粟田口・青蓮院
【2013年5月19日(日)旧東海道 三条大橋→大津宿 道中】
三条通白川橋から東側の蹴上・九条山にかけての一帯に、粟田口という古い地名が残っている。粟田口は奈良時代以前から開かれた土地で、古代の豪族粟田氏の本拠があり粟田郷を称したことに地名の起源がある。平安京遷都以来、この地は都と東国を繋ぐ古道の出入口で交通・軍事上の要地であり、粟田の地名に”口”の字を補ってその意味合いを強めたのだろう。平安時代末期以降、名刀”小狐丸”を打った伝説の刀匠・三条小鍛冶宗近をはじめ、多くの刀鍛冶が住居を構えて職人町の様相を見せた。近世には京都七口(洛中へ繋がる各街道の出入口)の一つに数えられ、中でも東海道・中山道の京都出入口に位置する粟田口辺りは、江戸期を通して人や物資の往来で大変な賑わいをみせたことだろう。元和年間(1615年~1624年)には瀬戸焼き物の技術が入り、”粟田焼”と呼ばれる陶器の産地にもなった。
その粟田口にあるのが青蓮院だ。三千院・妙法院に並ぶ天台宗三門跡の一つ。天明の大火(1788年)の際に後櫻町上皇の仮御所となったことから粟田御所の別名がある。青蓮院のはじまりは伝教大師最澄が比叡山に建てた僧侶の住居”青蓮坊”にあるとされ、これを平安時代後期の久安6年(1150年)天台座主行玄が三条白川の地へ移し、美福門院(藤原得子、鳥羽上皇の皇后で近衛天皇生母)の御願寺として青蓮院に改称。行玄の弟子であった鳥羽法皇の第七皇子が入寺して以来、皇族や摂関家の子弟が門主(住職)を務める”門跡寺院”となった。室町時代中期の応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発し、青蓮院の建物はことごとく灰燼に帰して長らく荒廃、室町末期になって豊臣秀吉や徳川家康により復興された。明治26年(1893年)に火災があり、好文亭・御幸門・長屋門を残して大部分の建物を焼失。好文亭も平成5年(1993年)放火により焼失した。


明治26年の火災を免れた長屋門とクスノキの巨木。この長屋門は明正天皇(後水尾天皇の第二皇女、女帝)の時、中和門院(近衛前子、後水尾天皇の生母)御所のものを移築したというから、江戸時代初期の建築か。

拝観入口から渡り廊下を通って小御所へ。写真奥に見える建物が後櫻町上皇の仮御所となった小御所。しかし当時の建物ではなく、明治26年の火災後に江戸中期建築の建物を移築したもの。

小御所から相阿弥の庭を眺めて。ほっと心が休まります。

新緑の若葉が清々しいカエデ。秋には見事な紅葉が見られるのだろう。

青蓮院宸殿。東福門院(徳川秀忠五女、後水尾天皇中宮で明正天皇生母)の御所を移転。明治26年の焼失後に復興。写真右の簾中に天皇及び歴代門主の御尊牌を祀っており、写真撮影禁止のためここまで。

重要文化財の濱松図襖。江戸時代、狩野派による作。明治26年の火災を免れたようで、宸殿が東福門院御所として使われていた時代の襖絵だという。

青蓮院宸殿。

孝明天皇御常用の板輿。江戸時代の超高級車だ。

華頂殿にて。相阿弥の庭を眺めながらひと休み。相阿弥の庭は龍心池を中心に据える回遊式庭園。多くの人が縁側に腰かけてゆったりと流れるひと時を過ごしてました。

ひと休みを終えた所で外へ。青蓮院小御所と龍心池。

後櫻町上皇の学問所として使われた好文亭。明治期以降は茶室として利用していたが、平成5年の放火により焼失
。2年後に創建当初の平面図を基に復元された。

御本尊”熾盛光如来”の曼荼羅を安置する本堂。写真はその裏手にあたり、国宝の青不動画像(複製写真)を安置している。

青蓮院宸殿の外観。

式台付きの立派な大玄関。一般の拝観者はここから出入りできません。

こちらは青蓮院境内への正式な出入口となる四脚門。この門を潜り抜けた先に大玄関がある。もちろん一般の参拝者はこの門を潜ることはできない。長屋門と同じく中和門院の門を移築したもので、明治26年の火災を免れた貴重な建築物。

青蓮院を後にして少々足を延ばし、知恩院へ。宗祖法然上人の終焉地に建てられた浄土宗総本山。境内入口の三門前には大型観光バスが停まり、多くの観光客で賑わう。高さ24m、横幅50mという巨大なこの門は、元和7年(1621年)徳川二代将軍秀忠の命により建立された。

法然上人の御影を安置する御影堂。大殿とも称される知恩院の中心をなすこれまた巨大な御堂だ。寛永16年(1639年)徳川三代将軍家光によって再建されたもので、平成14年(2002年)国宝に指定。昨年1月より大修理が始まり、現在は写真を見ての通りの状況。何と修理完了に約8年もの年月を要する工程で、それまで内部に入ることはできないらしい。残念。

知恩院からもうちょいと足を延ばし、是非とも参拝したかった八坂神社に行こう。写真はその境内南出入口となる南楼門に立つ大鳥居。多くの観光客や修学旅行生が参拝に訪れていた。

南楼門から境内へ。

日本三大祭りであり京都三大祭りの一つ、京都祇園祭で有名な八坂神社。素戔嗚尊(すさのおのみこと)をはじめ櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭神に祀り、全国各地に2~3千社あるという八坂系神社の総本社である。慶応4年(1868年)神仏分離令により現社名となる前は祇園社などと称していた。

八坂神社西楼門。天気はそこそこ良かったのに、いつの間にやら暗雲が垂れ込めて雨が降り始める。八坂神社の散策はここで終わりとし、白川を遡って旧東海道の三条通へ戻ろう。

白川に架かる一本橋。「比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町へ入洛するとき最初に渡る橋であり、行者橋とも阿闍梨橋ともいわれる。」と、橋袂に説明書がある。普通に渡ることができる石橋だが、橋幅が狭いうえ手すりすら無く、落っこちた人もいるのではなかろうかと、余計な心配。一休さんではないが、端(橋)を渡らない方がよいだろう。

雨が本降りとなり始めた頃、白川橋に戻って旧東海道歩きの続きを。
三条通白川橋から東側の蹴上・九条山にかけての一帯に、粟田口という古い地名が残っている。粟田口は奈良時代以前から開かれた土地で、古代の豪族粟田氏の本拠があり粟田郷を称したことに地名の起源がある。平安京遷都以来、この地は都と東国を繋ぐ古道の出入口で交通・軍事上の要地であり、粟田の地名に”口”の字を補ってその意味合いを強めたのだろう。平安時代末期以降、名刀”小狐丸”を打った伝説の刀匠・三条小鍛冶宗近をはじめ、多くの刀鍛冶が住居を構えて職人町の様相を見せた。近世には京都七口(洛中へ繋がる各街道の出入口)の一つに数えられ、中でも東海道・中山道の京都出入口に位置する粟田口辺りは、江戸期を通して人や物資の往来で大変な賑わいをみせたことだろう。元和年間(1615年~1624年)には瀬戸焼き物の技術が入り、”粟田焼”と呼ばれる陶器の産地にもなった。
その粟田口にあるのが青蓮院だ。三千院・妙法院に並ぶ天台宗三門跡の一つ。天明の大火(1788年)の際に後櫻町上皇の仮御所となったことから粟田御所の別名がある。青蓮院のはじまりは伝教大師最澄が比叡山に建てた僧侶の住居”青蓮坊”にあるとされ、これを平安時代後期の久安6年(1150年)天台座主行玄が三条白川の地へ移し、美福門院(藤原得子、鳥羽上皇の皇后で近衛天皇生母)の御願寺として青蓮院に改称。行玄の弟子であった鳥羽法皇の第七皇子が入寺して以来、皇族や摂関家の子弟が門主(住職)を務める”門跡寺院”となった。室町時代中期の応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発し、青蓮院の建物はことごとく灰燼に帰して長らく荒廃、室町末期になって豊臣秀吉や徳川家康により復興された。明治26年(1893年)に火災があり、好文亭・御幸門・長屋門を残して大部分の建物を焼失。好文亭も平成5年(1993年)放火により焼失した。


明治26年の火災を免れた長屋門とクスノキの巨木。この長屋門は明正天皇(後水尾天皇の第二皇女、女帝)の時、中和門院(近衛前子、後水尾天皇の生母)御所のものを移築したというから、江戸時代初期の建築か。

拝観入口から渡り廊下を通って小御所へ。写真奥に見える建物が後櫻町上皇の仮御所となった小御所。しかし当時の建物ではなく、明治26年の火災後に江戸中期建築の建物を移築したもの。

小御所から相阿弥の庭を眺めて。ほっと心が休まります。

新緑の若葉が清々しいカエデ。秋には見事な紅葉が見られるのだろう。

青蓮院宸殿。東福門院(徳川秀忠五女、後水尾天皇中宮で明正天皇生母)の御所を移転。明治26年の焼失後に復興。写真右の簾中に天皇及び歴代門主の御尊牌を祀っており、写真撮影禁止のためここまで。

重要文化財の濱松図襖。江戸時代、狩野派による作。明治26年の火災を免れたようで、宸殿が東福門院御所として使われていた時代の襖絵だという。

青蓮院宸殿。

孝明天皇御常用の板輿。江戸時代の超高級車だ。

華頂殿にて。相阿弥の庭を眺めながらひと休み。相阿弥の庭は龍心池を中心に据える回遊式庭園。多くの人が縁側に腰かけてゆったりと流れるひと時を過ごしてました。

ひと休みを終えた所で外へ。青蓮院小御所と龍心池。

後櫻町上皇の学問所として使われた好文亭。明治期以降は茶室として利用していたが、平成5年の放火により焼失
。2年後に創建当初の平面図を基に復元された。

御本尊”熾盛光如来”の曼荼羅を安置する本堂。写真はその裏手にあたり、国宝の青不動画像(複製写真)を安置している。

青蓮院宸殿の外観。

式台付きの立派な大玄関。一般の拝観者はここから出入りできません。

こちらは青蓮院境内への正式な出入口となる四脚門。この門を潜り抜けた先に大玄関がある。もちろん一般の参拝者はこの門を潜ることはできない。長屋門と同じく中和門院の門を移築したもので、明治26年の火災を免れた貴重な建築物。

青蓮院を後にして少々足を延ばし、知恩院へ。宗祖法然上人の終焉地に建てられた浄土宗総本山。境内入口の三門前には大型観光バスが停まり、多くの観光客で賑わう。高さ24m、横幅50mという巨大なこの門は、元和7年(1621年)徳川二代将軍秀忠の命により建立された。

法然上人の御影を安置する御影堂。大殿とも称される知恩院の中心をなすこれまた巨大な御堂だ。寛永16年(1639年)徳川三代将軍家光によって再建されたもので、平成14年(2002年)国宝に指定。昨年1月より大修理が始まり、現在は写真を見ての通りの状況。何と修理完了に約8年もの年月を要する工程で、それまで内部に入ることはできないらしい。残念。

知恩院からもうちょいと足を延ばし、是非とも参拝したかった八坂神社に行こう。写真はその境内南出入口となる南楼門に立つ大鳥居。多くの観光客や修学旅行生が参拝に訪れていた。

南楼門から境内へ。

日本三大祭りであり京都三大祭りの一つ、京都祇園祭で有名な八坂神社。素戔嗚尊(すさのおのみこと)をはじめ櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭神に祀り、全国各地に2~3千社あるという八坂系神社の総本社である。慶応4年(1868年)神仏分離令により現社名となる前は祇園社などと称していた。

八坂神社西楼門。天気はそこそこ良かったのに、いつの間にやら暗雲が垂れ込めて雨が降り始める。八坂神社の散策はここで終わりとし、白川を遡って旧東海道の三条通へ戻ろう。

白川に架かる一本橋。「比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町へ入洛するとき最初に渡る橋であり、行者橋とも阿闍梨橋ともいわれる。」と、橋袂に説明書がある。普通に渡ることができる石橋だが、橋幅が狭いうえ手すりすら無く、落っこちた人もいるのではなかろうかと、余計な心配。一休さんではないが、端(橋)を渡らない方がよいだろう。

雨が本降りとなり始めた頃、白川橋に戻って旧東海道歩きの続きを。

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