五十里宿
【会津西街道歩き 第8日目】五十里宿→中三依宿
【2010年11月14日(日)会津西街道 五十里宿】
紅葉の美しさが忘れられず、前回の歩き旅から1週間後の日曜日、再び湯西川温泉駅に降り立った。到着時刻は少々遅めの11時。日の明るさを期待できるのは7、8時間程度しかなく、今回は五十里宿跡の散策に時間を割くことにし、会津西街道の行程としては次の中三依宿まで歩ければ御の字だ。天気は前回同様、陽射しの暖かさが感じられる快適なウォーキング日和。まだまだ紅葉は真っ盛りで、今日も晩秋の歩き旅を満喫できそうだ。
会津西街道の宿駅、五十里村の歴史については過去の記事に散々書いてきたので省く。ここでは江戸中期から昭和期の五十里ダム完成まで存続した男鹿川右岸の五十里村(字居屋敷)について、もう少し突っ込んで書いておこう。五十里村は下野国にありながら会津藩の南山御蔵入領の属する、つまり会津藩領の最南端に位置しており、その藩領南側入口となる最初の宿駅だった。五十里と書いて”いかり”と読ませ、江戸日本橋から50里(約196km)の地に位置していたことがその名の由来といわれるが、それならば素直に”ごじゅうり”と読ませればよかったのにと、少々疑問が残る。
天和3年(1683年)日光大地震当時、五十里村の人口165人、家数31軒。字居屋敷の地に移ってから約60年後の天明8年(1788年)の人口169人、家数31軒と記録にあり、初代五十里湖の出現で村民が散りぢりになり、海抜けによってようやく旧地を回復するという過酷な歴史を辿りながらも、同規模の人口と家数を保ち続けていたことがわかる。自分の家どころか、生活の糧である耕地を失ったにもかかわらず、五十里村の人々は村を見捨てず厳しい生活に耐えてきたのだろう。想像を絶する苦労があったに違いない。村内の家は赤羽姓・細井姓が多く、本陣・問屋は名主の赤羽家が務めた。
五十里湖の出現によって五十里宿以南の会津西街道は通行困難に陥り、会津から江戸へ運ぶ廻米輸送路の代替措置として、一時的に尾頭道(塩原街道)という脇道が使われたことがある。この脇道は横川宿南側の上三依村で会津西街道と分かれて尾頭峠を越え、塩原を経由して奥州街道の氏家宿、阿久津河岸へ行けるルートだった。附け通しで荷物を運べる利点があったのか、弘化年間(1844年~1848年)以降になって再びこの輸送路が見直されたため、横川宿以南の中三依宿や五十里宿で継ぎ立てる荷物が減ってしまい、継立荷物をめぐって中三依・五十里宿と横川宿の間で争論が起きている。
江戸・明治・大正と激動の時代を経てきた五十里村は、1956年(昭和31年)五十里ダムの完成によって再び四散を余儀なくされた。僅か8戸が堀割や三軒家(旧上の屋敷)に残るだけになり、事実上五十里村は消滅。五十里湖に翻弄されてきた歴史を持つ五十里村は、再び現れた人造の五十里湖によって長い歴史に終止符を打つことになる。その辺りの事情については”五十里湖”や”上の屋敷”の記事に書いてきたので参照してほしい。


湯西川温泉駅に併設の”道の駅湯西川”から会津西街道歩きを再開!

再び五十里海渡り大橋より上流側を望む。五十里湖と言うよりは男鹿川と言った方がしっくりくる感じ。この左岸(写真の右側川岸)を通る国道121号を歩いて湖底に消えた幻の宿駅、五十里宿を目指す。

国道121号の片足沢南側付近。

片足沢橋南側の斜面に”会津西街道口”の標識がある。車で走っていたらまず気付かないだろう。ここから会津西街道高原越えの旧道にアクセスでき、高原新田宿まで登ることができるらしい。日を改めてトライしようと思う。

会津西街道高原越え旧道とその入口にある庚申塔三基(前回撮影)。山道の旧道は高原新田宿へ続く。いかにも難所が多そうな山登りの旧道であるが、それらしい雰囲気があり結構楽しめそう。

国道121号の片足沢橋。下りが新しい橋(写真左)で、上りは昭和31年(1956年)に架けられた旧橋(写真中央)。

唄の沢橋。現在の橋は平成3年(1991年)架橋。

大塩沢橋。五十里湖(男鹿川)を挟んで五十里宿跡(字居屋敷)のちょうど対岸に位置している。橋の手前から右へ入って行く道は、平成7年(1995年)の大塩沢橋架橋まで使われていた旧国道。

大塩沢橋から五十里宿跡を望む。黄色の円で示している所が五十里宿跡。地図を見てみれば一目瞭然、現在は宿跡へアクセスする橋が無い…。

五十里宿跡は草木が茂るのが見えるだけで、遠目には遺構らしきものは見当たらない。人が入らなくなってからかなり長い年月が経っているのだろう。何とか宿跡を探索してみたいのだが、さてさてどうしたものか…。
【2010年11月14日(日)会津西街道 五十里宿】
紅葉の美しさが忘れられず、前回の歩き旅から1週間後の日曜日、再び湯西川温泉駅に降り立った。到着時刻は少々遅めの11時。日の明るさを期待できるのは7、8時間程度しかなく、今回は五十里宿跡の散策に時間を割くことにし、会津西街道の行程としては次の中三依宿まで歩ければ御の字だ。天気は前回同様、陽射しの暖かさが感じられる快適なウォーキング日和。まだまだ紅葉は真っ盛りで、今日も晩秋の歩き旅を満喫できそうだ。
会津西街道の宿駅、五十里村の歴史については過去の記事に散々書いてきたので省く。ここでは江戸中期から昭和期の五十里ダム完成まで存続した男鹿川右岸の五十里村(字居屋敷)について、もう少し突っ込んで書いておこう。五十里村は下野国にありながら会津藩の南山御蔵入領の属する、つまり会津藩領の最南端に位置しており、その藩領南側入口となる最初の宿駅だった。五十里と書いて”いかり”と読ませ、江戸日本橋から50里(約196km)の地に位置していたことがその名の由来といわれるが、それならば素直に”ごじゅうり”と読ませればよかったのにと、少々疑問が残る。
天和3年(1683年)日光大地震当時、五十里村の人口165人、家数31軒。字居屋敷の地に移ってから約60年後の天明8年(1788年)の人口169人、家数31軒と記録にあり、初代五十里湖の出現で村民が散りぢりになり、海抜けによってようやく旧地を回復するという過酷な歴史を辿りながらも、同規模の人口と家数を保ち続けていたことがわかる。自分の家どころか、生活の糧である耕地を失ったにもかかわらず、五十里村の人々は村を見捨てず厳しい生活に耐えてきたのだろう。想像を絶する苦労があったに違いない。村内の家は赤羽姓・細井姓が多く、本陣・問屋は名主の赤羽家が務めた。
五十里湖の出現によって五十里宿以南の会津西街道は通行困難に陥り、会津から江戸へ運ぶ廻米輸送路の代替措置として、一時的に尾頭道(塩原街道)という脇道が使われたことがある。この脇道は横川宿南側の上三依村で会津西街道と分かれて尾頭峠を越え、塩原を経由して奥州街道の氏家宿、阿久津河岸へ行けるルートだった。附け通しで荷物を運べる利点があったのか、弘化年間(1844年~1848年)以降になって再びこの輸送路が見直されたため、横川宿以南の中三依宿や五十里宿で継ぎ立てる荷物が減ってしまい、継立荷物をめぐって中三依・五十里宿と横川宿の間で争論が起きている。
江戸・明治・大正と激動の時代を経てきた五十里村は、1956年(昭和31年)五十里ダムの完成によって再び四散を余儀なくされた。僅か8戸が堀割や三軒家(旧上の屋敷)に残るだけになり、事実上五十里村は消滅。五十里湖に翻弄されてきた歴史を持つ五十里村は、再び現れた人造の五十里湖によって長い歴史に終止符を打つことになる。その辺りの事情については”五十里湖”や”上の屋敷”の記事に書いてきたので参照してほしい。


湯西川温泉駅に併設の”道の駅湯西川”から会津西街道歩きを再開!

再び五十里海渡り大橋より上流側を望む。五十里湖と言うよりは男鹿川と言った方がしっくりくる感じ。この左岸(写真の右側川岸)を通る国道121号を歩いて湖底に消えた幻の宿駅、五十里宿を目指す。

国道121号の片足沢南側付近。

片足沢橋南側の斜面に”会津西街道口”の標識がある。車で走っていたらまず気付かないだろう。ここから会津西街道高原越えの旧道にアクセスでき、高原新田宿まで登ることができるらしい。日を改めてトライしようと思う。


会津西街道高原越え旧道とその入口にある庚申塔三基(前回撮影)。山道の旧道は高原新田宿へ続く。いかにも難所が多そうな山登りの旧道であるが、それらしい雰囲気があり結構楽しめそう。

国道121号の片足沢橋。下りが新しい橋(写真左)で、上りは昭和31年(1956年)に架けられた旧橋(写真中央)。

唄の沢橋。現在の橋は平成3年(1991年)架橋。

大塩沢橋。五十里湖(男鹿川)を挟んで五十里宿跡(字居屋敷)のちょうど対岸に位置している。橋の手前から右へ入って行く道は、平成7年(1995年)の大塩沢橋架橋まで使われていた旧国道。

大塩沢橋から五十里宿跡を望む。黄色の円で示している所が五十里宿跡。地図を見てみれば一目瞭然、現在は宿跡へアクセスする橋が無い…。

五十里宿跡は草木が茂るのが見えるだけで、遠目には遺構らしきものは見当たらない。人が入らなくなってからかなり長い年月が経っているのだろう。何とか宿跡を探索してみたいのだが、さてさてどうしたものか…。

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