宮(熱田)宿

【旧東海道歩き 第10日目】エクセルイン名古屋熱田→七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿→名鉄有松駅



【2014年6月8日(日)旧東海道 宮宿】
前日に桑名城址の散策を終えて桑名駅からJRに乗車、名古屋駅で名鉄本線に乗り換え神宮前駅へ。つまり七里の渡しは電車で迂回したということ。船が無ければ電車での移動となるのは必然、いつの日か七里の渡しに定期航路が復活することを願いつつ…泣く泣くの移動である。熱田駅から夜な夜な熱田神宮に参拝し、宿泊先のエクセルイン名古屋熱田に着く。一晩の宿をとった翌朝、宮宿側の七里の渡し渡船場跡を見学するため、宮宿を通り抜けて旧東海道を京方面へ向かう。桑名宿・宮宿ともにすばらしい渡船場があるにも関わらず、ここに定期航路が無いことは勿体ないと言うか、残念と言うべきか、渡し船があれば観光資源としては一級品であることを改めて実感。船に乗りながら宮重大根の切干を食べたり、土産に買ったりできれば尚更である。歴史的価値を鑑みて七里の渡しの定期航路の復活を切に願う。

七里の渡しの渡船場(宮の渡し)を抱え、熱田神宮の門前町として発展した宮(熱田)宿は、東海道にあって最大級の規模を誇った宿場町。熱田神宮の門前町だたことから宮宿の呼称が一般的であったが、幕府や尾張藩の公文書には熱田宿と表記される。天保14年(1843年)当時の人口10342人、家数2924軒、本陣は南部新五左衛門家(赤本陣)と森田八郎右衛門家(白本陣)の2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒。七里の渡しを挟んで隣の桑名宿と比較して旅籠の数が約2倍あるうえ、脇本陣格の旅籠が10余軒もあったというから、その繁栄ぶりが数字からも想像できよう。慶安4年(1651年)倒幕を図る由井正雪の乱(慶安の変)が発覚し、その影響で承応3年(1654年)以後は暮六つ(夕方6時前後)から明六つ(朝6時前後)までの夜間は渡船の出航が禁じられ旅客の宿泊が激増、宮宿の旅籠が他に抜きんでて多い理由である。

尾張藩は将軍をはじめ大名や公家等を迎え入れて接遇するため、渡船場付近に東浜御殿・西浜御殿を設け、西浜御殿に隣接させて熱田奉行所と舟奉行所を置いた。宿場東南側には加藤図書助の大きな屋敷地があり、天文16年(1547年)加藤順盛が当主のとき、織田家の人質となった6歳の松平竹千代(後の徳川家康)を預かりこの屋敷に幽居させた。かつては東西百八間五尺、南北五十六間ニ尺の屋敷地周囲に水堀と土塁を廻らせ、城郭を彷彿させる豪壮な屋敷で羽城とも称される。いつ頃まで加藤図書助屋敷が存在していたのかはっきりしないが、文化3年(1806)完成の「東海道分間延絵図」に見られることから、江戸期を通して存在していたのだろう。現在は宅地化されて遺構は残っておらず、僅かに羽城町・図書町の地名にその存在を留めていたが、昭和56年(1981年)両町は伝馬2丁目に統一されて消滅した。


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尾張名所図会 七里渡船着
尾張名所図会 七里渡船着(現地解説板より)
絵中央部の様々な船を係留する港に熱田常夜燈が見える。ここが七里の渡しの渡船場(宮の渡し)。右端に東浜御殿、中央左のなまこ壁を持つ長屋門らしき建物の左側一帯が西浜御殿。その門前の東海道上に熱田浜の鳥居が立つ。


エクセルイン名古屋熱田
エクセルイン名古屋熱田を出発。東海道宮宿散策にはもってこいの立地。


内田橋北袂
宿泊先のエクセルイン名古屋熱田から内田橋北袂へ移動。ここから宮の渡し公園を歩いて七里の渡しの宮宿渡船場跡へ向かおう。


東浜御殿跡
内田橋より新堀川上流を望む。右岸がかつての東浜御殿跡。かつてこの地は神戸(ごうど)の浜と呼ばれた海岸で、寛永元年(1624年)尾張藩はこの浜を埋め立てて東浜御殿を造営、三代将軍徳川家光が上洛の折、宿泊に利用した。


宮の渡し場跡
東浜御殿跡の奥に宮の渡し場跡。


東浜御殿跡
宮の渡し公園の一部と化した東浜御殿跡。埋立地の出島に造営された西浜御殿だが、現在は周辺部も埋め立てられ地形も変貌し、往時の面影は留めていない。


宮の渡し場跡
宮の渡し場跡。写真に見える鐘楼は、昭和20年(1945年)戦災で焼失した蔵福寺(名古屋市熱田区神宮2丁目)の”時の鐘”を偲び、昭和58年(1983年)に復元されたもの。


熱田湊常夜燈
尾張名所図会にも見える熱田湊常夜燈。寛永2年(1625年)尾張藩家老、犬山城主の成瀬正房が父の遺命を受けて須賀浦太子堂(現 聖徳寺・名古屋市熱田区大瀬子町)の隣地に常夜燈を建立。承応3年(1654年)現在地へ移され、渡し船の目標物となっていた。寛政3年(1791年)火災により焼失して同年中に再建、七里の渡しの航路が廃されて後は存在意義を失い長らく荒廃していたようだ。名古屋市教育委員会設置の解説板によると、この常夜燈は昭和30年(1955年)の復元、名古屋市の解説板によれば戦災で焼失し昭和58年(1983年)に復元したとあり、どちらが本当なのか定かではない。


丹羽家住宅
宮の渡し場跡の前にある丹羽家は伊勢久と称した脇本陣格の旧旅籠。正面の破風付玄関にらしさを残す。名古屋市有形文化財指定。


熱田荘
丹羽家住宅と同じく宮の渡し場跡の前には熱田荘。この建物は明治29年(1896年)に”魚半”の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用される。名古屋市有形文化財指定。


旧東海道 名古屋市熱田区内田町
渡船場跡より宮宿内の旧東海道へ。かつては写真左手に道が広がりその奥に西浜御殿、右手は神戸の浜で東浜御殿が見えていたはず。熱田浜の鳥居が立っていたのは尾関新聞店(写真左手前)前の路上辺りか。


西浜御殿跡
西浜御殿跡。承応3年(1654年)尾張藩二代藩主の徳川光友により造営された御殿で、正殿は安政年間(1854年~60年)常楽寺(半田市東郷町2丁目)に移築、他の建築物も明治初期に売却され、現在ここに往時の遺構は見れない。東西36間(約65m)、南北33間(59m)の敷地を有する豪壮なものだったという。


宝勝院
西山浄土宗、蓬寿山宝勝院。承応3年(1654年)から明治24年(1891年)まで熱田湊常夜燈を管理した。


宮宿赤本陣跡
南部新五左衛門家(赤本陣)跡。かつてはここに236坪の建坪、間口約16間(約29m)、奥行21間(約38m)の本陣屋敷が構えられていた。現在は戦災により遺構は全く残っておらず、解説板が立つのみ。


旧東海道 名古屋市熱田区伝馬1丁目
神戸町と伝馬1丁目の境、国道247号に分断される旧東海道。写真右斜めの小道が江戸方の旧東海道。


熱田伝馬町の追分
旧熱田伝馬町(現 名古屋市熱田区伝馬1丁目)の西北端、旧東海道から旧美濃路・佐屋街道が分岐。丁字路角に寛政2年(1790年)建立の道標が残り、その向かいには”ほうろく地蔵”が安置さていれる。


熱田伝馬町の道標
旧東海道と美濃路・佐屋街道の分岐点に残る道標。東は江戸街道、北が熱田神宮・美濃路・名古屋木曽道・佐屋津島道、南に行けば京伊勢七里の渡し方面であることを示す。


ほうろく地蔵
熱田伝馬町の追分に安置される”ほうろく地蔵”。この地蔵は三河国重原村(現 愛知県知立市)で野原に倒れていたところ、焙烙売りに拾われ荷物の片方の重石としてここまで運ばれてきた。焙烙を売り尽くしたことで重石が不要になり、地蔵は海辺に捨てられていたという。住民が不憫に思って拾い上げようとしたが動かず、その下を掘ってみると台石が埋もれており、皆が不思議に思って台石を掘り出し地蔵を置いてここに安置したという。上知麻我神社(源太夫社、現在は熱田神宮境内に遷座)旧地にあたる。


熱田神宮正門(南門)
追分から美濃・佐屋路を進み熱田神宮へ参拝に。正門(南門)から境内に入ろう。


熱田神宮の大楠
熱田神宮の大楠。弘法大師お手植えで樹齢千年以上と伝わる。


信長塀
熱田神宮で最も見たかったのが、この信長塀。桶狭間合戦の当日、清州城を出陣した織田信長は熱田神宮に寄り戦勝祈願。多勢に無勢ながら奇襲戦により大将今川義元の首級を挙げたことは誰もが知る話。その御礼に奉納したのがこの信長塀で、三十三間堂の太閤塀・西宮神社の大練塀と共に日本三大土塀の一つに数えられるという。


信長塀と西楽所・神楽殿
信長塀の奥に西楽所と神楽殿。


熱田神宮西楽所と神楽殿
写真左の西楽所は貞享3年(1686年)5代将軍徳川綱吉による再建。毎年5月1日に舞楽神事があり、ここで楽が奏される。相対してあった東楽所は昭和20年(1945年)戦災で焼失した。写真奥の神楽殿は平成21年(2009年)創祀千九百年の記念事業で造営、建物が真新しく、築300年以上の西楽所とは対照的な佇まい。


熱田神宮本宮
熱田神宮は景行天皇43年(113年)、 日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)にて薨去(こうきょ)され、宮簀媛命(みやすひめのみこと)が三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を熱田の地へ祀ったことに創祀。草薙神剣を御神体とする熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神に祀る。


熱田神宮本宮拝殿
多くの人が参拝に訪れる熱田神宮。


宮きしめん
境内にある”宮きしめん”に寄る。神宮の森の中にある開放型店舗、清々しい空気を感じながら名古屋名物のきしめんを頂こうではないか。


宮きしめん
赤つゆの”宮きしめん”。ほうれん草とネギに鰹節がたっぷりとのっかる。見た目と味が想像通りの美味しさ。


二十五丁橋
板石が25枚並んでいるいることから二十五丁橋と称し、名古屋最古の石橋とされる。尾張名所図会に紹介され、西行法師がここで休んだとの伝説も。


南神池
二十五丁橋の西側に南神池。ここで池を眺めつつ、しばしくつろぐ。心休まる贅沢なひと時。


旧東海道 名古屋市熱田区伝馬1丁目
熱田伝馬町の追分に戻って江戸方面へ。追分から江戸方に向かってすぐ、左手沿道に脇本陣の小出太兵衛家があったようだ。「熱田駅之図」(文政年間作成と推定)にその名が見られ、「東海道分間延絵図」にも同場所に脇本陣の記載がある。シティコーポ宮の東隣辺りか。


旧東海道 名古屋市熱田区伝馬1丁目
宮宿伝馬町を行く旧東海道。


宮宿白本陣跡
愛知県道225号と旧東海道の交差点南東角辺り(写真左手前)が森田八郎右衛門家(白本陣)跡と思われる。「尾張国町村絵図」から実相院との位置関係でそう推定するのだが、もしかすると県道上なのかもしれない。解説板等が無く詳細が不明。


姥堂
白本陣跡から旧東海道を江戸方に約100m程行けば右に姥堂を見る。延文3年(1358年)の創建、本尊姥像は熱田神宮にあったものここに移したと伝わるが、昭和20年(1945年)戦災により堂宇もろとも本尊も焼失。近代的に再建された堂宇には、平成5年(1993年)残っていた写真を元に復元された姥像を本尊に祀る。古くから地元では”おんばこさん”と呼び親しみ、安産や子育てにご利益がある家内安全の仏として信仰された。


旧裁断橋桁石
姥堂に保存される旧裁断橋桁石。かつて姥堂の東側横には精進川が流れ、東海道の通行人は裁断橋で渡河した。この橋には我が子を戦で亡くした母親の思いが込められている。天正18年(1590年)小田原征伐の陣中で我が子堀尾金助を亡くした母親は、その菩提を弔うため裁断橋を架け替えした。33回忌に再び橋の架け替えを計画したが志半ばで亡くなり、養子が母親の意思を継いで元和8年(1622年)に完成させたという。橋の擬宝珠には母親の思いが込められた銘文があり、通行する多くの人々はその銘文を読んで胸を打った。現在は旧地の姥堂に桁石が残るのみで、擬宝珠は腐食が進んだため名古屋市博物館に保管されている。


裁断橋跡
裁断橋が架けられていた精進川は、明治43年(1910年)川筋を付け替えて新堀川となり、旧川筋は大正15年(1926年)に埋め立てられた。写真手前辺りが裁断橋跡で、左側手前から2軒めが姥堂。


伝馬街園
姥堂から少し東側に進んだところに伝馬街園がある。現地解説板によれば、ここが江戸日本橋から89里目(約350km)、京三条大橋からは29番目(実測で約152km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる伝馬町一里塚のあった場所とされるが、これは間違い。歩いている時には認識していなかったが、伝馬街園のある地点は連続する鉤の手の枡形道跡で、南東側に熱田神宮の築出鳥居が立てられていた。その北東側(現 名古屋市熱田区神宮4丁目辺り)が正林寺(現 名古屋市天白区土原1丁目)の旧地、そこから東海道を江戸方へ少し行った所に一里塚があり、その跡地は国道1号の新熱田橋西詰辺りと推定される。一里塚跡は宮宿東端の旧築出町にあたり、築出町一里塚と言った方が正しい。


旧東海道 名古屋市熱田区伝馬3丁目
伝馬街園から熱田橋に向けて延びる旧東海道。ただしこの区間の旧道は明治期に新設されたと思われる旧東海道で、国道1号の新熱田橋ルートが江戸期の旧東海道にあたる。


神明社
国道1号の新熱田橋西詰に鎮座する神明社。この神社境内には明治21年(1888年)建立の「右知多郡新道」と刻む道標があり、これは現在の伝馬街園から熱田橋を通る明治期の新道を指し示しているのかもしれない。だとすると、新堀川開削の20年以上前に熱田橋ルートが確立していたことになる。


熱田橋
新堀川に架かる熱田橋。その上流部を渡る国道1号ルートが江戸期の旧東海道とは知らず、何の疑問も持たずに熱田橋で新堀川を渡河する。かつては築出町一里塚の東側、現在の新堀川辺りで宮宿の町並みは途切れ、八町畷と呼ばれる松並木道が東へ延びていた。


新堀川
熱田橋より新堀川を望む。新堀川は舟運利用の便を図るため、精進川の曲がりくねった川筋を改修し付け替えられた河川。昔は多くの船が往来していたのだろうなあ。


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笠寺観音

【2014年6月8日(日)旧東海道 宮宿→鳴海宿 道中】
宮宿を出て次の鳴海宿へは約7kmの道程、その道中に尾張四観音の一寺、笠寺観音がある。正式名を天林山笠覆寺と称し、天平5年(733年)善光という僧が自彫の十一面観音像を祀り、天林山小松寺を建立したのに始まりがあると伝わる。それから100年以上の後に堂宇は荒廃、藤原兼平(平安時代後期の官人、藤原北家小野宮流)がここを通り掛かったところ、風雨に晒されていた観音像に自分の笠を被せる心優しい娘を見初め、都へ呼び寄せ玉照姫と名付けて妻とした。兼平と玉照姫は縁を結んでくれた観音像に感謝し、御堂を建立して安置したという。観音像を笠で覆ったという故事に因んで笠覆寺の名が付けられ、今に笠寺観音と呼ばれる由縁。両人にあやかって縁結びや良縁成就、夫婦円満の祈願に訪れる人も多い。




国道1号側道 名古屋市瑞穂区内浜町
国道1号の側道を進み東海道本線の踏切を渡る。


内浜町の地蔵堂
踏切の脇にある地蔵堂。


トヨトミ
国道沿いに”トヨトミ”の巨大看板が。名古屋で見る太閤殿下の名だけに威厳を感じる。”トヨトミ”は大手暖房機器メーカーで、ここに本社工場を置く。


国道1号側道 名古屋市瑞穂区内浜町
内浜町を行く国道1号。かつては八丁畷と呼ばれた松並木の東海道だったが、現在その雰囲気は全く無い。


八丁畷公園
そんな国道1号と名古屋高速が交差する高架下には松田橋。かつて東海道を横切る用水路に架けられていた小橋、残存する親柱を使い八丁畷公園に復元された。


松田橋跡の解説板
松田橋跡の解説板より。絵図右が京方面で右端にある”さんだ橋”は裁断橋のこと、左が江戸方になる。松田橋の姿は絵図には見えない。


松田橋交差点
多くの車が往来する松田橋交差点。


旧東海道 名古屋市瑞穂区荒崎町
荒崎町の旧東海道。国道1号から車の喧騒を離れて旧東海道を進む。山崎川左岸の旧東海道沿いは本井戸田村の町家が並び出町と称した。


秋葉神社
秋葉神社の横を通り、その先で山崎川を渡る。


山崎橋
山崎川に架かる山崎橋。江戸時代には板橋が架けられていた。


吾妻屋
山崎川東詰にある吾妻屋で”鬼まんじゅう”なる和菓子を購入。


鬼まんじゅう
これが鬼まんじゅう。名古屋辺りではよく知られた和菓子だという。


旧東海道 名古屋市南区呼続
山崎橋東詰から先は旧山崎村の町並み。現在は呼続という地名になっているが、これは明治期に成立した村名。江戸期以前、呼続の台地西側はあゆち潟の海岸で、現在の呼続駅から本笠寺駅にかけての海岸を呼続の浜と呼んでいた。


山崎の長坂
山崎の長坂。山崎川から江戸方の旧東海道は、だらだらと続く上り坂。


山崎城跡(安泰寺)
線路左側の鬱蒼と木々が茂る小山が山崎城跡。現在は安泰寺。山崎城は織田信長の家臣、佐久間信盛が一時居城とした。廃城年不明。文化3年(1806)完成の「東海道分間延絵図」には安泰寺の隣に古城跡の記述が見られる。


安泰寺
山崎城跡に建つ安泰寺。


熊野三社
山崎の長坂上に鎮座する熊野三社。江戸期の山崎村は山崎橋近くを橋町、長坂から熊野三社にかけてを坂町、それより湯浴地蔵までを新町、更に南側を南町と分け称した。


熊野三社の手洗鉢
熊野三社の手洗鉢。かつて呼続の台地は周りを海と川に囲まれた半島状の地形で、白砂青松が美しい松巨嶋(まつこじま)と呼ばれる景勝地だった。この手洗は明和3年(1766年)建立、正面に松巨嶋を刻む。


熊野三社02
熊野三社。永禄年間(1558年~70年)。当時の山崎城主佐久間信盛が城中の守護神として祀ったことに始まり、寛永4年(1627年)現在地に再建された。


鎌倉街道古道
旧東海道は鎌倉街道と伝わる小路と交差。写真奥から手前にかけての道が旧東海道、左に折れる道が鎌倉街道古道で、白毫寺を経て”あゆち潟”の海を渡り熱田神宮へ通じていた。鎌倉街道は鎌倉時代に幕府が置かれる鎌倉へ通じていた道、江戸時代に東海道が整備されるまで東国と西国を結ぶ主要道だった。


鎌倉街道古道
鎌倉方面の鎌倉街道古道(写真左方向)。


湯浴地蔵(地蔵院)
旧東海道と鎌倉街道古道の交差する角にある湯浴地蔵(地蔵院)。鎌倉時代に鋳造されたと伝わる地蔵尊坐像を安置する。名の由来は参詣人が湯を浴びせ祈願したことから。


旧東海道 名古屋市南区呼続3丁目
呼続3丁目を行く旧東海道。旧山崎村の南町にあたる。


清水稲荷
立木観音長楽寺境内にある清水稲荷殿。長楽寺は弘法大師が清水叱枳尼眞天(しみずだきにしんてん)を本尊として創建したと伝わる。その本尊を祀るのがここ清水稲荷殿。


長楽寺境内にて
長楽寺境内にて。ニワトリが二羽…これはもしや。


名古屋コーチン
全国に名高いあの名古屋コーチンなのか!?こんな所で目の当たりにするとは。


旧塩付街道
旧東海道から分岐する旧塩付街道。かつて星崎七カ村(山崎・戸部・笠寺・本地・南野・荒井・牛毛村)は海に面して塩浜が広がり、塩の生産が盛んに行われた。ここで生産された塩は前浜塩と呼び、富部神社辺りから塩付街道を通って美濃や信濃方面へ運ばれた。この分岐点は旧戸部村にあたる。


富部神社祭文殿・回廊
富部神社は慶長8年(1603年)津島神社の牛頭天王を勧請し創建。もとは”戸部天王”や”蛇毒神天王”とも呼ばれた。慶長11年(1606年)松平忠吉(徳川家康四男)が本殿・祭文殿・回廊を建立、本殿は建立当時の建物が今に残り、慶長の建築様式を伝える。


旧東海道 名古屋市南区呼続5丁目
旧東海道は呼続5丁目で北から南東方向へ曲がり笠寺観音へ向かう。


笠寺商店街
笠寺商店街。この商店街から笠寺一里塚辺りまでの街道沿いは、笠寺村の町家が並び門前町を形成、立場が置かれていた。


笠寺西門交差点
笠寺西門交差点で旧東海道と名古屋環状線が交差。


笠寺観音西門
西門から笠寺観音こと笠覆寺の境内へ。


江戸時代後期の笠寺観音
現地設置の解説板より、江戸時代後期の笠寺観音(尾張名所図会)。本堂や開山堂をはじめ、仁王門・多宝塔・鐘楼等の伽藍を持つ荘厳な寺院、多くの参詣客が訪れている。


笠寺観音多宝塔
正保年間(1645年~1648年)建立の多宝塔。その前には「徳川家康御幼少之砌 人質交換之地」と刻む石碑を置く。天文18年(1549年)織田家の人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と、今川家に捕えられた織田信広(織田信長異母兄)の人質交換がここ笠寺観音で行われた。


笠寺観音笠覆寺本堂
笠寺観音笠覆寺本堂。宝暦13年(1763年)から文政11年(1828年)の再建、尾張名所図会に描かれている本堂はこの建物なのだろうが、本堂右隣に設けられていた渡り廊下と開山堂は失われている。


笠寺観音玉照堂
本堂前にある玉照堂。明治時代に笠寺観音は荒廃し、玉照姫を祀る堂宇も失われた。その後長らく再建されることなく、平成14年(2002年)になってようやく玉照堂が再建された。玉照姫と藤原兼平を祀る。


笠寺観音仁王門
笠寺観音正面入口の仁王門。文政3年(1820年)建立。


笠寺観音放生池(亀池)と弁財天
仁王門前の放生池(亀池)と弁財天。


玉照姫泉増院
笠寺観音の門前にある玉照姫泉増院。こちらも玉照姫を祀っている。


旧東海道 名古屋市南区笠寺町下新町
笠寺町下新町を行く旧東海道。


笠寺一里塚
東塚が現存する笠寺一里塚。塚上には旺盛な枝ぶりの榎が立つ。江戸日本橋から88里目(約346km)、京三条大橋からは30番目(実測で約156km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる。


旧東海道 名古屋市南区笠寺町柚ノ木・白雲町
笠寺一里塚の先、鳴海宿までは天白川を挟んで松並木の街道が続いた。


天白橋
天白橋で天白川を渡る。江戸時代には板橋が架けられていた。


天白川
天白橋より下流を望む。天白川を渡れば鳴海宿は近い。


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鳴海宿

【2014年6月8日(日)旧東海道 鳴海宿】

鳴海潟 汐の満干の度ごとに 路踏みかふる 浦の旅人

南北朝の時代、後醍醐天皇の第四皇子宗良親王が鳴海で詠んだという歌である。かつて鳴海の地は南西一帯に鳴海潟と呼ばれた干潟が広がり、古くから多くの歌枕に詠まれる景勝地だった。北西の笠寺方面に向かう旅人は干潮を見計らい、美しい青松白砂の松巨嶋を前方に見つつ、海の中に現れた道を踏みしめたのだろう。そんな在りし日の情景が目に浮かぶ歌である。しかしながら江戸時代初期から鳴海潟は干拓が進み、いつしか松巨嶋の青松白砂は消え失せ、宅地化した今に往時を偲ぶことは難しい景観となってしまったが、鳴海宿西外れの三王山に登って西を望めば、建物が林立する地形に何となく静かな波音を聞き、潮の香りを嗅ぐのである。東海道は江戸時代初期に鳴海潟の干拓地を横断して東西へ通す。

鳴海宿は天保14年(1843年)当時の人口3643人、家数847軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒。宿場京方より丹下町・北浦町・花井町・山花町・作町・根古屋町・本町・相原町・中島町・平部町と続き、中心部の作町・根古屋町・本町に本陣・脇本陣や旅籠が集まり、京・江戸方両入口に常夜燈を置く。本陣ははじめ浅岡家、後に根古屋町の西尾伊左衛門家が代々務め、嘉永年間(1848年~54年)より下郷(千代倉)家が引き継ぐ。脇本陣は江戸時代後期に本町の銭屋新三郎家と大和屋左七家の2軒、問屋場が花井町と本町に設けられ月番で務めた。名産品に絞り染めの有松・鳴海絞りがあり、現在は国の伝統工芸品に指定。

江戸時代前期に下里(千代倉)家二代当主を務めた吉親は、俳号を知足という芭蕉門下の俳人で、鳴海六俳仙の筆頭。本陣職の寺島伊右衛門(俳号を芙言)や問屋職の児玉重辰らが鳴海六俳仙に名を連ねた。下里家は千代倉の屋号で酒造業を営んだ豪商、三代目の時に”下里”から”下郷”へ字を変えている。知足をはじめ、秀雄(知足の長男で千代倉三代目、俳号蝶羽)、元雄(知足の四男で千代倉四代目、俳号亀世)、昌雄(蝶羽の九男で千代倉五代目、俳号常和)、寛(亀世の四男で千代倉六代目、俳号学海)ら多くの俳人を排出した。松尾芭蕉は貞享から元禄年間(1684年~1704年)にかけて4度鳴海を訪れ知足亭に宿泊、10泊という長逗留になることもあったようだ。




三王山
三王山の山裾を通り抜ける旧東海道。この辺りは往古の昔、鳴海潟の海浜だった場所である。


千句塚公園
三王山山頂に整備された千句塚公園。この場所が鳴海六俳仙の一人、寺島安信の屋敷跡らしい。寺島安信は本陣を務めた寺島(西尾)家の分家にあたる。


千鳥塚
三王山山頂にある千鳥塚。この碑は松尾芭蕉が貞享4年(1687年)寺島安信亭で詠んだ「星崎の 闇を見よとや 啼千鳥」を立句とする歌仙の巻が満尾したことを記念して建立。表面「千鳥塚」の文字は芭蕉の筆、裏面に「千句塚」と鳴海六俳仙の名が刻む。芭蕉存命中に建てられた唯一の翁塚だという。


三王山より鳴海潟跡を望む
三王山山頂より鳴海潟跡を望む。眼下の低地が鳴海潟、その奥にみえる小高い場所が笠寺の台地で、かつての松巨嶋である。昔は青松白砂の浜辺、干潮で現れる砂洲、そこに千鳥の群れが飛ぶ美しい景色が広がっていたのだろう。


鉾ノ木貝塚
三王山西麓、旧東海道沿いにある鉾ノ木貝塚。縄文時代早期から前期にかけての貝塚とのこと。つまり、今から1万年前以上前の貝塚で、太古の昔に海と共に暮らす縄文人の営みがここにあったわけだ。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町三王山
三王山西麓を行く旧東海道。


丹下町常夜燈と旧東海道
鳴海宿京方入口に立つ丹下町常夜燈。寛政4年(1792年)建立。常夜燈の立つ北東側一帯は三王山南端にあたり、戦国時代の桶狭間合戦当時、丹下砦が築かれていた場所。現在は光明禅寺がある。


光明禅寺(丹下砦跡)
丹下砦跡にある光明禅寺。丹下砦は織田信長が今川勢の最前線鳴海城を包囲するために築いた砦の一つ。桶狭間合戦当日、熱田神宮から今川義元を迎撃に向かう信長は丹下砦に入り、善照寺砦・中島砦を経て桶狭間に至ったと伝わる。


成海神社参道
旧東海道から成海神社参道が延びる。成海神社は延喜式内社で、日本武尊を主祭神に祀る。元は扇川北側の天神山にあったが、応永元年(1394年)その地に足利氏の武将安原宗範が根古屋城(鳴海城)を築いたため、現在地の乙子山に遷座したという。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町北浦
鳴海町北浦の町並み。


長翁寺
白龍山長翁寺。当初は鳴見町薬師山の地にあったが、永正年間(1573年~92年)に現在地へ移転。本尊は釈迦牟尼仏。薬師堂に安置する薬師如来像は、織田信長の持仏と伝わり”織田薬師”と呼ばれる。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町作町
鳴海町作町の町並み。


東福院山門
東福院山門。東福院は鎌倉街道沿いの地にあったが、寛永年間(1624年~45年)現在地に再建。鳴海(根古屋)城の廃材を用いた山門が残る。


東福院観音堂
東福院山門脇の観音堂には絵天井が見られる。


作町交差点
旧東海道は作町交差点で北から東へ曲がる。かつては作町から本町にかけて旅籠が軒を連ねた。


如意寺
作町にある頭護山如意寺。康平2年(1059年)開山、当初は青鬼山地蔵寺の名で鳴海町上ノ山辺りにあったが、 応永5年(1398年)如意輪観音を本堂に祀り現在地へ移転、応永20年(1413年)現在の寺号に改めた。本尊の地蔵菩薩は尾張国六地蔵第四番、蛤地蔵と呼び親しまれる。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町作町02
鳴海町作町の町並み。


鳴海宿本陣跡
鳴海宿本陣跡。ここに代々本陣を務めた西尾伊左衛門家の屋敷があり、その規模は間口39m・奥行・51m・建坪235坪・総畳数159畳。幕末に下郷(千代倉)家が本陣を引き継いでおり、その後に西尾家の本陣屋敷がどんな命運を辿ったのかはわからない。


旅籠扇屋跡
本陣跡向かいは旅籠扇屋跡。文化8年(1811年)扇屋からの出火で、本陣・脇本陣をはじめ宿場中心にあった旅籠の大半が焼失した。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町根古屋
鳴海町根古屋の町並み。


札の辻(本町交差点)
本町交差点はかつて東海道と庚申坂が交差する札の辻で、高札場が置かれていた。写真は交差点から江戸方の旧東海道を望み、左交差点角辺りが高札場跡、右交差点角辺りに脇本陣があった。ここの脇本陣が銭屋なのか、大和屋なのかは不明。


札の辻(本町交差点)と庚申坂
本町交差点より庚申坂を望む。坂途中の三菱東京UFJ銀行の鳴海支店前に復元高札があるようだが、何故か全く気付かなかった。


誓願寺
下里知足の菩提寺、誓願寺。


芭蕉最古の供養塔
誓願寺境内にある芭蕉供養塔。芭蕉没年の元禄7年(1694年)に建立、芭蕉の供養塔としては最古のもの。


圓道寺山門
庚申山圓道寺。山門に「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿像を掲げる。庚申信仰に基づく曹洞宗の尼寺。天正年間(1573年~92年)の開創で、青面金剛像を本尊とする。


圓道寺本堂
圓道寺本堂の屋根にも三猿像が。


天神社
庚申坂上に鎮座する天神社。成海神社の旧地にあたる。成海神社は応永元年(1394年)、根古屋城(鳴海城)の築城にあたり、現在地の乙子山へ遷された。


鳴海城跡公園
鳴海城跡公園。鳴海城は桶狭間合戦時に今川勢最前線の城で、岡部元信が城主。総大将の今川義元が織田勢の奇襲で討ち取られ今川勢は総崩れになったが、元信をはじめとする鳴海城兵は籠城して織田勢に抵抗を続け、義元の首級と引き換えに城を明け渡した。その後は織田方の佐久間信盛が城主に。天正年間(1573年~92年)末期に廃城になったといわれる。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町本町
鳴海町本町の町並み。


東(本町)の問屋場跡
名古屋市緑生涯学習センターの場所が東(本町)の問屋場跡。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町相原町
本町と相原町の境、旧東海道はクランク状に曲げられる。現地では曲尺之手(かねのて)と紹介されているが、枡形と呼ぶことが多い。旧宿場町や城下町でよく見られる道の形状で、見通しを悪くすることで敵の侵入を防ぐ目的がある。


御菓子司菊屋茂富
曲尺之手にある”御菓子司 菊屋茂富”。安政4年(1857年)開業の老舗和菓子店。

和菓子の菊屋茂富
http://www.mc.ccnw.ne.jp/kikuya/


御菓子司菊屋茂富
菊屋茂富で”鳴海潟と”いう阿波和三盆糖を用いた干菓子を購入。


千代倉 夢斉工房
相原町に”千代倉”と”夢斉工房”の看板を掲げる蕎麦屋。幕末に鳴海宿本陣を務めた造り酒屋”千代倉”の下郷家と何らかの関係がありそう。残念ながら閉店時間のようで店は開いておらず、後日に調べてみたところ、この裏手一帯の大きな屋敷地が千代倉下郷家らしい。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町相原町03
相原町にある旧商家。間口が狭くて奥行きの深い”鰻の寝床”をよく表している。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町相原町02
鳴海町相原町を行く旧東海道。


五平茶屋
相原町の東端付近、”ヘアーサロン クラウン”の隣に五平茶屋なる店が目に留まる。”山ごぼう 味噌漬”と書かれており、漬物店だったのか。現在は営業していないようだ。


瑞泉寺山門
黄檗宗の大本山、萬福寺(京都府宇治市)の総門を模した瑞泉寺山門。瑞泉寺は宇治市の根古屋城(鳴海城)を築いた安原宗範が応永3年(1396年)に創建したと伝わる。当初は瑞松寺と称し、文亀元年(1501年、永正元年の説も)現在地へ移り、後に現寺号へ改めた。解説板には宝暦5年(1755年)下郷弥兵衛の援助で堂宇を完成したとあり、江戸期を通して下郷家が相当な有力者だったことがうかがえる。


瑞泉寺境内より中島橋を望む
瑞泉寺境内より旧東海道の中島橋を望む。扇川を中島橋で渡れば鳴海宿の相原町から中島町(現 名古屋市緑区鳴海町下中)へ。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町下中
旧鳴海宿中島町(現 鳴海町下中)を行く旧東海道。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町平部
鳴海宿江戸方端の平部に入って。まず目に留まったのが”うなぎの魚仙”。旧宿場町に鰻屋はよく似合う。


金剛寺
鳴海町平部の旧東海道沿いにある紫雲山金剛寺。宝暦10年(1760年)瑞泉寺二十世呑舟の開山、本尊は木像行者菩薩像で、当初は行者堂と称す。昭和17年(1942年)本尊行者菩薩の金剛杖から金剛寺に寺号を改めた。


旧東海道 名古屋市緑区鳴海町平部
鳴海宿江戸方入口付近の旧東海道。


平部町常夜灯
鳴海宿江戸方出入口に残る平部町常夜灯。文化3年(1806年)建立。正面に「秋葉大権現」が刻まれており、宿内の火防を祈願して建立したのだろうが、皮肉にもその5年後に本町の旅籠扇屋を火元にし、宿場中心部の大半を焼く大火が発生している。


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しまむー

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千葉県在住。

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東海道 東海道を歩いてます。


1日目(2013/5/19)三条大橋→大津宿 MAP
2日目(2013/7/13)大津宿→草津宿 MAP
3日目(2013/7/14)草津宿→石部宿 MAP
4日目(2013/8/3)石部宿→水口宿 MAP
5日目(2013/8/4)水口宿→土山宿 MAP
6日目(2013/10/13)土山宿→坂下宿→関宿 MAP
7日目(2014/3/9)関宿→亀山宿→庄野宿 MAP
8日目(2014/5/3)庄野宿→石薬師宿→四日市宿 MAP
9日目(2014/5/4)四日市宿→桑名宿→七里の渡し跡 MAP
10日目(2014/6/8)七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿 MAP
11日目(2014/11/2)鳴海宿→池鯉鮒宿 MAP
12日目(2015/4/4)池鯉鮒宿→岡崎宿 MAP
13日目(2015/5/23)岡崎宿→藤川宿 MAP
14日目(2015/7/19)藤川宿→赤坂宿→御油宿 MAP
15日目(2015/9/22)御油宿→吉田宿 MAP
16日目(2015/11/29)吉田宿→二川宿 MAP
17日目(2016/2/20)二川宿→白須賀宿→新居宿 MAP
18日目(2016/4/3)新居宿→舞坂宿→浜松宿 MAP
19日目(2016/5/6)浜松宿→見付宿 MAP
20日目(2016/5/7)見付宿→袋井宿 MAP
21日目(2016/6/25)袋井宿→掛川宿 MAP
22日目(2016/7/17)掛川宿→日坂宿→金谷宿 MAP
23日目(2016/10/8)金谷宿→島田宿 MAP

高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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