土山宿
【2013年8月4日(日)旧東海道 土山宿】
坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る
鈴鹿峠を往来する馬子たちに歌われた土山宿。この馬子唄には土山に冠されている”あい”の解釈によって諸説あるのだが、坂下宿で晴れていた天気が鈴鹿峠で曇りに変わり、そして相対する土山宿で雨が降るという解釈が私にはしっくりくる。様々な気象条件によるのだろうが、鈴鹿峠のある鈴鹿山脈を境にして三重県側では晴れ、滋賀県側で雨といった気象になることがあるのではなかろうか。土山宿では雨降りになるイメージが強かったのか、浮世絵師歌川広重は東海道五十三次・土山「春之雨」で、大雨の中、田村川を渡る大名行列の情景を描いている。
江戸日本橋から数えて49宿目、京都三条大橋からならば5宿目となる土山宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西22町55間(約2.5km)、人口1505人、家数351軒、本陣は土山本陣と大黒屋本陣の2軒、脇本陣なし、旅籠44軒。京方外れに松尾川(内白川)、江戸方外れを田村川(外白川)が流れ、江戸方の先に東海道の難所の一つ、鈴鹿峠が控えており旅装を解く旅人も多かったことだろう。宿内の辻町に東海道と御代参街道の追分があり、お伊勢参りやお多賀参りの参詣人が通行し賑わったようだ。名物は地酒”田村川”や蟹が坂飴、あけぼの茶、お六櫛、夕霧そば等。
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東海道案内板が立つ北土山滝町より土山宿を歩こう。

旧土山宿滝町を行く旧東海道。

旧土山宿辻町で旧東海道(国道1号)から御代参街道が分岐。その追分には二基の道標が残る。写真左端、国道1号沿いの民家が旅籠追分屋跡、道標前の小路が旧御代参街道である。

土山宿辻町に残る追分道標。写真左の道標は天明8年(1788年)建立、正面に「たかのよつぎかんおんみち」と刻み、高野の世継観音(永源寺)へ至る道であることを示す。右の道標は文化4年(1807年)建立、「右 北国たが街道 ひの 八まんみち」と刻み、日野・八幡を経て多賀大社や北国街道へ至る道であることを示す。いずれも御代参街道の案内道標である。

辻町追分付近、御代参街道路傍に「見性庵廃寺跡」碑がある。北土山の永雲寺の末寺、見性庵という寺院跡。明治初期に廃寺となった。

南土山交差点で国道1号から右斜めに旧道が分かれる。

南土山交差点から旧東海道に入ってすぐ、ひのや酒店に”土山の地酒 田村川”の看板が目に入る。旧街道を歩いていると地酒を商う酒蔵や酒店を目にすることも多く、地酒を土産に買いたいと思いつつも背負う荷の重さを考えるとが躊躇してしまうわけで…。

旅籠常盤屋跡。

阿波屋商店。古くから阿波屋の屋号で商いを続けてこられたようだ。

水谷実商店。”東海道土山宿 千切屋跡”の屋号を掲げる。

旅籠藤屋跡。

”東海道土山宿 灰屋跡”の屋号を掲げる民家。江戸時代には炭や薪の燃えかすである灰を買い集めて転売する商人がいた。

和泉屋。昔は質屋だったらしい。

石岡商店は”東海道土山宿 桝清”の屋号を掲げる。

吉川に架かる大黒橋。元々は土橋だったが江戸時代末期から明治初期にかけての頃、旅籠の大黒屋立岡長兵衛によって石橋に架け替えられ、以来”大黒橋”の名が付いたという。

大黒橋東詰にある土山宿陣屋(代官屋敷)跡。天和3年(1683年)に建造され、以来勘定奉行配下の代官が在住していた。東西25間(約45m)、南北30間(約55m)の敷地だったと伝わる。寛政12年(1800年)土山宿の大火で類焼、以後ここに再建されることはなく、陣屋は信楽に移された。

旅籠古め屋跡。

大黒屋本陣跡・問屋場跡・高札場跡。大黒屋本陣に隣接して問屋場と高札場が置かれていたようだ。

大黒屋本陣跡。建物の遺構は残っておらず、跡地に明治天皇聖蹟碑が建てられている。大黒屋は旅籠だったが、江戸時代中期頃に2軒目の本陣に指定された。控本陣と呼ばれる。

前田製茶(岩田屋跡)。江戸時代は豪農岩田屋の家だったが、明治になって前田家が入り製茶業を始めたという老舗。

旅籠中嶋屋跡。

”高野屋”(写真右)と”油屋跡”(写真左)の屋号を掲げる民家。

旅籠山村屋跡。

土山中央公民館。”敷地入口に”宿場のけごみ”と刻む意味難解な碑を置く。”けごみ”は”蹴込み”と書くようで、読んで字の如く、足のつま先が当たるような所を指し、家の上がり口の前面垂直の部分や階段の踏み板と踏み板との間の立ち上がり部分を表すという。そういった場所で人足や駕籠かき等が腰を掛けて足を休めたことから、休息場の意味を込めた造語らしい。

旅籠近江屋跡(写真左)。この辺りは土山本陣や問屋宅がある土山宿の中心部。旧東海道沿いは宿場町らしい往時の面影を留める景観だ。

土山本陣跡。寛永11年(1634年)徳川三代将軍家光が上洛の折、土山宿に本陣を設置。甲賀武士土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門を初代として江戸期を通して代々土山家が本陣職を務めた。明治元年(1868年)明治天皇行幸の折、ここで誕生日を迎えられたという。明治3年(1870年)本陣制度が廃止され約240年間の歴史に幕を閉じた。

土山本陣向かいの旅籠俵屋跡より本陣を望む。いかにも本陣らしい風格ある佇まい。土山本陣は江戸期に3度の大火で類焼しており、現在の建物は江戸後期から明治期にかけての建築だと思うのだが、建築年が不明。

本陣から小路を挟んで隣にある土山宿問屋宅跡。こちらも本陣に負けず劣らずの風格ある佇まい。油屋佐平治の名で代々松山家が問屋職を務めた。

土山本陣と問屋宅跡の間を通る小路。ここは隠れた土山宿の見学スポット、当時の本陣や問屋宅の規模の大きさや様子をリアルに感じることができる。江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。

問屋場・成道学校跡。土山宿の問屋場は中町と吉川町の2ヶ所にあったとされる。明治5年(1872年)宿駅制度廃止に伴いここ中町の問屋場は廃止、後に建物は成道学校の校舎として利用された。

中町の問屋場跡裏手にある東海道伝馬館。閉館時間が迫っていたため見学できず。他日を期す。

二階屋脇本陣跡。江戸中期より堤忠左衛門が脇本陣を務めたが、天保年間の”東海道宿村大概帳”に書かれる土山宿に脇本陣の記載は無い。本陣だったとの説もあり、中山道細久手宿の大黒屋や会津西街道大桑宿と同じように、徳川御三家専用の本陣に定められていた時期があったのかもしれない。

民芸・茶房”うかい屋”(菱屋跡)。江戸時代には菱屋という屋号の両替商だった。

旅籠平野屋跡(写真右手前)と旅籠木綿屋跡(写真左手前)。明治33年(1900年)森鴎外が祖父白仙の墓参に土山を訪れた際、ここ旅籠平野屋に宿泊したことが鴎外の”小倉日記”によりわかっている。

旅籠釣瓶屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠柏屋跡。この辺り、多くの旅籠が並ぶ旅籠町を形成していたようだ。

森白仙終焉の地・井筒屋跡(写真左手前)。津和野藩藩医だった森白仙は万延2年(1861年)江戸藩邸より津和野へ戻る途次、ここ井筒屋で病のため急死したという。森鴎外が墓参に訪れた際に井筒屋の所在を確認したようで、小倉日記に「宿舎井筒屋といふもの存せりやと問ふに、既に絶えたり。」と書かれている。

大原製茶場(油屋平蔵)。江戸時代には油を商い、明治になって製茶業に転業したという。

旅籠簾屋跡。

御菓子司正和堂。旧宿場町らしい老舗な佇まいのお菓子屋さん。

旅籠海老屋跡。

白川神社。ちょうどこの日は白川祇園祭の本祭日だったようで、たくさんの提灯や紙灯篭が並んでいた。

土山宿を横切って流れる来見川。旧東海道には来見橋が架けられる。

旅籠寿し屋跡。ちょうどここに差し掛かったときに、神輿を担ぐ一団に遭遇。

宮出しで白川神社を出た神輿が、これから神社へ戻るところらしい。

金箔に装飾された神輿は見事の一言。

神輿を曳く一団は私の横を通り過ぎて白川神社方面へ向かったのだが、来見橋の辺りで引き返し、全速力で戻ってくるという予想外の展開に。そういえば成田祇園祭でもこんな光景を見たような…。

油屋権右衛門屋敷の前で止まり、神輿を載せた台車を上下に激しく振りはじめる。

少々激しくやり過ぎたみたいで、台車に支障をきたしたよう…。

何とか白川神社へ帰って行きました。

祭りの後の静けさ。写真右手前は旅籠大槌屋跡。

御祭神を見送る涙雨なのか、突然の豪雨に見舞われ扇屋伝承文化館の軒先に避難。馬子唄の「あいの土山 雨が降る」を実際に体感できるとは。

江戸時代に扇や櫛を商っていた”扇屋”を改修し、旧東海道散策者の憩いの場として再生された扇屋伝承文化館。時間が遅かったせいか残念ながら入館できず。

雨が小康状態になったところで旧東海道歩きを続ける。土山宿東端の生里野地区へ。

生里野地蔵公園にて。東海道五十三次・土山「春之雨」。

お六櫛商三日月屋。生里野には櫛を商う店が多かったといい、寛政9年(1797年)刊行の”東海道名所図会”に「名物は指櫛。又、田村川といふ名酒をあきなう家あり」と紹介されている。

生里野集落の家並み。土山宿の江戸方入口にあたる生里野は、鈴鹿峠を越えてきた旅人が一息つきたくなる場所だったのか、地酒”田村川”をはじめ、夕霧そばや蟹が坂飴、あけぼの茶と土山宿の名物とされた品を扱う茶屋が多かったという。

生里野集落の江戸方端、”東海道土山宿”と刻む石碑が立つ。ここが土山宿の江戸方出入口であることを示しているようだ。

”道の駅あいの土山”に辿り着いたところで本日の歩き旅は終了。田村神社バス停より”あいくるバス”の貴生川駅北口行きに乗車、新水口バス停で下車しホテル古城へ帰る。
【旧東海道歩き 第5日目】ホテル古城→水口宿→土山宿→田村神社停留所
歩行距離約17km
坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る
鈴鹿峠を往来する馬子たちに歌われた土山宿。この馬子唄には土山に冠されている”あい”の解釈によって諸説あるのだが、坂下宿で晴れていた天気が鈴鹿峠で曇りに変わり、そして相対する土山宿で雨が降るという解釈が私にはしっくりくる。様々な気象条件によるのだろうが、鈴鹿峠のある鈴鹿山脈を境にして三重県側では晴れ、滋賀県側で雨といった気象になることがあるのではなかろうか。土山宿では雨降りになるイメージが強かったのか、浮世絵師歌川広重は東海道五十三次・土山「春之雨」で、大雨の中、田村川を渡る大名行列の情景を描いている。
江戸日本橋から数えて49宿目、京都三条大橋からならば5宿目となる土山宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西22町55間(約2.5km)、人口1505人、家数351軒、本陣は土山本陣と大黒屋本陣の2軒、脇本陣なし、旅籠44軒。京方外れに松尾川(内白川)、江戸方外れを田村川(外白川)が流れ、江戸方の先に東海道の難所の一つ、鈴鹿峠が控えており旅装を解く旅人も多かったことだろう。宿内の辻町に東海道と御代参街道の追分があり、お伊勢参りやお多賀参りの参詣人が通行し賑わったようだ。名物は地酒”田村川”や蟹が坂飴、あけぼの茶、お六櫛、夕霧そば等。
より大きな地図で 土山宿 を表示

東海道案内板が立つ北土山滝町より土山宿を歩こう。

旧土山宿滝町を行く旧東海道。

旧土山宿辻町で旧東海道(国道1号)から御代参街道が分岐。その追分には二基の道標が残る。写真左端、国道1号沿いの民家が旅籠追分屋跡、道標前の小路が旧御代参街道である。

土山宿辻町に残る追分道標。写真左の道標は天明8年(1788年)建立、正面に「たかのよつぎかんおんみち」と刻み、高野の世継観音(永源寺)へ至る道であることを示す。右の道標は文化4年(1807年)建立、「右 北国たが街道 ひの 八まんみち」と刻み、日野・八幡を経て多賀大社や北国街道へ至る道であることを示す。いずれも御代参街道の案内道標である。

辻町追分付近、御代参街道路傍に「見性庵廃寺跡」碑がある。北土山の永雲寺の末寺、見性庵という寺院跡。明治初期に廃寺となった。

南土山交差点で国道1号から右斜めに旧道が分かれる。

南土山交差点から旧東海道に入ってすぐ、ひのや酒店に”土山の地酒 田村川”の看板が目に入る。旧街道を歩いていると地酒を商う酒蔵や酒店を目にすることも多く、地酒を土産に買いたいと思いつつも背負う荷の重さを考えるとが躊躇してしまうわけで…。

旅籠常盤屋跡。

阿波屋商店。古くから阿波屋の屋号で商いを続けてこられたようだ。

水谷実商店。”東海道土山宿 千切屋跡”の屋号を掲げる。

旅籠藤屋跡。

”東海道土山宿 灰屋跡”の屋号を掲げる民家。江戸時代には炭や薪の燃えかすである灰を買い集めて転売する商人がいた。

和泉屋。昔は質屋だったらしい。

石岡商店は”東海道土山宿 桝清”の屋号を掲げる。

吉川に架かる大黒橋。元々は土橋だったが江戸時代末期から明治初期にかけての頃、旅籠の大黒屋立岡長兵衛によって石橋に架け替えられ、以来”大黒橋”の名が付いたという。

大黒橋東詰にある土山宿陣屋(代官屋敷)跡。天和3年(1683年)に建造され、以来勘定奉行配下の代官が在住していた。東西25間(約45m)、南北30間(約55m)の敷地だったと伝わる。寛政12年(1800年)土山宿の大火で類焼、以後ここに再建されることはなく、陣屋は信楽に移された。

旅籠古め屋跡。

大黒屋本陣跡・問屋場跡・高札場跡。大黒屋本陣に隣接して問屋場と高札場が置かれていたようだ。

大黒屋本陣跡。建物の遺構は残っておらず、跡地に明治天皇聖蹟碑が建てられている。大黒屋は旅籠だったが、江戸時代中期頃に2軒目の本陣に指定された。控本陣と呼ばれる。

前田製茶(岩田屋跡)。江戸時代は豪農岩田屋の家だったが、明治になって前田家が入り製茶業を始めたという老舗。

旅籠中嶋屋跡。

”高野屋”(写真右)と”油屋跡”(写真左)の屋号を掲げる民家。

旅籠山村屋跡。

土山中央公民館。”敷地入口に”宿場のけごみ”と刻む意味難解な碑を置く。”けごみ”は”蹴込み”と書くようで、読んで字の如く、足のつま先が当たるような所を指し、家の上がり口の前面垂直の部分や階段の踏み板と踏み板との間の立ち上がり部分を表すという。そういった場所で人足や駕籠かき等が腰を掛けて足を休めたことから、休息場の意味を込めた造語らしい。

旅籠近江屋跡(写真左)。この辺りは土山本陣や問屋宅がある土山宿の中心部。旧東海道沿いは宿場町らしい往時の面影を留める景観だ。

土山本陣跡。寛永11年(1634年)徳川三代将軍家光が上洛の折、土山宿に本陣を設置。甲賀武士土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門を初代として江戸期を通して代々土山家が本陣職を務めた。明治元年(1868年)明治天皇行幸の折、ここで誕生日を迎えられたという。明治3年(1870年)本陣制度が廃止され約240年間の歴史に幕を閉じた。

土山本陣向かいの旅籠俵屋跡より本陣を望む。いかにも本陣らしい風格ある佇まい。土山本陣は江戸期に3度の大火で類焼しており、現在の建物は江戸後期から明治期にかけての建築だと思うのだが、建築年が不明。

本陣から小路を挟んで隣にある土山宿問屋宅跡。こちらも本陣に負けず劣らずの風格ある佇まい。油屋佐平治の名で代々松山家が問屋職を務めた。

土山本陣と問屋宅跡の間を通る小路。ここは隠れた土山宿の見学スポット、当時の本陣や問屋宅の規模の大きさや様子をリアルに感じることができる。江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。

問屋場・成道学校跡。土山宿の問屋場は中町と吉川町の2ヶ所にあったとされる。明治5年(1872年)宿駅制度廃止に伴いここ中町の問屋場は廃止、後に建物は成道学校の校舎として利用された。

中町の問屋場跡裏手にある東海道伝馬館。閉館時間が迫っていたため見学できず。他日を期す。

二階屋脇本陣跡。江戸中期より堤忠左衛門が脇本陣を務めたが、天保年間の”東海道宿村大概帳”に書かれる土山宿に脇本陣の記載は無い。本陣だったとの説もあり、中山道細久手宿の大黒屋や会津西街道大桑宿と同じように、徳川御三家専用の本陣に定められていた時期があったのかもしれない。

民芸・茶房”うかい屋”(菱屋跡)。江戸時代には菱屋という屋号の両替商だった。

旅籠平野屋跡(写真右手前)と旅籠木綿屋跡(写真左手前)。明治33年(1900年)森鴎外が祖父白仙の墓参に土山を訪れた際、ここ旅籠平野屋に宿泊したことが鴎外の”小倉日記”によりわかっている。

旅籠釣瓶屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠柏屋跡。この辺り、多くの旅籠が並ぶ旅籠町を形成していたようだ。

森白仙終焉の地・井筒屋跡(写真左手前)。津和野藩藩医だった森白仙は万延2年(1861年)江戸藩邸より津和野へ戻る途次、ここ井筒屋で病のため急死したという。森鴎外が墓参に訪れた際に井筒屋の所在を確認したようで、小倉日記に「宿舎井筒屋といふもの存せりやと問ふに、既に絶えたり。」と書かれている。

大原製茶場(油屋平蔵)。江戸時代には油を商い、明治になって製茶業に転業したという。

旅籠簾屋跡。

御菓子司正和堂。旧宿場町らしい老舗な佇まいのお菓子屋さん。

旅籠海老屋跡。

白川神社。ちょうどこの日は白川祇園祭の本祭日だったようで、たくさんの提灯や紙灯篭が並んでいた。

土山宿を横切って流れる来見川。旧東海道には来見橋が架けられる。

旅籠寿し屋跡。ちょうどここに差し掛かったときに、神輿を担ぐ一団に遭遇。

宮出しで白川神社を出た神輿が、これから神社へ戻るところらしい。

金箔に装飾された神輿は見事の一言。

神輿を曳く一団は私の横を通り過ぎて白川神社方面へ向かったのだが、来見橋の辺りで引き返し、全速力で戻ってくるという予想外の展開に。そういえば成田祇園祭でもこんな光景を見たような…。

油屋権右衛門屋敷の前で止まり、神輿を載せた台車を上下に激しく振りはじめる。

少々激しくやり過ぎたみたいで、台車に支障をきたしたよう…。

何とか白川神社へ帰って行きました。

祭りの後の静けさ。写真右手前は旅籠大槌屋跡。

御祭神を見送る涙雨なのか、突然の豪雨に見舞われ扇屋伝承文化館の軒先に避難。馬子唄の「あいの土山 雨が降る」を実際に体感できるとは。

江戸時代に扇や櫛を商っていた”扇屋”を改修し、旧東海道散策者の憩いの場として再生された扇屋伝承文化館。時間が遅かったせいか残念ながら入館できず。

雨が小康状態になったところで旧東海道歩きを続ける。土山宿東端の生里野地区へ。

生里野地蔵公園にて。東海道五十三次・土山「春之雨」。

お六櫛商三日月屋。生里野には櫛を商う店が多かったといい、寛政9年(1797年)刊行の”東海道名所図会”に「名物は指櫛。又、田村川といふ名酒をあきなう家あり」と紹介されている。

生里野集落の家並み。土山宿の江戸方入口にあたる生里野は、鈴鹿峠を越えてきた旅人が一息つきたくなる場所だったのか、地酒”田村川”をはじめ、夕霧そばや蟹が坂飴、あけぼの茶と土山宿の名物とされた品を扱う茶屋が多かったという。

生里野集落の江戸方端、”東海道土山宿”と刻む石碑が立つ。ここが土山宿の江戸方出入口であることを示しているようだ。

”道の駅あいの土山”に辿り着いたところで本日の歩き旅は終了。田村神社バス停より”あいくるバス”の貴生川駅北口行きに乗車、新水口バス停で下車しホテル古城へ帰る。
【旧東海道歩き 第5日目】ホテル古城→水口宿→土山宿→田村神社停留所
歩行距離約17km

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