更に北の奥州岩沼宿(現 宮城県岩沼市)へ至る岩城相馬街道が延びていた。明治初期に水戸街道と岩城相馬街道を併せて陸前浜街道と改称されることになる。


桜川
水戸街道を歩き終え、桜川を渡って水戸城へ。


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水戸城っ!

【2010年5月5日(水)水戸街道 水戸宿】
水戸藩徳川家の有名どころの藩主といえば、2代光圀と9代斉昭であろう。光圀は日本人の誰もが知っている水戸の黄門様であり、斉昭といえば幕末物の時代劇には欠かせない人物。斉昭はその激しい気性からペリー来航以後、強硬な攘夷論を説いて開国派の井伊直弼と対立し、この一事が水戸藩の人々を幕末動乱の真っ只中へ送り込むことになる。ちなみに江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は斉昭の七男。そんな多士済々の人物を生んだ水戸徳川家は徳川家康の十一男、徳川頼房が慶長14年(1609年)に入城して以来、江戸期を通じて水戸城を居城とする。しかしながら、居城とは言っても水戸藩主は江戸定府(藩主が江戸に定住し将軍を補佐すること)と定められていたため、ほとんど藩主が在城しない状態だった。

水戸城は北に那珂川、南に千波湖という天然の水堀に挟まれた丘陵上に築かれる連郭式平山城。最初にここへ居館を構えたのは常陸大掾氏の一族である馬場資幹という人であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にまで溯る。当時の千波湖は現在より遥かに大きな水域があり、城を築くには好適地だったことは現在の水戸城址を散策するだけでもひしひしと伝わってくる。本丸と二の丸、二の丸と三の丸の間は南北にもの凄く深い堀で切られており、この堀は近代城郭へと進化する過程で人為的に開削されたものだろう。現在の本丸跡は県立水戸第一高校の敷地となっており、二の丸と本丸を繋ぐ本城橋東詰に戦国時代末期の佐竹氏時代のものと推定される薬医門が移築されている。この薬医門は水戸城の唯一残る遺構である。

水戸城址


本丸と二の丸を隔てる水堀・空堀跡
本丸と二の丸を隔てる堀跡。現在は深い堀底を水郡線が通っている。正保元年(1644年)作成の常陸国水戸城絵図を見てみると、現在の二の丸跡と本丸跡を繋いでいる本城橋(写真中央に架かる橋)が堀切の本丸入口であり、北側の堀が空堀で南側が水堀になっている。


本城橋
水郡線上に架かる本城橋。かつてこの橋が架かる地点は本丸へ通ずる堀切だったが、おそらく水郡線敷設時に取り壊され橋が架けられたのだろう。


水戸城本丸跡・水戸一校
本丸跡は県立水戸第一高校の敷地になっているが、見学目的であれば自由に入ることができる。水戸城唯一つ残る建造物という薬医門が移築されている。


水戸城薬医門
水戸城薬医門。元々は茅葺屋根で現在は銅板葺に改築されてはいるが、威厳ある門構えは健在だ。この城門のあった位置は定かではなく永らく城外に移されていたが、昭和56年(1981年)現在地に移築された。解説板には「城門のあった位置には諸説あるが、城門の風格からみて橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられる。」と書かれている。


水戸城跡の大シイ
水戸城二の丸跡、水戸市立第二中学校の敷地に根を張る大シイ(スダジイ)。戦国時代から自生していると伝わる推定樹齢約400年の古木。水戸城の変遷を見てきた生き字引と言えよう。


水戸城三階櫓
かつて二の丸南側崖近くに建てられていた三階櫓。昭和20年(1945年)の戦災で焼失した。


大手橋
二の丸跡と三の丸跡を繋ぐ大手橋。最初の架橋は佐竹氏時代の慶長元年(1596年)のことで、橋の東詰に大手門が築かれていた。


大手門
在りし日の大手門の姿。慶長6年(1601年)佐竹義宣によって築かれ、江戸期を通じて大手門として使われたが、明治初期に解体撤去された。


水戸弘道館
三の丸跡に建つ水戸弘道館。時計の針は18時を回って既に閉館しており、内部の見学は他日を期すことに。とにもかくにも水戸弘道館を水戸街道歩きのゴールとする。


水戸黄門 助さん格さん像
最後は水戸駅前の”水戸黄門 助さん格さん像”で。お疲れ様でしたー。


ビアヘーロさん、宇田川さん、washiroさん、ヨヨ子さん、スモールアイランドさん、まし~んさん、ばけっちさん、さきこさん、猫が好き♪ さん、ビール党さん(順不同)
色々な情報や応援のコメントを頂戴し、本当に有難うございました。
そして猫が好き♪さん、コメントを返しそびれてすみません。我孫子宿~若柴宿間の古水戸街道(布川街道)は、会津西街道の冬期中断期間に歩こうと思っていますので、その時はまた情報提供をお願いします。

【水戸街道歩き 第8日目】
踏破距離 約15.7km(小幡宿→長岡宿→水戸宿)
千住宿から水戸街道を歩いて約114km、水戸宿に到着。ゴールだっ!


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水戸街道を歩き終えて

水戸街道の歩き旅を振り返り思ったことは、身近にありながら意外に楽しめる旧街道だったということだ。取手宿・中貫宿・稲吉宿には本陣の建物が現存しており、関東圏にありながらこれだけ本陣が現存している旧街道は稀有な存在だろう。また、我孫子宿や長岡宿には脇本陣、小金宿や稲吉宿、堅倉宿には旧旅籠の建物が現存しており、街道を往来する旅人で賑わった宿場町の様子を今に伝えている。そんな水戸道中で最も印象深いのは、やはり取手宿本陣の染谷家旧宅だろう。無料で一般公開されていることもさることながら、入母屋造りの格式高い玄関に茅葺屋根を冠する威風堂々とした主屋は、一歩中へ入れば未だに当時の住人の生活感すら感じてしまうほどの異空間である。いずれまた再訪したい場所であり、イチオシのパワースポットならぬ旧街道スポットだ。

百聞は一見にしかずとは良く言ったもので、旧街道や宿場町の歴史を知りたいのであれば、やはり旧街道を歩くのが手っ取り早い。自分の足以外に移動手段が無かった時代の先人達は、江戸から100km以上離れた水戸まで2泊3日の行程で辿り着いたというから、実際に自分の足で歩いてみれば、いかにその凄さがどれほどのものかを実感させられるだろう。言ってみれば3連荘でフルマラソンの距離を歩くことであり、江戸時代人の健脚振りには驚かされる。そんな江戸時代人になりきって旧街道を歩いてみれば、現代では全く役に立たなくなった歴史的遺物と化している道標や一里塚もその存在意義を少なからず理解できるだろう。さあ!書を捨てよ、街道を歩こう!寺山修司のパクリである。

水戸弘道館


【 水戸街道 旅の記録 】

1日目(2010/2/7)千住宿→新宿→松戸宿 MAP

2日目(2010/2/13)松戸宿→小金宿→呼塚河岸 MAP

3日目(2010/2/20)呼塚河岸→我孫子宿→取手宿→藤代宿 MAP

4日目(2010/3/14)藤代宿→若柴宿→牛久宿→荒川沖宿 MAP

5日目(2010/3/20)荒川沖宿→中村宿→土浦宿 MAP

6日目(2010/4/4)土浦宿→中貫宿→稲吉宿→府中宿 MAP

7日目(2010/4/29)府中宿→竹原宿→堅倉宿→小幡宿 MAP

8日目(2010/5/5)小幡宿→長岡宿→水戸宿 MAP


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会津西街道っ!

会津西街道概略図

旧宿場町として中山道の妻籠宿・奈良井宿と同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定される大内宿。実際に行ったことが無くても、茅葺屋根の民家が連なる大内宿の写真を見たことがある方は多いだろう。大内宿は会津南部の山間に位置する会津西街道の宿場町として栄えた場所で、江戸時代の宿場町の景観を今に良く残している。いや、良く残しているらしいと言った方が正確だろう。そう、私は大内宿に一度も訪れたことが無いのだ。だいぶ前から行ってみたいとは思っていたのだが、その機会もなかなか訪れずに月日は流れ、日光街道の今市宿に着いたときにここから会津西街道を北上すれば大内宿に行けるんだなあ…、と思ったことが会津西街道を歩こうと考えたきっかけである。

会津西街道は日光街道の今市宿(現 栃木県日光市)から会津(現 福島県会津若松市)の若松城下へ至る街道で、会津側からは下野街道や南山通りとも称された。江戸時代初期に会津初代藩主の保科(松平)正之によって整備された会津本街道五筋の一つであり、今市宿を起点にして大桑・高徳・大原・藤原・高原新田・五十里・中三依・上三依・横川の宿場を経て山王峠を越え、旧会津領の福島県へ入ってからは糸沢・川島・田島・楢原・倉谷・大内・関山・福永といった宿場を経て終着点の若松城下へと至る全長約130kmの街道である。

江戸時代初期に会津若松から江戸方面へ向かう街道は2通りあって一つは会津西街道であり、もう一つは白河街道から奥州街道へと通ずるルートである。奥州街道は言わずもがなの五街道の一つであり、会津西街道は会津藩主をはじめ越後の新発田藩主や村上藩主が参勤路として利用し、また、両ルートは会津藩の廻米を輸送する重要なルートだった。しかし、天和3年(1683年)日光大地震により五十里宿付近の山が崩落して男鹿川が堰き止められ、地震湖(五十里湖)が出現して会津西街道は通行不能に陥った。そこで新たに開発されたのが会津城下から白河・奥州街道と会津西街道の中間を南下して奥州街道の氏家宿へ至る会津中街道である。

会津中街道は元禄8年(1695年)会津3代藩主保科(松平)正容によってに整備され、会津西街道の代替路としてしばらくの間利用されたが、元々難路だったことに加えて大雨等による道中の崩落が著しくなり、宝永元年(1704年)には街道としての役目を終えている。その後、会津から江戸方面への参勤路は白河経由の奥州街道が唯一の本道となったが、享保8年(1723年)の大水害で五十里湖が決壊したことにより、会津西街道が再整備された。再び会津藩主が会津西街道を通行するのは会津8代藩主松平容敬の時で、会津西街道が通行不能になってから約140年後の文政10年(1827年)のことである。周辺住民にとっては久々に迎える大名行列で苦労もあったろうが、感無量の面持ちだったのではなかろうか。

幕末から明治期にかけての会津西街道は戊辰戦争終盤の舞台であり、若松城へ向かう旧幕府軍と追撃する新政府軍の攻防の場となっている。その辺りの詳細については後々記事に書くことにするが、水戸から始まった尊攘思想のうねりが、ゆくゆくは日本を保守派と改革派の真っ二つに分けて会津戦争の悲劇へと突入していくあたりに、私が水戸街道の次に会津西街道を歩くことになった縁はあるのかも知れない。さてさて、そんな会津西街道がどんな姿になって今に残り、どんな風景を見せてくれるのか楽しみだ。いざ、会津西街道へ!


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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