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筆捨茶屋

【2013年10月13日(日)旧東海道 坂下宿→関宿 道中】
坂下宿から旧東海道を江戸方に向かって約3km、鈴鹿川の対岸に名勝筆捨山を望む立場があった。その名を筆捨茶屋や藤の茶屋とも言い、4軒の茶屋があったことから四軒茶屋とも呼称される。筆捨山は標高289m、山腹に奇岩がむき出しに表れ、元々の名を岩根山と称す。室町期の絵師狩野元信がこの山を描こうと筆を執ったが、翌日に雲や霞がたちこめて景観が目まぐるしく変わってしまい、筆を投げ捨てたとの逸話から”筆捨山”の名が付いたと伝わる。そんな筆捨山を眼前に望める筆捨茶屋、東海道を往来する旅人は足を休めつつ奇岩の横たわる山容を眺めて楽しんだという。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 阪之下」をはじめ、伊勢参宮名所図会等にここが描かれ、往時の様子を今に見ることができる。


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旧東海道 関町沓掛
旧東海道、鈴鹿峠自然の家付近。東海道53次の宿場名を記した木柱が沿道に並ぶ。


鈴鹿峠自然の家
鈴鹿峠自然の家。昭和13年(1938年)坂下尋常高等小学校の校舎として建てられたもので、昭和54年(1979年)に廃校となり、現在は宿泊研修施設として活用されている。松下奈緒主演のテレビドラマ「二十四の瞳」の撮影に使われたとか。


三子山
鈴鹿峠自然の家付近の旧東海道より三子山を望む。東海道における峠越えの二大難所、西の鈴鹿に三子山、東の箱根には二子山があると、ここにおられた正調鈴鹿馬子唄保存会の鵜飼さんに話を伺いました。


鈴鹿馬子唄会館
鈴鹿馬子唄会館。鈴鹿馬子唄や坂下宿についての資料を展示している。


大竹屋本陣平面図
鈴鹿馬子唄会館に展示されていた大竹屋本陣平面図。あの農地と化してしまった場所に、こんな大きく立派な屋敷があったわけだ。坂下宿を訪ねる前に立ち寄りたかった。


沓掛集落
沓掛集落を行く旧東海道。


沓掛集落
”沓掛”は近畿以東の各地に見られる地名。中でも中山道碓氷峠の西側にあった沓掛宿は有名。沓とは旅人や馬の草鞋を指し、旅の道中で履き替えた草鞋を神社や寺の枝木等に掛け、旅の安全を祈願する風習に地名の由来がある。


坂下簡易郵便局
坂下簡易郵便局。


超泉寺
超泉寺。沓掛地区の神社仏閣は他に見当たらず、旅人が草鞋を掛けて旅の安全を祈願したのはここなのだろう。


関町沓掛の旧東海道路傍にて
沓掛の集落を抜けて間もなく、路傍に佇む人が…。遠目には生身の人間がしゃがんで何かの作業をしているように見えた。古の旅人か馬子なのか、この木像の意味しているところが不明。腕組みの上には幾らかのお賽銭が置かれており、お地蔵さんのような存在になっている。


楢の木集落
旧市瀬村の枝郷、楢の木集落。


楢の木集落
楢の木集落を抜ければ国道1号に合流。


弁天一里塚跡
弁天一里塚跡。弁天橋西側に”一里塚址”の石碑があるのみで両塚とも残存せず。江戸日本橋から107里目(約420km)、京三条大橋からは18番目(実測で約75km地点)となる。


弁天橋
弁天橋の東側(写真橋向こう)には新茶屋と呼ばれる立場があったが、国道敷設による道路拡張で消失したのだろう、遺構は全く見当たらない。


弁天橋と鈴鹿川
弁天橋と鈴鹿川。橋の下はちょっとした渓谷美。その昔、橋の袂に弁天様が祀られていたので弁天橋の名が付いたという。


旧東海道 関町市瀬
鈴鹿川の峡谷に通される国道1号。旧東海道の道筋を踏襲しており、昔は結構な難所だったと思われる。


鈴鹿川
谷底を流れる鈴鹿川。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋(藤の茶屋)の集落へ。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋跡を江戸方から望む。筆捨茶屋跡の旧道は国道を挟んで西側と北側に残っている。写真右の小路は筆捨茶屋西側の旧道。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
旧道沿いに数軒の民家が並ぶ西側の筆捨茶屋跡。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋跡を行く旧東海道。現在は民家の敷地に阻まれ通行できず。


筆捨山02
筆捨茶屋跡の集落裏手より筆捨山を望む。大部分が木々に覆われてしまっているが、奇岩の一部が望める。


鈴鹿川
筆捨山の麓を流れる鈴鹿川。古く鈴鹿川上流部は八十瀬(やそせ)川と呼ばれた。


筆捨茶屋(藤の茶屋)跡
筆捨茶屋跡東側の旧道。その入口には亀山市教育委員会による解説板が設置される。


伊勢参宮名所図会 筆捨山
現地設置の解説板より「伊勢参宮名所図会 筆捨山」。今も昔の様相が残っていることを実感。


筆捨山
筆捨橋より筆捨山の岩峰を望む。


旧東海道 関町市瀬
筆捨山を背にして国道1号を東へ。


旧東海道 関町市瀬
市瀬集落京方出入口の旧道。


市瀬集落
市瀬集落を行く旧東海道。


市瀬公民館
市瀬公民館の先で市瀬集落の旧道は国道1号によって分断。


西願寺
市瀬集落の中央部にある西願寺。


市瀬集落
市瀬集落の旧道は江戸方外れ(写真の旧道奥)で鈴鹿川を渡っていたが、現在は橋が架けられておらず行き止まり。集落途中で左折する新道を進み市瀬橋で鈴鹿川を渡ろう。


市瀬橋
市瀬橋上で振り返って。


鈴鹿川
市瀬橋より鈴鹿川下流を望む。昔は市瀬橋より鈴鹿川下流約50m辺り、”はねかけ橋”と呼ばれる橋が架けられていたらしい。江戸時代の狂言師大田南畝(蜀山人)が書いた旅行記「改元紀行」にその名が見える。


国道1号 関町市瀬
旧東海道は国道1号に合流し関宿へ向かう。


転石
国道1号に合流して間もなく、国道沿いの駐車場内にある転石(ころびいし)。その昔に山の上から転げ落ちてきたという大石、夜な夜な不気味な音をたてたり、何度除けても街道へ転び出てきたとか。弘法大師の供養によって大人しくなったとの伝説が残っている。


国道1号 関西口バス停
国道1号沿いの関西口バス停。この先で関宿に入る。


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関宿

【2013年10月13日(日)旧東海道 関宿】
古代三関の一つ、鈴鹿関に地名の由来がある関宿。鈴鹿関のはっきりとした位置や規模はわかっていないが、近年に鈴鹿関の西側面にあたる西城壁跡(観音山南麓)の遺構が発見され、現在も発掘調査が続けられている。その鈴鹿関跡と推定される地にあるのが関宿。今も江戸時代に往来する旅人で賑わった宿場町の景観を色濃く残している。それもそのはず、旧関宿一帯は東海道で唯一の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定される旧宿場なのだ。以前の旧街道歩きで訪れた中山道の奈良井宿や妻籠宿、会津西街道の大内宿も同指定を受ける旧宿場町だったが、いずれも負けず劣らずの往時を彷彿させる町並みは、多くの観光客を呼んで賑わっていた。しかしながら、ここ関宿は周辺に伊勢や京都・奈良等、日本を代表する観光地が多くあるせいか、意外に観光客が少ない。人もまばらな夕闇迫る旧宿場の町並みに身を置いてみれば、静寂の中に往時の賑わいを感じるのである。

江戸日本橋から数えて47宿目、京都三条大橋からならば7宿目となる関宿。天保14年(1843年)当時の宿内町並15町13間(約1.7km)、人口1942人、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠42軒。本陣は江戸時代前期に滝・伊藤・川北の3本陣家があったが、後に伊藤・川北家の2本陣に。脇本陣は原(馬屋)・荻野(荻屋)・西尾(鶴屋)家が交代で就役した。新所村・中町・木崎村の関宿3町で成り立ち、宿場中枢部の中町は一番町から六番町の6町で構成。宿場京方端の西の追分で大和街道、江戸方端の東の追分で伊勢別街道が分岐する。名物は餅菓子の関の戸や地蔵餅の他、南禅寺豆腐、竹火縄等。歌川広重は「東海道五十三次之内 関」の題で、まだ明けやらぬ薄暗い早朝、大名一行が出立の準備をする本陣での様子を浮世絵に描く。


より大きな地図で 関宿 を表示


関ロッジ出入口
国道1号から関ロッジ出入口のゲートを潜り抜けて。


旧東海道 関町新所
旧東海道を関宿へ向かう。


関宿西の追分
関宿の京方出入口、西の追分。東海道から伊賀・奈良方面へ通じる大和街道が分岐する。写真奥方向が江戸方の旧東海道で、右に分岐するのが旧大和街道。


西の追分の題目塔道標
西の追分に残る題目塔道標。元禄年間(1688年~1704年)の建立という。「南無妙法蓮華経」の下に「ひたりハいか やまとみち」と刻まれる。


旧大和街道
旧大和街道から西の追分を望む。大和街道は加太越えとも呼ばれる峠越えの山道。本能寺の変の際、堺から京都へ向かう途次にあった徳川家康は、その報せを聞き僅かな供を連れて畿内を脱出、本国の三河へ帰還した。世に言う”神君伊賀越え”である。その逃避行に通ったとされるのが加太越えの大和街道。この小路を悲壮な面持ちで家康が通ったと思えば、ただの小路も違って見えてくるのだ。


関宿西の追分休憩施設
西の追分休憩施設。裏庭に井戸が残っており、古民家を改装したものか。


関宿西の追分休憩施設
西の追分休憩施設でひと休み…、と思ったが、16時半に閉めてしまうとのことで、そそくさと退散。


南禅寺井口家
西の追分付近にある井口家。かつては南禅寺の屋号で豆腐料理を名物とする料亭だった。現在に残る建物は文久年間(1861年~1863年)の建築と伝わる。関宿の名物とされた南禅寺豆腐とは、ここの豆腐料理を指すのだろう。


観音山公園道
観音院の境内隅に”観音山公園道”の道標。ここから北へ分岐する道は観音山へ通じる。


観音院
観音院。古くは関西山福聚寺と称し、平安時代初期の開創と伝わる。戦国時代末期に本尊一体を残してすべてを焼失、後に再興され、寛文年間(1661年~1673年)観音院に改称した。


関宿新所
関宿新所の町並み。


関宿新所
関宿新所の町並み。


福生山長徳寺
新所の中心にある福生山長徳寺。


関宿新所
新所には関宿の名産竹火縄を作る火縄屋が数十軒あった。火縄は火縄銃をはじめ、煙草の着火にも用いられたため、庶民からの需要も多かった。関宿には旅人相手の火縄売りも多くいたようだ。


松葉屋田中家
松葉屋田中家(写真左手前)。昔は火縄屋を営んでいた。”播州林田御用火縄所”と書かれた看板が残っているという。


会津屋
地蔵院前にあるお食事処”会津屋”。「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた程、往時は鶴屋・玉屋と並ぶ大旅籠の一つだった。女性でありながら父の仇討を果たした”関の小万”は、会津屋の前身山田屋で育てられた伝わる。


地蔵院本堂
関の地蔵こと地蔵院。寺号を宝蔵寺と称す。本堂・愛染堂・鐘楼の3棟が国の需要文化財に指定。天平13年(741年)行基の開創と伝わり、本尊の地蔵菩薩は日本最古と云う。古くから庶民の信仰を集め、中世に地蔵院を中心に門前町を形成、関地蔵と呼称された。門前町関地蔵は後に東海道の宿場町として発展してゆく。


片岡かじや
片岡かじや(写真右手前)。明治末期より打刃物や鍬・鋤等、農具専門の鍛冶屋を営んだ。


関宿中町
関宿中町の町並み。


志ら玉屋
志ら玉屋。坂下宿にあった前田屋製菓の直営販売店。関宿名物の”志ら玉”を購入、味見は後のお楽しみに。

関宿名物 志ら玉
http://www.maedayaseika.com/


福蔵寺
旧東海道より延びる福蔵寺参道。参道東側(写真右手)に原脇本陣跡(現 ぜにや)。福蔵寺は織田信長の三男、信孝の菩提寺。


織田信孝公墓
福蔵寺境内にある織田信孝公の墓。福蔵寺は本能寺で憤死した織田信長の冥福を祈るため、信孝の命により建立。天正11年(1583年)信孝は羽柴秀吉との後継争いに敗れ自害、家臣が首を福蔵寺に葬ったという。この墓は信孝の墓石が不詳のため、四百年忌に建立したもの。


関の小万の墓
福蔵寺には”関の小万”の墓も。


福蔵寺裏門
福蔵寺裏門は荻屋脇本陣から移築したもの。


関宿高札場
関郵便局の敷地に立つ復元高札。関郵便局の敷地は江戸時代初期に御茶屋御殿と呼ばれ、本陣の役割を担う施設があったが、宿駅の整備により本陣が確立すると、代わって亀山藩の番所等が置かれた。江戸時代の数々の絵図から御茶屋御殿跡の街道に面した位置に高札場があったことがわかり、忠実に場所を特定して復元したとのこと。高札も本物と見紛う出来で、すばらしい。


関宿中町
中町より地蔵院を望む。鈴鹿の山々をバックに地蔵院と軒を連ねる町家、関宿らしい景観。


関宿中町
関宿中町の町並み。


深川屋服部家
深川屋服部家。寛永年間(1624年~1645年)深川屋の初代が考案した餅菓子”関の戸”を370余年にわたり作り続ける老舗。


深川屋
関宿の名物の一つ、関の戸を購入。

東海道関宿銘菓 関の戸|深川屋
http://www.sekinoto.com/


旅人宿石垣屋と玉屋歴史資料館
旅人宿石垣屋(写真右手前)と玉屋歴史資料館(写真右奥)。石垣屋の向かい、深川屋の隣(現 佐野新聞店辺り)に荻屋脇本陣があった。旅人宿石垣屋は旧商家を利用した安宿(ゲストハウス)で、現代の木賃宿といったところか。そして関宿を代表する大旅籠の玉屋は歴史資料館として内部を公開。後日に改めて見学しよう。


橋爪家
写真右手前、手摺付二階主入りの建築は江戸期に両替商を営んだ橋爪家。大坂の鴻池家と並び称され、江戸にも出店を持っていたというから、当時は相当な豪商だったようだ。江戸末期には芸妓の置屋として繁盛した。


旧伊藤本陣
中町の中心部(旧三番町)にある旧伊藤本陣。現在は本陣の店部分(家族の居住部分と大名宿泊時の道具置場)だけが残っている。


川北本陣跡
伊藤本陣と同じく中町の三番町にあった川北本陣跡。現在本陣の建物は残っていないが、本陣門だけが延命寺に移築され現存する。東隣に問屋場が置かれていた。


関宿問屋場跡
川北本陣跡の東隣、問屋場跡。当初、関宿の問屋は滝・伊藤・川北の本陣家が1年毎に交代で務めていた。後に宿内の有力者2名を選び半月毎の交代制となったが、元禄年間(1688年~1704年)以降は川北家が勢力を延ばし問屋役の任に就いた。


関宿問屋場跡
問屋場跡の山車倉。関宿の山車は最盛期に16基あったが、現在は4基の山車と4ヶ所の山車倉がある。精一杯やれる程度を表す「関の山」という言葉の語源は、関宿の狭い路地で華美を競い練り歩いた山車にあるという。


旧鶴屋脇本陣波多野家
旧鶴屋脇本陣波多野家(写真右手前)。この辺りは中町の旧四番町にあたり、かつて西尾吉兵衛家が鶴屋の屋号で脇本陣を務めたのがここ。平素は一般人を宿泊させる旅籠たっだ。


岩田商店
岩田商店の店構えもさることながら、レトロな看板かいい。創業は比較的新しく昭和30年(1955年)、地元産の自然薯を使った”福天むすび”や”福とんむすび”が名物だとか。


百五銀行
百五銀行関支店。関にあっては銀行もこの通り。


雲林院家かいうん楼と青果物商遊快亭
写真左手前が雲林院家の旧開雲楼、その隣に鮮魚青果物商遊快亭(旧松鶴楼)。共に昔は芸妓置店で、旅籠の飯盛女を置いていたところ。今風に言えば、温泉宿のコンパニオン派遣業といったところか。今も昔も男が求める需要は変わらぬわけで…。


御馳走場跡
旧開雲楼前にある御馳走場跡。関宿に出入する大名一行を宿役人らが出迎え見送った場所で、宿内には4ヶ所の御馳走場があった。


関宿木崎
夕闇に沈みゆく関宿木崎の町並み。


関宿東の追分
関宿の江戸方方出入口、東の追分。旧東海道から伊勢別街道が分岐する。大鳥居の向こうが伊勢神宮へ通じる伊勢別街道。関宿内を歩ききったここで本日の旅は終い!


JR関駅
JR関駅から帰途につく。


志ら玉
JR関西本線名古屋行きの車内にて。これが志ら玉です♪


【旧東海道歩き 第6日目】田村神社停留所→鈴鹿峠→坂下宿→関宿→JR関駅 歩行距離約18km
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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