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旅籠玉屋歴史資料館・関まちなみ資料館

前回の旧東海道歩きから年も明けて約5ヶ月後の2014年3月8日(土)、冬蘢りしていた虫が這い出てくる啓蟄の季節を迎え、久々に立った関宿は一足早い春の風が吹く。少しでも先に進みたい欲求を抑え、次の亀山宿への旧東海道歩きは翌日とし、関宿と亀山宿の間にある”ホテルルートイン亀山第2インター”に宿の予約を入れた。この日はちょうど「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」の開催期間で、関宿内の各家々で雛飾りを展示しており、旅籠玉屋歴史資料館・まちなみ資料館と併せて見学に時間を充てることとしたい。

旅籠玉屋は会津屋・玉屋と並ぶ関宿の大旅籠の一つ。江戸時代末期建築の主屋をはじめ、離れ・土蔵・納屋の建物が残り、現在は資料館として内部公開する。宿泊者に供した食器や食膳類、寝具等を展示しており、江戸時代の旅籠の様子を目で見て知り、感じることができる貴重な旅籠遺構である。そして他方、まちなみ資料館は文政8年(1825年)の火事後の再建と推定される江戸時代末期の町家。関宿における町家の典型を今に伝える。日本の街道史を勉強したいのであれば、必ず訪れておきたい場所だ。


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JR関駅
約5カ月ぶりでJR関駅に降り立つ。年を重ねるにつれ、時が流れるのは早い。


地蔵院
境内が青空マーケットに開放されていた地蔵院。三重オーガニックマーケットという催しで、毎月第二土曜日に開かれているとのこと。昔から宿場町といえば定期市だものね。


会津屋
地蔵院前の会津屋で昼飯に。

会津屋
http://www16.ocn.ne.jp/~aizuya/index.html

会津屋
さすが、かつての大旅籠。外見に違わず店内もらしい雰囲気が漂う。


お薦め定食
山菜おこわと街道そばをメインに、煮物や佃煮類等の他にデザートまで付く”お薦め定食”を頂く。味も腹も満足な昼飯となりました。


志ら玉屋
再び”志ら玉屋”に。


志ら玉屋
志ら玉屋の店内奥には慎ましく雛人形が。


ナガオ薬局
ふと目に留まったナガオ薬局。この店構えにレトロな看板が絶妙のバランス。素晴らしい。


旧落合家
「おひなさま展示中」の看板に誘われ旧落合家へ。


旧落合家の吊るし飾り
まずは旧落合家の吊るし飾り。


旧落合家の雛飾り
そして、旧落合家の見事な雛飾り。手前には雛人形たちが関の山車を曳く。


階段ひな飾り
こんな所にも!旧落合家の階段雛飾り。


関宿高札場
旧落合家を出て関宿高札場へ。高札には何が書いてあるんでしょうか。


関郵便局
関宿郵便局。ひっそりと顔出し看板が置かれているが、誰も寄り付いてません。


深川屋
深川屋でまたしても関の戸を購入。一度食べたら当然の行為。


旅籠玉屋店の間
本日最大の目的、深川屋の向かいにある旅籠玉屋歴史資料館へ。旅籠玉屋の店の間から深川屋を眺め。


旅籠玉屋帳場
帳場で番頭さんに迎えらる。ここ玉屋に泊まった旅人は、番頭さんからどんな言葉をかけられたのだろうか。柔和な表情を見ていると、色々な想像がかきたてられる。


旅籠玉屋土間
旅籠玉屋土間。炊事場には竈の上に大釜や大鍋が置かれ、多くの客の食事を用意する料理人や賄いが忙しく動き回っていたのだろう。そんな様子が目に浮かぶ。


旅籠玉屋中庭
表側の店の間や帳場、座敷と離れを隔てる中庭。


旅籠玉屋離れ
建物1階の奥、貴賓室を兼ねた離れ。どんな御方がここで休憩し、はたまた宿泊されたのだろうか。


旅籠玉屋裏庭
離れに隣接する裏庭。縁側に腰を掛けてのんびり眺めたい。


旅籠玉屋井戸端
建物から外に出て井戸端へ。仕事の合間にどんな会議がここで開かれたのでしょう。


旅籠玉屋土蔵
旅籠玉屋の最奥に土蔵が構える。


旅籠玉屋二階客室
旅籠玉屋二階客室。絵に描いたような煎餅布団…。寝心地はいかがなものか。


関の竹火縄
旅籠玉屋歴史資料館に展示されていた関の名産品の一つ、竹火縄。江戸時代、関宿には松葉屋等数十軒の火縄屋があり盛んに生産された。煙草に火を付けるために重宝され、往来の旅人相手によく売れたようだ。明治期にマッチが登場して竹火縄は姿を消し、現在は全く生産されていない。


旅籠玉屋歴史資料館と石垣屋
旅籠玉屋歴史資料館を後に。


旧両替商橋爪家
旧両替商の橋爪家でも雛飾りを展示していたので見学しよう。


橋爪家の雛飾り
橋爪家の雛飾り。江戸・大正・昭和と現代の平成、4時代の雛飾りを展示。中でも目を引くのは江戸時代のもの。御殿飾りという形式で、江戸時代末期から昭和初期にかけ関西で主流の飾りつけだった。


旧伊藤本陣
旧伊藤本陣。


眺関亭
関宿の町並みを一望できる眺関亭。江戸時代末期に橋爪屋十兵衛家があった場所で、安政6年(1859年)建築の主屋は平成3年(1991年)に取り壊された。


百六里庭・眺関亭
橋爪屋十兵衛家跡は百六里庭と名付けられた小公園になり、旧東海道に面して眺関亭が建てられている。


関宿の町並み
眺関亭より関宿の町並み。


川北本陣跡
川北本陣跡。


関宿中町にて
小社殿を載せるリヤカーと、羽織袴を着た人たち。何かの行事中のよう。

追記
写真は伊勢太神楽の巡行に遭遇したもの。伊勢太神楽とは、囃子を奏でながら獅子舞を披露して各戸を回り、伊勢神宮のお札を配る600年前から続く伝統芸能。この巡行に遭遇できたのは極めて幸運だったようで、 もっと詳しく見ておくべきたったと後悔。”びわこおおなまけ”さん、貴重な情報を頂き有難うございました。
[2014年5月25日追記]



中町三番町山車倉
中町三番町山車倉の前にリヤカーが取り残され…。羽織袴の人たちはどこへ行ってしまったのでしょう?


旧鶴屋脇本陣波多野家
旧鶴屋脇本陣波多野家。


関まちなみ資料館
そして本日第二の目的地、関まちなみ資料館へ。


関まちなみ資料館
関まちなみ資料館は、文久年間(1861年~1864年)に書かれたという「宿内軒別書上帳」により、別所屋勝次郎の商家があった場所とわかり、今に残る建物は文久年間まで遡ることができるという。昭和60年(1985年)に持ち主の別所マサ氏より買い受けて昔日の姿に復元、資料館として一般公開する。


関まちなみ資料館
主屋の表から三列に部屋をとるのは関宿の町家に見られる典型。


関まちなみ資料館
関まちなみ資料館1階の様子。


明治の自転車
関まちなみ資料館に展示する明治の自転車。走った方が速そうだが、当時は画期的な乗り物だったのだろう。まともなサドルもなく、長時間の運転も無理な感じ。これが自転車の原型なのだ。


関まちなみ資料館
二階には町並みの変遷を一目に見れる繋ぎ合わせ写真を展示。


瑞光寺
関まちなみ資料館から近くの瑞光寺へ移動。境内にある権現柿は、徳川家康が立ち寄った折に柿を賞味したと伝わる柿の木。


延命寺山門
延命寺の山門を見学に。この門は明治5年(1872年)に川北本陣から移築された。川北本陣唯一の遺構。


川北本陣旧状(昭和初期)
関まちなみ資料館に展示されていた昭和初期の旧川北本陣。


関神社
関宿木崎の北側に鎮座する関神社に参拝。


関神社境内にて
関神社境内にて。春の訪れを感じます。


関神社にて
せっかくなので今年初めてのおみくじを引く。結果は良くも悪くも吉。「神仏を信じ 人の言に惑わされず 又独断におちいらなければ 幸せ極まりなし」。なるほど…。


関宿木崎
関宿の東(江戸)側、木崎の町並み。


長谷屋伊三郎
江戸時代に木賃宿だった長谷屋伊三郎。戦後まで旅館業を続けていたという。


木崎の町家にて
木崎の町家にて。


東の追分古写真
関宿の江戸方出入口、東海道より伊勢別街道が分岐する東の追分。写真は関まちなみ資料館展示の古写真。撮影年代不明。祖母と孫らの記念撮影といったところか。常夜燈に寄りかかる悪ガキ風の男児二人は、写真撮影されることに照れがあるのか、遠くから好奇心に満ちた視線をカメラに注ぐ。古写真は色々と想像をかきたてて面白い。伊勢別街道の入口に立つ大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮に伴い、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくる。


関宿東の追分
現在の東の追分。上の古写真と同アングルで撮影してみた。古写真には常夜灯と鳥居の間に道標らしき石柱が見えるが、現在は無い。常夜燈土台の石垣や玉垣(石の柵)に改修が見られるものの、常夜燈本体はほぼ原形を留めている。悪ガキ風男児二人は常夜燈に寄りかかり、安堵の表情を浮かべていることだろう。

今に見る大鳥居は平成7年(1995年)に移築されたもの。昨年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しい。この大鳥居も来年(平成27年)中には建て替え予定とのこと。


伊勢別街道
東の追分より伊勢別街道を望む。


関一里塚跡
常夜燈裏に「一里塚址」の石碑がある。関一里塚跡で両塚とも現存せず。江戸日本橋から106里目(約416km)、京三条大橋からは19番目(実測で約79km地点)となる一里塚。


旧東海道 関町小野
関宿を抜けて。本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターまで少しだけ歩く。


関の小万のもたれ松
関宿の東外れ、旧東海道沿いに立つ”関の小万のもたれ松”。小万について概要を少々。

江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺された。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出る。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万。成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783年)見事に仇敵小林軍太夫を討ち果たす。この一事によって”関の小万”の名は世間に知れ渡った。”小万のもたれ松”は、亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。


小野川
小野川を渡り。


旧東海道 小野町
鈴鹿川左岸の土手上を行く。


ホテルルートイン第2亀山インター
本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターに到着。明日は亀山宿を経て庄野宿まで歩く予定、大浴場でのんびり湯につかり、体を休めることにしよう。


撮影日:2014年3月8日(土)
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野村一里塚

【旧東海道歩き 第7日目】ホテルルートイン第2亀山インター→亀山宿→庄野宿→JR加佐登駅



【2014年3月9日(日)旧東海道 関宿→亀山宿】
宿泊先のホテルルートイン第2亀山インターで朝食をとり朝8時に出立、旧東海道の大岡寺畷(たいこうじなわて)から歩みを戻す。天気は雲が所々にかかるものの前日に引き続き晴れ。寒くも暑くも無い絶好のウォーキング日和だ。大岡寺畷とは関宿と亀山宿の間、鈴鹿川左岸の土手上を通る東海道を指し、その距離18町(約2km)にも及ぶ東海道随一の長さを誇る直線道。往時は見事な松並木だったらしく、太田南畝(蜀山人)は改元紀行に「松の並木両行に立てり 此間十八町にて大岡寺縄手といふ」と記している。大岡寺という名は、かつて付近にあった”六門山四王院大岡寺”(廃寺)に由来すると伝わるが、調べてみてもその大岡寺がどこにあったのかがはっきりしない。現在は松並木に代わって桜並木となり、桜の名所として知られる。

大岡寺畷の旧東海道は東端で関西本線に分断される形で終わり、その先の観音坂を上れば落針・野尻集落の家並みが続く。野尻集落を抜けて家がとぎれとぎれになると、遠く左手に椋の大木が見えてくる。これが野村集落の西端に現存する野村一里塚である。大正3年(1914年)南側の塚は撤去されたが、どういった経緯なのか北側の塚は撤去を免れた。三重県下にあった旧東海道の一里塚12基のうち、現存するのは野村一里塚だけ。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る一里塚らしい一里塚だけに、貴重な旧東海道の街道遺構である。


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大岡寺畷
かつては18町(約2km)にも及ぶ松並木の直線道だった大岡寺畷。現在は松に代わって桜が植えられている。桜の枝にはつぼみが見られたが、少々時期が早かった。美しい満開の桜並木を想像することにしよう。


大岡寺畷東端
大岡寺畷の東端で旧東海道は関西本線に分断。


旧東海道 布気町
関西本線を越えて間もなく、Y字路に。左方向が観音坂の旧東海道。この分岐点にひっそりと常夜燈がある。


観音坂の常夜燈
観音坂上り口にある常夜燈。安政6年(1859年)建立。元々は落針の日原にあった”やけ八幡”と呼ばれる八幡祠の常夜燈。明治41年(1908年)に”やけ八幡”は布気神社に合祀されており、その際に役目を終えた常夜燈がここへ移設されたのか。


観音坂
旧東海道観音坂。


観音坂
観音坂上には坂名の由来なのたろう、昼寝観音がある。


昼寝観音
落針の観音堂(昼寝観音)。昼寝観音とは滑稽な異名である。昼寝をしていたがため、三十三観音霊場に入る機会を逸したという伝説が。親近感たっぷりの観音様。


落針集落
落針集落を行く旧東海道。落針という地名は平家の落武者がこの地に住み着き、落逃村等と呼ばれたものが変化したと伝わる。明治8年(1875年)落針村と野尻村が合併し布気村が成立した。


落針の古民家ギャラリー
落針の古民家ギャラリー。


神辺簡易郵便局
神辺簡易郵便局。古民家郵便局の名がふさわしい感じ。


能古茶屋跡
布気皇舘太神社前を行く旧東海道。神社斜向かいに元禄3年(1690年)開店の能古(のんこ)茶屋があった。茶屋の主人は道心坊能古という禅僧で、松尾芭蕉の親友だったという。芭蕉は旅の途次で能古茶屋に逗留し、「枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮」の句を作ったと伝わる。


布気皇舘太神社
神辺七郷の総社、布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社。神辺七郷とは中世におけるこの地域一帯の総称で、野尻村(現 亀山市布気町)、落針村(現 亀山市布気町)、大岡寺村(現 亀山市大岡寺町)、山下村(現 亀山市山下町)、木下村(現 亀山市木下町)、小野村(現 亀山市小野町)、鷲山村(現 亀山市関町鷲山)の七ヶ村を指す。


旧東海道 布気町
野尻集落で旧東海道は鍵の手に左へ。


野尻集落
野尻集落を行く旧東海道。


大庄屋 打田権四郎昌克宅跡
大庄屋 打田権四郎昌克宅跡。江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めた。寛永19年(1642)に生まれた権四郎昌克は、打田家17代当主の時に亀山藩領86ヶ村を見聞し、地誌「九々五集」を著した。


野村一里塚と旧東海道
野村一里塚と旧東海道。野村一里塚は江戸日本橋から105里目(約412km)、京三条大橋からは20番目(実測で約83km地点)となる一里塚。片塚だけになってしまったが、風格あるすばらしい佇まい。


野村一里塚
野村一里塚。


野村一里塚
多くの旅人がこの椋の大木の下で日や雨を避け、腰を下ろし休んだことだろう。


木平製菓
野村一里塚の隣接して木平製菓。旧街道らしい情景。


旧東海道 野村
野村集落と一里塚。


焼肉長治郎
焼肉長治郎。旧東海道沿いにあっては焼肉屋も古民家風。


野村集落にて
野村集落にて。ごく普通の民家の縁側に雛飾りの展示。これまで見てきた華やかな雛飾りとは対照的に地味だが、こういった展示もちょとした目っけた感があって嬉しくなる。


慈恩寺
神亀5年(728年)行基がここ野村に創建した薬師寺(長福寺)に始まりがあると伝わる慈恩寺。本尊の木造阿弥陀如来立像は作風から平安時代初期の作と考えられている国指定重要文化財。


旧東海道 野村02
野村を行く旧東海道。


光明寺鐘楼門
光明寺鐘楼門。


森家住宅主屋(骨董カフェ アンティーク 森)
森家住宅主屋。明治後期の建築で、かつては”おもや”の屋号を名のった。野村集落に残る旧東海道の町並みを伝える貴重な建物。平成23年に国の有形文化財に指定。現在は骨董カフェとして利用され、旧東海道歩きの際にはひと休みがてらくず湯や栗ぜんざい、伊勢うどんでも食べたいところ。朝早くだったため開店前…残念。


旧東海道 野村
野村集落東側の町並み。この先で亀山城下京方出入口にあたる京口坂の上りに。


照光寺
京口坂の上り口にある照光寺。かつての東海道はこの門前を通り、竜川を渡ってつづら折れに京口坂を上っていた。その雪景色を歌川広重は浮世絵「東海道五十三次之内 亀山」に描いており、亀山城下の象徴とも言える場所だった。現在の状況は…、次の記事に譲ろう。


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亀山宿西町

【2014年3月9日(日)旧東海道 亀山宿】
亀山城の城下町であり宿場町だった亀山宿。城下西側出入口に京口門、東側出入口には江戸口門が設けられ、特に京口門は竜川左岸の崖上に石垣や櫓が築かれる壮麗なものだったことから、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた。伊勢屋蘇鉄とは東町の旅籠伊勢屋にあった名木を指す。天保14年(1843年)当時の人口1549人、家数567軒、本陣1、脇本陣1、旅籠21軒。大きく東町と西町で構成され、本陣・脇本陣は東町に、問屋場は東町と西町それぞれに置かれ、交替で伝馬役を務めた。名物は挿し櫛や追分そば等。

西町は城下西入口の京口門から城の南側を囲繞して大手門付近に至る6町40間(約727m)の町並み。京口門側から西新町・西町・池之側(いけのがわ)・万町に分けられ、西町に問屋場を務めた若林家があった。現在の西町は、鉤の手の屈曲を繰り返す旧道はいかにも城下町らしいが、往時を偲ばせる建物は少ない。しかしながら、文久3年(1863年)作成とみられる”宿内軒別書上帳”をもとにした屋号札が各家に掲示され、往時を想像しながらの散策も面白い。江戸時代末期から大正期にかけて枡屋の屋号で呉服商を営んだ旧舘家住宅が、明治6年(1873年)建築の主屋を残す。


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東海道五十三次 亀山
照光寺門前に設置の案内板より、歌川広重が描いた「東海道五十三次之内 亀山」。副題に付けられた「雪晴」の通り、薄暗さが残る早朝の晴れ渡った空の下、長持ち行列が雪景色の京口坂を登る様子を描く。


京口門古写真
京口門跡の解説板(亀山市教育委員会設置)より、京口門古写真。大正3年(1914年)に京口橋が架けられるまで、広重が浮世絵に描いた風景が残っていた。


京口坂橋と竜川
現在の京口坂を広重の浮世絵と同じような構図で撮影。京口坂橋の下に竜川が流れる。左右に曲折して上っていた京口坂は失われ、石垣や櫓も無ければ門すら無い残念な景観。京口坂橋の架設が景観を台無しにしてしまったことは明らか。亀山城の象徴的な場所、少しずつでも往時の景観を復元してほしいものだ。


亀山城京口門跡
亀山城京口門跡。亀山に過ぎたる京口御門も今は昔。


梅巌寺
京口坂上にある梅巌寺。亀山藩主石川家の菩提寺の一つ。


亀山宿旧西新町
亀山宿旧西新町の町並み。


綿屋・田丸屋・扇屋跡
旧西新町の綿屋・田丸屋・扇屋跡。昔の屋号がその跡地に掲げられ往時を偲ぶ。


亀山城西之丸外堀遺構
亀山城西之丸外堀遺構。東海道と接する外堀の一部分を保存。往時は水堀だった。遺構面を保護するために約1mかさ上げし、往時の水面の高さを表現している。


亀山宿旧西町
西之丸外堀に接してから旧東海道筋は旧西町の町並みに。


馬持備屋跡
旧西町の馬持備屋跡。馬持備屋とは説明が見当たらず不明なのだが、おそらくは上級藩士等の馬を世話する人が住んでいた家か物置だと思う。文久3年(1863年)作成とみられる”宿内軒別書上帳”により、西之丸外堀に面する旧東海道沿いに6軒の馬持備屋が並んでいたことがわかる。


亀山宿旧西町鉤の手
旧西町で鉤の手に曲がる旧東海道。


旧舘家住宅(桝屋)
旧舘家住宅(桝屋)。「おひなさま展示中」の貼り紙に誘われ家の中へ。


旧舘家住宅の吊るし飾り
まずは見事な吊るし飾り。


旧舘家住宅の雛飾り
旧舘家住宅の雛飾り。


旧舘家住宅の雛飾り
縁側には可愛らしい鬼の人形たちが雛飾りを見ながら団らん。趣向を凝らした展示。


旧舘家住宅の雛飾り
旧舘家住宅の2階にて。籠の中には雛人形。


旧舘家住宅の雛飾り
うさぎの雛人形もあるんだねぇ。


旧舘家住宅(桝屋)
旧舘家住宅を後に。


飯沼慾斎生家跡
旧西町の西村屋跡は飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の生家。飯沼慾斎は天明3年(1783年)西村守安の次男として生まれ、12歳の時に美濃大垣の飯沼家へ身を寄せて後、養子に入った。京都で漢方医学と本草学、江戸で蘭学を修めて大垣で医者として開業。50歳で引退した後は植物の研究に没頭し、リンネ分類法による植物分類を行って「草木図説前篇」を著した。


旧西町の四差路
旧西町の四差路。写真四差路の左角に「左郡役所 右東海道」、右角には「右東海道 左停車場 道」と刻む道標が残る。

西町の停車場道標
旧西町の四差路に置かれる東海道・停車場道標。明治23年(1890年)西町南側に関西鉄道の亀山停車場(現 JR亀山駅)が設置されて以来、西町は亀山の表玄関として栄えた。


亀山城青木門跡
青木門跡から旧亀山城内の西之丸へ。青木門は亀山城南側の搦手口に置かれた門。青木門は現存しておらず、枡形の道筋だけが往時を偲ぶ。


加藤家長屋門
江戸後期の亀山藩主石川家家老、加藤家屋敷に残る長屋門。


亀山藩主石川家家老 加藤家屋敷主屋
加藤家屋敷主屋は復元修理の工事中。


亀山藩主石川家家老 加藤家屋敷主屋
工事期間は平成26年1月8日から同年3月17日まで。あと1週間程で完成する予定のようだが…。


加藤家長屋門男部屋
加藤家長屋門男部屋。長屋門入口横に設けられた門番の詰所で、家老のもとを訪れた客を取り次いだ。


加藤家長屋門若党部屋
加藤家長屋門若党部屋。馬の世話人や門番が生活した何もない一室。台所やトイレは別の建物にあった。


加藤家長屋門厩
加藤家長屋門厩。家老の持ち馬を飼うための場所。馬2頭分の馬房が設けられている。


亀山城西之丸跡
亀山城西之丸跡。右手は亀山藩主石川家家老加藤家屋敷、道奥の突き当りに見えるのが亀山中学校で、その敷地はかつての藩校明倫舎跡。


西之丸庭園
西之丸跡に設けられる西之丸庭園。


岡田屋本店
旧西町の旧東海道に戻って岡田屋本店に。屋号札はやはり”おかだや”。江戸時代からの屋号を引き継ぎ、現在はオーガニック食料品店。”東海道亀山宿”と書かれた立て札の両脇には弥次さんと喜多さんかな?


西町問屋場跡
旧西町の東(江戸方)端、西町問屋場の若林家跡(写真右手前)。若林家は米問屋を兼ねて問屋を務め、この辺りに屋敷や借家、問屋場が並んでいた。元治2年(1865年)借家や問屋場等は隣家の日野屋に譲渡されたという。


亀山宿旧西町
旧西町と旧池之側の境にあたる場所は、三重県道302号の開削によって地形が変わり行き止まりに。昔は写真道中央に立てられる解説板から左斜め下方向に旧東海道は通っていた。


亀山宿旧池之側
亀山宿旧池之側。下を通る県道向こうに池之側橋、その奥に亀山城多聞櫓が見える。外堀をなす池の南側に面して東海道が通り、西町と万町の間にあたる地を池之側と呼んだ。現在は外堀の池そのものを指して池之側と呼んでいる。


池之側(外堀)
亀山城池之側(外堀)。


亀山宿旧万町
旧池之側から旧万町へ。写真右の橋爪種苗店は、旧万町西端にあたる田中屋跡。


出雲屋
御菓子司出雲屋はかつての万屋と大坂屋跡。出雲屋は昭和5年(1930年)創業という老舗の和菓子屋、三重県産の餅米を使用した生切り餅やタガネ餅をはじめ、みたらし団子、五平餅、大判焼き等を製造販売している。


旧万町の万屋跡
万屋(よろずや)跡。万町には同屋号の家が3軒あり、ここ万屋の西隣には西町の町役人が会合等を行う西町会所があった。


亀山宿旧万町
遍照寺付近、旧万町を行く旧東海道。


遍照寺
旧万町東端の一角にある遍照寺。本堂は亀山城二之丸御殿の書院と式台を明治5年(1872年)に移築したもの。本尊の木造阿弥陀如来立像は、その作風から鎌倉中期のもので、快慶の弟子である行快の制作とみられている。


でころぼ坂
亀山城下の南部低地から遍照寺脇を上ってくる”でころぼ坂”。面白い坂名だがその由来は不明。”でころぼ”は”でっころぼう”という人形を指す方言が転訛した言葉ともいう。役に立たない人のことを人形に例えて”でくのぼう”と言うが、実際にこの坂を上り下りしてみるに、道が急勾配に過ぎて役に立たない坂という意が込められているような気がする。


亀山宿旧横町
でころぼ坂を境にして亀山宿東町西端の一角、旧横町に。


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テーマ : 街道の旅
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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