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膝折宿

謹賀新年
明けましておめでとうございます。
旧年中は年の初めに会津西街道歩きを完結し、成田街道と現在慌てて記事に書いている川越街道を歩き通しました。このブログを見てコメントを頂いた方々には、この場を借りて感謝申し上げます。振り返ると歩いた距離こそ短かったですが、得るべき事の多い旅だったと思います。今年は遠出をして宿場町をしっかり堪能できる旧街道を歩きたい所存。その街道の行く先は…。
本年もよろしくお願いします。



【2012年10月6日(土)川越街道 膝折宿】
大日本沿海実測録によると白子宿より膝折宿までの距離1里3町11間(約4.3km)、かせぎ坂を下りきった先、黒目川の流れる低地に膝折宿はある。”膝折”とは実に珍しく興味深い地名、早速調べてみることに。その由来は小栗小次郎なる武士が名馬鬼鹿毛で逃れる最中、鬼鹿毛がこの地で膝を折り死んだことにあるという。競馬に詳しい方はご存知だろうが、馬にとって足の故障は致命傷、しかも膝ともなれば尚更である。膝折は室町時代中期には町を形成。脚籠(きょうけ)と呼ばれる椀を固定するための脚付き竹籠が特産品で、4・9のつく日に六斎市が立ったと、「廻国雑記」(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)に記される。江戸時代になって川越街道の重要性が増し、街道沿いに町家が移って本陣・脇本陣が置かれ、宿駅として整備された。

川越街道 膝折宿


膝折宿
かせぎ坂を下りきった所から膝折宿の始まり。宿内を歩こう。


膝折宿旧脇本陣・村田屋
早速右手に現れる寄棟屋根の古い建物。屋根はトタン葺きであるが、昔は茅葺だったのだろう。この家が脇本陣を努めた旅籠村田屋。


旧本陣牛山家
膝折郵便局の場所が旧本陣牛山家。


膝折宿
膝折2丁目交差点付近。宿場の面影は残っていない。


膝折宿
五差路の膝折1丁目交差点で旧道は左折。


増田屋旅館
膝折1丁目交差点を左に曲がってすぐ、旧道沿いにある増田屋旅館。かつては旅籠だったのだろうか。近年まで看板を出し営業を続けていたが、現在はその看板も撤去され廃業してしまったようだ。


膝折宿
旧道は黒目川に架かる大橋に向かって延びる。


大橋
黒目川に架かる大橋。


黒目川
大橋より黒目川下流方向を望む。


たびやの坂・かごやの坂
旧道は二又に分かれ上り坂に。左がたびやの坂、右がかごやの坂。それぞれ坂の途中に足袋屋や駕籠屋があったのでそう呼ばれたという。最も古い道は左のたびやの坂。かごやの坂は明治初期の関東平野迅速測図に見られないことから、明治期以降に通されたことがわかる。昭和初期に膝折1丁目交差点から直進する新道(現 埼玉県道109号)が敷設され、こちらは坂上に合同貨物自動車会社があったことから”合同の坂”と呼ばれたという。


たびやの坂の庚申塔
たびやの坂とかごやの坂の分岐点にある庚申塔。上部が白くペイントされてしまっているのは、心無き者の仕業か。元文元年(1736年)建立。


たびやの坂
たびやの坂を上る。結構な急坂だ。


たびやの坂05
たびやの坂上から坂下を望む。


旧川越街道 朝霞市・新座市境
たびやの坂を上りきると旧道は朝霞市から新座市へ入る。直進の細い路地が旧道、その入口が市境となっている。


旧川越街道 野火止下付近
旧道は野火止下交差点手前で埼玉県道109号に合流。


横町の六地蔵
野火止下交差点付近に並ぶ横町の六地蔵。享保17年(1732年)建立。両隣に正徳4年(1714年)銘の地蔵菩薩と宝暦6年(1756年)銘の庚申塔がある。いずれも江戸中期の作ながら保存状態が非常によい。風雨に晒されず大切に守られてきた証だろう。当時から同じ場所にあるならば、この先は鬱蒼と茂る武蔵野の原生林を行く野火止の地、旅人にとっては目印になり、道中の無事をも祈ったことだろう。


野火止大門交差点
日が暮れてきた。野火止大門交差点を左折し、どうしても行きたかった平林寺へ急ぐ。


平林寺
が…、時すでに遅し。閉門時間の16時半を30分程過ぎており入場できず。骨ならぬ、膝折り損のくだびれ儲けとはこのことだ。平林寺は次の歩き旅に機会を得よう。


新座市役所にて
新座市役所にて。カラスが鳴くからかーえろっと。


【川越街道歩き 第2日目】下赤塚駅→白子宿→膝折宿→平林寺→野火止用水→JR新座駅 歩行距離約15km
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ジャンル : 旅行

野火止用水と平林寺

【川越街道歩き 第3日目】JR新座駅→平林寺→大和田宿→大井宿→ふじみ野駅



【2012年11月10日(土)川越街道 大和田宿】
天気は快晴、お出かけ日和の11月の土曜日。JR新座駅に降り立ち、野火止用水を散策しながら前回の歩き旅で訪ねることができなかった平林寺へ向かう。野火止は読んで字の如く、この地で野火を止めたという意であることに間違いなさそうだが、その理由については諸説ある。

「昔、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆく程に、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて逃げにけり。道くる人、この野は盗人あなり とて火つけむとす。女わびて、武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率てけり。」
一つは伊勢物語の第12段。男とは在原業平で、とある豪族の娘と駆け落ちし武蔵野の草むらに身を潜めていた。国守の追っ手が野を焼いて探そうとしたところ、娘は互いの身を案じ歌を詠んで火をつけるのを止めさせたというものだ。平林寺境内に業平塚と伝わる土盛りが残る。

もう一つは平林寺境内に残る野火止塚(九十九塚)によるもの。これは一里塚に比して一回りも二回りも大きな塚で、現地解説板によると和名抄に見る火田狩猟(野に火を放ち獲物を追い出す狩猟)の野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか定かではないが、いずれにしても野火の見張台との説が有力だという。中世以前の武蔵野は焼畑耕法が盛んに行われていたため一面萱原だったといい、更に関東ローム層の乾燥した土壌は草木の燃え広がりを早めただろうから、焼畑は武蔵野にあって効率的で生産性の高い農法と言える。そう考えると、野火止の名の由来はここら辺りにあるような気がする。

黒目川と柳瀬川に挟まれる野火止台地は、武蔵野にあって例外なく水が乏しく、人の居住を拒む未開の地であったが、江戸時代になって大きく変遷する。承応2年(1653年)川越藩主松平信綱は玉川上水(多摩川の水を羽村取水口から江戸の四谷大木戸まで引く上水道)開削の総奉行を務める最中、野火止台地の開発に着手し、開拓農家54、5戸を入植させる。僅か8ヶ月の短期間で玉川上水は完成。総奉行を務めあげた川越藩主松平信綱は、その功により玉川上水を分水する許可を得て、承応4年(1655年)領内の野火止台地へ上水を送る全長約24kmの野火止用水を完成させる。飲料水や生活用水が確保できることで野火止台地の人と土壌は潤い開発が進んだ。

その野火止台地にあるのが平林寺。正式名は金鳳山平林禅寺、臨済宗妙心寺派の禅刹で大河内松平家の祖廟。南北朝時代に武蔵国騎西郡渋江郷金重村(現 浦和市岩槻区)に建立され、江戸時代初期の寛文3年(1663年)松平信綱の長男輝綱により現在地へ移転。この時に野火止用水を西堀で分水し、平林寺境内地を通す平林寺堀が造られた。平林寺は現在も13万坪(東京ドーム約9個分)もの広大な境内地を持ち、境内林は開発が進む武蔵野の原形を残す貴重な雑木林で、国指定天然記念物。松平信綱夫妻の墓をはじめとする大河内松平家歴代の墓がある。

川越街道 平林寺


野火止用水公園
新座駅より野火止用水公園を歩いて平林寺方面へ。


野火止用水
平林寺境内西辺を流れる野火止用水の本流。この用水は多摩郡小川村(現 東京都小平市)で玉川上水から分流し、ここ野火止台地を通って新河岸川に至る。


野火止用水にて
用水路を覗くと大きな鯉が。水質が良い証拠だ。野火止用水は昭和24年(1949年)頃から生活排水が流入するようになって水質が悪化しはじめ、昭和48年(1973年)ついに玉川上水からの取水が停止され、事実上の下水となってしまう。当然の流れで臭い物には蓋がされ暗渠化が進む。昭和49年(1974年)周辺住民に野火止用水復活の機運が高まり、東京都が歴史環境保全地域に指定したことが転換となる。周辺自治体が協力して野火止用水の復元事業を進め、昭和59年(1984年)野火止用水に清流が蘇った。


伊豆殿橋
平林寺境内南西角、野火止用水に架かる伊豆殿橋。野火止用水の開通は野火止台地の深刻な水不足を解消、開拓農民の生活は改善され、川越藩主松平信綱に大変感謝したという。そのため野火止用水は信綱の官名伊豆守から名をとり、別名を伊豆殿堀とも呼ぶ。


平林寺堀
野火止用水の支流は菅沢北野堀・平林寺堀・陣屋堀の3本があり、更に末端で樹枝状に分かれていた。写真は平林寺境内に通水する平林寺堀。近年になって復元整備された。


平林寺総門
平林寺入口の総門。拝観料500円を支払い、平林寺境内へ入ろう。


平林寺山門
楼上に釈迦三尊佛、左右に十六羅漢像を安置する山門。平林寺が野火止に移転した寛文3年(1663年)の創建。


平林寺山門
山門の十六羅漢像。鬼気迫る表情に圧倒される。


平林寺佛殿
山門を潜り抜けた先にある佛殿。山門と同じく寛文3年(1663年)創建。


平林寺本堂
佛殿の更なる奥に中門があり本堂が建つ。本堂は明治13年(1880年)再建、釈迦牟尼佛を本尊とする。平林寺は入口の総門から山門・佛殿・中門・本堂へと伽藍が一直線に並び、禅宗様式の特色をよく表しているという。


平林寺境内にて
カマキリを捕獲!しっかりカメラ目線。


平林寺境内にて
こんな勇ましいポーズまで。サービス精神旺盛な可愛い奴だ。秋も深まりそう寿命は長くないだろうけど、頑張って長生きしろよ。


放生池
主要な伽藍の見学を終えて広大な平林寺境内を巡ってみよう。まずは山門南側にある放生池。池中央の中の島に弁財天が祀られる。この池も野火止用水の恩恵だろうか。


増田長盛の墓
豊臣五奉行の一人、増田長盛の墓。五奉行まで登りつめた御方なのに、墓石は小さく質素である。元々は野火止移転前の平林寺にあったが、明治期になってここへ移されたという。長盛は関ヶ原の戦いで西軍石田方に加担した罪を問われ高野山へ出家、後に岩槻城主高石氏預かりの身となった。大坂夏の陣で長男盛次が豊臣方に与したため、その責任をとって自害、平林寺に葬られた。墓が質素なのは、二代に渡って徳川家へ反旗を翻した故だろうか。


見性院の供養塔
増田長盛墓の隣にある見性院の供養塔。長盛の墓に比して大きく立派である。見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の正室。穴山氏断絶後は家康に保護され、二代将軍秀忠が侍女に生ませた子、幸松(後の保科正之、会津藩藩祖)を養育した。


平林寺堀
境内に残る平林寺堀。残念ながら水は流れておらず、堀跡と言った方が正確かも。いったい、放生池の水源はどこにあるのか疑問だ…。


松平信綱夫妻の墓
松平信綱夫妻の墓。さすがは川越藩主で老中を努め、知恵伊豆と称された名君らしい立派なものだ。


もみじ山
平林寺境内の南西側一帯はもみじ山と呼ばれる紅葉の名勝。


もみじ山にて
まだ葉は青く、11月中旬ながら時期尚早だったよう。


野火止塚
これが野火止塚(九十九塚)。野火止という地名の由来を今に伝える貴重な遺構だ。新編武蔵風土記稿(1830年完成の武蔵国地誌)に伊勢物語(平安前期成立の歌物語)や廻国雑記(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)から引用し、野火止塚についての記述がある。興味のある方は調べてみると面白いと思う。


業平塚
野火止塚の近くにある業平塚。野火止塚と同じ目的で造られたらしいが、物好きな人が伊勢物語から業平塚と名付け、塚上に「むさし野に かたり伝えし在原の その名を偲ぶ 露の古塚」という歌碑を置いたと、江戸名所図会(江戸の名所を紹介した地誌、天保年間刊行)に紹介されている。現在は侵食が著しいのか、小ぢんまりとした土盛りと塚上に業平塚と刻んだ石碑があるだけで、江戸名所図会に紹介される歌碑は残っていない。


平林寺境内林02
武蔵野の面影を留める平林寺境内林。


平林寺塔所
平林寺歴代住職の墓が並ぶ塔所(たっしょ)。


平林寺境内にて
さて、そろそろ境内を出よう。


平林寺境内にて
出口付近ではいい感じに色付く紅葉もちらほら見られた。これにて平林寺境内の散策は終い。


睡足軒の森
総門を出て睡足軒の森へ。国指定天然記念物平林寺境内林の一部にあたり、それ程広くは無いがここでも古の武蔵野を感じることができる。元々は”電力王”とも”電力の鬼”とも称され、電気事業の草創期に活躍した実業家松永安左エ門の屋敷地で、睡足軒は飛騨高山辺りの民家を移築させて草庵としたもの。松永安左エ門は茶に造詣が深く、耳庵を号する茶人でもあった。没後に屋敷地は菩提寺の平林寺へ譲られ、睡足軒は寮舎として利用された。現在は平林寺から新座市へ無償貸与され、一般公開・利用されている。


ムラサキシキブ
睡足軒の森にて。秋に紫色の実をつけるムラサキシキブ。


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大和田宿

【2012年11月10日(土)川越街道 大和田宿】
大日本沿海実測録によると膝折宿から大和田宿までの距離34町36間(約3.8km)、膝折宿を出た川越街道は野火止台地を上って横断し、柳瀬川が流れる低地に向かって下る。その柳瀬川畔の低地に大和田宿がある。成田街道にも同名の宿駅があったが、和田とは谷間の狭い平地を入野と呼ぶのに対し、それよりやや広い平地を指す言葉らしい。つまり、”和田”に”大”を冠して、周りに比して結構広い平地という意なのかと勝手な解釈。全国各地に同名の地名が多く存在し、中でも平清盛が日宋貿易の拠点とすべく修築した大輪田泊(現 兵庫県神戸市)は有名な部類だろう。大和田宿には本陣・脇本陣は置かれず、名主高橋家が荷継ぎをする問屋場を務めた。現在の宿内には隣の宿駅・膝折の地名の由来と伝わる名馬鬼鹿毛の馬頭観音があるくらいで、宿場の面影を見つけるのは難しい。

川越街道 大和田宿


野火止大門交差点
平林寺から野火止大門交差点へ移動。ここは埼玉県道109号(旧川越街道)と平林寺大門通りが交差する場所、川越街道から平林寺へ向かう参道入口にあたり、交差点角に”金鳳山平林禅寺”と刻む寺号石が立つ。側面には江市屋と刻まれており、おそらく建立者の屋号であろう。


平林寺寺号石
平林寺寺号石。大きく立派なものだ。


石山家の里神楽解説板
野火止大門交差点から県道109号を川越方面へ200m程行った所、野火止の神楽師石山家と相伝の里神楽について説明する解説板が設置されている。


石山家の神楽ポスター
解説板隣の掲示板に貼られていたポスター。約200年前から石山家に代々継がれる里神楽は23の演目。現在は10代目が石山社中として氷川神社等に神楽を奉納し、不定期に公演や講座を開いているようだ。


八雲神社
JR武蔵野線高架橋を潜り抜ける手前、日の丸自動車向かいの県道沿いに鎮座する八雲神社。神社裏手の路地は野火止用水本流が暗渠化したものと思われる。


県道109号 野火止
JR武蔵野線の高架橋下を潜り抜けて。


神明神社
野火止と大和田の境に鎮座する神明神社。昭和初期まで境内横を野火止用水支流の一つ、菅沢北野堀が流れていたが、現在は暗渠化したのか埋め立てられたのか、その流れを見ることはできない。


県道109号 大和田小学校前
大和田小学校前から先で下り坂に。


鬼鹿毛の馬頭観音
坂の途中にある鬼鹿毛の馬頭観音。


鬼鹿毛の馬頭観音
鬼鹿毛の馬頭観音は元禄9年(1696年)の建立、新座市内では最大最古の石造馬頭観音。前々の記事に書いた膝折という地名の由来と伝わる名馬鬼鹿毛は、ここにあった松の大木の根に躓き倒れた。しかし、鬼鹿毛は立ち上がり、江戸へ向かう主人を無事送り届けた後に姿を消したという。主人が帰路の途次、ここで鬼鹿毛の亡骸を見つけたと伝わる。後にその話を伝え聞いた人が、鬼鹿毛の霊を弔うためにこの馬頭観音を建立したようだ。膝折とここ大和田に伝わる鬼鹿毛に少々矛盾があるのは、あくまで伝説が故であろう。


大和田宿
大和田宿内より野火止台地へ上る街道を望む。


大和田中町交差点
大和田中町交差点。この辺りが宿場の中心か。


大和田宿
大和田宿の町並み。


大和田観音堂
新座大和田郵便局の隣にある観音堂。軒先に地蔵菩薩像が置かれ、辛うじて仏閣の体を保っているが…。


大和田宿
大和田宿内を行く埼玉県道109号(旧川越街道)。


大和田宿
宿内には古い建築も所々に残る。


英橋
大和田宿川越方外れの英(はなぶさ)橋。”英”と書いて”はなぶさ”と読むなんて初めて知った。この難読な橋名は江戸時代の画家、英一蝶に由来があるとの説が有力だという。


柳瀬川
英橋の下を流れる柳瀬川。


英インター
国道254号と国道463号が接続する英インター。英橋がインター名の由来であろう。


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竹間沢の欅並木・藤久保の松並木

【2012年11月10日(土)川越街道 大和田宿→大井宿】
川越街道の道中で最大の見どころと思っていた竹間沢の欅並木と藤久保の松並木にいよいよ差し掛かる。柳瀬川を越えた川越街道は国道254号となって新座市中野から三芳町竹間沢へ。町内へ入ってすぐ、中央分離帯に国道は上り下りに分かれ、紅葉に色付きはじめた欅並木が現れる。東京方面へ向かう上り車線がかつての川越街道、三芳町内の竹間沢にはこの欅並木、更に街道を進めば藤久保に松並木が断続して残り、川越街道にあって往時の面影を留める唯一の道中である。

川越街道 三芳町


国道254号 中野
中野を行く国道254号(川越街道)。


竹間沢の欅並木
新座市と三芳町の境、中央分離帯には立派な川越街道碑。欅並木の始まりである。


竹間沢の欅並木
竹間沢の欅並木。


竹間沢の欅並木
竹間沢の欅並木。


竹間沢の欅並木
いい感じに色づいているケヤキも。


木宮稲荷神社
道路の向こう側に木宮稲荷神社が鎮座。参道入口が中央分離帯の中にあるが、さすがに交通量が多く、ここを通っての参拝は困難。


竹間沢の欅並木
欅並木の川越方入口。こちらの中央分離帯にも川越街道碑が置かれている。


広源寺
藤久保交差点付近の広源寺。曹洞宗(禅宗)で、川越市渋井にある蓮光寺の末寺。仁王像が本堂に置かれている様は珍しい。欅並木と松並木に挟まれた街道沿いはかつて藤久保村の集落で、広源寺はその中心に位置する。創建年は寛永16年(1639年)とされ、川越街道の成立や藤久保開拓と時期を同じくする。


藤久保で空を見上げて
空を見上げて。天高く馬肥ゆる秋…。


藤久保交差点
藤久保の中心部、藤久保交差点。


藤久保の庚申塔
藤久保の松並木入口に置かれる庚申塔。


藤久保の松並木
藤久保の松並木。江戸時代初期、川越街道の整備に伴い植えられた松並木だが、昭和期に松喰い虫やら排ガス等の被害によって大部分が失われた。現在は若い松やケヤキ等に交じって数本の古松が見られるのみ。


藤久保の松並木
藤久保の松並木。


藤久保の松並木
藤久保の松並木。


藤久保の松並木
藤久保の松並木は中央分離帯と共にここで終わり。ここにも立派な川越街道碑が置かれている。


大井宿
すっかり日が暮れてしまった。大井宿の町並みを通り抜けてふじみ野駅へ向かう。


ふじみ野駅
お疲れ様でした。本日の歩き旅はここで終い。次は最後の川越街道歩きとなろう。


【川越街道歩き 第3日目】JR新座駅→平林寺→大和田宿→大井宿→ふじみ野駅 歩行距離約17km
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大井宿

【川越街道歩き 第4日目】ふじみ野駅→大井宿→川越城下江戸町→JR川越駅



【2012年12月22日(土)川越街道 大井宿】
世の中はクリスマスを控えつつ、正月を迎える準備も忙しい年末3連休初日の土曜日。何とか年内に川越へ辿り着きたいと冷たい雨が降る悪天候の朝、温もりが籠った布団を惜しみつつ、重くなっていた腰をようやく上げる。今日を逃しては年内に川越へ辿り着けない2012年ラストチャンスな日だったからだ。とにもかくにも、朝シャワーを浴びて目を覚まさせ、できうる限りの厚着に身を包みこんで外に出た。この時期、お天道様を拝めないとやはり寒い…。午後には天候が回復するとの予報を信じて身を奮い立たせ、北柏駅から常磐線・武蔵野線・東武東上線を乗り継いで、前回歩き旅を終えたふじみ野駅へ向かう。

ふじみの駅から徒歩で20分弱、東入間交差点入口から国道254号を東京方面へ上って約1km、旭ゴルフガーデンのある辺りまでが川越街道最後の宿駅・大井宿の町並みである。江戸方と川越方入口それぞれに設けられていた木戸跡にはその跡地を示す標柱が立ち、旧本陣には大井宿についての解説板が設置されており、川越街道を歩く者にとっては有難い配慮だ。大井宿は隣の大和田宿より1里13町21間(約5.4km)、解説板によると宝永2年(1705年)の”大井町明細帳”に家数94軒、人口479人、このうち米・酒・塩・小間物等を扱う商人が5人と桶屋の職人が1人いたとの記載があるという。また、解説板には江戸時代末の大井宿地割図も併記され、これを見ると旅籠や茶屋をはじめ、髪結い・按摩・駄菓子屋・材木屋等、様々な商家が軒を連ねており、江戸中期から末期にかけて大きく発展したことがうかがえる。

川越街道 大井宿


大井宿下木戸跡
大井宿江戸方入口の下木戸跡。かつてはここに木戸が設けられて宿内の出入りを警備し、その傍らには石地蔵が置かれていたという。


大井宿 大井坂上バス停
宿内に入ると大井坂上バス停付近から緩やかな下り坂に。


大井宿 大井坂下バス停
坂を下りきった所は砂川堀の暗渠上。そこにある大井坂下バス停付近から坂上を望む。


砂川堀
砂川堀は武蔵野台地が開発によって保水力を失ったため、大雨時の排水を目的として昭和45年(1970年)に改修された水路。それ以前は中世に開削されたという小さな古水路で、曽禰川とも呼ばれていたらしい。


弁天の森
砂川掘の南岸、木々が生い茂る弁天の森。上野不忍池の弁天様を分霊した大井清水弁財天(大井弁天)に由来がある。寛政年間(1789年~1800年)の建築で、明治初期に南畑村(現 富士見市)より移されたという御籠堂(額堂)がここにあり、弁財天を本尊に祀っていたが、平成元年(1989年)御籠堂は老朽化により解体、本尊の弁財天は徳性寺本堂に移され安置されている。


復元大井戸
大井という地名の由来と伝わる大井戸。平安時代末期に掘られたとされる古井戸で、昭和50年(1975年)に発掘調査され、その全貌が明らかになった。現在は発掘調査を元に原形を復元した井戸を見ることができる。


大井宿 徳性寺付近
徳性寺付近の大井宿。写真右手が徳性寺。


徳性寺
大井宿の中心部にある徳性寺。比叡山延暦寺を本山とする天台宗の仏閣で、灌頂院(川越市古谷)の末寺。明治14年(1881年)の大火により全焼、しばらく灌頂院の庫裡を移築し仮本堂としていたが、昭和48年(1973年)に本堂が新築された。山門は大火後の明治25年(1892年)川越の南院(現在は廃寺)から移築したもので、川越城の遺構とも云われる。


弘安の板碑
徳性寺境内に保存される弘安4年(1281年)銘の板石塔婆。解説板によると、鎌倉街道と伝わる古道に面した”坂上の石塔畑”と呼ばれる場所(東台)から出土したものだという。”坂上の石塔畑”は多くの板石塔婆が出土した場所で、弁天の森の西端にあたる大井中央公民館大井分館(ふじみ野市大井)付近。


大井宿高札場跡
小林理容所(写真左手)前に「従是川越迄二里十八丁」の解説付標柱がある。かつてはこの辺りに高札場が置かれていた。江戸時代末の大井宿地割図を見ると、ここには”かみゆい”の店があることに気付く。つまり、小林理容所は江戸時代から続く老舗の床屋ということか。


旧大井宿本陣
旧大井宿本陣前を行く国道254号(川越街道)。写真左手が旧本陣の新井家。


江戸時代末の大井宿地割図
新井家の敷地に設置される解説板より江戸時代末の大井宿地割図。大井宿は明治期に入って3度の大火に遭い、宿場の様相も変貌してしまった。


大井宿上木戸跡
大井宿川越方入口の上木戸跡。


旧大井村役場
大井宿川越方外れにある旧大井村役場。昭和12年(1937年)竣工、昭和47年(1972年)まで使用された役場庁舎である。竣工当初、地元の人々は東京と大井村の間で、一番ハイカラな建物ができたと手紙に書く等喜んだという。現在は大井小学校の敷地内にあり、内部の一般公開はされないようだ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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