有松
【2014年6月8日(日)旧東海道 鳴海宿→池鯉鮒宿 道中】
鳴海宿を出て約1kmも歩けば有松の町並み。有松は江戸時代初期に尾張藩が移住者を募り、鳴海宿と池鯉鮒宿の間に成立させた間の宿。移住者の一人、竹田庄九郎は絞り染めの手業を考案して手拭いの製造販売を始め、後に豊後から移住してきた医師三浦玄忠の夫人が国元の括り絞りの技法(三浦絞)を持ち込んだことで、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げ、”有松絞り”のブランドが確立する。”有松絞り”の浴衣や手ぬぐい等は東海道を往来する旅人の土産として人気を博し、鳴海等の周辺地域にも広がりをみせたため、有松村は天明元年(1781年)尾張藩に絞り染めの庇護を訴え、営業独占権を与えられた。以来、有松は製造販売の中心地となり、豪壮な絞問屋の店が並んで大きく発展、今に往時の町並みを伝えている。有松の近隣に名の知れた鳴海宿があり、江戸では”鳴海絞り”の名が定着していたようで、現在は”有松・鳴海絞り”と表記されることが多い。

広重浮世絵「東海道五十三次之内鳴海 有松里 名ぶつ絞店」(蔦屋吉蔵版)
「東海道五十三次浮世絵 絵葉書集 絞りのふる郷有松」より

鳴海宿を出て曽根の旧東海道を進む。かつて鳴海宿と有松の間は松並木の街道だった。

曽根に鎮座する神明社。元伊勢伝承の神社だという。

四本木交差点を行く旧東海道。

四本木を行く旧東海道。松並木の街道が延びていたはずだが面影は残っていない。

手越川を鎌研橋で渡る。

鎌研橋の少し先、名鉄名古屋本線を越えた所に有松一里塚跡。江戸日本橋から87里目(約342km)、京三条大橋からは31番目(実測で約160km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となり、復元一里塚が設置されている。

旧有松村の江戸方端にある祇園寺。

祇園寺前には東海道五十三次二代目松があるが、まだ若松で少々頼りない。有松村の成立時よりここにあったという樹齢300年を超える松が、昭和55年(1980年)に枯松となり伐採。その古松から採種し苗木を育て植えられたのが二代目の松。初代の松が有松という地名の由来に関係しているのかもしれない。

祇園寺の向かいにある神功皇后車(西町)の山車庫。西町の山車庫に格納する神功皇后車は、明治6年(1873年)に造られ、有松に現存する3基の山車のうち、もっとも古くから曳かれているもの。毎年10月第1日曜日の有松天満社秋季大祭で曳き出される。

明治期まで山形屋の屋号で絞問屋を営んだ小塚家。二階の塗篭壁と卯建に重厚感を見せる建物。往時の繁栄ぶりを彷彿とさせる佇まい。

江戸時代末期建築の岡家住宅。一階の連子格子となまこ壁、二階は白漆喰の塗籠に縦格子窓を持つ。重厚ながらも美しさを併せ持つ気品ある建物。

竹田家住宅。こちらも他に負けじ劣らずの風格ある佇まい。笹加の屋号で絞問屋を営んだ。主屋は江戸期の建築と推定される塗篭造。有松は天明4年(1784年)の大火で村の大半を焼失、店を再建する際には燃えにくい漆喰による塗篭造、瓦葺屋根を採用し火災に備えた。

唐子車山車庫。中町の山車、唐子車を格納する。唐子車は天保年間(1830年~44年)に知多内海で建造、明治8年(1875年)に中町が購入した。

重厚感たっぷりの袖蔵を持つ中濵商店。

寛政2年(1790年)創業の井桁屋。今も有松絞を商う。
井桁屋
http://www2.ocn.ne.jp/~igetaya/4701.html

有松山車会館。有松の山車3基(布袋車・唐子車・神功皇后車)を毎年交代で展示する。

服部家住宅とその分家、服部幸平家住宅の倉。服部家(写真右奥)は寛政2年(1790年)創業の井桁屋を屋号にする絞問屋、主屋をはじめ井戸屋形・店倉・藍倉・門などの建物が残り、絞問屋の屋敷遺構を今に残す。その東隣に服部家から分家し井桁一の屋号を名のった服部幸平家の蔵(写真右手前)が残る。

名古屋有松郵便局。有松の景観に配慮した局舎。

有松村の江戸方出入口、松野根橋。ここで本日の旧東海道歩きは終わり。夕闇迫る有松を戻ろう。

有松夜景、有松山車会館付近。
、

築100年の古民家を改装して営業する寿限無茶屋。大きな狸の置物が客を迎える。
手打ちめん処 寿限無茶屋
http://www.mc.ccnw.ne.jp/jyugemu/

有松絞の開祖とされる竹田庄九郎ゆかりと伝わる建物、中舛竹田荘。近年に老朽化が進み取り壊される予定だったところ、現名古屋市長の河村たかし氏のひと声で一転、所有者の竹田家をはじめとする市民の協力を得て、”有松まちなみ保存ファンド基金”を活用し改築。現在は高齢者向けのデイサービスセンターとして再生している。失われてしまっては戻すことが不可能なのが歴史的建造物、名古屋市長の判断がすばらしい。

日の光が途絶えて、ほのかな灯火に浮かぶ小塚家住宅。

ひと気の無くなった有松の町を一人歩いていると、江戸時代に賑わいをみせた広重の浮世絵に入ってしまったかのような錯覚に陥る。

有松の旧東海道から有松駅前に移動。イオンタウン有松を見て広重の浮世絵から現代に引き戻される。

有松駅より帰途につく。
【旧東海道歩き 第10日目】エクセルイン名古屋熱田→七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿→名鉄有松駅 歩行距離約16.3km
鳴海宿を出て約1kmも歩けば有松の町並み。有松は江戸時代初期に尾張藩が移住者を募り、鳴海宿と池鯉鮒宿の間に成立させた間の宿。移住者の一人、竹田庄九郎は絞り染めの手業を考案して手拭いの製造販売を始め、後に豊後から移住してきた医師三浦玄忠の夫人が国元の括り絞りの技法(三浦絞)を持ち込んだことで、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げ、”有松絞り”のブランドが確立する。”有松絞り”の浴衣や手ぬぐい等は東海道を往来する旅人の土産として人気を博し、鳴海等の周辺地域にも広がりをみせたため、有松村は天明元年(1781年)尾張藩に絞り染めの庇護を訴え、営業独占権を与えられた。以来、有松は製造販売の中心地となり、豪壮な絞問屋の店が並んで大きく発展、今に往時の町並みを伝えている。有松の近隣に名の知れた鳴海宿があり、江戸では”鳴海絞り”の名が定着していたようで、現在は”有松・鳴海絞り”と表記されることが多い。

広重浮世絵「東海道五十三次之内鳴海 有松里 名ぶつ絞店」(蔦屋吉蔵版)
「東海道五十三次浮世絵 絵葉書集 絞りのふる郷有松」より

鳴海宿を出て曽根の旧東海道を進む。かつて鳴海宿と有松の間は松並木の街道だった。

曽根に鎮座する神明社。元伊勢伝承の神社だという。

四本木交差点を行く旧東海道。

四本木を行く旧東海道。松並木の街道が延びていたはずだが面影は残っていない。

手越川を鎌研橋で渡る。

鎌研橋の少し先、名鉄名古屋本線を越えた所に有松一里塚跡。江戸日本橋から87里目(約342km)、京三条大橋からは31番目(実測で約160km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となり、復元一里塚が設置されている。

旧有松村の江戸方端にある祇園寺。

祇園寺前には東海道五十三次二代目松があるが、まだ若松で少々頼りない。有松村の成立時よりここにあったという樹齢300年を超える松が、昭和55年(1980年)に枯松となり伐採。その古松から採種し苗木を育て植えられたのが二代目の松。初代の松が有松という地名の由来に関係しているのかもしれない。

祇園寺の向かいにある神功皇后車(西町)の山車庫。西町の山車庫に格納する神功皇后車は、明治6年(1873年)に造られ、有松に現存する3基の山車のうち、もっとも古くから曳かれているもの。毎年10月第1日曜日の有松天満社秋季大祭で曳き出される。

明治期まで山形屋の屋号で絞問屋を営んだ小塚家。二階の塗篭壁と卯建に重厚感を見せる建物。往時の繁栄ぶりを彷彿とさせる佇まい。

江戸時代末期建築の岡家住宅。一階の連子格子となまこ壁、二階は白漆喰の塗籠に縦格子窓を持つ。重厚ながらも美しさを併せ持つ気品ある建物。

竹田家住宅。こちらも他に負けじ劣らずの風格ある佇まい。笹加の屋号で絞問屋を営んだ。主屋は江戸期の建築と推定される塗篭造。有松は天明4年(1784年)の大火で村の大半を焼失、店を再建する際には燃えにくい漆喰による塗篭造、瓦葺屋根を採用し火災に備えた。

唐子車山車庫。中町の山車、唐子車を格納する。唐子車は天保年間(1830年~44年)に知多内海で建造、明治8年(1875年)に中町が購入した。

重厚感たっぷりの袖蔵を持つ中濵商店。

寛政2年(1790年)創業の井桁屋。今も有松絞を商う。
井桁屋
http://www2.ocn.ne.jp/~igetaya/4701.html

有松山車会館。有松の山車3基(布袋車・唐子車・神功皇后車)を毎年交代で展示する。

服部家住宅とその分家、服部幸平家住宅の倉。服部家(写真右奥)は寛政2年(1790年)創業の井桁屋を屋号にする絞問屋、主屋をはじめ井戸屋形・店倉・藍倉・門などの建物が残り、絞問屋の屋敷遺構を今に残す。その東隣に服部家から分家し井桁一の屋号を名のった服部幸平家の蔵(写真右手前)が残る。

名古屋有松郵便局。有松の景観に配慮した局舎。

有松村の江戸方出入口、松野根橋。ここで本日の旧東海道歩きは終わり。夕闇迫る有松を戻ろう。

有松夜景、有松山車会館付近。
、

築100年の古民家を改装して営業する寿限無茶屋。大きな狸の置物が客を迎える。
手打ちめん処 寿限無茶屋
http://www.mc.ccnw.ne.jp/jyugemu/

有松絞の開祖とされる竹田庄九郎ゆかりと伝わる建物、中舛竹田荘。近年に老朽化が進み取り壊される予定だったところ、現名古屋市長の河村たかし氏のひと声で一転、所有者の竹田家をはじめとする市民の協力を得て、”有松まちなみ保存ファンド基金”を活用し改築。現在は高齢者向けのデイサービスセンターとして再生している。失われてしまっては戻すことが不可能なのが歴史的建造物、名古屋市長の判断がすばらしい。

日の光が途絶えて、ほのかな灯火に浮かぶ小塚家住宅。

ひと気の無くなった有松の町を一人歩いていると、江戸時代に賑わいをみせた広重の浮世絵に入ってしまったかのような錯覚に陥る。

有松の旧東海道から有松駅前に移動。イオンタウン有松を見て広重の浮世絵から現代に引き戻される。

有松駅より帰途につく。
【旧東海道歩き 第10日目】エクセルイン名古屋熱田→七里の渡し跡→宮宿→鳴海宿→名鉄有松駅 歩行距離約16.3km

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