下練馬宿
【2012年8月18日(土)川越街道 下練馬宿】
上板橋宿から川越街道を西へ下って25町37間(約2.8km)、下練馬宿に着く。下練馬宿は江戸方より下宿・中宿・上宿に分かれ、隣の上板橋宿と同じ町構成。本陣は中宿の木下家(後に上宿の大木家に交代する)が務め、その街道を挟んだ向かいに問屋場があり、木下家東隣の内田家が脇本陣を務めた。現在、本陣跡地は1Fに”新鮮大売 ユータカラヤ”のスーパーが入るアパートに化し、その東側に脇本陣内田家の末裔の方が経営されているのだろう内田葬儀社がある。宿内からは山岳信仰で名高い相州大山へ至る大山道が分岐していたが、その分岐点は近年になって環八通りが敷設されたため消失。しかしながら、分岐点にあった宝暦3年(1753年)建立の道標が、現在も少しだけ位置をずらして環八通り上の旧道路傍に残っている。


板橋区から練馬区へ。街道筋は北一商店街となり人の往来が多くなってきた。下練馬宿江戸方の入口である。

下練馬宿江戸方入口、五差路の交差点角に残る庚申塔。

下練馬宿・下宿の町並み。

下練馬宿には老舗らしい店が所々に見られる。

環八通り上の街道沿いにある大山道道標と東高野山道標。元々は現在地より8m程東側、川越街道と大山道・東高野山道の分岐点にあったが、環八通りの建設に伴い移された。それぞれの道標は相州大山と東高野山長命寺(現 練馬区高野台3丁目)に至る道であることを示している。

大山道道標と東高野山道標。大山道道標は宝暦3年(1753年)下練馬講中四拾八人によって建立。正面に「従是大山道」と刻まれ、上に不動明王像を載せる。その隣の小さめの石塔が東高野山道標で、正面に「左東高野山道」と刻む。

現地解説板より平成8年(1996年)頃の大山道道標・東高野山道標の写真。現在は旧道の分岐点と共に写真に見える不動寝具店も無くなっているが、道標だけが少しだけ位置をずらして残っているのがせめてもの救い。昔の道標はその場所にあってこそ歴史的価値があると思うので、博物館等に移されなくて良かった。

下練馬宿・中宿の町並み。右手前に見える久富不動産の奥隣りが内田葬儀社で、かつての旧脇本陣内田家の家と思われる。その更に奥が本陣の木下家跡地。

下練馬宿・中宿の浅間神社前を行く川越街道。

中宿に鎮座する浅間神社。境内にある富士塚は、最初の築造が江戸時代と推定されている。旧街道を歩いていると、しばしば見かけてきた富士塚。昔も今と変わらず、日本人にとって富士山は特別な存在なのだ。現代と違って行きたくても富士山なんぞへ容易に行けなかった時代のこと、仮の富士山を築き登山をシミュレートしていたわけである。

これが、浅間神社の富士塚。現在も地元有志によって7月1日に山開きが行われているらしい。

せっかくなので富士塚を登ってみた。写真は頂上からの眺め。

浅間神社裏手の清性寺御堂と白狐稲荷。清性寺は新編武蔵風土記稿によると「金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法の作、長さ一尺二寸立像なり。法流開山快遍宝暦八年二月二十七日化す。」とあり、江戸時代初期以前の創建と推定され、明治初期には広い境内地に鐘楼もあったという。明治維新期の廃仏毀釈によって近隣寺社と共に金乗院へ統合され、後は廃寺となった。近年になり本尊不動が火災に遭い、全体が焦げて一部焼失したが、寺跡に御堂と白狐稲荷(豊臣秀吉の守り神と伝わる霊石を祀る)等を再建し、本尊の保存に努められている。

下練馬宿・上宿の北町観音堂。街道から東武練馬駅方向へ分かれるY字路の分岐点にある。この観音堂には天和2年(1682年)銘の北町聖観音座像や天和3年(1683年)銘の仁王像を安置する。江戸時代からこの地にあったらしく、当時の紀行文に記述が見られるという。

北町の仁王像。小ぶりな石造仁王像であるが、その迫力は伝わってくる。

北町聖観音座像。実に仏頂面と言っては失礼か、いい表情をしている観音様である。拝顔しているけで、思わぬ時間を費やしてしまった。

北町観音堂の石仏群。古そうな馬頭観音や庚申塔が聖観音を守るかのように並ぶ。

下練馬宿川越方外れ、聖徳病院前を行く旧川越街道。商店街の雰囲気は無くなる。

新大宮バイパス上まで来たところで日が暮れた。本日の歩き旅はここで終い。
【川越街道歩き 第1日目】新板橋駅→JR板橋駅→板橋宿→上板橋宿→下練馬宿→東武練馬駅 歩行距離約15km
上板橋宿から川越街道を西へ下って25町37間(約2.8km)、下練馬宿に着く。下練馬宿は江戸方より下宿・中宿・上宿に分かれ、隣の上板橋宿と同じ町構成。本陣は中宿の木下家(後に上宿の大木家に交代する)が務め、その街道を挟んだ向かいに問屋場があり、木下家東隣の内田家が脇本陣を務めた。現在、本陣跡地は1Fに”新鮮大売 ユータカラヤ”のスーパーが入るアパートに化し、その東側に脇本陣内田家の末裔の方が経営されているのだろう内田葬儀社がある。宿内からは山岳信仰で名高い相州大山へ至る大山道が分岐していたが、その分岐点は近年になって環八通りが敷設されたため消失。しかしながら、分岐点にあった宝暦3年(1753年)建立の道標が、現在も少しだけ位置をずらして環八通り上の旧道路傍に残っている。


板橋区から練馬区へ。街道筋は北一商店街となり人の往来が多くなってきた。下練馬宿江戸方の入口である。

下練馬宿江戸方入口、五差路の交差点角に残る庚申塔。

下練馬宿・下宿の町並み。

下練馬宿には老舗らしい店が所々に見られる。

環八通り上の街道沿いにある大山道道標と東高野山道標。元々は現在地より8m程東側、川越街道と大山道・東高野山道の分岐点にあったが、環八通りの建設に伴い移された。それぞれの道標は相州大山と東高野山長命寺(現 練馬区高野台3丁目)に至る道であることを示している。

大山道道標と東高野山道標。大山道道標は宝暦3年(1753年)下練馬講中四拾八人によって建立。正面に「従是大山道」と刻まれ、上に不動明王像を載せる。その隣の小さめの石塔が東高野山道標で、正面に「左東高野山道」と刻む。

現地解説板より平成8年(1996年)頃の大山道道標・東高野山道標の写真。現在は旧道の分岐点と共に写真に見える不動寝具店も無くなっているが、道標だけが少しだけ位置をずらして残っているのがせめてもの救い。昔の道標はその場所にあってこそ歴史的価値があると思うので、博物館等に移されなくて良かった。

下練馬宿・中宿の町並み。右手前に見える久富不動産の奥隣りが内田葬儀社で、かつての旧脇本陣内田家の家と思われる。その更に奥が本陣の木下家跡地。

下練馬宿・中宿の浅間神社前を行く川越街道。

中宿に鎮座する浅間神社。境内にある富士塚は、最初の築造が江戸時代と推定されている。旧街道を歩いていると、しばしば見かけてきた富士塚。昔も今と変わらず、日本人にとって富士山は特別な存在なのだ。現代と違って行きたくても富士山なんぞへ容易に行けなかった時代のこと、仮の富士山を築き登山をシミュレートしていたわけである。

これが、浅間神社の富士塚。現在も地元有志によって7月1日に山開きが行われているらしい。

せっかくなので富士塚を登ってみた。写真は頂上からの眺め。

浅間神社裏手の清性寺御堂と白狐稲荷。清性寺は新編武蔵風土記稿によると「金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法の作、長さ一尺二寸立像なり。法流開山快遍宝暦八年二月二十七日化す。」とあり、江戸時代初期以前の創建と推定され、明治初期には広い境内地に鐘楼もあったという。明治維新期の廃仏毀釈によって近隣寺社と共に金乗院へ統合され、後は廃寺となった。近年になり本尊不動が火災に遭い、全体が焦げて一部焼失したが、寺跡に御堂と白狐稲荷(豊臣秀吉の守り神と伝わる霊石を祀る)等を再建し、本尊の保存に努められている。

下練馬宿・上宿の北町観音堂。街道から東武練馬駅方向へ分かれるY字路の分岐点にある。この観音堂には天和2年(1682年)銘の北町聖観音座像や天和3年(1683年)銘の仁王像を安置する。江戸時代からこの地にあったらしく、当時の紀行文に記述が見られるという。

北町の仁王像。小ぶりな石造仁王像であるが、その迫力は伝わってくる。

北町聖観音座像。実に仏頂面と言っては失礼か、いい表情をしている観音様である。拝顔しているけで、思わぬ時間を費やしてしまった。

北町観音堂の石仏群。古そうな馬頭観音や庚申塔が聖観音を守るかのように並ぶ。

下練馬宿川越方外れ、聖徳病院前を行く旧川越街道。商店街の雰囲気は無くなる。

新大宮バイパス上まで来たところで日が暮れた。本日の歩き旅はここで終い。
【川越街道歩き 第1日目】新板橋駅→JR板橋駅→板橋宿→上板橋宿→下練馬宿→東武練馬駅 歩行距離約15km

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