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おこん茶屋

【旧東海道歩き 第8日目】JR加佐登駅→庄野宿→石薬師宿→四日市宿→近鉄四日市駅



【2014年5月3日(土)旧東海道 庄野宿→石薬師宿 道中】
ゴールデンウィーク後半戦突入の土曜日、2日間の行程で旧東海道歩きを庄野宿から桑名宿まで歩こうと思い立った。宿泊を四日市にしようと”じゃらんnet”や”楽天トラベル”等を駆使してホテル・旅館の空きを調べたが、さすがにゴールデンウィークだけあってどこも宿泊予約ができない。そこで四日市から範囲を広げて調べてみたところ、津駅前のホテルサンルート津に僅かに空きがあったので即予約を入れた。ウォーキングには最適な季節なうえ天気も上々、朝6時前に意気揚々と家を出発。東京駅から東海道新幹線で名古屋へ移動し、関西本線に乗り換えて10時ちょっと前に加佐登駅着。次の石薬師宿を目指す前に前回時間が遅くて見学できなかった庄野宿資料館(旧小林家住宅)を訪問する。

庄野宿から石薬師宿までの距離は僅か3km弱、この短い道中の半分程は国道1号と化し、今は特に見所もなさそうだが、江戸時代末期には”おこん茶屋”と呼ばれる名物茶屋があり、明治期まで存在していたという。茶屋名の”おこん”とはこの茶屋で働いていた看板娘の名で、街道を往来する男たちが話題にする程に美しい女性だったようだ。そんな話を知って”おこん茶屋”がどこにあったのか、是非ともその跡地に行ってみようと事前に調べてみたが、何故かその跡地を示す有力な情報が得られない。Jlogosで調べた角川日本地名大辞典(旧地名編)にある高宮村(近世)の説明に、「東海道に沿って右近茶屋があった。」の記載を見つけ、おそらくはこれが”おこん茶屋”のことではないかと推測した。

また、池田遙邨という日本画家が、昭和6年(1931年)に「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」の題で広重の浮世絵風に絵を描いている。本人の解説に「それから道中いちばんの美人で貞淑の誉れのあった「おこんの茶屋」跡に残っていた苔むした井戸をスケッチにとめて庄野をすぎた。」とあり、昭和初期まではおこん茶屋跡の井戸が残っていたことがわかった。事前に得られた情報はこの二つ。”おこん茶屋”は旧高宮村の東海道沿いにあったことと、池田遙邨画伯が描いた風景画だけ。あとは現地に行って調べてみるしかない。


より大きな地図で おこん茶屋跡 を表示


庄野宿
加佐登駅から庄野宿へ。


庄野宿資料館
まずは庄野宿資料館を見学に。


庄野宿資料館
油問屋を営んだ旧小林家住宅を改修し、平成10年(1998年)に開館した庄野宿資料館。


東海道五拾三次之内 庄野
庄野宿資料館前に展示の解説板より。これは広重が描いた保永堂版の浮世絵「東海道五拾三次之内 庄野」で、「白雨(はくう)」という副題が付けられている。 日中に突然の豪雨に遭い、旅人や駕籠かきが街道を走り抜ける様子を描く。この絵を描いた場所ははっきりせず、庄野宿江戸方外れの道中だともいわれる。


庄野宿資料館
油問屋だった頃に使われていた長半纏。屋号の”彦三郎”と”庄野”の文字が見える。


庄野宿資料館
庄野宿資料館には江戸期の高札5枚をはじめ、本陣・脇本陣の古文書等、宿場関係の資料を保管展示する他、本陣・脇本陣の復元模型や庄野宿の名物だった焼米俵等を復元展示。なお、高札は撮影禁止とのこと。


庄野宿資料館
庄野宿資料館を後に。資料館を出る直前、館員の方に”おこん茶屋”について聞いてみたところ、加佐登駅裏手辺りの東海道沿いにあったらしいが、それがどこなのか正確な位置はわからないとの回答。最も有力な情報が得られるだろうと期待していただけに、残念…。


庄野宿問屋場跡
庄野宿内を少々散策。ここは庄野宿問屋場跡で、本陣から少し離れた北側に位置する。


庄野宿本陣跡
再び庄野宿本陣跡に。江戸期を通して沢田家が本陣を務めた。現在は庄野集会所。


庄野宿脇本陣跡
本陣跡の南隣は脇本陣と高札場跡。ここで踵を返し、次の石薬師宿へ向かう。


庄野宿
庄野宿江戸方出入口付近の町並み。


庄野町西交差点
庄野宿江戸方出入口にあたる庄野町西交差点。


旧東海道 庄野町
庄野町西交差点で鉤の手に鈴鹿川方面へ曲がったところ。旧東海道はこの先、庄野町北交差点で国道1号に合流し、鈴鹿川左岸を進む。


国道1号 庄野町
鈴鹿川左岸を行く国道1号。この先に宮戸橋。ここら辺が加佐登駅の裏手にあたる。さて、おこん茶屋はどこにあるのか。数少ない手掛かりをもとに考察してみよう。


宮戸橋
芥川に架橋される国道1号の宮戸橋。かつての東海道は宮戸橋の少し西側で芥川を渡っていた。三重県道637号線の一部が旧道ルートを踏襲している。


古航空写真 宮戸橋付近
昭和22年(1947年)11月撮影の宮戸橋付近。国道1号の宮戸橋ルートは敷設工事中で、宮戸橋はまだ架けられていない。その北西側に旧東海道ルートの国道が通っており、途中で現在の三重県道637号線が北西方向に分かれて三叉路を形成。その三叉路辺りに集落が形成されており、ここが旧高宮村南東端にあたる。高宮村は江戸期から明治22年(1889年)まで鈴鹿川西岸の丘陵上に存在した村で、航空写真左隅辺り一帯がその中心部。明治22年に高宮・津賀・広瀬の3ヶ村が合併し高津瀬村が成立し、昭和17年(1942年)高津瀬村高宮は加佐登町として鈴鹿市の一部になり現在に至る。

倉敷市立美術館ホームページ
「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」
昭和6年(1931年)に描かれた「昭和東海道五十三次 庄野 おこん茶屋跡」を見てみる。左へ緩やかにカーブする街道右手前の松並木の中に茶屋跡らしき遺構、その遠く右奥に丘陵の一部が描かれ、左手に鈴鹿川の地勢で間違いないだろう。奥に見える家々を旧高宮村南東端の集落と見れば、その東外れの東海道から庄野宿方向を望む構図である。


国道1号 加佐登町
宮戸橋東側の国道1号。現地踏査と考察の結果、”おこん茶屋”は旧高宮村の東海道三叉路から、100~200m東外れの街道沿い北側にあったと推定。この写真辺りがその推定跡地となる。国道1号の宮戸橋ルート敷設時か、後の国道拡張により県道ルートが北側に新設された時に、昭和初期まで残っていた”おこん茶屋”跡の井戸を含め、その遺構は完全に消失してしまったと思われる。

国道や茶屋の娘が夢の跡…。



より大きな地図で おこん茶屋跡 を表示

三重県道637号線側からおこん茶屋跡辺りをグーグルマップのストリートビューで。近年の道路改良により地形が大きく変わり、その跡地がはっきりしなくなってしまったことを実感できよう。


旧東海道 上野町
おこん茶屋跡から国道1号を東へ進んで三恵工業の入口前に。国道1号から旧道が左に分かれて出現。


旧東海道 上野町
沿道に花が咲き誇る春らしい光景。


旧東海道 上野町
鈴鹿市上野町に残る旧東海道。


旧道消失 上野町
椎山川を渡る。旧東海道はここから関西本線の分断地点まで消失。


旧道消失 上野町
鈴鹿市上野町の旧道消失地点。迂回路を通って国道1号下のトンネル部分を潜り抜ける。このトンネル部分だけは旧道ルートを踏襲しているようだ。


旧道消失 上野町
国道1号下のトンネルから関西本線の分断地点にかけての旧道は田園の中に消失。


旧東海道 上野町
関西本線の分断地点から出現し、石薬師宿へ向けて延びる旧東海道。石薬師宿はもうすぐだ。


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ジャンル : 旅行

石薬師宿

【2014年5月3日(土)旧東海道 石薬師宿】
京方隣の庄野宿から僅か3km弱、蒲川の先から石薬師宿の家並みが続く。江戸日本橋から数えて44宿目、京都三条大橋からならば10宿目となる石薬師宿。その成立は東海道の宿駅整備からやや遅れて元和2年(1616年)、それ以前は高富村等と称したが、宿駅成立時に上野村の石薬師寺に因んで石薬師を名のった。また、この時に石薬師寺も旧寺号の西福寺から現寺号に改称したともいい、それ以前から西福寺は石薬師の名で呼び親しまれ定着していたのだろう。開宿当初の宿場規模は高富村32戸と上野村12戸に近郷からの移転を合わせ180戸余りだったという。

天保14年(1843年)当時の人口991人、家数241軒、本陣3、脇本陣なし、旅籠15軒。京方より上野町・南町・中町・本町・北町と続く町並み。開宿当初から200年以上を経て家数が60軒程しか増えていないうえに旅籠も15軒と少なく、江戸期を通して大きく発展することは無かったようだ。その理由は江戸期に盛んだった伊勢参りの人々が、東海道を京方から来れば関宿東の追分から伊勢別街道へ、江戸方から来れば日永追分から伊勢街道を通ったため、その間にあった城下町で若松港からの道が通じる亀山宿はさておき、一宿場にすぎない庄野宿と石薬師宿は甚だ振るわず、宿経営は大変苦しかった。名物は薬師饅頭と鰻、現在は饅頭を売る店も鰻屋も見られない。


より大きな地図で 石薬師宿 を表示


石薬師一里塚跡
石薬師宿京方外れ、蒲川橋西袂にある石薬師一里塚跡。江戸日本橋から102里目(約401km)、京三条大橋からは23番目(実測で約96km地点)となる一里塚。かつて両塚に植えられていた榎は昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で倒木、その後に残っていた根元も消失し消失してしまい、昭和52年(1977年)石薬師一里塚の跡地に榎の若木が植えられた。それから40年近くを経て立派な榎に育ち往時を偲ぶ。


蒲川橋
蒲川に架かる蒲川橋。かつての東海道は蒲川橋の少し下流(写真左)側に橋が架けられ蒲川を渡河していた。


石薬師宿上野町
蒲川橋から先に軒を連ねる石薬師宿上野町の町並み。


石薬師宿上野町にて
石薬師宿内の旧東海道は”信綱かるた道”の名が付けられる。石薬師出身の国文学者で歌人、佐佐木信綱の短歌から50首を選んで作られた”信綱かるた”から、その内の36首を旧東海道筋に掲げて道行く人を楽しませる。”信綱かるた”は平成16年(2004年)佐佐木信綱顕彰会による作製。

花さき みのらむは知らず いつくしみ 猶もちいつく 夢の木実を


石薬師寺
石薬師という宿名の起源、石薬師寺。広重が描いた保永堂版の浮世絵「東海道五拾三次之内 石薬師」は、「石薬師寺」の副題を付け、この寺の山門を左に配置して東海道に連なる石薬師宿の家々、稲の収穫を終えて稲叢を積む田圃の情景を描く。


東海道五拾三次之内 石薬師
東海道五拾三次之内 石薬師「石薬師寺」。高富山石薬師寺ホームページより。

高富山石薬師寺
http://www.geocities.jp/ishiyakushiji/


石薬師寺付近
左奥に石薬師寺の山門を配置し、広重の浮世絵と同じような構図で撮影。右手に描かれていた田圃は宅地に消え失せ、寺の背後に山は全く見えない。浮世絵に見える石薬師寺背後の山は、明治期に切り崩された鷹飛山との記述を見つけたが、これだけの山が跡形も無く消失するとは考えにくい。浮世絵に描かれる遠景の山々は鈴鹿山脈の入道ヶ岳か野登山付近を表現しているともいわれており、描かれた山々は広重が近郊から眺望した鈴鹿山脈の景観を合成したと考えるのが妥当だろう。


石薬師寺
寺伝によれば、石薬師寺は神亀3年(726年)加賀国白山の僧泰澄の開基、平安初期の弘仁3年(812年)弘法大師が奇石を彫り上げて安置したと伝える薬師如来像を本尊に祀る。後に嵯峨天皇は大伽藍を建立させて勅願寺とし、名を高富山西福寺瑠璃光院と称した。古くから病気平癒にご利益ある寺社として広く知れ渡っていたと云う。天正年間(1573年~1592年)兵火により焼失、現在に見る本堂は寛永6年(1629年)再建のもので、三重県指定有形文化財(建造物)。


御曹子社
石薬師寺の東側に鎮座する御曹子社(蒲冠者範頼之社)。源頼朝の弟、範頼を祭神に祀る。文武両道の優れた源範頼にあやかり、武道・学問の願望成就の神として崇められたという。近辺は戦国期に高富城(別名を東条城)が築かれていた場所と伝わっており、それに関連する神社と思われる。


石薬師の蒲ザクラ
石薬師の蒲ザクラ。寿永年間(1182年~1184年)、源範頼が平家追討の西へ向かう途次、ここで鞭に使っていた桜の枝を逆挿ししたものが芽を吹き、この桜の大樹が育ったと云う。このため”逆桜”とも呼ばれる。


瑠璃光橋
石薬師寺を過ぎて瑠璃光橋を渡る。その下を通るは国道1号(現 東海道)。


瑠璃光橋袂にて
瑠璃光橋袂にて。卯の花(ウツギ)が咲き誇る。


石薬師宿南町
石薬師宿南町の町並み。


石薬師宿 南町橋
南町橋跡。旧東海道に交差して東西に願入坊川が流れ、南町と中町の境をなしていたと思われる。現在、川は暗渠となって南町橋と刻まれた親柱が路傍に残る。


浄福寺
永正年間(1504年~1520年)開基と伝わる浄福寺。真宗高田派、阿弥陀如来を本尊とする。


佐々木弘綱翁紀念碑
浄福寺山門前に立つ佐々木弘綱翁紀念碑。佐々木弘綱は文政11年(1828年)石薬師に生まれ、本居学派の足代弘訓や、歌人として名声を博した井上文雄に師事。後に藤堂藩藩校の有造館や帝国大学などで教鞭をとり、国文学研究や和歌の普及に尽力した。佐佐木信綱の父。


石薬師宿中町
石薬師宿中町の町並み。石薬師宿に3軒あった本陣のうちの2軒、、岡田庄兵衛家と岡田忠左衛門家は中町の東海道筋西側に並んでいたが、跡地がはっきりわからない。佐佐木信綱資料館辺りか。


佐佐木信綱資料館
佐佐木信綱資料館を見学に。佐佐木信綱の著書や遺品等を展示する。佐佐木信綱は幼少より父弘綱に歌学や国文学の教育を受け、後に和歌を高崎正風に学んだ。明治30年頃より「竹柏会」を主宰し、歌誌「こゝろの華」を刊行、短歌の普及と歌人の育成に務める一方、万葉集や和歌史の研究などに功績を残した。生涯に作った短歌は1万余首にのぼり、多くの歌集を刊行。唱歌「夏は来ぬ」の作詞者としても知られる。


佐佐木信綱生家
資料館の隣には佐佐木信綱生家。昭和45年(1970年)現在地に移築され記念館として開館した。信綱は明治5年(1872年)佐々木弘綱の長男として石薬師に生まれ、6歳までこの地で過ごした。


佐佐木信綱生家 産湯の井戸
裏庭に”佐佐木信綱先生 産湯の井戸”。「夏は来ぬ」の歌詞にも登場する卯の花が満開の季節、可愛らしい純白の花が初夏の到来を告げる。いい時期に来れた。

卯の花の におう垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来なきて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ♪



佐佐木信綱生家内部
佐佐木信綱生家内部。


石薬師文庫
石薬師文庫。昭和7年(1932年)佐佐木信綱は還暦を迎えるにあたり、伊勢国学に関する版本や写本等の貴重な書籍と共に、その閲覧所としてこの建物を旧石薬師村に寄贈した。現在は地域の図書館として活用されている。


小澤本陣跡
石薬師宿本町、小澤本陣跡。小澤右衛門を名のり、石薬師宿3本陣の中で最も有力な本陣家だったと思われる。現在も本陣跡に広い敷地を有するのは小澤家であり、子孫の方が住まわれているのだろう。


小澤本陣跡
かつて小澤本陣周辺には高い松の木があり、、松本陣とも呼ばれていたという。宿帳をはじめ、宿場関係の古文書を今に多く残している。


旅籠富野屋跡
小澤本陣から江戸方へ向かって間もなくの街道東側、陶製の”石やくし宿 江戸時代の軒並図”を掲げる民家(写真右手前)がある。この軒並図によるとここは旅籠富野屋跡。


石やくし宿 江戸時代の軒並図
”石やくし宿 江戸時代の軒並図”。旧東海道ウォーカーに配慮して作られたのだろうか。参考になり本当に有難い。


大木神社
延喜式内社の大木神社。石薬師の鎮守。椎の森に囲まれて厳かに社殿が佇む。


石薬師宿北町
石薬師の象徴とも言える卯の花が路傍のあちこちに。


石薬師宿北町
石薬師宿江戸方端の北町。マルフクの先、浪瀬川に向かって下り坂に。


北町の地蔵堂
石薬師宿江戸方出入口、北町の地蔵堂。江戸時代から今日まで、東海道を往来する旅人を見守り続けた延命地蔵を安置する。


北町の地蔵堂と旧東海道
北町の地蔵堂と旧東海道。石薬師宿を後に。


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杖衝坂

【2014年5月3日(土)旧東海道 石薬師宿→四日市宿 道中】
その昔、石薬師宿を出た東海道は谷底に流れる浪瀬川を石橋で渡り、木田村の枝郷だった大谷の集落を通り抜けていた。現在は浪瀬川の川面から結構な高さに平坦な国道1号が通っているが、今も左岸に崖状のきつい斜面が見られ、昔はここを左右に曲折させて道を通していたようだ。東海道分間絵図には「此所おほり坂」と書かれているように見える。大谷の東隣に小谷の集落があり、それを過ぎれば旧東海道は国道1号に合流、その先から市域が変わって四日市市釆女町に。国道1号の北側路傍に采女一里塚跡の石碑を見ながら進み、采女食堂の先で国道を右に分かれて旧道を行けば、間もなく杖衝坂の下りに差し掛かる。杖衝坂(杖突坂とも書く)は日本武尊の故事が伝わる急勾配の坂道。日本武尊は東国を平定しての帰途、伊吹山の神と戦い傷ついたことで病に倒れ、その弱り切った身体をおして大和帰還を目指す。この急坂に差し掛かったところで、剣を杖代わりにして何とか坂を登りきったという。”杖衝坂”と呼ばれる所以である。


より大きな地図で 杖衝坂 を表示


国道1号 自由ヶ丘
石薬師宿を出て国道1号に合流、浪瀬川を渡る。


浪瀬川
谷間を流れる浪瀬川を国道1号より望む。写真左手が右岸にあたる石薬師側、左岸は崖状の斜面になっており、擁壁に固められている。昔は水面近くに石橋を架けて往来の旅人を通していたようだ。


木田町大谷交差点付近
木田町大谷交差点付近。この先、国道を右に分かれる道が旧東海道で、その沿道には旧大谷村の家並みが続く。


旧東海道 木田町
旧大谷村(現 鈴鹿市木田町)の集落。


旧大谷村の集落にて
旧大谷村の集落にて。


旧東海道 下大久保町・国分町
下大久保町・国分町の境を行く旧東海道。この辺りが旧国分村の枝郷小谷村の集落にあたる。


単直庵・延命地蔵尊
国道1号に合流する手前、単直庵と延命地蔵尊の小堂が並ぶ。


国道1号 釆女南交差点付近
釆女南交差点付近の国道1号。鈴鹿市から四日市市釆女町に。


豊富稲荷神社
国道1号沿いの南側に鎮座する豊富稲荷神社。


国道1号 釆女食堂付近
豊富稲荷神社の先には采女食堂。


釆女一里塚跡
国道1号の対向車線側に釆女一里塚跡碑を発見。あやうく見逃すところだった。江戸日本橋から101里目(約397km)、京三条大橋からは24番目(実測で約100km地点)となる一里塚。現在は一里塚どころか旧東海道の面影すら残していない。


旧東海道 釆女町
釆女一里塚跡の少し先、国道1号から旧東海道が右に分かれる。丘陵を緩やかに下る国道を左下に見ながら平坦な旧道を進む。


旧東海道より四日市市街を望む
旧東海道より四日市市街を望む。


血塚社
杖衝坂の手前、血塚社の鳥居が目に留まる。


日本武尊御血塚
日本武尊御血塚。傷つきながらも杖衝坂を登りきった日本武尊が、ここで血を洗い流したと伝わる。


杖衝坂
杖衝坂に差し掛かる旧東海道。


杖衝坂
丘陵から内部川の低地に向かって急勾配を下る杖衝坂。


杖衝坂の芭蕉句碑
歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな

杖衝坂の芭蕉句碑。宝暦6年(1756年)村田鵤州による建立。貞享4年(1687年)松尾芭蕉は紀行”笈の小文(おいのこぶみ)”の道中、伊賀へ向かう途次に杖衝坂を馬で登っていたところ、落馬の憂き目にあってこの句を詠んだ。芭蕉が咄嗟のことで季語が入らなかったことを弁解していることで知られる。


杖衝坂03
舗装こそされてはいるが、急坂に日本武尊の故事を偲ぶ杖衝坂。


大日井戸と弘法井戸
杖衝坂には弘法大師の伝説も。水に窮していた村人が、弘法大師が杖で指し示す場所を掘ったところ、清水が湧き出たという”弘法の井戸”が今も残る。その井戸の下手にもう一つ井戸があり、こちらは”大日の井戸”と呼ばれる。地元の伝承ではかつて坂の中腹にあった大日堂の閼伽水(あかみず、仏に手向ける水のこと)として使われた井戸だという。


杖衝坂
杖衝坂を下る旧東海道。


うつべ町かど博物館
坂の途中に”うつべ町かど博物館”。内部(うつべ、明治22年(1889年)采女・小古曽・貝塚・波木・北小松の5ヶ村が合併して内部村となる)地区の歴史や文化を伝える。訪問時には残念ながら閉館しており見学できず。

うつべ町かど博物館(内部地区ホームページ)
http://www.utsube.jp/tiikinodantai/dantai/matikadomuseum/machikadotoppage/machikadotoppage.html

杖衝坂の金刀比羅宮
杖衝坂の上り口に鎮座する金刀比羅宮。


旧東海道 釆女町
杖衝坂を下りきって旧道は右折。杖衝坂下から成満寺参道入口にかけての旧東海道筋は、旧采女村の集落が軒を連ね、立場が置かれていた。


旧東海道 釆女町
旧采女村の集落内、旧東海道は連続して鉤の手に曲げられている。


成満寺
参道の向こうに成満寺。


旧東海道 釆女町
旧釆女村の集落北(江戸方)外れを行く旧東海道。この先、国道1号から内部川対岸にかけての旧道は消失。


菊屋本店
杖衝坂付近、国道1号沿いにある菊屋本店。

菊屋本店http://www.kikuyahonten.com/original2.html


采女の杖衝
菊屋本店で銘菓”采女の杖衝”を購入、腹が減っていたこともあり早速食す。杖衝をイメージしたごく普通の最中と思いきや、中にはつぶ餡に混じって餅が入っており、これがアクセントになって最後まで飽きずに食べられる。秀逸な最中だ。


内部橋
内部川を国道1号の内部橋で渡る。


采女橋跡
内部橋より内部川上流を望む。元禄16年(1703年)作成の東海道分間絵図を見ると、かつて内部橋付近の内部川は2筋の流れで、”つえつき川”と呼ばれ、東海道の渡河地点には連続して2つの石橋が架けられていた。この石橋が采女橋と呼ばれていたようだ。内部橋から50m程上流部が采女橋跡にあたる。


旧東海道 釆女町
内部川左岸から北東へ延びる旧東海道。


旧東海道 釆女町
采女町と小古曽町の境付近、かつての東海道筋は小藪という集落で、現在は字名に地名を残す。


旧東海道 内部駅前
采女町から小古曽町に入り内部駅前を進む。


旧東海道 小古曽2丁目
小古曽2丁目の旧東海道筋は旧小古曽村の集落が軒を連ねた村の中心部、河村家が代々庄屋を務めていた。河村家は寛政年間(1789年~1801年)に”大人良薬 天元養気円”や”小児薬 健脾円”等の薬を開発、上方で重宝されて広く世間に知れ渡ったという。


米田山願誓寺
真宗高田派、米田山願誓寺。本堂と庫裡は寛政4年(1792年)の再建。建築や彫刻に長じていた第十世義道自らが再建されたとも。聖徳太子作と伝わる阿弥陀仏を本尊に祀る。


旧東海道 小古曽町2丁目
旧小古曽村の集落内、旧東海道は連続して鉤の手に曲げられ、江戸方の曲がり角には「左追分 右大治田」の道標が残る。東海道から大治田村(現 四日市市大治田)へ至る道が分岐していた。写真左折が旧東海道、直進の小路が大治田道旧道。


大治田道道標
「左追分 右大治田」と刻む道標。大正期、服部泰次郎による建立。


旧東海道 小古曽2丁目
小許曽(おごそ)神社参道入口と旧東海道。


小許曽神社
延喜式内社の小許曽神社。古来より伝わる「粥試し神事」が毎年1月に行われ、その年の作物の出来栄えを占う。


慈現山観音寺
黄檗山萬福寺(京都府宇治市)の末寺、慈現山観音寺。織田信長の兵火を免れた千手観音像を本尊に祀る。本堂は文化3年(1806年)の再建とみられ、山門は棟札より寛政12年(1800年)建築と判明している。四脚門の山門は屋根両端にマカラ(インド神話に登場する怪魚)を載せ、黄檗宗の特色を示す。


米田山大蓮寺
真宗高田派、米田山大蓮寺。本堂は文化10年(1813年)の再建、快慶作と伝わる阿弥陀如来立像を本尊に祀る。


旧東海道 小古曽1丁目
旧小古曽村の集落江戸方(北側)を行く旧東海道。


旧東海道 小古曽1丁目
重盛外科内科を過ぎれば四日市市小古曽から追分へ。


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日永の追分

【2014年5月3日(土)旧東海道 石薬師宿→四日市宿 道中】
四日市市小古曽から追分に入って間もなく、追分という地名の由来になった日永の追分に。日永三郷(日永・六呂見・泊の3ヶ村を指す)の一つ、旧泊村(現 四日市市泊町)の枝郷だった追分は、東海道から伊勢街道が分岐する日永の追分があり、古くから伊勢参りを目的に多くの旅人が往来、追分近辺には鍵屋や浅草屋、尾張屋、野口屋等の旅籠が街道沿いに並び、名物の追分まんじゅうを食べさせる茶屋等もあって間の宿として賑わった。今も伊勢神宮の遥拝鳥居が立ち、嘉永2年(1849年)建立の追分道標等が残る。遥拝鳥居に隣接して設けられた手水所で、こんこんと落ちる水は”追分鳥居の水”と呼ばれ、ここから500m程西に位置する丘陵地、泊山からの湧水。昭和4年(1929年)稲垣末吉という地元出身の事業家が自費で水道管を敷設し、泊山の湧水をここまで引いてきたのがはじまりで、今も多くの人がその水を求めて訪れる。


より大きな地図で 日永の追分 を表示


泊第7号踏切
四日市市追分3丁目で三重県道407号に合流、泊第7号踏切を渡る。


日永の追分
日永の追分に。右方向が旧東海道の県道407号、鳥居下を潜り抜けて先に続く道が旧伊勢街道である。旅籠や饅頭屋が並び賑わった間の宿も今は昔。最近まで名物の追分まんじゅうを製造販売する岩嶋屋があったが、現在は廃業してしまいその味を堪能することはできない。残念なことだ。


隷書東海道五十三次 四日市・日永村追分
隷書東海道五十三次 四日市「日永村追分」。三重県立美術館ホームページより。遥拝鳥居の両脇に”名物まんぢう”の看板を掲げる店があり、店内では客がくつろぎつつ饅頭を食べている。

三重県立美術館
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/index.shtm

伊勢神宮遥拝鳥居
伊勢神宮遥拝鳥居。桑名の一の鳥居に次ぐ二の鳥居にあたる。初代の鳥居は安永3年(1774年)の奉献、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮の度に建て替えられ、現在の鳥居は昭和48年(1973年)式年遷宮の折、伊勢神宮内宮の別宮の一社、伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を昭和50年に移設したもので9代目にあたる。この鳥居も約40年の年月を経ており、そろそろ10代目へ建て替えの計画があるのかも。


日永の追分道標
嘉永2年(1849年)建立の追分道標。「右京大坂道 左いせ参宮道」と刻む立派な道標。道標隣の常夜燈は初代遥拝鳥居の奉献時には存在していたと考えられている。「ひたり さんくう道」と竿石に刻む。


追分鳥居の水
日永追分の手水所。追分鳥居の水を求めて、次々と水を汲みに人が訪れる。


追分鳥居の水
こんこんと流れ落ちる追分鳥居の水。


日永の追分
伊勢神宮遥拝鳥居下から旧東海道(三重県道407号・国道1号)を望む。


東海道日永郷土資料館
日永の追分を後にし、旧東海道を江戸方へ向かって間もなく、東海道日永郷土資料館が右手に。袖蔵を備える旧商家の建物を借用し資料館として整備された。日永の土産物として知られた”日永足袋”や”日永うちわ”をはじめ、日永地区に関する歴史民俗資料等を展示しているとのことだが、開館時間を過ぎていたため見学できず。


伊勢蔵
醤油・味噌を製造販売する伊勢蔵。


旧東海道 近鉄泊駅入口
近鉄泊駅入口付近を行く旧東海道。


東海道名残の一本松
旧東海道の先に一本松が目に留まる。


東海道名残の一本松
かつて泊村集落と日永集落の間は松並木の縄手道で、この一本松だけが今に残り往時を偲ぶ。東海道名残の一本松と呼ばれる。


旧東海道 日永5丁目
日永5丁目の旧東海道にて。電柱に「カラスの巣残置中」の貼り紙。


日永5丁目の電柱にて
見上げると確かにカラスの巣らしきものが。何かと嫌われ者のカラスであるが、中には卵があるのか、ヒナがいるのか、情け心から撤去できなかったのだろう。


日永一里塚跡
旧日永村の集落に入って間もなく、「史跡日永一里塚址」の碑が家と家の狭い隙間に立つ。


日永一里塚跡
江戸日本橋から100里目(約393km)、京三条大橋からは25番目(実測で約105km地点)となる日永一里塚跡。東海道分間絵図を見ると東塚に榎1本、西塚に榎1・松3本が塚上に植えられていたことがわかるが、現在は跡形も無い。


旧東海道 日永4丁目
旧日永村集落。東海道を往来する旅人相手に日永足袋や日永うちわ、なが餅を売る店があった。中でも日永うちわは伊勢参詣客に人気の土産品で、全盛期には10数軒の製造元があったが、現在は「稲藤」の1軒が残るのみ。なが餅は笹井屋が四日市北町の旧東海道三滝橋南詰に場所を移して製造販売を続ける。日永足袋は製造されていない。


長命山薬師堂
長命山薬師堂。伊勢安国寺(四日市市西日野町に跡地)の薬師如来坐像を安置する。この薬師如来坐像は天正年間(1573年~1592年)伊勢安国寺炎上の時、千種忠治が運び出して日永の実蓮寺に安置、文化13年(1816年)実蓮寺近くの現在地に移されたと云う。鎌倉時代中期の制作と考えられている。


日永神社
天照大御神を主祭神に祀る日永神社。元は南神明社と称し、明治40年(1907年)現社名に。創祀は建仁年間(1201年~1204年)と云われるが、織田信長による兵火で古記録や神宝類が焼失したため沿革は不明とのこと。


旧東海道 日永4丁目
日永4丁目を行く旧東海道。


林光山両聖寺
林光山両聖寺。四日市市の無形文化財に指定される”日永つんつく踊り”が毎年お盆に境内で披露される。”日永つんつく踊り”は古くから日永に伝わる踊りで、その起源は天白川に築堤する際の地搗き歌とも、実蓮寺境内に滝川一益の母の隠居所を建築する際の地搗き歌にあるとも伝わる。


天白橋
天白橋で天白川を渡る。


天白橋より
天白橋より西の空を望み。


天白橋北詰
天白橋北詰。


日永山興正寺
真宗高田派、日永山興正寺。天正2年(1754年)に旧地(津の一身田)より現在地へ移って以来、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の保護を受けた。天白川の流れが境内の西・南辺を囲むように流れているのは、天白川築堤の際、滝川一益の命により堀の役目とするよう川筋を曲げたことが理由と伝わり、昔の人はこの堤を滝川堤と呼んだという。


旧東海道 日永2丁目
日永2丁目を行く旧東海道。


水沢道旧道分岐
東海道から水沢(すいざわ、現 四日市市水沢町)方面へ至る道が分岐していた。写真直進方向が旧東海道、左折が水沢道旧道。分岐点に水沢道標が残る。


水沢道標
水沢道標。約200年前に大坂の古銭収集家、河村羽積が建立。碑表面には「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽積み」、裏面に「猿丸大夫名歌古跡すい澤へ是より三里」と刻む。水沢には楓谷(もみじだに)という紅葉の名所があり、古来より多くの文人墨客が訪れた。三十六歌仙の一人、猿丸大夫が楓谷で詠んだという名歌を下に紹介。小倉百人一首の第5番。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき


うどん岡廣屋
日永1丁目、うどん岡廣屋の前を通り抜けて。


大宮神明社
日永神社と同じく、天照大御神を主祭神に祀る大宮神明社。 元は舟付明神と称し、昔は麓に海が迫っていた岡山の地(現 四日市南高校)にあり、永禄5年(1562年)焼失して現在地へ遷座した。摂社の二柱大神社は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)を祭神に祀り、病気平癒の神として名を知られる。


旧東海道 日永1丁目
鹿化橋南詰、日永1丁目の旧東海道。


鹿化橋
鹿化(かばけ)川を鹿化橋で渡れば日永1丁目から赤堀南町に。


鹿化川夕景
鹿化川夕景。


落合橋
赤堀南町と赤堀1丁目の境を流れる落合川に架かる落合橋。この橋を挟んで両側の旧東海道沿いは旧赤堀村の集落が軒を連ねていた。


鈴木薬局(旧鈴木製薬所)
寛延3年(1750年)旧赤堀村東海道沿いの現在地に創業、吸い出し薬の赤万膏・無ニ膏を製薬する鈴木薬局(旧鈴木製薬所)。代々勘三郎の名を受け継ぎ、250年以上もの長きにわたり製薬業を営む。現在の建物は嘉永5年(1852年)の建築。


旧東海道 南浜田町
南浜田町を行く旧東海道。


旧東海道 中浜田町
中浜田町を行く旧東海道。


旧東海道 浜田町
現在の四日市市浜田町は旧浜田村の集落中心部。四日市宿に隣接する旧浜田村は、鵜森神社前の旧東海道筋を中心として南北に町並みを発展させ、幕末には現在の浜田町・中浜田町・南浜田町にわたり町並みを延ばした。


表参道スワマエ入口
旧東海道は表参道スワマエとなりアーケードの道に。この辺りが四日市宿京方出入口と思われる。


表参道スワマエ
表参道スワマエを通って諏訪神社に着いたところで本日の歩き旅は終わり。


近鉄四日市駅
近鉄四日市駅から津駅へ移動、宿泊先のホテルサンルート津に。


【旧東海道歩き 第8日目】JR加佐登駅→庄野宿→石薬師宿→四日市宿→近鉄四日市駅 歩行距離約18km
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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