烏頭坂
【2012年12月22日(土)川越街道 大井宿→川越城下】
さあ、大井宿を出て一気に川越城下へ向かおう。旧大井村役場を過ぎた所で、川越街道は国道254号から左斜めに旧道が分かれる。この辺り、ふじみ野市と富士見市の市域が入り組み、富士見市ふじみ野西という住所が存在したり、ふじみ野駅の所在地は富士見市だったりと、そもそも市名が似通っているだけに、よそ者にとっては実に紛らわしい。平成17年(2005年)上福岡市と入間郡大井町が合併し、ふじみ野市が成立したことでこのような事態になってしまったようだ。少々話がそれた、本題に戻そう。国道を分かれた旧道は国道の西側を並行、ふじみ野市亀久保を通り抜け、国道に合流してふじみ野市鶴ケ岡に入る。その北端にある鶴ヶ岡八幡宮前で旧道が再び国道を左手に分かれ、ここで市域がふじみ野市から川越市へ。川越市藤間・砂新田を進み不老川を渡った先に烏頭坂(うとうざか)が待ち受ける。今となってはごく普通の坂道であるが、かつて新河岸川の舟運で荷揚げされた荷物は、この坂道を上って川越へ運んだといい、運搬人は随分と難儀を強いられたらしい。


旧大井村役場の先、国道254号から旧道が左手に分かれる。

亀久保を行く旧川越街道。かつては亀久保村の集落が街道沿いに軒を連ねていた。

亀久保の中心、大井総合支所交差点は古くの川越街道と地蔵街道(大山道)が交差する四差路。亀久保村から霊峰大山へ通ずる道は、ここが最初の曲がり角になることから”角”と呼ばれた。その交差点角に”角の常夜燈”が残る。地蔵街道は富の地蔵様の名で親しまれる木ノ宮地蔵堂(入間郡三芳町上富)へ至る道で、霊峰大山へも通じていた。

享和2年(1802)建立の”角の常夜燈”。明治30年(1898年)に笠石と台石を再建。元々は街道の中央に置かれていた。

亀久保を行く旧道。地蔵院付近。

門前で仁王像が睨みを利かせる地蔵院。

正式名は木宮山地蔵院、新義真言宗で普光明寺(新座市大和田)の末寺。政和3年(1314年)覚応による開基、鎌倉時代末期に二階堂氏が再興し祈願寺にしたと伝わる。昭和27年(1952年)の火災で本堂をはじめ鎌倉・南北朝期の仏具や江戸期の大般若経600巻を焼失、本尊と山門だけが残ったという。

地蔵院の枝垂桜。推定樹齢390年という江戸彼岸桜の変種で、ふじみ野市指定の天然記念物。平成10年(1998年)樹勢に衰えが見られるようになったため、樹勢回復の措置が取られた。春には見事な花をつけるらしいが、師走の半ばを過ぎた今は見ての通り。

亀久保の北端付近、街道左手に亀久保神明神社が鎮座する。

亀久保村の産土神、神明神社。天文15年(1546年) 川越夜戦で北条方の奇襲に敗れた上杉方斉藤利長(平安時代末期の武将、斎藤実盛の子孫)とその子、信広によって京都より神明社を野老沢に勧請したとの口伝が残る。野老沢は”ところざわ”と読み、現在の埼玉県所沢市にあたる。

亀久保交差点手前で旧道と国道254号が合流。左は東京方面へ向かう国道で、右は旧川越街道。

亀久保を抜けると鶴ケ岡に入って国道254号を進む。

ふじみ野市と川越市の市境で国道から再び旧道が左手に分岐。

鶴ケ岡の北端、鶴ヶ岡厄除地蔵尊と八幡神社がある。写真左手前が地蔵尊の御堂で、右奥に八幡神社が鎮座する。この辺り、周辺の市街地とは雰囲気を異にしている。

鶴ヶ岡厄除地蔵尊。新旧二体の地蔵尊を安置する。

鶴ヶ岡八幡神社。正保年間(1645~1648年)以降の建立とされるが、創建年は不詳。鎌倉鶴岡八幡宮に関係があるらしい。鶴ケ岡という地名の由来はこの神社にあると思われる。

藤間の旧川越街道。

”いもせんべい本家 あらい”と書かれた行燈型の看板を掲げる店。昔は芋煎餅屋だったのかもしれないが、今は明らかに煎餅屋ではない。店の横に藤棚があり、”旧川越街道・藤馬中宿跡”刻まれた石柱と半分消えかかった説明板が立てられている。何とか読み取れる部分から要約すると、昭和の初め頃までこの藤の木の下で糸だんごを焼き、旅人に供していたという。昔の藤間辺りは間の宿的な存在で、旅人が足を休める茶屋が何軒かあったのだろう。

藤馬の街道沿いにある東光寺。

高階中学校付近から街道は不老川に向かって緩い下り坂に。

高階中学校の街道を挟んで向かいに残る庚申塔。

砂新田春日神社横を行く旧川越街道。

砂新田春日神社本殿。東都彫工嶋村俊正という人の作。左側面に竜と琴をひく婦人、右側面に虎と翁と童子の彫刻が見られる。江戸時代末期から明治初期の製作と考えられている。

山形屋荘なる旧旅籠らしき建物の前を通り、その先で不老川を渡る。

不老川に架かる御代橋。江戸から新河岸川の舟運で運ばれてき荷物は、上新河岸・下新河岸・扇河岸等で荷揚げされ、ここ御代橋の手前で川越街道に入り、先に控える烏頭坂を上って川越へ運ばれた。新河岸川の舟運は江戸時代前期に川越藩主松平信綱により整備された江戸と川越を繋ぐ物資輸送路。江戸時代末期から明治初期にかけて最盛期を迎えた。

御代橋下を流れる不老川。

御代橋の北側、岸町を行く旧川越街道。

川越街道最後の難所、烏頭坂。新河岸川の舟運で運ばれてきた荷物は荷揚げされた後、川越の問屋街へ運ぶときにこの烏頭坂を必ず上らなければならず、運搬人は難渋したようだ。廻国雑記(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)に、「うとふ坂 こえて苦しき行末を やすかたとなく 鳥の音もかな」の歌が見られる。室町時代中期以前から存在する古い坂名。

烏頭坂に鎮座する熊野神社。

熊野神社より烏頭坂下を望む。現在は平凡な坂道であるが、昔は杉並木に覆われ鬱蒼としていたらしい。

烏頭坂を上りきったところで、国道254号に合流。左が国道、右は烏頭坂旧道。

いよいよ川越城下へ。いざ参らん。
さあ、大井宿を出て一気に川越城下へ向かおう。旧大井村役場を過ぎた所で、川越街道は国道254号から左斜めに旧道が分かれる。この辺り、ふじみ野市と富士見市の市域が入り組み、富士見市ふじみ野西という住所が存在したり、ふじみ野駅の所在地は富士見市だったりと、そもそも市名が似通っているだけに、よそ者にとっては実に紛らわしい。平成17年(2005年)上福岡市と入間郡大井町が合併し、ふじみ野市が成立したことでこのような事態になってしまったようだ。少々話がそれた、本題に戻そう。国道を分かれた旧道は国道の西側を並行、ふじみ野市亀久保を通り抜け、国道に合流してふじみ野市鶴ケ岡に入る。その北端にある鶴ヶ岡八幡宮前で旧道が再び国道を左手に分かれ、ここで市域がふじみ野市から川越市へ。川越市藤間・砂新田を進み不老川を渡った先に烏頭坂(うとうざか)が待ち受ける。今となってはごく普通の坂道であるが、かつて新河岸川の舟運で荷揚げされた荷物は、この坂道を上って川越へ運んだといい、運搬人は随分と難儀を強いられたらしい。


旧大井村役場の先、国道254号から旧道が左手に分かれる。

亀久保を行く旧川越街道。かつては亀久保村の集落が街道沿いに軒を連ねていた。

亀久保の中心、大井総合支所交差点は古くの川越街道と地蔵街道(大山道)が交差する四差路。亀久保村から霊峰大山へ通ずる道は、ここが最初の曲がり角になることから”角”と呼ばれた。その交差点角に”角の常夜燈”が残る。地蔵街道は富の地蔵様の名で親しまれる木ノ宮地蔵堂(入間郡三芳町上富)へ至る道で、霊峰大山へも通じていた。

享和2年(1802)建立の”角の常夜燈”。明治30年(1898年)に笠石と台石を再建。元々は街道の中央に置かれていた。

亀久保を行く旧道。地蔵院付近。

門前で仁王像が睨みを利かせる地蔵院。

正式名は木宮山地蔵院、新義真言宗で普光明寺(新座市大和田)の末寺。政和3年(1314年)覚応による開基、鎌倉時代末期に二階堂氏が再興し祈願寺にしたと伝わる。昭和27年(1952年)の火災で本堂をはじめ鎌倉・南北朝期の仏具や江戸期の大般若経600巻を焼失、本尊と山門だけが残ったという。

地蔵院の枝垂桜。推定樹齢390年という江戸彼岸桜の変種で、ふじみ野市指定の天然記念物。平成10年(1998年)樹勢に衰えが見られるようになったため、樹勢回復の措置が取られた。春には見事な花をつけるらしいが、師走の半ばを過ぎた今は見ての通り。

亀久保の北端付近、街道左手に亀久保神明神社が鎮座する。

亀久保村の産土神、神明神社。天文15年(1546年) 川越夜戦で北条方の奇襲に敗れた上杉方斉藤利長(平安時代末期の武将、斎藤実盛の子孫)とその子、信広によって京都より神明社を野老沢に勧請したとの口伝が残る。野老沢は”ところざわ”と読み、現在の埼玉県所沢市にあたる。

亀久保交差点手前で旧道と国道254号が合流。左は東京方面へ向かう国道で、右は旧川越街道。

亀久保を抜けると鶴ケ岡に入って国道254号を進む。

ふじみ野市と川越市の市境で国道から再び旧道が左手に分岐。

鶴ケ岡の北端、鶴ヶ岡厄除地蔵尊と八幡神社がある。写真左手前が地蔵尊の御堂で、右奥に八幡神社が鎮座する。この辺り、周辺の市街地とは雰囲気を異にしている。

鶴ヶ岡厄除地蔵尊。新旧二体の地蔵尊を安置する。

鶴ヶ岡八幡神社。正保年間(1645~1648年)以降の建立とされるが、創建年は不詳。鎌倉鶴岡八幡宮に関係があるらしい。鶴ケ岡という地名の由来はこの神社にあると思われる。

藤間の旧川越街道。

”いもせんべい本家 あらい”と書かれた行燈型の看板を掲げる店。昔は芋煎餅屋だったのかもしれないが、今は明らかに煎餅屋ではない。店の横に藤棚があり、”旧川越街道・藤馬中宿跡”刻まれた石柱と半分消えかかった説明板が立てられている。何とか読み取れる部分から要約すると、昭和の初め頃までこの藤の木の下で糸だんごを焼き、旅人に供していたという。昔の藤間辺りは間の宿的な存在で、旅人が足を休める茶屋が何軒かあったのだろう。

藤馬の街道沿いにある東光寺。

高階中学校付近から街道は不老川に向かって緩い下り坂に。

高階中学校の街道を挟んで向かいに残る庚申塔。

砂新田春日神社横を行く旧川越街道。

砂新田春日神社本殿。東都彫工嶋村俊正という人の作。左側面に竜と琴をひく婦人、右側面に虎と翁と童子の彫刻が見られる。江戸時代末期から明治初期の製作と考えられている。

山形屋荘なる旧旅籠らしき建物の前を通り、その先で不老川を渡る。

不老川に架かる御代橋。江戸から新河岸川の舟運で運ばれてき荷物は、上新河岸・下新河岸・扇河岸等で荷揚げされ、ここ御代橋の手前で川越街道に入り、先に控える烏頭坂を上って川越へ運ばれた。新河岸川の舟運は江戸時代前期に川越藩主松平信綱により整備された江戸と川越を繋ぐ物資輸送路。江戸時代末期から明治初期にかけて最盛期を迎えた。

御代橋下を流れる不老川。

御代橋の北側、岸町を行く旧川越街道。

川越街道最後の難所、烏頭坂。新河岸川の舟運で運ばれてきた荷物は荷揚げされた後、川越の問屋街へ運ぶときにこの烏頭坂を必ず上らなければならず、運搬人は難渋したようだ。廻国雑記(1487年頃成立の紀行文、道興准后の著)に、「うとふ坂 こえて苦しき行末を やすかたとなく 鳥の音もかな」の歌が見られる。室町時代中期以前から存在する古い坂名。

烏頭坂に鎮座する熊野神社。

熊野神社より烏頭坂下を望む。現在は平凡な坂道であるが、昔は杉並木に覆われ鬱蒼としていたらしい。

烏頭坂を上りきったところで、国道254号に合流。左が国道、右は烏頭坂旧道。

いよいよ川越城下へ。いざ参らん。

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