五十里湖
【2010年11月6日(土)会津西街道(小佐越新道) 川治温泉→五十里宿】
天和3年(1683年)M6.8とも言われる大地震が会津・下野地方を襲った。日光大地震と呼ばれる。この地震により葛老山の山肌が崩壊して男鹿川に土砂が流出し、現在の海尻橋付近で川を堰き止めて五十里(いかり)湖が出現。当時の山中に住む住民にとっては広大な湖面が海のように思えたのか、”海”と称される。その上流域にあった五十里宿は湖底に水没し、会津西街道は通行不能な状態に陥った。そのため、会津から江戸へ送られる廻米輸送に支障をきたし、会津藩は水抜きをしようと工事に取り掛かるが状況は好転せず、代替策として会津中街道が開削されることになる。その辺の事情については後々の記事に詳しく書くことにしよう。
日光大地震から40年後の享保8年(1723年)、連日の長雨により五十里湖は川水を支えきれなくなり、ついに決壊する。五十里洪水と呼ばれたこの水害は甚大な被害をもたらし、下流域の川治村や藤原村は壊滅的損害を受け、大桑宿から石塔島にかけての杉並木や石塔島上にあった杉並木寄進碑もこの時に流失した。しかしながら、五十里宿の住民にとっては災い転じて福となす、五十里湖の出現以来、周辺に四散していた住民はようやく旧地を回復するきっかけとなる日になった。明治期まで五十里湖の水が抜けた8月10日を”うみぬけ10日”と呼んで祝ったという。
”うみぬけ”から233年後の1956年(昭和31年)、再び五十里村は湖底に沈むことになった。高さ112メートルという当時国内最大の規模を誇った五十里ダムの完成である。6年の歳月をかけて建設されたこのダムによって男鹿川は堰き止められ、二世紀の時を経て再び五十里湖が現れた。五十里村の住民はまたしても四散を余儀なくされて77戸が離村、8戸が掘割地区や旧上の屋敷地区に残った。なお、わくわくダム資料館の展示パネルには離村45戸、在村8戸と書かれている。いずれにしても江戸と昭和、時代は違うにせよ、五十里の住民は二度も五十里湖に翻弄される過酷な運命を辿ってきたと言えよう。


五十里ダム。総工費48億円余りの巨費と約6年もの歳月をかけて完成した重力式コンクリートダムである。間近に見ると巨大なコンクリートの壁は圧巻だ。

五十里ダム管理支所に併設されているわくわくダム資料館。五十里湖や五十里村の歴史、ダムについての展示があり、この辺りの歴史を知る上で非常に役に立った。

ダムより男鹿川下流方向を望む。紅葉がきれいだ。

ダムより五十里湖を望む。この湖底に国道121号の前身である旧国道(男鹿川左岸)と江戸後期に通された小佐越新道(右岸)が沈んでいる。小佐越新道は会津西街道の裏ルート的な存在だったが、幕末の文久3年(1863年)藤原宿~川治間に栃久保新道が開通したことにより会津西街道の本街道に格上げされた。

国道から垣間見る五十里湖と紅葉。四季折々、日本の風景はやっぱりすばらしいなあ…。

国道121号を歩いて五十里橋を渡り五十里トンネルへ。

全長435メートルの五十里トンネルを抜けて間もなく御判橋を渡る。この橋名の由来は御判石という会津藩、宇都宮藩、日光神領の三方境を示す大石に由来する。

御判橋から五十里湖を望んでみた。残念ながら御判石らしきものは見えなかった。御判石のてっぺんには東西南北と刻まれ、現在は横倒しになって湖底に水没しているらしい。
天和3年(1683年)M6.8とも言われる大地震が会津・下野地方を襲った。日光大地震と呼ばれる。この地震により葛老山の山肌が崩壊して男鹿川に土砂が流出し、現在の海尻橋付近で川を堰き止めて五十里(いかり)湖が出現。当時の山中に住む住民にとっては広大な湖面が海のように思えたのか、”海”と称される。その上流域にあった五十里宿は湖底に水没し、会津西街道は通行不能な状態に陥った。そのため、会津から江戸へ送られる廻米輸送に支障をきたし、会津藩は水抜きをしようと工事に取り掛かるが状況は好転せず、代替策として会津中街道が開削されることになる。その辺の事情については後々の記事に詳しく書くことにしよう。
日光大地震から40年後の享保8年(1723年)、連日の長雨により五十里湖は川水を支えきれなくなり、ついに決壊する。五十里洪水と呼ばれたこの水害は甚大な被害をもたらし、下流域の川治村や藤原村は壊滅的損害を受け、大桑宿から石塔島にかけての杉並木や石塔島上にあった杉並木寄進碑もこの時に流失した。しかしながら、五十里宿の住民にとっては災い転じて福となす、五十里湖の出現以来、周辺に四散していた住民はようやく旧地を回復するきっかけとなる日になった。明治期まで五十里湖の水が抜けた8月10日を”うみぬけ10日”と呼んで祝ったという。
”うみぬけ”から233年後の1956年(昭和31年)、再び五十里村は湖底に沈むことになった。高さ112メートルという当時国内最大の規模を誇った五十里ダムの完成である。6年の歳月をかけて建設されたこのダムによって男鹿川は堰き止められ、二世紀の時を経て再び五十里湖が現れた。五十里村の住民はまたしても四散を余儀なくされて77戸が離村、8戸が掘割地区や旧上の屋敷地区に残った。なお、わくわくダム資料館の展示パネルには離村45戸、在村8戸と書かれている。いずれにしても江戸と昭和、時代は違うにせよ、五十里の住民は二度も五十里湖に翻弄される過酷な運命を辿ってきたと言えよう。


五十里ダム。総工費48億円余りの巨費と約6年もの歳月をかけて完成した重力式コンクリートダムである。間近に見ると巨大なコンクリートの壁は圧巻だ。

五十里ダム管理支所に併設されているわくわくダム資料館。五十里湖や五十里村の歴史、ダムについての展示があり、この辺りの歴史を知る上で非常に役に立った。

ダムより男鹿川下流方向を望む。紅葉がきれいだ。

ダムより五十里湖を望む。この湖底に国道121号の前身である旧国道(男鹿川左岸)と江戸後期に通された小佐越新道(右岸)が沈んでいる。小佐越新道は会津西街道の裏ルート的な存在だったが、幕末の文久3年(1863年)藤原宿~川治間に栃久保新道が開通したことにより会津西街道の本街道に格上げされた。

国道から垣間見る五十里湖と紅葉。四季折々、日本の風景はやっぱりすばらしいなあ…。

国道121号を歩いて五十里橋を渡り五十里トンネルへ。

全長435メートルの五十里トンネルを抜けて間もなく御判橋を渡る。この橋名の由来は御判石という会津藩、宇都宮藩、日光神領の三方境を示す大石に由来する。

御判橋から五十里湖を望んでみた。残念ながら御判石らしきものは見えなかった。御判石のてっぺんには東西南北と刻まれ、現在は横倒しになって湖底に水没しているらしい。

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