亀山城跡
【2014年3月9日(日)旧東海道 亀山宿】
初めて亀山に城が築かれたのは鎌倉時代の文永2年(1265年)のこと。関実忠は若山(現 亀山市若山町)の地に亀山城を築き、以来関氏16代の居城となったが、元亀4年(1573年)織田信長の伊勢侵攻により関氏は追放。本能寺の変から天下分け目の天王山や賤ヶ岳の戦いを経て羽柴秀吉が中央政権を掌握した天正18年(1590年)、秀吉に従った岡本宗憲が入城し、新たに本丸・二之丸・三之丸を縄張りし天守も建てられたとされる。
江戸時代になり三宅氏が城主の時、丹波国にあった同名の亀山城天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が、間違えてこちらの天守を取り壊してしまったとの伝説も。寛永13年(1636年)本多俊次が亀山城に入って城郭の大改修に着手。この時に本丸・二之丸・東三之丸・西之丸・西出丸の縄張りが完成、本丸には将軍の休伯施設とする本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が置かれ、旧天守台には今に残る多聞櫓が築造された。亀山藩主石川家11代の時に明治維新を迎え、明治6年(1873年)廃城令によりほとんどの建造物が解体された。
なお、亀山城には白壁の櫓や土塀等が連なる景観を白蝶の姿に例え、粉蝶城の別名があるとの記載が多くの刊行物等に見られるが、その別名の根拠となっている唯一の資料が野尻村の大庄屋打田権四郎昌克が記した地誌「九々五集」にある。実のところその地誌には”粉蝶城”ではなく、姫垣を意味する”粉堞城”と記されているとのこと。後世の誤記が広く流布してしまったという。
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亀山城大手門跡付近、横町の町並み。大手門前(現 江ヶ室交差点)で旧東海道は鉤の手に曲げられ、横町と東町の境をなす。横町北(江戸方)端には高札場が置かれていた。

亀山城大手門古写真。大手門櫓と脇櫓で構成される枡形門で、東町より東三之丸へ通じる亀山城正門にあたる。

亀山城大手門跡。明治6年(1873年)以降に櫓や石垣の全てが破却、現在はその跡地に解説板が設置されるのみである。

亀山城東三之丸跡(現 亀山市東丸町)。

東三之丸から二ノ丸へ通じていた亀山城太鼓門と太鼓櫓跡(現 亀山西小学校の敷地東面)。枡形の一角に設置された太鼓櫓は小規模な三階櫓で、最上階に時を告げる太鼓が置かれていた。

亀山城二之丸跡。写真右手は城主居館と藩庁を兼ねた二ノ丸御殿跡(現 亀山西小学校)、左手が向屋敷跡(現 亀山市役所)。

二之丸御殿古写真。亀山市教育委員会設置の解説板「亀山城二之丸跡」より。二之丸御殿の大書院と式台は西町の遍照寺本堂として移築現存する。

石坂と石坂門跡。西之丸から二之丸へ通じる道が石坂で、その坂途中に石坂門が設けられていた。

石坂門跡付近に立つ石井兄弟亀山敵討遺跡碑。元禄14年(1701年)石井源蔵、半蔵の兄弟が、父の敵である赤堀水之助を、ここ石坂で討ち果たした。この敵討は”元禄曽我兄弟”の題で、歌舞伎や講談、絵本等に取り上げられ有名になったとか。赤堀水之助は亀山藩の馬廻り役で、石井兄弟に討ち果たされて後、京口坂下の照光寺に葬られた。

本丸東南隅に残る亀山城多門櫓。平成の大修理により黒板壁を白漆喰壁に改め、江戸時代末期の姿に復原された。元の場所に唯一現存する亀山城の城郭建築物で、三重県指定史跡。

多門櫓の石垣はかつての天守台とも伝わるが、天守がここに存在したという明確な根拠は確認できていないという。石垣東面と南面は古い石積技法である野面積であることから築城当時の築造と考えられており、櫓台にはいかにも立派過ぎる大規模な石垣であることを鑑みれば、天守台だったと考えるのが妥当だろう。

多門櫓より石坂・池之側を望む。

多聞櫓より本丸跡を望む。右下の建物は明治13年(1880年)三重県下巡行の折、行在所とされた東町藤屋(現 市民協働センター・みらい)の一部を移築してきたもの。

明治天皇行在所(東町旧藤屋)。玉座とされた奥八畳間。

多聞櫓北側下にある与助井戸。天正18年(1590年)の築城時、ここにあった与助鍛冶の民家を城外に移したとの伝承から与助井戸と呼ばれる。本丸で使われてきた井戸で、城外への抜け穴があるとの伝説も。その真偽はいかに。

亀山城本丸に鎮座する亀山神社。

本丸跡の北側は”ますみ児童園”に。江戸時代初期から中期にかけて将軍上洛用の御殿が設けられていたが、正徳2年(1712年)に取り壊されて後、再建されることなく空地となっていた。

セスナ機や蒸気機関車が展示されていた。

本丸北側に残る外堀。

本丸跡の北辺を通って二之丸跡へ移動。写真は二之丸の北辺にあたり、右手に二之丸御殿があった。

二之丸の北辺部は二之丸御殿の最奥にあたり、庭が築かれていた。河原が敷き詰められている部分は庭に配された築山の位置を示している。

二之丸と帯曲輪の間、切通し通路に設けられていた埋門(うずみもん)跡。解説板には半分地下に潜るようにつくられているので埋門と呼ぶと書かれているが、非常時に門自体を埋めて敵の侵入を防ぐという意味合いも含んでいる。亀山城にあった6ヶ所の帯曲輪の出入口すべてに埋門が設置されていた。

二之丸帯曲輪跡。復元土塀が巡らされ往時の姿を再現する。

帯曲輪は城を守備するために設置された場所だったが、平和な世が長く続いた江戸時代中に本来の目的が失われ、庭や花畑等に利用されていたらしい。発掘調査でその根拠となる石で組んだ溝や水溜等が発見されたとのこと、なかなか興味深い話だ。

亀山城跡の最後は西出丸。本多俊次が亀山藩主の時に修築された場所。米蔵や煙硝蔵が置かれていたが、現在は駐車場と化している。西北辺と南側に帯曲輪が配されていた。
初めて亀山に城が築かれたのは鎌倉時代の文永2年(1265年)のこと。関実忠は若山(現 亀山市若山町)の地に亀山城を築き、以来関氏16代の居城となったが、元亀4年(1573年)織田信長の伊勢侵攻により関氏は追放。本能寺の変から天下分け目の天王山や賤ヶ岳の戦いを経て羽柴秀吉が中央政権を掌握した天正18年(1590年)、秀吉に従った岡本宗憲が入城し、新たに本丸・二之丸・三之丸を縄張りし天守も建てられたとされる。
江戸時代になり三宅氏が城主の時、丹波国にあった同名の亀山城天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が、間違えてこちらの天守を取り壊してしまったとの伝説も。寛永13年(1636年)本多俊次が亀山城に入って城郭の大改修に着手。この時に本丸・二之丸・東三之丸・西之丸・西出丸の縄張りが完成、本丸には将軍の休伯施設とする本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねた二之丸御殿が置かれ、旧天守台には今に残る多聞櫓が築造された。亀山藩主石川家11代の時に明治維新を迎え、明治6年(1873年)廃城令によりほとんどの建造物が解体された。
なお、亀山城には白壁の櫓や土塀等が連なる景観を白蝶の姿に例え、粉蝶城の別名があるとの記載が多くの刊行物等に見られるが、その別名の根拠となっている唯一の資料が野尻村の大庄屋打田権四郎昌克が記した地誌「九々五集」にある。実のところその地誌には”粉蝶城”ではなく、姫垣を意味する”粉堞城”と記されているとのこと。後世の誤記が広く流布してしまったという。
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亀山城大手門跡付近、横町の町並み。大手門前(現 江ヶ室交差点)で旧東海道は鉤の手に曲げられ、横町と東町の境をなす。横町北(江戸方)端には高札場が置かれていた。

亀山城大手門古写真。大手門櫓と脇櫓で構成される枡形門で、東町より東三之丸へ通じる亀山城正門にあたる。

亀山城大手門跡。明治6年(1873年)以降に櫓や石垣の全てが破却、現在はその跡地に解説板が設置されるのみである。

亀山城東三之丸跡(現 亀山市東丸町)。

東三之丸から二ノ丸へ通じていた亀山城太鼓門と太鼓櫓跡(現 亀山西小学校の敷地東面)。枡形の一角に設置された太鼓櫓は小規模な三階櫓で、最上階に時を告げる太鼓が置かれていた。

亀山城二之丸跡。写真右手は城主居館と藩庁を兼ねた二ノ丸御殿跡(現 亀山西小学校)、左手が向屋敷跡(現 亀山市役所)。

二之丸御殿古写真。亀山市教育委員会設置の解説板「亀山城二之丸跡」より。二之丸御殿の大書院と式台は西町の遍照寺本堂として移築現存する。

石坂と石坂門跡。西之丸から二之丸へ通じる道が石坂で、その坂途中に石坂門が設けられていた。

石坂門跡付近に立つ石井兄弟亀山敵討遺跡碑。元禄14年(1701年)石井源蔵、半蔵の兄弟が、父の敵である赤堀水之助を、ここ石坂で討ち果たした。この敵討は”元禄曽我兄弟”の題で、歌舞伎や講談、絵本等に取り上げられ有名になったとか。赤堀水之助は亀山藩の馬廻り役で、石井兄弟に討ち果たされて後、京口坂下の照光寺に葬られた。

本丸東南隅に残る亀山城多門櫓。平成の大修理により黒板壁を白漆喰壁に改め、江戸時代末期の姿に復原された。元の場所に唯一現存する亀山城の城郭建築物で、三重県指定史跡。

多門櫓の石垣はかつての天守台とも伝わるが、天守がここに存在したという明確な根拠は確認できていないという。石垣東面と南面は古い石積技法である野面積であることから築城当時の築造と考えられており、櫓台にはいかにも立派過ぎる大規模な石垣であることを鑑みれば、天守台だったと考えるのが妥当だろう。

多門櫓より石坂・池之側を望む。

多聞櫓より本丸跡を望む。右下の建物は明治13年(1880年)三重県下巡行の折、行在所とされた東町藤屋(現 市民協働センター・みらい)の一部を移築してきたもの。

明治天皇行在所(東町旧藤屋)。玉座とされた奥八畳間。

多聞櫓北側下にある与助井戸。天正18年(1590年)の築城時、ここにあった与助鍛冶の民家を城外に移したとの伝承から与助井戸と呼ばれる。本丸で使われてきた井戸で、城外への抜け穴があるとの伝説も。その真偽はいかに。

亀山城本丸に鎮座する亀山神社。

本丸跡の北側は”ますみ児童園”に。江戸時代初期から中期にかけて将軍上洛用の御殿が設けられていたが、正徳2年(1712年)に取り壊されて後、再建されることなく空地となっていた。

セスナ機や蒸気機関車が展示されていた。

本丸北側に残る外堀。

本丸跡の北辺を通って二之丸跡へ移動。写真は二之丸の北辺にあたり、右手に二之丸御殿があった。

二之丸の北辺部は二之丸御殿の最奥にあたり、庭が築かれていた。河原が敷き詰められている部分は庭に配された築山の位置を示している。

二之丸と帯曲輪の間、切通し通路に設けられていた埋門(うずみもん)跡。解説板には半分地下に潜るようにつくられているので埋門と呼ぶと書かれているが、非常時に門自体を埋めて敵の侵入を防ぐという意味合いも含んでいる。亀山城にあった6ヶ所の帯曲輪の出入口すべてに埋門が設置されていた。

二之丸帯曲輪跡。復元土塀が巡らされ往時の姿を再現する。

帯曲輪は城を守備するために設置された場所だったが、平和な世が長く続いた江戸時代中に本来の目的が失われ、庭や花畑等に利用されていたらしい。発掘調査でその根拠となる石で組んだ溝や水溜等が発見されたとのこと、なかなか興味深い話だ。

亀山城跡の最後は西出丸。本多俊次が亀山藩主の時に修築された場所。米蔵や煙硝蔵が置かれていたが、現在は駐車場と化している。西北辺と南側に帯曲輪が配されていた。

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