旅籠玉屋歴史資料館・関まちなみ資料館
前回の旧東海道歩きから年も明けて約5ヶ月後の2014年3月8日(土)、冬蘢りしていた虫が這い出てくる啓蟄の季節を迎え、久々に立った関宿は一足早い春の風が吹く。少しでも先に進みたい欲求を抑え、次の亀山宿への旧東海道歩きは翌日とし、関宿と亀山宿の間にある”ホテルルートイン亀山第2インター”に宿の予約を入れた。この日はちょうど「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」の開催期間で、関宿内の各家々で雛飾りを展示しており、旅籠玉屋歴史資料館・まちなみ資料館と併せて見学に時間を充てることとしたい。
旅籠玉屋は会津屋・玉屋と並ぶ関宿の大旅籠の一つ。江戸時代末期建築の主屋をはじめ、離れ・土蔵・納屋の建物が残り、現在は資料館として内部公開する。宿泊者に供した食器や食膳類、寝具等を展示しており、江戸時代の旅籠の様子を目で見て知り、感じることができる貴重な旅籠遺構である。そして他方、まちなみ資料館は文政8年(1825年)の火事後の再建と推定される江戸時代末期の町家。関宿における町家の典型を今に伝える。日本の街道史を勉強したいのであれば、必ず訪れておきたい場所だ。
より大きな地図で 旅籠玉屋資料館・関まちなみ資料館 を表示

約5カ月ぶりでJR関駅に降り立つ。年を重ねるにつれ、時が流れるのは早い。

境内が青空マーケットに開放されていた地蔵院。三重オーガニックマーケットという催しで、毎月第二土曜日に開かれているとのこと。昔から宿場町といえば定期市だものね。

地蔵院前の会津屋で昼飯に。
会津屋
http://www16.ocn.ne.jp/~aizuya/index.html

さすが、かつての大旅籠。外見に違わず店内もらしい雰囲気が漂う。

山菜おこわと街道そばをメインに、煮物や佃煮類等の他にデザートまで付く”お薦め定食”を頂く。味も腹も満足な昼飯となりました。

再び”志ら玉屋”に。

志ら玉屋の店内奥には慎ましく雛人形が。

ふと目に留まったナガオ薬局。この店構えにレトロな看板が絶妙のバランス。素晴らしい。

「おひなさま展示中」の看板に誘われ旧落合家へ。

まずは旧落合家の吊るし飾り。

そして、旧落合家の見事な雛飾り。手前には雛人形たちが関の山車を曳く。

こんな所にも!旧落合家の階段雛飾り。

旧落合家を出て関宿高札場へ。高札には何が書いてあるんでしょうか。

関宿郵便局。ひっそりと顔出し看板が置かれているが、誰も寄り付いてません。

深川屋でまたしても関の戸を購入。一度食べたら当然の行為。

本日最大の目的、深川屋の向かいにある旅籠玉屋歴史資料館へ。旅籠玉屋の店の間から深川屋を眺め。

帳場で番頭さんに迎えらる。ここ玉屋に泊まった旅人は、番頭さんからどんな言葉をかけられたのだろうか。柔和な表情を見ていると、色々な想像がかきたてられる。

旅籠玉屋土間。炊事場には竈の上に大釜や大鍋が置かれ、多くの客の食事を用意する料理人や賄いが忙しく動き回っていたのだろう。そんな様子が目に浮かぶ。

表側の店の間や帳場、座敷と離れを隔てる中庭。

建物1階の奥、貴賓室を兼ねた離れ。どんな御方がここで休憩し、はたまた宿泊されたのだろうか。

離れに隣接する裏庭。縁側に腰を掛けてのんびり眺めたい。

建物から外に出て井戸端へ。仕事の合間にどんな会議がここで開かれたのでしょう。

旅籠玉屋の最奥に土蔵が構える。

旅籠玉屋二階客室。絵に描いたような煎餅布団…。寝心地はいかがなものか。

旅籠玉屋歴史資料館に展示されていた関の名産品の一つ、竹火縄。江戸時代、関宿には松葉屋等数十軒の火縄屋があり盛んに生産された。煙草に火を付けるために重宝され、往来の旅人相手によく売れたようだ。明治期にマッチが登場して竹火縄は姿を消し、現在は全く生産されていない。

旅籠玉屋歴史資料館を後に。

旧両替商の橋爪家でも雛飾りを展示していたので見学しよう。

橋爪家の雛飾り。江戸・大正・昭和と現代の平成、4時代の雛飾りを展示。中でも目を引くのは江戸時代のもの。御殿飾りという形式で、江戸時代末期から昭和初期にかけ関西で主流の飾りつけだった。

旧伊藤本陣。

関宿の町並みを一望できる眺関亭。江戸時代末期に橋爪屋十兵衛家があった場所で、安政6年(1859年)建築の主屋は平成3年(1991年)に取り壊された。

橋爪屋十兵衛家跡は百六里庭と名付けられた小公園になり、旧東海道に面して眺関亭が建てられている。

眺関亭より関宿の町並み。

川北本陣跡。

小社殿を載せるリヤカーと、羽織袴を着た人たち。何かの行事中のよう。
追記
写真は伊勢太神楽の巡行に遭遇したもの。伊勢太神楽とは、囃子を奏でながら獅子舞を披露して各戸を回り、伊勢神宮のお札を配る600年前から続く伝統芸能。この巡行に遭遇できたのは極めて幸運だったようで、 もっと詳しく見ておくべきたったと後悔。”びわこおおなまけ”さん、貴重な情報を頂き有難うございました。
[2014年5月25日追記]

中町三番町山車倉の前にリヤカーが取り残され…。羽織袴の人たちはどこへ行ってしまったのでしょう?

旧鶴屋脇本陣波多野家。

そして本日第二の目的地、関まちなみ資料館へ。

関まちなみ資料館は、文久年間(1861年~1864年)に書かれたという「宿内軒別書上帳」により、別所屋勝次郎の商家があった場所とわかり、今に残る建物は文久年間まで遡ることができるという。昭和60年(1985年)に持ち主の別所マサ氏より買い受けて昔日の姿に復元、資料館として一般公開する。

主屋の表から三列に部屋をとるのは関宿の町家に見られる典型。

関まちなみ資料館1階の様子。

関まちなみ資料館に展示する明治の自転車。走った方が速そうだが、当時は画期的な乗り物だったのだろう。まともなサドルもなく、長時間の運転も無理な感じ。これが自転車の原型なのだ。

二階には町並みの変遷を一目に見れる繋ぎ合わせ写真を展示。

関まちなみ資料館から近くの瑞光寺へ移動。境内にある権現柿は、徳川家康が立ち寄った折に柿を賞味したと伝わる柿の木。

延命寺の山門を見学に。この門は明治5年(1872年)に川北本陣から移築された。川北本陣唯一の遺構。

関まちなみ資料館に展示されていた昭和初期の旧川北本陣。

関宿木崎の北側に鎮座する関神社に参拝。

関神社境内にて。春の訪れを感じます。

せっかくなので今年初めてのおみくじを引く。結果は良くも悪くも吉。「神仏を信じ 人の言に惑わされず 又独断におちいらなければ 幸せ極まりなし」。なるほど…。

関宿の東(江戸)側、木崎の町並み。

江戸時代に木賃宿だった長谷屋伊三郎。戦後まで旅館業を続けていたという。

木崎の町家にて。

関宿の江戸方出入口、東海道より伊勢別街道が分岐する東の追分。写真は関まちなみ資料館展示の古写真。撮影年代不明。祖母と孫らの記念撮影といったところか。常夜燈に寄りかかる悪ガキ風の男児二人は、写真撮影されることに照れがあるのか、遠くから好奇心に満ちた視線をカメラに注ぐ。古写真は色々と想像をかきたてて面白い。伊勢別街道の入口に立つ大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮に伴い、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくる。

現在の東の追分。上の古写真と同アングルで撮影してみた。古写真には常夜灯と鳥居の間に道標らしき石柱が見えるが、現在は無い。常夜燈土台の石垣や玉垣(石の柵)に改修が見られるものの、常夜燈本体はほぼ原形を留めている。悪ガキ風男児二人は常夜燈に寄りかかり、安堵の表情を浮かべていることだろう。
今に見る大鳥居は平成7年(1995年)に移築されたもの。昨年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しい。この大鳥居も来年(平成27年)中には建て替え予定とのこと。

東の追分より伊勢別街道を望む。

常夜燈裏に「一里塚址」の石碑がある。関一里塚跡で両塚とも現存せず。江戸日本橋から106里目(約416km)、京三条大橋からは19番目(実測で約79km地点)となる一里塚。

関宿を抜けて。本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターまで少しだけ歩く。

関宿の東外れ、旧東海道沿いに立つ”関の小万のもたれ松”。小万について概要を少々。
江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺された。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出る。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万。成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783年)見事に仇敵小林軍太夫を討ち果たす。この一事によって”関の小万”の名は世間に知れ渡った。”小万のもたれ松”は、亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。

小野川を渡り。

鈴鹿川左岸の土手上を行く。

本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターに到着。明日は亀山宿を経て庄野宿まで歩く予定、大浴場でのんびり湯につかり、体を休めることにしよう。
撮影日:2014年3月8日(土)
旅籠玉屋は会津屋・玉屋と並ぶ関宿の大旅籠の一つ。江戸時代末期建築の主屋をはじめ、離れ・土蔵・納屋の建物が残り、現在は資料館として内部公開する。宿泊者に供した食器や食膳類、寝具等を展示しており、江戸時代の旅籠の様子を目で見て知り、感じることができる貴重な旅籠遺構である。そして他方、まちなみ資料館は文政8年(1825年)の火事後の再建と推定される江戸時代末期の町家。関宿における町家の典型を今に伝える。日本の街道史を勉強したいのであれば、必ず訪れておきたい場所だ。
より大きな地図で 旅籠玉屋資料館・関まちなみ資料館 を表示

約5カ月ぶりでJR関駅に降り立つ。年を重ねるにつれ、時が流れるのは早い。

境内が青空マーケットに開放されていた地蔵院。三重オーガニックマーケットという催しで、毎月第二土曜日に開かれているとのこと。昔から宿場町といえば定期市だものね。

地蔵院前の会津屋で昼飯に。
会津屋
http://www16.ocn.ne.jp/~aizuya/index.html

さすが、かつての大旅籠。外見に違わず店内もらしい雰囲気が漂う。

山菜おこわと街道そばをメインに、煮物や佃煮類等の他にデザートまで付く”お薦め定食”を頂く。味も腹も満足な昼飯となりました。

再び”志ら玉屋”に。

志ら玉屋の店内奥には慎ましく雛人形が。

ふと目に留まったナガオ薬局。この店構えにレトロな看板が絶妙のバランス。素晴らしい。

「おひなさま展示中」の看板に誘われ旧落合家へ。

まずは旧落合家の吊るし飾り。

そして、旧落合家の見事な雛飾り。手前には雛人形たちが関の山車を曳く。

こんな所にも!旧落合家の階段雛飾り。

旧落合家を出て関宿高札場へ。高札には何が書いてあるんでしょうか。

関宿郵便局。ひっそりと顔出し看板が置かれているが、誰も寄り付いてません。

深川屋でまたしても関の戸を購入。一度食べたら当然の行為。

本日最大の目的、深川屋の向かいにある旅籠玉屋歴史資料館へ。旅籠玉屋の店の間から深川屋を眺め。

帳場で番頭さんに迎えらる。ここ玉屋に泊まった旅人は、番頭さんからどんな言葉をかけられたのだろうか。柔和な表情を見ていると、色々な想像がかきたてられる。

旅籠玉屋土間。炊事場には竈の上に大釜や大鍋が置かれ、多くの客の食事を用意する料理人や賄いが忙しく動き回っていたのだろう。そんな様子が目に浮かぶ。

表側の店の間や帳場、座敷と離れを隔てる中庭。

建物1階の奥、貴賓室を兼ねた離れ。どんな御方がここで休憩し、はたまた宿泊されたのだろうか。

離れに隣接する裏庭。縁側に腰を掛けてのんびり眺めたい。

建物から外に出て井戸端へ。仕事の合間にどんな会議がここで開かれたのでしょう。

旅籠玉屋の最奥に土蔵が構える。

旅籠玉屋二階客室。絵に描いたような煎餅布団…。寝心地はいかがなものか。

旅籠玉屋歴史資料館に展示されていた関の名産品の一つ、竹火縄。江戸時代、関宿には松葉屋等数十軒の火縄屋があり盛んに生産された。煙草に火を付けるために重宝され、往来の旅人相手によく売れたようだ。明治期にマッチが登場して竹火縄は姿を消し、現在は全く生産されていない。

旅籠玉屋歴史資料館を後に。

旧両替商の橋爪家でも雛飾りを展示していたので見学しよう。

橋爪家の雛飾り。江戸・大正・昭和と現代の平成、4時代の雛飾りを展示。中でも目を引くのは江戸時代のもの。御殿飾りという形式で、江戸時代末期から昭和初期にかけ関西で主流の飾りつけだった。

旧伊藤本陣。

関宿の町並みを一望できる眺関亭。江戸時代末期に橋爪屋十兵衛家があった場所で、安政6年(1859年)建築の主屋は平成3年(1991年)に取り壊された。

橋爪屋十兵衛家跡は百六里庭と名付けられた小公園になり、旧東海道に面して眺関亭が建てられている。

眺関亭より関宿の町並み。

川北本陣跡。

小社殿を載せるリヤカーと、羽織袴を着た人たち。何かの行事中のよう。
追記
写真は伊勢太神楽の巡行に遭遇したもの。伊勢太神楽とは、囃子を奏でながら獅子舞を披露して各戸を回り、伊勢神宮のお札を配る600年前から続く伝統芸能。この巡行に遭遇できたのは極めて幸運だったようで、 もっと詳しく見ておくべきたったと後悔。”びわこおおなまけ”さん、貴重な情報を頂き有難うございました。
[2014年5月25日追記]

中町三番町山車倉の前にリヤカーが取り残され…。羽織袴の人たちはどこへ行ってしまったのでしょう?

旧鶴屋脇本陣波多野家。

そして本日第二の目的地、関まちなみ資料館へ。

関まちなみ資料館は、文久年間(1861年~1864年)に書かれたという「宿内軒別書上帳」により、別所屋勝次郎の商家があった場所とわかり、今に残る建物は文久年間まで遡ることができるという。昭和60年(1985年)に持ち主の別所マサ氏より買い受けて昔日の姿に復元、資料館として一般公開する。

主屋の表から三列に部屋をとるのは関宿の町家に見られる典型。

関まちなみ資料館1階の様子。

関まちなみ資料館に展示する明治の自転車。走った方が速そうだが、当時は画期的な乗り物だったのだろう。まともなサドルもなく、長時間の運転も無理な感じ。これが自転車の原型なのだ。

二階には町並みの変遷を一目に見れる繋ぎ合わせ写真を展示。

関まちなみ資料館から近くの瑞光寺へ移動。境内にある権現柿は、徳川家康が立ち寄った折に柿を賞味したと伝わる柿の木。

延命寺の山門を見学に。この門は明治5年(1872年)に川北本陣から移築された。川北本陣唯一の遺構。

関まちなみ資料館に展示されていた昭和初期の旧川北本陣。

関宿木崎の北側に鎮座する関神社に参拝。

関神社境内にて。春の訪れを感じます。

せっかくなので今年初めてのおみくじを引く。結果は良くも悪くも吉。「神仏を信じ 人の言に惑わされず 又独断におちいらなければ 幸せ極まりなし」。なるほど…。

関宿の東(江戸)側、木崎の町並み。

江戸時代に木賃宿だった長谷屋伊三郎。戦後まで旅館業を続けていたという。

木崎の町家にて。

関宿の江戸方出入口、東海道より伊勢別街道が分岐する東の追分。写真は関まちなみ資料館展示の古写真。撮影年代不明。祖母と孫らの記念撮影といったところか。常夜燈に寄りかかる悪ガキ風の男児二人は、写真撮影されることに照れがあるのか、遠くから好奇心に満ちた視線をカメラに注ぐ。古写真は色々と想像をかきたてて面白い。伊勢別街道の入口に立つ大鳥居は、伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮に伴い、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくる。

現在の東の追分。上の古写真と同アングルで撮影してみた。古写真には常夜灯と鳥居の間に道標らしき石柱が見えるが、現在は無い。常夜燈土台の石垣や玉垣(石の柵)に改修が見られるものの、常夜燈本体はほぼ原形を留めている。悪ガキ風男児二人は常夜燈に寄りかかり、安堵の表情を浮かべていることだろう。
今に見る大鳥居は平成7年(1995年)に移築されたもの。昨年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しい。この大鳥居も来年(平成27年)中には建て替え予定とのこと。

東の追分より伊勢別街道を望む。

常夜燈裏に「一里塚址」の石碑がある。関一里塚跡で両塚とも現存せず。江戸日本橋から106里目(約416km)、京三条大橋からは19番目(実測で約79km地点)となる一里塚。

関宿を抜けて。本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターまで少しだけ歩く。

関宿の東外れ、旧東海道沿いに立つ”関の小万のもたれ松”。小万について概要を少々。
江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺された。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出る。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万。成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783年)見事に仇敵小林軍太夫を討ち果たす。この一事によって”関の小万”の名は世間に知れ渡った。”小万のもたれ松”は、亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。

小野川を渡り。

鈴鹿川左岸の土手上を行く。

本日の宿泊先、ホテルルートイン第2亀山インターに到着。明日は亀山宿を経て庄野宿まで歩く予定、大浴場でのんびり湯につかり、体を休めることにしよう。
撮影日:2014年3月8日(土)

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