間の宿大野
2014年「謹賀新年」
明けましておめでとうございます。
昨年5月に京都三条大橋より歩き始めた東海道。10月に三重県の関宿に辿り着いたところで終えて以来、時間が作れずに足を留めている状況です。旧年中、このブログを見てコメントや拍手を頂いた方々には、この場を借りて感謝申し上げます。本年も亀の歩みとなると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
【2013年8月4日(日)旧東海道 水口宿→土山宿 道中】
平景清の伝説が残る稲川を渡り、今宿と片山の集落を通り抜けて間の宿大野へ。水口宿と土山宿の中間に位置した大野村(旧東海道を挟んで南側一帯は旧徳原村の村域)は、かつて間の宿として多くの旅籠をはじめ茶屋や酒蔵等様々な商家が軒を連ね、雉や鴨、鷺等の野鳥を使った焼き鳥や、玉井という銘柄の酒を名物として往来の旅人で賑わった。旧大野村京方入口付近に江戸時代後期の俳人三好赤甫の生家跡があり、江戸方外れでは反野畷と呼ばれた松並木の旧東海道に往時の残影を見ることができる。
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大野西交差点の旧東海道入口。左手路傍に夜尿症の回復にご利益があるという南向き地蔵、右手に大きな常夜燈が建てられる今宿ポケットパーク。ここは土山町大野地区の最西端にあたる。

大野西交差点を振り返って撮影。左手に見えるのが今宿ポケットパークの常夜燈。

旧東海道に民家を連ねる今宿の集落。路傍の電柱に”あいの土山マラソン”の標識を掲げており、この辺りの旧東海道はマラソンコースに使われているようだ。

土山町大野(今宿)を行く旧東海道。

片山の集落内、右手に茅葺屋根の民家を見る。この民家が旧旅籠の東屋。

片山集落の東端で国道1号が旧東海道を分断。その分断地点には歩道橋が架けられている。

歩道橋上より片山の集落を望む。曲がりくねった旧東海道に軒を連ねる民家と田園、美しい日本の風景だ。

国道1号を越えた先は間の宿として賑わった旧大野村の町並み。

江戸時代後期の俳人三好赤甫の生家跡。現在は会席料理”みよし赤甫亭”の店舗となっているが、元々は魚屋を営んでいた。軒先に「魚屋 茂吉」の屋号を掲げている。

旅籠田畑屋跡(写真右手前)。

地酒初桜の蔵元、安井酒造場。江戸時代に大野村の名物と言われた酒”玉井”は現存しておらず、ここと何らかの関係があるのか?

旅籠金屋跡。

旅籠金屋跡(写真右奥)と旅籠小幡屋跡(写真右手前)。小幡屋跡には明治天皇聖蹟碑が建てられる。

油屋(写真左)と旅籠柏屋跡(写真右手前)。油屋の屋号に”徳原村”と書かれており、この辺りは旧東海道を挟んで北側は大野村、南側は徳原村の村域だったようだ。現在の土山町大野と土山町徳原の行政区域がその名残だろう。

大野販売所。趣のある良い店構え。

旅籠日野屋跡。

旅籠桝屋跡。「旅館ますや」の看板を掲げており現在も旅館業を続けられているよう。

旧大野村・旧徳原村の家々には昔の屋号が掲げられ往時を偲ぶ。

旅籠中屋跡(写真左奥)と旅籠篤居屋跡(写真左手前)。

旅籠井筒屋跡(写真右手前)。

旅籠丸屋跡(写真左手前)。

”ぬしや”こと萬塗物・泰誠堂岡商店。

大野公民館の敷地内にある眞風軒の漢詩碑。眞風軒は江戸時代後期から明治期にかけての漢詩人で、農民が茶摘みに忙しい季節、この地へ訪れて碑面の漢詩を残した。
土山を過ぎて即興する。
採茶の時節、事匁忙(ことそうぼう)す。
緑髓(りょくずい)の青芽壮(せいがさかん)なり。
僻郷(へきごう)に清風あり。
一瀹(いちれん)、君知るや否や、遠きに到る。
紅洋黒漠(こうようこくばく)として香し。

旧東海道筋にある三軒家集会所。昔はこの辺り、三軒家の地名を称していた数少ない名残。

土山町大野を行く旧東海道。

旅籠吉野屋跡。

旅籠松坂屋跡。正式な宿場ではなかった旧大野村だが、間の宿と称されるだけあって旅籠が多い。

旧東海道筋に立つ花枝神社大鳥居。

路傍に反野畷の石碑が立つ。この先、旧東海道は松並木が残る直線に。反野畷は”たんのなわて”と読むのだろうか、ここから大日川堀割(土山町大野・市場境)にかけての約400m、田園の中を真っ直ぐに延びる旧東海道を指している。

”従是東淀領”と刻む淀藩領界石。淀藩の領地(飛び地)であることを示す遺構。

反野畷の松並木。

反野畷の松並木。

反野畷の松並木を抜けてすぐ、土山町大野と土山町市場の境を流れる7~8m程の小さな川を渡る。この川が大日川(堀切川)堀割と呼ばれる。元禄12年(1699年)頓宮山より流れ出る水の水害対策として排水路工事に着手、市場村村民の総賦役により4年の歳月をかけて完成させた。
明けましておめでとうございます。
昨年5月に京都三条大橋より歩き始めた東海道。10月に三重県の関宿に辿り着いたところで終えて以来、時間が作れずに足を留めている状況です。旧年中、このブログを見てコメントや拍手を頂いた方々には、この場を借りて感謝申し上げます。本年も亀の歩みとなると思いますが、どうぞよろしくお願いします。
【2013年8月4日(日)旧東海道 水口宿→土山宿 道中】
平景清の伝説が残る稲川を渡り、今宿と片山の集落を通り抜けて間の宿大野へ。水口宿と土山宿の中間に位置した大野村(旧東海道を挟んで南側一帯は旧徳原村の村域)は、かつて間の宿として多くの旅籠をはじめ茶屋や酒蔵等様々な商家が軒を連ね、雉や鴨、鷺等の野鳥を使った焼き鳥や、玉井という銘柄の酒を名物として往来の旅人で賑わった。旧大野村京方入口付近に江戸時代後期の俳人三好赤甫の生家跡があり、江戸方外れでは反野畷と呼ばれた松並木の旧東海道に往時の残影を見ることができる。
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大野西交差点の旧東海道入口。左手路傍に夜尿症の回復にご利益があるという南向き地蔵、右手に大きな常夜燈が建てられる今宿ポケットパーク。ここは土山町大野地区の最西端にあたる。

大野西交差点を振り返って撮影。左手に見えるのが今宿ポケットパークの常夜燈。

旧東海道に民家を連ねる今宿の集落。路傍の電柱に”あいの土山マラソン”の標識を掲げており、この辺りの旧東海道はマラソンコースに使われているようだ。

土山町大野(今宿)を行く旧東海道。

片山の集落内、右手に茅葺屋根の民家を見る。この民家が旧旅籠の東屋。

片山集落の東端で国道1号が旧東海道を分断。その分断地点には歩道橋が架けられている。

歩道橋上より片山の集落を望む。曲がりくねった旧東海道に軒を連ねる民家と田園、美しい日本の風景だ。

国道1号を越えた先は間の宿として賑わった旧大野村の町並み。

江戸時代後期の俳人三好赤甫の生家跡。現在は会席料理”みよし赤甫亭”の店舗となっているが、元々は魚屋を営んでいた。軒先に「魚屋 茂吉」の屋号を掲げている。

旅籠田畑屋跡(写真右手前)。

地酒初桜の蔵元、安井酒造場。江戸時代に大野村の名物と言われた酒”玉井”は現存しておらず、ここと何らかの関係があるのか?

旅籠金屋跡。

旅籠金屋跡(写真右奥)と旅籠小幡屋跡(写真右手前)。小幡屋跡には明治天皇聖蹟碑が建てられる。

油屋(写真左)と旅籠柏屋跡(写真右手前)。油屋の屋号に”徳原村”と書かれており、この辺りは旧東海道を挟んで北側は大野村、南側は徳原村の村域だったようだ。現在の土山町大野と土山町徳原の行政区域がその名残だろう。

大野販売所。趣のある良い店構え。

旅籠日野屋跡。

旅籠桝屋跡。「旅館ますや」の看板を掲げており現在も旅館業を続けられているよう。

旧大野村・旧徳原村の家々には昔の屋号が掲げられ往時を偲ぶ。

旅籠中屋跡(写真左奥)と旅籠篤居屋跡(写真左手前)。

旅籠井筒屋跡(写真右手前)。

旅籠丸屋跡(写真左手前)。

”ぬしや”こと萬塗物・泰誠堂岡商店。

大野公民館の敷地内にある眞風軒の漢詩碑。眞風軒は江戸時代後期から明治期にかけての漢詩人で、農民が茶摘みに忙しい季節、この地へ訪れて碑面の漢詩を残した。
土山を過ぎて即興する。
採茶の時節、事匁忙(ことそうぼう)す。
緑髓(りょくずい)の青芽壮(せいがさかん)なり。
僻郷(へきごう)に清風あり。
一瀹(いちれん)、君知るや否や、遠きに到る。
紅洋黒漠(こうようこくばく)として香し。

旧東海道筋にある三軒家集会所。昔はこの辺り、三軒家の地名を称していた数少ない名残。

土山町大野を行く旧東海道。

旅籠吉野屋跡。

旅籠松坂屋跡。正式な宿場ではなかった旧大野村だが、間の宿と称されるだけあって旅籠が多い。

旧東海道筋に立つ花枝神社大鳥居。

路傍に反野畷の石碑が立つ。この先、旧東海道は松並木が残る直線に。反野畷は”たんのなわて”と読むのだろうか、ここから大日川堀割(土山町大野・市場境)にかけての約400m、田園の中を真っ直ぐに延びる旧東海道を指している。

”従是東淀領”と刻む淀藩領界石。淀藩の領地(飛び地)であることを示す遺構。

反野畷の松並木。

反野畷の松並木。

反野畷の松並木を抜けてすぐ、土山町大野と土山町市場の境を流れる7~8m程の小さな川を渡る。この川が大日川(堀切川)堀割と呼ばれる。元禄12年(1699年)頓宮山より流れ出る水の水害対策として排水路工事に着手、市場村村民の総賦役により4年の歳月をかけて完成させた。

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