安永餅
【2014年5月4日(日)旧東海道 四日市宿→桑名宿】
朝明(あさけ)川を渡れば、四日市市から朝日町に入る。かつての東海道は朝明川から江戸方に向かって松並木が続き、やがて松並木が途切れると柿村・小向(おぶけ)村の集落に。両村は共に富田と同じく焼き蛤を出す茶屋があり、小向には立場が置かれていた。その両集落を抜けて再び松並木となった東海道は北東へ進み、一里塚があった縄生(なお)村の集落を経て員弁川(町屋川 )を渡河。その左岸から続くのが安永村の集落で、安永餅を名物にし、茶屋等で往来の旅人相手に売られて人気を博した。安永餅は先に紹介した四日市名物”なが餅”に良く似た餅菓子で、小豆餡を包んだ餅を平たく長くのばして表面を軽く焼く。小腹が空いた旅人には手頃で食べやすい格好のお菓子だったようだ。
より大きな地図で 安永餅 を表示

朝明川を渡って四日市市から朝日町へ。

朝明橋北詰に残る弘化3年(1846年)建立の常夜燈。「多賀神社常夜燈」「壽命長久」と刻む。

田植えの時期を迎えて。

朝日町柿を行く旧東海道。かつては松並木の街道だった。

殺風景な用水路に可憐に咲く白い花。この花が何なのか気になって調べてみたところ、”カラー”という花で、和名は”オランダカイウ”。江戸時代後期にオランダ船によって持ち込まれたのがこの和名の由来らしい。サトイモ科の多年草で、南アフリカが原産地。

八百利商店。

旧柿村の集落。かつてはこの辺りにも焼き蛤を出す茶屋があったはず。

柿の集落内で旧東海道は左右に連続して曲げられている。

西光寺前を行く旧東海道。

浄土真宗大谷派、朝明山西光寺。現存する絵像御本尊の裏書に本願寺第9世実如の判と日付があり、明応5年(1496年)の開基とされる。貞享2年(1685年)大谷派に転じた。現在の建物は明治初期から中期にかけてのもの。

朝日町柿を行く旧東海道。

朝日町小向に入ったところで小向山浄泉坊がある。浄土真宗本願寺派。慶長8年(1603年)小向の地にあった正治寺が再興されて現寺号に改称、寛永15年(1638年)に西本願寺より公称を許された。山門や瓦に三ツ葉葵が見られるのは、桑名藩主奥方の菩提寺になっていたことが理由とされ、参勤交代で通行する大名は門前で駕籠から降りて一礼したという。

浄泉坊山門の三つ葉葵。

橘守部誕生地遺跡。橘守部は平田篤胤、香川景樹、伴信友と共に天保の国学四大家に数えられる一人。日本書紀の注釈書「稜威道別(いつのちわき)」や、記紀歌謡の注釈書「稜威言別(いつのことわき)」等、多くの著書を残した。ここで生まれた橘守部は17歳で江戸に下って学問を志し、29歳の時に武蔵国の内国府間村(現 埼玉県幸手市)へ転居している。内国府間の名を久々に見て、日光街道を歩いた時を思い出す。ちょっと懐かしい。

旧小向村の集落、小向神社参道入口付近の旧東海道。かつて小向村には立場が置かれていた。

小向の四差路。旧東海道から北西(写真右奥方向)へ延びるのが小向神社参道、南東(写真左手前方向)に行けば旧朝日村の村役場庁舎(朝日町資料館)がある。

旧朝日村の村役場庁舎、朝日町資料館。この建物は大正5年(1916年)の建築。毎週水・土曜日しか開館していないため、日曜の本日は見学できず。

東芝三重工場を横に見ながら。

伊勢朝日駅付近、旧東海道筋に残る榎の古木。小向村と縄生村の集落間のこの辺りは松並木の街道だったが、他の松並木と同様、戦時中の燃料不足を補う松根油採取のために伐採されたり、松くい虫の被害等によって失われた。その松並木に雑じって植えられていた榎だけは残り、今に往時の様子を伝えている。

伊勢朝日駅前の解説板より。焼き蛤はこんな感じに東海道筋で売られていた。

近鉄伊勢朝日駅。

伊勢朝日駅前にある寺本商店。

明治43年(1910年)創業の安達本家酒造。「富士の光」を代表銘柄に数々の銘酒を醸造する。
安達本家酒造
http://www.fujinohikari.com/

江戸日本橋から97里目(約381km)、京三条大橋からは28番目(実測で約118km地点)となる縄生(なお)一里塚跡。両塚それぞれに榎が植えられていたが、遺構は現存せず。

旧縄生村の集落を行く旧東海道。

浄土真宗本願寺派、桔梗山真光寺。明暦3年(1657年)桑名藩主の松平定良が有馬温泉で湯治からの帰途に病死、遺体は桑名に向けて運ばれたが、町屋川の増水により渡河できず、ここ真光寺に遺体を三日間安置した。万治3年(1660年)松平定良の養嗣子で、次代桑名藩主となった松平定重は、その返礼として久松松平氏の家紋”梅鉢”を刻む大手水鉢を贈っている。

真光寺の大手水鉢。久松松平氏の家紋”梅鉢”を刻む。

橋本橋を渡り。

渡邊酒店の先で旧東海道は員弁川(町屋川)に阻まれる。

町屋橋跡。東海道の員弁川(町屋川)渡河地点に初めて架橋されたのは寛永12年(1635年)といわれ、享和2年(1802年)刊行の”久波名名所図会”に江戸時代当時の町屋橋を見ることができる。

町屋橋の解説板より。”久波名名所図会”に描かれる町屋橋。かつては町屋橋が中洲を挟んで架けられ、東海道を往来する旅人を渡した。川の両岸と中洲には茶店が並び、旅人は休憩がてらに安永餅や焼き蛤を味わったのだろう。

町屋橋より旧東海道町屋橋跡の員弁川(町屋川)を望む。江戸時代には立派な木橋が架かり、中洲に茶屋が建ち並んだのも今は昔。

旧東海道の町屋橋から下流に100m程、昭和8年(1933年)に架けられた国道1号の町屋橋を渡って。ここで朝日町から桑名市へ。

旧町屋橋跡の北詰にある御料理旅館すし清。安政3(1856年)東海道筋の茶店として創業したのにはじまり、現在は料理旅館となって営業を続ける。

黒猫に出会い。「何だ、こいつは。」と目で語っているような表情。

旧安永村集落の京方入口に残る伊勢両宮常夜燈。伊勢神宮遥拝を目的に、桑名や岐阜の材木商によって寄進された。文政元年(1818年)建立。常夜燈の前に立つ石柱は、明治26年建立の里程標で、正面に「従 町屋川中央地 桑名郡」と刻み、左右に三重県庁や桑名郡役所までの距離が示されている。

名物安永餅で賑わった旧安永村の集落。写真右手の料理旅館玉喜亭は、かつて安永餅を出す茶屋だったようで、旅人の目を楽しませてきたのだろう樹齢二百年を超える藤が今も残る。また、玉喜亭から街道を挟んで向かいの古民家は文政元年(1818年)の建築、安永餅を製造していた家で、竈や看板が現存しているという。

料理旅館玉喜亭の藤。花が満開に咲く季節に、安永餅を食べながら熱い茶でもすすりたい。

玉喜亭の向かい、安永餅を製造していた古民家。道より一段低い位置に建物があるのは、かつての東海道が現在より低い位置に通されていたため。

現在、安永地区で安永餅の販売はされていないが、永餅屋老舗が製造販売を続けており、三重・愛知県内にある直売店で購入できる。
永餅屋老舗「安永餅」
http://www.nagamochiyarouho.co.jp/index.html

国道258号下を通る旧東海道。先に旧安永村の家並みが続く。

旧安永村集落の北外れに鎮座する城南神社。

江場松原跡の旧東海道。かつて安永村と大福村の集落間は松並木の街道だったが、現在は日立金属の工場や新興住宅地と化し、松は一本も残っていない。
朝明(あさけ)川を渡れば、四日市市から朝日町に入る。かつての東海道は朝明川から江戸方に向かって松並木が続き、やがて松並木が途切れると柿村・小向(おぶけ)村の集落に。両村は共に富田と同じく焼き蛤を出す茶屋があり、小向には立場が置かれていた。その両集落を抜けて再び松並木となった東海道は北東へ進み、一里塚があった縄生(なお)村の集落を経て員弁川(町屋川 )を渡河。その左岸から続くのが安永村の集落で、安永餅を名物にし、茶屋等で往来の旅人相手に売られて人気を博した。安永餅は先に紹介した四日市名物”なが餅”に良く似た餅菓子で、小豆餡を包んだ餅を平たく長くのばして表面を軽く焼く。小腹が空いた旅人には手頃で食べやすい格好のお菓子だったようだ。
より大きな地図で 安永餅 を表示

朝明川を渡って四日市市から朝日町へ。

朝明橋北詰に残る弘化3年(1846年)建立の常夜燈。「多賀神社常夜燈」「壽命長久」と刻む。

田植えの時期を迎えて。

朝日町柿を行く旧東海道。かつては松並木の街道だった。

殺風景な用水路に可憐に咲く白い花。この花が何なのか気になって調べてみたところ、”カラー”という花で、和名は”オランダカイウ”。江戸時代後期にオランダ船によって持ち込まれたのがこの和名の由来らしい。サトイモ科の多年草で、南アフリカが原産地。

八百利商店。

旧柿村の集落。かつてはこの辺りにも焼き蛤を出す茶屋があったはず。

柿の集落内で旧東海道は左右に連続して曲げられている。

西光寺前を行く旧東海道。

浄土真宗大谷派、朝明山西光寺。現存する絵像御本尊の裏書に本願寺第9世実如の判と日付があり、明応5年(1496年)の開基とされる。貞享2年(1685年)大谷派に転じた。現在の建物は明治初期から中期にかけてのもの。

朝日町柿を行く旧東海道。

朝日町小向に入ったところで小向山浄泉坊がある。浄土真宗本願寺派。慶長8年(1603年)小向の地にあった正治寺が再興されて現寺号に改称、寛永15年(1638年)に西本願寺より公称を許された。山門や瓦に三ツ葉葵が見られるのは、桑名藩主奥方の菩提寺になっていたことが理由とされ、参勤交代で通行する大名は門前で駕籠から降りて一礼したという。

浄泉坊山門の三つ葉葵。

橘守部誕生地遺跡。橘守部は平田篤胤、香川景樹、伴信友と共に天保の国学四大家に数えられる一人。日本書紀の注釈書「稜威道別(いつのちわき)」や、記紀歌謡の注釈書「稜威言別(いつのことわき)」等、多くの著書を残した。ここで生まれた橘守部は17歳で江戸に下って学問を志し、29歳の時に武蔵国の内国府間村(現 埼玉県幸手市)へ転居している。内国府間の名を久々に見て、日光街道を歩いた時を思い出す。ちょっと懐かしい。

旧小向村の集落、小向神社参道入口付近の旧東海道。かつて小向村には立場が置かれていた。

小向の四差路。旧東海道から北西(写真右奥方向)へ延びるのが小向神社参道、南東(写真左手前方向)に行けば旧朝日村の村役場庁舎(朝日町資料館)がある。

旧朝日村の村役場庁舎、朝日町資料館。この建物は大正5年(1916年)の建築。毎週水・土曜日しか開館していないため、日曜の本日は見学できず。

東芝三重工場を横に見ながら。

伊勢朝日駅付近、旧東海道筋に残る榎の古木。小向村と縄生村の集落間のこの辺りは松並木の街道だったが、他の松並木と同様、戦時中の燃料不足を補う松根油採取のために伐採されたり、松くい虫の被害等によって失われた。その松並木に雑じって植えられていた榎だけは残り、今に往時の様子を伝えている。

伊勢朝日駅前の解説板より。焼き蛤はこんな感じに東海道筋で売られていた。

近鉄伊勢朝日駅。

伊勢朝日駅前にある寺本商店。

明治43年(1910年)創業の安達本家酒造。「富士の光」を代表銘柄に数々の銘酒を醸造する。
安達本家酒造
http://www.fujinohikari.com/

江戸日本橋から97里目(約381km)、京三条大橋からは28番目(実測で約118km地点)となる縄生(なお)一里塚跡。両塚それぞれに榎が植えられていたが、遺構は現存せず。

旧縄生村の集落を行く旧東海道。

浄土真宗本願寺派、桔梗山真光寺。明暦3年(1657年)桑名藩主の松平定良が有馬温泉で湯治からの帰途に病死、遺体は桑名に向けて運ばれたが、町屋川の増水により渡河できず、ここ真光寺に遺体を三日間安置した。万治3年(1660年)松平定良の養嗣子で、次代桑名藩主となった松平定重は、その返礼として久松松平氏の家紋”梅鉢”を刻む大手水鉢を贈っている。

真光寺の大手水鉢。久松松平氏の家紋”梅鉢”を刻む。

橋本橋を渡り。

渡邊酒店の先で旧東海道は員弁川(町屋川)に阻まれる。

町屋橋跡。東海道の員弁川(町屋川)渡河地点に初めて架橋されたのは寛永12年(1635年)といわれ、享和2年(1802年)刊行の”久波名名所図会”に江戸時代当時の町屋橋を見ることができる。

町屋橋の解説板より。”久波名名所図会”に描かれる町屋橋。かつては町屋橋が中洲を挟んで架けられ、東海道を往来する旅人を渡した。川の両岸と中洲には茶店が並び、旅人は休憩がてらに安永餅や焼き蛤を味わったのだろう。

町屋橋より旧東海道町屋橋跡の員弁川(町屋川)を望む。江戸時代には立派な木橋が架かり、中洲に茶屋が建ち並んだのも今は昔。

旧東海道の町屋橋から下流に100m程、昭和8年(1933年)に架けられた国道1号の町屋橋を渡って。ここで朝日町から桑名市へ。

旧町屋橋跡の北詰にある御料理旅館すし清。安政3(1856年)東海道筋の茶店として創業したのにはじまり、現在は料理旅館となって営業を続ける。

黒猫に出会い。「何だ、こいつは。」と目で語っているような表情。

旧安永村集落の京方入口に残る伊勢両宮常夜燈。伊勢神宮遥拝を目的に、桑名や岐阜の材木商によって寄進された。文政元年(1818年)建立。常夜燈の前に立つ石柱は、明治26年建立の里程標で、正面に「従 町屋川中央地 桑名郡」と刻み、左右に三重県庁や桑名郡役所までの距離が示されている。

名物安永餅で賑わった旧安永村の集落。写真右手の料理旅館玉喜亭は、かつて安永餅を出す茶屋だったようで、旅人の目を楽しませてきたのだろう樹齢二百年を超える藤が今も残る。また、玉喜亭から街道を挟んで向かいの古民家は文政元年(1818年)の建築、安永餅を製造していた家で、竈や看板が現存しているという。

料理旅館玉喜亭の藤。花が満開に咲く季節に、安永餅を食べながら熱い茶でもすすりたい。

玉喜亭の向かい、安永餅を製造していた古民家。道より一段低い位置に建物があるのは、かつての東海道が現在より低い位置に通されていたため。

現在、安永地区で安永餅の販売はされていないが、永餅屋老舗が製造販売を続けており、三重・愛知県内にある直売店で購入できる。
永餅屋老舗「安永餅」
http://www.nagamochiyarouho.co.jp/index.html

国道258号下を通る旧東海道。先に旧安永村の家並みが続く。

旧安永村集落の北外れに鎮座する城南神社。

江場松原跡の旧東海道。かつて安永村と大福村の集落間は松並木の街道だったが、現在は日立金属の工場や新興住宅地と化し、松は一本も残っていない。

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