下総滝台野薬園
【2012年4月15日(日)成田街道 船橋宿→大和田宿】
船橋大神宮から成田街道を一気に突き進もう。唐突だが丹羽正伯という人をご存じだろうか。もちろん歴史上の人物なのだが、この人は江戸中期の医者であり、江戸幕府の採薬使に登用された本草学者。今で言う漢方薬の名医といったところか。正伯は下総滝台野薬園(現 船橋市薬円台)の管理を命じられ、薬草の栽培に尽力した。船橋宿を出た成田街道は東金御成街道と分かれ、30万坪の敷地を有したというこの薬草園跡地を進む。現在、下総滝台野薬園は痕跡を残さず消滅しているが、地名と丹羽正伯供養碑にその名残を留めている。


船橋大神宮北側、成田街道旧道の坂上にある西福寺。

西福寺境内に並ぶ可愛らしい六地蔵。その名も”ふくふく地蔵尊”。

東船橋を行く成田街道旧道。

東船橋1丁目に鎮座する日枝神社。

日枝神社付近から船橋宿方面の街道を望む。

右手に見えるアンテナ塔は国土交通省関東地方整備局の船橋防災センター。

中野木交差点で国道296号に合流。

中野木交差点に残る庚申塔。「享保十八」や「文政三」の文字が読み取れ、江戸期のものと確認できる。周辺の街道沿いにあったものだろう。

成田街道は国道296号となって西へ延びる。

中野戯交差点付近、国道296号沿いの堂宇に安置される徳兵衛地蔵。安政年間(1854年~1860年)地元住民によって、流行する疫病が鎮まることを祈願し、西福寺住職の助力を得て開眼したものという。

成田街道入口交差点。ここがかつての成田街道と東金御成街道の追分。交差点角に「左 成田山道」と刻まれた立派な輪王道標が残る。東金御成街道は江戸時代初期に徳川家康が東金方面へ鷹狩に行く目的で造られた街道。

これが輪王道標。明治12年(1879年)建立。明治期における成田山詣の人気を物語る道標だ。成田街道から東金御成街道が分岐する歴史的意義のある場所にこんな立派な道標が残っているのだから、せめて解説板だけでも設置してほしい。

成田街道入口交差点から成田街道に入ってすぐにある成田道道標と庚申塔群。この道標は安永6年(1777年)建立で、正面に「右なりた道」と刻まれる。願主は日本橋左内町の和泉屋甚兵衛。おそらくは輪王道標が建てられるまで成田街道と東金御成街道の分岐点にあったものだろう。和泉屋甚兵衛は飛脚屋だったようなので、飛脚が道を間違えないように作らせたものなのかも。

新京成線の踏切を渡って前原西から前原東へ。

船橋前原東郵便局の隣にある庚申塚。中山道歩きで深谷から本庄へ向かう途中に見た百庚申を思い出す。
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前原東の北端に鎮座する御嶽神社。鎌倉時代の作と推定される木造蔵王権現三尊立像を祀る。元は蔵王権現と称したが、明治初期の神仏分離令により御嶽神社に改称した。

桜の花びら散る御嶽神社参道。

新京成線の踏切を渡り。

滝台を行く国道296号(成田街道)。

薬円台に入って間もなく、街道右手の墓地一角にある丹羽正伯供養碑(写真手前の石碑)。正伯は宝暦6年(1756年)に死去、それから約100年後の万延元年(1860年)、薬園台新田の人々が正伯を偲び建立したもの。

薬円台を行く国道296号(成田街道)。薬円台という地名は幕府の薬草園があった名残。滝台野と呼ばれたこの地に30万坪(東京ドーム約21個分)もの敷地をもつ薬草園だったというから、幕府も相当な力の入れようだったことをうかがう。その用地の半分が丹羽正伯に任され、残りの半分が江戸薬種問屋の桐山太右衛門に預けられた。

二宮神社入口交差点の歩道橋から薬円台を望む。何ゆえか不思議なのだが、この辺りは薬園台と薬円台の地名や名称が混在する。新京成線にある駅名は薬園台、薬園台高校の隣にあるのが薬円台小学校。実に紛らわしい。

習志野駐屯地と習志野駐屯部隊演習場の横を通り抜けて。ちなみに習志野は明治天皇が名付けた地名。明治6年(1873年)明治天皇が大和田原(現 船橋市習志野台の一帯)で行われた陸軍大演習を観閲の際、全体指揮をとった篠原国幹(陸軍少将、後に西南戦争で戦死)に感心され、「篠原を見習うように」とのお言葉から”習志野”という地名が誕生したとの説がある。

船橋市から八千代市へ。
船橋大神宮から成田街道を一気に突き進もう。唐突だが丹羽正伯という人をご存じだろうか。もちろん歴史上の人物なのだが、この人は江戸中期の医者であり、江戸幕府の採薬使に登用された本草学者。今で言う漢方薬の名医といったところか。正伯は下総滝台野薬園(現 船橋市薬円台)の管理を命じられ、薬草の栽培に尽力した。船橋宿を出た成田街道は東金御成街道と分かれ、30万坪の敷地を有したというこの薬草園跡地を進む。現在、下総滝台野薬園は痕跡を残さず消滅しているが、地名と丹羽正伯供養碑にその名残を留めている。


船橋大神宮北側、成田街道旧道の坂上にある西福寺。

西福寺境内に並ぶ可愛らしい六地蔵。その名も”ふくふく地蔵尊”。

東船橋を行く成田街道旧道。

東船橋1丁目に鎮座する日枝神社。

日枝神社付近から船橋宿方面の街道を望む。

右手に見えるアンテナ塔は国土交通省関東地方整備局の船橋防災センター。

中野木交差点で国道296号に合流。

中野木交差点に残る庚申塔。「享保十八」や「文政三」の文字が読み取れ、江戸期のものと確認できる。周辺の街道沿いにあったものだろう。

成田街道は国道296号となって西へ延びる。

中野戯交差点付近、国道296号沿いの堂宇に安置される徳兵衛地蔵。安政年間(1854年~1860年)地元住民によって、流行する疫病が鎮まることを祈願し、西福寺住職の助力を得て開眼したものという。

成田街道入口交差点。ここがかつての成田街道と東金御成街道の追分。交差点角に「左 成田山道」と刻まれた立派な輪王道標が残る。東金御成街道は江戸時代初期に徳川家康が東金方面へ鷹狩に行く目的で造られた街道。

これが輪王道標。明治12年(1879年)建立。明治期における成田山詣の人気を物語る道標だ。成田街道から東金御成街道が分岐する歴史的意義のある場所にこんな立派な道標が残っているのだから、せめて解説板だけでも設置してほしい。

成田街道入口交差点から成田街道に入ってすぐにある成田道道標と庚申塔群。この道標は安永6年(1777年)建立で、正面に「右なりた道」と刻まれる。願主は日本橋左内町の和泉屋甚兵衛。おそらくは輪王道標が建てられるまで成田街道と東金御成街道の分岐点にあったものだろう。和泉屋甚兵衛は飛脚屋だったようなので、飛脚が道を間違えないように作らせたものなのかも。

新京成線の踏切を渡って前原西から前原東へ。

船橋前原東郵便局の隣にある庚申塚。中山道歩きで深谷から本庄へ向かう途中に見た百庚申を思い出す。
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前原東の北端に鎮座する御嶽神社。鎌倉時代の作と推定される木造蔵王権現三尊立像を祀る。元は蔵王権現と称したが、明治初期の神仏分離令により御嶽神社に改称した。

桜の花びら散る御嶽神社参道。

新京成線の踏切を渡り。

滝台を行く国道296号(成田街道)。

薬円台に入って間もなく、街道右手の墓地一角にある丹羽正伯供養碑(写真手前の石碑)。正伯は宝暦6年(1756年)に死去、それから約100年後の万延元年(1860年)、薬園台新田の人々が正伯を偲び建立したもの。

薬円台を行く国道296号(成田街道)。薬円台という地名は幕府の薬草園があった名残。滝台野と呼ばれたこの地に30万坪(東京ドーム約21個分)もの敷地をもつ薬草園だったというから、幕府も相当な力の入れようだったことをうかがう。その用地の半分が丹羽正伯に任され、残りの半分が江戸薬種問屋の桐山太右衛門に預けられた。

二宮神社入口交差点の歩道橋から薬円台を望む。何ゆえか不思議なのだが、この辺りは薬園台と薬円台の地名や名称が混在する。新京成線にある駅名は薬園台、薬園台高校の隣にあるのが薬円台小学校。実に紛らわしい。


習志野駐屯地と習志野駐屯部隊演習場の横を通り抜けて。ちなみに習志野は明治天皇が名付けた地名。明治6年(1873年)明治天皇が大和田原(現 船橋市習志野台の一帯)で行われた陸軍大演習を観閲の際、全体指揮をとった篠原国幹(陸軍少将、後に西南戦争で戦死)に感心され、「篠原を見習うように」とのお言葉から”習志野”という地名が誕生したとの説がある。

船橋市から八千代市へ。

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