おこん茶屋
【旧東海道歩き 第8日目】JR加佐登駅→庄野宿→石薬師宿→四日市宿→近鉄四日市駅
【2014年5月3日(土)旧東海道 庄野宿→石薬師宿 道中】
ゴールデンウィーク後半戦突入の土曜日、2日間の行程で旧東海道歩きを庄野宿から桑名宿まで歩こうと思い立った。宿泊を四日市にしようと”じゃらんnet”や”楽天トラベル”等を駆使してホテル・旅館の空きを調べたが、さすがにゴールデンウィークだけあってどこも宿泊予約ができない。そこで四日市から範囲を広げて調べてみたところ、津駅前のホテルサンルート津に僅かに空きがあったので即予約を入れた。ウォーキングには最適な季節なうえ天気も上々、朝6時前に意気揚々と家を出発。東京駅から東海道新幹線で名古屋へ移動し、関西本線に乗り換えて10時ちょっと前に加佐登駅着。次の石薬師宿を目指す前に前回時間が遅くて見学できなかった庄野宿資料館(旧小林家住宅)を訪問する。
庄野宿から石薬師宿までの距離は僅か3km弱、この短い道中の半分程は国道1号と化し、今は特に見所もなさそうだが、江戸時代末期には”おこん茶屋”と呼ばれる名物茶屋があり、明治期まで存在していたという。茶屋名の”おこん”とはこの茶屋で働いていた看板娘の名で、街道を往来する男たちが話題にする程に美しい女性だったようだ。そんな話を知って”おこん茶屋”がどこにあったのか、是非ともその跡地に行ってみようと事前に調べてみたが、何故かその跡地を示す有力な情報が得られない。Jlogosで調べた角川日本地名大辞典(旧地名編)にある高宮村(近世)の説明に、「東海道に沿って右近茶屋があった。」の記載を見つけ、おそらくはこれが”おこん茶屋”のことではないかと推測した。
また、池田遙邨という日本画家が、昭和6年(1931年)に「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」の題で広重の浮世絵風に絵を描いている。本人の解説に「それから道中いちばんの美人で貞淑の誉れのあった「おこんの茶屋」跡に残っていた苔むした井戸をスケッチにとめて庄野をすぎた。」とあり、昭和初期まではおこん茶屋跡の井戸が残っていたことがわかった。事前に得られた情報はこの二つ。”おこん茶屋”は旧高宮村の東海道沿いにあったことと、池田遙邨画伯が描いた風景画だけ。あとは現地に行って調べてみるしかない。
より大きな地図で おこん茶屋跡 を表示

加佐登駅から庄野宿へ。

まずは庄野宿資料館を見学に。

油問屋を営んだ旧小林家住宅を改修し、平成10年(1998年)に開館した庄野宿資料館。

庄野宿資料館前に展示の解説板より。これは広重が描いた保永堂版の浮世絵「東海道五拾三次之内 庄野」で、「白雨(はくう)」という副題が付けられている。 日中に突然の豪雨に遭い、旅人や駕籠かきが街道を走り抜ける様子を描く。この絵を描いた場所ははっきりせず、庄野宿江戸方外れの道中だともいわれる。

油問屋だった頃に使われていた長半纏。屋号の”彦三郎”と”庄野”の文字が見える。

庄野宿資料館には江戸期の高札5枚をはじめ、本陣・脇本陣の古文書等、宿場関係の資料を保管展示する他、本陣・脇本陣の復元模型や庄野宿の名物だった焼米俵等を復元展示。なお、高札は撮影禁止とのこと。

庄野宿資料館を後に。資料館を出る直前、館員の方に”おこん茶屋”について聞いてみたところ、加佐登駅裏手辺りの東海道沿いにあったらしいが、それがどこなのか正確な位置はわからないとの回答。最も有力な情報が得られるだろうと期待していただけに、残念…。

庄野宿内を少々散策。ここは庄野宿問屋場跡で、本陣から少し離れた北側に位置する。

再び庄野宿本陣跡に。江戸期を通して沢田家が本陣を務めた。現在は庄野集会所。

本陣跡の南隣は脇本陣と高札場跡。ここで踵を返し、次の石薬師宿へ向かう。

庄野宿江戸方出入口付近の町並み。

庄野宿江戸方出入口にあたる庄野町西交差点。

庄野町西交差点で鉤の手に鈴鹿川方面へ曲がったところ。旧東海道はこの先、庄野町北交差点で国道1号に合流し、鈴鹿川左岸を進む。

鈴鹿川左岸を行く国道1号。この先に宮戸橋。ここら辺が加佐登駅の裏手にあたる。さて、おこん茶屋はどこにあるのか。数少ない手掛かりをもとに考察してみよう。

芥川に架橋される国道1号の宮戸橋。かつての東海道は宮戸橋の少し西側で芥川を渡っていた。三重県道637号線の一部が旧道ルートを踏襲している。

昭和22年(1947年)11月撮影の宮戸橋付近。国道1号の宮戸橋ルートは敷設工事中で、宮戸橋はまだ架けられていない。その北西側に旧東海道ルートの国道が通っており、途中で現在の三重県道637号線が北西方向に分かれて三叉路を形成。その三叉路辺りに集落が形成されており、ここが旧高宮村南東端にあたる。高宮村は江戸期から明治22年(1889年)まで鈴鹿川西岸の丘陵上に存在した村で、航空写真左隅辺り一帯がその中心部。明治22年に高宮・津賀・広瀬の3ヶ村が合併し高津瀬村が成立し、昭和17年(1942年)高津瀬村高宮は加佐登町として鈴鹿市の一部になり現在に至る。
倉敷市立美術館ホームページ
「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」
昭和6年(1931年)に描かれた「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」を見てみる。左へ緩やかにカーブする街道右手前の松並木の中に茶屋跡らしき遺構、その遠く右奥に丘陵の一部が描かれ、左手に鈴鹿川の地勢で間違いないだろう。奥に見える家々を旧高宮村南東端の集落と見れば、その東外れの東海道から庄野宿方向を望む構図である。

宮戸橋東側の国道1号。現地踏査と考察の結果、”おこん茶屋”は旧高宮村の東海道三叉路から、100~200m東外れの街道沿い北側にあったと推定。この写真辺りがその推定跡地となる。国道1号の宮戸橋ルート敷設時か、後の国道拡張により県道ルートが北側に新設された時に、昭和初期まで残っていた”おこん茶屋”跡の井戸を含め、その遺構は完全に消失してしまったと思われる。
国道や茶屋の娘が夢の跡…。
より大きな地図で おこん茶屋跡 を表示
三重県道637号線側からおこん茶屋跡辺りをグーグルマップのストリートビューで。近年の道路改良により地形が大きく変わり、その跡地がはっきりしなくなってしまったことを実感できよう。

おこん茶屋跡から国道1号を東へ進んで三恵工業の入口前に。国道1号から旧道が左に分かれて出現。

沿道に花が咲き誇る春らしい光景。

鈴鹿市上野町に残る旧東海道。

椎山川を渡る。旧東海道はここから関西本線の分断地点まで消失。

鈴鹿市上野町の旧道消失地点。迂回路を通って国道1号下のトンネル部分を潜り抜ける。このトンネル部分だけは旧道ルートを踏襲しているようだ。

国道1号下のトンネルから関西本線の分断地点にかけての旧道は田園の中に消失。

関西本線の分断地点から出現し、石薬師宿へ向けて延びる旧東海道。石薬師宿はもうすぐだ。
【2014年5月3日(土)旧東海道 庄野宿→石薬師宿 道中】
ゴールデンウィーク後半戦突入の土曜日、2日間の行程で旧東海道歩きを庄野宿から桑名宿まで歩こうと思い立った。宿泊を四日市にしようと”じゃらんnet”や”楽天トラベル”等を駆使してホテル・旅館の空きを調べたが、さすがにゴールデンウィークだけあってどこも宿泊予約ができない。そこで四日市から範囲を広げて調べてみたところ、津駅前のホテルサンルート津に僅かに空きがあったので即予約を入れた。ウォーキングには最適な季節なうえ天気も上々、朝6時前に意気揚々と家を出発。東京駅から東海道新幹線で名古屋へ移動し、関西本線に乗り換えて10時ちょっと前に加佐登駅着。次の石薬師宿を目指す前に前回時間が遅くて見学できなかった庄野宿資料館(旧小林家住宅)を訪問する。
庄野宿から石薬師宿までの距離は僅か3km弱、この短い道中の半分程は国道1号と化し、今は特に見所もなさそうだが、江戸時代末期には”おこん茶屋”と呼ばれる名物茶屋があり、明治期まで存在していたという。茶屋名の”おこん”とはこの茶屋で働いていた看板娘の名で、街道を往来する男たちが話題にする程に美しい女性だったようだ。そんな話を知って”おこん茶屋”がどこにあったのか、是非ともその跡地に行ってみようと事前に調べてみたが、何故かその跡地を示す有力な情報が得られない。Jlogosで調べた角川日本地名大辞典(旧地名編)にある高宮村(近世)の説明に、「東海道に沿って右近茶屋があった。」の記載を見つけ、おそらくはこれが”おこん茶屋”のことではないかと推測した。
また、池田遙邨という日本画家が、昭和6年(1931年)に「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」の題で広重の浮世絵風に絵を描いている。本人の解説に「それから道中いちばんの美人で貞淑の誉れのあった「おこんの茶屋」跡に残っていた苔むした井戸をスケッチにとめて庄野をすぎた。」とあり、昭和初期まではおこん茶屋跡の井戸が残っていたことがわかった。事前に得られた情報はこの二つ。”おこん茶屋”は旧高宮村の東海道沿いにあったことと、池田遙邨画伯が描いた風景画だけ。あとは現地に行って調べてみるしかない。
より大きな地図で おこん茶屋跡 を表示

加佐登駅から庄野宿へ。

まずは庄野宿資料館を見学に。

油問屋を営んだ旧小林家住宅を改修し、平成10年(1998年)に開館した庄野宿資料館。

庄野宿資料館前に展示の解説板より。これは広重が描いた保永堂版の浮世絵「東海道五拾三次之内 庄野」で、「白雨(はくう)」という副題が付けられている。 日中に突然の豪雨に遭い、旅人や駕籠かきが街道を走り抜ける様子を描く。この絵を描いた場所ははっきりせず、庄野宿江戸方外れの道中だともいわれる。

油問屋だった頃に使われていた長半纏。屋号の”彦三郎”と”庄野”の文字が見える。

庄野宿資料館には江戸期の高札5枚をはじめ、本陣・脇本陣の古文書等、宿場関係の資料を保管展示する他、本陣・脇本陣の復元模型や庄野宿の名物だった焼米俵等を復元展示。なお、高札は撮影禁止とのこと。

庄野宿資料館を後に。資料館を出る直前、館員の方に”おこん茶屋”について聞いてみたところ、加佐登駅裏手辺りの東海道沿いにあったらしいが、それがどこなのか正確な位置はわからないとの回答。最も有力な情報が得られるだろうと期待していただけに、残念…。

庄野宿内を少々散策。ここは庄野宿問屋場跡で、本陣から少し離れた北側に位置する。

再び庄野宿本陣跡に。江戸期を通して沢田家が本陣を務めた。現在は庄野集会所。

本陣跡の南隣は脇本陣と高札場跡。ここで踵を返し、次の石薬師宿へ向かう。

庄野宿江戸方出入口付近の町並み。

庄野宿江戸方出入口にあたる庄野町西交差点。

庄野町西交差点で鉤の手に鈴鹿川方面へ曲がったところ。旧東海道はこの先、庄野町北交差点で国道1号に合流し、鈴鹿川左岸を進む。

鈴鹿川左岸を行く国道1号。この先に宮戸橋。ここら辺が加佐登駅の裏手にあたる。さて、おこん茶屋はどこにあるのか。数少ない手掛かりをもとに考察してみよう。

芥川に架橋される国道1号の宮戸橋。かつての東海道は宮戸橋の少し西側で芥川を渡っていた。三重県道637号線の一部が旧道ルートを踏襲している。

昭和22年(1947年)11月撮影の宮戸橋付近。国道1号の宮戸橋ルートは敷設工事中で、宮戸橋はまだ架けられていない。その北西側に旧東海道ルートの国道が通っており、途中で現在の三重県道637号線が北西方向に分かれて三叉路を形成。その三叉路辺りに集落が形成されており、ここが旧高宮村南東端にあたる。高宮村は江戸期から明治22年(1889年)まで鈴鹿川西岸の丘陵上に存在した村で、航空写真左隅辺り一帯がその中心部。明治22年に高宮・津賀・広瀬の3ヶ村が合併し高津瀬村が成立し、昭和17年(1942年)高津瀬村高宮は加佐登町として鈴鹿市の一部になり現在に至る。
倉敷市立美術館ホームページ
「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」
昭和6年(1931年)に描かれた「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」を見てみる。左へ緩やかにカーブする街道右手前の松並木の中に茶屋跡らしき遺構、その遠く右奥に丘陵の一部が描かれ、左手に鈴鹿川の地勢で間違いないだろう。奥に見える家々を旧高宮村南東端の集落と見れば、その東外れの東海道から庄野宿方向を望む構図である。

宮戸橋東側の国道1号。現地踏査と考察の結果、”おこん茶屋”は旧高宮村の東海道三叉路から、100~200m東外れの街道沿い北側にあったと推定。この写真辺りがその推定跡地となる。国道1号の宮戸橋ルート敷設時か、後の国道拡張により県道ルートが北側に新設された時に、昭和初期まで残っていた”おこん茶屋”跡の井戸を含め、その遺構は完全に消失してしまったと思われる。
国道や茶屋の娘が夢の跡…。
より大きな地図で おこん茶屋跡 を表示
三重県道637号線側からおこん茶屋跡辺りをグーグルマップのストリートビューで。近年の道路改良により地形が大きく変わり、その跡地がはっきりしなくなってしまったことを実感できよう。

おこん茶屋跡から国道1号を東へ進んで三恵工業の入口前に。国道1号から旧道が左に分かれて出現。

沿道に花が咲き誇る春らしい光景。

鈴鹿市上野町に残る旧東海道。

椎山川を渡る。旧東海道はここから関西本線の分断地点まで消失。

鈴鹿市上野町の旧道消失地点。迂回路を通って国道1号下のトンネル部分を潜り抜ける。このトンネル部分だけは旧道ルートを踏襲しているようだ。

国道1号下のトンネルから関西本線の分断地点にかけての旧道は田園の中に消失。

関西本線の分断地点から出現し、石薬師宿へ向けて延びる旧東海道。石薬師宿はもうすぐだ。

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