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成田山新勝寺っ!

【2012年6月24日(日)成田街道 酒々井宿→成田山新勝寺】
成田街道歩きも成田市に入りラストスパート、日没が迫っており成田山新勝寺へ向けて歩みを速めよう。成田市の成田街道は国道51号、国道409号と道名を変えながら並木坂を下り、並木町の西端を進む。並木町の成田街道と宗吾参道の分岐点には一本松跡の記念碑があり、かつてここにあった一本松を偲ぶ。旅籠の案内人はここで旅人を出迎えたといい、旅人はこの一本松を見てようやく成田へ着いたと安堵の面持ちだったことだろう。残念ながら一本松は昭和51年(1976年)枯死し伐採された。

不動ヶ岡に入りJR成田線・京成本線を越え、両線路に挟まれた狭い土地を街道は通る。人通りがぐっと増える成田駅前を通り抜けて、暮れなずむ表参道を進む。参道両脇には老舗の店舗が並んで門前町らしさを感じさせ、否が応でも気分は盛り上がる。そんな中に西洋風なPUBが数軒あって、店内を覘くとたくさんの外国人が美味そうにビールやカクテル等を飲んでいた。いやはや、さすが成田空港のお膝元、成田は国際都市と古くからの門前町の顔を併せ持つ奇妙な街である。仲町の急坂を下ればいよいよ成田街道のゴール、成田山新勝寺だ。

成田街道 成田市街


国道409号 並木町
街道は右手からの国道409号に合流。この合流地点付近に並木町の旧道が残る。


並木町旧道入口
並木町の旧道入口。うっかりしていると見過ごしてしまう下りの小路。


並木町旧道
並木町旧道。”居酒屋ぐいぐい”の看板と佇まいが隠れ家的でイイ感じなんだけど、店は潰れてしまったようだ。


並木町旧道
並木町旧道。


国道409号 並木坂上交差点
旧道はすぐに国道409号へ合流、並木坂上交差点に至る。


成田街道 並木町
成田街道は国道51号を横切り。
成田街道 並木町
並木町を進む。


成田街道 一本松跡交差点
そしてここが一本松跡交差点。成田街道は直進、左に分かれる道が宗吾霊堂へ向かう参道。昔はここまで旅籠の案内人が出迎えてくれていたというが、なにせ電話もない時代のこと、想像するに上客を得ようとする客引きの要素が強かったのかもしれない。


一本松跡
一本松跡の記念碑。この一本松は元々あった松並木のうちの1本で、何故かこの1本だけが昭和末期まで残っていたらしい。記念碑の傍らには松の幼木が植えられており、早く先代に負けないくらいの立派な松に育ってほしいもんだ。


成木県道踏切
成木県道踏切でJR成田線を渡り不動ヶ岡へ入る。


不動ヶ岡の不動明王
天慶3年(940年)平将門の乱の鎮撫を祈願するため、寛朝大僧正は公津ヶ原(現 成田市並木町の金刀比羅神社周辺)の地に仮堂を設けて京都より不動明王の本尊を移す。この年が成田山の開山とされる。時は流れて江戸時代末期の安政5年(1858年)新勝寺本堂(現 釈迦堂)が完成し、不動明王が仮堂より本堂へ移す入仏供養が行われるこになったが、公津ヶ原からではあまりに遠いとのことで、仮の安置所を設けて入仏供養の行列は出発したという。その安置所がここ不動ヶ岡の不動明王で、地名の由来にもなった。


成田街道 不動ヶ岡
不動ヶ岡を行く成田街道。


成田街道 成田駅前
成田市内の中心部、成田駅前を通り抜けて。


京成成田駅
京成成田駅。成田街道歩きではJRとの乗り換えでよく利用させて頂いた。


表参道 上町
表参道に入って旅は最終章に。上町の表参道。


表参道 仲町
仲町の急坂を下って。向こうに新勝寺の三重塔が見えた。


梅屋旅館・大野屋旅館
梅屋旅館(手前)と大野屋旅館(奥)。いずれも味のある佇まい。大野屋旅館は江戸中期創業、元々は蝋燭屋だったが、成田に宿泊する場所が無かったことから旅人の便に供するため旅宿へ転業したという。

大野屋
http://www.ryokan-oonoya.com/index.html


成田山新勝寺総門
成田山新勝寺に到着っ!新勝寺の入口にでーんと構える総門。


成田山新勝寺仁王門
総門を潜り抜けた先、大本堂へ至る階段の登り口に仁王門が構える。さすがに日が落ちて参拝客はほとんどいない。新勝寺には間違いなく着いたし、参拝はせずに家へ帰ろう。


JR成田駅
JR成田駅から帰途につく。長らく成田街道歩きにお付き合い頂き有難うございました。今宵はこの辺りで失礼させていただきます。

という訳にもいかないので、つづく…。


【成田街道歩き 第6日目】成田街道歩き 京成佐倉駅→佐倉城下→本佐倉城址→酒々井宿→成田山新勝寺→JR成田駅 歩行距離約20km
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成田山新勝寺っ!へ再び

【成田街道歩き 第7日目】JR成田駅→成田山新勝寺→寺台宿→JR成田駅

【2012年7月8日(日)成田街道 成田山新勝寺・寺台宿】
前回の成田街道歩きから1週間後の日曜日、梅雨明けの発表はいまだ聞かれぬが天気は上々。この日は成田祇園祭の最終日にあたり、最大の見どころとなる山車・屋台総引きが行われる。祭り見物を兼ねられることもあり、成田街道歩きの最終目的、新勝寺参拝を果たすにはもってこい。これを逃してはならんと意気込んで我孫子駅からJR成田線で成田へ向かう。成田駅を出た途端に街はいつもと違った祭りの様相、駅前には花崎町の山車が今や遅しと出発を待つ。多くの見物客が行き交う表参道を歩いて成田山新勝寺っ!へ再び。

成田山新勝寺は天慶3年(940年)平将門の乱の鎮撫を祈願するため、寛朝大僧正が公津ヶ原(現 成田市並木町の金刀比羅神社周辺)の地に仮堂を設け、京都より不動明王の本尊を移したことに起源がある。この不動明王が新勝寺の本尊であり、成田山の開山が天慶3年とされる所以。成田山参詣が庶民の人気を得ることになったのは江戸時代中期頃から。江戸で出開帳が始められて世間に広く知れ渡るようになり、出開帳は明治31年(1898年)の最後となる深川出開帳まで15回を数えた。また、歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田山に祈願したところ、跡継ぎとなる子を授かったことから不動明王の歌舞伎を演じるようになり、成田山参詣の人気に拍車をかけたともいう。市川團十郎が成田屋の屋号で呼ばれる所以である。

成田山新勝寺にまつわる逸話で気になることが一つ。平将門のことである。新勝寺の起源は関東地方で朝廷に対して反乱を起こした平将門の討伐を目的に、京都から不動明王を持ってきて護摩の儀式を行ったことにある。つまり、平将門よ、おとなしく死んでくれということだ。そして将門は討ち取られ反乱は鎮められた。そのため平将門を祭神に祀る神田明神へ参拝してから新勝寺に参拝すると、将門の祟りによって災いを招くと伝わり、古くからタブー視されてきたのである。私は5年前の2007年、中山道を京都へ向けて歩いている折、神田明神に参拝しているのである。清河八郎が宇都宮の二荒山神社について書いた文言が頭をよぎる。

『明神は公儀普請にて、石壁高くたたみあげ、経営のうるわしき事、日光に継べし。されどもしら木作にて、却て品よく思わるる也。伝へいふ、王をはかり、遂滅亡に及びし平の将門のからだをまつるとぞ。首は則神田明にまつる也。』
あーあ、神田明神どころか、宇都宮の二荒山神社にも参拝してるよ…。現代にあってはただの迷信に過ぎないと思うのだが…。しまむーの運命や如何に。


JR成田駅
JR成田駅にて。出発を待つ花崎町の山車。


JR成田駅交差点
JR成田駅交差点から表参道へ。


表参道 花崎町
花崎町の表参道。


表参道 花崎町
ここで成田祇園祭のパンフレットを貰い、山車・屋台総引きの時間を確認。午後1時からか、まだまだ時間があるので先に新勝寺参拝を済ませることに。


表参道 上町
成田の地酒「長命泉」を扱う藤屋。


表参道 上町
上町の表参道。


表参道 上町
薬師堂前の三叉路。ここから表参道は下りの急坂に。


表参道 幸町・仲町
表参道に並ぶ店、その先に見える新勝寺の三重塔。お気に入りの景観。


表参道 仲町
仲町の表参道。結構な急坂に店が並ぶ。それにしても凄い人出。


表参道 仲町
梅屋旅館と大野屋旅館。人の往来が多いせいか前回とは随分と雰囲気が違う。


表参道 仲町
大野屋旅館の建物は昭和10年(1935年)に建て替えられた木造4階建て。にょきっと突き出た4階部分は特等席だろうか。他に類を見ない建築である。鉄砲漬けを製造販売しており、成田を代表する名産品。


成田山新勝寺総門
成田山新勝寺の入口、総門。


成田山新勝寺仁王門
成田山新勝寺仁王門。天保元年(1830年)建立で、国指定の重要文化財。


成田山新勝寺仁王門
仁王門を潜り抜けて。


成田山新勝寺大本堂・三重塔
成田山新勝寺大本堂と三重塔。ついに成田街道歩きの最終目的、本尊不動明王に参拝を果たす!


成田山新勝寺額堂
せっかくなので境内の諸堂を巡ろう。まずは額堂。今に見る額堂は第二額堂であり文久元年(1861年)の建立。国指定の重要文化財。第一額堂(三升の額堂)は成田屋七代目、市川團十郎の寄進により文政4年(1821年)に建立されたが、昭和40年(1965年)に焼失してしまったという。


成田山新勝寺額堂
額堂には成田屋七代目、市川團十郎の石像が置かれる。


成田山新勝寺光明堂
光明堂は釈迦堂(前本堂)が本堂になる前の旧本堂。つまり現在の大本堂の先々代。元禄14年(1701年)の建立で、国指定の重要文化財。


成田山新勝寺奥之院
光明堂の裏手にある奥之院。成田祇園祭の期間中限定で公開。本尊不動明王の本地仏”大日如来”が安置される。せっかくなのでローソクを買い奥之院内部へ入り大日如来に参拝。奥之院内部は狭い洞窟状になっており、写真を撮ることも憚れたので入口の写真だけで。


成田山新勝寺平和大塔
平和大塔。昭和59年(1984年)弘法大師1150年御遠忌と世界万民の平和を祈願して建てられた。地下には世界を代表する11名の方々のメッセージを納めるタイムカプセルが埋められており、2434年に開封されるという。間違いなく生きとらんな…。


成田山公園にて
せっかくのせっかくなので平和大塔から成田山公園を巡ろうとしたところ、いきなり有難くない出会いが…。スズメバチがせっせと樹液を吸っていた。刺激をしないようにそっと通り抜けよう。


成田山公園雄滝
成田山公園雄滝。別名を”雄飛の滝”といい、栃木県の那須塩原にある”雄飛の滝”を模した人造の滝らしい。


成田山公園雌滝
こちらは雌滝。と言っても水が止めらているようで…。


洗心堂
昭和3年(1928年)水行者の脱衣場として建立された洗心堂。つまり雄滝と雌滝は水行の修行場ということか。この辺り、山中の渓谷にいるのではないかと錯覚する程の景観だ。


成田山公園案内図
成田山公園はこんな感じで滝や池を配置している。


文殊の池
雄滝・雌滝の水が流れ込む文殊の池。この池を第一として3つの池が並ぶ。


竜樹の池
第二の池をなす竜樹の池。


竜智の池・浮御堂
そして最後、第三の池をなす竜智の池。池の中には浮御堂が建つ。ここは紅葉の名所であるが、青緑の時期でありながらも美しい景観だ。

山車・屋台総引きの時間が近づいてきた。そろそろ表参道へ戻ろう。


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成田祇園祭

【2012年7月8日(日)成田街道 成田山新勝寺・寺台宿】
成田祇園祭は毎年7月7日・8日・9日に行われる大日如来の祭礼成田山祇園会に併せ、その直近の金・土・日曜日に開催される。今年の成田祇園祭は7月6日・7日・8日が祭礼日で、本日は祭りの終焉となる8日の日曜日。山車・屋台の総引きが行われる。優雅に佐原囃子や江戸囃子を奏でる山車・屋台を、2本の綱によって100名を超える引手が威勢のいい掛け声とともに牽引。坂の途中から一気に駆け登る様は迫力満点だ。田町・本町・花崎町・仲久町・成田山交道会・東町・上町・囲護台三和会・幸町・土屋が豪華絢爛な10台の山車・屋台を繰り出す。


新勝寺門前を出発する花崎町の稚児行列
新勝寺門前を出発する花崎町の稚児行列。


花崎町の行列
1番手、仲町の坂を上る花崎町の行列。


花崎町の稚児行列
先ほど新勝寺門前で見送った稚児行列も坂を上ってきた。可愛らしい山車の先導役だ。


花崎町の山車
2本の綱で引かれ花崎町の山車が坂を上ってくる。山車の上に乗せられる人形は八幡太郎義家。


山車を引く子供たち
それ!引っ張れ―。格好も様になってます。


花崎町の山車
花崎町の山車。八幡太郎義家を乗せるに相応しい重厚感ある造り。昭和51年の作。


成田山交道会の山車
次に成田山交道会の山車が坂を上ってくる。


成田山交道会の山車
成田山交道会の山車。写真では隠れてしまっているが日本武尊の人形を乗せる。金色の装飾金具が眩しい絢爛な山車。昭和63年、成田山開基1050年祭を記念して製作された。


上町の屋台
そして3番手、上町の屋台が登坂する。


上町の屋台
江戸時代後期、宮大工の手によって造られたという上町の屋台。平成14年に大改修された。総欅造りの彫刻屋台は見事なもの、まさに動く社殿である。


本町の山車
4番手、本町の山車が登坂。


本町の山車
本町の山車は明治35年の作、山車の上に乗るのは平将門を討伐した藤原秀郷(俵藤太)の人形である。


本町の山車
本町の山車にて。


仲之町の稚児行列
仲之町の山車を先導する稚児行列。


仲之町の山車
5番手、仲之町の山車。明治33年の作、成田最古の江戸型山車で神武天皇の人形を乗せる。


土屋の山車01
6番手、土屋の山車が登坂。青の法被が熱気の中にあって清々しい。


土屋の山車
土屋の山車は二代目で平成19年の作、大穴牟遅神(おおあなむちのかみ、大国主神の別名)の人形を乗せる。


幸町の山車
7番手、幸町の山車が登坂。


幸町の山車
幸町の山車は三代目で平成23年作、10台の山車・屋台の中で最も新しい。山車に乗るのは平将門鎮撫祈祷の密勅を寛朝大僧正に授けた朱雀天皇。


囲護台三和会の稚児行列
囲護台三和会の山車を先導する稚児行列。


囲護台三和会の山車
8番手、坂を上ってくる囲護台三和会の山車。


囲護台三和会の山車
囲護台三和会は囲護台・新町・馬橋の3地区で構成。平成20年(2008年)成田山開基1070年祭に合わせ山車を新造した。山車の上に乗る人形は嵯峨天皇。成田山新勝寺本尊の不動明王は、嵯峨天皇の勅命により弘法大師が自ら製作開眼させた尊像である。


田町の山車01
9番手は本年の当番町、田町の山車。


田町の山車
田町の山車は3代目で昭和53年作。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の人形を乗せる。


神輿
田町の山車が過ぎ去った後、坂上から神輿が降りてきたぞ。


神輿と東町の屋台
坂を下ってくる神輿と登坂する東町の屋台がすれ違う。普段は一方通行の狭い坂道、道幅を一杯に使って何とか行き交う。想定内のことなのか、想定外なのか…。やはり神輿が優先のよう。


東町の屋台
最後を飾る東町の屋台。二代目の屋台で昭和53年の作。総欅造り、銅板瓦葺・総漆塗仕上げ、唐破風造りの屋根を持つ威厳ある屋台である。


山車・屋台競演(総踊り)
仲町の坂を登った山車・屋台は西参道から大本堂前に集合、競演(総踊り)が行われる。


山車・屋台競演(総踊り)
競演(総踊り)を待つ本町と成田山交道会の山車。

成田街道最後の宿駅、寺台宿まで足を延ばしたいので祭り見物はここまで。山車・屋台競演(総踊り)を最後まで見たいところだが、泣く泣くこの場を立ち去ることに。東参道を歩いて寺台宿へ向かおう。


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寺台宿

【2012年7月8日(日)成田街道 成田山新勝寺・寺台宿】
成田街道の終点となる寺台宿。中世に千葉氏家臣馬場氏が居城とした寺台城の台地南麓に寺台宿はあり、小規模ながらも城下町として町は形成されてきたのだろう。町並みは成田方から下宿・中宿・上宿と続き、上町から香取鹿島道が北東方向の佐原方面へ延びる。東側に流れる根木名川に寺台河岸(黒川・山小・山六の三河岸総称)を設け、銚子・江戸方面との舟運で発展した。江戸時代中期から成田山参詣が庶民の人気を得て、純農村に過ぎなかった隣村の成田村が発展し門前町を形成、自然と宿駅としての機能も移っていったらしい。弘化3年(1846年)成田村と寺台村の間で人馬継立の権利をめぐる紛争が生じ、半月交代制にすることで決着している。こういった歴史的背景があるためなのか、下風に立つことを潔しとしなかったのか、近隣にありながら寺台は成田祇園祭に参加していない。

成田街道 寺台宿


新勝寺門前 本町
新勝寺門前から東参道へ。


東参道 本町
東参道は本町と田町の境で二股に分かれる。ここは写真奥方向の北側ルートを辿ろう。


東参道 田町
成田市民ホール前の東参道。往来する人が随分と減ってきた。


東参道 田町
田町の東参道。左手台地中腹は白髪毛(しらばっけ)墓地で、ここに三橋鷹女の墓と句碑があり、ちょいと寄り道。


三橋鷹女の句碑
三橋鷹女の句碑と墓。句碑には「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」と刻む。三橋鷹女は昭和期の女流俳人で、成田市田町の出身。中村汀女・星野立子・橋本多佳子と共に4Tと称された。


三橋鷹女の像
前回の歩き旅で撮影した三橋鷹女の像。表参道の薬師堂付近にある。


東参道 田町・寺台の境
東参道の名取亭入口、神崎商店のあるここが田町と寺台の境をなす。


東参道 寺台下宿
寺台下宿の東参道。表参道の賑わいとは裏腹に人通りもほとんど無く閑散とした様子。


永興寺
永興寺と書いて”ようこうじ”と読む。徳川二代将軍秀忠の剣術指南役で小野派一刀流開祖小野忠明とその子の二代目忠常の墓が境内にある。


永興寺門前大日如来の小堂
永興寺門前にある大日如来の小堂。


東参道 寺台中宿
寺台中宿の東参道。人通りが全く無くなり、車がたまに通る程度。歩く者にとっては有難いが、ちょっと寂しい。


東参道 寺台上宿
寺台上宿を行く東参道。


寺台祭礼献灯
寺台祭礼献灯。寺台は成田祇園祭とは一線を画し、保目神社例大祭(7月下旬開催)で別に屋台を引き回す。かつての寺台村と成田村の因縁を感じてしまう。


保目神社
寺台の鎮守、保目神社。


寺台上宿
中沢屋のある三叉路が寺台宿の北端。おそらく東参道の起点となる場所で、成田街道の終点と考えてよいだろう。。江戸から船でやって来た成田詣の人々は寺台で下船し、東参道を歩いて新勝寺に向かった。この三叉路を右折する道は香取鹿島道で、曲がってすぐに黒川河岸跡(吾妻橋付近)がある。


寺台上宿
中沢屋の三叉路より香取鹿島道を望む。香取鹿島道は成田と香取・鹿島の両神宮を繋いだ。


寺台城址入口
寺台城址入口。せっかくなので城址を少し見て回ろうかと思ったが、入口で雑草が生い茂るこの状況。虫除けスプレーを持ってきてないし、やめとくのが賢明と判断…。


寺台上宿と寺台城址
吾妻橋より寺台上宿を望む。裏手の台地が寺台城址。


根木名川・黒川河岸跡
寺台宿に沿って東側を流れる根木名川。写真右手川岸が寺台河岸の一つ、黒川河岸跡。ここから米・薪・炭・野菜等を積み出し、江戸・銚子方面から醤油・魚・塩・肥料等が運び込まれ、河岸問屋の土蔵が並び賑わった。


根木名川・山小河岸跡
山小河岸跡付近の根木名川。今となっては河岸場の賑わいを想像するのも難しい。


黒平まんじゅう本舗・菜花の里本店
寺台に来た記念に何か買いたかったので、寺台宿から少し足を延ばして黒平まんじゅう本舗・菜花の里本店へ。

菓匠 菜花の里
http://www.saikanosato.com/

黒平まんじゅう
黒平まんじゅうー買いましたー♪


東参道 田町
東参道を戻り再び田町へ。


囲護台三和会の山車
仲町の坂まで戻ると、総踊りを終えた山車が帰ってゆくところに遭遇。


幸町の山車
まだまだ祭りの賑わいは続く。


土屋の稚児行列
稚児行列さんも帰ってゆく。


土屋の山車
稚児行列に先導されて山車も後に続く。


花崎町の山車
総引きの先頭を務めた花崎町の山車。


成田山交道会の山車
東日本大災害被災地復興祈願。成田のこの活気が被災地に届け!


【成田街道歩き 第7日目】JR成田駅→成田山新勝寺→寺台宿→JR成田駅
成田街道歩きはこれにてお終い!

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成田街道を歩き終えて

寒風が吹きつける2012年2月、葛飾区新宿から成田街道を歩き始め、猛暑の到来を告げようとする7月初旬に成田山新勝寺に到着。季節の移り変わりは実に早い。考えてみると、僅か約53kmの成田街道を踏破するまでに5ヶ月もの月日が流れてしまったわけだ。当初の成田街道は別称を佐倉道と言うように、佐倉藩をはじめとする北総地域諸藩の参勤交代で主に利用された。江戸中期から成田山参詣が盛んになって庶民が多く往来するようになり、成田は門前町を形成し、信仰の道へと変化してゆく。その歴史を物語るように成田山と刻まれた石標が沿道に点在し、道中には柴又帝釈天をはじめ、真間山弘法寺や中山法華経寺、葛飾八幡宮等の大きな神社仏閣も多い。佐倉にあっては城下を巡るのに丸1日以上を費やす程、下総随一の大藩である佐倉藩の面影を肌身に感じて楽しめ、成田街道は歩いていて見所に絶えない。首都圏の旧街道だけあって交通の便も非常に良いのだが、踏破に5ヶ月もの月日を要した理由であろう。


帝釈天山門と参道

寅さん記念館

小岩市川の渡し跡

弘法寺山門と小林一茶句碑

不知八幡森

葛飾八幡宮・神楽殿大絵馬

鬼越の旧商家

中山法華経寺参道

中山法華経寺大祖師堂

船橋宿

成田山道輪王道標

前原の庚申塚

前原の御嶽神社

大和田長妙寺・八百屋お七の墓

加賀清水

ユーカリが丘

臼井城址より望む印旛沼

雷電為右衛門顕彰碑

江原刑場跡

佐倉城址姥が池

佐倉城址姥が池で出会った野良猫

佐倉城下・旧上町

ひよどり坂

佐倉武家屋敷

佐倉武家屋敷

旧堀田邸

佐倉順天堂記念館

根古谷の双体道祖神

本佐倉城址

酒々井宿の旧商家

酒の井

成田街道旧道 中川

成田街道旧道 大崎の大坂

伊篠の松並木跡

成田山新勝寺表参道夜景

成田祇園際

成田祇園際

成田山新勝寺表参道

成田山新勝寺表総門

新勝寺三重塔

寺台宿


【 成田街道 旅の記録 】

成田街道の概要

1日目(2012/2/5)新宿→小岩市川渡し MAP

2日目(2012/3/4)小岩市川渡し→八幡宿→船橋宿 MAP

3日目(2012/4/15)船橋宿→大和田宿 MAP

4日目(2012/5/6)大和田宿→臼井宿 MAP

5日目(2012/5/12)臼井宿→佐倉城下 MAP

6日目(2012/6/24)佐倉城下→酒々井宿→成田山新勝寺 MAP

7日目(2012/7/8)成田山新勝寺・寺台宿


【 参考文献 】
・さいとうはるき著(2002年)『房総の歴史街道絵本』崙書房出版
・川田壽著(2001年)『成田参詣記を歩く』崙書房出版
・『水戸佐倉道文間延絵図』児玉幸多監修・山本光正解説(1990年),東京美術
・小牧美知枝「佐倉城跡 -発掘から見た幕末の武家屋敷-」
・酒々井町郷土研究会・酒々井町教育委員会(1993年)「酒々井の伝説を訪ねて」
・広報なりた「江戸や銚子を結ぶ水運の要所-寺台河岸跡」


【 参考サイト 】
JLogos
人力(じんりき)- 旧街道ウォーキング
千葉古街道歴史散歩 - ちばこく 千葉国道事務所
区民がつくる葛飾百科
五街道の旅
船橋市ホームページ
佐山自然誌通信
夜霧の古城
大和田の昔むかし
局長のページうすい
佐倉市民ハイキングクラブ
大本山成田山


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函館山

時は少々遡る。成田街道歩きの記事を書き終えたところで、今年6月に旅した函館のことを書こう。私は函館の特異な地形と和洋の新旧建築が入り混じった町並みが好きで、年に数回は訪れている。戊辰戦争最後の舞台にもなった場所で、歴史の浅い北海道にあって幕末史を垣間見れる町でもある。標高334mの函館山から望む夜景は広く知られ、100万ドルの夜景と称えられる程に素晴らしいものだ。私も函館山には過去に数回登っているが、山頂へはバスかロープウェイでしか行ったことがない。そこで少々血が騒いだ。歩いて登れんのかと…。観光案内所等で尋ねればすぐにわかることだろうが、それでは面白くない。函館駅に降り立った私は、ただひたすら函館山を目指して歩いた。

函館山・元町


函館山
豊川町の赤レンガ倉庫群付近より函館山を望む。函館山の頂を目指して歩こう。


豊川稲荷神社
まずは豊川稲荷神社で大願成就?を祈願。豊川稲荷神社は文久年間(1861年~1864年)の創建。当時この辺りは新築島と称していたが、この神社が鎮座して豊川町という地名になった。


赤レンガ倉庫群
せっかくなので赤レンガ倉庫群に寄り道。


赤レンガ倉庫群と函館山
赤レンガ倉庫群と函館山。幕末から函館は横浜・長崎と共に国際貿易港として発展、明治40年頃に建築された赤レンガ倉庫群が往時の面影を留める。現在はベイエリアとして赤レンガ造りの飲食店や土産物屋が並ぶ函館有数の観光スポットだ。


八幡坂と函館山
数多くある函館山山麓の坂道。とりあえず八幡坂から函館山方向へ上ってみよう。


八幡坂
八幡坂より函館湾を望む。


遺愛幼稚園
八幡坂上にある遺愛幼稚園。明治28年(1895年)遺愛女学校併設の幼稚園として開設された。明治40年(1907年)の大火で類焼し、現在の建物は大正2年(1913年)に再建されたもの。


ハリストス正教会
遺愛幼稚園の隣、ハリストス正教会。安政6年(1859年)初代ロシア領事館の付属聖堂として建立、明治40年(1907年)遺愛幼稚園と同じく大火によって類焼し、大正5年(1916年)に再建された。ロシア風ビザンチン様式という建築らしい。


ハリストス正教会と函館山
ハリストス正教会と函館山。教会内部は一般公開されており、恐縮しつつ内部見学。内部の撮影は禁止なので写真は無いが、厳かな雰囲気がとにかく凄い。詳しくはこちらで↓

函館ハリストス正教会


カトリック元町教会
こちらはカトリック元町教会。元町は教会がとにかく多い。この教会は安政6年(1859年)に仮聖堂が建てられたことに始まり、以後3度の大火で類焼。現在の建物は大正13年(1924年)ゴシックスタイルの耐火建築で再建されたもの。


二十間坂
二十間坂。道幅二十間(約36メートル)に坂名の由来がある。函館は大火が多く発生したため、防火のために道幅を広くしたという。


東本願寺函館別院
ニ十間坂沿いにある東本願寺函館別院。元町の教会群の中にあって異端な感じ。始まりは松前専念寺の一寺として木古内にあり、宝永7年(1710年)函館(函館市弥生町、現在の弥生小学校付近)へ移転。安政5年(1858年)本願寺箱館御坊と改名し、明治9年(1876年)本願寺別院となった。明治12年(1879年)の大火で焼失、現在地に移された。現在の建物は大正4年(1915年)の建築で、現存する鉄筋コンクリート造りの寺院としては日本最古という。


二十間坂の女神像
二十間坂上にある女神像。少々違和感があったので調べてみるとこの女神像、平成22年(2010年)マルキタ北村水産が店頭に設置したもので、周辺の景観にそぐわないと地元住民から苦情が多数寄せられ、市の行政指導もあって店の屋上に撤去されていたらしい。何ゆえ再び降臨できたのか…。


大三坂
カトリック元町教会と東本願寺函館別院の間を通る大三坂。その昔、坂の入口に大三という屋号の宿があったことに坂名の由来がある。


チャチャ登り03
大三坂上から小径の坂道を登り函館市街を望む。この小径の坂道は”チャチャ登り”と呼ばれ、”チャチャ”とはアイヌ語でお爺さんの意味。急坂なために前屈みで腰を曲げて登る様が老人のようだったことから、そう名付けられたという。


チャチャ登り坂上より函館山を望む
”チャチャ登り”坂上より函館山山頂を望む。函館山へ近づくにはこの辺りが限界。近いようで遠い函館山、元町辺りから徒歩で登る術はなさそうだ。


函館山登山口
”チャチャ登り”から函館山登山口へ移動。登山道と言ってもアスファルトに舗装された車が登るための道。ここから観光バスが通り抜ける横を登る気にもなれず…。まずは登山口に鎮座する函館護国神社を参拝しつつ、どうするか考えよう。


函館護国神社
函館護国神社。箱館戦争終結後に新政府方の戦没者を祀る招魂場として設けられたのがはじまり。


函館護国神社の新政府軍戦没者墓地
函館護国神社の新政府軍戦没者墓地。墓碑には薩藩をはじめ弘前・大野藩・備後福山藩等の文字が多く見られる。


函館護国神社の新政府軍戦没者墓地
日本のために日本人同士で戦い、函館に散った兵士たちは、今の日本を見て何を思うのだろう。多くの犠牲があって日本の平和が築かれていることを忘れてはならない。


函館山ロープウェイ
人間諦めが肝心。函館山へ歩いて登るのは困難と判断、潔く往復チケットを買ってロープウェイに乗車。函館山山頂の展望台へ来てしまった…。つづく。


撮影日:2012年6月13日(水)
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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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