石部宿
【2013年7月14日(日)旧東海道 石部宿】
京都から江戸へ向けて東海道を歩き始めた旅人が最初に宿泊したのが石部宿、「京立ち石部泊まり」と言われた所以である。宿場西外れにある灰山は古く石部金山と呼ばれ、奈良時代には銅、江戸時代に黄銅鉱が採掘されたといい、後に石灰の採掘場となり灰山と呼ばれるようになった。融通のきかない堅物を指して”石部金吉”という言葉があるのだが、石部金山がその由来となったとの説がある。語源を辞書で調べると「石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語」とあり、石部金山に語呂を合わせて作り出したのだろう。また、石部宿の旅籠は飯盛女を置かなかったといい、このことが所以なのか”石部金吉”には「女色に迷わされない人」という意味合いが強いらしい。
江戸日本橋から数えて51宿目、京都三条大橋からならば3宿目となる石部宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西15町3間(約1.6km)、人口1606人、家数458軒、本陣は小島本陣、三大寺本陣の2軒、脇本陣0軒、旅籠32軒。宿場京方出入口の見附から下横町・上横町・平野町・出水町・仲町・谷町・大亀町・鵜ノ目町・小池町・西清水町・中清水町・東清水町と続く町並み、東端に江戸方出入口の見附があった。下横町に一里塚があり、仲町に小島本陣、谷町に三大寺本陣、谷町から大亀町にかけて問屋場や人足会所、高札場があり宿場の中心をなした。
より大きな地図で 石部宿 を表示

思案した結果、暑さと湿気で結構バテ気味だったこともあり、距離の短い下道を進むことを決断。写真は名神高速道を潜り抜けた先、栗東市から湖南市石部緑台に入った下道。こちらの方が上道より石部宿まで700m程短く、その昔に近道禁制の掟を破ってまで通行した旅人の気持ちがよくわかろう。東海道の本道だった上道に少々後ろ髪惹かれつつ…だったが。

右手に砕石場。山肌を晒す山々が灰山の変わり果てた姿なのか。

砕石場の中に建設中の栗東水口道路の橋脚が建つ。

かつての石部金山(灰山)はそう遠くはない将来、平地になってしまうのだろうか。

五軒茶屋橋で私の歩いてきた下道と東海道の本街道だった上道が合流。写真右手直進が京へ向かう下道の旧東海道、左折にある橋が五軒茶屋橋で上道ルートである。この辺りの旧道は往時と道筋が少々違っている。橋名にある五軒茶屋とは上道開通時に石部宿から5軒の茶屋が上道筋に移り、集落を形成したことに名の由来がある。

石部宿京方外れ、西縄手と呼ばれた場所。現在は東海道を意識した小公園を設置する。現地の解説板によると「ここは宿内に入る前に整列した場所で西縄手と呼び、長い松並木がありました」とある。主語が無いので何が整列したのかわからないが、大名行列を指しているのだろう。

石部宿西縄手付近の民家にて。センスを感じます。

石部宿西縄手付近、旧東海道沿いにある旅館平野屋(写真左手前)。かつて32軒の旅籠を有した石部宿だが、今や宿内の宿泊施設はここだけらしい。

石部西交差点は西の見附跡。石部宿京方出入口にあたる。宿場内が見通せないよう見附土手が築かれていた。

石部一里塚跡付近。江戸日本橋から116里(約456km)、京三条大橋からは9つ目となる一里塚が築かれていたが現存せず。

西の見附跡を過ぎて間もなく、旧東海道は右折。石部宿内には道を直角に曲げる2ヶ所の鉤の手が設けられていた。見通しを悪くすることで敵の侵入を容易にさせない目的だったといわれる。

2ヶ所ある鉤の手の中間、明治43年(1910年)創業という老舗和菓子店の谷口長栄堂がある。ここのいちご大福は手作りで美味しく評判だという。店頭販売しかしていないようで、今更ながら立ち寄らなかったことを悔やむ。

江戸方鉤の手の角にある石部宿田楽茶屋。歌川広重の浮世絵、東海道五十三次・石部「目川ノ里」に描かれた田楽茶屋を再現したお食事処。残念ながら準備中、次回に立ち寄る機会を設けよう。

江戸方より鉤の手を望む。

明清寺参道入口付近、石部宿の町並み。

石部宿の中心部、小島本陣跡前を行く旧東海道。

石部宿に2軒あった本陣の一つ、小島本陣跡。明治天皇が宿泊したことを示す明治天皇聖跡碑が残る。慶安3年(1650年)に創建、承応元年(1652年)膳所藩主本多氏より本陣職を拝命した。

小島本陣跡にて。東海道五十三次・石部「目川ノ里」。目川立場の田楽茶屋が描かれている。

休憩所の”いしべ宿驛”。旧東海道ウォーカーのために設けられたのか、有難くここで一服。

三大寺本陣跡。玄関右上に額縁があり「石部谷町三大寺脇本陣跡」とある。石部宿に脇本陣は無かったというが、江戸の長い時代の中で格の上げ下げがあったのかもしれない。

石部中央交差点はかつての高札場跡。かつては交差点辺りに問屋場があり、その横に高札場が設けられていたという。

石部中央交差点角にある小公園。石部宿高札場跡の解説板や湖南三山の長寿寺(東寺)・常楽寺(西寺)を描いた石碑が設置されている。

石部中央交差点より江戸方へちょっと先、竹内酒造香の泉酒店。明治5年(1872年)創業、石部の酒蔵竹内酒造の直営店。地酒”香の泉”は代表銘柄。
竹内酒造
http://www.kanoizumi.jp/index.html

石部東を行く旧東海道。この辺り、沿道に個人商店が多い。

石部東8丁目にある西福寺。

石部宿東端付近、沿道に吉姫神社参道入口の鳥居が立つ。

茅葦津姫命(かやあしつひめのみこと)と吉比女命(よしひめのみこと)を祭神に祀る吉姫神社。創祀年代不詳。旧社寺は黒の御前と称する地にあり、弘仁2年(811年)山崩れによって石部西側の吉御子神社と共に東側の上田(現 湖南市石部東3丁目2に伝承地)の地に分社して遷座、上田大明神と称したと伝わる。寛保3年(1743年)現在地に遷座し、明治元年(1868年)現社名に改称した。

吉姫神社中門。参道から舞殿があって中門、その奥に本殿がある滋賀県内ではよく見かける配置。ひと気のない静かな境内に身を置くと、俗世を離れる思いだ。

石部宿江戸方出入口にあたる東の見附跡。目川米穀店隣の敷地に”見付”の木札が立てられている。西の見附と同様、見附土手が築かれていた。
本日の歩き旅は終い。ここからJR石部駅へ戻ろう。

JR石部駅から京都駅に向かい帰途につく。
【旧東海道歩き 第3日目】
草津第一ホテル→草津宿→石部宿→JR石部駅 歩行距離約16km
京都から江戸へ向けて東海道を歩き始めた旅人が最初に宿泊したのが石部宿、「京立ち石部泊まり」と言われた所以である。宿場西外れにある灰山は古く石部金山と呼ばれ、奈良時代には銅、江戸時代に黄銅鉱が採掘されたといい、後に石灰の採掘場となり灰山と呼ばれるようになった。融通のきかない堅物を指して”石部金吉”という言葉があるのだが、石部金山がその由来となったとの説がある。語源を辞書で調べると「石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語」とあり、石部金山に語呂を合わせて作り出したのだろう。また、石部宿の旅籠は飯盛女を置かなかったといい、このことが所以なのか”石部金吉”には「女色に迷わされない人」という意味合いが強いらしい。
江戸日本橋から数えて51宿目、京都三条大橋からならば3宿目となる石部宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西15町3間(約1.6km)、人口1606人、家数458軒、本陣は小島本陣、三大寺本陣の2軒、脇本陣0軒、旅籠32軒。宿場京方出入口の見附から下横町・上横町・平野町・出水町・仲町・谷町・大亀町・鵜ノ目町・小池町・西清水町・中清水町・東清水町と続く町並み、東端に江戸方出入口の見附があった。下横町に一里塚があり、仲町に小島本陣、谷町に三大寺本陣、谷町から大亀町にかけて問屋場や人足会所、高札場があり宿場の中心をなした。
より大きな地図で 石部宿 を表示

思案した結果、暑さと湿気で結構バテ気味だったこともあり、距離の短い下道を進むことを決断。写真は名神高速道を潜り抜けた先、栗東市から湖南市石部緑台に入った下道。こちらの方が上道より石部宿まで700m程短く、その昔に近道禁制の掟を破ってまで通行した旅人の気持ちがよくわかろう。東海道の本道だった上道に少々後ろ髪惹かれつつ…だったが。

右手に砕石場。山肌を晒す山々が灰山の変わり果てた姿なのか。

砕石場の中に建設中の栗東水口道路の橋脚が建つ。

かつての石部金山(灰山)はそう遠くはない将来、平地になってしまうのだろうか。

五軒茶屋橋で私の歩いてきた下道と東海道の本街道だった上道が合流。写真右手直進が京へ向かう下道の旧東海道、左折にある橋が五軒茶屋橋で上道ルートである。この辺りの旧道は往時と道筋が少々違っている。橋名にある五軒茶屋とは上道開通時に石部宿から5軒の茶屋が上道筋に移り、集落を形成したことに名の由来がある。

石部宿京方外れ、西縄手と呼ばれた場所。現在は東海道を意識した小公園を設置する。現地の解説板によると「ここは宿内に入る前に整列した場所で西縄手と呼び、長い松並木がありました」とある。主語が無いので何が整列したのかわからないが、大名行列を指しているのだろう。

石部宿西縄手付近の民家にて。センスを感じます。

石部宿西縄手付近、旧東海道沿いにある旅館平野屋(写真左手前)。かつて32軒の旅籠を有した石部宿だが、今や宿内の宿泊施設はここだけらしい。

石部西交差点は西の見附跡。石部宿京方出入口にあたる。宿場内が見通せないよう見附土手が築かれていた。

石部一里塚跡付近。江戸日本橋から116里(約456km)、京三条大橋からは9つ目となる一里塚が築かれていたが現存せず。

西の見附跡を過ぎて間もなく、旧東海道は右折。石部宿内には道を直角に曲げる2ヶ所の鉤の手が設けられていた。見通しを悪くすることで敵の侵入を容易にさせない目的だったといわれる。

2ヶ所ある鉤の手の中間、明治43年(1910年)創業という老舗和菓子店の谷口長栄堂がある。ここのいちご大福は手作りで美味しく評判だという。店頭販売しかしていないようで、今更ながら立ち寄らなかったことを悔やむ。

江戸方鉤の手の角にある石部宿田楽茶屋。歌川広重の浮世絵、東海道五十三次・石部「目川ノ里」に描かれた田楽茶屋を再現したお食事処。残念ながら準備中、次回に立ち寄る機会を設けよう。

江戸方より鉤の手を望む。

明清寺参道入口付近、石部宿の町並み。

石部宿の中心部、小島本陣跡前を行く旧東海道。

石部宿に2軒あった本陣の一つ、小島本陣跡。明治天皇が宿泊したことを示す明治天皇聖跡碑が残る。慶安3年(1650年)に創建、承応元年(1652年)膳所藩主本多氏より本陣職を拝命した。

小島本陣跡にて。東海道五十三次・石部「目川ノ里」。目川立場の田楽茶屋が描かれている。

休憩所の”いしべ宿驛”。旧東海道ウォーカーのために設けられたのか、有難くここで一服。

三大寺本陣跡。玄関右上に額縁があり「石部谷町三大寺脇本陣跡」とある。石部宿に脇本陣は無かったというが、江戸の長い時代の中で格の上げ下げがあったのかもしれない。

石部中央交差点はかつての高札場跡。かつては交差点辺りに問屋場があり、その横に高札場が設けられていたという。

石部中央交差点角にある小公園。石部宿高札場跡の解説板や湖南三山の長寿寺(東寺)・常楽寺(西寺)を描いた石碑が設置されている。

石部中央交差点より江戸方へちょっと先、竹内酒造香の泉酒店。明治5年(1872年)創業、石部の酒蔵竹内酒造の直営店。地酒”香の泉”は代表銘柄。
竹内酒造
http://www.kanoizumi.jp/index.html

石部東を行く旧東海道。この辺り、沿道に個人商店が多い。

石部東8丁目にある西福寺。

石部宿東端付近、沿道に吉姫神社参道入口の鳥居が立つ。

茅葦津姫命(かやあしつひめのみこと)と吉比女命(よしひめのみこと)を祭神に祀る吉姫神社。創祀年代不詳。旧社寺は黒の御前と称する地にあり、弘仁2年(811年)山崩れによって石部西側の吉御子神社と共に東側の上田(現 湖南市石部東3丁目2に伝承地)の地に分社して遷座、上田大明神と称したと伝わる。寛保3年(1743年)現在地に遷座し、明治元年(1868年)現社名に改称した。

吉姫神社中門。参道から舞殿があって中門、その奥に本殿がある滋賀県内ではよく見かける配置。ひと気のない静かな境内に身を置くと、俗世を離れる思いだ。

石部宿江戸方出入口にあたる東の見附跡。目川米穀店隣の敷地に”見付”の木札が立てられている。西の見附と同様、見附土手が築かれていた。
本日の歩き旅は終い。ここからJR石部駅へ戻ろう。

JR石部駅から京都駅に向かい帰途につく。
【旧東海道歩き 第3日目】
草津第一ホテル→草津宿→石部宿→JR石部駅 歩行距離約16km

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