知立松並木と馬市跡
【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿→岡崎宿 道中】
かつての東海道は池鯉鮒宿を出れば松に覆われる並木道、並木八丁(町)と呼ぶ見事な松並木は今も約500mに渡って残る。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る本格的な松並木だ。前記事にある慈眼寺のところで少々書いたが、江戸時代には池鯉鮒宿東外れの野で馬市が立ち、その光景を歌川広重は「東海道五十三次之内池鯉鮒 首夏馬市」の題を付け、野原に繋がれる数多くの馬と、談合松の下に集まり商談する人々を浮世絵に描く。東海道名所図会でも「毎年四月二十五日より始て五月五日に終る。駅の東の野に駒をつなぐ事四五百にも及べり。」と馬市を紹介し、その様子を絵に見ることができる。池鯉鮒宿東外れの松並木両外側に見られる側道は、売買する馬を繋ぐために設けられたもので、今に往時を偲べよう。馬市が開かれている期間中は近隣諸国から集まった馬がここに並び、池鯉鮒宿は馬市の関係者で大いに賑わったといい、当地を治めていた刈谷藩は池鯉鮒宿山町に馬市番所を置き監督にあたった。

保永堂版「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」(馬市之趾碑設置の解説板より)

池鯉鮒宿を出て間もなく、名鉄三河線の踏切を渡り。

旧東海道は国道1号に合流。道の先に松並木が見え始める。

松並木の京方入口、石仏に迎えられ。この石仏は近年のもので、昭和36年(1961年)岡崎市能見町の蜂澤佳行さんにより建立。

国道1号は見事な松並木の道。

馬市之趾碑と万葉の歌碑。この松並木の西側に引馬野の地名があり、大宝2年(702年)持統天皇が三河行幸の折、lこの辺りを題材に詠んだとされる歌が万葉の歌碑に刻まれる。
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに

馬市之趾碑と松並木。この碑が置かれている松並木の側道は、取引される馬を繋ぐために設けられた。

松並木の側道を流れる明治用水西井筋から水を引き設けられた小公園。本来の用水路は暗渠と化し、この側道下を流れている。

水路でアメンボに目が留まり。少々様子がおかしいなあと、よくよく観察してみれば交尾中のよう。アメンボの交尾は初めて見た。もうすぐ春ですねぇ…。

この小川と遊歩道下には明治用水西井筋(山屋敷用水)の本流となるパイプが埋設され、ここから北方向一帯、逢妻男川までの水田に水を送っている。開削は明治15年(1882年)、水路の延長は1.2kmで、荒れ地の新田開発に大きな役割を果たした。

水面には花筏が。やはり春を感じますな。

一足早く咲き始める杜若(かきつばた)も。本格的な開花時期は5月になってから。

新田北交差点より江戸方の旧東海道を望む。この交差点を境に松並木が途絶える。

新田北交差点付近に残る元禄12年(1699年)建立の道標。「従是五丁北八橋業平作観音在」と刻み、在原業平ゆかりの無量寿寺(知立市八橋町)へ道案内する。無量寿寺がある八橋は東海道開通以前に鎌倉街道が通っていた地で、平安の昔から杜若(かきつばた)が群生する景勝地。在原業平が当地を訪れ”かきつばた”を折句して詠んだ歌は伊勢物語に収められ、この歌に惹かれて多くの旅人が足を延ばしたようだ。

元禄の道標より旧東海道を江戸方へ向かって約70m、見返弘法大師道の分岐点があり道標が残る。

見返弘法大師道道標。建立年不明。道標に刻む「見返弘法大師」とは、弘法大師が彫った自身の座像三体の一つ「見返弘法大師」を安置する弘法山遍照院(知立市弘法町)を指す。
弘法山遍照院
http://henjoin.com/

弘法山遍照院に向かって延びる見返弘法大師道。現在は道半ばで途切れてしまっている。

西教寺横を行く旧東海道。江戸期に牛田村の町家が街道沿いに並び、牛田大豆煎という茶の一種を出す茶屋があって名物に。牛田村は東組と西組に村内を分け、それぞれに庄屋があった。

牛田町西屋敷にある西教寺。寛政2年(1461年)本願寺蓮如の教化により三井氏が創建。付近の旧東海道沿いに家康が鎧をかけたと伝わる”鎧かけの松”があったが、昭和30年(1955年)頃に枯死したという。

牛田町西端の旧東海道沿いにある両口屋本舗。店の窓に大きく掲げる”いちご餅”が目に留まり、たまらず店内へ。

牛田町と来迎寺町の境をなす交差点。ここから少し南へ行った所に牛田八幡社と泉蔵寺がある。

誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を祭神に祀る牛田八幡社。建久年間(1190年~99年)源頼朝の目代(後の代官)が、ここから南方の猿渡川南岸、湯山の地に城を築いた折、鎌倉の鶴岡八幡宮から祭神を分霊し祀ったことに起源があるという。

牛田八幡社の境内で先ほど購入した”いちご餅”を開封。

イチゴを羽二重餅で包んだシンプルな和菓子。餡が入っていない”いちご大福”と表現するのが的確。イチゴの甘酸っぱさと羽二重餅の軽やかな甘みがマッチ、甘いものが苦手な人にも受け入れられるだろう。食べやすいうえに美味しく、6個入りだったがあっという間に平らげてしまった。

牛田八幡社に隣接してある泉蔵寺。赤穂浪士四十七士の一人、吉田忠左衛門と妻りんの墓があるのだが、その場所がわからず未確認…。

牛田町と来迎寺町の間に少しだけ残る松並木。その東端に来迎寺一里塚が原形を留めて両塚を残す。

良好な状態で両塚の遺構を残す来迎寺一里塚。往時は松並木の中にある一里塚だったが、現在は両塚を来迎寺町公民館が隔てている。この状況下でよくぞ撤去されずに残ったものだ。

来迎寺一里塚は江戸日本橋から84里目(約330km)、京三条大橋からは34番目(実測で約173km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。

来迎寺という地名の由来になった来迎寺。この寺一帯は室町期に今崎城があったと伝わる場所で、境内に「今崎城阯」と刻む石碑が建てられている。

来迎寺付近にある古城塚(さむらい塚)。永禄3年(1560年)織田方の今崎城が今川勢に攻められ落城、戦死者を埋葬するために築かれたものと伝わる。

知立市来迎寺町広海道に残る八橋無量寿寺への道標2基。元禄9年(1696年)建立。

「従是四丁半北八橋業平観音有」と刻む。

来迎寺村の村社、御鍬神社。伊勢より勧請された御鍬神(豊受比売命、とようけひめのみこと)を祭神に祀る。明和年間(1764年~71年)に社殿を造営、明治5年(1872年)村社に列格する。

御鍬神社の拝殿は明治6年(1873年)、本殿が大正3年(1914年)の建築。

来迎寺公園に残る玉乃井。井戸跡のようだが所縁が不明。

猿渡川橋を渡り知立市から安城市へ。

弘法大師が名付けたと伝わる猿渡川。
かつての東海道は池鯉鮒宿を出れば松に覆われる並木道、並木八丁(町)と呼ぶ見事な松並木は今も約500mに渡って残る。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る本格的な松並木だ。前記事にある慈眼寺のところで少々書いたが、江戸時代には池鯉鮒宿東外れの野で馬市が立ち、その光景を歌川広重は「東海道五十三次之内池鯉鮒 首夏馬市」の題を付け、野原に繋がれる数多くの馬と、談合松の下に集まり商談する人々を浮世絵に描く。東海道名所図会でも「毎年四月二十五日より始て五月五日に終る。駅の東の野に駒をつなぐ事四五百にも及べり。」と馬市を紹介し、その様子を絵に見ることができる。池鯉鮒宿東外れの松並木両外側に見られる側道は、売買する馬を繋ぐために設けられたもので、今に往時を偲べよう。馬市が開かれている期間中は近隣諸国から集まった馬がここに並び、池鯉鮒宿は馬市の関係者で大いに賑わったといい、当地を治めていた刈谷藩は池鯉鮒宿山町に馬市番所を置き監督にあたった。

保永堂版「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」(馬市之趾碑設置の解説板より)

池鯉鮒宿を出て間もなく、名鉄三河線の踏切を渡り。

旧東海道は国道1号に合流。道の先に松並木が見え始める。

松並木の京方入口、石仏に迎えられ。この石仏は近年のもので、昭和36年(1961年)岡崎市能見町の蜂澤佳行さんにより建立。

国道1号は見事な松並木の道。

馬市之趾碑と万葉の歌碑。この松並木の西側に引馬野の地名があり、大宝2年(702年)持統天皇が三河行幸の折、lこの辺りを題材に詠んだとされる歌が万葉の歌碑に刻まれる。
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに

馬市之趾碑と松並木。この碑が置かれている松並木の側道は、取引される馬を繋ぐために設けられた。

松並木の側道を流れる明治用水西井筋から水を引き設けられた小公園。本来の用水路は暗渠と化し、この側道下を流れている。

水路でアメンボに目が留まり。少々様子がおかしいなあと、よくよく観察してみれば交尾中のよう。アメンボの交尾は初めて見た。もうすぐ春ですねぇ…。

この小川と遊歩道下には明治用水西井筋(山屋敷用水)の本流となるパイプが埋設され、ここから北方向一帯、逢妻男川までの水田に水を送っている。開削は明治15年(1882年)、水路の延長は1.2kmで、荒れ地の新田開発に大きな役割を果たした。

水面には花筏が。やはり春を感じますな。

一足早く咲き始める杜若(かきつばた)も。本格的な開花時期は5月になってから。

新田北交差点より江戸方の旧東海道を望む。この交差点を境に松並木が途絶える。

新田北交差点付近に残る元禄12年(1699年)建立の道標。「従是五丁北八橋業平作観音在」と刻み、在原業平ゆかりの無量寿寺(知立市八橋町)へ道案内する。無量寿寺がある八橋は東海道開通以前に鎌倉街道が通っていた地で、平安の昔から杜若(かきつばた)が群生する景勝地。在原業平が当地を訪れ”かきつばた”を折句して詠んだ歌は伊勢物語に収められ、この歌に惹かれて多くの旅人が足を延ばしたようだ。

元禄の道標より旧東海道を江戸方へ向かって約70m、見返弘法大師道の分岐点があり道標が残る。

見返弘法大師道道標。建立年不明。道標に刻む「見返弘法大師」とは、弘法大師が彫った自身の座像三体の一つ「見返弘法大師」を安置する弘法山遍照院(知立市弘法町)を指す。
弘法山遍照院
http://henjoin.com/

弘法山遍照院に向かって延びる見返弘法大師道。現在は道半ばで途切れてしまっている。

西教寺横を行く旧東海道。江戸期に牛田村の町家が街道沿いに並び、牛田大豆煎という茶の一種を出す茶屋があって名物に。牛田村は東組と西組に村内を分け、それぞれに庄屋があった。

牛田町西屋敷にある西教寺。寛政2年(1461年)本願寺蓮如の教化により三井氏が創建。付近の旧東海道沿いに家康が鎧をかけたと伝わる”鎧かけの松”があったが、昭和30年(1955年)頃に枯死したという。

牛田町西端の旧東海道沿いにある両口屋本舗。店の窓に大きく掲げる”いちご餅”が目に留まり、たまらず店内へ。

牛田町と来迎寺町の境をなす交差点。ここから少し南へ行った所に牛田八幡社と泉蔵寺がある。

誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を祭神に祀る牛田八幡社。建久年間(1190年~99年)源頼朝の目代(後の代官)が、ここから南方の猿渡川南岸、湯山の地に城を築いた折、鎌倉の鶴岡八幡宮から祭神を分霊し祀ったことに起源があるという。

牛田八幡社の境内で先ほど購入した”いちご餅”を開封。

イチゴを羽二重餅で包んだシンプルな和菓子。餡が入っていない”いちご大福”と表現するのが的確。イチゴの甘酸っぱさと羽二重餅の軽やかな甘みがマッチ、甘いものが苦手な人にも受け入れられるだろう。食べやすいうえに美味しく、6個入りだったがあっという間に平らげてしまった。

牛田八幡社に隣接してある泉蔵寺。赤穂浪士四十七士の一人、吉田忠左衛門と妻りんの墓があるのだが、その場所がわからず未確認…。

牛田町と来迎寺町の間に少しだけ残る松並木。その東端に来迎寺一里塚が原形を留めて両塚を残す。

良好な状態で両塚の遺構を残す来迎寺一里塚。往時は松並木の中にある一里塚だったが、現在は両塚を来迎寺町公民館が隔てている。この状況下でよくぞ撤去されずに残ったものだ。

来迎寺一里塚は江戸日本橋から84里目(約330km)、京三条大橋からは34番目(実測で約173km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。

来迎寺という地名の由来になった来迎寺。この寺一帯は室町期に今崎城があったと伝わる場所で、境内に「今崎城阯」と刻む石碑が建てられている。

来迎寺付近にある古城塚(さむらい塚)。永禄3年(1560年)織田方の今崎城が今川勢に攻められ落城、戦死者を埋葬するために築かれたものと伝わる。

知立市来迎寺町広海道に残る八橋無量寿寺への道標2基。元禄9年(1696年)建立。

「従是四丁半北八橋業平観音有」と刻む。

来迎寺村の村社、御鍬神社。伊勢より勧請された御鍬神(豊受比売命、とようけひめのみこと)を祭神に祀る。明和年間(1764年~71年)に社殿を造営、明治5年(1872年)村社に列格する。

御鍬神社の拝殿は明治6年(1873年)、本殿が大正3年(1914年)の建築。

来迎寺公園に残る玉乃井。井戸跡のようだが所縁が不明。

猿渡川橋を渡り知立市から安城市へ。

弘法大師が名付けたと伝わる猿渡川。

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