大内ダム
【会津西街道歩き 第16日目】大内宿→大内峠→氷玉峠→関山宿→福永宿→会津本郷
【2011年11月26日(土)会津西街道 大内宿→関山宿】
11月に入ってからというものの、週末になれば天気が悪くなるというパターンが続き、なかなか会津へ行く機会に恵まれなかったが、ようやく訪れた好天の週末。土曜日の会津地方は曇り後晴れの天気予報、気温はかなり低そうだが歩き旅にはまずまずな一日になりそうだ。ということで前日金曜日の夜に会津田島入り、再びグリーンホテルミナトに宿泊し、翌朝7時に朝飯を腹へ掻き込んで会津田島駅7:34発の会津鉄道(会津若松行)に乗車する。ここまでは前回と全く同じパターンだったが、前回降りた会津下郷駅を通り越して8:02湯野上温泉駅で下車。駅前に待機していた湯野上タクシーを利用して大内宿へ。まだ観光客がいない静かな宿内を通り抜けて大内峠へ向かう。
大内宿から旧道を北上、櫻木姫墳の墓標が建つ御側原を過ぎると大内ダムに行く手を阻まれる。旧道は大内ダムの底に沈んでしまっており、大内峠の登り口まで大内宿こぶしライン(福島県道131号)を迂回しなければならない。大内ダムは昭和49年(1974年)着工、平成3年(1991年)に竣工した小野川の最上流部にあるダム。大内ダムを上池、阿賀川(大川)上流部にある大川ダム(若郷湖)を下池とし、この間で得られる有効落差387mを利用して、最大出力100万kWを発電する水力発電所である。大内ダムの建設以前は会津西街道の傍らに大内沼があり、戊辰戦争の際には激戦地となって多くの戦死傷者を出したという。戦後に戦死者を弔うため「戦死二十四人墓」が建てられたが、ダム建設によって現在はダム東側高台に移転供養されている。


前回のゴール、大内宿からスタート!さすがに朝の8時過ぎだけに観光客はほとんどいない。

大内宿復元本陣。まだ開いていない。

雪化粧の萱葺屋根が並ぶ大内宿。前回とはちょっと違った雰囲気。

大内宿北外れの三佛堂前を行く旧道。

大内宿出て少し行ったところ。路傍に小さな六地蔵と馬頭観世音が建つ。

道案内地蔵がある分かれ道。左は小野川林道、右が会津西街道の旧道で大内ダムに向かう。地蔵の台座には”右若松”と刻まれている。

櫻木姫墳前を行く旧道。

治承4年(1180年)高倉宮以仁王が平家との戦い(宇治川の戦い)に敗れ、都を脱出して大内に潜行した伝説が残ることは以前の記事にも何度か書いた。その高倉宮以仁王を慕って後を追ったというのが櫻木姫である。しかし櫻木姫は長旅の疲れからこの地で倒れ、手厚い看護も空しく亡くなってしまった。以後、この辺りは御側原と呼ばれるようになったという。

旧道は小野川を渡った先で大内ダムの管理地に入り、立入禁止となる。仕方なくここで旧道を引き返す。

御側原追分から大内宿こぶしライン(福島県道131号)を歩いて大内ダムへ。

御側原追分の路傍に湧き出る薬水。飲めば様々な病に効くと伝わる。櫻木姫も病の回復を願い、この水で喉を潤したという。

大内宿こぶしライン(福島県道131号)。車の通行は少ない。

大内ダム。旧道はこの湖底に沈んでしまった。

大内ダムより大内峠を望む。写真中央の山間が会津西街道の旧道が通る大内峠。

大内ダムより大内宿を望む。ダムに向かって延びる道が会津西街道旧道。

大内峠旧道入口付近に湧き出る宝水。その傍らにある看板には”向百も過ぎし正にこの地に山の恵み湧き出る也り”と書かれていた。

大内峠旧道入口。ここから県道を離れて山道に入る。

大内峠旧道入口手前の大内ダム。旧道はこの湖底を通っていたはず。
【2011年11月26日(土)会津西街道 大内宿→関山宿】
11月に入ってからというものの、週末になれば天気が悪くなるというパターンが続き、なかなか会津へ行く機会に恵まれなかったが、ようやく訪れた好天の週末。土曜日の会津地方は曇り後晴れの天気予報、気温はかなり低そうだが歩き旅にはまずまずな一日になりそうだ。ということで前日金曜日の夜に会津田島入り、再びグリーンホテルミナトに宿泊し、翌朝7時に朝飯を腹へ掻き込んで会津田島駅7:34発の会津鉄道(会津若松行)に乗車する。ここまでは前回と全く同じパターンだったが、前回降りた会津下郷駅を通り越して8:02湯野上温泉駅で下車。駅前に待機していた湯野上タクシーを利用して大内宿へ。まだ観光客がいない静かな宿内を通り抜けて大内峠へ向かう。
大内宿から旧道を北上、櫻木姫墳の墓標が建つ御側原を過ぎると大内ダムに行く手を阻まれる。旧道は大内ダムの底に沈んでしまっており、大内峠の登り口まで大内宿こぶしライン(福島県道131号)を迂回しなければならない。大内ダムは昭和49年(1974年)着工、平成3年(1991年)に竣工した小野川の最上流部にあるダム。大内ダムを上池、阿賀川(大川)上流部にある大川ダム(若郷湖)を下池とし、この間で得られる有効落差387mを利用して、最大出力100万kWを発電する水力発電所である。大内ダムの建設以前は会津西街道の傍らに大内沼があり、戊辰戦争の際には激戦地となって多くの戦死傷者を出したという。戦後に戦死者を弔うため「戦死二十四人墓」が建てられたが、ダム建設によって現在はダム東側高台に移転供養されている。


前回のゴール、大内宿からスタート!さすがに朝の8時過ぎだけに観光客はほとんどいない。

大内宿復元本陣。まだ開いていない。

雪化粧の萱葺屋根が並ぶ大内宿。前回とはちょっと違った雰囲気。

大内宿北外れの三佛堂前を行く旧道。


大内宿出て少し行ったところ。路傍に小さな六地蔵と馬頭観世音が建つ。

道案内地蔵がある分かれ道。左は小野川林道、右が会津西街道の旧道で大内ダムに向かう。地蔵の台座には”右若松”と刻まれている。

櫻木姫墳前を行く旧道。

治承4年(1180年)高倉宮以仁王が平家との戦い(宇治川の戦い)に敗れ、都を脱出して大内に潜行した伝説が残ることは以前の記事にも何度か書いた。その高倉宮以仁王を慕って後を追ったというのが櫻木姫である。しかし櫻木姫は長旅の疲れからこの地で倒れ、手厚い看護も空しく亡くなってしまった。以後、この辺りは御側原と呼ばれるようになったという。

旧道は小野川を渡った先で大内ダムの管理地に入り、立入禁止となる。仕方なくここで旧道を引き返す。

御側原追分から大内宿こぶしライン(福島県道131号)を歩いて大内ダムへ。

御側原追分の路傍に湧き出る薬水。飲めば様々な病に効くと伝わる。櫻木姫も病の回復を願い、この水で喉を潤したという。

大内宿こぶしライン(福島県道131号)。車の通行は少ない。

大内ダム。旧道はこの湖底に沈んでしまった。

大内ダムより大内峠を望む。写真中央の山間が会津西街道の旧道が通る大内峠。

大内ダムより大内宿を望む。ダムに向かって延びる道が会津西街道旧道。

大内峠旧道入口付近に湧き出る宝水。その傍らにある看板には”向百も過ぎし正にこの地に山の恵み湧き出る也り”と書かれていた。

大内峠旧道入口。ここから県道を離れて山道に入る。

大内峠旧道入口手前の大内ダム。旧道はこの湖底を通っていたはず。

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