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旧堀田邸と佐倉武家屋敷

【2012年5月27日(日)成田街道 佐倉城下】
前回の歩き旅から2週間後の日曜日、時間の関係で内部を見学することができなかった武家屋敷を再訪し、少し足を延ばして旧堀田邸も見学することに。京成佐倉駅から佐倉城址へ向かい、まずは朝から半日かけて国立歴史民俗博物館をじっくり見学。博物館に併設するレストランで昼食とし、古代米を使ったハヤシライスを食べてみた。値段はそこそこながら、量は少なめ。おそらく古代米に原価がかかるのだろう。そこそこ腹が満たされたところでレストランを後にし、大手門跡を通って”ひよどり坂”を登り鏑木小路の武家屋敷通りへ。

鏑木小路に残る武家屋敷は3棟、旧河原家・旧但馬家・旧武居家である。内部見学を済ませ、足早に新町の成田街道を歩いて佐倉厚生園内に残る旧堀田邸へ向かう。旧堀田邸は佐倉藩最後の藩主、堀田正倫が明治時代中期に建てた邸宅で、主屋や土蔵・庭園等が保存公開されている。今まで数々の城下町を歩いてきたが、佐倉城は内郭や外郭をはじめ土塁や堀等、往時の地形をよく留めているうえに、城下には3棟もの武家屋敷と旧大名家の邸宅が保存公開されている。城下町を実感したいのであれば、意外に佐倉はおススメな場所だ。


姥が池にて
姥が池にて。池の中で可憐に咲くハスの花。


旧河原家住宅
武家屋敷の旧河原家住宅。近隣から移築されてきた。建築年代は不明であるが、古文書から弘化2年(1845年)には存在していたと考えられ、佐倉に残る武家屋敷の中でも最も古いものだという。幕府による”天保の御制”に定められた三百石以上千石未満の藩士が住む大屋敷にあたる。


旧河原家住宅座敷
旧河原家住宅座敷。


旧河原家住宅茶の間
旧河原家住宅茶の間。当時の調度品を展示。


旧河原家住宅納戸
旧河原家住宅納戸。


旧但馬家住宅
旧但馬家住宅。建築年代は不明。文献や絵図により文政4年(1821年)から天保8年(1837年)の間に建てられたと推測されている。”天保の御制”に定められた百石以上三百石未満の藩士が住む中屋敷にあたる。


旧但馬家住宅
旧但馬家住宅は所在地を変えずに復元整備されたため、屋敷地の形状や植栽に当時の様子を留めている。


旧但馬家住宅座敷
旧但馬家住宅座敷。


旧武居家住宅
旧武居家住宅。”天保の御制”に定められた百石未満の藩士が住む小屋敷にあたる。幕末に田島伝左衛門という禄高九十石取りの藩士が住んでいたと考えられている。


旧堀田邸
佐倉城下の東側台地上、成田街道が通る弥勒(みろく)町の南側にある旧堀田邸。明治23年(1890年)竣工、明治44年(1911年)に湯殿を増築、佐倉藩最後の藩主堀田正倫が住居とした。佐倉厚生園の敷地内に主屋をはじめとする建物や庭園が残る。


旧堀田邸
旧大名家の邸宅らしい上品な佇まい。


旧堀田邸客座敷・次の間
旧堀田邸客座敷と次の間。


旧堀田邸客座敷にて
旧堀田邸客座敷にて。TVドラマ”JIN-仁-”を見ていた方なら、この薩摩藩邸でのシーンを記憶されている方も多いだろう。私も夢中になって見ていた一人だが、ここで撮影されてたのだ!感動。


旧堀田邸客座敷にて
NHKのスペシャルドラマ”坂の上の雲”のロケ地にもなった。


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佐倉順天堂

【成田街道歩き 第6日目】京成佐倉駅→佐倉城下→本佐倉城址→酒々井宿→成田山新勝寺→成田駅



【2012年6月24日(日)成田街道 佐倉城下→酒々井宿】
関東地方は梅雨の真っ只中、貴重な梅雨の晴れ間となった6月下旬の日曜日、佐倉城下から成田街道の終点となる成田山新勝寺まで歩こう。京成成田駅から海隣寺坂で成田街道に歩みを戻し、新町・弥勒(みろく)町の中を進んで佐倉城下の東端にあたる本町へ。ここに順天堂大学の前身、佐倉順天堂が街道沿道にあった。天保14年(1843年)佐倉藩主堀田正睦は蘭学を藩に取り入れるため、江戸薬研堀に蘭医学塾”和田塾”を開いていた蘭方医佐藤泰然を招聘。泰然は塾を娘婿の林洞海に任せて江戸より佐倉へ移り、本町の地に医学塾兼病院を開業する。順天堂の名はこの時に生まれた。

成田街道 弥勒町・本町


成田街道 本町(旧久保町)
本町の旧久保町から記事を続けよう。


成田街道 本町(旧久保町)
旧久保町から弥勒(みろく)町方向を望む。総州佐倉御城府内之図を見てみると、久保町と弥勒町境の街道には枡形が設けられていたことがわかる。ここに成田方城下入口の木戸が設けられていたのだろう。江戸方城下入口の木戸は海隣寺坂にあった。


成田街道 本町
本町を行く成田街道。


佐倉順天堂記念館
街道南側に突然現れた冠木門。ここが佐倉順天堂記念館。


佐倉順天堂記念館
天保14年(1843年)順天堂開業当初は現在地から街道を挟んだ向かい側にあったが、15年後に移転。この時に新築された建物の一部が現存する。


佐倉順天堂記念館
館内には当時の手術道具や書物等を展示。


成田街道 昌柏寺前
昌柏寺前を行く成田街道。総州佐倉御城府内之図を見ると本町の町屋はここまでで、昌柏寺前から畑の中を街道は進んだ。


成田街道 藤沢町
麺屋めん丸前で旧道が右手に分かれる。


藤沢町の地蔵
その分岐点路傍の地蔵。


成田街道旧道 本町・大蛇町
本佐倉に向けて緩やかに下る旧道。


成田街道旧道 佐倉市・酒々井町境
旧道はここで車道に分断、その向こうに続く。この地点は佐倉市と酒々井町の境界をなす谷地を越えなければならず、道路部分の谷を埋め立てて平坦にしている。昔はいったん谷底に降りて登らなければならず、結構な急坂が待ち受けていたことだろう。附近に藤の大木があったことから藤坂と呼ばれ、現在は麺屋めん丸前の旧道入口から本佐倉にかけて緩やかなアップダウンがあるのみで、藤の大木は見当たらない。道路下の谷底に庚申塔が残っている。


道路下の庚申塔
道路下の谷底に残る庚申塔。旧道藤坂の名残か。


成田街道 本佐倉(猿楽場)
成田街道は酒々井町に入り、本佐倉を進む。バス停に猿楽場の名が残る。この辺り字名を猿楽場といい、本佐倉城時代に猿楽(今に言う能楽)の興行場があったのだろうか。附近の妙胤寺にゆかりがありそうだが、真相は不明。


成田街道旧道 上本佐倉
本佐倉の町中を行く成田街道。本佐倉は元々の佐倉。江戸時代初期に佐倉城が完成、佐倉藩の藩庁がこの地から佐倉城に移転し、こちらは本佐倉となったというわけ。付近に本佐倉城址がある。


成田街道旧道 上本佐倉
本佐倉は成田街道の発達により、街道沿いに商家や旅宿が立ち並び間の宿を形成、街道筋だけが本佐倉村から独立して町方となった。現在の上本佐倉の街道沿いがその町方にあたる。


上本佐倉の旧道入口
上本佐倉の旧道入口。旧道はここを左に曲がる。


上本佐倉の旧道
上本佐倉の旧道。ここでいったん街道を離れ、本佐倉城址へ寄り道しよう。


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本佐倉城址

【2012年6月24日(日)成田街道 佐倉城下→酒々井宿】
佐倉城から東へ4km程、印旛沼中央南岸の丘陵地にある将門山に本佐倉城は築かれ、猪鼻城(千葉市中央区亥鼻)を居城としていた千葉氏は本佐倉城に移り、中世を通して千葉氏の本拠地となった。城の構造は連郭式平山城、中世城郭としては大きな城域を持ち、四方には佐倉(現 本佐倉)・酒々井・鹿島(現 佐倉市本町)・浜宿湊が城下を形成し、下総地方を代表する程に発展した。しかし時流には逆らえず、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で北条方の千葉氏は滅亡、城は徳川氏に接収されて破却され、代わりに陣屋(大堀館、別名を万千代屋敷)を置いて佐倉藩の藩庁とした。土井利勝が藩主だった元和年間(1615年~1623年)に佐倉城が完成して藩庁を移転、政治経済の中心は本佐倉の地から佐倉へ移った。

成田街道 本佐倉


根古谷石仏
向根古谷の山麓にある根古谷石仏。道祖神や月待講が建つ。向根古谷の高台には本佐倉城の支城が築かれていた。


根古谷の双体道祖神
根古谷石仏の隣にある双体道祖神。


本佐倉城址遠景
向根古谷から望む本佐倉城址(将門山)。


本佐倉城址入口
本佐倉城の根古谷側入口。ここから本佐倉城址の将門山を登ろう。


妙見神社
本佐倉城(将門山)南側山麓に鎮座する妙見神社。千葉氏関連の城には必ずと言ってよいほど祀られている神社で、千葉氏の守護神である。


妙見神社から城内へ通じる道
妙見神社から城内へ通じる道。


本佐倉城址 倉跡
本佐倉城のⅢ郭をなす倉跡。炭化した米が発掘され、倉や台所等が置かれた場所と推定されている。


本佐倉城址倉跡にて
本佐倉城址倉跡にて。


Ⅳ郭虎口跡
Ⅳ郭虎口跡。東山馬場からⅣ郭への入口で、発掘調査から塀跡と門跡が見つかったという。


本佐倉城址 Ⅳ郭
本佐倉城址のⅣ郭と東山馬場の斜面には千葉氏の家紋が描かれた矢盾が置かれる。中世城郭の雰囲気が漂う。


東山馬場
本佐倉城のⅤ郭をなす東山馬場。その名の通り馬場があったと考えられている。


東山虎口
東光寺ビョウ(Ⅵ郭)から東山馬場への入口、東山虎口。発掘調査により2つの門跡が見つかっている。


東山虎口02
東光寺ビョウから望む東山虎口。


東山虎口より印旛沼方面を望む
東山虎口より印旛沼方面を望む。印旛沼は干拓されて遠く彼方へ退いてしまったが、かつては京成線付近が印旛沼の汀線だった。


東光寺ビョウ
本佐倉城のⅥ郭をなす東光寺ビョウ。印旛沼の低湿地帯に面する郭である。城内部への出入口として2ヶ所の虎口が設けられていた。


本佐倉城址空撮
東光寺ビョウ側より本佐倉城址の空撮。(現地解説板より)


本佐倉城址 大堀切
さて、そろそろ城の中枢部へ行こう。写真は城山(Ⅰ郭)と奥山(Ⅱ郭)を隔てる大堀切。東山馬場(Ⅳ郭)から城山通じる堀切道で、両脇は有に3m以上はある土壁が迫り、結構な圧迫感を感じる。


城山通路
城山へ続く通路。


城山虎口
城山入口の虎口。発掘調査で門跡が見つかり、周囲に塀が巡らされていたことがわかっている。


本佐倉城址 城山
本佐倉城址の本丸である城山。発掘調査で主殿や会所等、複数の建物があったことが確認された。


本佐倉城址 城山と奥ノ山を繋ぐ木橋跡
城山と奥山を行き来する木橋が架けられていたと推測される場所。奥に見える平地が奥山で、その手前下が先ほど通過した大堀切である。


本佐倉城址 奥ノ山
Ⅱ郭をなす奥ノ山。ここには妙見宮跡と推測される基壇跡が見つかり、別名を妙見郭とも言う。


奥ノ山にて
奥ノ山にて。


本佐倉城址 奥ノ山
奥ノ山を後にし、本佐倉城址の散策を終えよう。国破れて山河在り、城春にして草木深し…。


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酒々井宿

【2012年6月24日(日)成田街道 酒々井宿】
前の記事にも少々触れたが、酒々井(しすい)宿は本佐倉の城下として発展してきた町。本佐倉城の廃城後は、成田街道の往来が盛んになり宿駅として町は変貌を遂げ、旅宿や茶屋等、様々な商家が軒を連ねた。また、宿内には幕府の軍馬放牧場・佐倉牧の管理事務所にあたる野馬会所と野馬御払場が置かれ、捕えた野馬から軍馬に適する馬を選び出し、不適な馬については民間への払い下げが行われた。近くの勝蔵院は野馬奉行綿貫氏が滞在中の宿所だったという。綿貫氏の役宅は小金牧近くの水戸街道小金宿にあり、以前の記事「小金宿」に書いているので参照してほしい。

酒々井の地名は井戸から酒が湧き出たとの伝説に起源があるといい、それを後世に伝えるために建てられた酒の井碑が今も残る。下総式板碑と呼ばれる鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに使われた碑だというから、相当に古いものらしく摩耗が著しい。酒々井宿は江戸方から新宿・上宿・仲宿・下宿と続き、仲町と下町の境から多古街道が分岐して横町の町屋が並んだ。江戸方宿端の新宿は佐倉城下札の辻(現 新町交差点)から1里(約4km)に位置し、新宿内の街道沿いには一里塚が築かれていたという。宿場の中心は仲宿にあって問屋が置かれ、野馬会所や野馬御払場もここにあった。

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小金宿
小金牧

成田街道 酒々井宿


国道296号 上本佐倉
上本佐倉交差点辺りが酒々井宿の江戸方入口。酒々井宿と本佐倉の町屋は位置関係からほぼ隣接していたと思われる。


大鷲神社
酒々井宿江戸方入口に鎮座する大鷲神社。



酒々井宿・新宿
酒々井宿・新宿の町並み。かつて街道沿いには一里塚が築かれ、昭和時代の後半まで片塚だけが残っていたらしいが、現存しておらずその跡地は不明。


酒々井宿・上宿
酒々井宿・上宿の町並み。古い商家が残り、宿場時代の面影を留めている。


八坂神社
上宿と仲宿の境に鎮座する八坂神社。上宿・仲宿・下宿・横町の鎮守で、天王社とも呼ばれた。安政5年(1858年)刊行の成田参詣記「酒々井駅の図」には、八坂神社を中心に商家が並び、その前を往来する旅人の様子が描いている。


酒々井宿・上宿
八坂神社付近から上町を望む。


地蔵堂 地蔵堂
地蔵院跡に残る地蔵堂。地蔵院は延命地蔵を本尊とし、近くにある真言宗東光寺の末寺だったと伝わる。現在は廃寺となり地蔵堂のみが残る。延宝2年(1674年)水戸黄門様こと徳川光圀がここ地蔵院に宿泊したという。


酒々井宿・仲宿
酒々井宿の中心、仲宿。


成田街道・多古街道の追分
酒々井町役場入口の丁字路。ここが成田街道と多古街道の分岐点で、左折の道が多古城下へ至る多古街道。丁字路角に建つ家が野馬会所を務めた島田家である。


勝蔵院
江戸時代初期の佐倉藩主、堀田正信の寄進と伝わる木造不動明王坐像を本尊とする勝蔵院。本堂は棟札等から元禄年間(1688年~1704年)の建築と推測されている。野馬奉行綿貫氏が佐倉牧滞在中の宿所として使われた。


勝蔵院の仁王像
勝蔵院の仁王像。まさしく仁王立ち!


本佐倉城跡調査事務所
勝蔵院に隣接する本佐倉城跡調査事務所。本佐倉城を酒々井町の名所にしようとの意気込みが伝わってくる。事務所の建物は再利用なのか、古さを感じさせる佇まいなのがいい。


酒の井碑
酒々井という地名の起源を伝える酒の井碑。


酒の井
酒の井碑の隣にあるモニュメントらしき井戸。傍らにあるボタンを”ポチッとな”と押してみると↓


酒の井
何と!酒かもしれない水がこんこんと湧き出し、酒の井伝説を解説する音声が流れ始めた。地元の方に話を聞いてみたところ、「モータで井戸水を汲み出しているんだよ。」と、夢の無い現実的な回答が…。


酒の井にて
酒の井にて。


酒々井宿・下宿
酒々井宿・下宿の町並み。かつて下宿には岩城屋という旅籠があり、近年まで氏神様の石祠だけが残っていたが、見つけることができなかった。どこに行ってしまったのだろうか。


麻賀多神社
酒々井宿の成田方入口に鎮座する麻賀多神社。


酒々井駅古松碑
酒々井駅古松碑。ここに樹齢700~800年という名木、”八抱えの松”が聳えていた。しかし、明治2年(1869年)に枯死してしまい、これを惜しんだ人々によって翌年にこの古松碑が建立された。


肥前坂八抱えの松
これが成田名所図会に描かれる在りし日の”八抱えの松”。現地解説板より。


伝肥前屋敷
酒々井小学校の敷地内、酒々井町体育館がある辺りが肥前屋敷と伝わる場所。ここに言う肥前とは千葉氏の家臣で、原肥前とも青柳肥前とも伝わる。


肥前坂
肥前屋敷から本佐倉城へ向かう肥前坂。この坂を通れば、台地上の酒々井から谷津の低地に降りて本佐倉城へ最短距離で行ける。肥前坂は急勾配の小路で、車の通行は無理だろう。


本佐倉城址遠望
肥前坂より本佐倉城址を望む。


肥前坂
肥前坂の上り口。


下り松(百取らず坂)
酒々井宿を出た成田街道は緩い下り坂に。この辺りは”下り松”と呼ばれ、昔は細い道が曲がりくねる坂道だった。道の両側から木々が覆いかぶさっていたために昼間でも暗く、しばしば追剥ぎが出たともいう。とある貧しい若者がここに落ちていた百文を拾おうとしたところ、道脇に首がぶらさがっていたのに気付き、慌てて百文を取らずに逃げたという少々怖い話も伝わる。そんな逸話から別名を”百取らず坂”とも呼ぶ。


酒々井下り松三山碑
下り松に残る三山碑。出羽三山の参詣記念碑で、月山・湯殿山・羽黒山の名が刻まれる。出羽三山は古くから庶民に信仰の厚い霊山、各地に同様の石碑を見てきた。この地域でも壮年になると講を組織して出羽三山に参詣したという。


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伊篠の松並木

【2012年6月24日(日)成田街道 酒々井宿→成田山新勝寺】
隣接する中川と上岩橋トヶ崎(ぼっけさき)の集落内を進む。中川からは岩名仁王尊へ、上岩橋からは宗吾霊堂へ至る参道が分岐、それぞれの分岐点に古い道標が残る。上岩橋の集落を抜ければ大坂の上り。坂の途中に成田山の道標や馬頭観音があり、旧街道らしい趣を残す。そして、大坂を登りきった先から伊篠の松並木跡が約800mに渡って続く。享保年間(1716~1735年)代官の小宮山杢之進による植樹と伝わり、長らく成田山詣の旅人に木陰を提供してきたが、昭和50年代頃から松喰い虫に大多数の松がやられ、昭和末期には全滅してしまったという。現在は道沿いに並木跡の土盛りが見られ、道標や供養碑などが僅かに往時を偲ばせる。

成田街道 中川・上岩橋・伊篠


成田街道旧道 中川
中川の旧道入口。コンビニエンスストアCoco!の横から旧道へ。


成田街道旧道 中川
中川集落を行く成田街道旧道。


中川石仏
中川石仏。中央の一番大きな地蔵には”元禄二年 泉州境住人”等の銘文が見られ、他の石仏にも”明和七 庚寅”や”宝暦十三”の銘文が読み取れる。いずれも江戸期製作の古いもの。


中川岩名仁王道標
丁字路(中川三叉路)に残る岩名仁王道標。正面に「二王ミち」と刻まれるが、側面は磨耗が著しく建立年等は不明。ここから岩名仁王尊(玉泉寺、佐倉市岩名)へ至る参道が分岐することを示す。その隣には「酒々井停車場道」と刻まれる道標で、明治44年(1911年)設置。


成田街道 上岩橋
旧道は上岩橋トヶ崎(ぼっけさき)の集落へ入る。再び丁字路があり、ここにも道標が残る↓


上岩橋トヶ崎三叉路の道標
「成田佐原道 宗吾安喰道」と正面に刻まれる道標。上岩橋青年分団による設置、建立年不明だが比較的近年のものと思われる。ここから宗吾霊堂を経て安食(印旛郡栄町)へ至る道が分岐していた。成田街道からの主な宗吾参道入口はここと、成田の一本松跡交差点(成田市並木町)である。


成田街道 上岩橋
宗吾参道入口の丁字路を右(成田方面)に曲がってすぐ、今度はY字路の分岐があり、ここにも上岩橋青年分団設置の道標がある。その道標がこれ↓


上岩橋の道標
正面に「佐倉千葉道 成田佐原道」、右側面に「七栄三里塚道」と刻まれる道標。建立年不明。ここから七栄(富里市)・三里塚(成田市)へ至る脇道が分岐していたことを示す。


成田街道旧道 上岩橋
旧道はいったん国道に合流。


国道51号 上岩橋
ここで旧道が右手に現れる。国道は直進で高台を上り、旧道は高台を西側へ回り込むように延びる。この先の旧道は大坂の上り。この国道と旧道の分岐点、電柱に寄りかかるように道標が残る。


大崎の道標
大崎の道標。上写真の左下に見える電柱傍らの石塔がこれ。正面に「南さくら道 奉納仁王尊」等の文字が読み取れるが、磨耗が著しい。寛政2年(1790年)建立。


大崎の大坂
大崎の大坂旧道。写真左、路傍斜面に横たわる成田山道標が見える。


大崎成田山道標
大崎成田山道標。明治27(1894年)建立。成田講の岩田長兵衛が建てた案内道標5基のうちの一つ。残りの4基は船橋市滝台・八千代市萱田町・佐倉市井野・佐倉市上座の成田街道沿いに建てられた。井野の成田山道標は近年まで加賀清水道標群の中に残っていたが、震災後に倒壊し行方不明。上座の道標は真っ二つに折れていた。

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加賀清水
臼井城址


大崎の大坂
大崎の大坂旧道。


大崎馬頭観音堂
大坂の途中にある大崎馬頭観音堂。


大崎馬頭観音堂の絵馬
大崎馬頭観音堂にて。


伊篠の松並木跡
大坂を上りきると旧道は国道と並進、伊篠の松並木跡となる。


伊篠の松並木跡
伊篠の松並木江戸方入口に立つ標柱。正面に「千葉県指定 成田道伊篠松並木」と書かれ、昭和43年(1968年)松並木が千葉県指定の史跡になり設置された。指定が解除された今も残っているのが痛々しい。


伊篠の松並木跡
伊篠の松並木跡。松が並んでいたはずの土盛りが道の両脇に残る。昭和末期に全滅したはずの松並木だが、所々に松が見られるのは何故?


成田山護摩木山供養碑
成田山護摩木山供養碑(写真左の石碑)。護摩木とはお護摩に使われる薪のことで、護摩木山は護摩木を切り出す山(土地)を指す。成田街道沿いには護摩木山が十数ヶ所あったらしい。


伊篠の松並木跡
成田側の伊篠の松並木跡。今や松並木ではないのが少々残念。


成田山永代護摩木山供養碑
成田山永代護摩木山供養碑。成田街道にあって最大級クラスの石碑だ。


伊篠の松並木跡
伊篠の松並木跡成田方入口。旧道と国道51号が交差する地点。こちらにも「千葉県指定 成田道伊篠の松並木」と刻まれた石標が設置されている。


成田街道旧道 伊篠
伊篠の松並木跡を抜けて国道を越えると旧道は下り坂に。


成田山・不動尊石碑
下り坂の途中に残る成田山と不動尊碑。


成田街道旧道 伊篠
谷津の田園地帯を横切るように旧道は進む。


伊篠の地蔵
いったい、どういうことなんでしょ…。


国道51号 伊篠・篠山新田
旧道は国道51号に合流し。


国道51号 公津の杜入口交差点
いよいよ成田市へ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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