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安永餅

【2014年5月4日(日)旧東海道 四日市宿→桑名宿】
朝明(あさけ)川を渡れば、四日市市から朝日町に入る。かつての東海道は朝明川から江戸方に向かって松並木が続き、やがて松並木が途切れると柿村・小向(おぶけ)村の集落に。両村は共に富田と同じく焼き蛤を出す茶屋があり、小向には立場が置かれていた。その両集落を抜けて再び松並木となった東海道は北東へ進み、一里塚があった縄生(なお)村の集落を経て員弁川(町屋川 )を渡河。その左岸から続くのが安永村の集落で、安永餅を名物にし、茶屋等で往来の旅人相手に売られて人気を博した。安永餅は先に紹介した四日市名物”なが餅”に良く似た餅菓子で、小豆餡を包んだ餅を平たく長くのばして表面を軽く焼く。小腹が空いた旅人には手頃で食べやすい格好のお菓子だったようだ。


より大きな地図で 安永餅 を表示


朝明川
朝明川を渡って四日市市から朝日町へ。


朝明橋北詰の常夜燈
朝明橋北詰に残る弘化3年(1846年)建立の常夜燈。「多賀神社常夜燈」「壽命長久」と刻む。


朝日町柿の田園
田植えの時期を迎えて。


旧東海道 朝日町柿
朝日町柿を行く旧東海道。かつては松並木の街道だった。


朝日町柿の用水路にて
殺風景な用水路に可憐に咲く白い花。この花が何なのか気になって調べてみたところ、”カラー”という花で、和名は”オランダカイウ”。江戸時代後期にオランダ船によって持ち込まれたのがこの和名の由来らしい。サトイモ科の多年草で、南アフリカが原産地。


八百利商店
八百利商店。


旧東海道 朝日町柿
旧柿村の集落。かつてはこの辺りにも焼き蛤を出す茶屋があったはず。


旧東海道 朝日町柿
柿の集落内で旧東海道は左右に連続して曲げられている。


旧東海道 朝日町柿
西光寺前を行く旧東海道。


西光寺
浄土真宗大谷派、朝明山西光寺。現存する絵像御本尊の裏書に本願寺第9世実如の判と日付があり、明応5年(1496年)の開基とされる。貞享2年(1685年)大谷派に転じた。現在の建物は明治初期から中期にかけてのもの。


旧東海道 朝日町柿
朝日町柿を行く旧東海道。


浄泉坊
朝日町小向に入ったところで小向山浄泉坊がある。浄土真宗本願寺派。慶長8年(1603年)小向の地にあった正治寺が再興されて現寺号に改称、寛永15年(1638年)に西本願寺より公称を許された。山門や瓦に三ツ葉葵が見られるのは、桑名藩主奥方の菩提寺になっていたことが理由とされ、参勤交代で通行する大名は門前で駕籠から降りて一礼したという。


浄泉坊山門の三ツ葉葵
浄泉坊山門の三つ葉葵。


橘守部誕生地遺跡
橘守部誕生地遺跡。橘守部は平田篤胤、香川景樹、伴信友と共に天保の国学四大家に数えられる一人。日本書紀の注釈書「稜威道別(いつのちわき)」や、記紀歌謡の注釈書「稜威言別(いつのことわき)」等、多くの著書を残した。ここで生まれた橘守部は17歳で江戸に下って学問を志し、29歳の時に武蔵国の内国府間村(現 埼玉県幸手市)へ転居している。内国府間の名を久々に見て、日光街道を歩いた時を思い出す。ちょっと懐かしい。


旧東海道 朝日町小向
旧小向村の集落、小向神社参道入口付近の旧東海道。かつて小向村には立場が置かれていた。


小向の四差路
小向の四差路。旧東海道から北西(写真右奥方向)へ延びるのが小向神社参道、南東(写真左手前方向)に行けば旧朝日村の村役場庁舎(朝日町資料館)がある。


朝日町資料館
旧朝日村の村役場庁舎、朝日町資料館。この建物は大正5年(1916年)の建築。毎週水・土曜日しか開館していないため、日曜の本日は見学できず。


東芝三重工場
東芝三重工場を横に見ながら。


小向の榎
伊勢朝日駅付近、旧東海道筋に残る榎の古木。小向村と縄生村の集落間のこの辺りは松並木の街道だったが、他の松並木と同様、戦時中の燃料不足を補う松根油採取のために伐採されたり、松くい虫の被害等によって失われた。その松並木に雑じって植えられていた榎だけは残り、今に往時の様子を伝えている。


伊勢朝日駅前の解説板より
伊勢朝日駅前の解説板より。焼き蛤はこんな感じに東海道筋で売られていた。


近鉄伊勢朝日駅
近鉄伊勢朝日駅。


寺本商店
伊勢朝日駅前にある寺本商店。


安達本家酒造
明治43年(1910年)創業の安達本家酒造。「富士の光」を代表銘柄に数々の銘酒を醸造する。

安達本家酒造
http://www.fujinohikari.com/


縄生一里塚跡
江戸日本橋から97里目(約381km)、京三条大橋からは28番目(実測で約118km地点)となる縄生(なお)一里塚跡。両塚それぞれに榎が植えられていたが、遺構は現存せず。


旧東海道 朝日町縄生
旧縄生村の集落を行く旧東海道。


真光寺
浄土真宗本願寺派、桔梗山真光寺。明暦3年(1657年)桑名藩主の松平定良が有馬温泉で湯治からの帰途に病死、遺体は桑名に向けて運ばれたが、町屋川の増水により渡河できず、ここ真光寺に遺体を三日間安置した。万治3年(1660年)松平定良の養嗣子で、次代桑名藩主となった松平定重は、その返礼として久松松平氏の家紋”梅鉢”を刻む大手水鉢を贈っている。


真光寺の大手水鉢
真光寺の大手水鉢。久松松平氏の家紋”梅鉢”を刻む。


橋本橋
橋本橋を渡り。


渡邊酒店
渡邊酒店の先で旧東海道は員弁川(町屋川)に阻まれる。


町屋橋跡
町屋橋跡。東海道の員弁川(町屋川)渡河地点に初めて架橋されたのは寛永12年(1635年)といわれ、享和2年(1802年)刊行の”久波名名所図会”に江戸時代当時の町屋橋を見ることができる。


江戸時代の町屋橋
町屋橋の解説板より。”久波名名所図会”に描かれる町屋橋。かつては町屋橋が中洲を挟んで架けられ、東海道を往来する旅人を渡した。川の両岸と中洲には茶店が並び、旅人は休憩がてらに安永餅や焼き蛤を味わったのだろう。


員弁川(町屋川)
町屋橋より旧東海道町屋橋跡の員弁川(町屋川)を望む。江戸時代には立派な木橋が架かり、中洲に茶屋が建ち並んだのも今は昔。


町屋橋
旧東海道の町屋橋から下流に100m程、昭和8年(1933年)に架けられた国道1号の町屋橋を渡って。ここで朝日町から桑名市へ。


すし清
旧町屋橋跡の北詰にある御料理旅館すし清。安政3(1856年)東海道筋の茶店として創業したのにはじまり、現在は料理旅館となって営業を続ける。


町屋橋跡付近にて
黒猫に出会い。「何だ、こいつは。」と目で語っているような表情。


伊勢両宮常夜燈
旧安永村集落の京方入口に残る伊勢両宮常夜燈。伊勢神宮遥拝を目的に、桑名や岐阜の材木商によって寄進された。文政元年(1818年)建立。常夜燈の前に立つ石柱は、明治26年建立の里程標で、正面に「従 町屋川中央地 桑名郡」と刻み、左右に三重県庁や桑名郡役所までの距離が示されている。


旧東海道 桑名市安永
名物安永餅で賑わった旧安永村の集落。写真右手の料理旅館玉喜亭は、かつて安永餅を出す茶屋だったようで、旅人の目を楽しませてきたのだろう樹齢二百年を超える藤が今も残る。また、玉喜亭から街道を挟んで向かいの古民家は文政元年(1818年)の建築、安永餅を製造していた家で、竈や看板が現存しているという。


料理旅館玉喜亭
料理旅館玉喜亭の藤。花が満開に咲く季節に、安永餅を食べながら熱い茶でもすすりたい。


旧東海道 桑名市安永
玉喜亭の向かい、安永餅を製造していた古民家。道より一段低い位置に建物があるのは、かつての東海道が現在より低い位置に通されていたため。


安永餅
現在、安永地区で安永餅の販売はされていないが、永餅屋老舗が製造販売を続けており、三重・愛知県内にある直売店で購入できる。

永餅屋老舗「安永餅」
http://www.nagamochiyarouho.co.jp/index.html

旧東海道 桑名市安永03
国道258号下を通る旧東海道。先に旧安永村の家並みが続く。


城南神社
旧安永村集落の北外れに鎮座する城南神社。


江場松原跡
江場松原跡の旧東海道。かつて安永村と大福村の集落間は松並木の街道だったが、現在は日立金属の工場や新興住宅地と化し、松は一本も残っていない。


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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

桑名宿

【2014年5月4日(日)旧東海道 桑名宿】
江場松原跡から旧大福村の集落へ入る。かつての東海道は桑名宿の京方入口にあたる大福村から、北隣の木戸を設ける福江町で桑名城下に入り、七里の渡し場まで沿道には桑名宿の町家が続く。江戸日本橋から数えて42宿目、京都三条大橋からならば12宿目となる桑名宿は、桑名城下に発展した城下町、海路七里の東海道”七里の渡し”の渡船場が設けられ、大勢の旅人を迎えて賑わった。天保14年(1843年)当時の人口8848人、家数2544軒、本陣2、脇本陣4、旅籠120軒。本陣は大塚与六郎家と丹羽善右衛門家、脇本陣は福島屋や駿河屋等が務めた。東海道における旅籠屋数は宮(熱田)宿に次いで多い。桑名宿の町並みは京方より福江町・矢田町・鍋屋町・伝馬町・新町・鍛冶町・吉津屋町・京町・片町・江戸町・川口町・船馬町と続き、川口町に七里の渡しの渡船場があり、桑名宿と宮(熱田)宿を結ぶ東海道の七里の渡し、桑名宿と佐屋宿を結ぶ佐屋街道の三里の渡しの渡船が発着。また、江戸町と川口町の境から美濃へと通じる美濃街道が分岐した。

「その手は桑名の焼き蛤」
江戸時代には既に使われていたという遊び言葉で、「その手は食わぬ」と言うべきときに、「食わぬ」に「桑名」を当て、名物の焼き蛤を言葉に足す。そんな遊び言葉に使われる程、焼き蛤は桑名の名物だった。伊勢湾に流れ込む木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の水が良質の蛤を育んできたわけだが、古くから木曽三川は幾度となく氾濫を繰り返し、下流域にあたる桑名や長島一帯の住民は洪水に苦しめられた。宝暦3年(1753年)の大洪水を機に、幕府は木曽三川の治水工事を決め、遠く離れた地の薩摩藩に命じる。幕府の命とあっては対岸の火事とはいかない薩摩藩は、多くの私財と犠牲を払って1年余りで難工事を完了させた。この工事による薩摩藩主島津家の支出は約40万両、従事した藩士は約1千名で、80名以上が病や切腹で命を落としている。


より大きな地図で 桑名宿 を表示


了順寺の黒塀
桑名市大福に入り、了順寺の見事な黒塀を横にみながら。


了順寺
了順寺の山門は桑名城の城門を移築したものと伝わる。


旧東海道 桑名市大福
旧大福村の集落は桑名宿の京方入口にあたる。ここから七里の渡しの渡船場まで旧東海道筋には町家が続いた。


ゑびすや
福江町の旧東海道筋にある御菓子司”ゑびすや”に立ち寄り。


ゑびすやのちまき
”ゑびすや”で”ちまき”を購入。笹に包まれた感じが何だか懐かしい。


旧東海道 桑名市西矢田町
西矢田町で旧東海道は鉤の手に曲げられる。旧矢田町は桑名城下に置かれた立場で、”久波名名所図会”には「此立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」と書かれ、宿屋や茶屋が多くあった。


旧東海道 桑名市西矢田町02
西矢田町の鉤の手にある火の見櫓。平成3年(1991年)再建のもの。


旧東海道 桑名市西矢田町03
西矢田町を行く旧東海道。


立坂神社参道入口
立坂神社参道入口。旧東海道に面して鳥居が立つ。


立坂神社参道
立坂神社参道。


馬繋ぎの鉄環が残る旧商家
矢田立場の面影を残す旧商家。馬繋ぎの鉄環が残る。


善西寺
走井山善西寺。


矢田町交差点
国道1号と旧東海道が交差する矢田町交差点で西矢田町から東矢田町に。


中川梵鐘店
江戸末期創業の中川梵鐘店。桑名は古くより鋳物産業が盛んで、その起源は江戸時代初期、本多忠勝が桑名藩主の時に鉄砲の製造を始めたのが起源といい、灯籠や梵鐘、農具をはじめ、鍋などの日用品が生産された。桑名市本町に鎮座する春日大社の青銅鳥居は、寛文7年(1667年)に桑名の鋳物師、辻内善右衛門尉藤原種次により鋳造されたもの。


山城屋本店
東矢田町の旧東海道沿いにある山城屋本店。看板に書く”お嫁入りふとん”が時代を感じさせる布団屋さん。


日永屋
西鍋屋町に入って衣料品店の日永屋前を行く。


明円寺
浄土真宗大谷派の明円寺。


一目連神社
西鍋屋町に鎮座する一目連神社。


本願寺
東鍋屋町の旧東海筋にある本願寺。本堂等の建物が残っておらず跡地と言ってもよい状態。かつては付近一帯が本願寺村と称する程の巨刹だった。

 
梅花佛鏡塔
本願寺境内に残る梅花佛鏡塔。松尾芭蕉の門人の各務支考(かがみ しこう)の分骨墓で、各務(かがみ)の名にちなみ墓石は鏡の形を模している。享保16年(1731年)各務支考が美濃国で亡くなった折、支考の門人で桑名の美濃派俳諧の指導的立場にあった雲裡坊杉夫は、支考の分骨を受けてこの鏡塔を建立した。


天武天皇社
天武天皇を祭神に祀る全国唯一の神社、天武天皇社。東鍋屋町の北側に鎮座する。壬申の乱(672年)の際、大海人皇子(後の天武天皇)が桑名に泊まったことに起源があるという。


広瀬鋳物工場跡
広瀬鋳物工場跡。江戸時代初期、桑名藩主の本多忠勝が桑名城の建造と城下町の整備に伴いここに鋳物工場を建設、鋳物師の広瀬氏を招いて鍋や釜、梵鐘等を製造させ、後に鋳物製品は桑名の特産品となった。この辺りの地名を鍋屋町と称する由縁である。広瀬鋳物工場は明治期に名古屋へ移転、現在はヒロセ合金として鋳物製造を続けている。


七曲見附跡
日進小学校南交差点付近、七曲見附跡。写真は七曲見附跡から伝馬町南端の旧東海道を望む。ここが東鍋屋町と伝馬町の境にあたり、かつては街道をコの字形に曲折させ、七曲御門(釘抜門とも)と番所が設けられていた。


報恩寺
伝馬町に入って間もなく、浄土真宗本願寺派の謝徳山報恩寺。


長円寺
浄土真宗本願寺派、長円寺。慶長年間の城下町割の際に江場村(現 桑名市江場)から現在地へ移転した。「桑府名勝志」、「久波奈名所図会」、「桑名の千羽鶴」を所蔵し、いずれも市指定文化財を受ける。


旧東海道 桑名市伝馬町
伝馬町を行く旧東海道。伝馬町は慶長年間の城下町割により、伝馬年寄や伝馬持ちの者がここに屋敷地を与えられたことに因む。また、この時に周辺の寺が集められて寺町を形成した。


寿量寺
日蓮宗寿量寺。元は今一色町(現 桑名市今中町・今北町・今片町等)辺りにあったが、慶長年間の城下町割の際に伝馬町の現在地に移った。


十念寺
浄土宗十念寺。元は朝明郡切畑(現 三重県菰野町)にあったが、室町期に桑名へ移り、慶長年間の城下町割の際に現在地へ移った。境内に桑名藩士森陳明(つらあき)の墓がある。森陳明は戊辰戦争で藩主松平定敬に従い函館まで転戦、敗戦降伏後に桑名藩の戦争責任を一身に負い、東京深川の江戸藩邸で切腹した。


光徳寺
新町の南端にある浄土宗光徳寺。古くは泡洲崎念仏道場と称す。江戸中期に桑名の豪商で、万戸焼の創始者沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓がある。


泡洲崎八幡社
泡洲崎八幡社。江戸期以前の桑名には町屋川が流れ込み、自凝洲崎(おのころすざき)・加良洲崎・泡洲崎の三洲を形成、この付近一帯が泡洲崎の旧地で、泡洲崎八幡社は鎮守だった。


旧東海道 桑名市新町
桑名市新町を行く旧東海道。新町は慶長年間の城下町割により新しく開発された地だったことに地名の由来がある。


東京屋
長い年月、風雨に晒されてきたのだろう看板には東京屋の店名。肉屋さんだったようだ。


旧東海道 桑名市新町
新町の北端付近で旧東海道は鉤の手に曲がる。写真のいもや本店前(京方面)から手前にかけて折れる道筋が旧東海道。


旧東海道 桑名市鍜冶町
鍛冶町に入ってすぐ、旧東海道の一部分が道幅を広げる。ここは新町と鍜冶町の境をなす水堀に架けられた七ツ屋橋西詰の枡形跡。桑名城下の面影を残す道筋である。


旧東海道 桑名市鍜冶町
鍜冶町で旧東海道はコの字形に曲折する枡形道に。吉津屋見附の名残である。


貝増本店
鍛冶町の枡形道沿いにある貝増本店。志ぐれ蛤を商う。志ぐれ蛤は焼き蛤と共に桑名の名産品で、むき身の蛤を佃煮にしたもの。元禄年間(1688年~1704年)から製造されるようになり、保存性が高く土産物として人気を博した。


吉津屋見附跡
吉津屋御門と番所が設けられていた吉津屋見附跡。江戸時代初期にこの辺りは吉津屋町に属していたため、吉津屋見附の名を称す。後に鍛冶町が成立すると鍛冶町御門の別名が付いた。


吉津屋見附跡
吉津屋見附跡の枡形を江戸方から望む。枡形道がわかりやすいよう旧東海道を赤線で示す。かつては右に曲がった所に吉津屋(鍛冶町)御門があり、枡形中央部に水堀が入り込んでいた。明治維新後に枡形中央部の水堀は埋め立てられ、七宝座という芝居小屋が開設されたが、現在は住宅地となっている。


旧東海道 桑名市鍜冶町
鍛冶町を行く旧東海道。鍛冶町は江戸時代初期に吉津屋町から分離し、隣接する七ツ屋町と合併して成立。鍛冶屋が多くあったことに地名の由来。


旧東海道 桑名市吉津屋町
鍛冶町と吉津屋町の境、旧東海道は”よつや通り”と名付けられる。


浅井屋本店
吉津屋町を行く旧東海道。浅井屋本店の立派な店舗が目立つ。吉津屋町は古く4軒の家があったことから”四ツ屋”と呼ばれ、後に現在の地名が当て字されたことに由来。天明6年(1786年)から寛政9年(1797年)まで桑名藩の米札会所が設けられていた。米札とは江戸時代に諸藩が発行した藩札で、米の量とその金銭に換算した額が記される兌換通貨。藩は買米のときに金銭の代替えに支払った。


京町毘沙門天堂
吉津屋町から京町に入ってすぐ、京町毘沙門天堂がある。かつてこの辺りの旧東海道はコの字形に曲折する枡形で、京町見附の京町御門と番所が設けられていた。現在は見附の遺構はもちろん、枡形の道筋も失われている。


旧東海道 桑名市京町
京町を行く旧東海道。京町の名の由来は不明だが、江戸町に相対して名付けられたのだろう。かつて京町には橘屋があり、”美清香伽羅油”を製造販売、各地に送られる名産品だった。伽羅の油は鬢付け油の一種で、今で言うヘアスタイリング剤。橘屋が京町のどこにあったかは不明。


旧東海道 桑名市片町
旧東海道は京町と片町の境で桑名城の外堀に接して左折。現在は城内に向かって直進できるよう外堀に南大手橋が架けられるが、江戸時代には少し北側に橋が架けられていた。


桑名城堀川
桑名城の外堀をなす堀川。写真堀川の左手が桑名城内の武家地で、右手が片町の商人地。片町は東側が堀川の外堀、西側のみに町家が並んでいたことに片町という地名の由来がある。


桑名城城壁
堀川東岸に残る石垣は桑名城の城壁遺構で、川口樋門から南大手町にかけての約500mに渡り現存する。石垣の積み方は野面積みと打ち込み接ぎの2工法が見られる。


春日神社の青銅鳥居
青銅鳥居が立つ春日神社参道を境に片町から江戸町へ。


春日神社の青銅鳥居
春日神社の青銅鳥居は寛文7年(1667年)、桑名の鋳物師辻内善右衛門尉藤原種次により鋳造され建立、2代目にあたる。初代の鳥居は木製で、慶長7年(1602年)初代藩主の本多忠勝により寄進、承応2年(1653年)に台風で倒壊した。約350年に渡って立ち続ける青銅鳥居、江戸時代に盛んだった桑名の鋳物産業を今に物語る。


しるべいし
青銅鳥居前に立つ”しるべいし”。この石標は”迷い児石”とも言われ、正面に「志類べ以志」(しるべいし)と刻み、「たづぬるか多」と刻む左側面に迷子の特徴や服装等を書いた紙を貼り、「おしゆるか多」と刻む右側面に迷子が居た場所を貼り付けた。今で言う遊園地やテーマパーク等の迷子センター的な役割を果たしていたようだ。


旧東海道 桑名市江戸町
江戸町を行く旧東海道。江戸町は江戸より渡辺忠八という人物が来住したことに地名の由来があるらしいが、この人物が何者なのかは不明。江戸時代初期には本陣、天保年間(1830年~1844年)には3軒の脇本陣が置かれた。


旧東海道 桑名市江戸町
江戸町にある歌行燈。明治10年創業の老舗日本料理店。ここで桑名の焼き蛤を食べられるようだ。要チェック。


旧東海道 桑名市川口町
川口町に入ると旧東海道筋に割烹・季節料理の”日の出”が目に留まる。ここのメニューにある”はまぐり鍋”は”美味しんぼ”にも描かれているらしい。


丹羽本陣・問屋場・舟会所跡
川口町は桑名宿の江戸方入口にあたり、七里の渡しの渡船場があって丹羽本陣をはじめ問屋場や舟会所が置かれた。写真左奥の建物辺りが丹羽本陣跡、その手前に問屋場と舟会所があったようだが、正確な位置は不明。


伊勢国一の鳥居
七里の渡しの渡船場跡に建つ伊勢国一の鳥居。この鳥居から北側が船馬町。大塚本陣をはじめ、脇本陣駿河屋や高札場があった。船馬町は伝馬と渡船の役を引き受けるにあたり、川を埋め立てて新たに開発された地だったことに地名の由来がある。


脇本陣駿河屋跡
脇本陣駿河屋跡の料理旅館山月。桑名宿に4軒あった脇本陣のうち、最も格式が高かった。


大塚本陣跡
料理旅館山月の西隣には明治時代創業の料理旅館船津屋。ここが桑名宿で最高格式を持った大塚本陣跡で、裏庭に専用の船着場を設け、大名等が乗る御座船が発着した。


歌行燈句碑
かはをそに 火をぬすまれて あけやすき

船津屋にある歌行燈句碑(昭和31年建立)。これに刻む句は、泉鏡花が船津屋に宿泊した印象を基に書いた小説「歌行燈」(明治43年発表)を、昭和14年(1939年)に劇作家の久保田万太郎がここを訪れて戯曲に書き、その際に船津屋主人の求めに応じて詠んだ句だという。小説の中に裏の河岸から”かわうそ”が這い上がり、悪戯をするという噂話の描写があり、これを基にして作句したようだ。


蟠龍櫓
渡船場跡付近にある蟠龍櫓は平成15年(2003年)の復元。元禄14年(1701年)桑名に大火があり、桑名城は天守閣や櫓を類焼、後に天守閣は再建されなかったが、51もの櫓を有する名城だった。数多くあった櫓の中でも、揖斐川に面する蟠龍櫓は、七里の渡しを往来する旅人が必ず目にしたはずで、桑名城のシンボル的建築物だった。


三之丸水門と揖斐川
三之丸水門から揖斐川(七里の渡し跡)を望む。対岸は長島である。渡し船が行き交ったのも今は昔、現在は桑名宿と宮宿を結ぶ航路が無く、船で渡ることができないのは残念。


伊勢国一の鳥居
伊勢国一の鳥居から伊勢神宮を遥拝し、本日の歩き旅を終えよう。


【旧東海道歩き 第9日目】近鉄四日市駅→四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡→JR桑名駅 歩行距離約18.1km
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函館山散策路 七曲り・地蔵山・千畳敷コース 

旧東海道歩きの記事はひと休み。記憶が薄れる前に、今年8月初旬に北海道へ行った時の記事をいくつか書き残したい。まずは函館山から。世界三大夜景の一つ、函館夜景の展望地として知られる函館山は、最高峰の御殿山(標高334m)をはじめとする13の山々の総称で、函館山ロープウェイの山頂駅と函館山展望台は御殿山山頂にある。以前に御殿山から旧登山道コースを下山して記事に書いたが、今回は立待岬から地蔵山を登り、函館山を縦断して山頂駅に至るルート、七曲り・地蔵山・千畳敷コースを選んで歩いた。その道中には津軽要塞(旧函館要塞)の軍事施設が残存しており、函館山における戦時の緊迫した様子を肌身に感じられる。

津軽要塞の前身となる函館要塞は、函館湾の守備を目的として明治31年(1898年)に建設がはじまり、日露戦争勃発直前の明治35年(1902年)に完成。御殿山や薬師山、千畳敷に砲台をはじめとする軍事施設を設け、函館山は要塞地帯となり、以来一般人の入山は禁しく制限された。昭和2年(1927年)津軽海峡を守備するため、新たに建設された汐首岬砲台と青森県側の竜飛崎砲台・大間崎砲台を総称して津軽要塞と名を変え、第二次世界大戦時には敵艦の襲来に備えたが、戦闘機相手の実戦では役に立たず、函館は空襲で甚大な被害を受けてしまう。昭和20年(1945年)第二次世界大戦が終結すると、津軽要塞は米軍によって解体、翌年に一般市民に再び開放されることになる。そんな隠れた歴史を秘めた函館山は、今や国内外から多くの観光客が訪れる北海道を代表する観光地。夜景だけがスポットライトを浴びるが、津軽要塞の遺構も「函館山と砲台跡」の名称で北海道遺産に指定される隠れた戦争遺跡である。もし函館山を訪れる機会があれば、目を向けてみてはいかがだろうか。


より大きな地図で 函館山散策路 七曲り・地蔵山・千畳敷コース を表示


JR函館駅
JR函館駅に降り立ち。


摩周丸
JR函館駅裏手に係留する青函連絡船の摩周丸。青函トンネルが開通するまで、青森駅と函館駅間の列車や乗客を乗せて津軽海峡を渡っていた。青函連絡船が廃止されたのは昭和63年(1988年)、石川さゆりが歌う名曲「津軽海峡冬景色」の歌詞にある連絡船のことを、今じゃ知らない人も多いんだろうなあ。

私もひとり~ 連絡船に乗り~♪


函館山
摩周丸横の広場から函館山を望み。


イカ釣り漁船と函館山
イカ釣り漁船のバックに函館山。は~るばる来たぜ、函館へ~♪鼻歌交じりに歩きたくなる風景だ。


函館市電 市役所前停留所
市役所前停留所から函館市電に乗車し、谷地頭へ向かう。


函館市電 谷地頭停留所
谷地頭停留所に到着。


函館市電 谷地頭停留所
谷地頭停留所から函館山の一部、地蔵山を望む。ここからは徒歩で立待岬へ。


石川啄木一族の墓
立待岬へ向かう途中に石川啄木一族の墓。津軽海峡と函館市街を一望する景勝地にある。


石川啄木一族の墓
東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

石川啄木の第一歌集「一握り砂」に卷頭を飾る有名な短歌。墓石にはこの短歌を刻んだ歌碑を埋め込む。


立待岬
函館山南端麓の立待岬へ。


名物つぶ貝
立待岬にある売店”はまなす”で名物”つぶ貝”をおやつに。噛んだ時の磯の香りがたまらん。美味い。


立待岬
立待岬より函館山を望む。津軽海峡側の函館山山麓は人が立ち入れぬ断崖絶壁と海。


津軽海峡
津軽海峡の向こうに下北半島を望む。


立待岬
「角川日本地名大辞典」によると、立待岬はアイヌ語でピウシ(岩上で魚を待ちヤスで捕る処の意)と呼ばれた地で、これが和名に訳されて付けられた地名だという。


函館山七曲りコース入口
立待岬を後にし、七曲りコース入口から登山道へ。


函館山七曲りコース
急斜面をつづら折れに登る七曲りコース。


函館山七曲りコース
登山道の途中には苔生す石積みが見られる。津軽要塞の遺構だろうか。


地蔵山見晴所
地蔵山見晴所からの眺め。鞍掛山の山頂と津軽海峡、遠くに亀田半島が望める。


地蔵山見晴所
地蔵山見晴所から地蔵山山頂・千畳敷に向けて地蔵山コースに入る。


函館山地蔵山コース
地蔵山コースに入ってからはなだらかな登山道。


函館山無線中継所
函館山無線中継所の横を通り抜けて。


地蔵山の開発局電波塔
地蔵山山頂にある開発局電波塔。


地蔵山のNTT電波塔
開発局電波塔に隣接してそびえ立つNTT電波塔。何だか雲行きが怪しく…。


地蔵山のNTT電波塔
瞬く間に電波塔は雲にのまれて見えなくなる。


函館山地蔵山コース
完全に雲がかかって雨が降り始めた。急いで地蔵山コースを千畳敷に向かって走る。


千畳敷広場
千畳敷広場に着いた時には、かなり視界が悪くなり豪雨に。


千畳敷休憩所
急ぎ千畳敷広場にある休憩所へ避難。雷が鳴らないことを祈りつつ。


千畳敷休憩所
千畳敷休憩所で雨が小康状態になるまで雨宿り。降雨は激しいが、幸い雷雲ではないようだ。


千畳敷休憩所からの眺望
千畳敷休憩所より雲間に函館市街と函館湾を眺望。


千畳敷広場
雨が小康状態になり視界も晴れて休憩所を出発。写真左に見える建物が避難していた休憩所で、右が公衆トイレ。これらの施設が無かったらずぶ濡れの悲惨な状況に陥ったことだろう。本当に助かった。


千畳敷より地蔵山の電波塔を望む
千畳敷より地蔵山の電波塔を望む。


千畳敷砲台跡付近
千畳敷砲台跡付近。その名の通り平坦地が広がる。


千畳敷砲台跡
草むらの中に突然現れた異様な建造物。初めて目の当たりにする津軽要塞の遺構である。ここは千畳敷砲台の南端に設けられた戦斗(戦闘)司令所で、函館湾や津軽海峡を監視し、指揮官などが詰めて各砲台に指令を出す重要施設だった。


千畳敷砲台跡
千畳敷砲台戦斗司令所の掩蔽部入口。興味津々に中へ入ってみる。


千畳敷砲台跡
戦斗司令所内部。


千畳敷砲台跡
電話台が4連に並ぶ戦斗司令所電話室。観測所や砲台等との連絡用の電話が設置されていた。


千畳敷砲台跡
千畳敷砲台の遺構を左手に見ながら。写真は貯水池跡。


JR無線観測所
JR無線観測所方面へ移動。


千畳敷砲台跡
JR無線観測所付近に残存する千畳敷砲台第一砲台跡。円形に雑草が生えている部分が砲座。


千畳敷砲台跡
千畳敷砲台の北端、観測所へ続く通路。左側面に棲息掩蔽部。


千畳敷砲台跡
土に埋もれた状態の棲息掩蔽部。弾薬庫だった。


ヒキガエル
雨に誘われて大きなヒキガエルが現る。


<千畳敷砲台跡
階段を上って観測所へ。


千畳敷砲台跡
観測所跡。雑草の中にコンクリートの基礎が残る。


千畳敷砲台跡
弾廠入口。雑草に覆われて入口が確認しづらい。


函館山千畳敷コース
千畳敷砲台跡を後にし、濃霧で何も見えない牛の背見晴所を過ぎると、千畳敷コースは二又に分岐。右の道が八幡山・水元山の東側、左の道はその西側を進み、いずれも函館山展望台のある御殿山に至る。今回は西側ルートを進むことに。


函館山千畳敷コース
激しい雨で地盤が緩くなっているだろう。落石に注意しながら千畳敷コースを行く。


つつじ山
雨が降りしきる中、つつじ山の北側を囲繞する千畳敷コースを一気に進み、入江山コースとの分岐点に。写真左に見える斜面が”つつじ山”。


御殿山第二砲台跡
そして、御殿山第二砲台跡へ。


御殿山第二砲台古写真
現地解説板より。在りし日の御殿山第二砲台。


御殿山第二砲台跡
上の古写真と同アングルで撮影。砲座と周囲の壁が残存している。


御殿山第二砲台跡
御殿山第二砲台の南端、観測所へ続く階段。


御殿山第二砲台跡
観測所跡には休憩用に東屋が設けられていた。


御殿山第二砲台跡
観測所からの眺め。もちろん本日は何も見えません。


御殿山第二砲台跡
御殿山第二砲台掩蔽部。写真左手前から砲具・弾薬庫が5連に並び、最奥に士官詰所、通路最奥はトンネルになり出入口へ通じていた。現在は崩壊のおそれがあるのか、立入禁止。


御殿山第二砲台出跡
つつじ山駐車場に残る御殿山第二砲台出入口。ここからトンネルを潜り抜けて掩蔽部へ行けたはずだが、現在は藪に覆われて入るどころか、中の様子を伺うこともできない。北海道遺産に指定しているのだから、もう少し保存整備をやってほしい。


御殿山
つつじ山駐車場より函館山の最高峰、御殿山山頂を望む。かつては御殿山第一砲台が設置されていた場所だが、現在は函館山ロープウェイの山頂駅や展望台をはじめ、HBCとNHKの送信施設が建てられ、ここに軍事施設があったことなど微塵にも気付かせない状態。後で知ったことだが、多くの砲台遺構が隠れて残存しているらしい。


函館山ロープウェイ
雲の中からロープウェイのゴンドラが上ってきた。多くの観光客を乗せていたが、こんな日に夜景が望めるのか少々心配。


函館山展望台
展望台には早くも夜景を待つ観光客が。


函館夕景
雲の合間に函館市街を望むが、ちょっと時間が早い。


函館山展望台
記念撮影スポットにもぞくぞくと観光客がやってくる。


函館山展望台
少しずつ空は暗くなり、いい感じになってきた。


函館夜景
完全に空が暗くなって展望台に行ってみたら…、観光客でごった返す。頭越しに夜景を撮影するのがやっと。


函館山ロープウェイ
山頂駅からロープウェイで下山。ゴンドラ内は満員御礼。


函館山ロープウェイ山麓駅
山麓駅に到着。ここから歩いて十字街へ。


函館市電十字街停留所
十字街停留所から市電に乗車し、本日の宿泊先、湯の川へ。


撮影日:2014年8月4日(月)
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テーマ : 北海道
ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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