永禄3年(1560年)に起きた桶狭間の戦い、日本の歴史上で最も有名な奇襲戦ではなかろうか。海道一の弓取りと称され、戦国時代に駿河・遠江を領国に持ち、武田信玄や北条氏康と肩を並べる大勢力を誇った今川義元。三河の松平家を傘下に収め、自ら大軍を率いて本格的に尾張への侵攻を開始、その先に上洛を見据えた進軍だったとされる。迎え撃つ織田信長は尾張一国をようやくまとめあげたにすぎない小大名、多勢に無勢の戦力差から籠城するとの見方に反し、寡兵を率いて桶狭間に休憩する義元本隊を果敢に急襲、今川勢に一矢報いるどころか戦国大名今川家当主の義元を討ち取ってしまう。この合戦を機に今川家は没落。松平元康(後の徳川家康)は岡崎城を本拠に今川家から自立し、三河領回復を目指して後に信長と清州同盟(織徳同盟)を結ぶ。信長は東に脅威が無くなったことで伊勢・美濃方面の侵攻に専念し、急速にその勢力を拡大させていく。桶狭間の戦いは信長にとって天下布武を初動させた合戦と言ってよいだろう。
なぜ、織田信長は寡兵で首尾よく今川義元を討ち取ることができたのだろうか。私がイメージする桶狭間の合戦というと、織田勢など恐るるに足らぬと余裕綽々の今川義元が、物見遊山な気分で桶狭間の隘路を輿に乗って行軍、その道中で豪雨に見舞われ本陣を設けて小休止する。そんな最中、織田信長率いる軍勢は豪雨に紛れて粛々と義元本陣に近づき、「狙うは義元が首一つ!」と信長の号令のもと、崖上から義元本陣めがけて突撃し、見事に義元を討ち果たす。今川勢敗北の原因は義元の油断にあり、私自身そんなイメージを持っていた。当然ながら桶狭間は狭い谷間の地形なのかと思いきや、百聞は一見に如かずとはこのこと、桶狭間は丘陵に挟まれた谷底平野の一帯を指しており、江戸期には一村をなした地域だったのである。私が桶狭間という名から想像していた谷間とは随分とイメージが違う。しかも義元は谷間ではなく桶狭間山に休憩していたとされ、更に義元が討たれたとされる場所が2か所もあり、双方が本物と論陣を張っている状況、まったく訳がわからないのだ。桶狭間の戦いはわずか2時間程度で決着がついたといい、合戦までの経過については今なお謎が多く、それを象徴するように奇襲戦ではなく正面攻撃だったとする説や、今川勢に一矢報いる織田勢が偶然に義元を討ち取ってしまった説等、随所において様々な説が取り沙汰される。ここは桶狭間古戦場をつぶさに歩き回り、できうる限りの資料に目を通したうえで、自分なりに見解をまとめ記事に書き残すことにした。
まずは、桶狭間という地について。織田信長の旧臣太田牛一が書いた「信長公記」によれば、「御敵今川義元は四万五千引率しおけはざま山に人馬の休息これあり」と記し、「運の尽きる験にや、おけはさまと云う所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云事限りなし」と景観を書き、続けて「深田へ逃入る者は所をさらずはいずりまはるを、若者ども追ひ付き追ひ付き二つ三つ宛手々に頸をとり持ち、御前へ参り候」と合戦の様子を描写している。”おけはざま”は当然ながら戦国期には存在していた地名であり、江戸期の古文書では桶迫間や桶廻間の表記を大方用いているが、宝永2年(1705年)作成の「桶狭間古戦場之図」や江戸末期作成の「尾張名所図会」等は桶狭間の表記を用いている。読みさえ合っていれば様々な当て字を使っていた時代のこと、これに気を留める必要はない。桶狭間の表記に統一されるのは明治11年(1878年)のことである。天保12年(1841年)の知多郡桶廻間村図面によれば、大池を中心に丘陵狭間の谷底平野に広がる田園地帯と、そこに散在する民家の様子が見て取れる。現在も大池は水を湛えており、この池の周辺一帯が桶廻間村の村域で、現在も桶狭間の地名が広範囲に見られる。
そこで今川義元が「人馬の息をやすめこれあり」とした”おけはざま山”はどこを指すのか。それを示す絵図等が無く、桶狭間山がどこなのかはっきりしていない。桶狭間が位置する知多半島の基部は、広範囲に丘陵と谷底平野が複雑に交錯する地形、戦国時代に丘陵をなす山々は決まった名もない起伏が大半で、”おけはざま山”もその類であろう。太田牛一が指す”おけはざま山”は”桶狭間にある山”と捉えてよい。つまり桶狭間を取り囲む山々の全てが”おけはざま山”の比定地ということになる。しかしながら、名古屋市緑区と豊明市の双方とも桶狭間山を同一地に推定している。それは桶狭間山とする丘陵の西麓側に名古屋市緑区の古戦場跡、東麓側に豊明市の古戦場跡があり、双方ともここを桶狭間山としないと辻褄が合わなくなってしまう。周辺一帯には両市の古戦場跡をはじめ、関連する史跡が点在しており、様々な検証から至った結論であろう。桶狭間を俄に散見した程度の知識しかない私には、特に否定する理由も無いどころか、理に適っていると納得したしだい。その推定地は現在の桜花学園大・名古屋短大から南側一帯の丘陵地である。
次は桶狭間の戦いにおける織田勢と今川勢の戦力差について。「信長公記」によれば、今川勢4万5千に対し織田勢は2千程度。「信長公記」の著者太田牛一は、織田信長の旧臣であり桶狭間合戦にも従軍していたとされ、実際の見聞で知り得た兵力なのだろうが、今川勢4万5千は余りに多く、それほどの大兵力に感じていたのか、それとも今川方がそう喧伝していたのを真に受けたのか。近年の研究では今川勢は2万から2万5千、織田勢が3千から5千程度の兵力だったとされる。今川勢の兵力のうち義元率いる本隊は5千程度だったとされ、義元本隊と直接対決できれば寡兵の信長勢でも十分に勝機があったということ。信長がどんな作戦をとり、どんな展開で義元は討ち取られたのか、そのキーになりそうなのは織田勢の動きより、桶狭間合戦直前に義元本隊が入城する沓掛城(豊明市沓掛町)から、義元本隊はどこへ向かい、どこを通ったかということにありそう。ここで名古屋市緑区側と豊明市側の解説板をまとめてみたので、下の地図を見てほしい。
桶狭間古戦場(1)"の地図内には、戦国時代における推定海岸線、鎌倉街道・大高道・東浦道のおおよそのルート、当時は無かった旧東海道、桶狭間合戦直前の布陣地(織田方:青、今川方:赤)を記入。
織田・今川本隊の進軍路は、名古屋市緑区側(織田進軍路:青色、今川進軍路:橙)と豊明市側(織田進軍路:紫色、今川進軍路:赤色)の解説板やパンフレットを参考に記入。沓掛城にいた今川義元は尾張侵攻にあたって二通りの進軍路があったはず。一つは当時の主要道、鎌倉街道を通って岡部元信が守る鳴海城へ、もう一つは東浦道から大高道を経て松平元康がいる大高城へ入城する二通り。後者は名古屋市緑区側の解説板にある進軍路である。先遣隊の松平元康隊は大高城に入城して兵糧を運び入れ、桶狭間合戦当日の明け方、朝比奈泰能と共に丸根砦の佐久間盛重や鷲津砦の織田秀敏・飯尾定宗を攻撃し、両砦を陥落させている。これは義元を迎え入れるための攻撃だったと考えるべき。信長は丸根砦・鷲津砦攻撃の報せを受けて清州城を出陣しており、この時まで義元が沓掛城から鳴海城と大高城のいずれへ向かうのか判断しかねており、両砦攻撃の報を受けて今川本隊が大高城へ向かうことを確信し、桶狭間に向かう決断をしたのだろう。それならば、今川義元本隊は東浦道と大高道を通って大高城へ向かったのか。それは否と思える。
では、今川義元本隊が沓掛城から大高城へどのルートを使ったのか?名古屋市緑区側の解説板によれば、義元は沓掛城から東浦道を進み、東ノ池付近から大高道を行かず、近崎道という里道を北上して桶狭間を迎える。このルートならば名古屋市緑区側の古戦場跡が正当であり、豊明市側に入り込む余地はない。しかしながら、義元本隊が大高城に向かったとするならば、近崎道という里道を進むことが不自然に思えてならない。一方、豊明市側の解説板は沓掛城から大高城へほぼ最短ルートを進むように桶狭間山へ向かっており、義元進軍路についてはこちらに分があるように思える。本国から遠方への侵攻戦にあっては、移動時間を短縮するため主要城を最短に結ぶ軍用道路の整備は重要であり、武田信玄が信濃侵攻のために整備した棒道は有名。義元も尾張侵攻を本格化させるべく、沓掛城から大高城へ最短ルートの軍用道路を整備したことは想像に難くない。そして今川本隊がこの軍用道路を通り、桶狭間山付近で待ち伏せれば、義元を討てる可能性が高いとの情報を信長にもたらしたのは誰か?おそらく桶狭間の戦いにおいて勲功一番とされた簗田政綱だろう。合戦後に信長は簗田政綱に今川方より奪い取った沓掛城を与え、その勲功に報いている。つまり、沓掛城から大高城へ至る最短を通す軍用道路の途中に桶狭間山があったはず。そう考えると、名古屋市と豊明市が推定する桶狭間山の位置は正しいと納得できるのだ。地名の由来については定かでないが、それを裏付けるように桶狭間付近には”武路”なんていう地名まで残っている。
ここで信長がとった今川勢迎撃の作戦を考えてみよう。従来より定説とされてきた迂回奇襲説は、小瀬甫庵により書かれた「信長記」が基になっている。「信長記」は太田牛一の「信長公記」に脚色を加え書き直したもので、元和8年(1622年)に刊行。読み物として面白いことから広く流布し、江戸期を通して再版が相次いだ。江戸中期以降に書かれた桶狭間合戦に関する合戦記等の書物は、甫庵の「信長記」がベースになっている。その「信長記」によれば、「敵勢の後の山に至って推廻すべし。去る程ならば、山際までは旗を巻き忍び寄り、義元が本陣へかかれと下知給ひけり。」とあり、この一文が迂回奇襲説の根拠となっている。一方、近年になって取り沙汰される正面攻撃説は、「信長公記」に奇襲をうかがわせる記述が無いどころか、むしろ中島砦から義元本隊に正面切っての突撃を思わせる描写で、これを根拠としている。「信長公記」は江戸期を通して一般刊行されず、一部の大名や公家が写本で読める程度の書物だったため、近年になって研究が進んで正面攻撃説が唱えられるようになった。現在では「信長記」は創作性が強く、「信長公記」が史料としての価値が高いとの評価である。
それならば桶狭間の戦いは奇襲戦ではなかったのか。私はそうは思わない。やはり奇襲戦だったと考えたい。素人目線ながら、少なく見積もって5倍以上の兵力を持つ敵相手に、真正面から攻撃を仕掛けるだろうか。人知を超えた信長なら可かもしれないが、それは無謀な策というものだ。ここで今川勢を追い返すだけでなく、義元を討ち取っておかなければ、今川の尾張侵攻はこれからも続くのである。今川本隊の不意をつき、攻撃を仕掛けるチャンスがあるのならば、この奇襲作戦を採用するのが常道となろう。実際に従軍していた太田牛一が書いていないのは確かなのであるが、奇襲を決行するからには織田本隊の行軍路は最重要機密であり、牛一自身も合戦時に奇襲作戦は知らされていなかったはず。「信長公記」は牛一が日々書き残した日記類を、江戸時代初期に自身がまとめあげた書物である。小瀬甫庵は牛一を「愚にして直」と人物評価しており、後から奇襲作戦を知り加筆するのは牛一の許すところではなかったのではないか。余談となるが、「足利季世記」という書物がある。長享元年(1487年)から元亀2年(1571年)にかけての畿内の合戦記で、成立年代は安土桃山時代とされる。「信長公記」や「信長記」の成立以前に書かれたものであり、これの巻五に「十九日尾州ヲケハサマト云処ニテ伏兵起テ義元ハ信長ノ為ニ打レケル」とある。ここにはっきり”伏兵”と書かれており、奇襲戦とする根拠と考えてもよいのではないか。
織田本隊の動きにも触れておこう。名古屋市緑区側の解説板によれば、織田本隊は熱田神宮から最前線の中島砦に移動、ここから佐々政次、千秋四郎、梶川重実を残し、太子ヶ根を経て桶狭間山北側の狭隘地、釜ヶ谷と呼ばれる場所に兵を動かしている。釜ヶ谷は丘陵に深く切れ込んだ谷間で、桶狭間山を行軍する義元本隊からはひと山越えての死角にあたり、松井宗信隊が布陣する幕山や高根山からも間の生山に遮られ視認できない。一方、豊明市側の解説板によれば、中島砦から旧東海道ルートに近い谷底平野を経て、桶狭間山に本隊を進めている。これは義元本隊を正面攻撃する説を基にしていると思われ、いくら豪雨の中といえども、ここを通ったら高根山や幕山に布陣する松井宗信隊に発見される可能性が高い。信長が「義元が首一つ」を目的とするならば、信長率いる精鋭部隊は余計な戦をせず、完全な状態で義元本隊にぶつけたいと考えたはず。信長本隊の進軍路については名古屋市緑区側の解説板が示すように、粛々と鎌倉街道南側の丘陵地帯を通り、太子ヶ根を経て釜ヶ谷に着陣したと考えるべきだろう。
次に中島砦の佐々政次、千秋四郎隊は、無謀にも寡兵で今川本隊に先行する松井宗信隊に攻撃を仕掛けている。両人とも討死してしまうのであるが、本来ならば中島砦に籠り、敵襲に備えて守備すべきはず。これも奇襲作戦の一手と考えるべきだろう。つまり、信長は織田本隊を釜ヶ谷に待ち伏せさせ、佐々・千秋隊が先陣の松井宗信隊に攻撃を仕掛けることで、桶狭間山の山中に義元をできるだけ長い時間留めておきたかった。何故ならば、いかに大軍といえども行軍中は隊列が細長くなる。更に桶狭間山を越える道は、山の鞍部を通しているために道の両側は低木と雑草が生い茂る上り斜面、ここで義元を襲えば守りが手薄なうえに、義元が大高城と沓掛城のいずれへ逃げようとしても、山の両麓は深田が連なる低湿地帯なのである。しかも豪雨の後、逃げ道は限りなく無い。そして、信長の想定通りに桶狭間山の山中で義元は行軍を止め、行軍が困難な程の豪雨に見舞われ混乱、そのままひと休みとなった。信長は確信しただろう、天運は我にありと。
上の地図に桶狭間合戦時の状況をまとめたので参照してほしい。信長は釜ヶ谷で本隊を二手に分け、今川本隊に襲いかかった。この作戦を信長がとったとするならば、名古屋市緑区側と豊明市側の両古戦場跡辺りが激戦地になり、今川義元が大高城と沓掛城のどちらに逃げようと考えたかがわかれば、どちらが本物なのかが特定できそうである。しかし、今となってはそんな義元の行動を知ることは不可能、どちらとも桶狭間山の麓にあり、似たような低湿地帯であることを鑑みれば、どちらも正しいと思えてくるのだ。いずれにしても両古戦場跡は激戦地になった可能性が高い。そして、今川義元は討たれた。先行していた井伊直盛や松井宗信も異変に気づき慌てて駆け付けたが、時すでに遅し。織田軍の勢いを止めることはできず、両人とも討死してしまう。敵大将をはじめ有力武将を討ち取られた今川勢は戦意喪失し、織田軍は更に勢いを増して尾張国内の今川勢を一掃。一小大名に過ぎなかった織田信長が、尾張に織田信長あり!と天下に名を轟かせたのである。
この記事に書いた桶狭間の戦いは、あくまで私が見聞きした上でまとめた私感なので、参考程度にしていただければと思う。皆さんも機会があれば是非とも桶狭間を訪れ、自分なりの桶狭間の戦いを想像し、様々な説を唱えてほしい。桶狭間の戦いは定説が無く、今でも…、今となってはと表現した方がよいのか、とにかく謎の多い合戦。多勢に無勢の織田信長が勝利したということもあるが、敵の総大将を討ち取ってしまうという、これほど明快な結果を伴った合戦にもかかわらず。歴史というものは真実も大事かもしれないが、一つの答えより十人十色の答えがあった方が面白い。そういう意味で桶狭間の戦いは格好の題材である。タイムマシンでもない限り、本当のところは誰にもわからないのだから。さて、この辺りで桶狭間の戦いについて結論としよう。
桶狭間の戦いは織田信長の綿密な計画のもとに実行された奇襲戦である!

高根山南麓より高根山(写真右奥)を望む。写真左前が幕山にあたる。高根山と幕山は今川本隊に先行して松井宗信隊が着陣した。

高根山南麓(上写真と同位置)より生山を望む。ここから生山を越えた向こうが、織田信長本隊が義元本隊を急襲する直前に着陣した釜ヶ谷となる。

高根山山頂には有松神社が鎮座。桶狭間合戦当時、ここから今川方の鳴海城、織田方の善照寺砦や中島砦を一望できた。

高根山より幕山を望む。現在は開発が進み住宅地と化している。

幕山北公園付近の幕山。

桶狭間周辺には溜め池が多くみられ、いずれも江戸時代に灌漑用水を確保するために築造されたと考えられている。写真は幕山南麓にある地蔵池。江戸時代には周辺道路の名をとり、有松道池や鳴海道池と表記される。池の北岸に地蔵堂があり、地蔵池の名はこの地蔵堂を由来とする。

桶狭間古戦場公園。こちらが名古屋市緑区側の今川義元討死の地。近年の研究に基づき、整備された公園で、現在ではこちらの方が義元討死の地として有力になっている。

昭和初期のおけはざま山[桶狭間古戦場跡の解説板より]。写真左手が桶狭間山、右手前に広がる田園辺りが現在の桶狭間古戦場公園にあたる。昭和初期とは風景が一変しており、写真の一帯は今や住宅地と化す。

桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元像。

今川義元公墓碑と駿公墓碣碑。写真右の駿公墓碣碑は、昭和28年(1953年)田楽坪と呼ばれた現在の桶狭間古戦場公園で偶然に発見されたものという。建立年不明。名古屋市緑区側が義元討死地の根拠とされる一つである。

桶狭間古戦場公園内にある桶狭間の戦いのジオラマ。

桶狭間古戦場公園より東側斜面にある”おけはざま山今川義元本陣跡”。地元郷土史家の梶野渡氏により平成21年(2009年)解説板が設置され、義元の本陣跡とされる場所。

桶狭間山より桶狭間を望む。谷底平野をなす桶狭間の地形がわかるが、一帯は住宅地と化していることもよくわかる。

桶狭間古戦場公園夜景。

江戸時代に桶廻間村の中心に位置した大池。昭和36年(1961年)愛知用水が完成し、灌漑用水を供給していた大池は溜め池としての役目を終えたが、いまだ豊富な水を湛えている。

大池の東岸にある瀬名陣所跡。今川家家臣の瀬名氏俊が義元本隊に先立ち、義元が昼食をとるための本陣を設営するためここに着陣したと伝わる。当時はトチノキの林だったが、後に竹林になり、地元では”セナ藪”や”センノ藪”と呼ばれた。昭和61年(1986年)大池の堤防工事でセナ藪は取り払われた。

大池の西岸にある戦評の松。今川家家臣の瀬名氏俊が、武将を集めて戦評を行ったと伝わる。初代の松は伊勢湾台風で倒れ、現在の松は三代目。白装束をまとった今川義元の亡霊が白馬に跨り現れると云う。いつ義元の亡霊が現れてもおかしくない雰囲気だったが、霊感の無い私には何も見えなかった…。

次は豊明市の桶狭間古戦場伝説地へ。桶狭間古戦場跡としては、こちらの方が歴史が古い。江戸時代中期に桶狭間古戦場とされた地で、義元をはじめとする有力武将が討死したとされる場所に7つの石標(七石表)を置く。東海道沿いに位置することから、「尾張名所図会」や「桶狭間合戦縁記」等、絵図に紹介されて観光地となっていた。昭和12年(1937年)国史跡に指定されるが、最近はこちらより名古屋市緑区側に分がある感じ。

こちらにはボランティアガイドがおり、古戦場跡に残る石碑等について丁寧に説明してくれる。観光客にとっては有難い配慮だ。現在の劣勢が挽回できるよう祈るばかり。

ボランティアガイドの方に釜ヶ谷の場所を尋ねたところ、親切にも地図を書いていただく。有難うございました。

七石表の一号碑。明和8年(1771年)建立。今川義元が討死したとされる場所に立つ。

七石表の一号碑近くには今川義元の墓がある。明治9年(1876年)義元の墓と伝わる塚上に、有松の山口正義が建立した。

桶狭間古戦場址碑と弔古碑。文化6年(1809年)津島の神官氷室豊長により建立された弔古碑は、尾張藩の儒学者秦鼎が書いた桶狭間の戦いを回顧する文や詩が刻まれる。

桶狭間古戦場伝説地の西側斜面にある”徳本の名号”(写真中央、円筒形の小塔)。江戸時代後期に浄土宗の高僧、徳本行者が桶狭間の戦いで戦死した兵士の霊を弔うために建立した。

今川義元仏式の墓碑。義元の三百回忌にあたる万延元年(1860)の建立。

嘉永6年(1853年)尾張藩士により建立された”お化け地蔵”。多くの人間が戦死した地であるだけに、昔から亡霊にまつわる噂があったようだ。この地蔵を建立したことで、亡霊は現れなくなったという。

高徳院境内にある今川義元本陣跡碑。こちらが豊明市が今川義元本陣跡とする場所。義元討死地が2ヶ所あることから、やはり本陣跡も2ヶ所あるわけだ。

高徳院の墓地内にある松井宗信墓。今川義元の墓と同じく明治9年(1876年)山口正義による建立。すぐ近くに松井宗信討死地を示す七石表のニ号碑がある。

桶狭間古戦場伝説地の北側にある桶狭間病院・藤田こころケアセンタービッグケイ。昭和33年(1958年)の建設当時、ここには池があり、いくつもの刀剣や武具が出土したという。

ボランティアガイドの方に書いて頂いた地図を頼りに釜ヶ谷へ向かう。写真はその途中の喫茶オール前で、桶狭間山とされる丘陵の鞍部を通っている。私が沓掛城と大高城を最短に結ぶ軍用道路と考えた道筋にあたる。

釜ヶ谷と七ツ塚を案内する道標。先に七ツ塚を見ておこう。

織田信長が桶狭間の戦いによる戦死者を埋葬するために築いたと伝わる七ツ塚。当時は7つの塚が並んでいたらしいが、長い時を経て周辺が住宅地と化し、今や民家の一角に一つの塚が残るのみ。塚を壊すのも命がけだったようで、塚を壊した者には祟りがあったと云う。

ここが織田信長が今川本隊を急襲する直前に着陣したと伝わる釜ヶ谷。

釜ヶ谷の南端を流れる愛知用水。天井川となっている。

愛知用水より釜ヶ谷を望む。現在の釜ヶ谷は名古屋市と豊明市の境で、桜花学園大学と名古屋短期大学の敷地になっている。

昨日訪れた桶狭間を望む桶狭間山に再び立つ。ここが桶狭間の地形をよく理解できる眺望なのだ。ここから桶狭間山南麓方面へ移動。

大高道・東浦街道と近崎道の分岐点辺りとされる東ノ池。名古屋市緑区側の解説によれば、今川義元本隊は沓掛城から東浦街道を進み、この辺りで近崎道を北上して桶狭間へ向かったとしている。

桶狭間山と大池の間にある長福寺へ。桶狭間合戦前の天文7年1538年)善空南立上人による創建。西山浄土宗。今川義元に仕える茶坊主林阿弥が、義元供養のために奉納したと伝わる阿弥陀如来像を本尊に祀る。ここで林阿弥が今川方武将の首検証をさせられたと伝わり、境内の放生池は別名を”血刀濯ぎの池”とも呼ぶ。

長福寺には正徳4年(1714年)今川家縁者より奉納された今川義元木像を安置、御霊碑と共に寺宝とする。訪れた時は名古屋城天守閣で展示中の貼り紙が。

ひと通り桶狭間山を散策したところで、桶狭間古戦場伝説地へ戻る。伝説地の近くにある”カフェハウス ファミール”で遅めの昼食をとることに。

この記事の締めくくりはファミールのオムライスで。
撮影日:2014年11月1日(土)、2日(日)
テーマ : 街道の旅
ジャンル : 旅行