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神居古潭

函館山の次は一気に北へ飛んで、旭川市の神居古潭を記事に書こう。大雪山系の山々を水源にする石狩川をはじめ、牛朱別川や忠別川・美瑛川が、旭川市のある上川盆地に流れ込み、その川水が盆地を囲む山脈をこじ開けて空知平野に流れ出す地点に神居古潭はある。ここは旭川市西端部に位置する石狩川の渓谷で、上川盆地と空知平野の境界をなし、アイヌ語の「神の居所」という意味である「カムイ・コタン」が地名の由来、アイヌ人にとっては神聖な地だったようだ。周辺には縄文時代の墓と推測されるストーンサークルや、平安時代頃と推測される竪穴住居遺跡等のアイヌ遺跡が点在する。

明治31年(1898年)北海道官設鉄道上川線(現 函館本線)の空知太駅~旭川駅間が開業、明治34年(1901年)に神居古潭簡易停車場が設置されると、石狩川対岸の上川道路(現 国道12号)を繋ぐ簡易な吊り橋(巻橋)が架けられ、神居古潭の渓谷美を見物に観光客が下車するようになったようだ。徳富蘆花や九条武子といった文学人が訪れている。昭和13年(1938年)今に見る吊り橋の神居大橋が架橋され、昭和時代中期には北海道自然博物園の名で観光地化し、神居大橋付近にはニュー古潭や神居古潭ホテルの宿泊施設をはじめ、南山商店や食堂等が軒を並べ、少し旭川側に離れた神皇寺付近にも旅館が5軒程あって観光客を迎え賑わった。

神居古潭を通る函館本線は渓谷の石狩川左岸に鉄路を通す難所だったため、当然ながら雪崩や落石、土砂崩れ等の被害が少なからずあったようで、昭和7年(1932年)走行中の貨物車8両が崖崩れに巻き込まれ石狩川に転落、乗務員が犠牲となる事故があった。上川盆地に集まった大量の川水が流れ出す神居古潭は河道が極端に狭く、最水深は70mにも達するといい、この事故で石狩川に転落水没した車両は未だに川底に沈んだままだとの話を子供の頃に聞いたことを思い出す。昭和44年(1969年)この難所を避けるべく伊納駅~納内駅間にトンネルが開通、函館本線の付け替えに伴って、旧線上の神居古潭駅は廃止となった。現在、この旧線跡はサイクリングロードに利用され、神居古潭駅は復元されて往時を偲ぶ。余談だが、旧神居古潭駅の深川側に残るトンネルは、旭川では山本家と共に有名な心霊スポットだった…。


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神居古潭空中写真(昭和38年)
空中写真データ:国土地理院 地図番号NK-54-7-14を基に作成
昭和38年(1963年)5月撮影の神居古潭付近


南山商店
まずは、神居古潭の旧国道沿いにある南山商店。かつて旅館や食堂が建ち並んだのも今は昔、神居古潭に残る店はここだけ。店頭販売する紫蘇ジュースの”古潭そだち”はお気に入りの一品。紫蘇をジュースにして美味いのかと半信半疑で購入してみたのが数年前、以来帰省した際には必ず買いに来ている。そのまま飲んでも良し、焼酎で割っても良しの、すっきり爽やかな飲み口。


神居大橋
南山商店から神居大橋を渡って対岸へ。


神居大橋
現在の神居大橋が架橋されたのは昭和13年(1938年)で3代目。初代は明治34年(1901年)神居古潭簡易停車場設置に伴って架橋された巻橋、2代目は大正14年(1925年)の架橋で神龍橋と名付けられていたという。


神居大橋
神居大橋を渡ると、思はず橋下を覗きこみたくなるんだよね。


パラ・モイ
神居大橋から石狩川下流を望む。連日の大雨で水量がもの凄いことになっていた。神居大橋の下流域はアイヌ語で「パラ・モイ」と呼ばれ、広い湾を意味している。


パラ・モイ
神居古潭の石狩川は最深部で約70mに達するといい、ここでこんな濁流にのまれたら一溜まりもない。


九条武子歌碑
たきつ波 ましろう白う 岩にちる 神居古潭の くもれる真昼

神居大橋北詰にある九条武子歌碑。大正期の女流歌人、九条武子が大正11年(1922年)神居古潭を訪れた際に詠んだ歌を刻む。昭和31年(1956年)建立。


旧神居古潭駅舎
旧神居古潭駅舎。明治31年(1898年)旭川~空知太(現 砂川市)間の鉄道が開通、明治34年(1901年)に神居古潭簡易停車場が設置され、2年後に駅へ昇格した。今に残る駅舎は明治43年(1910年)の建築、明治期の典型的小規模駅舎の様子を伝える貴重な遺構である。


旧神居古潭駅舎
神居古潭駅は昭和44年(1969年)函館本線の伊納駅~納内駅間にトンネルが開通し廃止、駅前に立ち観光客で賑わった往時を偲ぼう。


旧神居古潭駅舎
旧神居古潭駅舎内部。


旧神居古潭駅構内
旧神居古潭駅構内より旭川方面を望む。崩れかけのホームと錆びかけた駅名板が現存。鉄路跡はサイクリングロードに利用されている。


旧神居古潭駅構内
旧神居古潭駅構内より深川方面を望む。


旧神居古潭駅構内
旧神居古潭駅構内より神居大橋を望む。


旭川駅方面へ延びる鉄路跡
旭川駅方面へ延びる鉄路跡のサイクリングロード。子供の頃、サイクリングで度々訪れたことを思い出す。童心に帰って自転車で再び訪れたいものだ。


昭和30年代の神居古潭駅
旧神居古潭駅舎内に設置の解説板より。昭和30年代の神居古潭駅。駅前には石狩川に沿って鉄道官舎が並んでいた。


やつめうなぎとり岩
上の古写真に近いアングルで撮影。鉄道官舎の跡地は野っぱらに。その昔、神居古潭の石狩川はヤツメウナギの漁場で、この辺りでも大量に獲れたそう。付近に”やつめうなぎとり岩”と呼ばれる大岩がある。


旧神居古潭駅前
旧神居古潭駅前の鉄道官舎跡。


旧神居古潭駅付近の橋台跡
旧神居古潭駅付近に残るレンガ造りの橋台。


旧神居古潭駅
屋外展示のSLが今にも神居古潭駅に到着しようかといった雰囲気。往時の様子が偲ばれる。


神居古潭の旧函館本線トンネル
旧神居古潭駅から深川方面に少し行くと、旧函館本線のトンネルが残っている。


神居古潭の旧函館本線トンネル
レンガ造りのトンネル入口が見られるが、トンネル内の壁面は近年になってコンクリートで補強された。


神居古潭の旧函館本線トンネル
このトンネルは昔から幽霊が出るとの噂があって、子供の頃は怖くて立ち入ることができなかったことを思い出す。はてさて、真相はいかに。


神居大橋03
トンネルを抜ければ神居大橋のビュースポットに。

神居古潭はアイヌ伝説が多く残るアイヌの神聖地、旭川を訪れた際には是非とも足を延ばしてみてほしい。北海道の先人たちが生きた息吹を感じる場所である。また次に訪れた機会に記事に書こうと思う。


撮影日:2014年8月7日(木)
【 参考サイト 】
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旭川発つばさ号!

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深名線 幌加内駅跡

JR深名線の廃線跡の現状を見ようと、幌加内町を訪ねてみたので、まずは深名線について概要を少々。深名線は函館本線深川駅から幌加内町を縦断し、宗谷本線名寄駅に接続する総延長121.8kmの鉄道路線。大正11年(1922年)に着工され、2年後に深川駅~多度志駅間が開通、以来鉄道敷設工事は続けられ、昭和7年(1932年)朱鞠内駅まで延伸。昭和12年(1937年)名寄駅~初茶志内駅(後に天塩弥生駅へ改名)間が開通、昭和16年(1941年)朱鞠内駅~初茶志内駅間が開通し、20年余りの歳月をかけて深名線は全線開通する。地域住民の足としてはもちろんのこと、雨竜第一ダム・第二ダム(昭和18年竣工)建設用の物資輸送や木材運搬に活躍した。しかし、昭和30年代から幌加内町の人口は減少の一途をたどり、押し寄せるモータリゼーションの波にものまれ、昭和40年代には乗客や貨物輸送が激減、大赤字路線となり存廃が取り沙汰されるようになった。それでも他の赤字ローカル線が次々と廃止される中、代替道路が未整備であるという理由でかろうじて存続したが、平成7年(1995年)9月3日の運行を最後に廃止された。現在はジェイ・アール北海道バスが代替バスを運行する。

幌加内町の中心部に設けられた幌加内駅は、深名線において起点の深川駅、終点の名寄駅を除き最も乗降客が多かった駅で、私が国鉄駅の入場券集めに夢中だった少年時代に訪れた昭和50年代には駅舎内に売店があり、いかにも北海道のローカル線らしい風情漂う駅舎だったことを記憶している。開業は昭和4年(1929年)11月8日、深名線廃止時まで朱鞠内駅と共に有人駅で、相対式ホーム2面2線を有し、上り下りの列車交換が行われた。駅名の幌加内は所在地の町名であり、「アイヌ語のホロカナイ(後戻りする川の意)に由来し、雨竜川が南流しているのに対し、幌加内川が北流していることに因む」と、角川日本地名大辞典にある。深名線廃止後も駅舎は残されバス待合所等に再利用していたが、平成12年(2000年)に火災があって焼失。その跡地には”JR深名線 幌加内駅跡”と刻む記念碑とモニュメントのレール、駅名標が置かれ往時を偲ぶ。


より大きな地図で 深名線・幌加内駅跡 を表示


幌加内町交流プラザ
幌加内駅跡を訪ねる前に、まずは幌加内町交流プラザへ。旧幌加内駅舎の焼失後、ここにバス待合所が移された。施設内には人気の蕎麦店”せい一”やJR深名線資料展示室がある。


JR深名線資料展示室
JR深名線資料展示室を見学。深名線関係の備品や駅名板・制服の他、沿線各駅を紹介したパネルを展示する。深名線の事前学習にはもってこい。


JR深名線資料展示室
幌加内駅の発車時刻表と普通旅客運賃表。上り深川駅行が1日5本、下り朱鞠内駅行が1日4本の運行で、深川駅発の下り最終電車は幌加内駅が終着だった。


JR深名線資料展示室
釣銭器に乗車券箱、見覚えのある懐かしい品々だ。


JR深名線資料展示室
JR深名線資料展示室には映像展示もあり、興味深く拝見。
事前学習を終えたところで、幌加内駅跡へ向かおう。


幌加内駅跡
幌加内駅跡。駅舎が焼失してしまったのは残念だが、遅かれ早かれ取り壊しの運命にあったのかもしれない。現在はホームすら撤去され、遺構は完全に失われた状態。跡地に駅名標と記念碑、レールのモニュメントが設置されているのがせめてもの救い。


幌加内駅跡
幌加内駅跡の横を通る道路は、駅舎焼失後に新設。実際の駅舎跡は新設道路を挟んで向かい辺りで、現在は空き地になっている。


幌加内駅古写真
JR深名線資料展示室の展示パネルより。在りし日の幌加内駅。


幌加内駅跡
幌加内駅跡より駅前を望む。かつては駅前に小さなロータリーがあった。


旧幌加内駅前通り
旧幌加内駅前通り。


松家食堂
旧幌加内駅前にある松家食堂(写真左)。駅が無くなった後も長らく営業を続けていて、何度かここで蕎麦を食べているのだが、今回訪れた時には廃業したような感じ。調べてみたところ、昨年中に廃業したらしい。幌加内では老舗の部類に入る食堂だっただけに残念。比較的太麺のこしが強い蕎麦だったことを記憶している。


幌加内市街
国道275号沿い幌加内市街。写真中央の大きな建物が、幌加内町唯一のスーパー”エーコープ幌加内店”。その並び手前にこれまた幌加内町唯一と思われる電器店の”寺崎電器”。


撮影日:2014年8月9日(土)
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深名線 第三雨竜川橋梁と政和温泉駅・政和駅跡

幌加内駅跡を後にして国道275号を北上、温泉に浸かるべく道の駅”森と湖の里ほろかない”に併設する”せいわ温泉ルオント”へ向かう。ルオントは平成6年(1994年)の開業、その前身となる政和温泉は一軒宿の温泉旅館で、深名線の政和温泉駅前にあったが、線源が枯渇して昭和58年(1983年)時点で休業していたという。私の少年時代には確実に存在していたはずで、もしかしたら親に連れられて行っているのかもしれないが、残念ながら全く記憶に残っていない。湯上りにジンギスカンを堪能できる、知る人ぞ知る隠れた温泉だったようだ。平成2年(1990年)に政和温泉が廃業して存在意義を無くしたためか、深名線よりも一足早く政和温泉駅は廃止されている。

その政和温泉駅から深名線を深川方面へ約400m程行った雨竜川渡河地点に架かるのが第三雨竜川橋梁、深名線にあって唯一今に残される橋梁である。第三雨竜川橋梁は昭和6年(1931年)竣工、雨竜川のポンコタン渓谷に架かる橋梁で延長100.97m。渓谷や急流等、足場が組めない場所に橋梁を架ける技術、ケーブルエレクション(吊足場式架設)という工法を北海道内で初めて採用し建設された。コンクリート製の橋脚上に、昭和5年(1930年)に製造された長さ45mのトラス橋を架け、その両側に明治32年(1899年)にイギリスから輸入された長さ12.9mの桁橋4組を架ける。建設当時、ポンコタン渓谷に橋梁を架けることは相当な技術を要する難工事で、工事の現場主任だった渡部義雄氏が完成目前に雨竜川に転落し殉職している。平成21年(2009年)土木学会選奨土木遺産に認定。


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第三雨竜川橋梁とポンコタン渓谷
第三雨竜川橋梁とポンコタン渓谷。


第三雨竜川橋梁05
真っ赤なサルビアの花が咲き、第三雨竜川橋梁を彩る。


第三雨竜川橋梁
深名線にあって唯一往時の姿を残す第三雨竜川橋梁。


第三雨竜川橋梁北側の鉄路跡
第三雨竜川橋梁北側(名寄側)の鉄路跡。


第三雨竜川橋梁北側の踏切跡
第三雨竜川橋梁の北側、旧国道と深名線が交差する地点。かつては踏切が設置されていたと思われる。


温泉橋
第三雨竜川橋梁から政和温泉跡に向けて旧国道を進んで橋を渡る。


温泉橋02
その橋の名は温泉橋。昭和51年10月竣工。ここに政和温泉の温泉宿があったことを今に語るのはこの橋だけ。


政和温泉跡
温泉橋を渡って旧国道沿い東側(写真右手)に政和温泉の一軒宿があった。


政和温泉駅跡
政和温泉の一軒宿跡から旧国道を挟んで斜向かいにあった政和温泉駅跡。一段高くなっている鉄路跡の先に政和温泉駅があったはずだが、現在は藪と化しており遺構は確認できない。政和温泉駅は昭和36年(1961年)仮乗降場として開業、昭和62年(1987年)冬期を除いて停車する臨時駅に。単式ホーム1面1線に待合所を設ける典型的な無人駅だった。温泉宿が廃業し利用客が全く見込めなくなったためだろう、深名線廃止より一足早い平成2年(1990年)に廃止された。


政和温泉跡
温泉宿跡より政和温泉駅跡を望む。かつてここに温泉宿と駅があったこを想像するのは難しい。


政和温泉駅古写真
JR深名線資料展示室の展示パネルより。在りし日の政和温泉駅。


政和温泉駅跡付近踏切跡
政和温泉駅跡の北側、旧国道の踏切跡。アスファルトが途切れており鉄路跡を確認できる。


政和温泉駅跡付近鉄路跡
踏切から名寄方面の鉄路跡は牧草地になり消失。


旧政和駅
政和温泉駅から名寄方面へ次の駅、幌加内町政和地区の中心にあった旧政和駅に移動。


旧政和駅
旧政和駅の駅舎は今も残される。昭和6年(1931年)深名線の前身、雨竜線の幌加内駅~添牛内間が開通、政和駅が設置された。長らく駅員が常駐する有人駅だったが、昭和59年(1984年)無人駅に。私が少年時代に訪れた時、ここで入場券を購入した記憶があるので、無人化以前に訪れているはずだ。平成7年(1995年)深名線と共に廃止、駅舎は平成15年(2003年)から”飯処せいわ”として食堂に転用されていたが、現在は食堂も廃業したようだ。


政和駅古写真
JR深名線資料展示室の展示パネルより。撮影時期は不明だが、政和駅の古写真。今に残る駅舎とは窓の大きさ等、少々外観が異なるが、構造部分は同じ建物と思われる。往時の政和駅を見る貴重な写真。


旧政和駅
旧政和駅の改札側。廃止時は駅舎と単式ホーム1面1線を有する駅だったが、改札口は封鎖、ホームは撤去されて草むらと化している。


旧政和駅前
旧政和駅前に残る幌加内町開基七十周年の記念塔。政和を象徴する建造物、いつまでも駅舎と共に残っていてほしい。


旧政和駅前
旧政和駅前にあるこの建物は何とか商店だったが、商店名を失念した…。


旧政和駅前
政和駅前の記念塔と農業倉庫。


旧政和駅前
旧政和駅前、国道275号沿いにあったガソリンスタンドは廃業しているが、その面影を残す。


政和そばの花展望台
旧政和駅から国道275号を北上し政和そばの花展望台へ。


幌加内の蕎麦畑
幌加内はそばの作付面積日本一の町。政和そばの花展望台はそれを実感する絶好のビューポイントだ。


幌加内の蕎麦畑
視界いっぱいに広がる蕎麦畑は一見の価値あり。


幌加内の蕎麦畑
幌加内の蕎麦畑。普段、何気なく食べている蕎麦はここで収穫されているのかも。


そばの花
そばの花。これから収穫の時期を迎え、後に私の大好きな蕎麦になるわけだ。


そば処きたむら
政和そばの花展望台に併設する”そば処きたむら”。


政和そばの花展望台
広大な蕎麦畑を眺めながら、もり蕎麦を食す。こんなことができるのは、ここだけかも。


政和そばの花展望台にて
トラクターにも試乗できます。もちろん運転はできませんが。


幌加内北村蕎麦神社
幌加内北村蕎麦神社が鎮座。御祭神は蕎麦の神?




せいわ温泉ルオント
政和そばの花展望台から引き返して”せいわ温泉ルオント”に。

せいわ温泉ルオント
http://www.soba-horokanai.com/yu.html


せいわ温泉ルオント
ゆっくり温泉に浸かろうじゃないか。


せいわ温泉ルオント
湯上がりにゲームコーナーでお決まりのパチンコを楽しみ、家に帰ろう。深名線跡を訪ねる旅、今回はこの辺で。


撮影日:2014年8月9日(土)
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七里の渡し

前回の旧東海道歩き旅で桑名宿に到着し、伊勢国の旧東海道を歩き通した。桑名宿から次の宮(熱田)宿へは、海上七里の七里の渡しで伊勢湾を渡らねばならなず、かつて東海道を往来する旅人は、所用約4時間だったという船旅に足を休めて楽しんだはずだ。残念ながら現在は、桑名宿と宮宿を結ぶ定期便の航路が無く、往時の船旅を気軽に楽しむことができない。”NPO法人 堀川まちネット”が年1回程度、歴史等の学習を兼ねた観光船を運航しているようだが、旧東海道を歩く旅人にとってはスケジュールを合わせにくく、なかなか乗船することは難しい。私も泣く泣く七里の渡しの渡船はあきらめ、桑名宿と宮宿間は電車で迂回することに。せっかくなので半日の時間を充て、桑名の渡船場跡や桑名城下と城址を巡ってみよう。


より大きな地図で 七里の渡し を表示


春日神社
まずは春日神社を参拝し、桑名再訪の挨拶に。


春日神社拝殿
春日神社拝殿。春日神社は桑名神社と中臣神社をの両社からなり、正式名称を桑名宗社と言う。古来より桑名の総鎮守で、両社ともに延喜式内社とされる古社。永仁4年(1296年)奈良の春日大社から春日四柱神を勧請して合祀、以来春日神社の俗称が定着し、地元では”春日さん”の名で呼び親しまれている。


歌行燈
そして、夢にまで見た桑名の焼き蛤を食べるべく、江戸町の旧東海道沿いにある歌行燈へ。

株式会社 歌行燈
http://www.utaandon.co.jp/


歌行燈
明治10年(1877年)創業の老舗日本料理店、歌行燈。店名は桑名を舞台に書かれた泉鏡花の小説「歌行燈」から。小説に登場する饂飩屋は、前身の”志満や”がモデルになっている。


歌行燈にて
これが夢にまで見た桑名の焼き蛤!昔のように松ぼっくりで蛤を焼くという訳にはいかないが、東海道を往来する旅人の気分は存分に味わえる。


歌行燈にて
桑名焼蛤御膳で伊勢湾産の立派な蛤を堪能。ご当地名物を食べ歩きできるのも、歩き旅の魅力の一つだ。


たがねや
次は”たがね”を購入すべく、桑名市田町にある”たがねや”へ。


たがね
これが買いたかった”たがね”。この菓子は古来より桑名で作られるかき餅の類で、もち米とうるち米でついた切り餅にたまり醤油をつけて焼いたもの。”たがね”は桑名独特の呼称だという。昔ながらの製法で”たがね”を製造販売する”たがねや”の創業は明治5年(1872年)、桑名城下に”平濱”の屋号で菓子屋を開業したのがはじまり。かつて片町・江戸町・川口町辺りは妓楼が多くあり、遊女に人気の菓子だったという。


脇本陣駿河屋跡
脇本陣駿河屋跡の料理旅館山月。


大塚本陣跡と歌行燈句碑
大塚本陣跡の料理旅館船津屋と歌行燈句碑。


大塚本陣跡
料理旅館船津屋の裏手。昔は裏庭と大塚本陣専用の船着場が設けられ、大名等が乗る御座船が発着していたが、現在はその敷地の大部分が堤防の盛土に埋まっている。


七里の渡しの渡船場跡
七里の渡しの渡船場跡。伊勢神宮を遥拝する一の鳥居が立ち往時を偲ぶ。ここから渡し船に乗って次の宮宿まで行ければ言うことなないのだが…。定期船の復活を願う。


蟠龍櫓と一の鳥居
蟠龍櫓と一の鳥居。広重が描いた浮世絵「東海道五十三次之内 桑名」の景観を残している。


ムクドリ
蟠龍櫓付近にて。ムクドリが群れをなす。


七里の渡し跡
七里の渡し跡、揖斐川を望む。昔はこの水上を渡し船が行き交った。


旧東海道 桑名市川口町
桑名宿の川口町まで戻り、旧美濃街道を少し歩こう。


旧美濃街道 桑名市北魚町
桑名市北魚町を行く旧美濃街道。


三崎見附跡
美濃街道の桑名宿出入口、三崎見附跡。古く桑名には町屋(員弁)川が流れ込み、自凝洲崎・加良洲崎・泡洲崎と呼ばれる洲が形成され、この三つの洲を総称して三崎と呼んだ。かつては番所と三崎門が設けられていた。


三崎見附跡付近に残る水堀
三崎見附跡付近に残る水堀。


三崎見附跡付近水堀にて
カメが日向ぼっこ。いい天気に気持ちよさそう。


寺町通り
そろそろ桑名城址へ向かうことに。南大手橋を目指して寺町通りへ。


桑名別院本統寺
寺町通り沿いにでんと構える桑名別院本統寺。浄土真宗大谷派、東本願寺を本山とする。慶長元年(1596年)教如上人の開創、教如上人の息女長姫(教証院)を開基とする。”桑名の御坊さん”と呼び親しまれる。


本統寺の芭蕉句碑
冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす

本統寺の芭蕉句碑。松尾芭蕉が貞享元年(1684年)野ざらし紀行の旅中、ここ本統寺で詠んだ句。当時の本統寺住職大谷琢恵は古益の俳号を持ち、芭蕉とは同門の俳人だった。


寺町堀と稲荷橋
寺町通りの東側に沿って寺町堀が延びる。


白蔵稲荷大明神と稲荷橋
稲荷橋の東詰に鎮座する白蔵稲荷大明神。江戸時代に春日神社別当を務めた仏眼院の守護神として勧請され、町年寄三十六人衆をはじめ、町衆に崇拝されてきた。


京町見附跡
京町見附跡で旧東海道に入り、南大手橋へ向かう。次は桑名城址の散策に。


撮影日:2014年6月7日(土)
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テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行

桑名城址

桑名は江戸期を通して東海道の宿場町である一方、桑名城の城下町として発展してきた。その町の礎となった桑名城の起源は、戦国時代に桑名の地にあった桑名三城(東城・西城・三崎城)の一つ、土豪伊藤氏の城館だった東城とされる。信長の伊勢侵攻により伊藤氏は降伏、秀吉の世となった文禄年間(1592年~96年)同地に一柳直盛が入り、築城にあたって伊勢神戸城(現 鈴鹿市神戸)の天守閣を移したと伝わる。この城が桑名城の前身と言えよう。関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)本多忠勝が桑名へ入封、揖斐川沿岸に桑名城の縄張りをはじめ、今に遺構を残す近世城郭の礎が築かれた。本丸に4重6階の天守をはじめ、元禄の大火後には51基もの櫓があったことが当時の記録よりわかっており、壮大な水城だったことをうかがい知れよう。城郭建造と共に城下の町割(慶長の町割り)も行われ、今に見る桑名城下の原形はこの時を起源としている。元禄14年(1701年)桑名大火で天守閣が焼失、以後再建されることはなく、51基もあった櫓も明治維新期に新政府軍によって解体され焼き払われた。現在は平成15年(2003年)に外観復元された蟠龍櫓だけが、桑名城の昔日を偲ぶ櫓である。

桑名城絵図
桑名城絵図(現地設置の解説板より)


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南大手橋
南大手橋から桑名城へ登城しよう。


南大手橋と三条大橋
南大手橋に隣接してプチ三条大橋が架かる。これは堀川西岸に東海道53次を縮小して表現する”歴史を語る公園”があり、南大手橋袂がその京側起点にあたるため架橋されたようだ。


歴史を語る公園
歴史を語る公園。途中には富士山らしきものも。公園両端に日本橋と三条大橋があり、およそ2分も歩けば東海道を踏破できる仕組み。富士信仰が盛んだった江戸時代、各地の神社境内に築かれた富士塚に発想が似ている…。


堀川
南大手橋北側の堀川。


桑名城南大手門跡
南大手門は南大手橋の少し北側にあったことが昔の絵図からわかる。現地にその跡地を示すものがないが、推測するに写真対岸の木々が生い茂る辺りが南大手門跡だろう。


桑名市三之丸
南大手橋から東側旧桑名城内に入ったところ。江戸時代には武家屋敷が堀に沿って並んでいた。


立教小学校
立教小学校。校門前で”人面ジカのジョニー”が「飛び出すな」と注意を促す。


桑名城二之丸堀
桑名城二之丸西側に残る二之丸堀。


九華公園入口・扇橋
九華公園入口の扇橋で二之丸堀を渡る。桑名城本丸・二之丸は明治維新時に焼き払われ長らく荒廃していたが、昭和3年(1928年)九華公園として整備された。


桑名城址花菖蒲園
ちょうど”花菖蒲まつり”の開催時期で、花菖蒲園では満開の花菖蒲が城跡を彩っていた。


桑名城址花菖蒲園
花菖蒲の開花時期は6月上旬~中旬頃まで。良い時期に訪れた。


桑名城址花菖蒲園
伊勢・肥後・江戸系色とりどりの花菖蒲が咲き誇る。


花菖蒲
花菖蒲園にて。


桑名城二之丸跡
桑名城二之丸跡。


二之丸橋
二之丸跡と吉之丸跡を繋ぐ二之丸橋。


桑名城朝日丸跡
桑名城朝日丸跡。


吉之丸堀の橋上東屋
朝日丸跡と九華公園野球場を繋ぐ橋。東屋が橋の中ほどに設けられる。現在の朝日丸跡から九華公園野球場辺りにかけてが往時の朝日丸。現在は水堀に分断される形になっている。


九華公園野球場
本丸東側の内堀と朝日丸の一部は九華公園野球場に。


桑名城本丸跡
いよいよ桑名城の本丸跡へ。本丸御殿跡と思われる平地が広がるが、正保年間(1644年~48年)の絵図で本丸を見てみると、天守閣や櫓こそあれ「本丸平城」の記載があるのみで、肝心の本丸御殿は描かれていない。二之丸・三之丸御殿も同様である。


桑名城辰巳櫓跡
桑名城本丸の東南角、辰巳櫓跡。元禄14年(1701年)桑名大火による天守閣焼失後は、三重の辰巳櫓が桑名城のシンボル的建造物だった。明治維新時の桑名城解体で焼き払われ、土台のみが残される。その土台上に大砲が設置されているが、何故ここにあるのかがわからないらしい。


辰巳櫓跡より二之丸・朝日丸跡を望む
辰巳櫓跡より二之丸・朝日丸跡を望む。


桑名城本丸御門跡
桑名城本丸御門跡。現地に案内表記が無く正確ではないが、この菖蒲畑がある場所が二之丸から本丸への出入口だった本丸門跡。正保年間(1644年~48年)の絵図を見ると、この辺りに枡形と櫓門が設けられ、二之丸と本丸を繋ぐ屋根付きの廊下橋が架けられていた。この形態からこちらが本丸搦手にあたるのだろう。


桑名城神戸櫓跡
桑名城本丸の西南角、神戸櫓跡。土台のみが残る。文禄年間(1592年~96年)一柳直盛が当地に城郭を築いた際、伊勢神戸城(現 鈴鹿市神戸)の天守閣をここに移したと伝わる。本多忠勝の縄張りで、この天守閣は櫓としてそのまま残され、神戸櫓と名付けられた。


寛文年間 桑名城郭内地図
寛文年間の桑名城郭内地図(神戸櫓跡に設置の解説板より)。黒丸印が神戸櫓で、その隣に本丸門。やはり本丸御殿の描写は無い。


鎮国守国神社
本丸跡に鎮座する鎮国守国神社。松平定綱と松平定信を祭神に祀り、両人の諡号を合わせて神社名としている。


九華招魂社
鎮国守国神社の隣に九華招魂社。戊辰戦争から第二次世界大戦にかけて、桑名出身の戦没者を祀る。


九華招魂社にて
九華招魂社にて。


桑名市民プール
本丸跡より三之丸跡を望む。三之丸跡東側は桑名市民プールと化す。


桑名城天守閣跡
桑名城本丸の北東角、4重6階の天守が建てられていた天守閣跡。元禄14年(1701年)の桑名大火で天守閣は焼失し、以後再建されることは無かった。明治20年(1887年)建立された剱型青銅製の「戊辰殉難招魂碑」がその跡地に立つ。


桑名城本丸西側の内堀
桑名城本丸西側の内堀。写真右手が本丸跡、その奥辺りに三之丸から本丸へ通じる出入口が設けられ、本丸側に本丸門と枡形、櫓が設けられてた。古絵図からこちらが本丸の正門だったように見える。現在その通路は水堀に消え失せ、枡形等の遺構も現存しない。


フナムシ
内堀でフナムシを発見。ここは海岸なんだということを再認識。


柿安
三之丸跡に建つ柿安ビル。


本多忠勝像
同じく三之丸跡には本多忠勝像。徳川四天王の一人として武勇の誉れ高く、桑名城の築城と慶長の町割りで桑名藩創設に尽力した文武両道の名君。今の桑名を見て何を思うのだろうか。


吉之丸コミュニティパーク
三之丸の一部は吉之丸コミュニティパークとして緑地広場に。


堀川と桑名城城壁
多聞橋より堀川を望む。


堀川と桑名城城壁
中橋より堀川を望む。やはり桑名城址最大の見どころは、堀川東岸に残る城壁であろう。


撮影日:2014年6月7日(土)
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ジャンル : 旅行

プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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