相の道

【会津西街道歩き 第1日目】今市宿→大桑宿→高徳宿



【2010年7月11日(日)会津西街道 今市宿】
梅雨明け間近の7月中旬、天気は案の定ぐずついた曇り。決して負け惜しみではないが、夏は時々小雨が降る程度の曇り空の方が歩きやすく、私にとっては絶好のウォーキング日和と言ってよい。北千住駅構内のドトールで朝食を済ませ、9:12発の東武鉄道特急きぬ105号(鬼怒川温泉行)に乗車、定刻通りの10:40に下今市駅へ到着する。まずは日光街道と例弊使街道の合流点にある追分地蔵尊へ行き、ここで会津西街道歩き旅の踏破と道中の安全を祈願して今市宿の相の道へと向かう。いよいよ会津西街道歩きのスタートだ!

相の道は日光街道と会津西街道の追分の呼称であり、国道119号(日光街道)と国道121号が交差する春日町交差点から約80m宇都宮側、たまり漬の老舗日野為商店前のT字路がその分岐点である。何ゆえ”相の道”と呼ばれるようになったのかは不明であるが、江戸時代にはこの名称が定着していたようだ。会津西街道と日光街道が相見える場所だったという由来が自然な気がするが、もしかすると”相”の字と読みが同じな”会”の字ををかけて、”会津への道”という意味も込められているのかもしれない…と、勝手な想像も膨らむ。ちなみにこの辺り、一昔前は相生町と称されていた。

相の道から国道121号へ合流する約250mの小径は”相の道通り”と称され、この道筋が会津西街道の旧道であり、江戸時代には今市宿の商家が軒を連ねた。現在は老舗な屋号の店が並ぶ静かな商店街となっており、中でも松本商店と隣の坂本屋荒物店が老舗らしい佇まいを残し、その斜向かいには看板建築の小林希世料理教室があってレトロ感がぷんぷんと漂っている。相の道は菊屋造花店前から下り坂となり、途中左手に酒屋の旧商店らしき建物前を通って、間もなく国道121号へ合流する。

国道121号に合流してからの街道は東武日光線の高架下を潜り、大谷川へ架かる大谷橋へ向かう。元来の大谷川は現在より北側を流れる古大谷川の流路が本流であり、慶長年間(1596年~1615年)の大洪水によって現在に見る川筋になったといわれる。大谷橋について日光市歴史民俗資料館に問い合わせてみたところ、大谷橋が初めて架橋されたのは明治27年(1894年)のことで、それ以前は土橋等の簡単なものがあったが架橋地点はわからないとのこと。おそらく、明治27年の架橋地点は地図に点線で示すルート上にあり、昭和5年(1930年)の大谷橋開通時に実線で示す現国道121号ルートに付け替えられたと思われる。

会津西街道 今市宿


追分地蔵尊
再び追分地蔵尊の前に立つ。会津西街道の踏破と道中の安全を祈願して。


相の道 旧会津西街道相之道通りの標柱
会津西街道と日光街道の分岐点、相の道。


相の道
会津西街道から相の道を望む。正面突き当りの店が日野為商店。


相の道通り
会津西街道の旧道、相の道通り。


相の道通り
松本商店と坂本屋荒物店は老舗な佇まい。


小林希世料理教室
レトロな看板建築の小林希世料理教室。


旧商店
立派な松に目を惹かれる旧商店。サッポロビールの古そうな看板が掲げられていることから、昔は酒屋だったのだろうか。


国道121号 瀬川
瀬川を行く会津西街道(国道121号)。瀬川には回向庵という寺があり、戊辰戦争の今市攻防戦で戦死した官軍兵(土佐・佐賀藩兵)24名の墓がある。


大谷橋
大谷川に架かる大谷橋。


大谷川
大谷橋から下流方向を望む。明治初期以前は大谷橋より下流域に土橋か板橋が架けられていたと思われるのだが、今となっては知る由もない。


大谷川
大谷橋から上流方向には日光連山がきれいに望めるはずなのだが…天気わるっ。


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大谷向

【2010年7月11日(日)会津西街道 今市宿→大桑宿 道中】
大谷川を越えると会津西街道の沿道は大谷向(だいやむこう)の町並みになる。大谷向は今市宿の北側出入口にあたり、会津西街道と日光北街道の分岐点に位置することから、江戸・明治の頃は旅人相手の茶屋や商家等が軒を連ねて賑わったのだろう。大正6年(1917年)下野軌道の大谷向今市駅(現 東武鉄道鬼怒川線大谷向駅)が開業し、大正から昭和期にかけて人と車馬の流れが集う大谷向の町は商店街へと変遷して繁盛したのだろうが、交通の主流が自動車へと移り変わり、さらに昭和46年(1971年)国道121号バイパスが完成したことにより車の流れもバイパスへ移ってしまったことから商店街は衰退して解散した。

ここで日光北街道について簡単に触れておく。日光北街道は会津西街道と同じく江戸時代に整備された街道で、大谷向で会津西街道から分わかれて大渡宿で鬼怒川を渡河し、船生・玉生・幸岡・矢板・沢・薄葉の宿駅を経て大田原城下へ至る現在の国道461号にほぼ沿うルートである。奥州方面から日光へ向かうには宇都宮を経由するよりも距離が短く、つまりショートカットできることから奥州の諸大名をはじめ庶民の日光参詣道として利用された。また、高徳宿から日光北街道を通って奥州街道の鬼怒川渡河地点にある阿久津河岸へ通ずるルートがあったことから、会津藩から江戸へ運ばれる廻米等の物資輸送路としての役目もあった。

会津西街道 大谷向


国道121号 大谷向交差点
大谷向交差点から旧道を望む。


大谷向 久保田屋製菓店
大谷橋から大谷向町会所にかけての会津西街道(国道121号)。右写真はその沿道にある大正時代創業の久保田屋製菓店で老舗らしい佇まいを見せている。


本敬寺
今市七福神の一つ、寿老人札所の本敬寺。


大谷向町会所
会津西街道(国道121号)は大谷向町会所前で曲げられて大谷橋へ向かっているが、大谷橋架橋前の江戸時代には町会所から直進方向に進んで大谷川を渡河していたようだ。


大谷向
野州吟醸味噌の醸造元、神保栄三久商店(写真左手前)。創業明治35年(1902年)の老舗蔵元。


会津西・日光北街道分岐点
会津西街道と日光北街道の分岐点。ここに延宝8年(1680年)建立の道標が残されているが、全く気付かずに未確認。また、同じ場所にあったという道標を兼ねた庚申供養塔が大谷向町公民館の敷地に保存されているらしい。会津西街道の道標は希少と思われるので後日確認したい。


大谷向
大谷向の家並みが途切れると杉並木の街道へ。


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会津西街道の杉並木

【2010年7月11日(日)会津西街道 今市宿→大桑宿 道中】
いよいよ会津西街道の杉並木へ入る。日光東照宮への参道である日光街道・例弊使街道・会津西街道の3街道にわたる日光杉並木は、松平正綱が寛永2年(1625年)から20余年の歳月を費やして杉を植樹し東照宮に寄進したもので、総延長37kmにも及ぶ杉並木の街道は400年近く経た現在も江戸時代の景観をよく残しており、国の特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受ける。杉並木の起点である神橋の畔と3街道の並木終点それぞれに並木寄進碑が置かれ、この寄進碑は日光神領境界を示していたことから境石とも呼ばれた。

かつて会津西街道の杉並木は大谷向から始まり、大桑宿を挟んで鬼怒川渡河地点の石塔島(現 鬼怒川カントリークラブ)まで続いていた。しかしながら、倉ヶ崎新田・倉ヶ崎地区内の杉並木が明治17年(1884年)の道路改修によって消失、大桑宿から石塔島にかけての杉並木は享保8年(1723年)の五十里洪水で流失して早々と姿を消し、街道も幕末に中岩橋が架橋されて付け替えがあり、明治期には用なしとなって消え失せたようだ。大桑宿~石塔島間の並木消失部分については後の記事に譲るとして、ここでは倉ヶ崎新田・倉ヶ崎地区内の並木消失部分について詳しく触れておこう。

日光自動車学校から十文字食堂にかけての街道は明治期に敷設された道路で、江戸期の旧道は下記の地図に示すようなルートを辿っていた。地図上に記した旧道のルートは「倉ヶ崎ホームページ」内にある倉ヶ崎地内の道路位置変更図を参考にした。この区間の旧道はほとんど消失しているようだが、栃木日産裏手の小径がその名残ではないかと思われ、旧道筋にはその痕跡を物語る庚申塔(権現塚)や石地蔵(地蔵堂)、杉の古い伐痕があるらしい。他日を期して再訪し確認したい。

会津西街道 倉ヶ崎新田・倉ヶ崎


会津西街道杉並木
倉ヶ崎新田に残る会津西街道の杉並木。


馬頭尊と馬力神の石碑 日光自動車学校
馬頭尊と馬力神の石碑を右手に見ると、間もなく杉並木は途切れて日光自動車学校の前に出る。ここから十文字食堂にかけての街道は明治17年(1884年)の道路改修により敷設された道であり、そのため沿道に杉並木は無い。


国道121号 倉ヶ崎新田
倉ヶ崎新田を行く会津西街道(国道121号)。江戸期の街道はこの辺りから左手に折れて古大谷川に向かって延びていたが、現在は見ての通り田んぼの中に消失している。


倉ヶ崎新田交差点 古大谷川
倉ヶ崎新田交差点の手前で古大谷川を渡る。


共同墓地
江戸期の街道が通っていたとされる共同墓地。


国道121号 倉ヶ崎
十文字食堂の先から杉並木が再び現れる。



倉ヶ崎に残る会津西街道杉並木。


会津西街道杉並木
会津西街道の杉並木は植樹時期が遅かったのか、それとも何代目かの杉だからなのかは不明だが、日光街道の杉並木に比べると巨木が少なく重厚さに欠けている感じ。


からかさ杉
からかさ杉。杉とは思えない程の珍しい枝ぶりで、その名の通り傘のように見える。


庚申塔と庚申供養塔
からかさ杉付近に残る庚申塔と庚申供養塔。いずれも寛政期建立の古いもので、石碑の裏手には塚らしい盛土がある。


大桑杉並木鑑賞公園
大桑杉並木鑑賞公園で杉並木は終わり。


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大桑宿

【2010年7月11日(日)会津西街道 大桑宿】
大桑宿は今市宿から道程約5kmの地点に位置し、かつては宿場入口の両側を杉並木に挟まれる日光神領内の宿駅。宿場西端の高台に法蔵寺、東端には長福寺(廃寺)を配し、その間の街道沿道に様々な商家が軒を連ね、宿内には尾張家・水戸家・紀州家の御三家専用旅館である本陣がそれぞれに置かれていた。この3軒の本陣は将軍の日光社参の際、随伴する御三家の藩主が宿泊するために設けられたもので、他の宿場には見られない大桑宿の大きな特徴と言えよう。宿場の東端にある杉並木寄進碑は3代目であり、明治20年頃に現在地へ移されたと伝わるが、当初の設置場所はわからない。初代と2代目の寄進碑は日光神領の境界を示す鬼怒川南岸の石塔島上にあり、いずれも洪水によって流失してしまったという。

宿内にある日光田舎味噌の醸造元、角丸醸造元(角丸酒店)に立ち寄ってみた。この店は明治初期の創業といい、天然醸造・無添加の手作り味噌を製造販売しており、米味噌や麦味噌、黒大豆仕込等、様々な味噌を取り揃えている。土産に購入しようと店内に並ぶ味噌桶を物色しながら、ご主人に大桑宿の話を伺えた。ご主人によると、店の前の道は戊辰戦争の時、旧幕軍を追撃する官軍が通った古い道で、宿場の建物はその時に全て焼かれてしまった。御三家の本陣は尾張が最も大きくて星家が務め、派出所の隣が水戸の手塚家、紀州の本陣は郵便局の所にあってこちらも星家だった。水戸本陣の手塚家は材木を商っていたが、失敗して東京の方へ出て行ってしまったため、その土地は人手に渡ってしまったという。

会津西街道 大桑宿


大桑宿
大桑宿今市方(西側)出入口。街道は鉤の手に曲げられており、左へ行けば法蔵寺、右に行けば宿内へ入る。


法蔵寺山門
法蔵寺の山門。慶応4年(1868年)戊辰戦争の今市攻防戦に敗れた旧幕軍は、官軍を少しでも足止めするためだろうが、大桑宿に火を放って会津へ向かう。この時に大桑宿はほぼ全焼してしまうのだが、唯一類焼を免れたのが法蔵寺の山門である。


大桑宿
大桑宿の町並み。行き交う人や車は少なく、今は静かな宿場町である。


角丸醸造元
老舗な佇まいの角丸醸造元(角丸酒店)。米味噌のこしを購入し、味噌汁やもろきゅうでここの味噌を食してみたのだが、味噌とはこんなに美味いものだったのかと感激。絶品の味噌である。是非とも他の味噌も試してみたい、再訪することになりそう。


旧尾張家本陣 星家
旧尾張家本陣の星家。本陣らしい堂々とした構えの家に今も子孫の方が住まわれている。


水戸家本陣 手塚家跡
派出所と全日食チェーンの間の土地が水戸家本陣の手塚家跡。現在は真新しい家が建てられているが、手塚家とは無関係らしい。


紀伊家本陣 星家跡(大桑郵便局)
大桑郵便局が紀州家本陣の星家跡。御三家の本陣は全て北側沿道に面して建てられており、これは将軍が御成りになる今市方向に背を向けない配慮だと思われる。


杉並木寄進碑
会津西街道の杉並木寄進碑。解説板には「この碑は日光神領の境界に建てられているので境石とも呼ばれている」と書かれているが、現在の設置場所はその境界ではない。


大桑宿
街道は杉並木寄進碑の先で左に曲げられているが、江戸期の街道は直進方向に進み、杉並木が鬼怒川南岸の石塔島まで続いていた。


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老嶋と石塔島

【2010年7月11日(日)会津西街道 大桑宿→高徳宿 道中】
まずは下の地図を見てほしい。大桑宿から次の高徳宿間の一帯は、暴れ川の鬼怒川に砥川や板穴川が合流しており、度重なる洪水に悩まされたことは想像に難くない。その度に川の流路や街道のルートは少なからず変遷したようだ。そういった理由で江戸期の街道がどこを通っていたかを正確に知ることはできないが、江戸中期以前に書かれた大桑村絵図を参考にし、現代地図に旧道ルートをトレースしてみた。縮尺も当てにならない江戸期の絵図から想像を膨らませて描いたものなので、あくまで参考程度にしかならないが、大きく外れていることはないと思う。

江戸期における大桑・高徳宿間の街道は現在の鬼怒川を中岩橋で渡るルートとは大きく異なっており、大桑宿を出た街道は西へ進み古大谷川に沿って北上、石塔島から渡し舟を使って渡河し、鬼怒川北岸の河岸段丘上を高徳宿へ向かうルートだった。鬼怒川の渡しから高徳宿までは日光北街道への近道である船生街道と同ルートを辿ったと思われる。大桑宿から石塔島にかけての沿道には杉並木が植えられ、石塔島上に日光神領の境界を示す杉並木寄進碑が置かれていたが、共に享保8年(1723年)の五十里洪水によって押し流された。

石塔島の旧道が江戸中期以前の本街道であることは確実だが、もう一つ別のルートがあった。老嶋を通ってホオノキ岩付近で鬼怒川を渡河するルートである。かつて鬼怒川は中岩下流で2筋に分かれて石塔島付近で再び合流しており、その2筋の鬼怒川に挟まれた中洲が老嶋と呼ばれていた。高徳村と大桑村の境界は鬼怒川の中央と定められていたので、老嶋の扱いをめぐってしばしば地境争いが起きている。その老嶋経由のルートがどういった扱いだったのかは不明であるが、杉並木の本街道で高徳宿へ向かうよりも距離が近い経済コースだったことから、江戸時代後期にはこちらが本ルートになっていたようだ。

初代杉並木寄進碑が流失した後の享保21年(1736年)、松平正綱の曾孫にあたる正貞(上総大多喜藩主)によって2代目が同地に再建された。しかし時期が定かでないのだが、この寄進碑も洪水によって流失している。大桑宿に現存している3代目は明治20年頃に現在地へ移されたと伝わり、それ以前はどこにあったのかは定かでないが、一説によると石塔島ではなく老嶋の渡船場付近にあったともいわれる。これが真実だとすると2代目が流失した後に街道の本ルートが老嶋経由に変わった可能性が高い。ちなみに現ルートである中岩橋が初めて架橋されたのは幕末の文久3年(1863年)のことである。

会津西街道 老嶋・石塔島


鬼第17号踏切
国道121号から小径が分かれる鬼第17号踏切。もしかすると踏切から先の道が、江戸期の旧道なのかもしれない。


鬼第17号踏切付近の石碑3基
鬼第17号踏切付近に残る石碑3基。一番大きい石碑には馬頭尊の文字が見える。


老嶋経由の旧道
石仏群(墓地)前の道。老嶋経由の旧道はこの辺りを通っていたと思われる。


大桑町の石仏群 大桑町の石仏群
墓地内に残る石仏群。相当古そうな双体道祖神(右写真)らしきものもある。


高尾神社前の道
高尾神社前の道。江戸期の旧道ではないかと思われるが、杉並木の痕跡は全く残っていない。


高尾神社の不動尊石像
高尾神社にある不動尊石像。神社の拝殿横で目を光らせる不動尊…、実に珍しい光景である。安政6年(1859年)大桑村下組氏子によって奉納されたようだ。


石塔島
石塔島付近の杉並木旧道跡。やはり杉並木の痕跡は全く残っていない。写真奥に見える並木辺りが石塔島で、現在は鬼怒川カントリークラブのコースと化している。石塔島という名は杉並木寄進碑があったことに由来があるのだろう。


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中岩橋

【2010年7月11日(日)会津西街道 大桑宿→高徳宿 道中】
現代の鬼怒川の渡しとも言うべき中岩橋。文久3年(1863年)藤原宿から川治までの新道(栃久保新道)開通に合せて初めて架橋された。以来、幕末から会津西街道は中岩橋を渡るルートが本街道になり、大正期に鉄道の敷設があって多少の変遷があるが、国道121号のルートになって今日に至っている。大桑バイパスが開通したのは昭和46年(1971年)のことで、それまでの国道は旧国道の扱いとなっており、今は行き交う車は少ない。地図上に緑色の実線で記している大桑宿~高徳宿間の会津西街道は、幕末期の中岩橋架橋後のルートということになる。

中岩橋は鬼怒川の流れを二分する中岩を橋脚にして、川岸の断崖上を結ぶように架けられている。よくぞこんな要害の地に橋を架けたものだと、江戸時代末期の建築技術の高さに感心させられるが、実際に橋上に立って鬼怒川を望むと、架橋工事の困難さが身に沁みてわかるというものだ。明治時代には中岩から石塔島下流にある籠岩辺りにかけては、多くの人が遊覧に訪れる景勝地であり、皇太子だった大正天皇も明治33年(1900年)に中岩橋を訪れ、付近の鬼怒川南岸に”お手植えの松”を植樹している。現在の”お手植えの松”は2代目であるが、初代の植樹時に有志によって建立された御手植之松碑が中岩橋南詰に残されている。

会津西街道 中岩橋


国道121号 大桑町
大桑宿から砥川橋南交差点にかけての会津西街道(国道121号)。


雷電神社
田んぼの向こうに見える小さな社は雷電神社。


国道121号 大桑町 ウエスタン村
砥川橋手前の会津西街道(国道121号)。この辺りで左手に目を向けるとウエスタン村のマウントラッシュモアが見える。かなり黒ずんでいて痛々しい…。ウエスタン村は現在休園中で再開の目処は立っていない。


砥川と老嶋
砥川橋上から砥川と老嶋(鬼怒川カントリークラブ)を望む。


旧会津西街道 栗原
鬼怒川カントリー入口付近。写真左方向へ進む道が会津西街道の旧道である。


六部供養塔十三塚
栗原の旧道沿いにある六部供養塔十三塚の碑。六部とは六十六部廻国聖の略称で、日本全国66ヶ国の霊場に法華経を納める巡礼者のことを指す。江戸時代末期に六部の一行13名が高徳宿の外れで殺され、鬼怒川に遺棄された遺体が流れ着いた場所がこの辺りの河童瀞と呼ばれた川筋で、その六部らを弔うために塚が築かれた。以来、十三塚という地名がここに残されているという。その詳細についてはホームページ日光会津観光圏元気再生プロジェクト六題目の碑に詳しい。


旧会津西街道 栗原
旧道は中岩橋手前で右折し国道121号に合流する。


中岩橋
昭和10年(1935年)架橋の中岩橋。現在は歩行者専用となっており、下流側横に新橋、上流側横に東武線の鬼怒川橋梁が架けられている。


御手植之松碑
中岩橋南詰に残る御手植之松碑。


中岩と鬼怒川
中岩橋上から中岩と鬼怒川を望む。


鬼怒川橋梁と中岩橋
高徳中岩河川公園より鬼怒川下流方向を望む。鬼怒川橋梁の奥にソリッドリブアーチ橋の中岩橋が見える。


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高徳宿

【2010年7月11日(日)会津西街道 高徳宿】
船生街道が分岐する高徳交差点辺りから高徳宿の町並みである。高徳宿は鬼怒川北東側の河岸段丘上に位置するかつての宇都宮藩領。幕末の慶応2年(1866年)戸田忠至が本家の宇都宮藩から1万石を分与され、宿場の北外れに陣屋を置いて高徳藩が立藩した。しかしその陣屋も戊辰戦争の際に大鳥圭介、土方歳三の率いる旧幕軍によって焼かれたというから、わずか2、3年程しか存在していなかったことになる。明治10年頃、陣代家老の星半三郎という人によって建立された戸田大和神社が高徳陣屋の跡地と伝わっている。

高徳宿から会津西街道を分岐する船生街道(現 県道77号宇都宮船生高徳線)は、船生宿と大渡宿の間で鬼怒川を越えてきた日光北街道に合流する。会津藩の廻米等の物資は阿久津河岸から鬼怒川舟運によって江戸へ運ばれたため、高徳宿から阿久津河岸へ最短のルートを辿れる船生街道は、会津藩の物資輸送路として重要な役割を果たしてきた。現在の高徳交差点が会津西街道と船生街道の分岐点になっているが、これは中岩橋架橋後の分岐であり、それ以前は高徳交差点より更に船生街道を東へ進んだ地点、つまり江戸期の鬼怒川渡船場があった辺りが分岐点となる。時期によって変遷があるので前の記事を参照してほしい。

会津西街道 高徳宿


国道121号 新高徳駅前
中岩橋を渡った街道は新高徳駅前を経て高徳宿へ。


国道121号 高徳交差点
会津西街道と船生街道の分岐点である高徳交差点。


高徳の石仏群 願掛子育地蔵尊
高徳交差点付近、高徳宿南側(今市方)入口にある石仏群と願掛子育地蔵尊。地蔵尊の顔は目鼻が何となくわかる程度で、長らく風雨に晒されてきたことがうかがえる。座石には”寛保元”の文字が刻まれており、今から約270年前の江戸中期から高徳宿の人々を見守ってきた希少な語り部なのだ。


高徳宿
高徳宿の町並み。


高徳寺
宿場から少し外れた山裾にある高徳寺。宿名と同じ名の寺なのだが、由緒がよくわからない。


諏訪神社
高徳の諏訪神社。社前に享保期の石灯籠が奉納されており、歴史は相当古そうだ。


高徳宿
宿場東側の裏手に青々と広がる水田。


あさひや
新高徳駅前の手打ち蕎麦”あさひや”。電車の到着まで少々時間があったので、ここで待つことに。まずはビールを注文して喉を潤す。んーっ、歩き旅の終わりに飲む一杯は格別に美味い!そして、これまた美味しいざるそばで腹ごしらえ。至福のひと時である。


新高徳駅
新高徳駅から18:34発の特急きぬ138号に乗車し帰途につく。

【会津西街道歩き 第1日目】
歩行距離 約8.3km(今市宿→大桑宿→高徳宿)
後半少々雨に降られたが、順調な滑り出しの歩き旅だった。徐々に山が迫ってくる感じがたまらない。この先、会津西街道はどんな景色を見せてくれるのか、楽しみである。


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鬼怒大瀞 六題目の碑

【会津西街道歩き 第2日目】高徳宿→大原宿→藤原宿



【2010年8月1日(日)会津西街道 高徳宿→大原宿 道中】
暦は8月に変わり日本全国は夏真っ盛りな様相。ウォーカーにとっては受難の季節を迎えたと言ってよいが、今年は例年にも増して気温の高い日が続き、まさに猛暑の当たり年。そんな中、心の中では「こんなクソ暑い日に歩くなんて苦行に行くようなもんだ、やめよーよ。」と囁いているにも関わらず、「今日行かずして何時行くんだ!この根性無しがっ!」と、悪魔なのか天使なのかわからないが、心に囁きかけてもくる。そして下した結論が「とりあえず栃木へ行くだけ行ってみて、それから考えればいいじゃん。北へ行けば少しは涼しいんじゃないの。」といった楽天的で安易なB型的考えの下、家を出ることに。

9:12北千住駅発の特急きぬ105号に乗車し、定刻通りの11時ちょっと前に新高徳駅に到着。電車を降りた瞬間に心地よくない温風が体を通り抜ける。「やっぱここまで来たからには少しは歩かねばならんでしょ!」と自らを奮い立たせ、国道121号(会津西街道)を歩いて高徳宿を抜ける。少し歩いただけで全身から汗がにじむ。まずは沿道にある”たまり漬本舗つるや”に立ち寄り、帰省時の土産に持って帰ろうと、きゅうりや山菜ミックスのたまり漬を購入。ここのたまり漬も今市にある日野為商店のたまり漬と比較して遜色ない美味しい味付けなのだが、山菜ミックスの山菜が中国産だったことに誤算。母親が中国産の食物にやたらと警戒を示すことを後で思い出したが、後の祭り…。まっ、しょうがないでしょ。

鬼怒大瀞の屋形船乗り場から旧道が現れて鬼怒川と東武鬼怒川線の間を並進。新大瀞橋からの道が旧道に接触してくる手前に六題目の碑がひっそりと林の中に佇んでいる。”中岩橋”の記事に書いた六部供養塔十三塚に弔われる六部一行が、殺害されて鬼怒川に投げ込まれたと伝わる場所である。その六部らの祟りを怖れて建立されたのが六題目の供養塔であるが、碑面には”南無妙法蓮華”まで刻まれており、何故か”経”の文字が無い。そのため六題目という名が付いているわけで、一説には「南無」「妙法」「蓮華」の文字を刻んだ度に石工が次々と急死したため、”経”の文字を彫る石工がいなくなったという。詳細はホームページ日光会津観光圏元気再生プロジェクト六題目の碑を参照してほしい。

会津西街道 高徳


たまり漬本舗つるや
派手な店舗に目を惹かれるたまり漬本舗つるや。日光土産の定番である”たまり漬”を豊富に取り揃えている。


国道121号 高徳
鬼怒大瀞屋形船乗り場付近を行く会津西街道(国道121号)。


鬼怒大瀞屋形船乗り場
多くの観光客で賑わう鬼怒大瀞屋形船乗り場。


鮎の塩焼き
鮎の塩焼きを食べて塩分とエネルギーを補給。


鬼怒大瀞屋形船乗り場
鬼怒大瀞屋形船乗り場から旧道が現れる。


会津西街道旧道 高徳
国道121号と東武鬼怒川線の間を並進する旧道。


大瀞アンダー
大瀞アンダーで東武鬼怒川線を潜り抜ける。


会津西街道旧道 高徳
旧道は東武鬼怒川線と鬼怒川の間を並進する。


六題目の供養塔
林の中にひっそりと建つ六題目の碑。今から約200年前のこととはいえ、六部一行の13名が殺害されたと伝わる場所。何となく空気が冷ややかに感じる。今なお”経”の字は無く、六部らの怨念は鎮められていないのだろうか…。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
千葉県在住。

Flashカレンダー
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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