旧市川村
【成田街道歩き 第2日目】国府台駅→小岩市川渡し跡→八幡宿→船橋宿→船橋駅
暦は3月に入って啓蟄の前日というのに真冬の寒さ。虫が地中から這い出てくるわけもなく、草むらに虫一匹を見かけることもない。空はお天道様を望むべくもなく一面を雲に覆われ、春の陽射しの恩恵さえ被ることもないだろう。じっとしていると時折吹き付ける寒風が身に応える朝、京成本線の国府台駅から成田街道歩きの2日目をスタート。今思えば気温は低くとも会津の冬の方が寒さを感じないような気がする。関東の冬は気温以上に寒さを感じるのだ。
市川市の前身となる旧市川村の町は、現在の中心部である市川駅周辺ではなく、渡船場跡(市川関所跡のモニュメント辺り)から市川広小路交差点辺りまでの千葉県道1号(成田街道旧道)沿道に町家を形成。本陣や問屋は置かれず宿駅としての役割は無かったが、渡し場の管理を任されて3艘程度の船と20人前後の船頭や人夫を賦役した。その見返りがあったためなのか、江戸川の舟運で隣の八幡宿を凌ぐ程に発展したようだ。市川村は渡し場から上町・中町・下町と続き、観音寺(現 市川広小路交差点付近)から先が四町目の町並み。町の発展を物語るかのように、旧町域には今も多くの神社仏閣が見られる。


国府台駅から市川関所跡のモニュメントへ移動。ここから成田街道歩きを再開しよう。

小岩市川渡し跡を望む。この真冬の寒さの中でウェイクボードとは…、感心。

渡船場付近の旧市川村上町から中町にかけての町並み。上町の大部分は江戸川土手と河川敷の中に消失してしまったようだ。

旧市川村の春日神社。水戸佐倉道分間延絵図には諸天善神と記されている。

安国院。正和4年(1315年)の創建、元は長遠寺と称し、天保8年(1837年)に寺号を改称したと云う。

市川広小路交差点。国道14号と千葉県道1号線が交わる地点で、その名の通り広小路の交差点。旧道はここを左折する。かつては下町と四町目の境をなしていた場所で、西(江戸川)方向に観音寺の参道が延びていた。

市川広小路交差点から渡船場跡方面を望む。手前から旧市川村の下町・中町・上町であるが、その当時の面影を見つけることは難しい。

正平17年(1362年)の開基と伝わる観音寺。真言宗豊山派。

極楽寺参道入口に鎮座する胡録神社。水戸佐倉道分間延絵図に第六天と記される。

弘法寺参道入口付近の国道14号。この辺りが旧市川村の東外れ。
暦は3月に入って啓蟄の前日というのに真冬の寒さ。虫が地中から這い出てくるわけもなく、草むらに虫一匹を見かけることもない。空はお天道様を望むべくもなく一面を雲に覆われ、春の陽射しの恩恵さえ被ることもないだろう。じっとしていると時折吹き付ける寒風が身に応える朝、京成本線の国府台駅から成田街道歩きの2日目をスタート。今思えば気温は低くとも会津の冬の方が寒さを感じないような気がする。関東の冬は気温以上に寒さを感じるのだ。
市川市の前身となる旧市川村の町は、現在の中心部である市川駅周辺ではなく、渡船場跡(市川関所跡のモニュメント辺り)から市川広小路交差点辺りまでの千葉県道1号(成田街道旧道)沿道に町家を形成。本陣や問屋は置かれず宿駅としての役割は無かったが、渡し場の管理を任されて3艘程度の船と20人前後の船頭や人夫を賦役した。その見返りがあったためなのか、江戸川の舟運で隣の八幡宿を凌ぐ程に発展したようだ。市川村は渡し場から上町・中町・下町と続き、観音寺(現 市川広小路交差点付近)から先が四町目の町並み。町の発展を物語るかのように、旧町域には今も多くの神社仏閣が見られる。


国府台駅から市川関所跡のモニュメントへ移動。ここから成田街道歩きを再開しよう。

小岩市川渡し跡を望む。この真冬の寒さの中でウェイクボードとは…、感心。

渡船場付近の旧市川村上町から中町にかけての町並み。上町の大部分は江戸川土手と河川敷の中に消失してしまったようだ。

旧市川村の春日神社。水戸佐倉道分間延絵図には諸天善神と記されている。

安国院。正和4年(1315年)の創建、元は長遠寺と称し、天保8年(1837年)に寺号を改称したと云う。

市川広小路交差点。国道14号と千葉県道1号線が交わる地点で、その名の通り広小路の交差点。旧道はここを左折する。かつては下町と四町目の境をなしていた場所で、西(江戸川)方向に観音寺の参道が延びていた。

市川広小路交差点から渡船場跡方面を望む。手前から旧市川村の下町・中町・上町であるが、その当時の面影を見つけることは難しい。

正平17年(1362年)の開基と伝わる観音寺。真言宗豊山派。

極楽寺参道入口に鎮座する胡録神社。水戸佐倉道分間延絵図に第六天と記される。

弘法寺参道入口付近の国道14号。この辺りが旧市川村の東外れ。

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