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土山宿

【2013年8月4日(日)旧東海道 土山宿】
坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る

鈴鹿峠を往来する馬子たちに歌われた土山宿。この馬子唄には土山に冠されている”あい”の解釈によって諸説あるのだが、坂下宿で晴れていた天気が鈴鹿峠で曇りに変わり、そして相対する土山宿で雨が降るという解釈が私にはしっくりくる。様々な気象条件によるのだろうが、鈴鹿峠のある鈴鹿山脈を境にして三重県側では晴れ、滋賀県側で雨といった気象になることがあるのではなかろうか。土山宿では雨降りになるイメージが強かったのか、浮世絵師歌川広重は東海道五十三次・土山「春之雨」で、大雨の中、田村川を渡る大名行列の情景を描いている。

江戸日本橋から数えて49宿目、京都三条大橋からならば5宿目となる土山宿。天保14年(1843年)当時の宿長さ東西22町55間(約2.5km)、人口1505人、家数351軒、本陣は土山本陣と大黒屋本陣の2軒、脇本陣なし、旅籠44軒。京方外れに松尾川(内白川)、江戸方外れを田村川(外白川)が流れ、江戸方の先に東海道の難所の一つ、鈴鹿峠が控えており旅装を解く旅人も多かったことだろう。宿内の辻町に東海道と御代参街道の追分があり、お伊勢参りやお多賀参りの参詣人が通行し賑わったようだ。名物は地酒”田村川”や蟹が坂飴、あけぼの茶、お六櫛、夕霧そば等。


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土山宿滝町
東海道案内板が立つ北土山滝町より土山宿を歩こう。


土山宿滝町
旧土山宿滝町を行く旧東海道。


御代参街道起点
旧土山宿辻町で旧東海道(国道1号)から御代参街道が分岐。その追分には二基の道標が残る。写真左端、国道1号沿いの民家が旅籠追分屋跡、道標前の小路が旧御代参街道である。


御代参街道追分の道標
土山宿辻町に残る追分道標。写真左の道標は天明8年(1788年)建立、正面に「たかのよつぎかんおんみち」と刻み、高野の世継観音(永源寺)へ至る道であることを示す。右の道標は文化4年(1807年)建立、「右 北国たが街道 ひの 八まんみち」と刻み、日野・八幡を経て多賀大社や北国街道へ至る道であることを示す。いずれも御代参街道の案内道標である。


見性庵廃寺跡
辻町追分付近、御代参街道路傍に「見性庵廃寺跡」碑がある。北土山の永雲寺の末寺、見性庵という寺院跡。明治初期に廃寺となった。


南土山交差点
南土山交差点で国道1号から右斜めに旧道が分かれる。


ひのや酒店
南土山交差点から旧東海道に入ってすぐ、ひのや酒店に”土山の地酒 田村川”の看板が目に入る。旧街道を歩いていると地酒を商う酒蔵や酒店を目にすることも多く、地酒を土産に買いたいと思いつつも背負う荷の重さを考えるとが躊躇してしまうわけで…。


旅籠常盤屋跡
旅籠常盤屋跡。


阿波屋
阿波屋商店。古くから阿波屋の屋号で商いを続けてこられたようだ。


水谷実商店(千切屋跡)
水谷実商店。”東海道土山宿 千切屋跡”の屋号を掲げる。


旅籠藤屋跡
旅籠藤屋跡。


灰屋跡
”東海道土山宿 灰屋跡”の屋号を掲げる民家。江戸時代には炭や薪の燃えかすである灰を買い集めて転売する商人がいた。


和泉屋
和泉屋。昔は質屋だったらしい。


石岡商店(桝清)
石岡商店は”東海道土山宿 桝清”の屋号を掲げる。


大黒橋
吉川に架かる大黒橋。元々は土橋だったが江戸時代末期から明治初期にかけての頃、旅籠の大黒屋立岡長兵衛によって石橋に架け替えられ、以来”大黒橋”の名が付いたという。


土山宿陣屋跡
大黒橋東詰にある土山宿陣屋(代官屋敷)跡。天和3年(1683年)に建造され、以来勘定奉行配下の代官が在住していた。東西25間(約45m)、南北30間(約55m)の敷地だったと伝わる。寛政12年(1800年)土山宿の大火で類焼、以後ここに再建されることはなく、陣屋は信楽に移された。


旅籠古め屋跡
旅籠古め屋跡。


大黒屋本陣跡・問屋場跡・高札場跡
大黒屋本陣跡・問屋場跡・高札場跡。大黒屋本陣に隣接して問屋場と高札場が置かれていたようだ。


大黒屋本陣跡
大黒屋本陣跡。建物の遺構は残っておらず、跡地に明治天皇聖蹟碑が建てられている。大黒屋は旅籠だったが、江戸時代中期頃に2軒目の本陣に指定された。控本陣と呼ばれる。


前田製茶(岩田屋跡)
前田製茶(岩田屋跡)。江戸時代は豪農岩田屋の家だったが、明治になって前田家が入り製茶業を始めたという老舗。


旅籠中嶋屋跡
旅籠中嶋屋跡。


高野屋・油屋跡
”高野屋”(写真右)と”油屋跡”(写真左)の屋号を掲げる民家。


旅籠山村屋跡
旅籠山村屋跡。


土山公民館
土山中央公民館。”敷地入口に”宿場のけごみ”と刻む意味難解な碑を置く。”けごみ”は”蹴込み”と書くようで、読んで字の如く、足のつま先が当たるような所を指し、家の上がり口の前面垂直の部分や階段の踏み板と踏み板との間の立ち上がり部分を表すという。そういった場所で人足や駕籠かき等が腰を掛けて足を休めたことから、休息場の意味を込めた造語らしい。


旅籠近江屋跡
旅籠近江屋跡(写真左)。この辺りは土山本陣や問屋宅がある土山宿の中心部。旧東海道沿いは宿場町らしい往時の面影を留める景観だ。


土山宿本陣跡
土山本陣跡。寛永11年(1634年)徳川三代将軍家光が上洛の折、土山宿に本陣を設置。甲賀武士土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門を初代として江戸期を通して代々土山家が本陣職を務めた。明治元年(1868年)明治天皇行幸の折、ここで誕生日を迎えられたという。明治3年(1870年)本陣制度が廃止され約240年間の歴史に幕を閉じた。


土山宿本陣跡
土山本陣向かいの旅籠俵屋跡より本陣を望む。いかにも本陣らしい風格ある佇まい。土山本陣は江戸期に3度の大火で類焼しており、現在の建物は江戸後期から明治期にかけての建築だと思うのだが、建築年が不明。


土山宿問屋宅跡
本陣から小路を挟んで隣にある土山宿問屋宅跡。こちらも本陣に負けず劣らずの風格ある佇まい。油屋佐平治の名で代々松山家が問屋職を務めた。


土山宿本陣跡
土山本陣と問屋宅跡の間を通る小路。ここは隠れた土山宿の見学スポット、当時の本陣や問屋宅の規模の大きさや様子をリアルに感じることができる。江戸時代にタイムスリップしたような感覚だ。


問屋場・成道学校跡
問屋場・成道学校跡。土山宿の問屋場は中町と吉川町の2ヶ所にあったとされる。明治5年(1872年)宿駅制度廃止に伴いここ中町の問屋場は廃止、後に建物は成道学校の校舎として利用された。


東海道伝馬館
中町の問屋場跡裏手にある東海道伝馬館。閉館時間が迫っていたため見学できず。他日を期す。


二階屋脇本陣跡
二階屋脇本陣跡。江戸中期より堤忠左衛門が脇本陣を務めたが、天保年間の”東海道宿村大概帳”に書かれる土山宿に脇本陣の記載は無い。本陣だったとの説もあり、中山道細久手宿の大黒屋や会津西街道大桑宿と同じように、徳川御三家専用の本陣に定められていた時期があったのかもしれない。


うかい屋(菱屋跡)
民芸・茶房”うかい屋”(菱屋跡)。江戸時代には菱屋という屋号の両替商だった。


旅籠平野屋跡・旅籠木綿屋跡
旅籠平野屋跡(写真右手前)と旅籠木綿屋跡(写真左手前)。明治33年(1900年)森鴎外が祖父白仙の墓参に土山を訪れた際、ここ旅籠平野屋に宿泊したことが鴎外の”小倉日記”によりわかっている。


旅籠釣瓶屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠柏屋跡
旅籠釣瓶屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠柏屋跡。この辺り、多くの旅籠が並ぶ旅籠町を形成していたようだ。


森白仙終焉の地・井筒屋跡
森白仙終焉の地・井筒屋跡(写真左手前)。津和野藩藩医だった森白仙は万延2年(1861年)江戸藩邸より津和野へ戻る途次、ここ井筒屋で病のため急死したという。森鴎外が墓参に訪れた際に井筒屋の所在を確認したようで、小倉日記に「宿舎井筒屋といふもの存せりやと問ふに、既に絶えたり。」と書かれている。


大原製茶場(油屋平蔵)
大原製茶場(油屋平蔵)。江戸時代には油を商い、明治になって製茶業に転業したという。


旅籠簾屋跡
旅籠簾屋跡。


御菓子司正和堂
御菓子司正和堂。旧宿場町らしい老舗な佇まいのお菓子屋さん。


旅籠海老屋跡
旅籠海老屋跡。


白川神社
白川神社。ちょうどこの日は白川祇園祭の本祭日だったようで、たくさんの提灯や紙灯篭が並んでいた。


来見橋
土山宿を横切って流れる来見川。旧東海道には来見橋が架けられる。


旅籠寿し屋跡
旅籠寿し屋跡。ちょうどここに差し掛かったときに、神輿を担ぐ一団に遭遇。


白川祇園祭・神輿宮入り
宮出しで白川神社を出た神輿が、これから神社へ戻るところらしい。


白川祇園祭・神輿宮入り
金箔に装飾された神輿は見事の一言。


白川祇園祭・神輿宮入り
神輿を曳く一団は私の横を通り過ぎて白川神社方面へ向かったのだが、来見橋の辺りで引き返し、全速力で戻ってくるという予想外の展開に。そういえば成田祇園祭でもこんな光景を見たような…。


白川祇園祭・神輿宮入り
油屋権右衛門屋敷の前で止まり、神輿を載せた台車を上下に激しく振りはじめる。


白川祇園祭・神輿宮入り
少々激しくやり過ぎたみたいで、台車に支障をきたしたよう…。


白川祇園祭・神輿宮入り
何とか白川神社へ帰って行きました。


旅籠大槌屋跡
祭りの後の静けさ。写真右手前は旅籠大槌屋跡。


扇屋伝承文化館
御祭神を見送る涙雨なのか、突然の豪雨に見舞われ扇屋伝承文化館の軒先に避難。馬子唄の「あいの土山 雨が降る」を実際に体感できるとは。


扇屋伝承文化館
江戸時代に扇や櫛を商っていた”扇屋”を改修し、旧東海道散策者の憩いの場として再生された扇屋伝承文化館。時間が遅かったせいか残念ながら入館できず。


生里野地蔵公園
雨が小康状態になったところで旧東海道歩きを続ける。土山宿東端の生里野地区へ。


生里野地蔵公園にて
生里野地蔵公園にて。東海道五十三次・土山「春之雨」。


お六櫛商三日月屋
お六櫛商三日月屋。生里野には櫛を商う店が多かったといい、寛政9年(1797年)刊行の”東海道名所図会”に「名物は指櫛。又、田村川といふ名酒をあきなう家あり」と紹介されている。


土山宿・生里野
生里野集落の家並み。土山宿の江戸方入口にあたる生里野は、鈴鹿峠を越えてきた旅人が一息つきたくなる場所だったのか、地酒”田村川”をはじめ、夕霧そばや蟹が坂飴、あけぼの茶と土山宿の名物とされた品を扱う茶屋が多かったという。


土山宿・生里野
生里野集落の江戸方端、”東海道土山宿”と刻む石碑が立つ。ここが土山宿の江戸方出入口であることを示しているようだ。


道の駅あいの土山
”道の駅あいの土山”に辿り着いたところで本日の歩き旅は終了。田村神社バス停より”あいくるバス”の貴生川駅北口行きに乗車、新水口バス停で下車しホテル古城へ帰る。


【旧東海道歩き 第5日目】ホテル古城→水口宿→土山宿→田村神社停留所
歩行距離約17km
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水口城資料館・水口歴史民俗資料館

土山宿まで歩き終えての翌朝、宿泊先のホテル古城で朝食を済ませ出立。この日は帰省のため関西国際空港から旭川空港へフライトの予定。それまで少々時間があったので水口城址の散策ついでに水口城資料館と水口歴史民俗資料館を見学することに。

水口城は水口岡山城が関ヶ原合戦で落城の後に廃城となり、後の寛永11年(1634年)三代将軍徳川家光が京へ上洛の折の宿館として築城されたのがはじまり。天和2年(1682年)になり加藤明友が2万石で入城して水口藩が成立、城下の拡張に伴い東海道は城下を北へ迂回するように付け替えられた。本丸を取り囲む水堀は野洲川の伏流水を利用した大層清らかな水だったらしく、碧水城の別名を持つ。現在の本丸は水口高校のグランドとして利用され、東側の大手門枡形跡に水口城資料館が設置される。


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水口岡山城址
水口宿より水口岡山城址の古城山を望む。水口岡山城は天正13年(1585年)羽柴秀吉の命により中村一氏が築城、後に豊臣政権五奉行の増田長盛が入城し、元禄4年(1595年)に同じく五奉行の長束正家が入城した。関ヶ原合戦で西軍に与した長束正家は西軍敗退により水口岡山城へ退却して籠城、東軍方の池田長吉らに攻められて降伏開城する。この後、水口岡山城は廃城となった。


食料品のダイワ
まずは水口名物の干瓢を土産に買いたいと思い、水口宿三筋の道の京方分岐点にある”食料品のダイワ”へ立ち寄ってみることに。


水口名物の干瓢
ありましたよ。見事な干瓢をゲット!


ひと・まち街道交流館
干瓢を手に入れた後、旧東海道を京方へ向かい”ひと・まち街道交流館”へ。せっかくなので中を覗いてみると…。


ひと・まち街道交流館
毎年4月19日・20日に行われる”水口曳山まつり”で巡行する曳山の一基、河内町の曳山が保管されていた。本物をこんな間近に見て触れられるとはラッキー。


藤栄神社
水口藩主加藤家の祖、加藤嘉明を祭神に祀る藤栄神社。文政12年(1829年)創建、近世まで嘉明大明神社と呼ばれた。


水口城址
そして水口城址へ。


水口城址
大手門枡形に架かる木橋。奥に櫓風の水口城資料館が見え、いかにも城跡といった景観。しかし、往時の資料館の場所には番所が置かれており、このような櫓は無かった。


水口城資料館
二層櫓風の水口城資料館。館員の方の親切丁寧な説明を受けながら資料館を見学する。


大手門枡形跡
大手門枡形跡。写真左が資料館、右手奥に復元大手門が見える。


水口城復元大手門
復元大手門の奥は本丸跡だが、水口高校のグランドと化しているため立ち入りできない。何かの際に開門することはあるのだろうか。


水口城本丸跡
水口城本丸跡。グランド内への無断立ち入りを禁ずるとの立て看板があり、ここまで。


水口城址
水口城資料館を裏手から望む。盛夏に生い茂る木々の葉に邪魔されないこの辺りがベスト撮影ポイントかな。


水口城水堀
水堀は水口城の数少ない貴重な遺構だが…。


水口城水堀
碧水城と呼ばれたことが想像できない程に水堀の水は濁っている。


水口歴史民俗資料館
水口城資料館から水口歴史民俗資料館へ移動。


水口歴史民俗資料館展示
資料館に入ってまず目に留まるのが呉服町の曳山。水口曳山まつりの賑わいを表現し展示する。実際に祭りを見てみたくなるなあ。どうしよ。


水口歴史民俗資料館展示
水口宿に関する展示もあり興味津々に見学。


水口歴史民俗資料館展示
水口の古代から中世・近世にかけての展示があり、水口を散策するならばまずここを訪ねることをお勧めしたい。


水口城南駅
水口歴史民俗資料館の見学を終え、水口城南駅へ。


水口城南駅にて
久々に見る硬券の切符。いい味を出しますなあ。


撮影日:2013年8月5日(月)
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東海道伝馬館

土山宿から鈴鹿峠を越えて関宿までの旧東海道を早朝より歩くため、水口のホテル古城に予約を入れ前日入りすることに。13時半頃に貴生川駅に到着。前回の旧東海道歩きで訪問できなかった土山の東海道伝馬館を見学しておこうと、貴生川駅北口より”あいくるバス”に乗車し近江土山停留所へ。約2ヶ月ぶりに訪れた土山は、爽やかな秋の風が吹く季節を迎えていた。

東海道伝馬館は中町の問屋場跡裏手にあり、江戸後期建築という農家の建物を改修して平成13年(2001年)にオープン。東海道や宿場、伝馬制度をテーマにする展示をはじめ、お茶染め体験工房や特産品販売コーナーを併設する。展示の中でも特に興味深く見学したのは、土山宿の全容を一目に知ることができる模型や、京人形100体で再現した大名行列、東海道五十三次の切り絵と共に展示される各宿場の名物等。映像資料を紹介する「土山宿よもやま劇場」もあり、時間に余裕をもって見学したい施設だ。

東海道伝馬館
http://www.tokaido.or.jp/tenmakan/top.html


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東海道伝馬館
東海道伝馬館入口。


東海道伝馬館
入口の門を潜り抜ければ、時代劇のセットに迷い込んだよう。


東海道伝馬館問屋場
問屋場を再現する建物があり、中には帳付の宿役人を再現展示する。各宿場に置かれた問屋場は、公用荷物を次の宿場へ運ぶ人馬の継立や、公用の書状等を次の宿場へ届ける継飛脚を主な業務とした施設。寛永15年(1638年)以降、東海道の各宿場には人足100人と伝馬100疋もの常備が義務付けられていた。中山道で人足50人と伝馬50疋の常備であり、いかに東海道の通行が多かったことを物語ろう。


東海道伝馬館問屋場
問屋場の内部では次の宿場へ継送る荷物の重さを量っているところを再現。壁には土山宿の助郷村名を記した札を掲げる。大名行列等の大規模な通行がある際には宿場常備の人足や伝馬で賄いきれず、周辺の村々(助郷村)に人馬の提供を命じた。これらの要請と差配をするのも問屋の役目だった。


東海道伝馬館問屋場
馬屋では駄馬と馬子の様子を展示。


東海道伝馬館
母屋1階では土山宿に関するパネルや土山宿の模型等を展示。この目で見てきた町並みと比較しながら、江戸時代の土山宿模型で宿場を辿ってみるのも面白い。


東海道伝馬館
母屋2階には東海道五十三次の切り絵と共に各宿場の名物が展示される。食べ物が圧倒的に多いのだが、中でも餅は突出していて、小腹の空いた旅人が腹を満たすのにちょうど良く人気を集めたのだろう。


東海道伝馬館
水口宿はやはり干瓢。


東海道伝馬館
ここ土山宿は蟹が坂飴とお茶。


東海道伝馬館
同じく二階母屋に展示される東海道五十三次の盆景。


東海道伝馬館
東海道五十三次の盆景は歌川広重の浮世絵”東海道五十三次”を元に大津の和菓子屋三上静雄氏が製作。写真は土山「春之雨」を表現した盆景。製作者の東海道を愛する思いとこだわりを感じる作品である。


東海道伝馬館
特産品販売コーナーで土山名物の蟹が坂飴と「宿場町つちやま」という本を購入し、東海道伝馬館を後に。


土山宿問屋宅跡
土山宿問屋宅跡。


土山本陣跡
土山本陣跡を再び拝み見て。


二階屋本陣跡
二階屋脇本陣跡。この2ヶ月の間に主流の説を覆す発見があったのか、碑にあった”脇”の字が消されて二階屋本陣跡に修正されていた。


うかい屋
ろくに昼飯も食わずに移動してきたため腹が空いた。”うかい屋”が営業中だったので空いた腹を満たすべく立ち寄ることに。


うかい屋にて
”ぜんざい”と”山菜そば”を注文し、まずは前菜に出てきたのがぜんざい。京風らしい上品な甘さの餡汁と焼き餅、美味そうでしょ。


うかい屋03
そして山菜そばで腹を満たし、女将さんと少々談話。この建物は築190年だという。


扇屋伝承文化館
前回の旧東海道歩きで雨宿りをした扇屋伝承文化館。17時ちょっと前だったせいか、本日も開館しておらず…。


田村神社境内入口
旧東海道を田村神社まで歩いて。


道の駅あいの土山
道の駅あいの土山に立ち寄り、田村神社停留所から”あいくるバス”に乗車。新水口停留所で下車し、近くのコンビニに寄ってホテル古城へ。


清酒つちやま
道の駅あいの土山で買った”清酒つちやま”のカップ酒を飲みながら、至福のひと時を過ごす。さあ、明日はいよいよ鈴鹿峠越えだ。


撮影日:2013年10月12日(土)
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蟹が坂の大蟹伝説

【旧東海道歩き 第6日目】田村神社停留所→鈴鹿峠→坂下宿→関宿→JR関駅



【2013年10月13日(日)旧東海道 土山宿→坂下宿 道中】
東海道伝馬館を見学しての翌日、朝7時過ぎに水口のホテル古城を出立。新水口停留所より”あいくるバス”に乗車して田村停留所まで移動するつもりだったが、休日ダイヤの始発バスが来るまで30分以上あり、何もない停留所で待っているのも手持ち無沙汰なので、歩いて少しでも先に進むことに。そして到着時間が合致した7時50分に県道新城停留所で”あいくるバス”の大河原行に乗車、20分弱の間バスに揺られ田村神社停留所で下車する。田村神社から旧東海道歩きを再開、東海道三大難所の一つ、鈴鹿峠へ挑もう。

田村神社境内から田村川を渡って1km程進めば蟹が坂集落に入る。この”蟹が坂”という地名の由来に因む伝説が面白い。北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたという。ここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信がに撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したという。村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたという。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説である。


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いこいのたこ焼屋
旧東海道歩きの続きはここ田村神社境内入口前、”いこいのたこ焼屋”から。このたこ焼き屋さん、本業の傍ら土山名物の蟹が坂飴を製造販売している。


旧東海道 田村神社境内
旧東海道は田村神社境内を通り、ここを右折して田村川を渡る。


田村神社の東海道案内板
これが田村神社境内の旧東海道ルート。


田村神社
倭姫命・嵯峨天皇・坂上田村麻呂を祭神に祀る田村神社。弘仁3年(812年)創建と伝わる。


海道橋西詰の橋番所跡
海道橋西詰、橋番所があったとされる場所(写真左手)。橋番所の番人は地元住民が務め、橋を渡る旅人から渡り賃銭を徴収していた。


海道橋
田村川に架かる海道橋。ここに橋が初めて架けられたのは安永4年(1775年)、田村永代板橋と呼ばれ幅二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)、約30cmの低い欄干が付いていた。それ以前は現在の国道1号が通る田村橋より約50m下流辺りを徒歩により渡っていたという。


田村川
海道橋上より田村川下流方面を望む。向こうに架かる橋が国道1号の田村橋で、その下流域が田村川の徒歩渡し跡となる。本日の水量くらいなら徒歩で渡ることも十分可能だが、川幅が狭いので大雨が降ると激流になり溺死する旅人も多かったらしい。


田村永代板橋の復元高札
田村永代板橋の復元高札。架橋の理由や渡橋の条件等が高札に書かれている。下記に句読点を補い読み下し文で紹介。

田村川橋歩行渡しの処、出水の節、差支候に付、土山宿自普請を以、道附替橋掛渡し、当閏十二月二十三日より相通し、御用の通行、武家の往来、近村渡世の者これ除き、其外諸旅人より壱人に付三文宛、荷一駄に付荷主より三文宛
永くこれ取るべく者也。

安永四未閏十二月
道中奉行


蟹坂古戦場跡
蟹坂古戦場跡。天文11年(1542年)甲賀への侵入を目論む伊勢の北畠軍と、山中城主の山中秀国の軍勢がこの一帯で攻防戦を展開。近江守護の六角定頼より援軍を受けて山中勢が勝利し、北畠勢の甲賀侵入を阻止した。


旧東海道 高尾金属工業
高尾金属工業の敷地内を通る旧東海道。


蟹が坂集落
蟹が坂集落を行く旧東海道。


榎島神社
蟹が坂集落の東端に鎮座する榎島神社。御神木の椎の木は樹齢400年を越える。


かにが坂飴
せっかくなのでここに現れたという大蟹に思いを馳せ、”かにが坂飴”を舐めながら歩こう。


国道1号 南土山
蟹が坂集落から次の猪鼻集落への旧東海道は、南側を流れる谷川に沿って山を上るルートだったが、国道1号の敷設による開削で失われている。


旧東海道 谷川付近
蟹が坂集落の旧道から国道1号を挟んで向こうに延びる道。谷川に向かって下っており、少なからず旧東海道の道筋を踏襲していると思われる。この先の谷川沿いに蟹塚があるらしいが未確認。


国道1号 猪鼻集落入口付近
国道1号の猪鼻集落入口付近。写真右奥の高台に金比羅神社が鎮座。旧東海道はその神社手前の写真右手山上から左手に見える民家奥にかけて下り坂の道筋だったと思われるが、国道1号の開削によってその道筋は失われている。


金比羅神社
猪鼻集落の京方入口に鎮座する金比羅神社。


旧東海道 猪鼻集落
猪鼻集落の旧東海道に入ってすぐ振り返って京方面を撮影。旧東海道は国道1号の擁壁に向かって坂道が続いていたのだろうことが推測される。


猪鼻集落
猪鼻集落を行く旧東海道。


猪鼻集落
猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしい。かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だった。


旅籠中屋跡
旅籠中屋跡。明治天皇が御小休でここに立ち寄られた。家屋前に明治天皇聖蹟碑が建つ。


浄福寺
天正年間(1573年~1591年)開基の浄福寺。伝教大師最澄の作と伝わる薬師如来座像を本尊に祀る。


大高源吾(俳号を子葉)の句碑
浄福寺前、大高源吾の句碑。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名のった。

いの花や 早稲のまもるる 山おろし



猪鼻集落
猪鼻集落の江戸方(東側)出入口。「東海道猪鼻村」と刻む石碑を置く。


湖国興業
旧東海道は湖国興業の敷地内に消失。


国道1号 土山町山中
国道1号へ迂回して先へ。写真奥に見える新名神高速道の高架橋手前、右手山上から左手にかけて下り坂の旧東海道の道筋が残っているが、国道1号が分断している。


山中一里塚公園
旧東海道が国道1号に分断されている地点には山中一里塚公園がある。江戸日本橋から109里目(約428km)、京三条大橋からは16番目(実測で約66km地点)となる一里塚が付近にあった。


山中一里塚公園
山中一里塚公園にて。駄馬を惹く馬子を表していると思われる石像だが、風雨に晒されたためか馬子の風化が著しい。


櫟野観音道道標
山中一里塚公園に残る櫟野(いちの)観音道道標。ちょうどこの地点は東海道を分かれて神村(現 甲賀市甲賀町神)や櫟野村(現 甲賀市甲賀町櫟野)へ至る櫟野観音道(大原道)の分岐点で、この道標が置かれていた。道標正面に「いちゐのくわんおん道」と刻み、櫟野にある櫟野寺への案内道標である。


旧東海道 草竹コンクリート工業
山中一里塚公園付近、京方に残る旧東海道。草竹コンクリート工業の私道となっており、これより先は関係者以外立入禁止の立て看板が。ここまでにして引き返す。


国道1号 土山町山中
新名神高速道の高架橋下を潜り抜けて。


山中の地蔵大菩薩堂
山中の旧東海道筋にある地蔵大菩薩堂。


小田川橋
小田川橋を渡った先で国道1号に合流。


十楽寺
国道1号の向こうに十楽寺。


熊野神社
社殿が真新しい熊野神社。


国道1号山中交差点
国道1号山中交差点。付近に民家が数軒見られる。


山賊茶屋
山中交差点付近にある山賊茶屋。残念ながら廃業している。その昔、鈴鹿峠の一帯は山賊が出没し、往来する旅人はを金品を奪われる等して難儀したようだ。そんな昔話にあやかって名付けた店名なのだろうが、国道1号と化した峠道に山賊が現れるような雰囲気はない。


国道1号 土山町山中05
緩やかな坂道の国道1号を上って鈴鹿峠へ。


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ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
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