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上米塚の渡し

【2012年1月22日(日)会津西街道 会津本郷→鶴ヶ城(若松城)下】
会津西街道は上米塚から阿賀川を渡る。かつては対岸の飯寺まで渡し船があり、上米塚の渡しと呼ぶ。会津藩士等は船賃が免除され、一般庶民からは徴収していたという。その渡し場跡は只見線鉄橋付近の下流域で、現在は歩行者がここを渡る術は無く、只見線鉄橋から約1㎞下流に架かる高田橋か、上流側の本郷大橋まで迂回するしかない。その渡し場右岸(城下)側は古くの飯寺村で、村内には起点の大町札の辻から最初の一里塚があったが、今は跡形も無くなっている。戊辰戦争の際、会津藩の救援に駆け付けた越後長岡藩士43名が、飯寺村内で新政府軍の重囲に陥り戦死。飯寺の本光寺にはその供養碑が残る。

会津西街道 上米塚・飯寺


会津西街道旧道 上米塚
上米塚の渡し跡へ続く旧道。


会津西街道旧道 上米塚
旧道は阿賀川土手に阻まれる。


只見線鉄橋
阿賀川を渡る只見線鉄橋。土手から渡し場へ続いていた旧道は河川敷の中に消失。


会津西街道旧道 上米塚
会津は冬の真っ只中、さすがに川の徒歩渡しはできない。歩いてきた旧道を戻ろう。


本郷街道踏切
上米塚から本郷街道踏切を渡り下流側の高田橋へ向かう。


高田橋
国道401号の高田橋で阿賀川を渡河。


高田橋より阿賀川を望む
高田橋より阿賀川上流を望む。


阿賀川
阿賀川冬景色。


上米塚の渡し跡
只見線鉄橋の下流域、上米塚の渡し跡を飯寺側から望む。川の水量が減るためなのだろう、冬場は渡し船ではなく、仮橋が架けられたという。


会津西街道旧道 飯寺01
国道118号(会津若松西バイパス)、セブンイレブン裏から旧道が現れる。


日吉神社
飯寺の日吉神社。この辺りは近年、宅地や大規模店舗等の開発が進み、日吉神社を取り囲む森は昔の姿を留める貴重な存在。会津若松市自然景観指定緑地。


会津西街道旧道 飯寺
飯寺を行く会津西街道旧道。


本光寺
旧道沿いにある本光寺。戊辰戦争の際、飯寺で戦死した越後長岡藩士43名を弔う”長岡藩士殉節之碑”がある。


会津西街道旧道 飯寺03 越後長岡藩士殉節之墓入口の石標
この先で国道401号と交差する。右写真はその交差点角にある越後長岡藩士殉節之墓入口の石標と解説板。


会津西街道旧道 飯寺バス停付近
飯寺の北端、飯寺バス停付近の旧道。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

大町札の辻

【2012年1月22日(日)会津西街道 会津本郷→鶴ヶ城(若松城)下】
いよいよ大詰め、飯寺から鶴ヶ城(若松城)下に入り、材木町・川原町・新横町・本町・日新町・中町を経て大町札の辻へ。今に見る鶴ヶ城下の町割を築いたのは蒲生氏郷。天正18年(1590年)会津黒川城に入った氏郷は、文禄元年(1592年)から黒川城の大改造に着手、天守閣を築いて近代城郭を完成させ、名を鶴ヶ城に改めると共に、郭外に商人や職人の居住地を定めて町割を整備し、武家屋敷と町人町を明確に別けた。元々、郭内にあった大町は郭外の現在地へ移され、町方の中心地となって会津藩の高札場が置かれることになる。

その高札場が置かれた場所が、現在の大町四つ角と呼ばれる変則四叉路の交差点で、大町札の辻とも称される所以。大町札の辻は会津藩領の中心点とされ、会津五街道(本道五筋)と言われた白河街道・下野(会津西)街道・越後街道・二本松街道・米沢街道の起点になった。現在、高札場は当然ながら無くなっているが、代わりに交差点角に会津若松市道路元標がひっそりと残る。これは明治期に開通した山形県・栃木県・新潟県への新道、会津三方道路の起点にもなった名残である。さあ、会津西街道の終着点にゴールしよう。

会津西街道 鶴ヶ城(若松城)下


県道328号 材木町01
材木町へ入る。材木町は南会津から伐り出された材木を扱う商人が集まった町。材木は阿賀川の水運を使って飯寺まで運ばれた。現在は材木関係の商いを続ける店はほとんど見当たらす、町名に往時を偲ぶだけである。


秀長寺
秀長寺。寺の裏手は戊辰戦争の際、会津城下で会津方が新政府方に唯一勝利したという古戦場。境内にはこの戦で会津藩兵を率いた佐川官兵衛の歌碑や戦死者の供養塔が建つ。


住吉神社
秀長寺に隣接する住吉神社。境内に”会津藩戦勝地跡”の標柱が立てられている。


県道328号 材木町
材木町を行く県道328号。


県道328号 材木町
街道は小山米店前で三叉路を右折。


会津酒造博物館 大法寺
会津酒造博物館と大法寺の前を通って。


河原町踏切
河原町踏切を越えれば川原町に入る。


川原町橋
湯川を川原町橋で渡る。


湯川
湯川。


湯川にて
湯川にて。カモも何だか寒そう…。


河原町口郭門跡
河原町口跡。川原町橋を渡って少し先に郭内へ通じる郭門があった。


融通寺町口郭門跡
融通寺町口郭門跡。こちらは融通寺町(現 本町)側からの郭内入口。


県道59号 本町01
本町商店街。人通りが少なく寂しい感じ。しかし、南北朝時代の弘和2年(南朝)/永徳2年(北朝)(1382年)蘆名直盛が会津へ土着し居館を構えたのがここ本町の地。本町と名付けられた所以である。直盛は2年後に黒川城(後の鶴ヶ城)の前身となる東黒川館を築いて移り、本町の地は融通寺へ与えたと云う。本町の居館は東黒川館に対し、西黒川館と呼ばれる。それから約200年後の蒲生氏郷が領主の時、融通寺は現在地の大町名子屋町へ移り、その旧寺は小館山城安寺(戊辰戦争後に廃寺)に改められた。


小館稲荷神社
西黒川館の東端に置かれた稲荷社に起源があるという小館稲荷神社。南北朝時代から東黒川館、融通寺、城安寺と幾多の変遷を経てきた土地にありながら、この稲荷社だけはこの地に残り続けたわけだ。


県道59号 本町・日新町
街道は本町と日新町の境界を進む。この辺りはかつて赤井町と呼ばれた場所で、戦国大名・蘆名盛氏の家臣、赤井因幡の郎党が住んでいたことに町名の由来があるという。


県道59号 本町・日新町
T字路の突き当りを左折、桂林寺通りへ。


平出竹問屋
現代では珍しい竹問屋、平出吉平商店。


桂林寺通り 大町・七日町
桂林町通り。


桂林寺通り 大町・七日町
桂林町通りの街並みには城下町らしい風情が残る。


七日町通り 大町
レオ氏郷南蛮館(写真左の建物)のある交差点を右折し七日町通りへ。会津西街道最後の曲がり角。


清水屋旅館跡
大東銀行会津支店の敷地に立つ清水屋旅館跡の石標。吉田松陰が宮部鼎蔵らとの東北遊歴で会津若松へ訪れた際、宿泊所としたのがここ清水屋旅館である。また、戊辰戦争の宇都宮城攻防戦で、足に負傷を負った土方歳三は田島を経て会津若松に逃れ、ここで治療を受けたという。明治15年(1882年)には喜多方出身の自由民権運動家、宇田成一らが帝政党員に襲われ重傷を負う事件が起きた。清水屋事件と言う。多くの歴史上の人物が訪れた清水屋旅館は惜しまれつつ昭和初年に取り壊された。


七日町通り 大町
そして最後の直線、七日町通りを歩く。


白木屋漆器店
白木屋漆器店。慶安年間(1648年~1652年)創業、享保年間(1716年~1736年)から現在地で漆器の製造販売を続ける老舗である。現在の建物は大正3年(1914年)の竣工で、大正ロマンを感じる建築だ。


大町札の辻
この変則四叉路が会津西街道の終着点、大町四つ角。つまり、会津五街道(本道五筋)の起点となった大町札の辻である。ゴールしてみれば約1年半かけて歩き抜いた会津西街道も何だか呆気ない感じ。ふと立ち止まって寒空を見上げたら、ただ冷たい風が体を通り抜けた。


会津若松市道路元標
大町四つ角に立つ会津若松市道路元標。明治15年(1882年)福島県令・三島通庸はこの道路元標を起点にして山形県・栃木県・新潟県へ延びる三方道路の大工事を起工、男女を問わず15歳から60歳までの住民に厳しい労役を課し、道路予定地に家があれば退去させるという強引さで、わずか3年で総延長213kmの道路を完成させた。

道路元標の頭を撫でながら自らの労をねぎらい、最終目的地の鶴ヶ城へ!


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テーマ : 街道の旅
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鶴ヶ城(若松城)

【2012年1月22日(日)会津西街道 鶴ヶ城(若松城)】
前の記事にも書いたことを繰り返す。鶴ヶ城(若松城)は南北朝時代に蘆名直盛が東黒川館を築いたのが始まりとされ、以来戦国期まで蘆名氏の居城として縄張りを拡大させた。蘆名氏時代の城は黒川城と呼ばれる。天正17年(1589年)伊達正宗は蘆名氏を滅ぼして黒川城を手中にするが、その翌年に豊臣秀吉の奥州仕置があって会津の地を召し上げられ、代わって蒲生氏郷が黒川城に入った。文禄元年(1592年)蒲生氏郷は大規模に城郭を改造し、天守閣をが築いて近代城郭へと変貌させる。この時に鶴ヶ城の名が付けられ、町の名も黒川から若松に改められた。

戊辰戦争の際、鶴ヶ城は旧幕府方の会津藩と新政府軍の間で激しい攻防戦が繰り広げられた。会津方は徹底抗戦の構えで籠城、アームストロング砲等での昼夜に及ぶ砲撃に晒されながらも、城は約1ヶ月間持ちこたえたが、天守閣をはじめとする建物は激しい損傷を受け、ついには開城降伏する。会津戦争と呼ばれるこの戦いでは、飯盛山で自刃した白虎隊や、会津藩家老西郷頼母の一族21名の自刃など、今に語り継がれる悲劇は多い。断絶を免れた会津松平家は陸奥国斗南藩(現 青森県むつ市)へ移封、開城から4年後の明治7年(1874年)には天守閣が解体された。今に見る天守閣は昭和40年(1965年)に再建したもので、平成13年(2001年)には本丸内の干飯(ほしい)櫓と南走長屋が復元再建された。

戊辰 若松城下概要図
鶴ヶ城公園設置の解説板より

会津若松市観光公社
http://www.tsurugajo.com/index.html


蒲生氏郷の墓
まずは興徳寺へ訪問、鶴ヶ城の礎を築いた蒲生氏郷公の墓前へご挨拶。


西出丸と内堀
西出丸の石垣と水堀。凍結して水堀は氷堀に。こうなってしまっては水堀の機能が果たせず、難なく石垣に取り付けそう。


会津藩校日新館跡
会津藩校の日新館跡。会津松平家五代、松平容頌(かたのぶ)が藩主の時、享和3年(1803年)に5年の歳月を費やし開校、敷地面積は7千坪余り、常時千人もの生徒が学ぶ日本有数の藩校だった。白虎隊の少年隊士たちも文武をここで学んだ。明治元年(1868年)戊辰戦争の戦火によって消失、現在は天文台の一部が残るのみ。会津若松市河東町に復元公開されており、詳細はこちらから↓

会津藩校日新館
http://www.nisshinkan.jp/


廊下橋
二の丸と本丸帯郭の間に架かる廊下橋。敵が襲来した時には橋を落とせるような構造になっている。


廊下橋
廊下橋と鶴ヶ城天守。


本丸高石垣
20mの高さを誇る本丸高石垣と内堀。さすが難攻不落と言われた名城だ。


鶴ヶ城天守閣
本丸埋門(ほんまるうずみもん)から天守閣へ。埋門は本丸帯郭から本丸奥御殿へ通ずる裏門にあたる。築城当時は表門として使われたが、寛永16年(1639年)の改築後に裏門となった。


鶴ヶ城本丸
鶴ヶ城本丸。ここにあった本丸御殿等の建物は明治7年(1874年)天守閣と共に取り壊されたが、本丸内にあった御三階と呼ばれる楼閣だけは阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され現存している。


鶴ヶ城天守閣
本丸より天守閣を望む。


鶴ヶ城天守閣
南走長屋と天守閣。


鶴ヶ城天守閣
干飯櫓より天守閣を望む。写真に見える城門が本丸帯郭から本丸奥御殿へ通ずる表門(鉄門)。


鶴ヶ城本丸
天守閣より本丸を望む。


太鼓門と北出丸
太鼓門と北出丸。大手口のある北出丸から本丸帯郭へ通ずる桝形に太鼓門が置かれていた。


南走長屋と干飯櫓
南走長屋・鉄門と干飯櫓。


飯盛山遠望
北東方向、白虎隊自刃の地である飯盛山を望む。残念ながら、もやがかかって飯盛山は視認できなかった。


磐梯山
僅かに見えた磐梯山の頂!


会津鶴ヶ城にて
会津西街道歩きはこれにてお終い。それでは、次の道で会いましょう!


【会津西街道歩き 第17日目】会津本郷駅→本郷→上米塚の渡し跡→大町札の辻→鶴ヶ城(若松城)[タクシー利用]会津若松駅 歩行距離約15km
福豆屋牛めし02
帰りの新幹線にて。郡山駅の駅弁、福豆屋牛めしが美味かったこと!


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

会津西街道を歩き終えて

2010年7月、今市から会津西街道を歩き始め、それから約1年半後の2012年1月、ようやく会津若松にゴール。思い返せばその道中、日常生活では味わえない色んな事があった。観光地として有名な竜王峡や大内宿等、すばらしい景観の中に身を置くことができたことはもちろんだが、無理に歩いて膝を痛め、清流の沢を登り、忌わしい山ビルに取りつかれ、鬼怒川を気合で徒歩渡しし、山中で熊の影に怯えたりと、歩く人も少ないマイナー街道歩きならではの貴重な経験をも得ることができた。会津西街道を歩くにあたって、できるだけ江戸期の旧道をトレースして歩いてきたつもりだが、東海道や中山道等のメジャーな街道とは違って資料が乏しく、違っているところも多々あったと思うが、もし次に歩こうという旅人がいるならば、私の歩いてきた軌跡が一助になることを願いたい。

会津西街道杉並木

仲附の旅籠 藤原宿加登屋

龍王峡

山王茶屋

会津田島祇園祭

大内宿

氷玉峠の石畳

鶴ヶ城(若松城)



【 会津西街道 旅の記録 】

1日目(2010/7/11)今市宿→大桑宿→高徳宿 MAP

2日目(2010/8/1)高徳宿→大原宿→藤原宿 MAP

3日目(2010/8/21)藤原宿→太閤下ろしの滝 MAP

4日目(2010/9/12)藤原宿→川治温泉 MAP

5日目(2010/10/11)川治温泉→高原新田宿 MAP

6日目(2010/10/24)川治温泉→高原新田宿(再) MAP

7日目(2010/11/6)川治温泉→五十里宿 MAP

8日目(2010/11/14)五十里宿→中三依宿 MAP

9日目(2010/12/23)中三依宿→上三依 MAP

10日目(2011/1/22)上三依→横川宿 MAP

11日目(2011/4/2)横川宿→糸沢宿 MAP

12日目(2011/5/8)糸沢宿→川島宿→田島宿 MAP

13日目(2011/5/28)田島宿→楢原宿 MAP

14日目(2011/5/29)楢原宿→倉谷宿 MAP

15日目(2011/10/16)倉谷宿→大内宿 MAP

16日目(2011/11/26)大内宿→関山宿→福永宿→会津本郷 MAP

17日目(2012/1/22)会津本郷→鶴ヶ城下大町札の辻 MAP


【 参考文献 】
・佐藤権司著(2010年)『会津西街道の歴史を歩く』随想舎
・清河八郎著『西遊草』小山松勝一郎校注,岩波文庫
・イザベラ・バード著『日本奥地紀行(英:Unbeaten Tracks in Japan)』高梨健吉訳,平凡社
・桑野正光著(2010年)『栃木の峠』随想舎
・織田久著(2001年)『嘉永五年東北―吉田松陰「東北遊日記」抄』無明舎
・南会津町教育委員会(2006年)『旧山王茶屋主屋 調査および移築保存工事報告書』


【 参考サイト 】
栃木県日光市倉ヶ崎ホームページ
http://www.geocities.jp/kuragasakijp/

がりつうしん
http://pub.ne.jp/gari2/

磨り減った山靴
http://blog.goo.ne.jp/ichirizuka_1937

高原山探訪
http://4.pro.tok2.com/~forester/index.htm

KLB嵐山ホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~ja1klb/


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旭川平和通買物公園

会津西街道の記事を書き終えたところで、我が故郷、旭川の道を紹介しよう。ひと昔前まで北海道の町といえば札幌をはじめとして、函館や小樽、富良野等の有名な観光地が挙げられ、旭川は北海道第二の人口を誇りながらも影が薄い存在だった。しかし、近年になって一地方動物園に過ぎなかった旭山動物園が行動展示によって脚光を浴び、旭川市は全国的に知られるようになった。その旭川の玄関口、旭川駅から北へ向かって直線に延びる約1kmの道が平和通買物公園で、旭川在住・出身者には知らぬ人はいないメインストリートの歩行者天国。その歴史は意外に古く、駅から旭川第七師団(現 陸上自衛隊旭川駐屯地)へ通じていた師団通が、終戦直後の1945年(昭和20年)に平和通へ改められ、1972年(昭和47年)6月1日、日本初の歩行者専用道路として平和通買物公園が誕生した。私が生まれてから半月後のことである。昨年暮れに帰省した際、歩きながら撮影した写真を使って紹介したい。

旭川平和通買物公園02


旭川駅
平和通買物公園の起点、旭川駅。昨年11月に新駅舎が全面開業し、ホームの構造も高架型に改められた。私が見慣れた駅舎とは随分と雰囲気が変わったなあ。


平和通買物公園
旭川駅前から北へ向かって延びる平和通買物公園。ひと昔前、駅付近の買物公園は西武や丸井今井、長崎屋にマルカツといったデパートがあり、商業の中心地として賑わったが、近年になって郊外型の大型商業施設に客足を奪われ、長崎屋は郊外に移転し丸井今井は閉店、西武も撤退が発表されたが辛うじて存続に方向転換した。私が初めてスーツを仕立てたのが西武であり、子供の頃から思い出のあるデパートなので今後も営業を続けてほしい。


平和通買物公園にて
サキソフォン吹きと猫。


平和通買物公園
3条通付近から旭川駅を望む。ちなみに旭川市街の住所は、駅から北へ向かって1条通、2条通、3条通と数字を増やし10条通まで続く。京都を真似たのか?


平和通買物公園にて
平和通買物公園にて。


平和通買物公園
五条通付近の平和通買物公園。四条通を越えると人通りは少ない。昔はスガイビルという映画館やボウリング場、カラオケにゲームセンターと、複合型娯楽施設のはしりみたいなビルがあって、この辺りも結構賑わっていたような記憶があるのだが…。


平和通買物公園
七条通に立つトーテムポール。今思えば前にあったのとは違う気がする。現在あるのは金属製であるが、昔は木製だったような。記憶違いか。


平和通買物公園
北端にある手のオブジェ。これは昔からある。


旭川常盤ロータリー
平和通買物公園の北端からもう少し足を延ばせば旭川常盤ロータリー。知る人ぞ知る六差路のロータリー型交差点。慣れてないドライバーには難所といえる場所である。


旭川常盤ロータリー02
旭橋付近の昭和通(国道40号)からロータリーを望む。


旭橋
最後は旭川のシンボル的存在、石狩川に架かる旭橋で。


旭橋
現在の橋は昭和7年(1932年)竣工。東京の白髭橋を通る度、色こそ違えど旭橋によく似ているなと思っていたが、どうも同じ橋梁形式で同年代に建設されたらしい。当時の技術を今に伝えるべく、平成16年(2004年)北海道遺産に認定された。

ではでは、我が地元・旭川の記事はこの辺で。


撮影日:2011年12月30日(金)
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テーマ : 北海道
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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