函館五稜郭
旧東海道から話は逸れて桶狭間の次は戊辰戦争最後の舞台となった函館五稜郭。訪れたのは年も押し迫った昨年暮れ。早朝の上野駅から東北新幹線はやぶさ1号新青森行に乗車、新青森駅からスーパー白鳥1号を乗り継いで函館駅に着いたのは正午過ぎ、函館朝市で土産のタラバガニや毛ガニをそそくさと買い、函館市電で五稜郭へ向かう。12月になって北日本は猛烈な大寒波に襲われ、各地で大雪や暴風雪の大荒れな天気が続き、例年雪の少ない函館辺りも結構な雪が積もっているのかと思いきや、予想に反して雪は例年よりも少ないくらい。そのため凍結した路面がつるつるの状態で、特に横断歩道は危険地帯、何度路上でこけそうになったことか…。北海道出身者にあるまじき醜態である。さてさて、本題に入ろう。
函館山から北東に約6km、函館市街中央の平地に位置する五稜郭は、江戸幕府により築城された稜堡式城郭。箱館の開港に伴い、箱館奉行所を置く函館山山麓では港に近く、外国船から艦砲射撃の射程距離に入るため、その移転地として安政4年(1857年)から築造がはじまり、7年もの歳月をかけて元治元年(1864年)にようやく完成した。その2年後には坂本龍馬の暗躍により薩長同盟が結ばれており、この時薩長を中心とする新政府軍に攻撃される運命を誰が予想していたことか。縄張りはヨーロッパ各地の城塞都市を参考にし、五角形をなす郭の周りを水堀や土塁・石垣で囲む日本では珍しい城郭で、他には長野県佐久市の龍岡城に見られるだけ。5つの角は大砲攻撃の死角をなくすため、突き出た形となっており、これを稜堡と呼ぶ。このため実際には五角形が変形して星形の縄張りとなっている。
五稜郭完成から3年後の慶応3年(1867年)、大政奉還により江戸幕府は政権を朝廷へ返上、翌年に新政府(明治政府)が成立する。箱館奉行所は新政府に移管され、後に箱館府と改称して蝦夷地の統治機関となる。戊辰戦争が大詰めを迎えつつある明治元年(1868年)8月、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走、仙台で幕臣・大鳥圭介や新選組・土方歳三をはじめとする旧幕府陸軍と合流し、同年10月に鷲ノ木(茅部郡森町鷲ノ木町)から蝦夷地に上陸、軍を二手に分け箱館に向けて進軍を開始する。大鳥圭介率いる一隊は内陸路を進んで峠下(亀田郡七飯町峠下)で新政府方の箱館府軍や松前藩兵を撃退し五稜郭へ。一方の土方歳三率いる一隊は海岸路を進み川汲峠で箱館府軍を撃退し、湯の川を経て五稜郭に向かう。この報を受けた箱館府知事・清水谷公考は青森へ退却、旧幕府軍は無人の五稜郭を占拠する。旧幕府軍の勢いは止まらず、更に松前・江差へ進軍して蝦夷地全域を制圧した。
明治2年(1869年)4月、新政府軍は反撃を開始するべく乙部に上陸、三方から箱館に向かって進軍し、圧倒的な戦力をもって箱館を除く道南各地をほぼ制圧、同年5月に箱館総攻撃を開始。これにより五稜郭支城の四稜郭が陥落し、一本木関門付近で土方歳三が戦死、箱館市街は新政府軍により制圧され、箱館湾では旧幕府軍の艦隊がほぼ全滅する。箱館港にあった新政府軍の軍艦甲鉄は、旧幕府軍の本拠地・五稜郭に向けて艦砲射撃を開始、砲弾が旧箱館奉行所の太鼓櫓に命中し、箱館港からの艦砲射撃が五稜郭を充分に射程圏に捉えていることを旧幕府軍に知らしめる。続いて旧幕府方の弁天岬台場や千代ヶ岡陣屋が陥落し、ついに五稜郭にあった旧幕府軍の幹部は降伏を決め、道南各地で繰り広げられた旧幕府軍と新政府軍の7ヶ月に及ぶ攻防戦は終結した。

約5ヶ月ぶりに函館駅に降り立ち。

まずは函館朝市へ。

函館朝市内にある蟹商でタラバと毛ガニをセレクト。今年はカニの値段が高騰しているとの報道を耳にしていたが、やはり朝市も例外ではなかったようで。「去年より値段が高くなったねえ…。」と店の方に聞いてみたところ、「ロシアから入ってくる量が激減しているんだよね。」とのこと。ニュースになっていたので御存知の方も多いと思うが、ロシアで水揚げされた7割は密漁だったらしい。

函館駅前の風景が5ヶ月前とは一変。函館駅前で棒二森屋と並んで双璧をなしていた和光ビルが解体され、建設現場の状態に。函館を訪れる度、一服に利用していた和光ビル1Fのドトールはどこへ行ってしまったのか。

和光ビル跡に並ぶ工事現場の衝立。戦後に最盛期を迎えた函館駅前・大門地区の古写真を掲載していた。

函館駅前から市電に乗り五稜郭へ。写真は五稜郭に隣接して聳える五稜郭タワー。

五稜郭には多くの観光客が訪れる。5ヶ月前に函館山を登ったときにも感じたことだが、観光客の大半は中国系観光客だったように見受けられた。

五稜郭の出入口、一の橋と二の橋を渡って郭内へ入ろう。

五稜郭の出入口前に設けられる半月堡より一の橋を望む。

半月堡は五稜郭の正面出入口を守備するために設置された防御施設で、近世城郭に言う馬出にあたり、三角形の特徴ある塁堡。戊辰戦争当時は旧幕府軍が新政府軍の進攻を受け、物々しい防備体制を敷いていたのだろうが、今は平和な光景を見るばかりである。

半月堡より五稜郭内に入る二の橋を望む。

水面が凍結する五稜郭水堀。明治時代初期よりここで切り出された天然氷は、函館氷(五稜郭氷とも)と呼ばれ、東京に運ばれて販売されていた。冷凍庫が無かった当時、氷は貴重品だったのである。

五稜郭門番所跡。郭内の正面出入口に置かれた門番の詰所、出入する者を監視した。

本塁上より五稜郭タワーを望む。日が沈んでゆく。

平成18年(2006年)復元工事がはじまり、平成22年(2010年)に完成した箱館奉行所。箱館戦争時に新政府軍の艦砲射撃が着弾して破壊された太鼓櫓も現代に復活している。

観光客が群がるここに何がある?

観光客が引けて見に行ったら、ここにあるのは武田斐三郎先生顕彰碑。函館奉行支配諸術調所教授役という長い肩書を持つこの御仁は、五稜郭の築城設計と監督を務めた人。多くの人が顔を触った形跡と思われるのだが、顔だけが金色になっている。何らかのご利益があるのか。

これが復元された箱館奉行所。

慶応4年(1868年)に撮影された箱館奉行所の古写真(現地解説板より)。上の写真と比較してほしい。忠実に復元されていることがわかる。

箱館奉行所前にある供溜腰掛跡。奉行所を訪れた人の従者が待機していた建物があった。今後の復元に期待。

函館奉行所を内部見学しよう。入館料は一般個人は500円。

箱館奉行所大広間。手前から四之間・三之間・二之間と続き最奥が床の間や違い棚、天袋等を設ける一之間。座敷の襖を全て開け放つと72畳もの大広間となる。

箱館奉行所表座敷。箱館奉行の執務室にあたり、奉行所内で最も格式の高い部屋。

庶務や経理を行なう定役の執務室。定役室と隣の調役室は五稜郭や箱館戦争に関するパネル等を展示する。

内玄関に展示される式台の埋め甕。平成17年(2005年)発掘調査の際、玄関式台と内玄関式台跡から発見された信楽焼の大甕で、能舞台に事例がある音を反響させる目的や、建築に関わる儀式的な目的があったと推測されるが、理由ははっきりわかっていない。玄関式台跡で5個の甕、内玄関式台跡に3個の甕が埋められていた。

箱館奉行所を後にし、五稜郭タワーへ移動。一般大人料金の840円を支払い、エレベータで展望室へ。

展望室に展示される五稜郭の模型。箱館奉行所をはじめとする往時の建物の様子がよくわかる。

そして本物の五稜郭を望む。

箱館奉行所が復元されたことで五稜郭の魅力は確実に増した。その予定があるのか知らないが、模型に見るような往時の建物を全て復元し、箱館戦争を扱う映画やドラマのロケ地になれば、観光地としての注目度は抜群だろう。

展望室より函館市街と函館山を望む。函館山裏の津軽海峡にはイカ釣り漁船の漁火が。素晴らしい眺め。

函館山を背景にした夜景もすばらしい。

午後5時よりイルミネーションが点灯する模様。しばし待つことに。

展望室に鎮座する土方歳三のブロンズ像。新選組副長を務めた土方歳三は、鳥羽伏見や甲州勝沼、宇都宮城、会津と各地を転戦、新政府軍に対し徹底抗戦するが、ついに箱館戦争で銃弾を受け戦死した。最後まで幕府を守るために戦ったラストサムライであろう。

イルミネーション点灯時間を待ちながら、五稜郭に関する展示を見よう。これが模型とパネルを使った展示で、なかなか興味深い。訪れた時には是非とも時間を割いて見学してほしい。

五稜星の夢イルミネーションが点灯!展望室からは星形に彩る全貌を見ることができなかったのが少々残念、もう少し高い位置から見ることができれば良かったのだが、それは無茶な要望というものだろう。

展望室を降りて1階アトリウムに。

光り輝くイルミネーションに照らされ、箱館戦争で使われた30ポンド短カノン砲や仏式四斤山砲(いずれも実物大模型)を展示する。

五稜郭タワーを後に。次に函館を訪れた時は四稜郭に行ってみようと思う。
撮影日:2014年12月28日(日)
函館山から北東に約6km、函館市街中央の平地に位置する五稜郭は、江戸幕府により築城された稜堡式城郭。箱館の開港に伴い、箱館奉行所を置く函館山山麓では港に近く、外国船から艦砲射撃の射程距離に入るため、その移転地として安政4年(1857年)から築造がはじまり、7年もの歳月をかけて元治元年(1864年)にようやく完成した。その2年後には坂本龍馬の暗躍により薩長同盟が結ばれており、この時薩長を中心とする新政府軍に攻撃される運命を誰が予想していたことか。縄張りはヨーロッパ各地の城塞都市を参考にし、五角形をなす郭の周りを水堀や土塁・石垣で囲む日本では珍しい城郭で、他には長野県佐久市の龍岡城に見られるだけ。5つの角は大砲攻撃の死角をなくすため、突き出た形となっており、これを稜堡と呼ぶ。このため実際には五角形が変形して星形の縄張りとなっている。
五稜郭完成から3年後の慶応3年(1867年)、大政奉還により江戸幕府は政権を朝廷へ返上、翌年に新政府(明治政府)が成立する。箱館奉行所は新政府に移管され、後に箱館府と改称して蝦夷地の統治機関となる。戊辰戦争が大詰めを迎えつつある明治元年(1868年)8月、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走、仙台で幕臣・大鳥圭介や新選組・土方歳三をはじめとする旧幕府陸軍と合流し、同年10月に鷲ノ木(茅部郡森町鷲ノ木町)から蝦夷地に上陸、軍を二手に分け箱館に向けて進軍を開始する。大鳥圭介率いる一隊は内陸路を進んで峠下(亀田郡七飯町峠下)で新政府方の箱館府軍や松前藩兵を撃退し五稜郭へ。一方の土方歳三率いる一隊は海岸路を進み川汲峠で箱館府軍を撃退し、湯の川を経て五稜郭に向かう。この報を受けた箱館府知事・清水谷公考は青森へ退却、旧幕府軍は無人の五稜郭を占拠する。旧幕府軍の勢いは止まらず、更に松前・江差へ進軍して蝦夷地全域を制圧した。
明治2年(1869年)4月、新政府軍は反撃を開始するべく乙部に上陸、三方から箱館に向かって進軍し、圧倒的な戦力をもって箱館を除く道南各地をほぼ制圧、同年5月に箱館総攻撃を開始。これにより五稜郭支城の四稜郭が陥落し、一本木関門付近で土方歳三が戦死、箱館市街は新政府軍により制圧され、箱館湾では旧幕府軍の艦隊がほぼ全滅する。箱館港にあった新政府軍の軍艦甲鉄は、旧幕府軍の本拠地・五稜郭に向けて艦砲射撃を開始、砲弾が旧箱館奉行所の太鼓櫓に命中し、箱館港からの艦砲射撃が五稜郭を充分に射程圏に捉えていることを旧幕府軍に知らしめる。続いて旧幕府方の弁天岬台場や千代ヶ岡陣屋が陥落し、ついに五稜郭にあった旧幕府軍の幹部は降伏を決め、道南各地で繰り広げられた旧幕府軍と新政府軍の7ヶ月に及ぶ攻防戦は終結した。

約5ヶ月ぶりに函館駅に降り立ち。

まずは函館朝市へ。

函館朝市内にある蟹商でタラバと毛ガニをセレクト。今年はカニの値段が高騰しているとの報道を耳にしていたが、やはり朝市も例外ではなかったようで。「去年より値段が高くなったねえ…。」と店の方に聞いてみたところ、「ロシアから入ってくる量が激減しているんだよね。」とのこと。ニュースになっていたので御存知の方も多いと思うが、ロシアで水揚げされた7割は密漁だったらしい。

函館駅前の風景が5ヶ月前とは一変。函館駅前で棒二森屋と並んで双璧をなしていた和光ビルが解体され、建設現場の状態に。函館を訪れる度、一服に利用していた和光ビル1Fのドトールはどこへ行ってしまったのか。

和光ビル跡に並ぶ工事現場の衝立。戦後に最盛期を迎えた函館駅前・大門地区の古写真を掲載していた。

函館駅前から市電に乗り五稜郭へ。写真は五稜郭に隣接して聳える五稜郭タワー。

五稜郭には多くの観光客が訪れる。5ヶ月前に函館山を登ったときにも感じたことだが、観光客の大半は中国系観光客だったように見受けられた。

五稜郭の出入口、一の橋と二の橋を渡って郭内へ入ろう。

五稜郭の出入口前に設けられる半月堡より一の橋を望む。

半月堡は五稜郭の正面出入口を守備するために設置された防御施設で、近世城郭に言う馬出にあたり、三角形の特徴ある塁堡。戊辰戦争当時は旧幕府軍が新政府軍の進攻を受け、物々しい防備体制を敷いていたのだろうが、今は平和な光景を見るばかりである。

半月堡より五稜郭内に入る二の橋を望む。

水面が凍結する五稜郭水堀。明治時代初期よりここで切り出された天然氷は、函館氷(五稜郭氷とも)と呼ばれ、東京に運ばれて販売されていた。冷凍庫が無かった当時、氷は貴重品だったのである。

五稜郭門番所跡。郭内の正面出入口に置かれた門番の詰所、出入する者を監視した。

本塁上より五稜郭タワーを望む。日が沈んでゆく。

平成18年(2006年)復元工事がはじまり、平成22年(2010年)に完成した箱館奉行所。箱館戦争時に新政府軍の艦砲射撃が着弾して破壊された太鼓櫓も現代に復活している。

観光客が群がるここに何がある?

観光客が引けて見に行ったら、ここにあるのは武田斐三郎先生顕彰碑。函館奉行支配諸術調所教授役という長い肩書を持つこの御仁は、五稜郭の築城設計と監督を務めた人。多くの人が顔を触った形跡と思われるのだが、顔だけが金色になっている。何らかのご利益があるのか。

これが復元された箱館奉行所。

慶応4年(1868年)に撮影された箱館奉行所の古写真(現地解説板より)。上の写真と比較してほしい。忠実に復元されていることがわかる。

箱館奉行所前にある供溜腰掛跡。奉行所を訪れた人の従者が待機していた建物があった。今後の復元に期待。

函館奉行所を内部見学しよう。入館料は一般個人は500円。

箱館奉行所大広間。手前から四之間・三之間・二之間と続き最奥が床の間や違い棚、天袋等を設ける一之間。座敷の襖を全て開け放つと72畳もの大広間となる。

箱館奉行所表座敷。箱館奉行の執務室にあたり、奉行所内で最も格式の高い部屋。

庶務や経理を行なう定役の執務室。定役室と隣の調役室は五稜郭や箱館戦争に関するパネル等を展示する。

内玄関に展示される式台の埋め甕。平成17年(2005年)発掘調査の際、玄関式台と内玄関式台跡から発見された信楽焼の大甕で、能舞台に事例がある音を反響させる目的や、建築に関わる儀式的な目的があったと推測されるが、理由ははっきりわかっていない。玄関式台跡で5個の甕、内玄関式台跡に3個の甕が埋められていた。

箱館奉行所を後にし、五稜郭タワーへ移動。一般大人料金の840円を支払い、エレベータで展望室へ。

展望室に展示される五稜郭の模型。箱館奉行所をはじめとする往時の建物の様子がよくわかる。

そして本物の五稜郭を望む。

箱館奉行所が復元されたことで五稜郭の魅力は確実に増した。その予定があるのか知らないが、模型に見るような往時の建物を全て復元し、箱館戦争を扱う映画やドラマのロケ地になれば、観光地としての注目度は抜群だろう。

展望室より函館市街と函館山を望む。函館山裏の津軽海峡にはイカ釣り漁船の漁火が。素晴らしい眺め。

函館山を背景にした夜景もすばらしい。

午後5時よりイルミネーションが点灯する模様。しばし待つことに。

展望室に鎮座する土方歳三のブロンズ像。新選組副長を務めた土方歳三は、鳥羽伏見や甲州勝沼、宇都宮城、会津と各地を転戦、新政府軍に対し徹底抗戦するが、ついに箱館戦争で銃弾を受け戦死した。最後まで幕府を守るために戦ったラストサムライであろう。

イルミネーション点灯時間を待ちながら、五稜郭に関する展示を見よう。これが模型とパネルを使った展示で、なかなか興味深い。訪れた時には是非とも時間を割いて見学してほしい。

五稜星の夢イルミネーションが点灯!展望室からは星形に彩る全貌を見ることができなかったのが少々残念、もう少し高い位置から見ることができれば良かったのだが、それは無茶な要望というものだろう。

展望室を降りて1階アトリウムに。

光り輝くイルミネーションに照らされ、箱館戦争で使われた30ポンド短カノン砲や仏式四斤山砲(いずれも実物大模型)を展示する。

五稜郭タワーを後に。次に函館を訪れた時は四稜郭に行ってみようと思う。
撮影日:2014年12月28日(日)

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