小佐越 立場の松
【2010年8月1日(日)会津西街道 高徳宿→大原宿 道中】
会津西街道の旧道は鬼怒川と東武鬼怒川線の間を並進して小佐越駅の裏手を進む。小佐越駅を過ぎて400m程行くと右手沿道に大きな松がそびえている。この松は”たてばの松”と呼ばれ、推定樹齢450年の古木。昔はこのような松が街道沿いに一定間隔に植えられ、それを目安に人を運ぶカゴ屋の運賃が決められていたという。街道を挟んだ向かい側に立場茶屋を営んでいた竹末家があり、松の呼称はこれに由来する。竹末家は明治40年頃から昭和初期まで立場の営業をしていたと解説板に書かれており、街道として機能していた最晩年期に営業をしていたということなのだろう。
”たてばの松”を過ぎて間もなく、旧道は東武鬼怒川線に分断され、線路向こうで国道121号となって北へ延びる。国道東側の山麓に東武ワールドスクウェアの敷地が広がり、ここがかつての大原製錬所である。大正6年(1917年)西沢金山株式会社が大原製錬所を建設し、西沢金山で採掘された銅鉱石を精錬する工場として稼動した。しかし、第一次世界大戦が終結して銅価格が大暴落し、また燃料や人件費の高騰、土地買収の問題等が重なって、わずか1年後の大正7年に操業を中止している。東武ワールドスクウェアの山側に工場からの排煙を山中に放出していた煙道が残っているという。


小佐越駅付近の会津西街道旧道。

小佐越駅。駅名の小佐越は鬼怒川対岸の地名。文化元年(1804年)五十里で街道を分かれて男鹿川西岸を南下し、川治から一本杉峠を越えて滝温泉(現 鬼怒川温泉)に至る脇道が開削され、このルートは小佐越新道と呼ばれた。小佐越新道は更に宿場を避けるようにして鬼怒川西岸を進んで大桑・今市宿へ至った。幕末に仲附(会津西街道で発達した農民による非正規の物資運搬業者)が利用して発達したため、正規に会津西街道で運ばれる荷が減り、高原新田・藤原・大原・高徳の各宿場は対抗手段として小佐越新道の万歳橋(現 海尻橋付近)を取り壊したという。

会津西街道の往時を偲ぶ”たてばの松”。対面には立場茶屋を営んだ竹末家も健在する。

鬼第33号踏切道を使って国道121号へ。

東武ワールドスクウェア入口前を行く会津西街道(国道121号)。

平成5年(1993年)に開業した東武ワールドスクウェア。この敷地がかつて製錬所だったなんてことは、予備知識が無ければ全く気付くことはないだろう。
会津西街道の旧道は鬼怒川と東武鬼怒川線の間を並進して小佐越駅の裏手を進む。小佐越駅を過ぎて400m程行くと右手沿道に大きな松がそびえている。この松は”たてばの松”と呼ばれ、推定樹齢450年の古木。昔はこのような松が街道沿いに一定間隔に植えられ、それを目安に人を運ぶカゴ屋の運賃が決められていたという。街道を挟んだ向かい側に立場茶屋を営んでいた竹末家があり、松の呼称はこれに由来する。竹末家は明治40年頃から昭和初期まで立場の営業をしていたと解説板に書かれており、街道として機能していた最晩年期に営業をしていたということなのだろう。
”たてばの松”を過ぎて間もなく、旧道は東武鬼怒川線に分断され、線路向こうで国道121号となって北へ延びる。国道東側の山麓に東武ワールドスクウェアの敷地が広がり、ここがかつての大原製錬所である。大正6年(1917年)西沢金山株式会社が大原製錬所を建設し、西沢金山で採掘された銅鉱石を精錬する工場として稼動した。しかし、第一次世界大戦が終結して銅価格が大暴落し、また燃料や人件費の高騰、土地買収の問題等が重なって、わずか1年後の大正7年に操業を中止している。東武ワールドスクウェアの山側に工場からの排煙を山中に放出していた煙道が残っているという。


小佐越駅付近の会津西街道旧道。

小佐越駅。駅名の小佐越は鬼怒川対岸の地名。文化元年(1804年)五十里で街道を分かれて男鹿川西岸を南下し、川治から一本杉峠を越えて滝温泉(現 鬼怒川温泉)に至る脇道が開削され、このルートは小佐越新道と呼ばれた。小佐越新道は更に宿場を避けるようにして鬼怒川西岸を進んで大桑・今市宿へ至った。幕末に仲附(会津西街道で発達した農民による非正規の物資運搬業者)が利用して発達したため、正規に会津西街道で運ばれる荷が減り、高原新田・藤原・大原・高徳の各宿場は対抗手段として小佐越新道の万歳橋(現 海尻橋付近)を取り壊したという。


会津西街道の往時を偲ぶ”たてばの松”。対面には立場茶屋を営んだ竹末家も健在する。

鬼第33号踏切道を使って国道121号へ。

東武ワールドスクウェア入口前を行く会津西街道(国道121号)。

平成5年(1993年)に開業した東武ワールドスクウェア。この敷地がかつて製錬所だったなんてことは、予備知識が無ければ全く気付くことはないだろう。

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