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石部宿

【2013年7月14日(日)旧東海道 石部宿】

京都から江戸へ向けて東海道を歩き始めた旅人が最初に宿泊したのが石部宿、「京立ち石部泊まり」と言われた所以である。宿場西外れにある灰山は古く石部金山と呼ばれ、奈良時代には銅、江戸時代に黄銅鉱が採掘されたといい、後に石灰の採掘場となり灰山と呼ばれるようになった。融通のきかない堅物を指して”石部金吉”という言葉があるのだが、石部金山がその由来となったとの説がある。語源を辞書で調べると「石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語」とあり、石部金山に語呂を合わせて作り出したのだろう。また、石部宿の旅籠は飯盛女を置かなかったといい、このことが所以なのか”石部金吉”には「女色に迷わされない人」という意味合いが強いらしい。

江戸日本橋から数えて51宿目、京都三条大橋からならば3宿目となる石部宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西15町3間(約1.6km)、人口1606人、家数458軒、本陣は小島本陣、三大寺本陣の2軒、脇本陣0軒、旅籠32軒。宿場京方出入口の見附から下横町・上横町・平野町・出水町・仲町・谷町・大亀町・鵜ノ目町・小池町・西清水町・中清水町・東清水町と続く町並み、東端に江戸方出入口の見附があった。下横町に一里塚があり、仲町に小島本陣、谷町に三大寺本陣、谷町から大亀町にかけて問屋場や人足会所、高札場があり宿場の中心をなした。


より大きな地図で 石部宿 を表示


旧東海道 石部緑台
思案した結果、暑さと湿気で結構バテ気味だったこともあり、距離の短い下道を進むことを決断。写真は名神高速道を潜り抜けた先、栗東市から湖南市石部緑台に入った下道。こちらの方が上道より石部宿まで700m程短く、その昔に近道禁制の掟を破ってまで通行した旅人の気持ちがよくわかろう。東海道の本道だった上道に少々後ろ髪惹かれつつ…だったが。


灰山
右手に砕石場。山肌を晒す山々が灰山の変わり果てた姿なのか。


栗東水口道路(建設中)
砕石場の中に建設中の栗東水口道路の橋脚が建つ。


灰山
かつての石部金山(灰山)はそう遠くはない将来、平地になってしまうのだろうか。


五軒茶屋橋
五軒茶屋橋で私の歩いてきた下道と東海道の本街道だった上道が合流。写真右手直進が京へ向かう下道の旧東海道、左折にある橋が五軒茶屋橋で上道ルートである。この辺りの旧道は往時と道筋が少々違っている。橋名にある五軒茶屋とは上道開通時に石部宿から5軒の茶屋が上道筋に移り、集落を形成したことに名の由来がある。


石部宿 西縄手
石部宿京方外れ、西縄手と呼ばれた場所。現在は東海道を意識した小公園を設置する。現地の解説板によると「ここは宿内に入る前に整列した場所で西縄手と呼び、長い松並木がありました」とある。主語が無いので何が整列したのかわからないが、大名行列を指しているのだろう。


石部宿西縄手にて
石部宿西縄手付近の民家にて。センスを感じます。


旅館平野屋
石部宿西縄手付近、旧東海道沿いにある旅館平野屋(写真左手前)。かつて32軒の旅籠を有した石部宿だが、今や宿内の宿泊施設はここだけらしい。


石部宿西の見附跡
石部西交差点は西の見附跡。石部宿京方出入口にあたる。宿場内が見通せないよう見附土手が築かれていた。


石部一里塚跡
石部一里塚跡付近。江戸日本橋から116里(約456km)、京三条大橋からは9つ目となる一里塚が築かれていたが現存せず。


石部宿鉤の手
西の見附跡を過ぎて間もなく、旧東海道は右折。石部宿内には道を直角に曲げる2ヶ所の鉤の手が設けられていた。見通しを悪くすることで敵の侵入を容易にさせない目的だったといわれる。


谷口長栄堂
2ヶ所ある鉤の手の中間、明治43年(1910年)創業という老舗和菓子店の谷口長栄堂がある。ここのいちご大福は手作りで美味しく評判だという。店頭販売しかしていないようで、今更ながら立ち寄らなかったことを悔やむ。


石部宿田楽茶屋
江戸方鉤の手の角にある石部宿田楽茶屋。歌川広重の浮世絵、東海道五十三次・石部「目川ノ里」に描かれた田楽茶屋を再現したお食事処。残念ながら準備中、次回に立ち寄る機会を設けよう。


石部宿鉤の手
江戸方より鉤の手を望む。


石部宿 明清寺参道入口付近
明清寺参道入口付近、石部宿の町並み。


石部宿 小島本陣跡付近
石部宿の中心部、小島本陣跡前を行く旧東海道。


小島本陣跡
石部宿に2軒あった本陣の一つ、小島本陣跡。明治天皇が宿泊したことを示す明治天皇聖跡碑が残る。慶安3年(1650年)に創建、承応元年(1652年)膳所藩主本多氏より本陣職を拝命した。


小島本陣跡にて
小島本陣跡にて。東海道五十三次・石部「目川ノ里」。目川立場の田楽茶屋が描かれている。


いしべ宿驛
休憩所の”いしべ宿驛”。旧東海道ウォーカーのために設けられたのか、有難くここで一服。


三大寺本陣跡
三大寺本陣跡。玄関右上に額縁があり「石部谷町三大寺脇本陣跡」とある。石部宿に脇本陣は無かったというが、江戸の長い時代の中で格の上げ下げがあったのかもしれない。


石部中央交差点
石部中央交差点はかつての高札場跡。かつては交差点辺りに問屋場があり、その横に高札場が設けられていたという。


石部宿高札場跡
石部中央交差点角にある小公園。石部宿高札場跡の解説板や湖南三山の長寿寺(東寺)・常楽寺(西寺)を描いた石碑が設置されている。


竹内酒造香の泉酒店
石部中央交差点より江戸方へちょっと先、竹内酒造香の泉酒店。明治5年(1872年)創業、石部の酒蔵竹内酒造の直営店。地酒”香の泉”は代表銘柄。

竹内酒造
http://www.kanoizumi.jp/index.html


石部宿 石部東
石部東を行く旧東海道。この辺り、沿道に個人商店が多い。


西福寺
石部東8丁目にある西福寺。


石部宿 吉姫神社前
石部宿東端付近、沿道に吉姫神社参道入口の鳥居が立つ。


吉姫神社
茅葦津姫命(かやあしつひめのみこと)と吉比女命(よしひめのみこと)を祭神に祀る吉姫神社。創祀年代不詳。旧社寺は黒の御前と称する地にあり、弘仁2年(811年)山崩れによって石部西側の吉御子神社と共に東側の上田(現 湖南市石部東3丁目2に伝承地)の地に分社して遷座、上田大明神と称したと伝わる。寛保3年(1743年)現在地に遷座し、明治元年(1868年)現社名に改称した。


吉姫神社
吉姫神社中門。参道から舞殿があって中門、その奥に本殿がある滋賀県内ではよく見かける配置。ひと気のない静かな境内に身を置くと、俗世を離れる思いだ。


石部宿東の見附跡
石部宿江戸方出入口にあたる東の見附跡。目川米穀店隣の敷地に”見付”の木札が立てられている。西の見附と同様、見附土手が築かれていた。

本日の歩き旅は終い。ここからJR石部駅へ戻ろう。


JR石部駅
JR石部駅から京都駅に向かい帰途につく。


【旧東海道歩き 第3日目】
草津第一ホテル→草津宿→石部宿→JR石部駅 歩行距離約16km
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夏見の里

【旧東海道歩き 第4日目】JR石部駅→石部宿→横田の渡し跡→水口宿→ホテル古城



【2013年8月3日(土)旧東海道 石部宿→水口宿 道中】
猛暑到来となった8月最初の土曜日、何を好きこのんでこんな日に歩かねばならないのだろうとの気持ちとは裏腹にそそくさと荷物を整えて東京駅へ向かい、東海道新幹線に乗車して京都駅へ。そして琵琶湖線・草津線を乗り継いで石部駅に降り立つ。天気は快晴、照りつける陽射しはすぐにも肌を焦がすかのようだ。そんな中、石部宿内を歩いて前回立ち寄れなかった田楽茶屋で遅めの朝食を済ませ、いざ次の水口宿を目指す。

石部宿を東の見附跡から出ると、落合川を渡って柑子袋・平松地区を通り抜け、家棟川を渡河し針地区に。そして由良谷川と大沙川という2つの天井川の下を潜り抜ける。この天井川の2河川に挟まれた旧東海道沿いに夏見の里と呼ばれる立場があった。江戸時代には心太(ところてん)を名物とする茶屋が数軒あったが、現在の沿道に並ぶ家々は昔日の賑わいを伝えるべくもなく静かな佇まい。残念ながら心太を食べられる店等は無い。文化12年(1815年)刊行の「近江名所図会」に夏見の里として紹介され、往来の客で賑わう茶屋の様子が描かれている。


より大きな地図で 夏見の里 を表示


JR石部駅
強烈な陽射しが照りつける中、JR石部駅より旧東海道歩きを再開。


石部宿田楽茶屋
前回の訪問で準備中だった石部宿田楽茶屋。本日も準備中の札が掛かっていたが、入口は開いている。茶屋内を覗いて店の方に「営業してますか?」と聞いたところ、「どうぞ」との返答。よかったぁ。


石部宿田楽茶屋にて
宿場そばとおにぎりで腹ごしらえ。美味しゅうございました。メニューに田楽があったので注文してみたが、夏場はやっていないとのこと。残念。


東の見附跡
前回の旧東海道歩きの終了地点、石部宿東の見附跡。いざ次の水口宿へ!


落合川
石部宿江戸方(東)外れ、石部東・柑子袋地区の境を流れる落合川。


落合川にて
落合川にて。


きずな街道休憩所
柑子袋地区、旧東海道沿いにある”きずな街道休憩所”。せっかくなのでここで休憩、熱中症予防のため水分補給をはマメに。


きずな街道休憩所にて
きずな街道休憩所にて。湖南市夏祭りのポスターが目に留まる。おっ!今日なのか。


旧東海道 光林寺前
光林寺前を行く旧東海道。


柑子袋の旧東海道より
柑子袋の旧東海道より。田んぼの緑と青い空。心安まる風景だ。


旧東海道 平松
平松地区へ。みよし酒店前の旧東海道。


旧東海道平松にて
平松の地名は地区内に自生する美松(うつくしまつ)に由来するという。美松は美松山の斜面にのみ自生し、根元から複数の幹が放射状に分かれる珍しいアカマツの変種。「平松のウツクシマツ自生地」として国の天然記念物に指定される。


家棟川橋
家棟川橋を渡って平松から針地区へ。


北島酒造
旧東海道沿いの蔵元、北島酒造「御代栄」。文化2年(1805年)創業。

北島酒造
http://www.kitajima-shuzo.jp/


おやすみ処(針公民館)
針地区にあるおやすみ処(針公民館)。ちょっと休もうかと思ったが、見ての通り立入禁止な雰囲気なのでパス。


旧東海道 針
針地区を行く旧東海道。


由良谷川隧道
由良谷川隧道。上を流れるは天井川の由良谷川。


新田道道標
隧道を抜けると夏見地区。隧道前に昭和10年建立の新田道道標が立つ。


由良谷川
由良谷川の様子を見てみようと土手をよじ登った。川水は無く川底には雑草がはびこる状態。久しく水が流れていないのだろう。


由良谷川隧道上より夏見地区を望む
由良谷川隧道上より夏見地区を望む。


報恩寺
夏見の西端にある報恩寺。


夏見一里塚跡
夏見一里塚跡。夏見診療所前に解説板が設置されているが、実際には70m程東側が跡地と解説板に書かれている。江戸日本橋から115里(約452km)、京三条大橋からは10番目(実測で約41km地点)となる一里塚が築かれていたが現存せず。


旧東海道 夏見
夏見を行く旧東海道。


了安寺
民家に挟まれた狭い参道の向こうに了安寺。


旧東海道 夏見の里
名物トコロテンを出す茶屋があり賑わった夏見の里も今は昔。かつては茶屋の店先で水車を回し、その動力でカラクリ仕掛けの人形を動かして客を楽しませていたという。近年まで”いなりや”という茶店の建物が残っていたが、平成21年に店先の藤棚と共に撤去されてしまったらしい。惜しいことだ。


近江名所図会「夏見の里」02
今や近江名所図会で”夏見の里”の往時を偲ぶしかない。(湖南市観光協会設置の解説板より)


大沙川隧道
夏見を抜け吉永地区に入って間もなく、大沙川隧道を潜り抜ける。隧道上には大杉弘法堂があり、傍らに弘法杉が聳え立つ。


大杉弘法堂
弘法杉の根元にある大杉弘法堂。弘法大師像を安置する。


大沙川と弘法杉
大沙川と弘法杉。大沙川は由良谷川と同じく天井川、やはり川水の流れは無い。


弘法杉
樹齢750年という弘法杉。弘法大師がここで昼食をとり、地面にさした杉の箸が成長したのがこの大杉との伝説がある。箸が元だけに元々2本の大杉が聳え立っていたが、江戸時代に1本は台風で倒木した。


吉永のおもてなし処
吉永地区の旧東海道沿いにある”おもてなし処”でしばし休憩。夏場は陽射しを避けられるこういった休憩所があると大変助かる。


長谷商店
おもてなし処の向かいに長谷商店が目に入る。おぉ、自販機があるではないか。スポーツドリンクを購入したっぷりと水分補給。まさに現代の茶屋だ。


おもてなし処にて
せっかくなので”おもてなし処”に設置される記念スタンプを押して記念に。


三吉景観水路
吉永地区の東端にある三吉(さんきち)景観水路。


三吉景観水路にて
三吉景観水路にて。シオカラトンボが羽を休めて。


三雲踏切
三吉景観水路の先で三雲踏切を渡り三雲地区へ。


旧東海道 三雲
三雲地区を行く旧東海道。


荒川橋
荒川橋を渡って。


荒川橋西詰の道標群
荒川橋西詰に残る道標群。写真手前から「田川ふどう道」「万里小路藤房卿古跡」「立志神社」の道標が並ぶ。


荒川橋上より
荒川橋上より。JR草津線の電車が横を走り過ぎゆく。


旧東海道 三雲
橋爪呉服店。隣にある木造の蔵が印象的。


明治天皇聖蹟碑
三雲駅前、民家の軒先にある明治天皇聖蹟碑。建てられた由緒がわからない。明治天皇が行幸の折に立ち寄られたのだろうか。


JR三雲駅
JR三雲駅。旧東海道はJR三雲駅前を通り抜け、野洲川左岸を進んで横田の渡しで野洲川を渡河する。しかし現在は横田の渡し跡に橋が架かっていないため、横田駅前から国道1号の横田橋を渡る迂回路を進むしかない。


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横田渡し

【2013年8月3日(土)旧東海道 石部宿→水口宿 道中】
鈴鹿山脈に源を発し琵琶湖に注ぐ野洲川、草津宿から野洲川の南側を通ってきた旧東海道は、三雲駅前から左岸を進んで野洲川を渡り、その北側に進路を変える。かつてその渡河地点に渡し場が設けられており、地元では野洲川の名よりも横田川の名で通っていいたため”横田渡し”と呼び、東海道十三渡の一つに数えられた。軍事的理由から幕府はここに架橋を許さず、渡し場江戸方にある泉村に渡し賃を徴収して管理維持することを命じ、川の水量が多い3月から9月までは舟渡し、渇水期の10月から2月にかけては流路に仮土橋を架けて通行させていたという。明治24年(1891年)横田渡しの地点に板橋が架けられたが、昭和4年(1929年)に下流部へ橋が移され、昭和27年(1952年)現在の国道1号が通る横田橋が完成した。


より大きな地図で 横田渡し を表示


横田常夜燈
横田常夜燈。三雲駅近く、旧東海道から旅館天保閣への道が分かれる地点にある。


横田常夜燈
横田常夜燈は安永8年(1774年)東講中による建立。左岸の三雲地区、右岸の泉地区のそれぞれに常夜燈が設置され、三雲側の常夜燈は泉側のものよりも50年以上古い。建立当時は現在地よりも約200m上流にあった。


天保義民之碑
旅館天保閣近くにある天保義民之碑。高さ10mという圧巻の慰霊碑。天保13年(1842年)不条理な検地に異議を唱え近江天保一揆を起こした重要人物、三上村の庄屋土川平兵衛をはじめとする11名の追悼と慰霊を目的に建立された。近江天保義民と呼ばれる。他の百姓一揆と同様、近江天保義民は首謀者として幕府により捕縛され死罪等で犠牲となった。明治になってようやく大赦となり、一揆から56年後の明治31年(1898年)この天保義民之碑が建立された。


旧東海道 三雲
横田渡し跡へ向かう旧東海道。右は草津線、左は野洲川の河原。


横田渡し跡
雑草に覆われた河原の向こうに泉側の横田渡常夜燈が見える。写真中央に常夜燈が見えているのだが、小さすぎてこの写真ではわからない。なのでデジカメのズーム機能をフルに使って↓


横田渡し跡
三雲側から望む泉側の横田渡常夜燈。


横田渡し跡
京方から旧東海道を来るとこの辺りで左折し、野洲川の河原を進んで渡し場へ至っていたようだ。また、この地点からは深川(甲賀市甲南町深川市場)を経て伊賀・伊勢へと至る新海道(杣街道)が分岐し、その分岐点には”新海道”と刻む道標が置かれていたが、現在は天保義民之碑がある天保義民の丘に移されている。


新海道道標
これが天保義民の丘に移された新海道道標。ここには解説板が無く、草むらの中に無意味にあるだけのように見える。道標は元々の場所にあってこそ価値があり興味がそそられるというもの。


国道1号 横田橋
横田の渡しで野洲川を渡河できないので、来た道を三雲駅まで戻って国道1号の横田橋を渡る。


ハグロトンボ
路傍の草むらで見つけたハグロトンボ。逃げ足が速く翅を広げた瞬間を苦労のうえ撮影。


泉西交差点
泉西交差点で国道1号を離れ泉側の渡し場跡へ向かう。


横田渡常夜燈
これが先ほど対岸から見えていた泉側の横田渡常夜燈。冠木門が備え付けられ、渡し場の雰囲気を残すように整備された感じ。らしい雰囲気がある。


横田渡常夜燈
横田渡常夜燈は文政5年(1822年)建立。高さが10.5mの立派なもので、東海道中で最大級とされている。対岸からもしっかり視認できたわけだ。


横田渡常夜燈の古写真
現地にある横田橋の解説板より横田渡常夜燈の古写真。常夜燈の先に架かる橋は明治24年(1891年)に架けられた横田橋。


横田渡し跡
横田渡し跡。昭和初期以前はここを多くの旅人が往来していた。


旧横田橋跡
旧横田橋跡。現在、橋は撤去されており橋台の石垣だけが残っている↓


旧横田橋の橋台
旧横田橋の橋台。


野洲川にて
野洲川にて。アユ釣りの釣り人たちがそこかしこに。釣果はどうなんでしょう。


横田渡し跡
冠木門の先に旧東海道が延びる。


横田渡し跡
渡し場跡を後にし振り返って。


河原屋敷橋
泉川を河原屋敷橋で渡る。


泉一里塚跡
竹林の脇、隠れるように泉一里塚跡を発見。


泉一里塚跡
泉一里塚跡。江戸日本橋から114里目(約448km)、京三条大橋からは11番目(実測で約45km地点)となる一里塚が築かれていたが現存せず。現在は一里塚を模したモニュメントが設置される。


泉の田園風景
泉地区の旧東海道から田園を眺めながら。


日吉神社御旅所
舞込橋西詰にある日吉神社御旅所。


泉の松並木
泉の集落に入る手前、旧東海道沿いにちょっとした松並木。


泉福寺と日吉神社
泉福寺と日吉神社。治安3年(1023年)創祀と伝わる日吉神社、泉村の祈願所泉福寺の護法神として坂本日吉大社の御分霊を勧請したことにはじまりがあると云う。


泉福寺境内にて
泉福寺境内にて。盛んに鳴き声をあげるアブラゼミ。夏だなぁ。


旧東海道 泉
泉の集落を行く旧東海道。


旧東海道 泉
旧東海道筋、旧泉村の家並み。


泉公民館
泉公民館。ここにも日吉神社御旅所がある。


旧東海道 泉
泉の集落を出て先へ。


柏木公民館
旧東海道筋、北脇の集落内にある柏木公民館。江戸時代にこの辺りは北脇村と言ったが、明治22年(1889年)隣の泉村等を併合して柏木村となった。そのため小学校や公民館、農協等に柏木の名が残っているようだ。


柏木公民館にて
柏木公民館にて。


旧東海道 北脇
夕暮れ時の旧街道は哀愁漂う雰囲気。


旧東海道 北脇
北脇を行く旧東海道。


北脇縄手と松並木
北脇の集落を抜ければ旧東海道は水口城下へ向け、田の中を一直線に延びる。かつては北脇縄手と呼ばれ、街道両脇に土手を盛り松並木が植えられていた。現在は片側に松並木が復元植樹されている。


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水口城下

【2013年8月3日(土)旧東海道 石部宿→水口宿 道中】
北脇縄手を通り抜けて水口城下に入り水口宿へ。水口城は元々あった水口岡山城が関ヶ原合戦による局地戦で落城して廃城となり、後の寛永11年(1634年)水口岡山城より西に約1.5km地点に築かれた梯郭式平城。三代将軍徳川家光が京へ上洛の折の宿館として築城された。水口城の築城から約50年後の天和2年(1682年)に水口藩が成立、武家地の拡大によってその城域を通っていた東海道は北へ迂回するように付け替えられ、今に見る連続する鉤の手の道筋になったという。


より大きな地図で 水口城下 を表示


旧東海道 北脇
水口城下へ向かう旧東海道。


旧東海道 北脇
美富久酒造前を行く旧東海道。


柏木神社参道
美富久酒造横から柏木神社の参道が延びる。


美富久酒造
大正6年(1917年)創業の美富久酒造。「山廃仕込」という酒造の伝統技法を受け継ぐ醸造元。

美富久酒造
http://www.mifuku.co.jp/


西見附跡
水口宿西端にあたる西見附跡。旧東海道はここを左折、直進方向が水口城の城域(武家屋敷地)となる。水口城の武家地拡張以前の旧東海道は直進していた。


林口一里塚跡
旧東海道は五十鈴神社境内の南西端で右折。その曲がり角辺りに林口一里塚跡の石碑が置かれる。


林口一里塚跡
林口一里塚跡。江戸日本橋から113里目(約444km)、京三条大橋からは12番目(実測で約49km地点)となる一里塚が築かれていた。水口城の武家地拡張以前はここより南方にあったが、東海道のルートが変更されるにあたって五十鈴神社境内東端に移された。一里塚は明治期になって撤去され現存せず。現在は五十鈴神社境内南西端に一里塚を模したモニュメントと解説の石碑が設置される。


五十鈴神社
水口町東林口に鎮座する五十鈴神社。境内入口の注連縄には小縄や絵馬を吊るされ、他では見かけた記憶がない珍しい様式。何か由来がありそうだが不明。


旧東海道 水口町東林口
水口町東林口を行く旧東海道。


真徳寺表門
真徳寺表門。水口城内にあった武家屋敷の長屋門を移したもので、旧城下に残る貴重な遺構。


明治初期の百間長屋
小坂町にあった百間長屋を明治初期に撮影した写真(現地解説板より)。百間長屋は長さ百間(約180m)の棟割長屋で、下級武士たちが隣り合って住んでいた。守備上の理由から庶民が往来する旧東海道側には出入口を設けずに与力窓と呼ぶ高窓のみがあり、この窓から銭を入れた笊を紐に吊るして降ろし、往来の物売り相手に買物をしていたという。


百閒長屋跡
現在の百間長屋跡。上の古写真と同じようなアングルで撮影してみた。ここにあった長屋に暮らす下級武士たちの生活を想像してみよう。


旧東海道 水口町城内(小坂町)
水口町城内(小坂町)、鉤の手に曲がる旧東海道。その曲がり角に水口石が残る。


水口石
水口石と呼ばれるこの大石は、”力石”とも呼ばれており、力自慢の人々が力比べに持ち上げていたのだろう。江戸時代の浮世絵師国芳が錦絵の題に採って描いている。


水口町城内にて
水口町城内の旧東海道筋、民家の軒先にて。信楽焼の狸と鶴の模型を据えたジオラマ風の置物。関東では見かけることはない近江の軒先である。


旧東海道 水口町城内
水口町城内の旧東海道。


旧東海道 水口町城東(天神町)
水口町城東(天神町)の旧東海道。


心光寺
水口町城東にある心光寺。菅原道真の冥福を祈るために四男淳茂が建立。後に淳茂の子が美濃部郷に留まり土豪美濃部氏を興した由縁で、墓地には慶長期からの美濃部氏一族の墓石が数十基残る。本堂に安置する”木造阿弥陀如来立像”は平安時代の作で甲賀市文化財に指定。


滋賀火薬・琵琶湖爆砕
心光寺参道入口の横、旧東海道筋に”滋賀火薬・琵琶湖爆砕”の物々しい看板が。火薬を扱う会社のよう。


旧東海道 水口町城東(北町)
水口町城東(北町)の旧東海道。


旧東海道 水口町城東(北町)
旧東海道を京方から来ると湖東信用金庫に突き当りここを左折。右折は旧城内の出入口にあたり、かつては木戸が置かれ”天王口御門”と呼ばれた。


水口城天王口御門跡
水口城天王口御門跡。写真は旧東海道より旧城内を望んでおり、丁字路の少し先辺りに御門があったのだろう。その先は広小路や南小路と呼ばれた旧武家地。水口城の武家地拡張以前の旧東海道はここを直進し西見附に至っていた。


富田呉服店
水口町八光の旧東海道筋にある富田呉服店。店構えと看板がいかにも老舗らしい雰囲気。店の入口は閉じられていたが、現在も営業しているのだろうか。


旧東海道 水口町八光(河内町)
水口町八光(河内町)を行く旧東海道。


天王町の山蔵
天王町の山蔵。毎年4月19日・20日に行われる水口神社の春の例大祭、”水口曳山まつり”で巡行する曳山を収納している。曳山の登場は享保20年(1725年)、当初は9基の曳山が巡行していたが、後に各町毎に曳山が建造されて全盛期には30基余りに達したという。現在は16基の曳山があり、各町毎に山蔵を設け曳山を収納している。


東海踏切
東海踏切を渡った先、水口石橋の東詰から旧東海道の左右に道が分かれ、三筋の道は宿内を並行して延びる。水口宿はこの踏切辺りを挟んで東側が宿場町、西側が城下町としての様相だったのだろう。


旧東海道 水口町本町3丁目
ここが水口宿三筋の道の分岐点。中央の道が旧東海道。


水口宿米屋町
水口町本町3丁目(米屋町)の旧東海道。


水口宿 旧夷町
水口町本町1丁目(夷町)の旧東海道。


水口宿
日が沈み人通りが無い水口宿。少々寂しい感じだが、旧宿場はこの雰囲気がたまらない。


本水口商店街駐車場に設置のからくり時計
本水口商店街駐車場に設置のからくり時計。時計の下で曳山の模型が回る。


本日の歩き旅はここで終い。近くにある宿泊先のホテル古城へ向かう。本当に暑い1日だった。
ホテル古城の若女将が真っ黒に日焼けした私の顔を見て、この暑い中を歩かれはったんですかと、少々驚かれていた様子。しかも旧東海道歩きの人が泊まりに来られるが、大概の人はもうすぐゴールだと言っているのに、お客さんはスタートしたばかりですかとも…。やはり東京方面へ歩く人は珍しいらしい。何とも物好きな人間もいるもんだと思ったことだろう。否定はしないけど。

【旧東海道歩き 第4日目】JR石部駅→石部宿→横田の渡し跡→水口宿→ホテル古城 歩行距離約17km
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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