大津宿
【旧東海道歩き 第2日目】JR大津駅→大津宿→草津宿→草津第一ホテル
【2013年7月13日(土)旧東海道 大津宿→草津宿 道中】
平年より2週間程早い梅雨明けを迎えた近畿地方。それから間もない7月の3連休初日に大津宿から旧東海道歩きを再開することに。春夏秋冬、歩き旅をしている者にとって最も辛いのは雨や雪、寒さではない。猛烈な暑さにあると思う。容赦なく照りつける盛夏の陽射しは、水分と共に体力を著しく消耗させるうえ、足に故障を発生させるのもこの時期である。早い真夏の到来に少々慄きながらも、できうる限りの軽装に身を整えて東京駅から東海道新幹線に乗車し京都駅へ。京都駅からJRで大津駅に移動し、駅構内にある”トランドールⅡ”という喫茶店でそそくさと朝食を済ませた。さあ、大津宿から江戸へ向けて歩みを進めよう。
東海道は江戸日本橋から数えて53宿目、京都三条大橋からならば1宿目となる大津宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西16町51間(約1838m)・南北1里19間(約3962m)、人口14892人、家数3650軒、本陣2、脇本陣2、旅籠71軒。宿内からは西近江路(北国海道)が分岐し、琵琶湖の水運もあって物資集散地となり商業が発展、東海道53次中最大の人口を誇る宿場町として賑わった。名産品の一つに大津絵と呼ばれる民画があり、街道を往来する多くの旅人が土産に購入し、観賞用を兼ねた護符として家や店に飾ったのだという。軽妙なタッチで描かれる神仏や人物・鬼等の絵は親しみやすいうえにどことなくユーモラスで、多くの庶民に受け入れられた理由が伝わってくる。

関連記事
大津宿(旧中山道歩きの記事)

国道161号(現近江路)沿いの大津宿本陣跡から旧東海道歩きを再開!

道路中央を走る京阪電鉄の列車を横目に見ながら京町一丁目交差点へ移動。前の記事に書いた通り、ここは旧東海道と旧近江路(北国海道)・小関越えの分岐点で、かつて高札場が置かれた札の辻。逢坂山を越えてきた旧東海道はここを鉤の手に南から東へ折れる。札の辻から逢坂山麓にかけての東海道筋は八町通と呼ばれ、本陣・脇本陣をはじめ多くの旅籠が軒を連ねる大津宿の中心部だった。

かつての札の辻は大津市の道の起点。

札の辻から東へ延びる旧東海道は京町通の別称がある。

東海道最大級の規模を誇った大津宿、町並みには今もその面影が残る。

路傍に露国皇太子遭難地の碑が立つ。明治24年(1891年)訪日したロシア皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)を、警備中の巡査津田三蔵が斬りつけた暗殺未遂事件の事件現場。

大津宿を行く旧東海道(京町通)。

京町に数多くある寺院の一つ、唯泉寺。

真宗大谷派東本願寺の大津別院。江戸時代初期、大谷派本願寺(東本願寺)第12世の教如による建立。教如は父・顕如と共、織田信長に対して徹底抗戦(石山合戦)した人物。戦国系シュミレーションゲームでその名を知る人は多いだろう。本堂と書院は国の重要文化財に指定される。

旧東海道(京町通)と中央大通りの交差点、京町三丁目交差点から南に目を向けると、国会議事堂!?いや、滋賀県庁があった。パッと見、国会議事堂が頭をよぎったのは建築様式が同じせいなのかと調べてみたところ、映画「SP革命篇」で使われた国会議事堂のシーンはここ滋賀県庁がロケ地だという。なるほど、数か月前にテレビで見たのがイメージに残っていたのかもしれない。

旧東海道の常盤橋。

成覚寺前を通る旧東海道。

常世川のを渡る。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぐ小さな流れ。

常世川にて。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川 三途川ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。なかなか気の利いた面白い説明書きだ。

天智天皇7年(668年)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わる平野神社。

石場を行く旧東海道。石場という地名の由来は享保19年(1734年)刊行の『近江輿地誌略』に記される。「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほど。

石場踏切を渡って。

馬場一丁目にある義仲寺。旧中山道歩き以来の再訪。小さな境内の寺であるが、ここはなかなか興味深い。創建については不詳であるが、木曽義仲の側室巴御前が尼となり、義仲供養のため草庵を結んだことに由来があると伝わる。古くこの地は粟津ヶ原と言い、宇治川の戦い等で源範頼・義経に敗れ京を落ちた木曽義仲が討たれたのがこの地なのだ。鎌倉時代後期の文書に巴寺や木曽塚の名が見られるといい、巴御前が晩年を過ごした地がここだというのも真実に思えてくる。

義仲寺本堂の朝日堂。本尊は木彫聖観世音菩薩。木曽義仲とその嫡男義高の木像を安置する。

この立派な宝篋印塔が木曽義仲公墓。木曽塚とも呼ばれる。
木曽の情 雪や生えぬく 春の草
元禄4年(1691年)ここ義仲寺の無名庵で松尾芭蕉が義仲公を偲んで詠んだ句である。芭蕉が木曽塚を眺めながらこの句を詠んだのかと思えば、実に感慨深い。

木曽義仲側室の巴御前を弔う巴塚。晩年に尼となった巴御前はこの地で義仲の菩提を弔い、後に信州木曽に戻り90歳の生涯を閉じたと伝わる。

木曽塚の右にある松尾芭蕉の墓。義仲寺に度々滞在した芭蕉は、木曽義仲が大のお気に入りだったらしく、没後は義仲寺へ葬るよう遺言したという。芭蕉没年の元禄7年(1694年)に書かれた”芭蕉翁終焉記”に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままなことに感動。

義仲寺にて。

芭蕉翁座像を安置する翁堂。

翁堂の天井絵は伊藤若冲筆”四季花卉の図”。明和7年(1770年)の作。翁堂は安政3年(1856年)に類焼し2年後に再建。現在の天井絵は明治21年(1888年)穂積永機が復元製作し奉納したもの。


この記事の最後に義仲寺で土産に買った大津絵の絵葉書を紹介。愛嬌ある鬼の顔が微笑ましい。江戸時代のゆるキャラといったところかな。
【2013年7月13日(土)旧東海道 大津宿→草津宿 道中】
平年より2週間程早い梅雨明けを迎えた近畿地方。それから間もない7月の3連休初日に大津宿から旧東海道歩きを再開することに。春夏秋冬、歩き旅をしている者にとって最も辛いのは雨や雪、寒さではない。猛烈な暑さにあると思う。容赦なく照りつける盛夏の陽射しは、水分と共に体力を著しく消耗させるうえ、足に故障を発生させるのもこの時期である。早い真夏の到来に少々慄きながらも、できうる限りの軽装に身を整えて東京駅から東海道新幹線に乗車し京都駅へ。京都駅からJRで大津駅に移動し、駅構内にある”トランドールⅡ”という喫茶店でそそくさと朝食を済ませた。さあ、大津宿から江戸へ向けて歩みを進めよう。
東海道は江戸日本橋から数えて53宿目、京都三条大橋からならば1宿目となる大津宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西16町51間(約1838m)・南北1里19間(約3962m)、人口14892人、家数3650軒、本陣2、脇本陣2、旅籠71軒。宿内からは西近江路(北国海道)が分岐し、琵琶湖の水運もあって物資集散地となり商業が発展、東海道53次中最大の人口を誇る宿場町として賑わった。名産品の一つに大津絵と呼ばれる民画があり、街道を往来する多くの旅人が土産に購入し、観賞用を兼ねた護符として家や店に飾ったのだという。軽妙なタッチで描かれる神仏や人物・鬼等の絵は親しみやすいうえにどことなくユーモラスで、多くの庶民に受け入れられた理由が伝わってくる。

関連記事
大津宿(旧中山道歩きの記事)

国道161号(現近江路)沿いの大津宿本陣跡から旧東海道歩きを再開!

道路中央を走る京阪電鉄の列車を横目に見ながら京町一丁目交差点へ移動。前の記事に書いた通り、ここは旧東海道と旧近江路(北国海道)・小関越えの分岐点で、かつて高札場が置かれた札の辻。逢坂山を越えてきた旧東海道はここを鉤の手に南から東へ折れる。札の辻から逢坂山麓にかけての東海道筋は八町通と呼ばれ、本陣・脇本陣をはじめ多くの旅籠が軒を連ねる大津宿の中心部だった。

かつての札の辻は大津市の道の起点。

札の辻から東へ延びる旧東海道は京町通の別称がある。

東海道最大級の規模を誇った大津宿、町並みには今もその面影が残る。

路傍に露国皇太子遭難地の碑が立つ。明治24年(1891年)訪日したロシア皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)を、警備中の巡査津田三蔵が斬りつけた暗殺未遂事件の事件現場。

大津宿を行く旧東海道(京町通)。

京町に数多くある寺院の一つ、唯泉寺。

真宗大谷派東本願寺の大津別院。江戸時代初期、大谷派本願寺(東本願寺)第12世の教如による建立。教如は父・顕如と共、織田信長に対して徹底抗戦(石山合戦)した人物。戦国系シュミレーションゲームでその名を知る人は多いだろう。本堂と書院は国の重要文化財に指定される。

旧東海道(京町通)と中央大通りの交差点、京町三丁目交差点から南に目を向けると、国会議事堂!?いや、滋賀県庁があった。パッと見、国会議事堂が頭をよぎったのは建築様式が同じせいなのかと調べてみたところ、映画「SP革命篇」で使われた国会議事堂のシーンはここ滋賀県庁がロケ地だという。なるほど、数か月前にテレビで見たのがイメージに残っていたのかもしれない。

旧東海道の常盤橋。

成覚寺前を通る旧東海道。

常世川のを渡る。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぐ小さな流れ。

常世川にて。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川 三途川ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。なかなか気の利いた面白い説明書きだ。

天智天皇7年(668年)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わる平野神社。

石場を行く旧東海道。石場という地名の由来は享保19年(1734年)刊行の『近江輿地誌略』に記される。「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほど。

石場踏切を渡って。

馬場一丁目にある義仲寺。旧中山道歩き以来の再訪。小さな境内の寺であるが、ここはなかなか興味深い。創建については不詳であるが、木曽義仲の側室巴御前が尼となり、義仲供養のため草庵を結んだことに由来があると伝わる。古くこの地は粟津ヶ原と言い、宇治川の戦い等で源範頼・義経に敗れ京を落ちた木曽義仲が討たれたのがこの地なのだ。鎌倉時代後期の文書に巴寺や木曽塚の名が見られるといい、巴御前が晩年を過ごした地がここだというのも真実に思えてくる。

義仲寺本堂の朝日堂。本尊は木彫聖観世音菩薩。木曽義仲とその嫡男義高の木像を安置する。

この立派な宝篋印塔が木曽義仲公墓。木曽塚とも呼ばれる。
木曽の情 雪や生えぬく 春の草
元禄4年(1691年)ここ義仲寺の無名庵で松尾芭蕉が義仲公を偲んで詠んだ句である。芭蕉が木曽塚を眺めながらこの句を詠んだのかと思えば、実に感慨深い。

木曽義仲側室の巴御前を弔う巴塚。晩年に尼となった巴御前はこの地で義仲の菩提を弔い、後に信州木曽に戻り90歳の生涯を閉じたと伝わる。

木曽塚の右にある松尾芭蕉の墓。義仲寺に度々滞在した芭蕉は、木曽義仲が大のお気に入りだったらしく、没後は義仲寺へ葬るよう遺言したという。芭蕉没年の元禄7年(1694年)に書かれた”芭蕉翁終焉記”に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままなことに感動。

義仲寺にて。

芭蕉翁座像を安置する翁堂。

翁堂の天井絵は伊藤若冲筆”四季花卉の図”。明和7年(1770年)の作。翁堂は安政3年(1856年)に類焼し2年後に再建。現在の天井絵は明治21年(1888年)穂積永機が復元製作し奉納したもの。


この記事の最後に義仲寺で土産に買った大津絵の絵葉書を紹介。愛嬌ある鬼の顔が微笑ましい。江戸時代のゆるキャラといったところかな。

スポンサーサイト