膝折宿
謹賀新年
明けましておめでとうございます。
旧年中は年の初めに会津西街道歩きを完結し、成田街道と現在慌てて記事に書いている川越街道を歩き通しました。このブログを見てコメントを頂いた方々には、この場を借りて感謝申し上げます。振り返ると歩いた距離こそ短かったですが、得るべき事の多い旅だったと思います。今年は遠出をして宿場町をしっかり堪能できる旧街道を歩きたい所存。その街道の行く先は…。
本年もよろしくお願いします。
【2012年10月6日(土)川越街道 膝折宿】
大日本沿海実測録によると白子宿より膝折宿までの距離1里3町11間(約4.3km)、かせぎ坂を下りきった先、黒目川の流れる低地に膝折宿はある。”膝折”とは実に珍しく興味深い地名、早速調べてみることに。その由来は小栗小次郎なる武士が名馬鬼鹿毛で逃れる最中、鬼鹿毛がこの地で膝を折り死んだことにあるという。競馬に詳しい方はご存知だろうが、馬にとって足の故障は致命傷、しかも膝ともなれば尚更である。膝折は室町時代中期には町を形成。脚籠(きょうけ)と呼ばれる椀を固定するための脚付き竹籠が特産品で、4・9のつく日に六斎市が立ったと、「廻国雑記」(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)に記される。江戸時代になって川越街道の重要性が増し、街道沿いに町家が移って本陣・脇本陣が置かれ、宿駅として整備された。


かせぎ坂を下りきった所から膝折宿の始まり。宿内を歩こう。

早速右手に現れる寄棟屋根の古い建物。屋根はトタン葺きであるが、昔は茅葺だったのだろう。この家が脇本陣を努めた旅籠村田屋。

膝折郵便局の場所が旧本陣牛山家。

膝折2丁目交差点付近。宿場の面影は残っていない。

五差路の膝折1丁目交差点で旧道は左折。

膝折1丁目交差点を左に曲がってすぐ、旧道沿いにある増田屋旅館。かつては旅籠だったのだろうか。近年まで看板を出し営業を続けていたが、現在はその看板も撤去され廃業してしまったようだ。

旧道は黒目川に架かる大橋に向かって延びる。

黒目川に架かる大橋。

大橋より黒目川下流方向を望む。

旧道は二又に分かれ上り坂に。左がたびやの坂、右がかごやの坂。それぞれ坂の途中に足袋屋や駕籠屋があったのでそう呼ばれたという。最も古い道は左のたびやの坂。かごやの坂は明治初期の関東平野迅速測図に見られないことから、明治期以降に通されたことがわかる。昭和初期に膝折1丁目交差点から直進する新道(現 埼玉県道109号)が敷設され、こちらは坂上に合同貨物自動車会社があったことから”合同の坂”と呼ばれたという。

たびやの坂とかごやの坂の分岐点にある庚申塔。上部が白くペイントされてしまっているのは、心無き者の仕業か。元文元年(1736年)建立。

たびやの坂を上る。結構な急坂だ。

たびやの坂上から坂下を望む。

たびやの坂を上りきると旧道は朝霞市から新座市へ入る。直進の細い路地が旧道、その入口が市境となっている。

旧道は野火止下交差点手前で埼玉県道109号に合流。

野火止下交差点付近に並ぶ横町の六地蔵。享保17年(1732年)建立。両隣に正徳4年(1714年)銘の地蔵菩薩と宝暦6年(1756年)銘の庚申塔がある。いずれも江戸中期の作ながら保存状態が非常によい。風雨に晒されず大切に守られてきた証だろう。当時から同じ場所にあるならば、この先は鬱蒼と茂る武蔵野の原生林を行く野火止の地、旅人にとっては目印になり、道中の無事をも祈ったことだろう。

日が暮れてきた。野火止大門交差点を左折し、どうしても行きたかった平林寺へ急ぐ。

が…、時すでに遅し。閉門時間の16時半を30分程過ぎており入場できず。骨ならぬ、膝折り損のくだびれ儲けとはこのことだ。平林寺は次の歩き旅に機会を得よう。

新座市役所にて。カラスが鳴くからかーえろっと。
【川越街道歩き 第2日目】下赤塚駅→白子宿→膝折宿→平林寺→野火止用水→JR新座駅 歩行距離約15km
明けましておめでとうございます。
旧年中は年の初めに会津西街道歩きを完結し、成田街道と現在慌てて記事に書いている川越街道を歩き通しました。このブログを見てコメントを頂いた方々には、この場を借りて感謝申し上げます。振り返ると歩いた距離こそ短かったですが、得るべき事の多い旅だったと思います。今年は遠出をして宿場町をしっかり堪能できる旧街道を歩きたい所存。その街道の行く先は…。
本年もよろしくお願いします。
【2012年10月6日(土)川越街道 膝折宿】
大日本沿海実測録によると白子宿より膝折宿までの距離1里3町11間(約4.3km)、かせぎ坂を下りきった先、黒目川の流れる低地に膝折宿はある。”膝折”とは実に珍しく興味深い地名、早速調べてみることに。その由来は小栗小次郎なる武士が名馬鬼鹿毛で逃れる最中、鬼鹿毛がこの地で膝を折り死んだことにあるという。競馬に詳しい方はご存知だろうが、馬にとって足の故障は致命傷、しかも膝ともなれば尚更である。膝折は室町時代中期には町を形成。脚籠(きょうけ)と呼ばれる椀を固定するための脚付き竹籠が特産品で、4・9のつく日に六斎市が立ったと、「廻国雑記」(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)に記される。江戸時代になって川越街道の重要性が増し、街道沿いに町家が移って本陣・脇本陣が置かれ、宿駅として整備された。


かせぎ坂を下りきった所から膝折宿の始まり。宿内を歩こう。

早速右手に現れる寄棟屋根の古い建物。屋根はトタン葺きであるが、昔は茅葺だったのだろう。この家が脇本陣を努めた旅籠村田屋。

膝折郵便局の場所が旧本陣牛山家。

膝折2丁目交差点付近。宿場の面影は残っていない。

五差路の膝折1丁目交差点で旧道は左折。

膝折1丁目交差点を左に曲がってすぐ、旧道沿いにある増田屋旅館。かつては旅籠だったのだろうか。近年まで看板を出し営業を続けていたが、現在はその看板も撤去され廃業してしまったようだ。

旧道は黒目川に架かる大橋に向かって延びる。

黒目川に架かる大橋。

大橋より黒目川下流方向を望む。

旧道は二又に分かれ上り坂に。左がたびやの坂、右がかごやの坂。それぞれ坂の途中に足袋屋や駕籠屋があったのでそう呼ばれたという。最も古い道は左のたびやの坂。かごやの坂は明治初期の関東平野迅速測図に見られないことから、明治期以降に通されたことがわかる。昭和初期に膝折1丁目交差点から直進する新道(現 埼玉県道109号)が敷設され、こちらは坂上に合同貨物自動車会社があったことから”合同の坂”と呼ばれたという。

たびやの坂とかごやの坂の分岐点にある庚申塔。上部が白くペイントされてしまっているのは、心無き者の仕業か。元文元年(1736年)建立。

たびやの坂を上る。結構な急坂だ。

たびやの坂上から坂下を望む。

たびやの坂を上りきると旧道は朝霞市から新座市へ入る。直進の細い路地が旧道、その入口が市境となっている。

旧道は野火止下交差点手前で埼玉県道109号に合流。

野火止下交差点付近に並ぶ横町の六地蔵。享保17年(1732年)建立。両隣に正徳4年(1714年)銘の地蔵菩薩と宝暦6年(1756年)銘の庚申塔がある。いずれも江戸中期の作ながら保存状態が非常によい。風雨に晒されず大切に守られてきた証だろう。当時から同じ場所にあるならば、この先は鬱蒼と茂る武蔵野の原生林を行く野火止の地、旅人にとっては目印になり、道中の無事をも祈ったことだろう。

日が暮れてきた。野火止大門交差点を左折し、どうしても行きたかった平林寺へ急ぐ。

が…、時すでに遅し。閉門時間の16時半を30分程過ぎており入場できず。骨ならぬ、膝折り損のくだびれ儲けとはこのことだ。平林寺は次の歩き旅に機会を得よう。

新座市役所にて。カラスが鳴くからかーえろっと。
【川越街道歩き 第2日目】下赤塚駅→白子宿→膝折宿→平林寺→野火止用水→JR新座駅 歩行距離約15km

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