池鯉鮒宿
【旧東海道歩き 第12日目】名鉄知立駅→池鯉鮒宿→岡崎宿→名鉄岡崎公園前駅
【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿】
桜前線が日本列島を北上する最中、各地から続々と届く桜満開の報せに触発され、昨年11月以来の約5ヶ月ぶりとなる4月最初の週末、久々に旧東海道を歩くことに。池鯉鮒から次に目指す岡崎は岡崎城を中心に発展した城下町、岡崎城址は岡崎公園として整備され、園内をはじめ周辺の乙川堤や伊賀川堤には約1000本のソメイヨシノが植えられ、”日本さくら名所100選”に選定の知る人ぞ知る桜の名所。4月1日より”岡崎の桜まつり”を開催しており、同月5日には家康行列が催行されるとの情報を得て、これは絶好の機会と、知立へ前日の金曜日入り。土曜日中に知立から岡崎間の旧東海道を歩き、日曜日に岡崎城下と家康行列をゆっくり見よう!見所満載の歩き旅となりそうだ。しかしながら東海地方週末の天気はあまりよくない予報、花散らしの雨が降らないことを祈りつつ…。
池鯉鮒宿は江戸日本橋から数えて39宿目、京都三条大橋からならば15宿目にあたる東海道の宿場町。池鯉鮒と書いて”ちりゅう”と読む。現在は”知立”で表記され読み方は変わらない。実は現在の”知立”の方が古くからの表記で、平安時代以前の書物や木簡に”智立”や”知立”の地名がみられ、古代よりこの地に鎮座する知立神社に地名の由来があるという。鎌倉時代以降に”智鯉鮒”の表記が現れ、江戸時代以降は”池鯉鮒”が一般的に使われるようになった。かつて慈眼寺(知立市山町桜馬場)裏手一帯に御手洗池という大池があり、知立神社に渡御する神輿を洗うために用いられる殺生禁断の池だった。そのため鯉や鮒が多くいて、”池鯉鮒”という表記が発生したという。同じ読みでありながら”知立”から”池鯉鮒”へ、いずれにしても難読地名でありながら、そう読めないことない。上手いこと当て字をしたものだ。
天保14年(1843年)当時の池鯉鮒宿人口1620人、家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒。宿内は京方より西町・本町・中町・山町の4町に分かれ、宿場両端の出入口に見附を設けて、本町に本陣と脇本陣、中町に問屋場を置く。当初の本陣は峯家(杉屋本陣)、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎ明治まで代々務め、脇本陣は幕末に木綿屋が務めていた。西町と本町境から刈谷城下へ通じる刈谷道、中町から西尾城下へ通じる吉良(西尾)道、山町からは挙母城下へ通じる駒場(挙母)道が分岐し、交通の要衝だったことから元禄年間(1688年~1704年)には三河木綿の集散地となり木綿市が立って活況を見せた。更にその木綿を運ぶために用いる馬が取引されるようになり、遠くは信州・甲斐方面から馬が集まり馬市が立つようになった。毎年4月25日から5月5日まで池鯉鮒宿東外れの野で馬市が開かれ、歌川広重は「東海道五十三次之内 池鯉鮒」に「首夏馬市」の副題を付けてその光景を描く。名物は”芋川うどん”と”あんまき”。

歩き旅の前日に知立入り。ホテルへ向かう途中、国道1号沿いにある藤田屋に寄り、知立名物の大あんまきを購入。大あんまきは江戸時代から池鯉鮒宿を往来する旅人相手に売られ好評を得た。
藤田屋
http://www.anmaki.jp/index.html

ホテルで大あんまきを味見。大あんまきは薄く延ばしたホットケーキ生地で餡やカスタードを巻く。見た目に想像通りの美味しい和菓子。知立を訪れた際には是非とも賞味してほしい。

ホテルルートイン知立で朝食を済ませて出発。ここの朝食はバイキング形式、お腹いっぱいに食べられて満足です。

翌朝、まずはホテル近くにある池鯉鮒という地名の由来になった御手洗児童公園(御手洗池跡)に。御手洗池は池鯉鮒宿の東、慈眼寺裏手一帯にあった殺生禁断の大池で、そのため鯉や鮒が多くいたという。日照りの時には幣を奉納し、知立神社神宝の木製蛙を移して雨乞いをした。知立神社に渡御する神輿を洗う池だったことから御手洗池の名が付いたようだ。

御手洗児童公園に咲き誇る桜。御手洗池は明治28年(1895年)に埋め立てられ農地となり、現在は住宅地と化して完全に姿を消している。跡地の一角にあるこの小公園だけが「御手洗跡」の石碑を置き往時を偲ぶ。

御手洗児童公園の夜桜。

慶安3年(1650年)創建の福聚山慈眼寺。馬頭観世音菩薩坐像を安置する観音堂があり、馬市の関係者から信仰を集めた。江戸時代に池鯉鮒宿東外れの野で開かれた馬市は、明治になってここ慈眼寺の境内に移り、後に馬から牛へ取引される家畜が変わったものの、鯖市も兼ねて開かれ賑わいをみせた。しかし時流には逆らえず、昭和18年(1943年)を最後に市が開かれることはなくなり、その長い歴史に幕を閉じる。

慈眼寺境内入口に立つ馬頭観世音菩薩及家畜市場碑。大正3年(1914年)建立。

池鯉鮒宿本町と中町の境にあたる交差点に移動。ここから西(京都)側の本町と西町を見ていこう。
直進方向が京方面の旧東海道、左方向が知立駅方面で、かつては尾張屋小路と呼ばれた。写真の交差点左角辺りが尾張屋小路の由来になった尾張屋跡、代々醸造業を営む豪商だった。

本町・中町境のすぐ西側、旧東海道沿いにある”都築屋美廣”。明治初期創業という老舗和菓子店。尾張屋跡の敷地一角か、若しくは右隣に位置していると思われる。

池鯉鮒宿本陣跡。当初は峯家(杉屋本陣)、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎ本陣を務めた。敷地約2899坪、建屋300坪の立派な本陣屋敷だったが、現在は全く遺構を残していない。「明治天皇行在所聖蹟」と「池鯉鮒宿本陣跡」の碑が建てられ往時を偲ぶ。

本陣跡近くにてちょっと古めの市街図を発見。いとう温泉とは?気になるなあ…。

料亭岐阜屋。本陣跡から旧東海道を挟んで左斜め向かいにあたる。かつての脇本陣木綿屋はここから東側隣にかけてのどこかにあったと思われるが、脇本陣跡地を示すものが無くはっきりしない。脇本陣玄関が小松寺に移築され、地蔵堂に用いられている。

本町山車蔵。 知立神社の祭礼「知立まつり」は1年おきに本祭と間祭が開かれ、本祭の時にここ本町をはじめ、西町・山町・中新町・宝町から山車が繰り出される。

ここが”いとう温泉”があるはずの場所だが、あるのは”コーポいとう”というアパート。調べてみたところ、平成20年(2008年)まで”いとう温泉”という店名の銭湯があったらしい。

本町と西町の境にあたる刈谷道分岐点。写真手前(京方)から左に曲がる道筋が旧東海道、直進が旧刈谷道である。右手前の沿道辺りに高札場が置かれていた。

知立古城・御殿跡。知立神社の神官・永見氏が築いたとされる居館跡。桶狭間の戦いの直後、織田方に攻められ焼失。江戸時代初期には将軍休泊用の御殿が建てられていた。

了運寺門前の旧東海道。細川こんにゃく店や恵比寿屋陶器店が旧宿場町らしい佇まい。

西町の鉤の手角にある了運寺。知立神社の神宮寺の一つで元は天台宗、明応2年(1493年)現寺号に改め、浄土宗に改宗した。

旧東海道から知立神社への参道口にある小松屋本家。明治中期に茶店を営み、元々あった焼き菓子で餡を包み客に出したところ、評判を呼び知立名物になったという。小松屋本家の”あんまき”にはその屋号が焼印されているのが特徴。あんまきを2つ購入し、早速ひとつだけ食す。どう表現したらよいのか、焼き菓子と餡の調和が絶妙で美味しい。
Chiryuppi便り(知立市観光協会サイト)
小松屋本家
http://www.chiryu-kanko.com/detail.html?id=25

知立神社南交差点の南西角辺りは総持寺(玉泉坊)跡。元和2年(1616年)に創建。明治5年(1872年)廃寺となり、後の大正15年(1926年)西町新川に再建された。現在は境内にあった樹齢約250年とされる大イチョウを残すのみ。

知立神社境内へ。その境内に入ってまず目に留まるのがこの多宝塔。嘉祥3年(850年)円仁という僧が、知立神社の神宮寺を創建した際に多宝塔を建立したと伝わる。天文16年(1547年)兵火により神宮寺は焼失したが、永正6年(1509年)再建と伝わるこの多宝塔だけはその兵火を免れたという。幾多の修理を経ているのだろうが、築500年を超える神宮寺の建築を知る貴重な遺構。国の重要文化財に指定される。

神池に架かる石橋。渡った先に拝殿がある。19枚の石板を並べる太鼓橋で、享保17年(1732年)の建立。

知立神社境内に水を湛える神池。江戸時代後期に刊行された”東海道名所図会”に「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありなん」と紹介され、慈眼寺裏手一帯にあった御手洗池と同名だったのか、もしくは著者が混同したのか分からない。解説板に寄れば、片目の魚は身代りに娘を眼病から救ったとの言い伝えがあるという。片目の魚は全国に様々な伝説があり、神聖なものとして捉えられていたようで、池鯉鮒の池に棲む魚が殺生禁断とされた一因といえよう。

知立神社拝殿。知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、延喜式に記される三河国二の宮で、碧海郡六座の一つ。創祀は第12代の景行天皇の時代とされる筋金入りの古社。江戸時代には東海道三社の一つに数えられ、まむし除けや雨乞い、安産の神として信仰を集めた。

境内に隣接して設けられる花菖蒲園。明治神宮より特別下賜された60種余りの花菖蒲が植えられ、6月上旬に見頃を迎えるが、今時期は桜が主役をはっている。

知立神社南交差点付近にあった総持寺は明治5年(1872年)廃寺となったが、大正13年(1924年)になり西町新川の地に再興、ここがその総持寺である。山門横に「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と刻む石碑を置く。池鯉鮒宿は徳川家康の側室で結城秀康の母である於万の方(長勝院)の出生地と伝わる。

池鯉鮒宿京方外れ、逢妻川に架かる逢妻橋。

逢妻川から池鯉鮒宿に向かって延びる旧東海道。ここから西町・本町を通り抜けて、本町・中町の境まで戻ろう。

再び都築屋美廣前に。カーテンが開けられ開店したもよう。写真直進方向が江戸方面の旧東海道、右折が尾張屋小路、左折が銭屋小路と呼ばれる細道だったが、現在は知立駅と国道1号を繋ぐ幹線道となっており、小路と呼ばれた面影はない。

中町と本町の境、中町側の交差点角に立派なホテルクラウンパレス知立の建物、その1階に”ファッションハウスしんばしや リリオ店”がり、「創業115年感謝セール」の貼紙が目に留まる。逆算すると西暦1900年の明治33年、外観からは想像できない老舗洋服店なのだ。

中町にあった池鯉鮒宿問屋場跡。現在は食品館美松というスーパーの敷地に。問屋場の建物は昭和46年(1971年)まで残っていたが、惜しくも取り壊されたらしい。玄関脇にあった嘉永年間(1848年~54年)建立の常夜灯が知立神社境内に移されている。

中町を行く旧東海道。江戸時代後期、中町は「本町の旦那、中町の衆」と称され、豪商や地主の資産家が多く住んでいた。

旧東海道から西尾城下を経て幡豆に至る旧吉良道(西尾道)の分岐点、中町交差点。愛知県道51号等が交わり六叉路を構成する。写真中央に八百勘、その左が江戸方面の旧東海道で右が旧吉良道。八百勘は明治元年(1868年)明治天皇東京行幸の際、池鯉鮒宿の宿舎割に屋号が見える八百屋だが、現在は店舗の1階部分が改装され廃業しているようだ。

中町交差点から知立駅方向の県道51号を望む。右斜め方向の道が京方面の旧東海道。左手前に”ゑびす屋”、その奥が山城屋茶舗で江戸時代に旅籠を営んだ商家。昭和初期に県道51号が開通、その際に東海道沿いから県道沿いの現在地へ移ったという。

中町交差点付近、旧吉良道(愛知県道298号)沿いにある称念寺。本堂が改築の真っ只中。正和年間(1312年~17年)道性なる僧が草庵を結んだことに始まりがあるという。元は中町にあったが、宝永2年(1705年)池鯉鮒宿大火により焼失、享保6年(1721年)現在地へ移転し再建された。

旧東海道を離れ、ちょっと寄り道。知立市歴史民俗資料館へ。池鯉鮒宿に関する展示が多く、いくつか参考資料を手に入れられた。中でも「企画展 池鯉鮒宿今昔」のパンフレットは、宿内における町家の変遷が詳しく書かれており、大変参考になった。

中町交差点から旧東海道歩きを再開。

”菓子のつちや”の先で中町から中山町に。山町と中町の間にあることから発生した地名。中山町の旧東海道沿いは江戸期に山町の一部だった。

挙母城下へ通じた旧駒場道の分岐点。直進が江戸方面の旧東海道、左折の小路が旧駒場道。

山町を行く旧東海道。日本料理の魚茂本店や鰻料理の松井屋が街道を挟んで店を構える。

ここを左に曲がれば慈眼寺。知立市役所方面と国道1号を繋ぐルートの一部になっており、ここを曲がる車が多いこと。

知立水防倉庫のある辺りが東見附跡。ここが池鯉鮒宿の江戸方出入口。かつてはこの先から松並木の街道が延びていた。
【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿】
桜前線が日本列島を北上する最中、各地から続々と届く桜満開の報せに触発され、昨年11月以来の約5ヶ月ぶりとなる4月最初の週末、久々に旧東海道を歩くことに。池鯉鮒から次に目指す岡崎は岡崎城を中心に発展した城下町、岡崎城址は岡崎公園として整備され、園内をはじめ周辺の乙川堤や伊賀川堤には約1000本のソメイヨシノが植えられ、”日本さくら名所100選”に選定の知る人ぞ知る桜の名所。4月1日より”岡崎の桜まつり”を開催しており、同月5日には家康行列が催行されるとの情報を得て、これは絶好の機会と、知立へ前日の金曜日入り。土曜日中に知立から岡崎間の旧東海道を歩き、日曜日に岡崎城下と家康行列をゆっくり見よう!見所満載の歩き旅となりそうだ。しかしながら東海地方週末の天気はあまりよくない予報、花散らしの雨が降らないことを祈りつつ…。
池鯉鮒宿は江戸日本橋から数えて39宿目、京都三条大橋からならば15宿目にあたる東海道の宿場町。池鯉鮒と書いて”ちりゅう”と読む。現在は”知立”で表記され読み方は変わらない。実は現在の”知立”の方が古くからの表記で、平安時代以前の書物や木簡に”智立”や”知立”の地名がみられ、古代よりこの地に鎮座する知立神社に地名の由来があるという。鎌倉時代以降に”智鯉鮒”の表記が現れ、江戸時代以降は”池鯉鮒”が一般的に使われるようになった。かつて慈眼寺(知立市山町桜馬場)裏手一帯に御手洗池という大池があり、知立神社に渡御する神輿を洗うために用いられる殺生禁断の池だった。そのため鯉や鮒が多くいて、”池鯉鮒”という表記が発生したという。同じ読みでありながら”知立”から”池鯉鮒”へ、いずれにしても難読地名でありながら、そう読めないことない。上手いこと当て字をしたものだ。
天保14年(1843年)当時の池鯉鮒宿人口1620人、家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒。宿内は京方より西町・本町・中町・山町の4町に分かれ、宿場両端の出入口に見附を設けて、本町に本陣と脇本陣、中町に問屋場を置く。当初の本陣は峯家(杉屋本陣)、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎ明治まで代々務め、脇本陣は幕末に木綿屋が務めていた。西町と本町境から刈谷城下へ通じる刈谷道、中町から西尾城下へ通じる吉良(西尾)道、山町からは挙母城下へ通じる駒場(挙母)道が分岐し、交通の要衝だったことから元禄年間(1688年~1704年)には三河木綿の集散地となり木綿市が立って活況を見せた。更にその木綿を運ぶために用いる馬が取引されるようになり、遠くは信州・甲斐方面から馬が集まり馬市が立つようになった。毎年4月25日から5月5日まで池鯉鮒宿東外れの野で馬市が開かれ、歌川広重は「東海道五十三次之内 池鯉鮒」に「首夏馬市」の副題を付けてその光景を描く。名物は”芋川うどん”と”あんまき”。

歩き旅の前日に知立入り。ホテルへ向かう途中、国道1号沿いにある藤田屋に寄り、知立名物の大あんまきを購入。大あんまきは江戸時代から池鯉鮒宿を往来する旅人相手に売られ好評を得た。
藤田屋
http://www.anmaki.jp/index.html

ホテルで大あんまきを味見。大あんまきは薄く延ばしたホットケーキ生地で餡やカスタードを巻く。見た目に想像通りの美味しい和菓子。知立を訪れた際には是非とも賞味してほしい。

ホテルルートイン知立で朝食を済ませて出発。ここの朝食はバイキング形式、お腹いっぱいに食べられて満足です。

翌朝、まずはホテル近くにある池鯉鮒という地名の由来になった御手洗児童公園(御手洗池跡)に。御手洗池は池鯉鮒宿の東、慈眼寺裏手一帯にあった殺生禁断の大池で、そのため鯉や鮒が多くいたという。日照りの時には幣を奉納し、知立神社神宝の木製蛙を移して雨乞いをした。知立神社に渡御する神輿を洗う池だったことから御手洗池の名が付いたようだ。

御手洗児童公園に咲き誇る桜。御手洗池は明治28年(1895年)に埋め立てられ農地となり、現在は住宅地と化して完全に姿を消している。跡地の一角にあるこの小公園だけが「御手洗跡」の石碑を置き往時を偲ぶ。

御手洗児童公園の夜桜。

慶安3年(1650年)創建の福聚山慈眼寺。馬頭観世音菩薩坐像を安置する観音堂があり、馬市の関係者から信仰を集めた。江戸時代に池鯉鮒宿東外れの野で開かれた馬市は、明治になってここ慈眼寺の境内に移り、後に馬から牛へ取引される家畜が変わったものの、鯖市も兼ねて開かれ賑わいをみせた。しかし時流には逆らえず、昭和18年(1943年)を最後に市が開かれることはなくなり、その長い歴史に幕を閉じる。

慈眼寺境内入口に立つ馬頭観世音菩薩及家畜市場碑。大正3年(1914年)建立。

池鯉鮒宿本町と中町の境にあたる交差点に移動。ここから西(京都)側の本町と西町を見ていこう。
直進方向が京方面の旧東海道、左方向が知立駅方面で、かつては尾張屋小路と呼ばれた。写真の交差点左角辺りが尾張屋小路の由来になった尾張屋跡、代々醸造業を営む豪商だった。

本町・中町境のすぐ西側、旧東海道沿いにある”都築屋美廣”。明治初期創業という老舗和菓子店。尾張屋跡の敷地一角か、若しくは右隣に位置していると思われる。

池鯉鮒宿本陣跡。当初は峯家(杉屋本陣)、寛文2年(1662年)より永田家(永田本陣)が引き継ぎ本陣を務めた。敷地約2899坪、建屋300坪の立派な本陣屋敷だったが、現在は全く遺構を残していない。「明治天皇行在所聖蹟」と「池鯉鮒宿本陣跡」の碑が建てられ往時を偲ぶ。

本陣跡近くにてちょっと古めの市街図を発見。いとう温泉とは?気になるなあ…。

料亭岐阜屋。本陣跡から旧東海道を挟んで左斜め向かいにあたる。かつての脇本陣木綿屋はここから東側隣にかけてのどこかにあったと思われるが、脇本陣跡地を示すものが無くはっきりしない。脇本陣玄関が小松寺に移築され、地蔵堂に用いられている。

本町山車蔵。 知立神社の祭礼「知立まつり」は1年おきに本祭と間祭が開かれ、本祭の時にここ本町をはじめ、西町・山町・中新町・宝町から山車が繰り出される。

ここが”いとう温泉”があるはずの場所だが、あるのは”コーポいとう”というアパート。調べてみたところ、平成20年(2008年)まで”いとう温泉”という店名の銭湯があったらしい。

本町と西町の境にあたる刈谷道分岐点。写真手前(京方)から左に曲がる道筋が旧東海道、直進が旧刈谷道である。右手前の沿道辺りに高札場が置かれていた。

知立古城・御殿跡。知立神社の神官・永見氏が築いたとされる居館跡。桶狭間の戦いの直後、織田方に攻められ焼失。江戸時代初期には将軍休泊用の御殿が建てられていた。

了運寺門前の旧東海道。細川こんにゃく店や恵比寿屋陶器店が旧宿場町らしい佇まい。

西町の鉤の手角にある了運寺。知立神社の神宮寺の一つで元は天台宗、明応2年(1493年)現寺号に改め、浄土宗に改宗した。

旧東海道から知立神社への参道口にある小松屋本家。明治中期に茶店を営み、元々あった焼き菓子で餡を包み客に出したところ、評判を呼び知立名物になったという。小松屋本家の”あんまき”にはその屋号が焼印されているのが特徴。あんまきを2つ購入し、早速ひとつだけ食す。どう表現したらよいのか、焼き菓子と餡の調和が絶妙で美味しい。
Chiryuppi便り(知立市観光協会サイト)
小松屋本家
http://www.chiryu-kanko.com/detail.html?id=25

知立神社南交差点の南西角辺りは総持寺(玉泉坊)跡。元和2年(1616年)に創建。明治5年(1872年)廃寺となり、後の大正15年(1926年)西町新川に再建された。現在は境内にあった樹齢約250年とされる大イチョウを残すのみ。

知立神社境内へ。その境内に入ってまず目に留まるのがこの多宝塔。嘉祥3年(850年)円仁という僧が、知立神社の神宮寺を創建した際に多宝塔を建立したと伝わる。天文16年(1547年)兵火により神宮寺は焼失したが、永正6年(1509年)再建と伝わるこの多宝塔だけはその兵火を免れたという。幾多の修理を経ているのだろうが、築500年を超える神宮寺の建築を知る貴重な遺構。国の重要文化財に指定される。

神池に架かる石橋。渡った先に拝殿がある。19枚の石板を並べる太鼓橋で、享保17年(1732年)の建立。

知立神社境内に水を湛える神池。江戸時代後期に刊行された”東海道名所図会”に「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありなん」と紹介され、慈眼寺裏手一帯にあった御手洗池と同名だったのか、もしくは著者が混同したのか分からない。解説板に寄れば、片目の魚は身代りに娘を眼病から救ったとの言い伝えがあるという。片目の魚は全国に様々な伝説があり、神聖なものとして捉えられていたようで、池鯉鮒の池に棲む魚が殺生禁断とされた一因といえよう。

知立神社拝殿。知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、延喜式に記される三河国二の宮で、碧海郡六座の一つ。創祀は第12代の景行天皇の時代とされる筋金入りの古社。江戸時代には東海道三社の一つに数えられ、まむし除けや雨乞い、安産の神として信仰を集めた。

境内に隣接して設けられる花菖蒲園。明治神宮より特別下賜された60種余りの花菖蒲が植えられ、6月上旬に見頃を迎えるが、今時期は桜が主役をはっている。

知立神社南交差点付近にあった総持寺は明治5年(1872年)廃寺となったが、大正13年(1924年)になり西町新川の地に再興、ここがその総持寺である。山門横に「徳川秀康之生母 於萬之方誕生地」と刻む石碑を置く。池鯉鮒宿は徳川家康の側室で結城秀康の母である於万の方(長勝院)の出生地と伝わる。

池鯉鮒宿京方外れ、逢妻川に架かる逢妻橋。

逢妻川から池鯉鮒宿に向かって延びる旧東海道。ここから西町・本町を通り抜けて、本町・中町の境まで戻ろう。

再び都築屋美廣前に。カーテンが開けられ開店したもよう。写真直進方向が江戸方面の旧東海道、右折が尾張屋小路、左折が銭屋小路と呼ばれる細道だったが、現在は知立駅と国道1号を繋ぐ幹線道となっており、小路と呼ばれた面影はない。

中町と本町の境、中町側の交差点角に立派なホテルクラウンパレス知立の建物、その1階に”ファッションハウスしんばしや リリオ店”がり、「創業115年感謝セール」の貼紙が目に留まる。逆算すると西暦1900年の明治33年、外観からは想像できない老舗洋服店なのだ。

中町にあった池鯉鮒宿問屋場跡。現在は食品館美松というスーパーの敷地に。問屋場の建物は昭和46年(1971年)まで残っていたが、惜しくも取り壊されたらしい。玄関脇にあった嘉永年間(1848年~54年)建立の常夜灯が知立神社境内に移されている。

中町を行く旧東海道。江戸時代後期、中町は「本町の旦那、中町の衆」と称され、豪商や地主の資産家が多く住んでいた。

旧東海道から西尾城下を経て幡豆に至る旧吉良道(西尾道)の分岐点、中町交差点。愛知県道51号等が交わり六叉路を構成する。写真中央に八百勘、その左が江戸方面の旧東海道で右が旧吉良道。八百勘は明治元年(1868年)明治天皇東京行幸の際、池鯉鮒宿の宿舎割に屋号が見える八百屋だが、現在は店舗の1階部分が改装され廃業しているようだ。

中町交差点から知立駅方向の県道51号を望む。右斜め方向の道が京方面の旧東海道。左手前に”ゑびす屋”、その奥が山城屋茶舗で江戸時代に旅籠を営んだ商家。昭和初期に県道51号が開通、その際に東海道沿いから県道沿いの現在地へ移ったという。

中町交差点付近、旧吉良道(愛知県道298号)沿いにある称念寺。本堂が改築の真っ只中。正和年間(1312年~17年)道性なる僧が草庵を結んだことに始まりがあるという。元は中町にあったが、宝永2年(1705年)池鯉鮒宿大火により焼失、享保6年(1721年)現在地へ移転し再建された。

旧東海道を離れ、ちょっと寄り道。知立市歴史民俗資料館へ。池鯉鮒宿に関する展示が多く、いくつか参考資料を手に入れられた。中でも「企画展 池鯉鮒宿今昔」のパンフレットは、宿内における町家の変遷が詳しく書かれており、大変参考になった。

中町交差点から旧東海道歩きを再開。

”菓子のつちや”の先で中町から中山町に。山町と中町の間にあることから発生した地名。中山町の旧東海道沿いは江戸期に山町の一部だった。

挙母城下へ通じた旧駒場道の分岐点。直進が江戸方面の旧東海道、左折の小路が旧駒場道。

山町を行く旧東海道。日本料理の魚茂本店や鰻料理の松井屋が街道を挟んで店を構える。

ここを左に曲がれば慈眼寺。知立市役所方面と国道1号を繋ぐルートの一部になっており、ここを曲がる車が多いこと。

知立水防倉庫のある辺りが東見附跡。ここが池鯉鮒宿の江戸方出入口。かつてはこの先から松並木の街道が延びていた。

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