臼井城址
【2012年5月6日(日)成田街道 大和田宿→臼井宿】
加賀清水の井野から臼井城址のある臼井台へ向かう。成田街道の旧道を元とする現在の国道296号はユーカリが丘の駅前を経て上座地区を通り、坂道を手繰(たぐり)川に向かって下る。手繰川を渡ると成田街道旧道は国道296号を左手に分かれ、今度は手繰坂と呼ばれる急坂の上りに転じる。坂を上りきった所は臼井台の台地で、かつて臼井城が築かれた場所である。
臼井城は今を遡ること約千年前の平安時代、千葉氏の一族臼井常康がこの地に居を構え、南北朝時代の臼井興胤の代にその基礎が築かれたと伝わる。戦国時代初期の名将、太田道灌は境根原合戦に敗れ臼井城に籠った千葉孝胤を攻めて落城させている。永禄9年(1566年)には北条氏と対立していた里見氏救援のため、上杉謙信もこの城を攻めたが落城までには至らなかった。天正18年(1590年)千葉一族の原氏が居城としていた臼井城は、豊臣秀吉による小田原征伐で落城、北条方についた千葉氏と共に原氏も滅亡した。以後、酒井家次が3万石で入城し臼井藩を立藩するが、慶長9年(1604年)家次は上野国高崎藩に移封となり、臼井藩は廃藩となって臼井城も廃城になる。


志津駅入口付近の国道296号。

ユーカリが丘を行く国道296号。ファッションセンターしまむーだね。

ユーカリが丘駅前を通って。ちょっと近代的な新興都市といった感じ。

ユーカリが丘駅の先、国道沿いに残る上座の成田山石塔。無念にも真っ二つに折れている。

ひっそりと電柱脇に残る志津村道路元標。この辺り、かつては志津村と称していた。

上座を行く国道296号(成田街道)

民家の前に鎮座する縁結神社。珍しい名の神社であるが、ご利益はいかに。

上座の皇産霊神社。社殿が無く、皇産霊神社と刻まれた石標と羽黒山・月山・湯殿山参拝の記念碑等があるのみ。

国道296号(成田街道)は手繰川へ向かって台地を下る。

手繰橋を渡って旧道は国道を左手に離れ手繰坂へ。

印旛沼へ注ぐ手繰川。

手繰坂の上りに差し掛かったところ。

臼井台へ上る手繰坂。結構な急坂だ。

臼井台上の旧道。T字路になっており旧道は右折、左折すると実蔵院へ至る。道に迷わぬよう下写真の道標が置かれている。

臼井台の道標。「右 成田ミち」「左 江戸ミち」「西 さく者゛道」と刻まれている。文化3年(1806年)建立。

実蔵院。明治36年(1903年)当時の住職が境内に旧制明倫学校を開校、周辺農家の子供たちの教育を始め、大正15年(1926年)に明倫中学へ改称した。昭和5年(1930年)には500名の増員許可を得るほどに発展したようだが、後に農村不況と私学経営の難しさから生徒数が減少し、昭和17年(1942年)廃校となってしまった。

実蔵院境内にある明倫中学跡碑。その隣には校歌が刻まれた碑もある。
平田萬里北総の 印旛湖畔の健男児 胸に久遠の理想を秘して 俯仰天地に側ちつ…♪
どんなメロディーがついていたんだろうか。

臼井台まで来たところで臼井城址へ寄り道しよう。まずは臼井妙見社。星神社とも呼ばれる。臼井城の鬼門を守るために創建されたと伝わるが、縁起は定かではない。妙見とは北斗七星を神格化したもので、千葉氏一族は守護神として必ず所領には妙見を祀ったという。

臼井妙見社のムクノキ。推定樹齢250年の見事な古木。

三の丸跡に残る太田図書の墓。太田図書とは太田資忠の名で、道灌の弟(甥とも)。千葉孝胤の籠る臼井城攻城戦の際、城を包囲していた太田資忠の率いる軍勢は城兵の奇襲にあい、資忠のほか53名が討死したという。

臼井城址二の丸(二郭)跡。

二の丸と本丸を繋ぐ土橋。両脇は広い空堀に隔たれる。

臼井城址本丸(一郭)跡。

臼井城址より印旛沼を望む。城が現役の頃は目前まで沼が迫っていたらしい。

臼井城址より臼井宿を望む。さて、そろそろ臼井宿へ向かおう。
加賀清水の井野から臼井城址のある臼井台へ向かう。成田街道の旧道を元とする現在の国道296号はユーカリが丘の駅前を経て上座地区を通り、坂道を手繰(たぐり)川に向かって下る。手繰川を渡ると成田街道旧道は国道296号を左手に分かれ、今度は手繰坂と呼ばれる急坂の上りに転じる。坂を上りきった所は臼井台の台地で、かつて臼井城が築かれた場所である。
臼井城は今を遡ること約千年前の平安時代、千葉氏の一族臼井常康がこの地に居を構え、南北朝時代の臼井興胤の代にその基礎が築かれたと伝わる。戦国時代初期の名将、太田道灌は境根原合戦に敗れ臼井城に籠った千葉孝胤を攻めて落城させている。永禄9年(1566年)には北条氏と対立していた里見氏救援のため、上杉謙信もこの城を攻めたが落城までには至らなかった。天正18年(1590年)千葉一族の原氏が居城としていた臼井城は、豊臣秀吉による小田原征伐で落城、北条方についた千葉氏と共に原氏も滅亡した。以後、酒井家次が3万石で入城し臼井藩を立藩するが、慶長9年(1604年)家次は上野国高崎藩に移封となり、臼井藩は廃藩となって臼井城も廃城になる。


志津駅入口付近の国道296号。

ユーカリが丘を行く国道296号。ファッションセンターしまむーだね。

ユーカリが丘駅前を通って。ちょっと近代的な新興都市といった感じ。


ユーカリが丘駅の先、国道沿いに残る上座の成田山石塔。無念にも真っ二つに折れている。

ひっそりと電柱脇に残る志津村道路元標。この辺り、かつては志津村と称していた。

上座を行く国道296号(成田街道)

民家の前に鎮座する縁結神社。珍しい名の神社であるが、ご利益はいかに。

上座の皇産霊神社。社殿が無く、皇産霊神社と刻まれた石標と羽黒山・月山・湯殿山参拝の記念碑等があるのみ。

国道296号(成田街道)は手繰川へ向かって台地を下る。

手繰橋を渡って旧道は国道を左手に離れ手繰坂へ。

印旛沼へ注ぐ手繰川。

手繰坂の上りに差し掛かったところ。

臼井台へ上る手繰坂。結構な急坂だ。

臼井台上の旧道。T字路になっており旧道は右折、左折すると実蔵院へ至る。道に迷わぬよう下写真の道標が置かれている。

臼井台の道標。「右 成田ミち」「左 江戸ミち」「西 さく者゛道」と刻まれている。文化3年(1806年)建立。

実蔵院。明治36年(1903年)当時の住職が境内に旧制明倫学校を開校、周辺農家の子供たちの教育を始め、大正15年(1926年)に明倫中学へ改称した。昭和5年(1930年)には500名の増員許可を得るほどに発展したようだが、後に農村不況と私学経営の難しさから生徒数が減少し、昭和17年(1942年)廃校となってしまった。

実蔵院境内にある明倫中学跡碑。その隣には校歌が刻まれた碑もある。
平田萬里北総の 印旛湖畔の健男児 胸に久遠の理想を秘して 俯仰天地に側ちつ…♪
どんなメロディーがついていたんだろうか。

臼井台まで来たところで臼井城址へ寄り道しよう。まずは臼井妙見社。星神社とも呼ばれる。臼井城の鬼門を守るために創建されたと伝わるが、縁起は定かではない。妙見とは北斗七星を神格化したもので、千葉氏一族は守護神として必ず所領には妙見を祀ったという。

臼井妙見社のムクノキ。推定樹齢250年の見事な古木。

三の丸跡に残る太田図書の墓。太田図書とは太田資忠の名で、道灌の弟(甥とも)。千葉孝胤の籠る臼井城攻城戦の際、城を包囲していた太田資忠の率いる軍勢は城兵の奇襲にあい、資忠のほか53名が討死したという。

臼井城址二の丸(二郭)跡。

二の丸と本丸を繋ぐ土橋。両脇は広い空堀に隔たれる。

臼井城址本丸(一郭)跡。

臼井城址より印旛沼を望む。城が現役の頃は目前まで沼が迫っていたらしい。

臼井城址より臼井宿を望む。さて、そろそろ臼井宿へ向かおう。

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