銷魂橋
【2010年5月5日(水)水戸街道 長岡宿→水戸宿】
藤柄坂を下りきれば藤柄町に入り、水戸街道は最終コーナーを迎えて間もなく銷魂(たまげ)橋に辿り着く。銷魂橋は慶長15年(1610年)関東郡代伊奈備前守忠次によって開削された備前掘に架かり、江戸街道の起点とされる橋。水戸側から見れば水戸街道は江戸街道であり、つまり銷魂橋は水戸街道の終点ということになる。水戸城下の水戸宿入口にあたり、橋の袂には高札が置かれていた。


藤柄町の旧道は写真に示すように最終コーナーとなる鉤の手の曲りを経て銷魂橋へ向かう。藤柄町は水戸初代藩主徳川頼房の時代に遊郭が置かれ大いに賑わったが、後に町の風紀があまりに乱れて他へ移されたという。今となってはそんな話は信じられないほどに静かな町だけどね。

最後の直線!突き当たりは備前堀、いよいよ銷魂橋は近い。

備前堀に突き当たって右折すれば銷魂橋が姿を現す。右の写真はその曲り角に鎮座する金刀比羅神社。

水戸街道の終点となる銷魂橋とその袂にある江戸街道起点碑。元々は七軒町橋と呼ばれていたが、江戸へ向かう人をここまで見送り別れを惜しんだことから、水戸光圀公によって銷魂橋の名が付けられたと伝わる。新道の敷設以前は現在よりもう少し西側に橋が架けられていたようだ。

魂消橋と備前堀。幕末動乱の渦中にあった水戸藩、どれだけの人がここで別れを惜しんだのだのか。送る人あらば、送られる人あり。いつかまた会えると信じ、いつかまたこの橋を渡る日が来ると信じ、そしてこれが最後の別れになろうとは誰も信じなかったろう。そんな光景が脳裏をよぎる場所である。

魂消橋から北西の備前堀沿いにある三宝荒神竈神社。元々は三宝荒神として水戸城内に祀られていたが、変遷あって元禄3年(1690年)から現在地に鎮座している。天保年間(1830年~1843年)竈神社に名を改められたといい、”おかまさま”の呼称で火の神・かまど神として民間で広く信仰された。
ここで無事に水戸街道を踏破できたことを報告し、次の歩き旅も無事に成し遂げられるよう祈願。ゴォール!と言いたいところだが、もう少し足を延ばして水戸宿を終着点にしよう。
藤柄坂を下りきれば藤柄町に入り、水戸街道は最終コーナーを迎えて間もなく銷魂(たまげ)橋に辿り着く。銷魂橋は慶長15年(1610年)関東郡代伊奈備前守忠次によって開削された備前掘に架かり、江戸街道の起点とされる橋。水戸側から見れば水戸街道は江戸街道であり、つまり銷魂橋は水戸街道の終点ということになる。水戸城下の水戸宿入口にあたり、橋の袂には高札が置かれていた。


藤柄町の旧道は写真に示すように最終コーナーとなる鉤の手の曲りを経て銷魂橋へ向かう。藤柄町は水戸初代藩主徳川頼房の時代に遊郭が置かれ大いに賑わったが、後に町の風紀があまりに乱れて他へ移されたという。今となってはそんな話は信じられないほどに静かな町だけどね。

最後の直線!突き当たりは備前堀、いよいよ銷魂橋は近い。


備前堀に突き当たって右折すれば銷魂橋が姿を現す。右の写真はその曲り角に鎮座する金刀比羅神社。


水戸街道の終点となる銷魂橋とその袂にある江戸街道起点碑。元々は七軒町橋と呼ばれていたが、江戸へ向かう人をここまで見送り別れを惜しんだことから、水戸光圀公によって銷魂橋の名が付けられたと伝わる。新道の敷設以前は現在よりもう少し西側に橋が架けられていたようだ。

魂消橋と備前堀。幕末動乱の渦中にあった水戸藩、どれだけの人がここで別れを惜しんだのだのか。送る人あらば、送られる人あり。いつかまた会えると信じ、いつかまたこの橋を渡る日が来ると信じ、そしてこれが最後の別れになろうとは誰も信じなかったろう。そんな光景が脳裏をよぎる場所である。

魂消橋から北西の備前堀沿いにある三宝荒神竈神社。元々は三宝荒神として水戸城内に祀られていたが、変遷あって元禄3年(1690年)から現在地に鎮座している。天保年間(1830年~1843年)竈神社に名を改められたといい、”おかまさま”の呼称で火の神・かまど神として民間で広く信仰された。
ここで無事に水戸街道を踏破できたことを報告し、次の歩き旅も無事に成し遂げられるよう祈願。ゴォール!と言いたいところだが、もう少し足を延ばして水戸宿を終着点にしよう。

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