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イザベラ・バードと日本奥地紀行

日本奥地紀行

イザベラ・バードという人をご存知だろうか。この英国人旅行家は、会津西街道を旅した外国人の先駆者であり、しかも女性である。ようやくその著書、「日本奥地紀行(平凡社ライブラリー)」を読み終えたので、今更ながらだがここで紹介しておこう。イザベラ・バードは1831年イギリスのヨークシャーに生まれ、病弱な幼少期を過ごす。23歳の時に医者に航海をすすめられ、アメリカとカナダへ旅行。その2年後、初めての旅行記となる「The Englishwoman in America(英国 女性の見たアメリカ)」を出版した。40歳を過ぎた頃から精力的に世界各地を旅し、46歳の時に訪日。当時の日本は明治11年の混乱期、前年に西郷隆盛の自決で西南戦争が終結し、イザベラバードが来日した同時期の明治11年5月14日には西郷の盟友大久保利通が暗殺されるという時代背景である。

イザベラ・バードは伊藤という若者を通訳として伴い、東京から日光街道・例弊紙街道を進んで日光に2週間ほど滞在。明治11年6月24日に日光を経ち、小百から小佐越、滝温泉(現 鬼怒川温泉)を経て会津西街道を北上し、藤原宿で初日の床につく。2日目は川治を経て五十里宿泊、3日目に山王峠を越えて会津国に入り川島宿泊、4日目には大内宿に着き宿泊している。5日目、大内宿の先で会津西街道を離れ、市野峠を越えて会津盆地へ入り会津高田で宿泊。以後、会津から新潟、山形、秋田を経て青森に至り、津軽海峡を渡って函館へ。函館から渡島半島を北上、森から汽船で室蘭に着き、太平洋沿岸の陸路を進んで幌別(登別)、白老を経て苫小牧に至り、更に奥地の平取、門別まで足を延ばしている。噴火湾沿岸の陸路を函館へ戻ったイザベラ・バードは9月14日に太平洋を船で横浜に帰り、約3ヶ月に及ぶ長旅を終えた。

日本奥地紀行(英名:Unbeaten Tracks in Japan)はその道中で妹へ送った手紙をまとめたもので、当時の北関東・東北の農村、北海道のアイヌ人について、その厳しく貧しい生活ぶりが率直に書かれており、当時の様子がよく描写されていて興味深い。旅の始終、宿所では蚤の大群に襲われ、乗る馬が貧弱でなおかつ乱暴だったことが大きな障害になり、悲嘆に暮れる様が本文の中に幾度も書かれている。また、当時の日本において外国人は非常に珍しい存在で、特に江戸を離れた北関東や東北では外国人を見たことが無い人がほとんど。行く先々で民衆が集まり、好奇の目に晒され随分とうんざりしたようだ。時代劇や大河ドラマでは見られない庶民、そして日本人に蔑視されてきたアイヌ人が、リアルにどんな生活を送っていたのか、興味のある方は是非ご一読を。


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東日本大震災

3月11日午後14時46分頃、未曾有の大地震が東日本を襲う。平日金曜日の15時ちょっと前、多くの人が仕事や学業の最中だったろうが、私もご多分に漏れず顧客へ向かう移動中で、茨城県つくば市今鹿島辺りの県道45号を、いつものようにニッポン放送を聞きながら車で走っていた。ラジオでは上柳アナが風水についてトークをしていたと思うが、「地震をスタジオで感じています。」と、突然話が変わり初めて地震の一報を聞く。地震かぁ…と、軽く考えていた矢先にハンドルが右に左に取られ、周辺の民家が激しく揺れているのを見てこれは相当大きな地震だと察知し、車を路肩に寄せて停車。ブロック塀が次々に道路へ向かって崩れてきたので、慌てて車を道路中央に移動させた。

こりゃ、ただ事じゃないなと思いつつも、15時が約束の時間だったので、揺れが小康状態になったところで発進したが、周辺は停電になって信号機が消えており、恐る恐る車を走らせながらも定刻通りに目的地へ到着。訪問先がとある製薬会社の研究施設で、すでに従業員は全員グランドへ避難して仕事どころではないといった様子。私もこの日の予定を全て中止し、既につながり難くなった携帯とメールを駆使して方々に連絡を取り、柏市にある会社へ戻ることにした。いつもなら、つくば市から柏市まで約1時間程度の距離なのだが、国道も県道も大渋滞に陥っており、3時間以上もかけてようやく帰社。同市内の自宅まで何とかその日のうちに帰宅することができた。

東日本大震災と命名されたこの巨大地震は想定外の大津波を引き起こし、震災からちょうど1ヶ月を過ぎた今日の時点で死者数が1万3千人を超え、行方不明者をあわせて2万7千人以上という大惨事になってしまった。家どころか故郷の町、そして肉親を失った被災者の大多数が避難所での生活を余儀なくされ、福島県では原発の被災事故によって避難した住民、千葉県でも津波や液状化の被害により不便な生活を強いられている住民が多数おり、そんな現実が現在進行形で日本に起きている。しかも余震がいまだに治まらず、約1ヶ月となる今頃になって最大規模の余震が襲ってきており、予断を許さない状況が続く。

フジテレビを見ていたら、しきりに「ひとつになろう日本」のキャッチフレーズのもと、日本人のみんなが協力して被災地を復興させようと呼び掛けている。何も被害が無かった人が被災者に対して何を云々言っても偽善に聞こえてしまうのは仕方ない。しかし、普段通りの生活を送りつつ、心の片隅で頑張ってほしい、復興してほしいと願うことは大事なことだと思う。その一人ひとりの小さな願いが大きな協力となって、復興のスピードを速めるのではないだろうか。私ができることとしては義援金を継続していくことぐらいでしか手助けできないが、被災者が住み慣れた町と平穏な生活を1日も早く取り戻せるよう切に願う。日本がひとつになることをを信じたい。前向きに。


【会津西街道歩き 第11日目】横川宿→山王峠→糸沢宿



【2011年4月2日(土)会津西街道 横川宿→糸沢宿 道中】
地震発生から約3週間後の4月2日土曜日、こんな時に歩き旅へ行ってもよいのかと思いつつも、会津方面がどういう状態なのか気になっていたこともあり、7:20北千住駅発の会津田島行という平常時ではあり得ない快速に乗車。この快速は会津方面等の被災地域へ救援・支援のために浅草から会津田島まで直通運行する列車で、ちょうどこの日から開始された運行ダイヤ。しかし、それほど乗客は多くなく、鬼怒川温泉駅で下車する人もまばら。車窓から眺める鬼怒川温泉街は、土曜日だというのに閑散としていた。おそらく震災の影響なのだろう。10:15男鹿高原駅着。天気はそこそこに良く、日が照る場所ならそこそこに暖かい。2ヶ月半前に訪れた横川宿内を再び歩いて山王峠を目指す。

会津西街道 山王峠02


男鹿高原駅
再び秘境駅の男鹿高原駅に降り立つ。案の定、乗降客は私一人だけ。雪解けがかなり進んでおり、前回とは随分と雰囲気が違う。


男鹿高原駅前広場緊急ヘリポート
男鹿高原駅前広場緊急ヘリポート。こちらも雪解けによってヘリの離着陸マークが地面に現れており、前回訪れたときに見たただの雪原から、それらしいヘリポートの姿が確認できた。


横川一里塚
よばわり岩の一里塚の異名を持つ横川一里塚。


よばわり岩と横川一里塚 よばわり岩
前回、積雪のために確認できなかった”よばわり岩”を探す。一里塚裏手の斜面に突出した大岩があり、これが”よばわり岩”なのだろう。


カントリーキッチン狩人
横川の国道121号沿いにある”カントリーキッチン狩人”。まだ冬期休業中のようだ。


横川小学校跡
横川小学校跡。平成元年(1989年)廃校。校舎は残っていないが、校歌を刻んだ石碑が置かれ、かつて小学校がここにあったことを今に伝えている。
「紫におう山里の 朝に仰ぐ男鹿岳 緑陰深し清流に 集いしわれら横川校 希望の光さすところ たたえん友よわが抱負」
どんな曲がつけられていたのだろうか。


国道121号 横川
猿横断注意!


国道121号 横川の洞門 横川の野仏
国道121号横川の洞門とその入口にある野仏4基。


残雪の男鹿川
残雪の男鹿川。


横川如意輪観音堂 清水伝左衛門の墓碑
横川如意輪観音堂(横川関所跡)とその境内にある清水伝左衛門の墓碑。


横川宿南側入口
横川如意輪観音堂から横川宿今市方(南側)入口を望む。


横川橋
水上沢に架かる横川橋の先から横川宿の家並みが続く。


横川宿
前回訪れたときには雪に埋もれつつあった横川宿。地震の被害は特に無いように見えた。雪解けがかなり進んでおり、間もなく春の麗らかな日を迎えるだろう。前回は気付かなかったが、この集落は何故だか青のトタン屋根が圧倒的に多い。


横川宝篋印塔
前回訪れたときには雪に埋もれて確認できなかった横川宝篋印塔。大雪に耐えてきた様をありありとうかがう。


旅館福田屋
旅館福田屋。青のトタン屋根に残る雪も僅か。改めてノスタルジーを感じる良い雰囲気の店構えだと思う。


横川宿02
宿内の会津方(北側)外れには、今冬に縦横無尽の働きをしたのだろう除雪車が、少々お疲れ気味な感じで停められていた。お疲れ様です。


国道121号 横川パーキング
国道121号の横川パーキング付近。山王峠旧道へのアクセスはパーキング内にある百姓屋(写真中央の建物)の裏手から旧国道に入り、更に旧国道から沢伝いの山道を進んで峠へ向かう。


百姓屋
峠に向かう前に食料と飲料を補給しようと百姓屋へ立ち寄る。しかし店のご主人によると、この辺りは地震の被害は小さかったものの、地震後から国道121号を通行する車が激減したため、例年なら店を開けている時期にもかかわらず、今年は今もって店を閉め自販機も動かしていないという。会津方面では宿泊のキャンセルが非常に多いらしく、風評被害なのか、自粛ムードのせいなのか、東北道が開通した現在でも会津方面へ行こうとする観光客は少ないようだ。


横川パーキング
閑散とした横川パーキング。車が1台も停まっていない。


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山王峠越え①

【2011年4月2日(土)会津西街道 横川宿→糸沢宿 道中】
栃木県と福島県の県境をなす帝釈山地、その荒海山(標高1580m)と男鹿山(標高1777m)に挟まれた尾根を会津西街道は越え、ここを古くから山王峠と呼んでいた。現在は国道121号の山王トンネルが山地を貫いており、昭和55年(1980年)にこのトンネルが開通するまでは、山王トンネル上に位置する標高906mの峠をつづら折れに越えて国道が通されていた。この山王峠越えの旧国道は、明治15年(1882年)に当時の県令(現在で言う県知事)三島通庸によって開削された三方道路が元になっていると思われる。その旧国道が敷設されるまで使われていたであろう会津西街道は、旧国道の山王峠からやや西側で峠を越えており、こちらが本家本元の旧山王峠である。

山王峠の名は峠の頂付近に鎮座していた山王権現が由来と伝わり、鎌倉時代には峠を挟んで下野側、会津側それぞれにあったという。新編会津風土記(1803年から1809年にかけて編纂された会津藩領に関する地誌)にもその記述が見られるというから、存在していたことは確かなのだろう。現在も旧山王峠の頂から少し福島県側へ下った所に山王権現のものといわれる礎石が残っている。前々の記事に紹介したイザベラ・バードは山王峠を越えるときの様子をこう書いている。
「長い山路を登ると、高さ2500フィートの峠の頂上に出た。そこは30フィートも幅の無い突き出た山の端で、山々や峡谷のすばらしい眺めがあった。」

会津西街道 山王峠


山王峠旧道入口
山王峠旧道入口。江戸期の会津西街道はここで旧国道を左手に分かれ、沢伝いに山中へ入る峠道。


山王峠旧道
旧道へ入ってすぐの地点。路面にはしっかり残雪があり。峠まで辿り着けるのか少々不安に。


山王峠旧道
旧道は沢伝いに進む。ズボズボ足が埋まる。


山王峠旧道
沢の先に旧道が続く。大昔は簡単な橋が架けられていたのだろうが、現在は徒歩渡しするしかない。幸いそれほど水量が多くなかったので簡単に渡れた。


山王峠旧道
残雪と倒木が行く手を阻む。とにかく前進あるのみ。


山王峠旧道
山王峠旧道。


山王峠旧道
右下に沢を見ながら山の斜面際を縫うように旧道は山中へ延びる。


山王峠旧道にて
おっと、糞を踏んづけるところだった。しかし見事な…。


山王峠旧道
急斜面を峠の頂に向かってつづら折れに登る。道形は崩れつつある。


山王峠旧道
登ってきた斜面を望む。上から見ると結構な急斜面であることを実感。


旧山王峠
急斜面を乗り越えれば、間もなく峠の頂に着く。


旧山王峠
ここが山王峠。幅の狭い山の尾根上に位置し、イザベラ・バードが記した山王峠の様子を目の当たりに実感する。写真の尾根奥が福島県で手前が栃木県。GPSの軌跡を確認する限り標高は972mだった。中央に見える石仏は馬頭観音である。


山王峠の馬頭観音
山王峠の頂に残る馬頭観音。「弘化元年十一月七日 施主 中三依 大黒屋」の銘がある。


山王峠の馬頭観音
馬頭観音の背後にはイザベラ・バードが見たであろう”会津の山々や峡谷のすばらしい眺め”があった。


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山王峠越え②

【2011年4月2日(土)会津西街道 横川宿→糸沢宿 道中】
山王峠を福島県側へ下ろう。峠の頂から狭い尾根上を下って間もなく、峠名の由来になった山王権現の遺構と伝わる礎石を旧道上に見ると、その先には猿馬場と呼ばれた難所が待ち受ける。猿馬場の街道は急勾配の斜面をつづら折れに通されており、万治2年(1659年)の大地震によって谷底へ崩れ落ちたとの記録も残る。この難所を越えれば旧国道を横断し、中曽根と呼ばれる尾根筋に通された堀割状の旧道を通り、小さな沢を越えた後はなだらかな川沿いの道が続く。やがて旧国道に合流して山王川を渡るのだが、江戸期の街道はもっと北側で山王川を渡河していたらしい。そして、山王川右岸(東岸)の街道沿いにあった山王茶屋に辿り着く。元和3年(1617年)から営業を始めたとされる山王茶屋は、これから峠へ向かう旅人、ようやく峠を越えてきた旅人がひと時の休息を得るオアシスだったが、現在は他所へ移築されて残っていない。

会津西街道 山王峠


山王峠
山王峠に立つ”下野街道”と書かれた立て札。その先に会津西街道の旧道が会津側へ下りて行く。ついに会津の国に足を踏み入れた。


山王峠旧道
狭い尾根上を緩やかに降る旧道。


山王権現社跡
山王権現社跡。峠名の由来になったと伝わる神社跡である。柱が立てられていたと思われる礎石が雪の中に姿を見せていた。同じ礎石がもう一つあるはずなのだが、いまだ雪に埋もれているのか確認できなかった。


山王峠旧道
山王権現の先から急斜面をつづら折れに降る旧道。かつて猿馬場と呼ばれた難所である。


山王峠旧道
しかし、少し進んだ先で猿馬場の旧道は旧国道の開削によって分断されていた。


山王峠旧道
上の写真で途切れた旧道は、U字にカーブしてここに繋がっていたと思われる。


山王峠旧道
猿馬場の山王峠旧道。


山王峠旧道
猿馬場の急斜面を下りきると旧国道に出る。旧道は旧国道を横断して先に延びている。


山王峠旧道
なだらかに狭い尾根上を行く。


山王峠旧道にて
山。その通り!


山王峠旧道
旧道筋の所々に赤松が見られる。街道時代の名残か。


山王峠旧道
中曽根と呼ばれた尾根筋を堀割状の旧道がつづら折れに下る。


山王峠旧道
中曽根筋の旧道。急坂が続くため崩壊している場所もある。


山王峠旧道
木々の合間に国道121号の山王大橋を遠望。


山王峠旧道
中曽根の急坂を下りきれば沢越えである。


山王峠旧道
山王川に沿って旧道は続くが、雪が積もっていて道筋が判別できない。”下野街道”と書かれた立て札が頼り。


山王峠旧道
とにかく川に沿って北上。


山王峠旧道
後ろを振り返って。この足跡を見た人はどう思うんだろうなあ…。


山王峠旧道 山王峠旧国道にて
旧道はここで旧国道に合流。その合流点に”荒海宿”の木柱が立つ。会津西街道に荒海宿という宿駅は存在しておらず、明治22年(1889年)に宿駅の置かれていた糸沢村と川島村をはじめ、いくつかの村が合併して誕生したのが荒海村である。


山王峠旧国道
やっと旧国道へ出たというのにこの雪深さ。とにかく疲れる…。


山王峠旧国道
ようやく山王川を渡って現在の本ルート、国道121号に合流する。江戸期の街道はここで川を渡らず、更に山王川左岸を北上していたようだが、その道筋は消失していると思われる。


山王峠旧国道
旧国道と国道121号の合流地点。


国道121号 男鹿沼原
国道121号”道の駅たじま”まで500mの地点。右手に見える鳥居は日吉神社。この神社付近に山王茶屋があったはずだが、事前の調査不足でその跡地がどこなのか確定できなかった。山王茶屋については、後日調査して別の記事で詳しく紹介したい。


日吉神社
日吉神社。日吉とは山王権現の別称。山王峠にあった山王権現はここに合祀されているという。


道の駅だじま
現代の山王茶屋とも言うべき”道の駅たじま”。男鹿高原駅から歩いてきてようやく食料を調達できる場所に辿り着いたわけで…(涙)


ごまだれ餅 ゆべし
”ごまだれ餅”と”ゆべし”という和菓子を購入し、激しい空腹を満たすべく一気に完食。とにかく美味かったよー。食べ物について表現力が乏しくてスミマセン。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
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6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
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10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
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13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
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19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
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23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
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27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
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水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
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日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
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京都三条大橋

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