臼井城址

【2012年5月6日(日)成田街道 大和田宿→臼井宿】
加賀清水の井野から臼井城址のある臼井台へ向かう。成田街道の旧道を元とする現在の国道296号はユーカリが丘の駅前を経て上座地区を通り、坂道を手繰(たぐり)川に向かって下る。手繰川を渡ると成田街道旧道は国道296号を左手に分かれ、今度は手繰坂と呼ばれる急坂の上りに転じる。坂を上りきった所は臼井台の台地で、かつて臼井城が築かれた場所である。

臼井城は今を遡ること約千年前の平安時代、千葉氏の一族臼井常康がこの地に居を構え、南北朝時代の臼井興胤の代にその基礎が築かれたと伝わる。戦国時代初期の名将、太田道灌は境根原合戦に敗れ臼井城に籠った千葉孝胤を攻めて落城させている。永禄9年(1566年)には北条氏と対立していた里見氏救援のため、上杉謙信もこの城を攻めたが落城までには至らなかった。天正18年(1590年)千葉一族の原氏が居城としていた臼井城は、豊臣秀吉による小田原征伐で落城、北条方についた千葉氏と共に原氏も滅亡した。以後、酒井家次が3万石で入城し臼井藩を立藩するが、慶長9年(1604年)家次は上野国高崎藩に移封となり、臼井藩は廃藩となって臼井城も廃城になる。

成田街道 上志津・上座・臼井台


国道296号 志津駅入口
志津駅入口付近の国道296号。


国道296号 ユーカリが丘
ユーカリが丘を行く国道296号。ファッションセンターしまむーだね。


国道296号 ユーカリが丘
ユーカリが丘駅前を通って。ちょっと近代的な新興都市といった感じ。


上座の成田山石塔 上座の成田山石塔
ユーカリが丘駅の先、国道沿いに残る上座の成田山石塔。無念にも真っ二つに折れている。


志津村道路元標
ひっそりと電柱脇に残る志津村道路元標。この辺り、かつては志津村と称していた。


国道296号 上座
上座を行く国道296号(成田街道)


縁結神社
民家の前に鎮座する縁結神社。珍しい名の神社であるが、ご利益はいかに。


上座の皇産霊神社
上座の皇産霊神社。社殿が無く、皇産霊神社と刻まれた石標と羽黒山・月山・湯殿山参拝の記念碑等があるのみ。


国道296号 上座
国道296号(成田街道)は手繰川へ向かって台地を下る。


手繰橋
手繰橋を渡って旧道は国道を左手に離れ手繰坂へ。


手繰川
印旛沼へ注ぐ手繰川。


手繰坂
手繰坂の上りに差し掛かったところ。


手繰坂
臼井台へ上る手繰坂。結構な急坂だ。


成田街道旧道 臼井台
臼井台上の旧道。T字路になっており旧道は右折、左折すると実蔵院へ至る。道に迷わぬよう下写真の道標が置かれている。


臼井台の成田道道標
臼井台の道標。「右 成田ミち」「左 江戸ミち」「西 さく者゛道」と刻まれている。文化3年(1806年)建立。


実蔵院
実蔵院。明治36年(1903年)当時の住職が境内に旧制明倫学校を開校、周辺農家の子供たちの教育を始め、大正15年(1926年)に明倫中学へ改称した。昭和5年(1930年)には500名の増員許可を得るほどに発展したようだが、後に農村不況と私学経営の難しさから生徒数が減少し、昭和17年(1942年)廃校となってしまった。


明倫中学跡碑
実蔵院境内にある明倫中学跡碑。その隣には校歌が刻まれた碑もある。
平田萬里北総の 印旛湖畔の健男児 胸に久遠の理想を秘して 俯仰天地に側ちつ…♪
どんなメロディーがついていたんだろうか。


臼井妙見社
臼井台まで来たところで臼井城址へ寄り道しよう。まずは臼井妙見社。星神社とも呼ばれる。臼井城の鬼門を守るために創建されたと伝わるが、縁起は定かではない。妙見とは北斗七星を神格化したもので、千葉氏一族は守護神として必ず所領には妙見を祀ったという。


臼井妙見社のムクノキ
臼井妙見社のムクノキ。推定樹齢250年の見事な古木。


太田図書の墓
三の丸跡に残る太田図書の墓。太田図書とは太田資忠の名で、道灌の弟(甥とも)。千葉孝胤の籠る臼井城攻城戦の際、城を包囲していた太田資忠の率いる軍勢は城兵の奇襲にあい、資忠のほか53名が討死したという。


臼井城址二の丸
臼井城址二の丸(二郭)跡。


臼井城址土橋
二の丸と本丸を繋ぐ土橋。両脇は広い空堀に隔たれる。


臼井城址本丸
臼井城址本丸(一郭)跡。


印旛沼
臼井城址より印旛沼を望む。城が現役の頃は目前まで沼が迫っていたらしい。


臼井宿
臼井城址より臼井宿を望む。さて、そろそろ臼井宿へ向かおう。


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臼井宿

【2012年5月6日(日)成田街道 大和田宿→臼井宿】
臼井宿は中世を通し臼井城の城下町として形成され、慶長9年(1604年)臼井城が廃城になって後は成田街道の宿場町としてその役割を変えてきたのだろう。江戸方から片町・上宿・中宿・下宿・新町と続き、おそらく中宿辺りに本陣が置かれていたと思われるが、その場所を特定できる資料が見つけられない。文政年間(1818年~1829年)以降から成田山参詣が盛んになり、臼井宿は旅籠屋や茶店等、180軒程の家が軒を連ねて賑わった。幕末に刊行された成田参詣記(成田名所図会)に、成田講の旅人や籠かき人足、馬方等が臼井中宿内を行き交う様子が描かれており、往時の様子を偲べよう。

雷電為右衛門という名をご存じだろうか。この人、江戸時代の名力士で大関なのだが、身長六尺五寸(197センチ)・体重四十五貫(168.7キロ)という巨躯の持ち主だったという。外国人力士が多数在籍する現在の角界にあっては珍しくもない体格だが、日本人男子の平均身長が150センチ台の江戸期にあっては怪物だった。雷電為右衛門は寛政2年(1790年)11月に江戸本場所で初土俵を踏み、以来21年間の現役生活で34場所の土俵に立ち、254勝10敗、引分・預り・無勝負等21、勝率でいうと約9割6分というとんでもない強さを誇った。横綱になれなかったのは何故なのだろうと思ってしまうが、当時は大関が番付の最高位で、横綱は名誉称号に過ぎなかったかららしい。名を捨てて実を取るといったところか。雷電為右衛門は巡業の際、臼井上宿にあった甘酒茶屋”天狗”に立ち寄り、ここの看板娘だった”おはん(後に八重へ改名)”を見初めて妻に迎えた。晩年はこの地で余生を過ごし没したという。

成田街道 臼井宿


妙覚寺
雷電為右衛門顕彰碑がある臼井台の妙覚寺。


雷電為右衛門顕彰碑と手形
妙覚寺境内にある雷電為右衛門顕彰碑と手形。


雷電為右衛門顕彰碑
これが雷電為右衛門顕彰碑。等身大の雷電為右衛門の肖像画が描かれる。昭和53年(1978年)佐倉雷電顕彰会により建立された。ちなみに近くの浄行寺跡地に雷電為右衛門と妻子の墓がある。


雷電為右衛門の手形
雷電為右衛門の手形。現代でも「こりゃ、でかいわ…」の一言。


新坂
臼井台上から新坂を下る成田街道旧道。


新坂
新坂を下りきった所から臼井宿片町である。


武藤自動車
武藤自動車の整備工場がある場所が、おはんの実家である甘酒茶屋”天狗”跡。”天狗さま”の愛称で親しまれたという。雷電為右衛門とおはんはここでどんな出会いをし会話を交わしたのだろう。かつてここにあったはずの甘酒茶屋に思いを馳せ、そんなことを想像してみるのも面白い。


臼井上宿
臼井上宿を行く街道。


中宿交差点
中宿交差点。街道は江戸方の手前から来てこの丁字路を右方向へ進む。この丁字路周辺が臼井中宿で臼井宿の中心部、かつて丁字路の突き当りに高札場があった。交差点角に臼井町道路元標が残り、傍らに明治天皇臼井行在所の碑が立つ。


臼井町道路元票
臼井町道路元標。


臼井宿にて
臼井宿にて。


成田方より中宿交差点を望む
成田方より中宿交差点を望む。奥に見える高台が臼井城址。


長源寺
臼井中宿にある長源寺。明治6年(1873年)に臼井小学校がここに開校したが、半年後には移転したらしい。後の明治11年(1878年)臼井村役場が置かれた。


臼井下宿
臼井下宿の町並み。東の空が暗雲たちこめるといった様相になり、冷たい風が吹き始める。


臼井01号踏切
京成本線の臼井01号踏切を渡って。この辺りが臼井新町で宿駅の成田方入口にあたる。


臼井新町東外れの道標
臼井新町東外れ、国道296号と千葉県道64号の分岐点に残る道標。正面「西 江戸道」・左面「東 成田道」・右面「南 飯重生ヶ谷道」と刻まれている。


国道296号 臼井
右手に台地が迫り、左脇を京成本線が通る。


国道296号 新臼井田
新臼井田交差点の先から八丁坂の上りがはじまる。


八丁坂
八丁坂。坂を上りきった左手に佐倉藩の江原刑場跡がある。


江原刑場跡
江原刑場跡。ここで命を落とした罪人の怒りなのか、涙なのか、雨が降り始める。


江原刑場跡下の池
刑場跡の解説板に「付近には首洗井戸がある」と書かれていたので、刑場跡から国道西側の斜面を下ってみたところ、その途中に発見した池。この水が首洗井戸の名残なのか…、詳細は不明。ここで雨が本降りとなってきたので、急ぎ足でけもの道を降る。


鈴木月極有料駐車場
斜面を降りきって鈴木月極有料駐車場に辿り着いた時、雷鳴と共にゲリラ豪雨に見舞われ、本日の歩き旅は佐倉城下を目前にして中止。あわてて近くのバス停へ。運が良いことに程なくしてバスが来てくれた。


京成佐倉駅
臼井中学校入口停留所から京成佐倉駅へ。皮肉なもんで、駅に着いて間もなく風雨はおさまった…。


【成田街道歩き 第4日目】 京成大和田駅→大和田宿→臼井宿→臼井中学校入口停留所 歩行距離約13km
この日の関東地方は大気の状態が非常に不安定。つくば市では竜巻が発生して甚大な被害を出し、家に帰ってからニュースでこの災害を知り大変驚いた。温暖化が進む現在にあってゲリラ豪雨は当たり前のことになってきたが、まさかこれほど大きな竜巻が発生するとは。ウォーキング中の天候急変に対する万全の対処を想定しておかなければなるまい。

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江原刑場跡

【成田街道歩き 第5日目】臼井中学校入口停留所→佐倉城址→佐倉城下→京成佐倉駅



【2012年5月12日(土)成田街道 臼井宿→佐倉城下】
前回の歩き旅から1週間後の土曜日、天気は上々。5月はウォーキングにはもってこいの季節、日脚が伸びて歩ける距離も伸ばせるうえに寄り道の時間も多く取れ、しかも陽射しは柔らかい。京成佐倉駅から”ちばグリーンバス”に乗り込み、臼井中学校入口停留所で下車。鈴木月極有料駐車場から江原刑場跡西側斜面のけもの道を登り、前回の歩き旅で無念の中断となった江原台刑場跡から成田街道歩きを再開する。まずは刑場跡にある佐倉市設置の解説板の内容を記しておこう。

『ここは旧佐倉藩の刑場であった。天保十四年(一八四三年)三月、蘭医学研究のため、藩医学研究のため、藩医・鏑木仙安が友人小柴百之・広瀬元恭と共に刑死者の解剖を行った。これが佐倉藩最初の人身解剖である。
題目の供養塔は寛政八年(一七九六年)諸宗寺院の建立したもので、附近には首洗井戸がある。』

成田街道 江原・角来


鈴木月極有料駐車場
鈴木月極有料駐車場から江原刑場跡西側斜面を登ろう。


鈴木月極有料駐車場
けもの道に入ってすぐ、駐車場を振り返り。


江原刑場付近のけもの道
竹藪の斜面を登って。


江原刑場跡下の池
首洗井戸の名残の水なのか、途中に水を湛える池。


江原刑場跡下の池にて
静寂の中の水辺にカモが羽を休めていた。


江原刑場付近のけもの道
池から江原刑場跡方向へ続くけもの道。国道と化した八丁坂より雰囲気があっていい。


江原刑場付近のけもの道
竹藪を抜ければ国道の向こうに江原刑場跡がある。


江原刑場跡
江原刑場跡から西側斜面のけもの道入口を望む。


江原刑場跡
江原刑場跡の題目石。前回の厚い雨雲がかかる薄暗い空の下で見るのとでは雰囲気が全然違った感じだが、寛政8年(1796年)の建立というから、ここで多くの処刑を見てきたことは確か。そう考えると少々背筋が寒くなる。


江原刑場跡
江原刑場跡。かつては凄惨な場所だったはずだが、現在は静かな公園として整備される。


国道296号 江原台
江原台を行く国道296号(成田街道)


国道296号 江原
鹿島川へ向かって国道の坂を下ろう。


角来八幡神社
下り坂の途中、正面に角来八幡神社の鎮座する高台が見えてくる。


角来八幡神社入口
坂を下りきった所が八幡神社参道入口で、立田屋という店がある。かつては立場茶屋だったような感じ。


角来八幡神社
角来八幡神社。元禄年間(1668年~1708年)頃の創建とされる。境内の樹林は創建当時から管理保存される古木だという。


角来八幡神社より佐倉城址を望む
角来八幡神社より佐倉城址を望む。写真奥に見える木々に覆われた高台が佐倉城址で、その手前の低地中央に鹿島川が流れる。


角来八幡神社下の成田街道旧道
角来八幡神社下の成田街道旧道。高台下で鍵の手に曲がり鹿島川へ向かって直進する。


角来八幡神社下の成田街道旧道
角来八幡神社下の成田街道旧道。路傍左の小堂に角来馬頭観音が安置される。


角来馬頭観音02
角来馬頭観音。その由来が佐倉市文化財審議会委員長青柳嘉忠氏によって書かれており、非常に興味深い内容だったので要約して記そう。佐倉惣五郎が当時の庶民に人気が高かったことを伝える逸話である。

万治3年(1660年)佐倉藩主堀田正信は老中松平信綱の政に不満を抱き、幕府に諫書を提出して江戸を無断で立ち退き佐倉へ向かう。その途次、角来八幡神社へ差し掛かったときに馬が疲れ果てて息絶えたという。結局、正信の諫書は認められず、江戸を無断に離れた罪に問われて所領は没収。人々は佐倉惣五郎の祟りであろうと噂した。
延享3年(1746年)正信の弟正俊を初祖とする堀田正亮が山形から佐倉へ転封になる。佐倉城へ向かう途中、角来八幡神社に差し掛かると一人の老人が現れ道案内したという。その話を聞いた一人の老臣が、「老人は正しく佐倉惣五郎の亡霊であろう」と答えた。堀田正亮は惣五郎を将門山の口之明神に祀って毎年盛大な祭を催し、息絶えた馬の供養のためにこの馬頭観音を建立したと伝わる。


角来八幡神社下の成田街道旧道
角来馬頭観音から鹿島川へ向かう成田街道旧道。


鹿島川付近の旧道
旧道は国道296号に合流。


鹿島橋側道橋
鹿島橋側道橋で鹿島川を渡河する。


鹿島橋と鹿島川
鹿島橋と鹿島川。右手奥が角来八幡神社のある高台。旧道は鹿島橋の少し下流に橋を架けて渡河していたようだ。


鹿島川付近の旧道
鹿島川付近に残る旧道。この先は佐倉城下の田町である。


成田街道旧道 田町
佐倉城址へ。


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佐倉城址

【2012年5月12日(土)成田街道 佐倉城】
佐倉城は江戸時代初期の慶長15年(1610年)徳川家康の命を受けた土井利勝により鹿島城(戦国期に千葉氏一族鹿島幹胤によって築城、未完の城)を整備拡張し、元和年間(1615年~1623年)に完成した近世城郭。鹿島台と呼ばれる台地に本丸や曲輪を連郭式に配し、石垣を用いず土塁や水堀・空堀によって縄張りを形成する。城の西側は高崎川と鹿島川が合流する低湿地帯で容易に敵の侵入を許さず、東側台地上に武家屋敷や町家を配した。現在の城郭部は佐倉城址公園として整備され、周辺の家並みや道に城下町の雰囲気を残す。

寛永10年(1633年)土井利勝が下総国古河藩へ移封となった後は、石川・松平・堀田・大久保・稲葉家といった幕閣の要衝に就く譜代大名が入れ代わり立ち代わりで藩主を務め、延享3年(1746年)に出羽国山形藩から堀田正亮が入封すると、幕末まで堀田家が6代に渡って佐倉藩の治政を担った。佐倉藩というと堀田家のイメージが強いのはこのためであろう。明治4年(1871年)廃藩置県により廃城、その3年後に歩兵第二連隊が置かれ、西南戦争や日清・日露戦争へ出征した。明治42年(1909年)歩兵第二連隊が水戸へ移り、歩兵第五十七連隊が代わって駐屯、太平洋戦争へ兵士を送り出した。

成田街道 佐倉城下


田町門跡
国立歴史博物館入口がかつての田町門跡。田町からの佐倉城内入口。門を入ると愛宕坂を上り椎木曲輪へ至った。


愛宕坂
愛宕坂から田町門を望む。愛宕坂は坂上に愛宕神社(連隊建設時に移転)があったことに名の由来がある。連隊建設時、出入しやすいよう直線状に直された。


国立歴史民俗博物館
椎木曲輪跡に建つ国立歴史民俗博物館(歴博)。椎木曲輪には侍屋敷が軒を連ねた。


馬出し空堀
馬出し空堀。椎木門前に設けられたコの字形の空堀である。


椎木門跡
椎木門跡から馬出し方向を望む。


三逕亭
椎木門跡から三の丸へ移動する。三の丸にある茶室三逕亭。この猫は店番なのか…、本日は休業日だと体現しているかのよう。


三逕亭の眠り猫
敷石の上で気持ち良さげに昼寝。幸せそうな寝顔に癒される。


三の門跡
三の門跡。三の丸入口に設置された門。三の丸には家老屋敷等が置かれた。


三の丸空堀
三の丸周辺の空堀。往時はもっと深く掘られていたのだろうが、規模の大きさは十分にうかがえよう。


姥が池
三の門から空堀を降りて姥が池へ。天保年間(1830年~1843年)家老の娘をおもりしていた姥が、誤ってその娘を池に落としてしまい、困り果てて身を投げたという。姥が池と呼ばれる所以で、そんな悲しい話が伝わる場所である。


姥が池の猫
姥が池の畔にて。後ろ姿に哀愁を感じる猫が…。


姥が池の猫
私の存在に気付いたようで。目つき悪っ!


姥が池の猫
しかしながら可愛いやつで。


姥が池の猫
名残惜しくお別れ。達者でな!お前もにゃ!って感じ。


姥が池
姥が池の中をよくよく見てみると、いるわいるわカメがいっぱい。


姥が池のカメ
姥が池のカメ。アホな人間が見てるわ…みたいな冷たい視線。


訓練用の12階段
ぽつんと姥が池附近にある12階段。連隊が使用していた飛び降り訓練用の階段で、何ゆえか撤去されずに残された。こんな感じで使っていた↓


訓練用の12階段
現地設置の解説板より。


二の門跡
三の丸から二の丸へ。その入口に二の門が置かれた。


佐倉城の礎石
二の丸に残る佐倉城の礎石群。佐倉城は当時の建築物が残っていないのが残念なところ。


一の門跡
本丸入口の一の門跡。明治初期に撮影された写真がこれ↓


佐倉城一の門
佐倉城一の門(現地設置の解説板より)。木造・本瓦葺の門で、梁間四間・桁行八間。屋根の両脇に鯱が置かれる立派な門であった。


佐倉城本丸跡
佐倉城本丸跡。周囲には高い土塁が築かれている。


佐倉城本丸跡にて
佐倉城本丸跡にて。


本丸跡の夫婦モッコク
本丸跡の夫婦モッコク。土井利勝時代に庭樹として植えられたものと推測される古木で、県指定天然記念物。


本丸跡の夫婦モッコク
夫婦モッコクの幹を見てみると落書きが彫られていた。天然記念物を傷つけるとはけしからん!と思われるかもしれないが、”本丸 昭十八年十月 砲隊 佐野”の文字が読み取れ、ここの連隊に所属した兵士が彫ったものらしい。兵士はこの文字を彫り残した後、どんな運命を辿ったのだろうか…。


天守閣跡
天守閣跡。二段に土盛りされた天守台のみが残る。かつては三層四階の天守が築かれていたが、文化10年(1813年)失火により焼失、以後再建されなかった。


台所門跡
台所門(不明門)跡から本丸・天守跡を望む。


浅間坂
浅間坂を降りて出丸や水堀を見に行こう。


佐倉城址 水堀
天守裏手(本丸西側)に残る水堀。


佐倉城址 出丸跡
佐倉城には2つの出丸が設けられていた。こちらは城北西側の出丸入口。現在は橋が架けられているが、当時は橋を架けず、緊急時に仮橋を架けて通行する仕組みになっていた。写真奥に見える門は城内にあったもので、市内の造り酒屋や甚大寺を転々とした後、ここに移築されたものという。だとすると、この門が佐倉城唯一の現存建築物である。


佐倉城址 出丸跡
城北西側の出丸跡。高い土塁に囲まれている。佐倉連隊の時代、ここには火薬庫が設置されていた。


へび坂
城北西側の出丸・根曲輪と椎木曲輪を繋ぐ”へび坂”。蛇のように細く蛇行していることが坂名の由来だろう。


兵営の便所跡
へび坂上にある兵営の便所跡。最後が便所というのも何だが、佐倉城址の散策はこれで終わりに。


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佐倉城下

【2012年5月12日(土)成田街道 佐倉城下】
江戸時代初期、佐倉城の築城に伴って城下の町割りが進められた。佐倉城下は外堀を境に大きく城内と城外に分けられる。台地西端部に内郭にあたる本丸や二の丸・三の丸を置き、その北側に椎木曲輪・根曲輪、東側に天神曲輪や広小路・中下町・大下町を配して外郭を形成、外郭は主に上級武士の屋敷地とした。ここまでが城内である。城外東側台地上の宮小路・鏑木小路・海隣寺並木・船見町・裏新町・中尾余町・最上町等には主に中・下級武士の屋敷や足軽長屋が配され、城内への主要口として田町門と大手門(追手門)が設けられた。城外北側低地から東側台地上にかけてこれらの屋敷地を貫くように成田街道が通り、江戸方の街道沿いから田町・海隣寺門前・横町・上町・二番町・仲町・肴町・間之町・弥勒(みろく)町・本町に町屋を形成、今も町並みには城下町の姿をよく留めている。

成田街道 佐倉城下
青背景白抜き文字:主に武家屋敷地(侍屋敷・足軽長屋等含む)
赤背景白抜き文字:主に町人地(町屋)


成田街道 田町
田町門から成田街道歩きを続けよう。街道は巴屋菓子舗前で水堀に沿って南へ折れ、直ぐに東へ方向を変えて海隣寺坂へ向かう。


巴屋菓子舗
巴屋菓子舗。店名に肝心の”菓”の字が無くなってしまっているが、ちゃんと営業している。随分と古びた趣の看板建築であるが、おそらく昭和初期頃から営業を続けられてこられたのだろう。


成田街道 田町
田町の街道沿いにある茅葺屋根の民家。


海隣寺坂
街道は海隣寺坂を上り台地上へ。坂上に海隣寺があることが坂名の由来。


成田街道 海隣寺町
海隣寺坂の木戸跡。坂を上りきった所に木戸が設けられ、街道の通行を監視した。木戸を入った台地上に海隣寺があり、周辺一帯は海隣寺並木(現 海隣寺町・並木町)と呼ばれる武家屋敷地(侍屋敷・足軽長屋等も含む)。海隣寺門前にのみ町屋が置かれた。


海隣寺
千葉氏の菩提寺である海隣寺。建立当初は馬加(現 千葉市花見川区幕張町)にあったが、千葉氏が本拠を猪鼻城(千葉市中央区亥鼻)から本佐倉城(酒々井町本佐倉)へ移し、後に本拠とすべく鹿島台に城を築くにあたって、海隣寺は千葉氏と共に酒々井を経てこの地に移転してきた。


成田街道 並木町
並木町を行く成田街道。


成田街道 新町(旧横町)
横町の町並み。横町から佐倉城下東端の本町にかけ、街道両脇に町屋が続いた。


成田街道 新町交差点
街道は札の辻(現 新町交差点)の三差路で東方向へ左折し、上町・二番町・仲町・肴町・間之町といった町人地の中を通る。横町から間之町にかけての旧町名は、新町として一括りにされている。


旧平井家
新町交差点角に建つ旧平井家。江戸時代初期から薪炭商を営み、主人は江戸期を通して代々平井儀兵衛を名のったという。明治初期からは郵便御用取扱い人を務め、明治45年(1912年)頃から酒店を営み佐倉有数の大商家となった。しかしながら主人が高齢となり昭和33年(1958年)に閉店。以後貸店舗として使われ、平成20年(2008年)平井家の親族より市へ寄付された。街道に面する主屋は明治19年(1886年)横町の大火後に再建されたものと考えられている。


旧平井家にて
旧平井家にて。


麻賀多神社
横町の西側裏手に鎮座する麻賀多神社。佐倉藩の総鎮守で”まかたさま”の愛称で親しまれてきた。


成田街道 新町(旧上町)
上町の町並み。


成田街道 新町(旧上町)
寛政年間(1789年~1800年)創業という三谷屋呉服店。


佐倉市立美術館
江戸の町屋風情が残る町並みにあって異彩を放つ佐倉市立美術館(旧川崎銀行佐倉支店)。それもそのはずで大正期の洋風建築。この辺りがかつての二番町である。


成田街道 新町(旧二番町・旧仲町)
二番町から仲町にかけての町並み。上町から仲町にかけて歴代佐倉城主の幟が掲げられ、観光客を楽しませる。


佐倉新町おはやし館
佐倉新町おはやし館。佐倉囃子の歴史や伝統を後世へ継承していく目的で建てられた。

佐倉新町おはやし館
http://www.catv296.ne.jp/~ichirizuka/ohayasikan/#pagetop


甚大寺
佐倉藩主堀田家の菩提寺、甚大寺。元々は山形城下にあったが、延享3年(1746年)堀田家が山形から佐倉へ転封になった際、現在地へ移された。現在の本堂は昭和36年(1961年)滑川龍正院(成田市滑川、坂東三十三観音)にあった建物を移築したもので、享保11年(1726年)の建立。


堀田家墓所
甚大寺境内奥にある堀田家墓所。堀田正俊・正睦・正倫をはじめ、堀田家累代の墓所がある。


堀田正睦の墓
堀田正睦の墓。堀田正睦は佐倉藩主で老中首座。佐倉藩に蘭学を取り入れ、”西の長崎、東の佐倉”と称される程に佐倉の名を知らしめた。歴史好きにはこの名を知らぬ人はいないだろう。幕末を描いた大河ドラマには必ずと言っていいほど登場する人物である。


成田街道 新町(旧肴町)
成田街道は肴町で連続する鍵の手に曲げられる。


成田街道 新町(旧間之町)
新町の東外れ、旧間之町。ここで本日の街道歩きは終わりとし、鏑木小路の武家屋敷へ向かおう。


裏町共同井戸
新町南側裏手に残る井戸。かつて新町南側一帯の裏新町は侍屋敷や足軽長屋が連なり、東端には獄屋が置かれていた。この共同井戸は新町と裏新町の境をなす路地脇にあり、おそらく商人や下級武士・足軽らが共同で利用した貴重な生活用水だったのだろう。


山口家住宅
新町と裏新町の路地沿いに残る旧商家、山口家。袖蔵と店蔵が並ぶ商家建築は旧街道沿いでよく見かけるが、佐倉の町屋にあっては珍しいという。現在は住宅として使われるため内部は非公開。佐倉市登録有形文化財。


新町交差点付近
新町・裏新町境の路地と国道296号の交差点。直進の道は宮小路、麻賀多神社境内前を通って大手門へ至り、その沿道には武家屋敷が並んだ。


武家屋敷通り
日没が迫り、新町から武家屋敷通りへ急ぎ移動。ここはかつての鏑木小路で、武家屋敷地。家老若林家をはじめ、上・中級武士の屋敷が並んだ。日露戦争で活躍した児玉源太郎も明治13年(1880年)から5年間ここに住んでいた。


くらやみ坂
武家屋敷通りから宮小路方面へ下る”くらやみ坂”。その名の通り、周囲に比して一際暗がりの坂道。道端を示す蛍光色の矢印がそれを物語ろう。


武家屋敷通り02
武家屋敷通り。通りに面して土手と生垣が残り、3棟の武家屋敷が内部公開されている。


大聖院
武家屋敷通りの東端にある大聖院。


ひよどり坂01
武家屋敷通りの東端から”ひよどり坂”の下り。暗闇に吸い込まれるような坂の入口。


ひよどり坂02
ひよどり坂。かつては鏑木小路から”ひよどり坂”を下れば、水堀の外周を通って浅間坂上り口にあった虎口(坂下門)から城内へ入れたようだが、おそらく非常時の裏道的な存在だったと思われる。鏑木小路の武士が登城する際は、くらやみ坂か宮小路を通って大手門から入城したと考えるのが妥当だろう。


ひよどり坂04
ひよどり坂の上り口。「佐倉 サムライの古径 ひよどり坂」の立札がある。昔日の姿を留めており、坂道マニアにはたまらないだろう。


大手門跡
佐倉城下散策の最後は佐倉城の正面入口、大手門(追手門)で。下写真のような門がここにあったなんて、今見る現状から想像するのは難しい。


佐倉城大手門
在りし日の大手門。


成田街道歩き 第5日目】 成田街道歩き 臼井中学校入口停留所→佐倉城址→佐倉城下→京成佐倉駅 歩行距離約14km

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