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亀山城跡

【2014年3月9日(日)旧東海道 亀山宿】
初めて亀山に城が築かれたのは鎌倉時代の文永2年(1265年)のこと。関実忠は若山(現 亀山市若山町)の地に亀山城を築き、以来関氏16代の居城となったが、元亀4年(1573年)織田信長の伊勢侵攻により関氏は追放。本能寺の変から天下分け目の天王山や賤ヶ岳の戦いを経て羽柴秀吉が中央政権を掌握した天正18年(1590年)、秀吉に従った岡本宗憲が入城し、新たに本丸・二之丸・三之丸を縄張りし天守も建てられたとされる。

江戸時代になり三宅氏が城主の時、丹波国にあった同名の亀山城天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が、間違えてこちらの天守を取り壊してしまったとの伝説も。寛永13年(1636年)本多俊次が亀山城に入って城郭の大改修に着手。この時に本丸・二之丸・東三之丸・西之丸・西出丸の縄張りが完成、本丸には将軍の休伯施設とする本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が置かれ、旧天守台には今に残る多聞櫓が築造された。亀山藩主石川家11代の時に明治維新を迎え、明治6年(1873年)廃城令によりほとんどの建造物が解体された。

なお、亀山城には白壁の櫓や土塀等が連なる景観を白蝶の姿に例え、粉蝶城の別名があるとの記載が多くの刊行物等に見られるが、その別名の根拠となっている唯一の資料が野尻村の大庄屋打田権四郎昌克が記した地誌「九々五集」にある。実のところその地誌には”粉蝶城”ではなく、姫垣を意味する”粉堞城”と記されているとのこと。後世の誤記が広く流布してしまったという。


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亀山宿横町
亀山城大手門跡付近、横町の町並み。大手門前(現 江ヶ室交差点)で旧東海道は鉤の手に曲げられ、横町と東町の境をなす。横町北(江戸方)端には高札場が置かれていた。


亀山城大手門古写真
亀山城大手門古写真。大手門櫓と脇櫓で構成される枡形門で、東町より東三之丸へ通じる亀山城正門にあたる。


亀山城大手門跡
亀山城大手門跡。明治6年(1873年)以降に櫓や石垣の全てが破却、現在はその跡地に解説板が設置されるのみである。


亀山城東三之丸跡
亀山城東三之丸跡(現 亀山市東丸町)。


亀山城太鼓門・太鼓櫓跡
東三之丸から二ノ丸へ通じていた亀山城太鼓門と太鼓櫓跡(現 亀山西小学校の敷地東面)。枡形の一角に設置された太鼓櫓は小規模な三階櫓で、最上階に時を告げる太鼓が置かれていた。


亀山城二之丸跡
亀山城二之丸跡。写真右手は城主居館と藩庁を兼ねた二ノ丸御殿跡(現 亀山西小学校)、左手が向屋敷跡(現 亀山市役所)。
二之丸御殿古写真
二之丸御殿古写真。亀山市教育委員会設置の解説板「亀山城二之丸跡」より。二之丸御殿の大書院と式台は西町の遍照寺本堂として移築現存する。


石坂と石坂門跡
石坂と石坂門跡。西之丸から二之丸へ通じる道が石坂で、その坂途中に石坂門が設けられていた。


石井兄弟亀山敵討遺跡碑
石坂門跡付近に立つ石井兄弟亀山敵討遺跡碑。元禄14年(1701年)石井源蔵、半蔵の兄弟が、父の敵である赤堀水之助を、ここ石坂で討ち果たした。この敵討は”元禄曽我兄弟”の題で、歌舞伎や講談、絵本等に取り上げられ有名になったとか。赤堀水之助は亀山藩の馬廻り役で、石井兄弟に討ち果たされて後、京口坂下の照光寺に葬られた。


亀山城多門櫓
本丸東南隅に残る亀山城多門櫓。平成の大修理により黒板壁を白漆喰壁に改め、江戸時代末期の姿に復原された。元の場所に唯一現存する亀山城の城郭建築物で、三重県指定史跡。


亀山城多門櫓
多門櫓の石垣はかつての天守台とも伝わるが、天守がここに存在したという明確な根拠は確認できていないという。石垣東面と南面は古い石積技法である野面積であることから築城当時の築造と考えられており、櫓台にはいかにも立派過ぎる大規模な石垣であることを鑑みれば、天守台だったと考えるのが妥当だろう。


多門櫓より石坂・池の側を望む
多門櫓より石坂・池之側を望む。


明治天皇行在所
多聞櫓より本丸跡を望む。右下の建物は明治13年(1880年)三重県下巡行の折、行在所とされた東町藤屋(現 市民協働センター・みらい)の一部を移築してきたもの。


明治天皇行在所
明治天皇行在所(東町旧藤屋)。玉座とされた奥八畳間。


与助井戸
多聞櫓北側下にある与助井戸。天正18年(1590年)の築城時、ここにあった与助鍛冶の民家を城外に移したとの伝承から与助井戸と呼ばれる。本丸で使われてきた井戸で、城外への抜け穴があるとの伝説も。その真偽はいかに。


亀山神社
亀山城本丸に鎮座する亀山神社。


亀山城本丸跡
本丸跡の北側は”ますみ児童園”に。江戸時代初期から中期にかけて将軍上洛用の御殿が設けられていたが、正徳2年(1712年)に取り壊されて後、再建されることなく空地となっていた。


亀山公園・ますみ児童園
セスナ機や蒸気機関車が展示されていた。


本丸外堀
本丸北側に残る外堀。


亀山城二之丸跡
本丸跡の北辺を通って二之丸跡へ移動。写真は二之丸の北辺にあたり、右手に二之丸御殿があった。


亀山城二之丸跡
二之丸の北辺部は二之丸御殿の最奥にあたり、庭が築かれていた。河原が敷き詰められている部分は庭に配された築山の位置を示している。


二之丸埋門跡
二之丸と帯曲輪の間、切通し通路に設けられていた埋門(うずみもん)跡。解説板には半分地下に潜るようにつくられているので埋門と呼ぶと書かれているが、非常時に門自体を埋めて敵の侵入を防ぐという意味合いも含んでいる。亀山城にあった6ヶ所の帯曲輪の出入口すべてに埋門が設置されていた。


二之丸帯曲輪跡
二之丸帯曲輪跡。復元土塀が巡らされ往時の姿を再現する。


二之丸帯曲輪跡
帯曲輪は城を守備するために設置された場所だったが、平和な世が長く続いた江戸時代中に本来の目的が失われ、庭や花畑等に利用されていたらしい。発掘調査でその根拠となる石で組んだ溝や水溜等が発見されたとのこと、なかなか興味深い話だ。


亀山城西出丸
亀山城跡の最後は西出丸。本多俊次が亀山藩主の時に修築された場所。米蔵や煙硝蔵が置かれていたが、現在は駐車場と化している。西北辺と南側に帯曲輪が配されていた。


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亀山宿東町

【2014年3月9日(日)旧東海道 亀山宿】
亀山宿東町は京側から横町・東町・東新町・鍋町・茶屋町と続く亀山城下町人地の総称。横町と東町の境、亀山城大手門前で南から鉤の手に曲がって東へ延び、江戸口門を経て茶屋町東(江戸方)端の露心庵に至る12町46間(約1.4km)の町並み。東町に本陣と問屋場を兼務した樋口家と脇本陣の椿屋があった。東町と東新町の境に置かれていた江戸口門は延宝元年(1673)の築造、東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視した。


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亀山宿旧東町
大手門前の辻( 現 江ヶ室交差点)から東へ延びる旧東海道。沿道の町並みは亀山宿の中心だった旧東町で、現在は東町商店街に。大手門前の辻はあの関の小万が敵討ちを果たした場所と伝わっており、この辺りで小万は町人や旅人に紛れて敵討ちの機をうかがっていたのだろうか。


樋口本陣跡
樋口本陣跡(写真左手前)。東町の問屋場を兼ねていた。本陣跡を示すものが何一つ無く、もちろん遺構も全く残っていない。


脇本陣椿屋跡
写真左手前の”しぼりや”辺りが脇本陣の椿屋跡。左奥の樋口本陣跡と椿屋跡の間、岡歯科医院辺りが旅籠伊勢屋跡。亀山に過ぎたるものの…と、謡われた伊勢屋蘇鉄はここに植栽されていた。現在その蘇鉄は亀山市文化会館の敷地内に移されている。東町商店街の屋号札は何故か撤去されてしまったようで、せめて本陣・脇本陣跡と伊勢屋跡には解説板を設置してほしい。


法因寺の左巻きカヤ
法因寺の左巻きカヤ。推定樹齢300年、市指定の天然記念物。「実に見られる竪筋が左巻きとなる珍しいカヤの木」と亀山宿のパンフレットに書かれていた。


福泉寺山門
法因寺の隣にある福泉寺は平安時代に創建という古刹。山門は寛政7年(1795年)の建立で、市指定文化財(建造物)。


東町交差点
東町交差点を行く旧東海道。


亀山城江戸口門跡
城下東側出入口にあたる江戸口門跡。往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視した。現在は直角に曲がる道筋にその名残を留めるのみ。


亀山宿旧東新町
江戸口門跡から先はかつての東新町。


なべや・おけや跡
旧東新町の鍋屋と桶屋跡。


亀山宿鍋町
旧東海道は右に大きくカーブ。後藤米穀店の場所が旧鍋町西端の鳥屋跡で、旧東新町と旧鍋町の境にあたる。


亀山宿旧鍋町
旧鍋町を行く旧東海道。”寝具の小菅”は今田屋と玉屋跡。


衣城しもむら
沿道に威風堂々と天守閣が現る。その名も”衣城しもむら”、呉服屋さんのようだ。


亀山宿旧茶屋町
亀山宿の最東部、旧茶屋町へ。写真右手前は鳥善精肉店(柏屋・竹屋跡)。


米川時計店
米川時計店。廃業している様子だが、今も掲げる看板が長い歴史を物語ろう。


福助うどん
”福助うどん”はかつての米屋跡。営業していれば少々遅めの昼食としたかったのだが…。


巡見道分岐
ここで東海道から巡見道が分岐していた。写真左右方向の道が旧東海道、奥に延びるのが旧巡見道で、菰野を経て濃州道と合流し、関ヶ原で中山道に繋がる約60kmの道程。江戸時代に幕府の巡見使が通ったことから巡見道の名で呼ばれた。


亀山宿旧茶屋町
旧茶屋町煙草屋跡の民家にて。


亀山宿旧茶屋町
橘屋跡の民家。昨日の関宿から旧東海道沿道に見てきた「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」で雛人形を飾る最後の家がここ。色々な雛飾りを見て楽しませてもらい、広範囲にわたる地域住民が一体になって開催されるすばらしい企画だと感じた。来年以降も続けてほしいと願うと共に、雛祭りの季節には多くの人に訪れてほしい。


打田釣具店(左官屋跡)
打田釣具店は左官屋跡、旧茶屋町の南側最東端にあたる。


露心庵跡
打田釣具店の斜向かい、旧茶屋町の北側最東端にあたる露心庵跡(写真左中)。本能寺の変から2年後の天正12年(1584年)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた時代、信雄方の神戸正武が秀吉方の関万鉄が守る亀山城を急襲、関万鉄は蒲生氏郷や堀秀政の支援を受けて神戸の軍勢を退けた。この合戦での戦死者を供養するために関氏一門の露心が仏庵を開いたのがここ。元々は友松庵の名だったが、人々は建立者の名から露心庵と呼んだという。明治期に廃寺となる。


能褒野神社二の鳥居
露心庵跡の隣、能褒野神社の参道入口に立つ二の鳥居。日本武尊の最期の地と伝わる能褒野、ここに宮内庁が治定する日本武尊の陵墓、能褒野王塚古墳があり、隣接して能褒野神社が鎮座する。


従是西亀山宿の立て札
能褒野神社二の鳥居の傍らには従是西亀山宿の立て札。


カメヤマ
亀山宿を後にして間もなく、現代における亀山の特産品、カメヤマローソクを製造するカメヤマの工場が右手に。


亀山市栄町にて
栄町交差点角、美容室の入口前でくつろぐ三毛猫。和みますなあ。


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従是西亀山領

【2014年3月9日(日)旧東海道 亀山宿→庄野宿】
亀山宿を後にして亀山市和田町へ。江戸時代に和田村と称したこの地は村域中央を東海道が通り、西側に和田一里塚が設けられていた。和田一里塚から東へ向かって間もなく、旧東海道は和田の坂道の下りに。歌川広重は「東海道五十三次之内 亀山」の一つに描いた浮世絵は、駕籠かきが往来する和田の坂道だったといわれる。その和田町から亀山市川合町・井田川町を抜ければ、F1日本グランプリの開催で有名な鈴鹿サーキットがある鈴鹿市に市域を変える。旧東海道は亀山市と鈴鹿市境に位置する小田町・和泉町内を通って安楽川を渡り、西富田町を経て中富田町へと進む。ここまでが江戸期の亀山藩領。中富田町の川俣神社境内には「史跡 中富田一里塚跡」の碑と共に、「従是西亀山領」と刻む領界石が残されている。


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和田一里塚跡
亀山市栄町と和田町の境にある和田一里塚跡。


和田一里塚跡
和田一里塚は昭和59年(1984年)まで塚の一部が残っていたが、道路拡幅により消滅。現在の一里塚は近接地に模式復元したもの。江戸日本橋から104里目(約408km)、京三条大橋からは21番目(実測で約87km地点)となる一里塚。


和田の坂道
なだらかに下る和田の坂道。


東海道五十三次之内亀山
広重が浮世絵に描いたこの浮世絵(和田町公民館前設置の案内板より)は和田の坂道と云われる。松並木こそ失われているが、それっぽい感じはある。


和田の坂道
北側崖上に石上寺を見ながら和田の坂道を降る。


石上寺
延暦15年(796年)、紀真龍(きのまたつ)が勧請した新熊野三社の神宮寺として開創したと伝わる石上(せきじょう)寺。鎌倉時代に将軍家の祈祷所となり広大な寺領と伽藍からなる大寺院だったが、織田信長の伊勢侵攻により焼失して衰微したという。鎌倉から室町期にかけての古文書20通が残り、三重県有形文化財に指定される。


旧東海道 和田町
和田集落内、福善寺前を行く旧東海道。


旧東海道・井尻道分岐
旧東海道から延びる小路は井尻道旧道。井尻道は南側の井尻に通じ、主に地元住民が利用した生活道路なのだろう。


井尻道道標
井尻道道標。明治中期に亀山で製糸業をはじめた実業家田中音吉の寄付による建立。


旧東海道 和田町
和田町公民館前を行く旧東海道。


旧東海道 和田町
三重県道28号に接する手前で、旧東海道は東から北方向に大きく曲がる。


ジャングリさんの小祠
ジャングリさんの小祠。東海道分間延絵図には”叉具神”と記される。古くから”ジャングリさん”と呼ばれ、東海道を往来する旅人がもたらす悪疫から子供たちを守る神様として崇拝された。


若松道旧道
和田村から神戸・白子・若松方面へ通じていた若松道旧道。亀山城下から亀山藩領の若松港へ至る重要な道だった。分岐点に和田道標が残る。


和田道標
元禄3年(1690年)建立の和田道標。正面に「従是神戸白子若松道」と刻む。古い道標はその役目を終えたとしても、元々の場所にあってこそ歴史的な価値がある。


谷口法悦題目塔
亀山市和田町と川合町の境、旧東海道沿いにある谷口法悦題目塔。昔から”川合のやけ地蔵さん”や”法界塔さん”と呼び親しまれた。施主は谷口法悦という日蓮宗の篤信者で、江戸時代中期、一族と共に各地の寺院や街道筋にこのような題目塔を建て、日蓮宗の布教と共に国家安穏を祈念したという。


旧東海道 川合町
亀山市川合町に入って間もなく、国道1号の亀山バイパス下を潜り抜け。


椋川
椋川を渡る。川合の地名はこの椋川と鈴鹿川が合流する土地であることに由来。


旧東海道 川合町
川合町を行く旧東海道。


川合町旧東海道筋にて
沿道にはどんこネット川合と書かれた植木鉢が並び街道を彩る。


旧東海道 川合町
国道1号を越えて井田川駅方面へ延びる旧東海道。


井田川小学校跡
昭和54年(1979年)廃校となった井田川小学校跡。現在は物流センターの敷地となり、門柱の一部と二宮金次郎像が残るのみ。


JR井田川駅
JR井田川駅。駅前に真新しい日本武尊像を設置する。


井田川駅にて
井田川駅にて。昨日購入した関の戸を食べながらひと休み。


旧東海道・田村道分岐
旧東海道から左に分岐する小路は、北西側の田村へ通じる田村道旧道。


田村道道標
分岐点に残る道標は、井尻道道標と同じく田中音吉の寄付による建立。


栄寿堂
栄寿堂で3色だんごとさくら餅を購入。


海善寺踏切
海善寺踏切手前で亀山市から鈴鹿市へ市域が変わり。


小田坂の下
旧東海道筋は小田集落の家並みに。


地福寺
小田集落の西側入口にある地福寺。


観音堂跡
地福寺の観音堂跡。


野登道道標
旧東海道を分岐する野登道旧道と道標2基。写真左手前の道標は江戸期のもの、右奥が大正3年(1914年)田中音吉の寄付による建立。共に「右のゝぼり」と刻むが、写真左手前のものは”り”の字が埋没している。野登道は野登山の山頂付近、野登寺へ至る信仰の道。野登寺は地元で”ののぼりさん”と呼び親しまれる古刹。


和泉町公民館
和泉町公民館の先で旧東海道は安楽川に阻まれる。


和泉川の渡し跡
和泉川の渡し跡。この辺りの安楽川は古く和泉川と称し、江戸期には長さ70間(約127m)の仮土橋が架けられ、増水時には徒歩渡しとなった。和泉村(現 鈴鹿市和泉町)は川越人足役を命じられている。明治期になって本格的な架橋があったようだ。現在、旧道渡河地点に橋は無く、150m程下流に和泉橋が架けられる。


和泉橋
和泉橋へ迂回し安楽川を渡る。遥かに野登山や鈴鹿山脈を望む。


旧東海道 西富田町
安楽川の土手から西富田集落内を北西へ延びる旧東海道。


西富田川俣神社
西富田集落の南側(京方)入口に鎮座する川俣神社。周辺一帯に同名の神社が多い。境内に無上冷水井跡の碑がある。無上冷水井は織田信長の三男で、神戸城主の織田信孝が愛飲したと伝わる。


ひろせ道
写真の右に分岐する小路は広瀬道旧道。北側の広瀬へ通じていた。分岐点には田中音吉の寄付により建立された道標が残る。


広瀬道道標
「ひろせ道」と刻む道標。


福萬寺
真宗高田派の福萬寺。


常念寺
阿弥陀如来を本尊にする天台真盛宗の常念寺。元は同村内の別の場所にあり、安政元年(1818年)の大地震で倒壊。元々ここにあって倒壊を免れた平建寺を買収し移転した。平建寺は延命地蔵尊を本尊とし、中富田の氏仏として信仰されてきた。現在は同寺の地蔵堂に祀られている。


旧東海道 中富田町
中富田の集落を行く旧東海道。


中富田川俣神社
中富田の川俣神社。


従是西亀山領の領界石と中富田一里塚跡碑
川俣神社境内にある中富田一里塚跡碑と「従是西亀山領」を刻む領界石。中富田一里塚は川俣神社境内東隣にあり、塚上に榎の大木があったと云われるが、現在遺構は全く残っていない。江戸日本橋から103里目(約404km)、京三条大橋からは22番目(実測で約91km地点)となる一里塚。一里塚の更に東隣、中富田村と汲川原村の境にこの領界石が立てられていた。長らく歩いてきた亀山藩領もここまで。領界石から先は神戸藩領である。


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庄野宿

【2014年3月9日(日)旧東海道 庄野宿】
亀山藩領から神戸藩領に入り旧汲川原村(現 鈴鹿市汲川原町)を過ぎれば庄野宿の町並みに。江戸日本橋から数えて45宿目、京都三条大橋からならば9宿目となる庄野宿。その成立は東海道五十三次の中で最も遅い1624年(寛永元年)。元々この地にあった36戸に、鈴鹿川対岸の34戸を移転させて加え、「草分け36戸、宿立て70戸」と言われる小さな宿場を成立させたのがはじまり。天保14年(1843年)当時の宿内町並南北8町(約872m)、京方より上町・中町・加茂町で構成、人口855人、家数211軒、本陣1、脇本陣なし、旅籠15軒。

宿駅成立から200年余りを経た天保期には3倍の家数に膨らんでいるが、近世の東海道にあっては小規模の宿場町だったため、幕末に臨時の大通行が度々あった折には周辺一帯の助郷だけでは人馬継立を賄いきれず、美濃・河内・摂津国まで助郷村を広げている。名物は俵焼米、江戸時代に携行食として重宝された焼米を、こぶし大の俵に詰めて売っていた。歌川広重は「東海道五十三次之内 庄野」に「白雨」の副題を付け、夕立の中、宿場外れの街道を往来する駕籠かきや通行人を浮世絵に描いてる。


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旧東海道 汲川原
亀山藩領から神戸藩領の旧汲川原村(現 鈴鹿市汲川原町)へ。


旧東海道 汲川原江戸方入口付近
汲川原集落京方入口付近に立つ神戸藩領界石と女人堤防碑(写真奥)。領界石は道の両側それぞれにある。女人堤防碑裏手の空地は真福寺の薬王院跡。


従是東神戸藩領碑と山神碑
神戸藩領界石と山神碑。この山神碑は江戸時代からここにあるといい、手水石は文化10年(1813年)のもの。


従是東神戸藩領碑
神戸藩領界石には「従是東神戸領」と刻む。こちらの領界石は京側から見て左手(北側)にあるもので、こちらの方が古そうな感じ。「是」と「領」の部分に凹形の加工が見られ、その役目を終えた後、何かに再利用されていたのだろうか。


従是東神戸藩領碑
京側から見て右手(南側)の領界石。明らかにこちらの方か新しく、廃藩置県まで領界に立てられていたのはこちらだろう。元々はもう少し西寄りの中富田と汲川原の境界にあった。


女人堤防碑
旧東海道と直角に交差して南北に延びる女人堤防。その堤防上に女人堤防碑が立つ。
汲川原村は鈴鹿川と安楽川の合流部にあたり、村人は度々の水害に悩まされていた。その対策として築堤の許可を神戸藩に願い出たが、堤防ができると鈴鹿川下流域右岸の城下に浸水するとして藩の許可は得られず、そこで村の女衆は男より罪が軽くすむだろうと、極刑を顧みず6年の歳月をかけて堤防を築き上げてしまう。その功績を後世に残すべく、昭和32年(1957年)この碑が建立された。


真福寺
浄土真宗本願寺派の真福寺。本堂前のソテツがいいね。


豊田畳店
平野道旧道との分岐点付近、汲川原の豊田畳店前を行く旧東海道。


旧東海道 汲川原
汲川原集落を過ぎ、庄野宿へ向かう。


旧東海道 汲川原
国道1号と三重県道637号の幹線道路が交差する汲川原町交差点付近。旧東海道の道筋はその両幹線道によって分断され消失。その消失地点にあたる汲川原町交差点付近には下写真の旧東海道ルート図が掲示されている。


汲川原交差点付近掲示の旧東海道ルート図
実際の旧道は点線で示されている直線状の道筋ではなく、直角に近いS字カーブを描く道筋だったことが古い航空写真や地形図から確認できる。


旧東海道 庄野町
汲川原交差点付近、庄野宿側の旧東海道が現れる地点。写真左側の道が庄野宿へ向かう旧東海道。


庄野宿京方入口
庄野宿京方入口。「東海道 庄野宿」の石標が置かれる。


庄野川俣神社とスダジイ
庄野の川俣神社とスダジイ。このスダジイは庄野宿が成立する以前から自生しているといい、幹回り6メートルを超える巨木。庄野宿の変遷を今に見続ける古木、もし語ることができるならば、どんな話を聞けるのだろう。


庄野宿郷会所跡
いとう理容の辺りは庄野宿郷会所跡。庄野宿に割り当てられた助郷村の庄屋等が集会した。


庄野宿脇本陣・高札場跡
庄野宿脇本陣跡(写真右手前民家)と高札場跡。本陣南隣が脇本陣の楠与兵衛家跡で、その間辺りに高札場が置かれていたらしい。庄野宿資料館に江戸時代の高札5枚が現存している。


庄野宿本陣跡
庄野集会所の敷地は庄野宿本陣跡。沢田家が江戸期を通して明治5年(1872年)の廃止まで庄野宿本陣を務めた。


庄野宿
夕闇に暮れゆく庄野宿。


庄野宿資料館(旧小林家住宅)
庄野宿資料館(旧小林家住宅)。油問屋を営んだ旧小林家住宅の主屋を改修復元し、平成10年(1998年)に開館。江戸期の高札5枚をはじめ、本陣・脇本陣の古文書等、宿場関係の資料を保管展示する。


庄野宿資料館(旧小林家住宅)
訪れた時間が遅かったため庄野宿資料館は既に閉館。内部を見学することなく資料館を後に。次回の機会に再び訪ねることにしよう。


善照寺
庄野宿の江戸方端付近にある善照寺。日は沈み、門は固く閉じられ・・・。


庄野宿
庄野宿の江戸方端付近、日没を迎えて宿場は静まりかえる。


庄野宿江戸方入口
庄野宿江戸方入口にあたる庄野町西交差点へ。旧東海道はここを鉤の手に右へ曲がるのだが、本日の旧東海道歩き旅はここで終い。直進して加佐登駅へ向かおう。


加佐登駅
JR加佐登駅。


加佐登駅にて
加佐登駅から帰途につく。栄寿堂で購入した3色だんごを食べならがら 、四日市・名古屋方面への列車を待つ。


みそかつ&えびふりゃー弁当
名古屋駅から東京駅へ向かう新幹線の車内にて。”みそかつ&えびふりゃー弁当"を夕食に。お疲れ様でした。


【旧東海道歩き 第7日目】ホテルルートイン第2亀山インター→亀山宿→庄野宿→JR加佐登駅 歩行距離約17km
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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