船橋宿
【成田街道歩き 第3日目】船橋駅→船橋宿→大和田宿→京成大和田駅
【2012年4月15日(日)成田街道 船橋宿】
早いもので暦は4月になり、春の麗らかな陽射しが期待できそうな日曜日、船橋宿から成田街道歩きを再開しよう。まずは船橋宿内の散策から。船橋宿は江戸方から海神村・九日市村・五日市村と続く3ヶ村から成り立ち、宿駅の中心は九日市村にあって問屋場が置かれた。旅籠の営業は九日市村だけに許可され、"八兵衛”の通称で呼ばれる飯盛女(宿場女郎)を置く旅籠も多くあって随分と賑わったようだ。成田山参詣は表向きの理由で、実際には船橋の飯盛女目当てに訪れる男も多かったらしい。昭和初期、街道沿いに点在していたこれらの旅籠が集められ、新地遊郭(船橋新地・海神新地とも)と呼ばれる花街を形成。近年まで元妓楼の建物も残っていたようだが、3年前の平成21年(2009年)に不審火で焼失したらしい。ちなみ船橋宿の飯盛女が何ゆえ”八兵衛”と呼ばれたのか…、ここに書くのも何なんで興味のある方は”船橋 飯盛女 八兵衛”でググってみてほしい。


かつての船橋の花街、新地遊郭跡から。現在の本町2丁目西側辺りがその遊郭跡。入り組んだ路地に居酒屋やスナックが並ぶ。

遊郭跡の一角にある船橋若松劇場。もちろん今では希少となったストリップ劇場。その2、3軒隣くらいにソープランドがあって、ストリップで悶々とした客がスッキリできるようになっている。男の心理を突いた古典的なシステムだが、風俗も多様化した時代に取り残された感は否めない。

船橋宿の江戸方(西側)入口といわれる西向地蔵尊。その名の通りに地蔵尊・阿弥陀弥陀如来・聖観音の石像は西を向いている。かつては仕置場(刑場)が置かれ場所だったらしい。

慶応元年(1865年)創業の料亭、稲荷屋。明治時代から鰻の蒲焼が名物だという。

本町1・2丁目の本町通り(成田街道旧道)。船橋宿の中心部だった旧九日市村の地だが、町並みはすっかり近代的に変貌を遂げている。

明治15年創業という川守商店。思わず店前で足が止まり、船橋三番瀬海苔を購入。
川守商店
http://kawamori.net/

明治天皇船橋行在所(現 千葉銀行船橋支店)。ここは旅館桜屋(山口丈吉宅)があった場所で、明治天皇が行幸の折、宿泊10回・昼食5回・御小休2回にも及び立ち寄られた。遺構は何も残っていないが、県指定史跡。

船橋市中央図書館裏、道祖神社の境内にある馬頭観音。写真右の馬頭観音は安永3年(1774年)の建立で、旧船橋宿内で最古のもの。

老舗和菓子店のひろせ直船堂。ビルに挟まれて窮屈そう。

こちらはひろせ直船堂の斜向かいにある森田呉服店。こちらも両脇をビルに挟まれて肩身が狭そうな感じ。船橋宿内に残る古い店舗はひろせ直船堂と森田呉服店くらい。両店ともこの店舗を守ってほしい。

本町4丁目に鎮座する厳島神社。地元では弁天様と呼ばれ親しまれる。

旧船橋市役所跡。昭和33年頃までここに市役所があったのだが、この付近一帯は江戸時代初期に船橋御殿が建てられた場所でもある。船橋御殿は徳川家康・秀忠が鷹狩のために東金方面への往来で休憩や宿泊に利用したが、三代将軍家光の頃には使われなくなったという。

旧船橋市役所跡の隣、九日市村郷蔵跡に鎮座する御蔵稲荷神社。郷蔵は飢饉に備えた穀物の貯蔵や年貢米の一時貯蔵のために各地の村々に建てられた。九日市村の郷蔵は寛永末期~正保初期頃(1640年代)に建てたと伝えられ、寛政3年(1791年)台風による高潮で流失、以後再建されなかった。

本町4丁目、御殿地と呼ばれた場所にある”つるや伊藤”。安政元年(1854年)創業の染物屋で、今も染物業を続ける老舗。船橋市内にはここをはじめ、稲荷屋や川守商店、ひろせ直船堂に森田呉服店と、意外に江戸・明治から続く老舗が多い。

船橋御殿跡に鎮座する船橋東照宮。ここが御殿の中心だったと伝わる。貞享年間(1684年~1687年)廃止となった船橋御殿が船橋大神宮司の富氏に与えられ、この東照宮を建立したという。全国数々ある東照宮の中、日本一小さな東照宮との異名を持つ。

御殿地から街道を挟んで挟んで向かい側一帯(本町3丁目)は寺町を形成、不動院や浄勝寺、最勝院、覚王寺、圓蔵院といった多くの寺が存在する。写真はその一つ、飯盛地蔵と呼ばれる石仏がある不動院。

不動院門前にある大仏。これが飯盛地蔵と呼ばれる大仏らしい。てっきり船橋の飯盛女を弔った地蔵があるのかと思いきや、想像以上にでかい石仏だったことに少々驚いた。この大仏は延享3年(1746年)の津波による溺死者を弔うために建立された釈迦如来坐像で、江戸時代後期に漁場争いで牢に入り獄死した船橋の漁師総代を共に弔うようになった。炊き上げた白米を大仏に盛り上げるようにつけて供養するという。大仏追善供養と呼ばれ、毎年2月28日に行われる。

不動院境内にある六地蔵。左の2体がネックレスを着けており、女性を弔っているようにみえる。本当はこちらが飯盛地蔵なのかもと思ってしまう。

海老川に架かる海老川橋。泉重千代翁の手形が飾られ長寿の橋との別名も。

九日市村と五日市村の境界をなした海老川。日本武尊が東征の途次、海老川に小舟を並べて渡ったとの伝説がある。船橋という地名の由来。

海老川橋の東側は旧五日市村(現 船橋市宮本)。街道の突き当りに船橋大神宮の鳥居が見える。

船橋大神宮前は成田街道(写真直進方向)と房総往還(右折方向)の分岐点。房総往還は江戸と館山城下を繋いだ街道。

船橋大神宮。正式名称は意富比(おおひ)神社で天照皇大神を主祭神に祀る。戊辰戦争の際、旧幕府方の兵が船橋大神宮下に集結、新政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。そのため船橋宿の大半が焼失、船橋大神宮の社殿も焼失した。

船橋大神宮より船橋宿を望む。戊辰戦争時、旧幕府方の兵はここから新政府軍の動向を探ったのだろうか。
【2012年4月15日(日)成田街道 船橋宿】
早いもので暦は4月になり、春の麗らかな陽射しが期待できそうな日曜日、船橋宿から成田街道歩きを再開しよう。まずは船橋宿内の散策から。船橋宿は江戸方から海神村・九日市村・五日市村と続く3ヶ村から成り立ち、宿駅の中心は九日市村にあって問屋場が置かれた。旅籠の営業は九日市村だけに許可され、"八兵衛”の通称で呼ばれる飯盛女(宿場女郎)を置く旅籠も多くあって随分と賑わったようだ。成田山参詣は表向きの理由で、実際には船橋の飯盛女目当てに訪れる男も多かったらしい。昭和初期、街道沿いに点在していたこれらの旅籠が集められ、新地遊郭(船橋新地・海神新地とも)と呼ばれる花街を形成。近年まで元妓楼の建物も残っていたようだが、3年前の平成21年(2009年)に不審火で焼失したらしい。ちなみ船橋宿の飯盛女が何ゆえ”八兵衛”と呼ばれたのか…、ここに書くのも何なんで興味のある方は”船橋 飯盛女 八兵衛”でググってみてほしい。


かつての船橋の花街、新地遊郭跡から。現在の本町2丁目西側辺りがその遊郭跡。入り組んだ路地に居酒屋やスナックが並ぶ。

遊郭跡の一角にある船橋若松劇場。もちろん今では希少となったストリップ劇場。その2、3軒隣くらいにソープランドがあって、ストリップで悶々とした客がスッキリできるようになっている。男の心理を突いた古典的なシステムだが、風俗も多様化した時代に取り残された感は否めない。

船橋宿の江戸方(西側)入口といわれる西向地蔵尊。その名の通りに地蔵尊・阿弥陀弥陀如来・聖観音の石像は西を向いている。かつては仕置場(刑場)が置かれ場所だったらしい。

慶応元年(1865年)創業の料亭、稲荷屋。明治時代から鰻の蒲焼が名物だという。

本町1・2丁目の本町通り(成田街道旧道)。船橋宿の中心部だった旧九日市村の地だが、町並みはすっかり近代的に変貌を遂げている。

明治15年創業という川守商店。思わず店前で足が止まり、船橋三番瀬海苔を購入。
川守商店
http://kawamori.net/

明治天皇船橋行在所(現 千葉銀行船橋支店)。ここは旅館桜屋(山口丈吉宅)があった場所で、明治天皇が行幸の折、宿泊10回・昼食5回・御小休2回にも及び立ち寄られた。遺構は何も残っていないが、県指定史跡。

船橋市中央図書館裏、道祖神社の境内にある馬頭観音。写真右の馬頭観音は安永3年(1774年)の建立で、旧船橋宿内で最古のもの。

老舗和菓子店のひろせ直船堂。ビルに挟まれて窮屈そう。

こちらはひろせ直船堂の斜向かいにある森田呉服店。こちらも両脇をビルに挟まれて肩身が狭そうな感じ。船橋宿内に残る古い店舗はひろせ直船堂と森田呉服店くらい。両店ともこの店舗を守ってほしい。

本町4丁目に鎮座する厳島神社。地元では弁天様と呼ばれ親しまれる。

旧船橋市役所跡。昭和33年頃までここに市役所があったのだが、この付近一帯は江戸時代初期に船橋御殿が建てられた場所でもある。船橋御殿は徳川家康・秀忠が鷹狩のために東金方面への往来で休憩や宿泊に利用したが、三代将軍家光の頃には使われなくなったという。

旧船橋市役所跡の隣、九日市村郷蔵跡に鎮座する御蔵稲荷神社。郷蔵は飢饉に備えた穀物の貯蔵や年貢米の一時貯蔵のために各地の村々に建てられた。九日市村の郷蔵は寛永末期~正保初期頃(1640年代)に建てたと伝えられ、寛政3年(1791年)台風による高潮で流失、以後再建されなかった。

本町4丁目、御殿地と呼ばれた場所にある”つるや伊藤”。安政元年(1854年)創業の染物屋で、今も染物業を続ける老舗。船橋市内にはここをはじめ、稲荷屋や川守商店、ひろせ直船堂に森田呉服店と、意外に江戸・明治から続く老舗が多い。

船橋御殿跡に鎮座する船橋東照宮。ここが御殿の中心だったと伝わる。貞享年間(1684年~1687年)廃止となった船橋御殿が船橋大神宮司の富氏に与えられ、この東照宮を建立したという。全国数々ある東照宮の中、日本一小さな東照宮との異名を持つ。

御殿地から街道を挟んで挟んで向かい側一帯(本町3丁目)は寺町を形成、不動院や浄勝寺、最勝院、覚王寺、圓蔵院といった多くの寺が存在する。写真はその一つ、飯盛地蔵と呼ばれる石仏がある不動院。

不動院門前にある大仏。これが飯盛地蔵と呼ばれる大仏らしい。てっきり船橋の飯盛女を弔った地蔵があるのかと思いきや、想像以上にでかい石仏だったことに少々驚いた。この大仏は延享3年(1746年)の津波による溺死者を弔うために建立された釈迦如来坐像で、江戸時代後期に漁場争いで牢に入り獄死した船橋の漁師総代を共に弔うようになった。炊き上げた白米を大仏に盛り上げるようにつけて供養するという。大仏追善供養と呼ばれ、毎年2月28日に行われる。

不動院境内にある六地蔵。左の2体がネックレスを着けており、女性を弔っているようにみえる。本当はこちらが飯盛地蔵なのかもと思ってしまう。

海老川に架かる海老川橋。泉重千代翁の手形が飾られ長寿の橋との別名も。

九日市村と五日市村の境界をなした海老川。日本武尊が東征の途次、海老川に小舟を並べて渡ったとの伝説がある。船橋という地名の由来。

海老川橋の東側は旧五日市村(現 船橋市宮本)。街道の突き当りに船橋大神宮の鳥居が見える。

船橋大神宮前は成田街道(写真直進方向)と房総往還(右折方向)の分岐点。房総往還は江戸と館山城下を繋いだ街道。

船橋大神宮。正式名称は意富比(おおひ)神社で天照皇大神を主祭神に祀る。戊辰戦争の際、旧幕府方の兵が船橋大神宮下に集結、新政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた。そのため船橋宿の大半が焼失、船橋大神宮の社殿も焼失した。

船橋大神宮より船橋宿を望む。戊辰戦争時、旧幕府方の兵はここから新政府軍の動向を探ったのだろうか。

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