川島宿
【2011年5月8日(日)会津西街道 川島宿】
糸沢宿から会津西街道を北上すること約4km、1時間も歩けば川島宿に辿り着く。川島宿は明暦元年(1655年)に町屋・尾出・金地・川島前・川島の5集落を集めて拡大整備され、宿駅として成立したという。天明8年(1788年)川島村の人口255人、家数62軒。本陣は問屋を兼ねて星家が務めた。宿内に旧修験南照寺があり、弘化5年(1848年)御蔵入領修験50ヶ院の小先達を務めたと伝わる。現在の川島宿は宿内を通っていた街道が国道となってしまったため、町並みに往時の面影は残っていない。
イザベラバードは川島宿に宿泊し、日本奥地紀行にその時の様子をこう書いている。
「糸沢では、借り出した馬がひどく躓くので、最後の宿場間を歩いて川島に着いた。ここは五十七戸のみじめな村であった。私は疲れきって、それ以上進めなかったので、やむなく藤原のときよりずっとひどい設備の宿に泊ることになった。苦労に立ち向かう気力も、前ほどはなかった。
宿屋はまったくひどかった。台所では、土を深く掘った溝に大きな薪を入れて燃やしていたが、ひりひりする煙があたり一面に充満していた。私の部屋はがたぴしの障子で仕切ってあるだけだったから、その煙から免れることはできなかった。垂木は、煙と湿気で黒光りしていた。宿の亭主は、私の部屋の床に跪いて、家が汚いことをしきりに弁解していたが、あまりくどく言うので伊藤が追い返した。弁解するのも当然なことだ。息のつまるほど暗くて煙っぽかったが、街路に群集が集まってきたので、窓の障子を閉めざるをえなかった。米もなければ醤油もなかった。(以下略)」
この後にも家屋の状態、住民の容姿や衣服、蔓延する皮膚病等について、イザベラが見た有りのままが正直に書かれている。というよりは、滔々と酷評が書かれていると言った方が正確かもしれない。ドラマの”JIN-仁-”ではないが、もし自分がこの時代にタイムスリップしたなら、耐え難い苦痛でまともに生き長らえることはできないだろう。


穴沢川を渡ってすぐ左手にある”会津工房あぶらや”で昼食に。ラーメンをすすっている最中に店のご主人が話しかけてきた。
「まだ桜が咲いていて驚いたでしょう。今年は天候不順で異常に遅かったんですよ。青森辺りの桜はもう散ったというのにねえ…。」

穴沢川の土手道を歩いて線路沿いの道へ移動。穴沢川付近の旧道は不明。

線路沿いの道を歩いて会津荒海駅へ向かう。

会津荒海駅。昭和22年(1947年)の開業。駅前から線路沿いに北へ延びる道が旧道らしい。

会津荒海駅付近の旧道。この辺りの町並みは旧関本村の名残である。明治22年(1889年)関本と中荒井や川島、糸沢等、荒海川流域の6ヶ村が合併して荒海村が誕生。当初は川島に村役場が置かれたが、昭和28年(1953年)関本に村役場が移り、関本は荒海村の中心地となった。

関本の旧道沿いに残る馬頭尊。

旧道は国道に合流し、川島宿へ入って行く。

川島宿南側(今市方)入口の町並み。右手に見える鳥居は鷲神社。

鷲神社の参道入口。会津西街道を歩いていて初めて見る神社名である。鷲という字をを”わし”と読むのか、それとも酉の市で有名な浅草の神社と同じく”おおとり”と読むのか…。わからない。

旧修験南照寺の跡地にある旧南照寺修験資料館。見学には事前連絡が必要なよう。資料館の奥に川島家住宅主屋と千住観世音堂が残っており、いずれも国の登録有形文化財に指定される。

川島家住宅主屋と千住観世音堂。

川島家住宅主屋は寛政5年(1793年)火災後の再建という寄棟造の農家建築。南照寺に深い関わりがある家らしい。主屋の造りは糸沢宿の龍福寺前にあった民家と酷似しており、この辺りではよく見かける建築である。元々は茅葺屋根だったが、内部構造の保存状態が良いことから国の登録有形文化財に指定されたようだ。
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・糸沢宿

川島家住宅主屋にて。不審者と思われたのか、散々吠えられた…。

川島宿の町並み。国道の拡幅工事によるものだろうが、宿場の面影は残っておらず、本陣の星家がどこにあったのかもわからない。

川島宿内北外れの路傍にある”古峯神社”の石塔。鷲神社の参道入口にも同じものがあり、宿場の南北両端にあたる場所に設置されている。栃木県鹿沼市に総本宮がある古峯神社を信仰する講中の人々によって建てられたもの。古峯神社は防火の神として広く信仰を集め、各地にこのような石塔が建てられた。
古峯神社
http://www.furumine-jinjya.jp/

金地橋バス停付近の国道121号。川島宿を抜けて金地橋へ向かう。

金地川を渡って中荒井へ。
糸沢宿から会津西街道を北上すること約4km、1時間も歩けば川島宿に辿り着く。川島宿は明暦元年(1655年)に町屋・尾出・金地・川島前・川島の5集落を集めて拡大整備され、宿駅として成立したという。天明8年(1788年)川島村の人口255人、家数62軒。本陣は問屋を兼ねて星家が務めた。宿内に旧修験南照寺があり、弘化5年(1848年)御蔵入領修験50ヶ院の小先達を務めたと伝わる。現在の川島宿は宿内を通っていた街道が国道となってしまったため、町並みに往時の面影は残っていない。
イザベラバードは川島宿に宿泊し、日本奥地紀行にその時の様子をこう書いている。
「糸沢では、借り出した馬がひどく躓くので、最後の宿場間を歩いて川島に着いた。ここは五十七戸のみじめな村であった。私は疲れきって、それ以上進めなかったので、やむなく藤原のときよりずっとひどい設備の宿に泊ることになった。苦労に立ち向かう気力も、前ほどはなかった。
宿屋はまったくひどかった。台所では、土を深く掘った溝に大きな薪を入れて燃やしていたが、ひりひりする煙があたり一面に充満していた。私の部屋はがたぴしの障子で仕切ってあるだけだったから、その煙から免れることはできなかった。垂木は、煙と湿気で黒光りしていた。宿の亭主は、私の部屋の床に跪いて、家が汚いことをしきりに弁解していたが、あまりくどく言うので伊藤が追い返した。弁解するのも当然なことだ。息のつまるほど暗くて煙っぽかったが、街路に群集が集まってきたので、窓の障子を閉めざるをえなかった。米もなければ醤油もなかった。(以下略)」
この後にも家屋の状態、住民の容姿や衣服、蔓延する皮膚病等について、イザベラが見た有りのままが正直に書かれている。というよりは、滔々と酷評が書かれていると言った方が正確かもしれない。ドラマの”JIN-仁-”ではないが、もし自分がこの時代にタイムスリップしたなら、耐え難い苦痛でまともに生き長らえることはできないだろう。



穴沢川を渡ってすぐ左手にある”会津工房あぶらや”で昼食に。ラーメンをすすっている最中に店のご主人が話しかけてきた。
「まだ桜が咲いていて驚いたでしょう。今年は天候不順で異常に遅かったんですよ。青森辺りの桜はもう散ったというのにねえ…。」

穴沢川の土手道を歩いて線路沿いの道へ移動。穴沢川付近の旧道は不明。

線路沿いの道を歩いて会津荒海駅へ向かう。

会津荒海駅。昭和22年(1947年)の開業。駅前から線路沿いに北へ延びる道が旧道らしい。


会津荒海駅付近の旧道。この辺りの町並みは旧関本村の名残である。明治22年(1889年)関本と中荒井や川島、糸沢等、荒海川流域の6ヶ村が合併して荒海村が誕生。当初は川島に村役場が置かれたが、昭和28年(1953年)関本に村役場が移り、関本は荒海村の中心地となった。

関本の旧道沿いに残る馬頭尊。

旧道は国道に合流し、川島宿へ入って行く。

川島宿南側(今市方)入口の町並み。右手に見える鳥居は鷲神社。

鷲神社の参道入口。会津西街道を歩いていて初めて見る神社名である。鷲という字をを”わし”と読むのか、それとも酉の市で有名な浅草の神社と同じく”おおとり”と読むのか…。わからない。

旧修験南照寺の跡地にある旧南照寺修験資料館。見学には事前連絡が必要なよう。資料館の奥に川島家住宅主屋と千住観世音堂が残っており、いずれも国の登録有形文化財に指定される。

川島家住宅主屋と千住観世音堂。

川島家住宅主屋は寛政5年(1793年)火災後の再建という寄棟造の農家建築。南照寺に深い関わりがある家らしい。主屋の造りは糸沢宿の龍福寺前にあった民家と酷似しており、この辺りではよく見かける建築である。元々は茅葺屋根だったが、内部構造の保存状態が良いことから国の登録有形文化財に指定されたようだ。
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川島家住宅主屋にて。不審者と思われたのか、散々吠えられた…。

川島宿の町並み。国道の拡幅工事によるものだろうが、宿場の面影は残っておらず、本陣の星家がどこにあったのかもわからない。

川島宿内北外れの路傍にある”古峯神社”の石塔。鷲神社の参道入口にも同じものがあり、宿場の南北両端にあたる場所に設置されている。栃木県鹿沼市に総本宮がある古峯神社を信仰する講中の人々によって建てられたもの。古峯神社は防火の神として広く信仰を集め、各地にこのような石塔が建てられた。
古峯神社
http://www.furumine-jinjya.jp/

金地橋バス停付近の国道121号。川島宿を抜けて金地橋へ向かう。

金地川を渡って中荒井へ。

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