fc2ブログ

函館山旧登山道

函館山は日清戦争後の明治31年(1898年)、ロシアを仮想敵国として津軽海峡や函館港の防衛を目的に要塞化の建設がはじめられ、明治35年(1902年)に完成。その2年後に日露戦争が開戦する。以来、約50年に渡って軍の要塞地となり、一般人の入山はもちろんのこと、写真撮影やスケッチも厳しく禁止され、地形図からも消された。第二次世界大戦終戦後の昭和21年(1946年)、要塞は解体され一般人に入山を開放、昭和28年(1953年)函館山の山頂に展望台が設置され、その5年後に函館山ロープウェイが開業した。現在の登山道路は昭和25年(1950年)起工、山頂まで開通したのは昭和29年(1954年)で、展望台設置の翌年のことである。

元町方面から函館山へ登るルートは2つ。前述の登山道路と旧登山道と呼ばれる道である。函館山麓の元町辺りを散策しているときには、特に案内板や道標を見つけられず、旧登山道の存在に気付くことは無かったが、頂上にあるつつじ山駐車場に行ってみたところ、旧登山道の入口を発見。駐車場に設置される函館山散策コース案内図を見てみると、函館山には元町方面からの旧登山道をはじめ、南側の立待岬方面と北側の船見町方面からの登山道があり、つつじ山・千畳敷・汐見山・地蔵山・観音コース等、多くの散策路があることがわかった。これらの散策路は要塞当時に使われていた軍用道路を整備したもので、山中では砲台跡や観測所等の遺構を見ることができる。

明治20年代の函館山 現在の函館山
左写真は明治20年代の函館山(函館市設置の解説板より)。要塞化される前の姿である。山麓に山林の一帯があるが、山腹から山頂にかけては山肌が見えており、”はげ山”だったことがわかる。江戸期から燃料や建築資材に用いるため山林を伐り尽くしてしまったことが原因のよう。右写真は今回撮影した現在の函館山、偶然にもほぼ同じアングルだったことに少々驚いた。比較してみると昔は山頂が尖っていたが、現在は展望台があって丸みを帯びた感じ。山頂から麓にかけて木々が鬱蒼と生い茂っている。

函館山旧登山道


函館山展望台より函館市街を望む
函館夕景。17時過ぎなのだが、6月だけあって空はまだ明るい。あと2時間も待てば綺麗な夜景を見ることができるだろう。山頂を巡って暇つぶしするか。


函館山展望台より立待岬を望む
函館山展望台より谷地頭・立待岬方面を望む。


函館山展望台
函館山展望台。函館山は13ある山の総称で、最高峰の御殿山(334m)に展望台が設置される。


NHK函館山テレビ放送所・HBCテレビ送信所
頂上には展望台の他、NHKや北海道民法各社のテレビ送信所がある。


函館山の碑
函館山の碑。記念撮影のスポット。


函館山展望台・つつじ山駐車場の連絡路
展望台からつつじ山駐車場へ行ってみよう。


つつじ山駐車場付近の石仏群
つつじ山駐車場へ向かう途中にある古そうな石仏群。北海道にあっては珍しい光景。


つつじ山駐車場
つつじ山駐車場。17時~22時まで自家用車は交通規制で入山できないため1台の駐車もない。


函館山旧登山道入口
そして、駐車場で発見した旧登山道入口。ロープウェイの乗車券、往復で買ってるし…。何て迷っているうちに日が暮れてしまう。行こう!


旧登山道七合目
旧登山道入口辺りは七合目らしい。


旧登山道六合目
あっという間に六合目へ。


旧登山道六合目より山頂を望む
六合目より山頂を望む。


旧登山道五合目付近
よく整備された旧登山道。非常に歩きやすい。


旧登山道五合目
五合目。ここから立待岬方面へ至る千畳敷コースが分岐。


クロツグミ
地面をぴょんぴょん飛び跳ねる見慣れぬ鳥がいた。何だろうと調べてみたらクロツグミ。函館山では5月中旬から7月中旬にかけて観察できる野鳥だという。


旧登山道四合目付近
四合目付近。薬師山へ至る薬師山コースが分岐する。


野鳥観察小屋
四合目と三合目の中間にある野鳥観察小屋。


旧登山道御殿山溶岩
三合目付近にある御殿山溶岩。函館山は約100万年前の火山活動で隆起した火山なのだ。とは言っても今は死火山の部類で、この山が噴火していたなんて到底信じられない。


旧登山道二合目
二合目付近。つづら折れに旧登山道を降る。


スギ林と旧登山道
スギ林と旧登山道。元来、北海道にスギは自生しておらず、函館山に見られるスギは主に文化5年(1808年)から7年かけて植樹されたもの。その後も度々苗木が植えられたという。


旧登山道一合目付近
一合目の手前で函館山登山道路と交差。旧街道の峠越えでよく見る光景だ。


旧登山道一合目
一合目。旧山道入口の標識が立つ。


函館要塞当時の貯水槽
一合目と旧登山道口の中間にある異様な物体。函館要塞当時の貯水槽だという。


旧登山道口付近
山林を抜けて。


青函連絡船海難者殉難碑
旧登山道口付近にある青函連絡船海難者殉難碑。昭和63年(1988年)青函トンネルの開通に伴い廃止された青函連絡船、80年の長きに渡って本州と北海道を結んだ鉄道連絡船だが、戦時の空爆や台風等によって多くの船が沈没し、尊い命の犠牲も伴った。それにしても青函連絡船廃止から24年もの年月が流れたのか…。


ふれあいセンター
函館山管理事務所ふれあいセンター。旧登山道入口にある。


函館山旧登山道口
ふれあいセンター入口で旧登山道の入口ともなる場所。護国神社やロープウェイ乗り場辺りを散策していても、この存在に気付くことはなかった。そもそも函館山を歩いて登ろうなんて奇特な観光客はそういないからだろう。


函館山ロープウェイ山麓駅
再び函館山ロープウェイ山麓駅へ。


函館山ロープウェイ
山頂へ向かうゴンドラ。


南部坂
南部坂より函館市街へ戻ろう。


函館市電十字街停留所と函館山
函館市電十字街停留所と函館山。


赤レンガ倉庫群と函館山の夜景
赤レンガ倉庫群と函館山。頂上では100万ドルの夜景が綺麗に見えていることだろう。


ベイエリア夜景と函館山
函館ベイエリア夜景。ライトアップされた赤レンガの建物に異国情緒が漂う。


ベイエリア夜景と函館山
函館ベイエリア夜景。一人で来るところじゃないね…。


函館山ロープウェイ往復乗車券
往復乗車券を買ったにも係らず、夜景も見ずに函館山を徒歩で降りてやったぜぇ。しまちゃん、ワイルドだろぉ~?


撮影日:2012年6月13日(水)
FC2ブログランキング
スポンサーサイト



テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

苫前ベアーロード

今年の4月、秋田の八幡平クマ牧場で経営者のずさんな管理体制から6頭のヒグマが脱走し、2名の従業員が襲われて死亡、悲惨な事故だっただけに今だ記憶に新しい。脱走したヒグマは全頭射殺されたことはテレビや新聞の報道で知るところだが、一部週刊誌によるとヒグマはろくに餌を与えられておらすに飢えていたといい、解体したヒグマの胃袋から遺体の一部や衣服が出てきたともいう。そんな凄惨な事実を知ったらしい我が盟友のyangyiさんが、ある日唐突に質問をしてきた。

「クマが人間を食う話、知ってるか?」

話をよくよく聞いてみると、八幡平クマ牧場の事件を知ったyangyiさんはネットで人がヒグマに襲われた事件のことを調べたらしく、行き着いた所が三毛別羆(さんけべつひぐま)事件だったという。今度、北海道に行ったときに事件現場へ行って記事に書いてくれよと頼まれた。オッケーとローラばりに軽い返事をした私、今年6月に機会は早くも訪れる。函館山散策の翌日、鉄路で実家のある旭川へ移動。明くる日に父親を案内人にして、三毛別羆事件の現場である苫前町へ向かう。そんな経緯あってこの記事を書くことになった。

旭川から北西へ直進距離で約80km、天売・焼尻島を望む日本海海岸に苫前町は位置する。子供の頃、度々海水浴に訪れた懐かしい場所だ。苫前の海岸から国道239号(霧立国道)を内陸へ5km程入った所に古丹別の町があり、ここから更に道道1049号を南下すること約18km、三渓(旧 三毛別)の六線沢と呼ばれる山間が羆事件現場である。古丹別から羆事件現場までの道道1049号はベアーロードと名付けられ、沿道の看板やシャッター等には可愛らしい熊さんのイラストが描かれる。

旧三毛別・六線沢広域図


大正4年(1915年)12月、事件は三毛別開拓民の家が点在する三毛別・六線沢で起きた。冬眠に適当な穴を見つけられずその機を逸したヒグマは”穴持たず”と呼ばれ、厳冬期でも餌を求めて活動するという。山地は積雪に覆われ、川は氷結する12月の北海道、まともな餌にありつけるはずもない”穴もたず”は、空腹から狂暴化し、2日間にわたって六線沢の人家を襲った。死者7名(胎児1名を含む)、重傷者3名(後に後遺症で1名死亡)が殺傷された日本史上最悪といわれる獣害事件である。以下に苫前町郷土資料館とウィキ等より得た情報で事件概要を時系列に記し、当時の六線沢にあった開拓民家の位置を地図に示す。

旧三毛別・六線沢詳細図

[大正4年11月初旬]
池田富蔵宅に巨大なヒグマが出現。被害は家にあったトウモロコシのみ。

[11月20日]
ヒグマが池田富蔵宅に再び現れる。ヒグマを仕留めようと富蔵は二人のマタギを呼び寄せて待ち伏せする。

[11月30日]
ヒグマが三度現れ、富蔵とマタギ二人はヒグマを射撃したが、仕留めるには至らず。

[12月9日]
太田三郎(42)宅にて主人・三郎と同家の寄宿人・通称オドこと長松要吉(59)の留守中、家にいた内縁の妻・阿部マユ(34)と預かり児・蓮見幹雄(6)をヒグマが襲う。オドが帰宅し幹雄の死体を発見、マユはヒグマに戸外へ引き摺り出され行方不明に。

[12月10日]
早朝、斉藤石五郎(42)は事件報告に古丹別の警察と苫前村役場へ、明景安太郎が幹雄の実家(力昼村)と石五郎の子を預かる親類宅(鬼鹿村)へ向けてそれぞれ発つ。30名程で阿部マユの捜索隊を結成、太田三郎宅付近の山中でマユの遺体を発見する。この時、遺体を奪還しようとヒグマが現れたが、銃の手入れが悪く一挺の銃が発砲したのみでヒグマは逃走。その夜、太田三郎宅にて通夜が行われる中、遺体奪還にヒグマが再度襲来するも、必死の抵抗で人的被害はなくヒグマは逃走した。

ヒグマは明景安太郎(40)宅へ向かい襲撃。明景家の三男・金蔵(3)をはじめ、ここに避難していた斉藤石五郎の妻タケ(34)と四男の春義(3)を殺害。タケの胎児は腹から引き摺れ出され、発見から1時間後に死亡した。明景安太郎の妻・ヤヨ(34)と四男・梅吉(1)、斉藤石五郎の三男・巌(6)、家番をしていたオドが重傷。巌の負った傷は深く20分後に死亡した。

深夜、明景安太郎が鬼鹿村温根に住む山本兵吉へ加勢を要請。兵吉は若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄」の異名を持つ伝説のマタギである。

[12月11日]
六線沢の全住民が三毛別分教場に避難。重傷者は辻橋蔵宅に収容。

[12月12日]
羽幌分署長・菅警部を隊長にヒグマ討伐隊を組織、三毛別村村長・大川與三吉宅を本部とする。人的被害の拡大抑止のため、下流域にヒグマが侵入しないよう氷橋(現 射止橋)周辺の三毛別川右岸を防衛線として警備。

夜から明朝にかけ、明景安太郎宅で犠牲者の遺体をおとりに待ち伏せするも、ヒグマは警戒心から家に近づかず作戦失敗。

[12月13日]
山本兵吉が鬼鹿村より三毛別村へ入る。
旭川から陸軍第7師団歩兵第28連隊の将兵30名が出動。

夕暮れ時、ヒグマが六線沢に現れ、中川孫一・数馬アサノ・松田林治・松村長助・中川長一・吉川輝吉・辻橋蔵・松浦東三郎の8戸がヒグマの侵入を受ける。

夜、防衛線としていた氷橋付近の三毛別川左岸にヒグマが出没。一斉射撃を加えたが仕留めるには至らず。
[12月14日]
明朝、昨夜のヒグマ出没地点を捜索したところ足跡と血痕を発見。これを頼りに討伐隊は追跡を開始。いち早く追跡に山へ入っていた山本兵吉は山麓の討伐隊に気を取られるヒグマを発見。風下から気配を殺してヒグマに近づき、二発の銃弾で仕留めた。一発目はヒグマの心臓、二発目は眉間と確実に急所を弾丸は貫いていたという。

仕留めたヒグマは年齢7~8歳の雄で体長二・七メートル、体重三四〇キロ。黒褐色に金毛が混じり、胸のあたりに袈裟がけの白斑があったと云われる。ヒグマの死体を三毛別まで運んでくる途次、天候が急変し猛吹雪となった。ヒグマを仕留めた後には強風が吹き荒れるという。羆風(くまかぜ)や羆嵐(くまあらし)と呼ばれる。

事件後、六線沢から開拓農家は次々に去り、翌年暮れには辻家が残るだけになったという。



苫前町郷土資料館
まずは苫前町郷土資料館へ。三毛別羆事件についての資料・展示が豊富で事前学習にはもってこい。


苫前町郷土資料館
資料館展示室。三毛別羆事件をはじめ苫前の歴史を今に伝える資料館だ。


苫前町郷土資料館
展示に見入る案内人の父親。


苫前町郷土資料館
圧倒的にヒグマに関する展示が多い。


苫前町郷土資料館
三毛別羆事件を再現する実物大の展示。大人の男性(長松要吉ことオドか?)がいることから、おそらく明景宅をヒグマが襲ったときの再現だろう。


北海太郎
日本最大のヒグマ”北海太郎”の剥製。和55年5月6日、羽幌町内築別の通称シラカバ沢で射止めれれる。推定年齢18歳の雄で体長二・四メートル、体重五〇〇キロ。仕留めたのは辻優一氏と大川高義氏である。高義氏の父は102頭のヒグマを射止めた熊討ち名人・大川春義氏で、三毛別羆事件当時の三毛別村村長・大川與三吉のご子息である。事件当時7歳だった。


山本兵吉肖像写真
山本兵吉の肖像写真。兵吉は日露戦争に従軍、兵役を終えた後も常に軍帽を被り、深酒しては喧嘩騒ぎを起こす粗暴な男だったというが、写真の柔和な笑顔を見る限りそんな印象は受けない。小説「羆嵐」の創作による人物像なのかもしれない。熊撃ちの腕は一級品で、生涯に射止めたヒグマは300~400頭とも伝わる。戦利品のロシア製ライフルを熊撃ちに愛用したといい、この写真に見えるライフルはそれだろうか。左手に小熊を抱えているのが、いかにも伝説のマタギらしい。


道の駅・風Wとままえ
事前学習を終えて、まずは空腹を満たすべく”道の駅・風Wとままえ”へ。

北海道・北の道の駅 風Wとままえ
http://www.hokkaido-michinoeki.jp/data/94/each.htm


レストラン風夢にて
道の駅内にあるレストラン風夢で苫前産の甘えび丼を食らう。どうですか、このプリッぷりの新鮮な甘えび。美味そうでしょ。


苫前港
苫前港を望む。さっき食べた苫前産の甘えびは、きっとここで荷揚げされたんだろう。


苫前の風車群と海岸
苫前の風車群と海岸。


古丹別・苫前ベアーロード起点
苫前市街から古丹別へ移動。ここが国道239号(霧立国道)から道道1049号(ベアーロード)が分岐点する交差点。写真奥に延びる道がベアーロード。


古丹別にて
ベアーロード起点に立つ案内看板。


古丹別市街
古丹別の町並み。かつては羽幌線(昭和62年廃止)が通り、林業によって賑わったのも今は昔。道道沿いに店が軒を連ねるが、シャッターを閉めた店が多い。


道道1049号(ベアーロード)・九重地区
車窓から。九重地区のベアーロードを行く。北海道らしい直線道。


三渓の集落
三渓(旧三毛別)の集落。数軒の家と三渓へき地保健福祉館、旧三渓小学校の体育館が残るのみ。かつて林業と農業で栄えた集落も今や昔。


旧町立三渓小学校
旧町立三渓小学校。明治40年(1907年)三毛別御料特別教育所として開校し、昭和22年(1947年)三渓小学校に改称。長らく三渓(旧三毛別)地区に住む子供たちの学び舎だったが、平成2年(1990年)に廃校となり、80年以上に渡る歴史に幕を下した。廃校時の在校児童は僅か4名だったという。現在は入口の門柱と体育館、旧校舎の一部らしき建物が残る。


旧体育館に掲げられる三渓小学校校歌
旧体育館に掲げられる三渓小学校の校歌。

朝夕仰ぐ 山脈に
大きな希望 わきあがる
みのりの沃野 先人の
労苦をここに しのびつつ
ともに学ばん この窓に

山野を駆け巡る子供たちが目に浮かぶ北海道の開拓地らしい歌詞だ。今、この校歌を歌える方はどれくらいおられるのだろうか。


三渓神社
三渓地区に鎮座する三渓神社。


熊害慰霊碑
境内にある熊害慰霊碑の碑文を神妙な面持ちで読む父親。熊害慰霊碑は大川春義氏により建立、羆事件の犠牲者7人の名を刻む。阿部マユは太田姓になっており、事件後に太田三郎が正妻としたのだろうか。大川春義氏は羆事件当時7歳の少年だったが、惨事を目の当たりにして熊退治を志し、21歳にして狩猟の免許を得て熊撃ちになった。羆事件から62年後の昭和52年(1977年)、目標としていた100頭目のヒグマを仕留めて一生の悲願を成就、熊害慰霊碑を建立したという。


三渓の集落
三渓の集落を後にして。


射止橋
ルペシュペナイ川と三毛別川合流地点の少し下流、討伐隊がヒグマに一斉射撃を加え傷を負わせた旧氷橋付近。現在はその故事にちなみ射止橋という名の橋が架かる。氷橋とは木材で作った骨組みに、枝葉を敷き詰めて雪で覆い、水をかけ凍結させて路面を作る冬季限定の仮橋のこと。馬ぞりの通行にも十分に耐える頑丈なものだったらしい。


ヒグマ討伐本部・大川與三吉宅跡
事件当時、ヒグマ討伐本部が置かれた三毛別村村長・大川與三吉宅跡。射止橋付近、三毛別川の右岸辺り。家は跡形も無く、田んぼが広がる。


三毛別川
射止橋より三毛別川の下流方向を望む。写真の左岸辺りが討伐隊によるヒグマ被弾地点と思われる。


松浦東三郎宅跡付近
三毛別川左岸、射止橋の袂に建つ倉庫小屋。射止橋の由来が書かれている。ここが六線沢の最下流(北端)部で入口、松浦東三郎宅跡付近にあたる。


浪華橋
吉川輝吉宅跡付近、ルペシュペナイ川に架かる浪華(なにわ)橋。何ゆえ”なにわ”なのだろうと調べてみたら、羆事件から31年後の昭和21年(1946年)、難波開拓団と称する6軒が荒地と化した六線沢に入植したらしい。この橋の名の所以だろう。


中川孫一宅跡
中川孫一宅跡。一面に田んぼが広がるのみで、建物跡らしき遺構は見られない。


三毛別羆事件復元現地
三毛別羆事件復元現地へ。


三毛別羆事件復元現地
事件当時の開拓民が住んだ家と、惨劇を起こした実寸大と思われるヒグマを復元展示。家と呼ぶよりはほったて小屋と表現した方が正確な感じ。当時の厳冬期は氷点下30度位はざらにあっただろうから、こんな粗末な家で寒さを凌いでいた当時の開拓民の労苦は想像に絶する。現代人にとっては到底信じ難い事実なのだ。


三毛別羆事件復元現地
ヒグマの体長は二・七メートルだったというから、作り物とはいえ実物大を目の当たりにすると、その大きさには驚愕する以前に恐怖さえ覚える。身長171センチの私と比較するとこの通り、できれば”ハマの羆”の異名を持つyangyiさんと比較したいところ。こんな化け物が突然目の前に現れたら、確実に死を覚悟するだろう。


三毛別羆事件復元現地
復元開拓民家の内部にて。来訪者向けに感想ノートが置かれ、ここを訪れた方々の様々な思いが綴られる。


三毛別羆事件復元現地
三毛別羆事件復元現地にて。


道道1049号・六線沢
ヒグマに注意しつつ、三毛別羆事件復元現地よりもう少し奥へ入ってみよう。


ルペシュペナイ川
道の横を流れるルペシュペナイ川。


道道1049号・六線沢
この道の向こうに六線沢最奥に居を構えた開拓民、金子富蔵宅があった。


道道1049号・六線沢
ヒグマに出くわしてはたまらんと、急ぎ足で復元現地に戻る。車が見えて一安心。


三毛別羆事件の一部始終は小説やテレビ等に取り上げられ、ネット上でもウィキペディアをはじめ、ホームページやブログに書かれており、その事件について知る方も多いだろう。私は以前に吉村昭著の小説「羆嵐」を読み、その凄惨な事実を知って苫前町三渓を訪れ、六線沢の事件復元現地を見学したことがある。そんなことも忘れかけていた今年6月、偶然にもyangyiさんの一言で再訪することになり、この記事を書くに至った。三渓の地を二度訪れた私であるが、実際の事件現場となった太田三郎宅跡や明景安太郎跡は確認できていない。いつの日か自慢のバイクで三毛別羆事件現場に訪れるであろうyangyiさんからの後報を待ちたい。

撮影日:2012年6月15日(金)
FC2ブログランキング

テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

宗吾参道①

佐倉宗吾という名をご存じだろうか。この御仁、江戸時代前期の公津村(承応2年に台方・下方・江弁須・大袋・飯仲の5か村へ分村し消滅)名主で、正式な名を木内惣五郎という。佐倉宗吾は佐倉藩領の苛政に苦しむ農民を代表し、承応元年(1652年 *承応2年との説も)四代将軍徳川家綱に農民の窮状を伝えるべく直訴。当時は将軍への直訴は死罪とされ、翌年の夏に佐倉宗吾は磔、四人の子供らも打首になったという。福沢諭吉は「学問のすゝめ」にこう書いている。「余輩の聞く所にて、人民の権義を主張し、正理を唱て政府に迫り、その命を棄てて終をよくし、世界中に対して恥ることなかるべき者は、古来唯一名の佐倉宗五郎あるのみ」と。

宗吾の命を賭した訴えで佐倉藩領の苛政は改められたといい、当時の佐倉藩主堀田正信は後の万治3年(1660年)、幕政批判と無断で佐倉へ帰城した罪から改易となった。磔柱を背負った血まみれの宗吾が度々佐倉城に現れ、その怨念が藩主を改易に追い込んだのだと、庶民は口々に噂したという。千葉県民なら宗吾霊堂の名をを知っている方も多いと思うが、ここに祀られるているのが佐倉宗吾その人であり、境内には宗吾とその子供たちの墓が建つ。

明治初期に作成された関東平野迅速測図を見ると、成田街道を分岐して宗吾霊堂へ至る主な参道入口は四つあることがわかり、その分岐点は酒々井町上岩橋と伊篠の松並木跡付近に2ヶ所、成田市並木町にある。旧参道を下記地図に示してみたので参照してほしい。今回は成田市並木町の一本松跡から旧参道を歩いて宗吾霊堂を参拝し、下岩橋・柏木を経て上岩橋で成田街道に至る旧参道を辿ってみたい。

宗吾参道


宗吾参道入口・一本松跡交差点
成田街道、一本松跡交差点に再び立つ。ここから旧宗吾参道を辿ってみよう。


日赤成田病院前交差点
参道は日赤成田病院前交差点で国道464号に合流。宗吾霊堂まで1.5kmの道路標識がある。


国道464号 公津の杜
公津の杜を行く国道464号。旧参道は左手新興住宅地の中に消失する。


大袋尋常小学校跡
大袋尋常小学校跡。国道沿いに記念碑が建てられている。明治25年(1892年)開校、大正7年(1918年)公津村尋常高等小学校の開校に伴い廃校になった。


公津の杜近隣公園
公津の杜近隣公園。近隣住民の憩いの場であろう。しかしながら水辺の涼も空しい炎天の7月、さすがに人影は少ない。


宗吾参道旧道 大袋
公津の杜近隣公園の北側、国道下の民家敷地内から新興住宅地に消えた旧参道が姿を現す。


宗吾参道旧道 大袋
谷津地の田園地帯を延びる旧参道。


国道464号 大袋
旧参道は国道464号に合流して上り坂に。


国道464号 大袋
坂を上りきった所で旧参道は国道から分岐。写真左に分岐する小径が旧参道。


宗吾参道旧道 宗吾
宗吾霊堂付近の旧参道。


国道464号 宗吾
旧参道を歩いて程なく、再び国道464号に合流すると宗吾霊堂に着く。


佐倉屋旅館
宗吾霊堂入口付近にある佐倉屋旅館。建物は近代的だが老舗な感じがする。


宗吾霊堂入口
宗吾霊堂入口。


宗吾霊堂境内参道
宗吾霊堂境内参道。大山門前につつましく土産物屋が並ぶ。


宗吾父子の御墓
宗吾父子の御墓。命を賭して世を正そうとした佐倉宗吾、約360年を経た現在もその功績が語り継がれているのがせめてもの救い。ただただ、合掌。


宗吾霊堂本堂
宗吾霊堂本堂。正式名は鳴鐘山東勝寺、平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が、房総平定時に戦没者供養のために建立したと伝わる古刹。木内惣五郎の刑死後、当時の住職が遺体を埋葬し墓を建立。百回忌にあたる宝暦2年(1752年)佐倉藩主堀田正亮は宗吾道閑居士の法号を諡号し、以来惣五郎は宗吾様と呼ばれるようになったという。


宗吾霊堂本堂
宗吾霊堂本堂。


宗吾霊堂本堂
宗吾霊堂本堂内部。御本尊に祀るのは宗吾様である。


宗吾御一代記館
本堂裏手にある宗吾御一代記館。


宗吾御一代記館・悲しみのお仕置き場
館内には佐倉宗吾が将軍に直訴し刑死に至った経緯を、13場面に分け実物大の人形で再現する。写真は”第十二景 悲しみのおしおき場”。公津ヶ原刑場で死刑を待つ宗吾と子供たちである。


宗吾霊堂宝殿
昭和10年(1935年)開館。佐倉宗吾の遺品や関係文書をはじめ、寺宝等を展示する。


拝領の裃
宗吾霊堂宝殿にて。宗吾が着用していた裃。


甚兵衛そば
門前にある甚兵衛そばで遅めの昼食に。甚兵衛とは宗吾が裏街道を通って江戸へ向かう途次、印旛沼を渡した渡守である。後々この一事が藩に露見すれば自身に罪が及ぶことを恐れず、宗吾を舟に乗せた義侠の人なのだ。


甚兵衛そば
甚兵衛そば2枚を平らげ。


宗吾霊堂入口付近にて
宗吾霊堂入口付近にて。”甚兵衛渡し”という演歌があるらしい。どんな曲なんだろ。


又兵衛
門前付近の又兵衛という店でざっこの佃煮を購入。


又兵衛の佃煮
後日談。ざっこの佃煮はビールのつまみとなりました♪


撮影日:2012年7月16日(月)
FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

宗吾参道②

宗吾霊堂から北の印旛沼へ向かって2km弱の台方地区中央、谷津の低地が台地に切れ込んだその奥に佐倉宗吾(木内惣五郎)の旧宅がある。宗吾死後も代々家は子孫によって守られ、現在は敷地内に16代目の木内利左衛門氏が住んでおられるという。ここで一つ疑問に思った。宗吾とその子供らは処刑され、跡継ぎは途絶えたのではないかと。そもそも宗吾に関する公式文書は無く、庶民の手によって講談や芝居の題材とされ後世に伝えられてきた。後世に汚点と前例を残したくない佐倉藩や幕府は、公式に文書を作成しなかったか、或いは抹消してしまったのだろう。一説によると水戸藩に嫁いだ娘と妻は難を逃れたとか、他家に嫁いだ宗吾の妹がいたといわれ、いずれにしても後に木内家の再興が許されて宗吾の縁者が家名と旧地を継いだのだろう。

宗吾参道


台方の谷津地に広がる水田
台方の田園地帯を歩いて宗吾旧宅へ向かう。


台方にて
宗吾旧宅へ向かう途中に出会った野良猫。毛色は違えど親子の猫なのか。子を守ろうとする野良猫の習性なのか、親猫の目が明らかに敵視していて少々怖い。危ないから人間に近づいちゃダメと諭しているかのよう。


台方の谷津地に広がる田園
台地裾に沿って青々とした水田を見ながら。


宗吾旧宅付近
宗吾旧宅付近。写真奥に見える家が木内家で、左手前路傍に御手洗井戸がある。


御手洗井戸
台方七井の一つ、御手洗井戸。麻賀多神社の祭神事にこの水を使うという。


宗吾旧宅
宗吾旧宅。想像以上にしっかりとした建物である。宗吾が実際に住んでいた家だったとしても約350年前のこと、幾度かの改修を経てきたのだろう。


宗吾旧宅
宗吾旧宅内部は管理する木内家に断れば見学できるようだが、少々時間が遅かったこともあり遠慮した。旧宅の外観を見るだけでも宗吾が実在したことを感じられよう。


椿井
宗吾旧宅の敷地内にある椿井。こちらも台方七井の一つに数えられる。木内家当主によると宗吾が将軍直訴のため江戸へ向けて旅立つ折、妻子と袂を別つ砌の水盃に用いられた水だという。


台方にて
空にはとんぼがいっぱい。写真では少々わかり難いが…。


麻賀多神社
台方に鎮座する麻賀多神社。近隣にある同名18社の総社であり、印旛沼周辺地域のみに存在する珍しい名の神社である。以前に書いた記事、佐倉城下酒々井宿 に紹介しているのでご参照を。


麻賀多神社の大杉
麻賀多神社の大杉。推定樹齢千三百年を超える東日本一の大杉だという。


宗吾霊堂入口
宗吾霊堂入口まで戻り、上岩橋までの旧参道を辿ろう。


県道137号 宗吾
千葉県道137号を南西へ。


県道137号 宗吾
県道を分かれる旧参道。らしき道は雑草が生い茂り廃道状態…。


下岩橋の旧参道
擁壁上から旧参道の状態を確認。陽が当たっていない場所は普通に歩けそうなので、藪を強行突破することに。まさかこんな道を歩くなんて思わなかったので、ハーフパンツだったことが悔やまれる。


下岩橋の旧参道
藪を抜けると見事な切通しの下り坂が。このまま朽ち果てさせるにはもったいない古坂だ。


下岩橋の旧参道
坂を下りきった所でアスファルト舗装道に合流。


下岩橋の双体道祖神
下岩橋の双体道祖神。製作年不明。地元の方々によって大事にされているようだ。この道祖神がある辺りの旧参道は水田となって消失している。


下岩橋の旧参道消失地点
旧参道消失地点から切通しの坂方向を望む。


下岩橋の旧参道
下岩橋の旧参道。路傍に地蔵が残る。


京成電鉄車両管理所(宗吾車両基地)
左に目を向けると、水田の向こうに京成電鉄車両管理所(宗吾車両基地)が見える。


水田に佇む白鷺
水田に佇む白鷺。


柏木の旧参道
路傍に”なごみの米屋”の巨大看板。電車内からよく見えるんだろうな。


柏木の旧参道
柏木の旧参道。


京成本線踏切
京成本線の踏切を渡り。そのすぐ先の路傍に↓


普門品十萬部供養塔と六地蔵
普門品十萬部供養塔と六地蔵がある。


普門品十萬部供養塔
普門品十萬部供養塔とはいったい何なのか?調べてみた。
普門品(ふもんぼん)とは、法華経第二十五品「観世音菩薩普門品」の略称で、通称を観音経と呼ぶ。この供養塔は観音経信仰の念仏講中により建立され、天下泰平と国家安全を祈念して普門品を十万回読経したという証なのだ。


上岩橋の旧参道
上岩橋の集落を行く旧参道。


上岩橋の旧参道
そろそろゴールは近い。


上岩橋の旧参道
ここで成田街道に合流、つまり旧宗吾参道歩きの終点である。伊篠の松並木の記事に紹介した上岩橋トヶ崎三叉路の道標が立つ。右に分かれるのが宗吾霊堂へ向かう旧参道で、左が成田街道。


京成酒々井駅
京成酒々井駅から帰途につく。おわり。


撮影日:2012年7月16日(月)
FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

川越街道っ!

川越街道

次は旧川越街道を歩くことにしよう。私が歩き通した会津西街道に縁あって、旧街道を精力的に踏査しながら数多くの紀行本を出版されている中山高安氏と連絡をとる機会があり、ご自身の著書”街道を歩く⑤ 川越街道”を頂戴した。動機は単純明快、この本を拝読させていただき、旧川越街道を歩こうと思ったわけである。近隣の旧街道であり、川越城下を散策したかったこともあって決断は早かった。成田街道歩き踏破の余韻冷めやらぬ猛暑の8月中旬、5年前に旧中山道歩きで訪れた板橋宿の地に再び立つ。

川越街道は板橋宿で中山道を分岐し、上板橋・下練馬・白子・膝折・大和田・大井の宿駅を経て、川越城下へ至る街道。川越から先は北へ児玉街道が延び、藤岡(現 群馬県藤岡市)に通じて中山道に合流できたため、中山道脇往還川越道とも称された。川越・児玉の両街道を合わせて川越児玉往還とも呼ぶ。その起源は戦国時代に太田道灌が江戸城と川越(河越)城を築いた際、従来あった古道を繋ぎ合わせ、二つの城を結ぶ道を通したことにある。後の江戸時代初期に幕府は江戸の北西を守る要衝として川越城を重要視、老中格の譜代大名を藩主として配し、江戸と川越藩を結ぶ街道には宿駅を置いて整備した。

旧川越街道の距離をルートラボで測定すると、板橋宿の旧中山道分岐から川越城下・札の辻まで約32km、日本橋起点だと約42km。明治3年(1870年)刊行、伊能忠敬測量の「大日本沿海実測録」によると、板橋宿平尾から川越本町まで8里6町45間(約32km)であり、ほぼ合致している。現在の川越街道は池袋と川越市を繋ぐ国道254号の別称で、旧道は一部国道254号と道を共にしながらほぼ並行して延び、道中には松並木や欅並木等、旧街道の名残も見られるらしい。記事では基本的に旧川越街道を指して川越街道と表記し、実際の道路名が旧川越街道の場合はそのまま表記する。さあ、川越街道の旅を楽しもう。


FC2ブログランキング

テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
09 | 2012/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
データ取得中...
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

お気に入りブログ
ブログ内検索
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター