中山法華経寺
【2012年3月4日(日)成田街道 八幡宿→船橋宿】
真間川を渡り八幡宿を出て間もなく、鬼越二丁目のT字路で利根川の木下河岸へ向かう木下街道が分かれ、更に成田街道を東進すれば北方向へ門前町らしい家並みの中を小径が分かれる。日蓮宗大本山の霊跡寺院である中山法華経寺へ至る参道だ。中山法華経寺の歴史をかいつまんで書いておこう。北条氏執権の鎌倉時代、日蓮は鎌倉幕府に対し”立正安国論”を著して自身の説く法華経への帰依を要求したことで、他宗派と幕府の反感を買って襲撃される。その際に逃げこんだのが八幡荘谷中郷と呼ばれた現在の中山法華経寺周辺なのだ。当時この地の若宮に館を構えていた下総国守護千葉氏の被官、富木常忍と中山に邸宅を持つ太田乗明は自邸に堂宇を築いて日蓮を保護、自身も法華経に帰依して有力な壇越となった。日蓮の没後に富木常忍は出家、日常と号して堂宇を法華寺とし、太田乗明も堂宇を本妙寺として、後に日蓮宗の有力教団となる中山門流へと発展してゆく。戦国時代になって両寺が合併して法華経寺を名のったという。


水戸佐倉道分間延絵図より中山村法華経寺を抜粋。

真間川に架かる境橋の東詰にある坪井玄道生誕の地。坪井玄道は明治時代に体操の普及に努めた教職者で、様々なスポーツ振興の普及にも尽力した。学校体育の父と仰がれる。平成18年(2006年)日本サッカー殿堂の委員会推薦掲額者(特別選考)入り。

鬼越を行く国道14号。

成田街道・木下街道の分岐点となる鬼越二丁目のT字路。その分岐点には古い商家が残る。

中山法華経寺参道入口。

中山法華経寺参道。緩やかに坂道を上る。

参道の途中に建つ中山参道総門。黒塗りのため黒門とも。江戸時代初期の建立と推定される。門に掲げられる扁額は掛川城主の太田資順の筆で、裏面に寛政5年(1793年)の刻銘があるという。

中山参道山門(仁王門)。

山門を潜り抜けると五重塔に向かって石畳が延びる。

境内の中心にある祖師堂。宗祖日蓮を祀る。最初は鎌倉時代の正中2年(1325年)に上棟した小規模な五間堂だったが、焼失等により幾多の再建を経て、延宝6年(1678年)今に見る祖師堂が完成した。

境内にある五重塔と大仏。この五重塔は元和8年(1622年)本阿弥光室が両親の菩提を弔うため、加賀藩主前田利光(後に利常へ改名)の援助を受けて建てられたもの。大仏は享保4年(1719年)の建立。

法華経寺本院。

宝殿門を潜り抜けた先に聖教殿がある。

聖教殿は昭和6年(1931年)の建築。日蓮直筆の観心本尊抄や立正安国論などの国宝を収蔵する。

祖師堂と宝殿門を繋ぐ渡り廊下。

法華経寺の本堂となる法華堂。本尊は釈迦・多宝両尊像。文永年間(1264年~1274年)富木常忍が自邸に建立したのが初めで、後にこの地に移されたと伝わる。現在の建物は室町時代後期に再建されたものと推測されている。

法華経寺刹堂。

刹堂をねぐらにする?猫。随分と人に慣れているらしく、私の姿を見た途端に近寄ってきた。

よしよし。

境内から山門を望む。暗くなってきた。そろそろ成田街道に歩みを戻そう。

参道は幅の狭い道にも関わらず車が多い。何で…。
真間川を渡り八幡宿を出て間もなく、鬼越二丁目のT字路で利根川の木下河岸へ向かう木下街道が分かれ、更に成田街道を東進すれば北方向へ門前町らしい家並みの中を小径が分かれる。日蓮宗大本山の霊跡寺院である中山法華経寺へ至る参道だ。中山法華経寺の歴史をかいつまんで書いておこう。北条氏執権の鎌倉時代、日蓮は鎌倉幕府に対し”立正安国論”を著して自身の説く法華経への帰依を要求したことで、他宗派と幕府の反感を買って襲撃される。その際に逃げこんだのが八幡荘谷中郷と呼ばれた現在の中山法華経寺周辺なのだ。当時この地の若宮に館を構えていた下総国守護千葉氏の被官、富木常忍と中山に邸宅を持つ太田乗明は自邸に堂宇を築いて日蓮を保護、自身も法華経に帰依して有力な壇越となった。日蓮の没後に富木常忍は出家、日常と号して堂宇を法華寺とし、太田乗明も堂宇を本妙寺として、後に日蓮宗の有力教団となる中山門流へと発展してゆく。戦国時代になって両寺が合併して法華経寺を名のったという。


水戸佐倉道分間延絵図より中山村法華経寺を抜粋。

真間川に架かる境橋の東詰にある坪井玄道生誕の地。坪井玄道は明治時代に体操の普及に努めた教職者で、様々なスポーツ振興の普及にも尽力した。学校体育の父と仰がれる。平成18年(2006年)日本サッカー殿堂の委員会推薦掲額者(特別選考)入り。

鬼越を行く国道14号。

成田街道・木下街道の分岐点となる鬼越二丁目のT字路。その分岐点には古い商家が残る。

中山法華経寺参道入口。

中山法華経寺参道。緩やかに坂道を上る。

参道の途中に建つ中山参道総門。黒塗りのため黒門とも。江戸時代初期の建立と推定される。門に掲げられる扁額は掛川城主の太田資順の筆で、裏面に寛政5年(1793年)の刻銘があるという。

中山参道山門(仁王門)。

山門を潜り抜けると五重塔に向かって石畳が延びる。

境内の中心にある祖師堂。宗祖日蓮を祀る。最初は鎌倉時代の正中2年(1325年)に上棟した小規模な五間堂だったが、焼失等により幾多の再建を経て、延宝6年(1678年)今に見る祖師堂が完成した。

境内にある五重塔と大仏。この五重塔は元和8年(1622年)本阿弥光室が両親の菩提を弔うため、加賀藩主前田利光(後に利常へ改名)の援助を受けて建てられたもの。大仏は享保4年(1719年)の建立。

法華経寺本院。

宝殿門を潜り抜けた先に聖教殿がある。

聖教殿は昭和6年(1931年)の建築。日蓮直筆の観心本尊抄や立正安国論などの国宝を収蔵する。

祖師堂と宝殿門を繋ぐ渡り廊下。

法華経寺の本堂となる法華堂。本尊は釈迦・多宝両尊像。文永年間(1264年~1274年)富木常忍が自邸に建立したのが初めで、後にこの地に移されたと伝わる。現在の建物は室町時代後期に再建されたものと推測されている。

法華経寺刹堂。

刹堂をねぐらにする?猫。随分と人に慣れているらしく、私の姿を見た途端に近寄ってきた。

よしよし。

境内から山門を望む。暗くなってきた。そろそろ成田街道に歩みを戻そう。

参道は幅の狭い道にも関わらず車が多い。何で…。

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