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四日市宿

【旧東海道歩き 第9日目】近鉄四日市駅→四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡→JR桑名駅



【2014年5月4日(日)旧東海道 四日市宿】
前日は四日市宿まで歩いたところで終了。ゴールデンウィーク中のため四日市駅周辺に宿泊予約ができず、僅かに空室があったJR津駅前のホテルサンルート津に宿を取った。三重県の県庁所在地であり、日本で一番短い市名で知られる津市、この地にある津駅は当然ながら日本一短い駅名。JR紀勢本線と近鉄名古屋線が乗り入れ、三重県の中心部といえる駅前なのだが、人もまばらでそれほど栄えていない。繁華街は津駅から少々離れた津観音周辺の大門にあるようだが、近年は他の地方都市と同様、郊外のショッピングモール等に客足を取られ衰微しているらしい。そんな津市で一夜を過ごしてホテルサンルート津を出発、津駅から近鉄四日市駅へ移動し旧東海道の歩き旅を再開する。前日に引き続き天気は上々、絶好のウォーキング日和になりそうだ。

四日市は室町時代末期から毎月4の付く日に市が立ち、隣接する四日市湊は廻船の母港として発達、市場町と港町の両面を併せ持ち、その相乗効果で発展してきた。当時は四日市場村と称したが、慶長6年(1601年)徳川家康により東海道に宿駅伝馬制度が敷かれると、宿駅に定められ宿場町としての性格を強めてゆく。京方外れの日永追分で東海道から伊勢街道が分岐、江戸期に流行した伊勢参りの旅人が多く往来し、宿場は大変な賑わいをみせた。明暦年間(1655年~1658年)に約700軒だった家数は、天和3年(1683年)872軒、元禄12年(1699年)1178軒、享保9年(1724年)1272軒、享和元年(1801年)1580軒、弘化4年(1847年)1839軒と江戸期を通して町は発展を続け、東海道を代表する大宿となる。天保14年(1843年)当時の人口7114人、家数1811軒、本陣2、脇本陣1、旅籠98軒。東海道に面する北町・南町と、浜往還沿いの竪町(立町)・中町・浜町が町の中心をなし、一番本陣は北町の清水太兵衛家が江戸期を通して務め、二番本陣は変遷あって江戸後期には南町の黒川彦兵衛家が務めた。四日市は江戸期のほとんどを幕府直轄領とされ、堅町に四日市陣屋(現 中部西小学校)が設けられていたのも特徴の一つ。名物・名産は日永うちわ、なが餅等。


より大きな地図で 四日市宿 を表示


津駅
津駅から近鉄名古屋線の電車に乗車し四日市駅へ移動。


近鉄四日市駅
近代的な駅舎ビルの近鉄四日市駅。


表参道スワ栄
表参道スワ栄の入口から旧東海道歩きを再開。


表参道スワ栄
人通りもまばらに静かな朝を迎える表参道スワ栄。アーケード商店街と化した旧東海道は、諏訪神社の表参道でもある。


表参道スワマエ
表参道スワマエ。表参道スワ栄・スワマエの旧東海道筋は旧新田町にあたる。元は浜田村の一部で、江戸時代初期には松並木の縄手だったが、四日市宿の発展に伴って町場化し、宝永年間(1704年~1711年)頃には町として成立していたという。


諏訪神社
建仁2年(1202年)信州諏訪大社の御分霊を勧請して創建したと伝わる諏訪神社。四日市開拓以来の産土神。


旧東海道 諏訪栄町
諏訪栄町、国道1号付近の旧東海道。この先、直線に旧東海道は延びて四日市宿の南町に入っていたが、国道1号に分断されたうえ、一部宅地化して消失。


八宝ビル
諏訪栄町の国道1号から旧東海道が京方面に分岐する地点。その分岐点中央にある八宝ビル1階の”八ちゃん”で朝食をとることに。


八ちゃん
何だか懐かしい感じがする”八ちゃん”店内。ご主人に話を伺ったところ43年間この店をやってるとか。高校生の頃、しばしば帰宅途中に寄り道し、焼きそばを食べていた店を思い出す。


八ちゃんにて
モーニングをいただきました。なんと270円!


旧南町の旧東海道消失地点
四日市市中部(旧南町)の旧東海道消失地点。写真右奥(京方)から左手前にかけて旧東海道が通っていた。


旧東海道 四日市市中部
中部側(江戸方)から旧東海道消失地点を望む。旧東海道は写真中央部を進み八宝ビル横に通じていた。この辺りが旧南町の京方入口にあたる。


東海道道標
旧南町京方入口付近、旧東海道消失地点に残る文化7年(1810年)建立の道標。「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」と刻む。元は東海道と浜街道が交差する札の辻にあったらしい。


四日市宿 旧南町
旧南町の町並み。この辺りは室町時代に四日市庭浦(州浜・四日市湊)へ通じる浜往還と、東海道が交差する四つ辻の南側に発達した市場町で南市場と称す。江戸時代になって四日市宿が成立し、寛文3年(1663年)南町と改称、江戸後期には二番本陣の黒川彦兵衛家をはじめ、定飛脚の黒川彦左衛門家、問屋場や脇本陣があった。南町と北町に旅籠が集中していたことから、両町は旅籠屋町とも通称された。


黒川本陣跡
旧南町の東海道筋西側、二番本陣の黒川本陣跡(黒川農薬商会)。文化8年(1811年)二番本陣の太田家が没落し、代わって脇本陣だった黒川彦兵衛家が二番本陣へ格上げされた。ここから西方向近くの薬師寺に本陣門が移築されている。


四日市宿札の辻
四日市宿札の辻から旧南町方面を望む。直進方向が旧東海道、左右に交差する道が浜往還旧道。室町期にこの四つ辻を中心に南市場・北市場・竪市場が開設され市場町として発展、後に四日市宿が大宿となって繁栄する起源ともいうべき場所だ。宿場の中心をなす南町と北町の境にあたり、北西角に清水本陣(右手前角)、南西角に帯屋脇本陣(右奥角)、北東角(左手前角)に高札場があって、北東一帯(現 中部西小学校)には四日市陣屋が設けられていた。


清水本陣跡と札の辻
札の辻から北町方面を望む。写真左奥角の一帯が清水本陣跡で、出入口の本陣門は浜往還に面して建てられていた。


福生医院
清水本陣跡の北側、東海道筋にある福生医院。様々な東海道関連のホームページ等に福生医院が問屋場跡の記述があるが、その根拠となる資料が見当たらない。角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。」との記述があり、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれている。脇本陣の位置については両資料で合致しているが、問屋場の位置が合致しない。宿場の拡大に伴い問屋場の場所も移り変わったのだろうか。


近藤建材店
福生医院と同じく、様々な東海道関連のホームページ等に脇本陣の帯屋跡と記述されている近藤建材店(写真右手前)。こちらもその根拠となる資料が見当たらず、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった。」の記述を信用したい。そもそも、四日市宿の本陣・脇本陣・問屋場をはじめとする旧跡に解説板等が設置されていないことが問題、旧宿場を感じさせる建物も残っておらず、せめて訪れた人のためにもう少し配慮があってもいいように思う。


笹井屋
北町の北端付近、三滝橋南詰にある笹井屋。天文19年(1550年)創業。元は日永の鹿化川南側にあり、その地名に因んで名付けられた”なが餅”を製造販売する。

なが餅 笹井屋
http://www.nagamochi.co.jp/menu.htm

なが餅
昔からの四日市名物”なが餅”。小豆餡を包んだ餅を平たく長くのばしているのが特徴。表面が軽く焼かれており、噛みごたえと口に含んだ後の柔らかなモチモチ感が絶妙、小豆餡の甘さも適度でいくらでも食べられる感じ。文句なしに星三つ。


三滝橋
四日市宿北町の北端に架かる三滝橋。昔は”すへつち橋”


東海道五十三次 四日市・三重川
諏訪神社境内の解説板より。広重の浮世絵、保永堂版の東海道五十三次・四日市は「三重川」の副題を付け、強風が吹きつける中、三重川(三滝川)の木橋を渡る旅人の様子を描く。浮世絵に描かれる橋は簡素な木橋、当時の東海道は人馬の往来が激しく、しっかりとした木橋が架かっていたはず。構図の場所は東海道ではないとの説が有力のようだ。


旧東海道 四日市市川原町
三滝橋から三瀧川左岸の川原町を望む。角川日本地名大辞典(旧地名編)の「川原町(近世~近代)」から要約すると、川原町は江戸時代に末永村の一部で戸数9軒っだことから九軒町と称し、四日市町の発展に伴って町場化、四日市町の1町として扱われたとあり、寛文年間(1661年~1672年)の絵図にその町名が見えるという。ただし、元禄16年(1703年)の東海道分間絵図の川原町辺りを見ると、”七つや”という地名が記されている。


三瀧屋
三滝橋北詰にある三瀧屋。元禄年間(1688年~1703年)の創業、”文藏餅”で有名なようだが、店が開いておらずその味を知ることはできなかった。


嶋小餅店
三瀧屋から旧東海道を少々北へ行ったところに嶋小餅店。こちらは文政年間(1818年~1830年)創業という。


嶋小のだんご
嶋小のだんご。柔らかな醤油の香ばしい焼団子。


モンパー洋菓子店
モンパー洋菓子店と宝来軒本店。洋菓子店と和菓子店が同居する珍しい形態。ここで”大入道せんべい”が目に留まり、思わず購入。


大入道せんべい
これが”大入道せんべい”。大入道は古来より日本各地に伝わる妖怪、江戸時代には草双紙等に描かれ庶民に親しまれた。かつて諏訪神社の例祭、四日市祭では各町30基もの山車や屋台が曳き出され、その1基に桶之町(現 中納屋町)の大入道山車があった。この山車は文化2年(1805年)名古屋のからくり人形師による制作と伝わり、首を伸ばしたり、舌を出して目を剥く等の仕掛けが施され、祭りに訪れた人々を楽しませたという。戦災によって山車・屋台のほとんどが焼失する中、大入道山車は焼失を免れ、現在は県指定有形民俗文化財として保存。毎年8月第1日曜日に行われる”大四日市まつり”の郷土文化財行列で見ることができる。


旧東海道 四日市市京町
四日市市川原町から京町へ。


法泉寺
四日市市京町にある法泉寺。明治元年(1868年)鳥羽伏見の戦いで幕府方の桑名藩は敗れて恭順を決め、先代桑名藩主松平定猷(さだみち)の嫡子万之助(後の松平定教)は家老を引き連れて四日市の新政府軍陣営に出頭、ここ法泉寺に幽閉された。当時の遺品が残り寺宝となっている。


旧東海道 四日市市浜一色町
海蔵川右岸、浜一色町を行く旧東海道。


海蔵川
浜一色町の北端で海蔵川に突き当たる。旧東海道筋に橋が無いので、少し上流部の海蔵橋へ迂回。


海蔵橋
国道1号が通る海蔵橋。


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ジャンル : 旅行

富田の焼き蛤

【2014年5月4日(日)旧東海道 四日市宿→桑名宿】
海蔵川を渡って旧東海道を北へ。かつては海蔵川に架かる橋の北詰に三ツ谷一里塚があり、三ツ谷の小さな集落が軒を並べる。その先、縄手道を挟みながら羽津(はづ)村と茂福(もちぶく)村を経て東富田村・西富田村に。四日市宿と桑名宿の中間に位置する東富田村・西富田村の両村は、間の宿として茶屋や旅籠が軒を連ね、店頭では伊勢湾産の良質な蛤が、松ぼっくりを燃料にして盛んに焼かれた。江戸時代に広く知れ渡った名物”富田の焼き蛤”である。その香ばしい匂いに誘われて、旅人はたまらず焼き蛤を頬張ったことだろう。「東海道中膝栗毛」にも登場し、富田に着いた弥次喜多は、茶屋に入って焼き蛤をおかずに飯を食う。そこで茶屋の女中とのやり取りが書かれているのだが、女中の尻は触るわ、ハマグリにかけて下ネタを言うわで、助平オヤジっぷりを存分に発揮。その罰が当たったのか、焼き蛤をのせる皿がひっくり返り、その拍子に熱々の焼き蛤が弥次の懐へ。終いにはそれが弥次の股間まで落ちて、喜多に焼き蛤と共に金の玉まで掴まれてしまう始末…。そんな富田の焼き蛤、現地で食べてみたいと思うのは当然の流れ、さてさて。


より大きな地図で 富田の焼き蛤 を表示


三ツ谷一里塚跡
海蔵川左岸、土手横にある三ツ谷一里塚跡。旧東海道筋の橋跡北詰にあり、江戸日本橋から99里目(約389km)、京三条大橋からは26番目(実測で約110km地点)となる一里塚。


三ツ谷多度神社
三ツ谷に鎮座する多度神社。江戸期より三ツ谷の住民は多度大社(桑名市多度町)の崇敬篤く、明治18年(1885年)御分霊を祭祀しここに多度神社が創建された。


国道1号 四日市市三ツ谷町
三ツ谷町交差点の国道1号。三ツ谷の地は羽津村の3軒が移り住んだのが始まりで、三ツ家や三屋等を称し、東阿倉川村の枝郷だった。


大矢知道分岐
国道1号から大矢知方面へ至る大矢知道旧道の分岐点。道標が残る。


大矢知道道標
大矢知道の分岐点に残る道標。大正14年(1925年)建立。「右桑名 左四日市 道」「右四日市 左大矢知 道」と刻む。


旧東海道 四日市市城山町
四日市市城山町と羽津町の境、備長扇屋の横から旧東海道が分岐する。


旧東海道 四日市市城山町・羽津町
四日市市城山町・羽津町の境をなす旧東海道。この辺りが旧羽津村集落の京方入口にあたる。


光明寺
光明寺。元は大矢知村青木谷にあり、弘法大師空海が小堂を建てたのが始まりと伝わる。享禄年間(1528年~1531年)現在地へ移り、天正年間(1573~1591年)に真宗高田派から本願寺派へ改宗したとされる。


志氐神社参道入口
志氐(しで)神社参道入口付近の旧東海道。参道入口に鳥居が立つ。ここに一対の夫婦石が祀られており、鳥居横に1つ、旧東海道を挟んで向かいにもう1つがある。撫でれば良縁にご利益があるという。


志氐神社参道
志氐神社参道。垂仁天皇の御代(紀元前29年~70年)に勧請されたのが始まりと伝わる志氐神社。天武天皇がこの地で伊勢神宮を遥拝した折、班幣(はんぺい、神前に捧げる進物の幣帛を分けること)の神事が行われたことが神社名の由緒という。”しで”とは幣帛を指す言葉らしい。天正年間(1573年~1592年)には豊臣秀吉が戦勝祈願を行っている。


旧東海道 四日市市羽津町
旧羽津村の集落を行く旧東海道。


堀切橋
堀切橋辺りが旧羽津村集落の江戸方外れにあたる。この先は松並木の中に八幡村(羽津村の枝郷、現 四日市市八田)の集落があり、次の茂福村へ続いていた。


かわらずの松
松並木の名残、路傍に残る一本松。昔はこの辺りの地名を”川原須(かわらず)”と言ったので、”かわらずの松”と名付けられた。


地蔵堂と伊勢国八幡神社碑
四日市市八田2丁目の東海道筋にある地蔵堂と伊勢国八幡神社碑。かつては八幡村という村名の由来になった八幡神社が鎮座していた場所で、この碑が往時を偲ぶ遺物として残されている。明治41年(1908年)八幡神社は志氐神社に合祀された。


米洗橋
米洗(よない)橋南詰。


米洗橋と常夜燈
米洗川に架かる米洗橋。その北袂には常夜燈が置かれている。


米洗川にて
米洗川にて。米洗川という川名の由来は志氐神社の天武天皇伝説に関係があるようで、天武天皇が伊勢神宮遥拝に供える御神酒を作るため、住民に麹づくりを教え、この川で麹にする米を洗ったと伝わる。また、川底の砂が白く、洗米しているように見えたからとも。


八田三丁目西交差点
八田三丁目西交差点を行く旧東海道。この辺りは昔、松並木だったはず。


茂福神社参道入口
四日市市茂福(もちぶく)町に入って間もなく、茂福神社の参道入口に。


茂福神社参道
茂福の産土神、茂福神社への参道。茂福神社は元禄16年(1703年)の東海道分間絵図に天王社と記されており、現社名に改称されたのは明治28年(1895年)のこと。明治42年(1909年)鳥出神社に合祀されたが、地元住民の懇願あってのことか、昭和25年(1950年)鳥出神社から祭神を分祀し、茂福神社は再興された。


前川橋
前川橋を渡り旧茂福村の集落中心部へ入る。


旧東海道 四日市茂福町
旧茂福村の町並み。旧東海道は連続して鉤の手に曲げられている。


證圓寺
林光山證圓寺。はじめは天台宗だったが、天文年間(1532年~1555年)浄土真宗本願寺派に改宗したと伝わる。戦国時代末期、茂福城主の茂福盈豊(もちぶくみつとよ)が織田信長家臣の滝川一益に伊勢長島で謀殺され、後に茂福城は落城。盈豊の遺児は家臣に匿われて逃れ、後にその子孫が證圓寺住職を務めたという。


茂福町の力石
鉤の手に曲がる旧東海道筋に力石が置かれる。


茂福町の力石
茂福町の力石。江戸期から昭和初期まで、力自慢たちがこの石を担ぎ競い合った。力石には”三十二メ”と刻まれ、およそ32貫(約120㎏)の重さがあるようだ。これを担ぎ上げた力自慢が幾人かはいたらしい…。


常照寺
光明山常照寺。天文7年(1538年)開山、寛文年間(1661年~1673年)天台宗から浄土真宗本願寺派に改宗した。本堂は明治42年(1909年)の再建、鐘楼と山門も明治末期の建築。鐘楼の鐘は昭和27年(1952年)の四日市大博覧会で展示されていた”平和の鐘”を譲り受けたもの。


旧東海道 四日市茂福町
四日市茂福町を行く旧東海道。


薬師寺
大同年間(806年~810年)の頃、流行する疫病平癒のため、弘法大師が自ら彫ったと伝わる薬師如来を本尊とする薬師寺。戦国期に茂福城主朝倉盈盛(みつもり)は、ここに安置されていた薬師如来を本尊として浩恩寺を興したが、後に滝川一益の兵火により焼失。本尊は難を逃れ、後に桑名船場町十念寺の芳誉上人によって再興されたという。現在、本尊薬師如来は秘仏。


旧東海道 南富田町
薬師寺辺りから旧東海道は南富田町に。


南富田町の常夜燈
十四橋南詰に残る南富田町の常夜燈。天保10年(1839年)建立。


十四橋
十四橋を渡って。昔はこの辺りから蛤を焼く香ばしい匂いが漂ってきたはず。


十四川堤の桜並木
十四川堤の桜並木。約800本のソメイヨシノが十四川沿いに植えられる。満開の時期には多くの花見客が訪れ大変な賑わいをみせるらしい。


善教寺
浄土真宗高田派、成徳山善教寺。本尊の阿弥陀如来像は仁知2年(1241年)藤原実重を施主にして菰野杉谷の地で開眼、元亀2年(1571年)織田信長の兵火から逃れ、この地に安置されたと伝わる。国指定重要文化財。


北村地蔵堂
善教寺境内にある北村地蔵堂。


明治天皇御駐輦跡
明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡。明治元年(1868年)京都から東京へ向かう途次の明治天皇が、ここ富田茶屋町の広瀬五郎兵衛宅で御小休、富田の焼き蛤をご賞味した。現在の富田小学校正門辺りから富田地区市民センターにかけての旧東海道沿いが広瀬五郎兵衛宅跡にあたる。


富田の道標
富田小学校敷地内に残る大正6年(1917年)建立の道標。「右 富田一色 東洋紡績 川越村 道」と刻む。元々は富田3丁目、旧東海道の丁字路にあったのではないかと思われる。左に行けば旧東海道、右に行けば富田一色や川越方面で、東洋紡績富田工場(現 イオンモール四日市北の周辺一帯)跡に至る。


旧東海道 四日市市富田
富田小学校辺りはかつて富田茶屋町と呼ばれた地で、東海道に沿って茶屋や旅籠が軒を連ね、店頭では蛤が盛んに焼かれていた。松ぼっくりを燃料にしていたというのも興味深い。しかし、どこかで富田の焼き蛤を出す店がないかと探してはみたが、”喜多”という期待を抱かせる名の居酒屋はあったものの、焼き蛤の文字を見つけられず。今となっては富田の焼き蛤を食べることは夢のまた夢なのか…。


富田菓庵清華堂
四日市市富田3丁目の東海道筋にある富田菓庵清華堂。ここで焼き蛤の代わりに”ほほえみパイ”なる菓子を購入。

富田菓庵清華堂
http://pr-mie.net/seikado/


ほほえみパイ
早速、”ほほえみパイ”を賞味。小倉餡をパイ生地に包むこの菓子、マジでやばいくらいの美味。


旧東海道 四日市市富田02
旧東海道はこの丁字路を左折、右に曲がれば東洋紡績富田工場跡・富田一色・川越方面への道である。


富田飯店
富田の旧東海道沿いにある富田飯店。間の宿だった富田地区の旧東海道筋には何軒かの飲食店も見られるが、焼き蛤を出す店は無いようだ。富田の焼き蛤、現代に復活できないものか…。


八幡神社址
富田3丁目に鎮座する八幡神社。弘安2年(1279年)東富田に応神天皇を祭神に勧請されたのがはじまり。敷地内の石碑には”八幡神社址”とあるのは、明治42年(1909年)鳥出神社に合祀されたため、その社殿跡に建てられたのがこの石碑。昭和40年(1965年)頃に現社殿が再建され祭神が戻されたという。


富田の一里塚跡
一里塚橋の南詰、「史蹟 富田の一里塚阯」と刻む碑が立つ。富田一里塚は江戸日本橋から98里目(約385km)、京三条大橋からは27番目(実測で約114km地点)となる一里塚。


旧東海道 四日市市西富田町
西富田町で旧東海道は右方向へ大きく曲がる。


西富田踏切
西富田踏切で関西本線を渡る。


鏡ヶ池跡
鏡ヶ池(笠取り池)の推定地。奈良時代の天平12年(740年)聖武天皇が伊勢行幸の折、この地で笠が風に飛ばされ池に落ちた。そこで洗濯をしていた娘がその笠を拾い上げた縁で、聖武天皇はここにあった田村家に宿泊。翌朝、出立する馬上の天皇と、見送る娘の姿が鏡のような水面の池に映り、印象的な光景だったとか。以来、この池を鏡ヶ池と呼ぶようになったと伝わる。


旧東海道 四日市市蒔田2丁目
蒔田交差点北側、蒔田2丁目を行く旧東海道。


長明寺
真宗本願寺派、朝明殿長明寺。境内の周縁には水堀と塀が廻らされる陣屋のような構造。元は近郷の豊田村(現 三重郡川越町豊田)にあり真言宗で潮音寺と称す。文明年間(1469年~1486年)頃に真宗へ改宗、慶長9年(1604年)に現寺号を称し、慶安4年(1651年)現在地に移ったと伝わる。山門前に架かる石橋は文化3年(1806)の築造。


龍王山法性寺
天平12年(740年)聖武天皇の勅願により創建と伝わる蒔田観音こと、龍王山法性寺。織田信長が長島一向一揆を鎮圧する伊勢侵攻の戦火に遭い焼失。後に小堂が建立されて再建されたが、正徳元年(1711年)に再び焼失したという。現在の本堂は文化11年(1814年)の建立であることが鬼瓦の刻銘からわかっている。


ヒロセタオル
四日市市松寺に入って間もなく、右手にヒロセタオル。


松栄山蓮證寺
浄土真宗本願寺派、松栄山蓮證寺。400年前ぐらいからここに御堂があり、現在の本堂は約200年前の建築と伝わる。この寺は旧松寺村(現 四日市市松寺)にあり、山号の”松”の字は地名と何か関係があるのではないかと、解説板に書かれていた。かつて、松寺村の集落から朝明川にかけての旧東海道筋は松並木の街道であり、近隣には松原町という地名も存在し、昔は海岸に近いこの辺りは松の生い茂る景勝地だったことが想像できよう。山号と地名はこの松並木か、海岸近くに自生していたに松の群生に由来していると思われる。


松寺の立場址
松寺の立場跡。かつての松寺村は、東海道沿いに茶屋等が軒を連ね立場が置かれていた。


タカハシ酒造
四日市市松寺2丁目、旧東海道筋にあるタカハシ酒造。文久2年(1862年)創業。ここで醸造する御神酒「三重の新嘗」は伊勢神宮へ奉納される。


旧東海道 四日市市松寺
旧松寺村の集落と旧東海道。


御厨神明社
松寺3丁目に鎮座する御厨神明社。


朝明橋
朝明橋を渡り四日市市から朝日町柿へ。


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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

カレンダー
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現在の行程

東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP
24日目(2016/10/9)島田宿→藤枝宿 MAP
25日目(2016/12/24)藤枝宿→岡部宿 MAP
26日目(2017/3/19)岡部宿→丸子宿→府中宿 MAP
27日目(2017/5/6)府中宿→江尻宿 MAP
29日目(2017/11/4)由比宿→蒲原宿 MAP
30日目(2018/2/11)蒲原宿→吉原宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

応援のコメントありがとうございました。(^人^)感謝♪
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