田島宿
【2011年5月8日(日)会津西街道 田島宿】
「私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。この町は下駄、素焼、粗製の漆器や籠を生産し、輸出する。」
イザベラバードは当時の田島をこう書いている。江戸初期から幕末にかけて田島は幕府直轄領で、大名は存在しておらず、ここに書かれている大名とは、中世に田島一帯を支配し、南北朝期から室町期に鴫山城(しぎやまじょう)を築城した長沼氏を指していると考えてよいだろう。田島は長沼氏時代に鴫山城の城下町として形成され、江戸期に宿場町へと変貌を遂げたと言える。毎年7月22日から3日間行われる会津田島祇園祭は、鎌倉時代に長沼氏によって祇園の神が祀られたことに起源があるといい、長沼氏が田島に残した功績は大きい。鴫山城と長沼氏については次の記事に書くことにしよう。
田島が会津西街道の宿場町として成立したのは元和年間(1615年~1623年)初期頃で、寛永4年(1624年)には会津藩の口留番所が置かれた。この番所は正保元年(1644年)に糸沢村へ、寛文元年(1661年)には横川村へ転々と移された。寛永20年(1643年)田島は幕府直轄の南山御蔵入領に属することになり、元禄6年(1693年)には田島陣屋が置かれ、江戸期を通して南山御蔵入領の中枢として政治的な色彩も強めた。その流れは明治になってからも続き、陣屋に代わって南会津郡役所が置かれ、現在は陣屋跡に南会津町役場が建てられている。
田島宿は享保5年(1720年)の絵図によると町並み東西13町18間(約1.45km)、西から西町・上町・中町・本町・東町・横町と続き、上町の西端と東町の東端に木戸が設置されていた。天保9年(1838年)の家数216軒、人口928人。この数字を見る限り南会津では最大規模の町だったのだろう。毎月一の日と六の日に六斎市と呼ばれる市が立ち、大勢の客で賑わった。また、長沼氏の時代から馬市も立ち、一時衰退はしたが、仲附駑者の出現によって江戸後期には再び隆盛を取り戻したようだ。


田島宿西町入口にある京屋酒店。鎌倉山の北東麓にあり、この辺りが田島宿の西外れ。

田島西町甲を行く国道121号。

田島西町郵便局の少し東側で国道121号から右手旧道へ入る。

田島宿西町甲の旧道。

田島西町甲の旧道沿いに残る念仏供養塔。

明治18年(1885年)に竣工した旧南会津郡役所。元々は県合同庁舎の場所にあり、合同庁舎の建設にあたって取り壊される予定だったが、保存の機運が高まり昭和45年(1970年)に現在地へ曳家された。この郡役所が完成したのが会津戦争から18年後のことで、当時の田島に住む人々はこの洋風建築を見て何を感じたのだろう。文明開化、それとも歴史の中に去りゆく自らの文化だったのか…。現代人にそう考えさせるだけでも、旧南会津郡役所を残した意義はあるというもんだ。

割烹料理”梅寿館”やスナックLOVEのある辺りから旧道は北東方向に曲がり国道121号に合流。この辺りがかつての西町と上町の境で、木戸が設置されていた地点だと思われる。付近に千手観世音堂がある。

旧道と国道の合流地点。田島上町甲の町並み。

和泉屋魚店前に鴫山城址入口(大手口)がある。

田島上町甲を行く国道121号。

和泉屋旅館。佇まいを見ての通り相当な歴史がありそうで、かつては旅籠だったと思われる。国の登録有形文化財。

田島中町甲と田島本町甲の町並み。かつて田島宿の中町・本町だった場所で宿場の中心部だった。現在は街道を拡幅して国道が通されており、往時の面影は全く残っていない。

田島本町甲の国道沿いにある旅館田沢屋。建物は近年のものだろうが、和泉屋旅館と同様にこちらも長い歴史がありそう。

本町と東町の境を流れる大門川。奥に見える山は鴫山城の愛宕山。

田島東町甲の東側で旧道は国道と分かれて直進。分岐点には”まもる食堂”なる店がある。”まるも”じゃなかったのが少々残念…。田島宿の散策は日没サスペンデッド、ここで終わり。横町の旧街道歩きは次にとっておこう。

会津田島駅から帰途につく。
【会津西街道歩き 第12日目】七ヶ岳登山口駅→糸沢宿→川島宿→田島宿→会津田島駅 歩行距離約24km(GPSロガーによる)
「私たちは田島で馬をかえた。ここは、昔、大名が住んでいたところで、日本の町としてはたいそう美しい。この町は下駄、素焼、粗製の漆器や籠を生産し、輸出する。」
イザベラバードは当時の田島をこう書いている。江戸初期から幕末にかけて田島は幕府直轄領で、大名は存在しておらず、ここに書かれている大名とは、中世に田島一帯を支配し、南北朝期から室町期に鴫山城(しぎやまじょう)を築城した長沼氏を指していると考えてよいだろう。田島は長沼氏時代に鴫山城の城下町として形成され、江戸期に宿場町へと変貌を遂げたと言える。毎年7月22日から3日間行われる会津田島祇園祭は、鎌倉時代に長沼氏によって祇園の神が祀られたことに起源があるといい、長沼氏が田島に残した功績は大きい。鴫山城と長沼氏については次の記事に書くことにしよう。
田島が会津西街道の宿場町として成立したのは元和年間(1615年~1623年)初期頃で、寛永4年(1624年)には会津藩の口留番所が置かれた。この番所は正保元年(1644年)に糸沢村へ、寛文元年(1661年)には横川村へ転々と移された。寛永20年(1643年)田島は幕府直轄の南山御蔵入領に属することになり、元禄6年(1693年)には田島陣屋が置かれ、江戸期を通して南山御蔵入領の中枢として政治的な色彩も強めた。その流れは明治になってからも続き、陣屋に代わって南会津郡役所が置かれ、現在は陣屋跡に南会津町役場が建てられている。
田島宿は享保5年(1720年)の絵図によると町並み東西13町18間(約1.45km)、西から西町・上町・中町・本町・東町・横町と続き、上町の西端と東町の東端に木戸が設置されていた。天保9年(1838年)の家数216軒、人口928人。この数字を見る限り南会津では最大規模の町だったのだろう。毎月一の日と六の日に六斎市と呼ばれる市が立ち、大勢の客で賑わった。また、長沼氏の時代から馬市も立ち、一時衰退はしたが、仲附駑者の出現によって江戸後期には再び隆盛を取り戻したようだ。


田島宿西町入口にある京屋酒店。鎌倉山の北東麓にあり、この辺りが田島宿の西外れ。

田島西町甲を行く国道121号。

田島西町郵便局の少し東側で国道121号から右手旧道へ入る。

田島宿西町甲の旧道。

田島西町甲の旧道沿いに残る念仏供養塔。

明治18年(1885年)に竣工した旧南会津郡役所。元々は県合同庁舎の場所にあり、合同庁舎の建設にあたって取り壊される予定だったが、保存の機運が高まり昭和45年(1970年)に現在地へ曳家された。この郡役所が完成したのが会津戦争から18年後のことで、当時の田島に住む人々はこの洋風建築を見て何を感じたのだろう。文明開化、それとも歴史の中に去りゆく自らの文化だったのか…。現代人にそう考えさせるだけでも、旧南会津郡役所を残した意義はあるというもんだ。

割烹料理”梅寿館”やスナックLOVEのある辺りから旧道は北東方向に曲がり国道121号に合流。この辺りがかつての西町と上町の境で、木戸が設置されていた地点だと思われる。付近に千手観世音堂がある。

旧道と国道の合流地点。田島上町甲の町並み。

和泉屋魚店前に鴫山城址入口(大手口)がある。

田島上町甲を行く国道121号。

和泉屋旅館。佇まいを見ての通り相当な歴史がありそうで、かつては旅籠だったと思われる。国の登録有形文化財。


田島中町甲と田島本町甲の町並み。かつて田島宿の中町・本町だった場所で宿場の中心部だった。現在は街道を拡幅して国道が通されており、往時の面影は全く残っていない。

田島本町甲の国道沿いにある旅館田沢屋。建物は近年のものだろうが、和泉屋旅館と同様にこちらも長い歴史がありそう。

本町と東町の境を流れる大門川。奥に見える山は鴫山城の愛宕山。

田島東町甲の東側で旧道は国道と分かれて直進。分岐点には”まもる食堂”なる店がある。”まるも”じゃなかったのが少々残念…。田島宿の散策は日没サスペンデッド、ここで終わり。横町の旧街道歩きは次にとっておこう。

会津田島駅から帰途につく。
【会津西街道歩き 第12日目】七ヶ岳登山口駅→糸沢宿→川島宿→田島宿→会津田島駅 歩行距離約24km(GPSロガーによる)

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