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知立松並木と馬市跡

【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿→岡崎宿 道中】
かつての東海道は池鯉鮒宿を出れば松に覆われる並木道、並木八丁(町)と呼ぶ見事な松並木は今も約500mに渡って残る。京都から旧東海道を歩いてきて初めて見る本格的な松並木だ。前記事にある慈眼寺のところで少々書いたが、江戸時代には池鯉鮒宿東外れの野で馬市が立ち、その光景を歌川広重は「東海道五十三次之内池鯉鮒 首夏馬市」の題を付け、野原に繋がれる数多くの馬と、談合松の下に集まり商談する人々を浮世絵に描く。東海道名所図会でも「毎年四月二十五日より始て五月五日に終る。駅の東の野に駒をつなぐ事四五百にも及べり。」と馬市を紹介し、その様子を絵に見ることができる。池鯉鮒宿東外れの松並木両外側に見られる側道は、売買する馬を繋ぐために設けられたもので、今に往時を偲べよう。馬市が開かれている期間中は近隣諸国から集まった馬がここに並び、池鯉鮒宿は馬市の関係者で大いに賑わったといい、当地を治めていた刈谷藩は池鯉鮒宿山町に馬市番所を置き監督にあたった。



保永堂版「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」
保永堂版「東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」(馬市之趾碑設置の解説板より)


旧東海道 知立市山町北引馬野
池鯉鮒宿を出て間もなく、名鉄三河線の踏切を渡り。


旧東海道 知立市山町北引馬野
旧東海道は国道1号に合流。道の先に松並木が見え始める。


知立松並木
松並木の京方入口、石仏に迎えられ。この石仏は近年のもので、昭和36年(1961年)岡崎市能見町の蜂澤佳行さんにより建立。


国道1号 知立市山町御林
国道1号は見事な松並木の道。


馬市之趾碑
馬市之趾碑と万葉の歌碑。この松並木の西側に引馬野の地名があり、大宝2年(702年)持統天皇が三河行幸の折、lこの辺りを題材に詠んだとされる歌が万葉の歌碑に刻まれる。

引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに


馬市之趾碑と松並木
馬市之趾碑と松並木。この碑が置かれている松並木の側道は、取引される馬を繋ぐために設けられた。


明治用水西井筋
松並木の側道を流れる明治用水西井筋から水を引き設けられた小公園。本来の用水路は暗渠と化し、この側道下を流れている。


明治用水西井筋にて
水路でアメンボに目が留まり。少々様子がおかしいなあと、よくよく観察してみれば交尾中のよう。アメンボの交尾は初めて見た。もうすぐ春ですねぇ…。


明治用水西井筋
この小川と遊歩道下には明治用水西井筋(山屋敷用水)の本流となるパイプが埋設され、ここから北方向一帯、逢妻男川までの水田に水を送っている。開削は明治15年(1882年)、水路の延長は1.2kmで、荒れ地の新田開発に大きな役割を果たした。


明治用水西井筋
水面には花筏が。やはり春を感じますな。


明治用水西井筋
一足早く咲き始める杜若(かきつばた)も。本格的な開花時期は5月になってから。


旧東海道 知立市新田北
新田北交差点より江戸方の旧東海道を望む。この交差点を境に松並木が途絶える。


元禄の道標
新田北交差点付近に残る元禄12年(1699年)建立の道標。「従是五丁北八橋業平作観音在」と刻み、在原業平ゆかりの無量寿寺(知立市八橋町)へ道案内する。無量寿寺がある八橋は東海道開通以前に鎌倉街道が通っていた地で、平安の昔から杜若(かきつばた)が群生する景勝地。在原業平が当地を訪れ”かきつばた”を折句して詠んだ歌は伊勢物語に収められ、この歌に惹かれて多くの旅人が足を延ばしたようだ。


旧東海道・見返弘法大師道の分岐点
元禄の道標より旧東海道を江戸方へ向かって約70m、見返弘法大師道の分岐点があり道標が残る。


見返弘法大師道道標
見返弘法大師道道標。建立年不明。道標に刻む「見返弘法大師」とは、弘法大師が彫った自身の座像三体の一つ「見返弘法大師」を安置する弘法山遍照院(知立市弘法町)を指す。

弘法山遍照院
http://henjoin.com/


見返弘法大師道
弘法山遍照院に向かって延びる見返弘法大師道。現在は道半ばで途切れてしまっている。


旧東海道 知立市牛田町
西教寺横を行く旧東海道。江戸期に牛田村の町家が街道沿いに並び、牛田大豆煎という茶の一種を出す茶屋があって名物に。牛田村は東組と西組に村内を分け、それぞれに庄屋があった。


西教寺
牛田町西屋敷にある西教寺。寛政2年(1461年)本願寺蓮如の教化により三井氏が創建。付近の旧東海道沿いに家康が鎧をかけたと伝わる”鎧かけの松”があったが、昭和30年(1955年)頃に枯死したという。


両口屋本舗
牛田町西端の旧東海道沿いにある両口屋本舗。店の窓に大きく掲げる”いちご餅”が目に留まり、たまらず店内へ。


旧東海道 牛田町・来迎寺町境
牛田町と来迎寺町の境をなす交差点。ここから少し南へ行った所に牛田八幡社と泉蔵寺がある。


牛田八幡社
誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を祭神に祀る牛田八幡社。建久年間(1190年~99年)源頼朝の目代(後の代官)が、ここから南方の猿渡川南岸、湯山の地に城を築いた折、鎌倉の鶴岡八幡宮から祭神を分霊し祀ったことに起源があるという。


牛田八幡社にて
牛田八幡社の境内で先ほど購入した”いちご餅”を開封。


いちご餅
イチゴを羽二重餅で包んだシンプルな和菓子。餡が入っていない”いちご大福”と表現するのが的確。イチゴの甘酸っぱさと羽二重餅の軽やかな甘みがマッチ、甘いものが苦手な人にも受け入れられるだろう。食べやすいうえに美味しく、6個入りだったがあっという間に平らげてしまった。


泉蔵寺
牛田八幡社に隣接してある泉蔵寺。赤穂浪士四十七士の一人、吉田忠左衛門と妻りんの墓があるのだが、その場所がわからず未確認…。


来迎寺松並木
牛田町と来迎寺町の間に少しだけ残る松並木。その東端に来迎寺一里塚が原形を留めて両塚を残す。


来迎寺一里塚
良好な状態で両塚の遺構を残す来迎寺一里塚。往時は松並木の中にある一里塚だったが、現在は両塚を来迎寺町公民館が隔てている。この状況下でよくぞ撤去されずに残ったものだ。


来迎寺一里塚
来迎寺一里塚は江戸日本橋から84里目(約330km)、京三条大橋からは34番目(実測で約173km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。


来迎寺
来迎寺という地名の由来になった来迎寺。この寺一帯は室町期に今崎城があったと伝わる場所で、境内に「今崎城阯」と刻む石碑が建てられている。


古城塚(さむらい塚)
来迎寺付近にある古城塚(さむらい塚)。永禄3年(1560年)織田方の今崎城が今川勢に攻められ落城、戦死者を埋葬するために築かれたものと伝わる。


元禄の道標
知立市来迎寺町広海道に残る八橋無量寿寺への道標2基。元禄9年(1696年)建立。


元禄の道標
「従是四丁半北八橋業平観音有」と刻む。


御鍬神社
来迎寺村の村社、御鍬神社。伊勢より勧請された御鍬神(豊受比売命、とようけひめのみこと)を祭神に祀る。明和年間(1764年~71年)に社殿を造営、明治5年(1872年)村社に列格する。


御鍬神社
御鍬神社の拝殿は明治6年(1873年)、本殿が大正3年(1914年)の建築。


来迎寺公園玉乃井
来迎寺公園に残る玉乃井。井戸跡のようだが所縁が不明。


猿渡川橋
猿渡川橋を渡り知立市から安城市へ。


猿渡川
弘法大師が名付けたと伝わる猿渡川。


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雲竜の松

【2015年4月4日(土)旧東海道 池鯉鮒宿→岡崎宿 道中】
猿渡川橋を渡って知立市から安城市へ。かつての東海道は猿渡川から松並木の街道を進んで今村の町家を通り抜け、立場が置かれた大浜茶屋村・宇頭茶屋村を経て尾崎村、宇頭村、暮戸村の町家を過ぎれば、矢作川西岸に位置する矢作村に辿り着く。矢作川に架かる矢作(矢矧)橋を渡れば岡崎城下である。現在、猿渡川から矢作川にかけての旧東海道は所々に松並木が残っていたり近年に植樹されたりして、往時の様子を感じながら歩けて楽しい。そんな中に特筆すべきは旧大浜茶屋村の永安寺境内に立つ雲竜の松。樹齢300年超えとされる雲竜の松は、力強い幹を周囲に伸ばす見事な枝ぶりの松で、私は1本の松を見てこれほどの感動を覚えたことはない。愛知県の天然記念物に指定されているが、国指定でもよいのではないかと思ったほど。近くに訪れた際は是非とも見て触れて、その生命力を感じてほしい。




旧東海道 安城市今本町石田
猿渡川橋から旧東海道を東へ。松の下に咲くタンポポの小さな黄色が春の気分へいざなう。


旧東海道 安城市今本町石田
今本町の旧東海道筋は所々に松並木を残す。


旧東海道 安城市里町大道寺
片側だけの松並木だが往時の東海道が感じさせる。


淺賀井(製)本社工場
淺賀井(製)本社工場前の松並木が今本町の松並木東端。この先で松並木が途切れ旧今村の町家が並んだ。


旧東海道 今本町8丁目交差点
今本町8丁目交差点付近の旧東海道。今村は江戸時代に池鯉鮒宿の定助郷村だった。


里町4丁目西交差点
里町4丁目西交差点から旧東海道筋南側だけに松並木が現れる。これは北側沿いに野池村の町家が並んだ名残。


青麻神社と地蔵堂
青麻神社と地蔵堂。


青麻神社
青麻神社の鳥居左隣に力士像。これは江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸力士、五代目・清見潟又市の石像。天保9年(1838年)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けた。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に相撲場外にまで届くほどの奇声を発する名物力士だった。


旧東海道 安城市東栄町野池
東栄町野池を行く旧東海道。


旧東海道松並木にて
旧東海道松並木にて。薬剤を注射した記録紙が松を保護する人々の努力を物語ろう。大変なことだろうが、これからも松並木を育て守ってほしいと願うばかりだ。


旧東海道 安城市東栄町
東栄町の松並木。写真右手前の松は斜めに生えているため、幹に大型車が接触した形跡が。接触部分に虎柄の防護シートが巻かれている。


日吉神社
浜屋町に鎮座する日吉神社。


明治川神社交差点
旧大浜茶屋村の京方端にあたる明治川神社交差点。ここから明治川神社の参道が延びている。


明治用水碑
明治川神社交差点に立つ明治用水碑と明治川神社の鳥居。開渠と通水百年を記念する石碑2基が立つ。


明治川神社参道
明治川神社参道。


明治川神社
明治川神社神池と石橋。明治川神社は明治18年(1885年)建立。明治用水建設の功労者、都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松を祭神に祀る。境内に明治用水から水を引く神池があり、ここに架かる石橋の明治川橋は昭和2年(1927年)の改築。


明治川神社参道
明治川神社を参拝し参道を戻って。


明治用水桜並木
明治川神社付近の明治用水。水路が暗渠化し桜並木の遊歩道が整備される。


浜屋バス停
浜屋バス停付近の旧東海道。かつて大浜茶屋村の町家が並んだ場所である。池鯉鮒宿と岡崎宿の中間に位置する大浜茶屋村は立場が置かれ、天保14年(1843年)には炒豆茶屋7軒、作間茶屋(農閑期に営む茶屋)6軒をはじめ、荒物屋、油屋、居酒屋等の店があった。蕎麦切りが名物。東隣の宇頭茶屋村との境で大浜湊(現 碧南市浜寺町)へ通じる大浜道、挙母・足助に通じる挙母道が分岐し、三河湾から遠く信州方面へ塩を運ぶために使われた。


永安寺・雲竜の松
旧大浜茶屋村の中心にある永安寺。


永安寺本堂
永安寺は大浜茶屋村の庄屋、柴田助太夫の霊を祀る。柴田助太夫は延宝5年(1677年)助郷役の免除を願い出て、領主の怒りに触れ刑死したと伝わり、この事件があったためか後に助郷役は一貫して免除された。その遺徳を称えて村民が草庵を結んだことに永安寺のはじまりがあり、寺地は柴田助太夫の屋敷跡とも伝わる。


永安寺・雲竜の松
永安寺境内で地を這うように幹を延ばす雲竜の松。


永安寺・雲竜の松
池鯉鮒宿と岡崎宿間は松並木や来迎寺一里塚等、これはと思う見所が多い中、この雲竜の松は度肝を抜かれる程の素晴らしい生えっぷり。これほどの松はそうそうお目にかかれない。


永安寺・雲竜の松
雲竜の松は柴田助太夫の屋敷にあったものなのか、永安寺建立時の植樹なのか不明だが、樹齢300年程と推定されている。幹が横に延びているため多くの支柱が立ち、管理するのも相当大変だろう。現在永安寺は無住の寺となっており、近隣の方がこの松を管理しているようだ。敬意を払いたい。


旧東海道 宇頭茶屋町
浜屋町(旧大浜茶屋村)の東隣、宇頭茶屋町へ。東海道筋に多くの茶屋があった宇頭茶屋は、江戸期を通して大浜茶屋とは隣接していながら藩領が違い、はじめ岡崎藩領に属し、宝暦13年(1763年)から幕府直轄、明和7年(1770年)に再び岡崎藩領に戻った。安政7年(1860年)には大浜茶屋と宇頭茶屋の間で茶屋営業をめぐり争論が起こっている。


内外神明社
宇頭茶屋町に鎮座する内外神明社。


妙教寺
宇頭茶屋町の法喜山妙教寺。法華宗陣門流.。


宇頭茶屋交差点
旧東海道と愛知県道76号が交差する宇頭茶屋交差点。この辺りは旧宇頭茶屋村と旧尾崎村の間に位置し、かつては松並木の街道だった。


宇頭茶屋交差点の小堂
宇頭茶屋交差点にある小堂。ピンクの桜と小堂、絵になります。


尾崎一里塚跡
旧尾崎村の京方外れにある尾崎一里塚跡。江戸日本橋から83里目(約326km)、京三条大橋からは35番目(実測で約178km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。両塚とも現存しておらず、「東海道一里塚跡」の碑がその場所を示すのみ。


熊野神社
尾崎一里塚跡付近に鎮座する熊野神社。鎌倉街道が北西約3km地点の不乗森神社(安城市里町森)から証文山の東を通り熊野神社に達していたと伝わり、ここで北西方向から南へ曲がっていたので境内の森を”踏分の森”と呼ぶ。熊野神社から先の鎌倉街道は南東方向の西別所町・山崎町・岡崎市新堀町方面へ通じたいた。


伝鎌倉街道
熊野神社境内西側、鎌倉街道と伝わる小路。


旧東海道 安城市尾崎町
熊野神社東側の旧東海道筋は旧尾崎村の町家が並んだ。


旧東海道 安城市尾崎町
尾崎町の松並木。


旧東海道 安城市尾崎町
松並木が途切れたところで国道1号に合流。


国道1号 宇頭町交差点
安城市から岡崎市へ。宇頭町交差点先の国道1号沿いは旧宇頭村の町家が並んでいたが、現在は国道1号が旧道を貫き、往時の面影は見られない。


和志王山薬王寺
宇頭北町の国道1号沿いにある和志王山薬王寺。奈良時代の創建と伝わり、薬師瑠璃光如来を本尊とする。寺伝によれば、本尊は豊阿弥長者が念持仏としていた尊像で、後に行基を開祖としてこの尊像を納め薬王寺が創建されたと云う。戦国時代の天文18年(1549年)織田信長の父信秀と、今川・松平家の間で安祥城を巡って合戦があり、この時に薬王寺は焼失、長者の子孫も絶えた。江戸時代初期に豊阿弥長者らの墓をこの地に移そうとした際、土中より首に銭を掛けた尊像を掘り出し、薬王寺が再興されたと伝わる。


聖善寺
国道1号を挟んで薬王寺の向かいに聖善寺を見る。慶長4年(1597年)作の木造孝養太子像と樹齢400年とされる枝垂桜があり、共に岡崎市指定文化財。枝垂桜は見頃を迎えていたのだろうが、国道を渡ることができず花見を諦めることに。国道に分断された薬王寺と聖善寺、近いようで遠いのだ。


鹿乗川
鹿乗川を渡って。川名の由来は足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、そこに現れた三頭の鹿の導きによって渡河できたという故事によるのが通説らしい。この”三鹿の渡し”の故事は、桶狭間合戦で織田信長により今川義元が討たれた後、大高城から岡崎城へ撤退する徳川家康が増水した矢作川に阻まれ、三頭の鹿が現れて家康を浅瀬に導き渡河させたとの伝説もある。


国道1号 鹿乗橋東交差点
鹿乗橋東交差点。現在は国道1号と化すが、昔は松並木の東海道だった。


国道1号 暮戸バス停
国道1号沿いの暮戸バス停。かつて暮戸村の町家が東海道筋に並んでいたが、西隣の宇頭村と同様に旧東海道を国道1号が貫いたため、往時の面影は見られない。


暮戸教会
国道1号沿いにある暮戸教会。ここは江戸時代後期に西三河における真宗大谷派の拠点、旧暮戸会所である。明治4年(1871年)廃仏毀釈に反対する真宗大谷派の石川台嶺を中心にする三河護法会は、廃仏希釈に同意を示した二ヶ寺の糾弾と菊間藩への談判を目的に暮戸会所で決起して大浜へ向かう。談判は決着を見ず、苛立った僧侶や門徒は暴徒化し、菊間藩役人の藤岡薫を殺害、翌日に騒動に加わった僧や門徒は捕えられ、後に裁判を経て台嶺と実行犯とされる榊原喜代七が死刑となった。この事件を大浜騒動(菊間藩事件)と呼ぶ。


暮戸神社
暮戸神社。由緒書が無く祭神や由緒が不明。


旧東海道 岡崎市矢作町
矢作町へ入り矢作町猫田交差点付近で国道1号の喧騒を離れる。旧矢作村は宝暦年間(1751年~63年)に東矢作村と西矢作村に分かれたといい、明治11年(1878年)合併して矢作村に改められた。


竊樹社
矢作町四区の氏神様、竊樹(ひそこ)社。祭神は加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)と御気津神(みけつかみ)。旧西矢作村の地に鎮座する。江戸期に上加茂大明神、明治になって加茂社に改め、大正期に竊樹社の祭神御気津神を合祀し現社名に改められた。


旧東海道 岡崎市矢作町
風格ある店構えの高岡屋呉服店。矢作町で古くから呉服商を営んでいるのだろう。


誓願寺十王堂
誓願寺十王堂。寿永3年(1184年)矢作の里に住む兼高長者の娘、浄瑠璃姫を弔うために再建されたと伝わる。源義経が藤原秀衡を頼り奥州へ向かう途次、兼高長者の屋敷に宿をとり、義経と浄瑠璃姫は出会い恋に落ちる。姫に名笛「薄墨」を形見に授け義経は奥州へと帰らぬ旅立ちに。姫は恋慕のあまり悲嘆にくれ、ついに菅生川(乙川)へ身を投じてしまう。十王堂には名笛「薄墨」と姫の鏡を安置する。


国道1号 岡崎市矢作町
旧東海道の南側を通る現在の東海道(国道1号)。さすがの交通量。


弥五騰社
旧東矢作村に鎮座する弥五騰(やごと)社。矢作町三区の氏神様。正平元年(1346年)、堀田弥五郎正泰が武内大臣・平定経を祀り左太彦宮を建立したことに始まり、願主の名から弥五郎殿と通称された。明治になって地内の八王子社と諏訪社を合祀し、現社名に改められた。


近江屋本舗
矢作町にある老舗和菓子店の近江屋本舗。店の明かりが暗がりの旧東海道を照らす。明治44年(1911年)創業。閉店時間の19時を過ぎていたため立ち寄れず。


勝蓮寺
旧東海道の突き当り、矢作川右岸にある勝蓮寺。真宗大谷派。所蔵する古文書には宗祖親鸞の来訪が記されているという。徳川家康の嫡男、信康と深く関係し、信康唯一とされる肖像画を所蔵する。信康は義父織田信長より武田家内通の嫌疑をかけられ、家康の命により自刃。21歳という若さだった。


矢作一里塚跡(推定)
勝蓮寺門前にあったとされる矢作一里塚跡。江戸日本橋から82里目(約322km)、京三条大橋からは36番目(実測で約182km地点、七里の渡しを27.5kmとして測定)となる一里塚。旧東海道は矢作川に突き当たって鉤の手に下流方向へ曲げられており、この曲り角辺りに一里塚があったと推測されるが、跡地を示すものが無いため場所が特定できない。


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岡崎の夜桜

【2015年4月4日(土)旧東海道 岡崎宿】
矢作橋を渡って岡崎城下へ。岡崎は桜まつりの真っ最中、岡崎城址の岡崎公園と伊賀川堤、乙川(菅生川)堤には約1000本のソメイヨシノが咲き誇る。乙川河川敷には多くの露店が並び、街は春の訪れを歓迎すべく多くの花見客で賑わう。照明に浮かび上がる夜桜は東海随一とも言われ、”日本さくら名所100選”に選定。今年は4月1日(水)から”岡崎の桜まつり”が開催され、訪れたのが開催最初の土曜日。想像通りに岡崎公園一帯は花見客でごった返し、周辺道路は臨時駐車場への駐車待ちで渋滞する。そんな最中に訪れた岡崎の夜桜、とくとご覧あれ。




矢作橋
矢作川に架かる国道1号の矢作橋を渡って岡崎城下へ。


旧東海道 岡崎市八帖町
八丁味噌の発祥地、八帖町を通り抜けて。


岡崎城と夜桜
伊賀川に架かる竹千代橋から岡崎城天守閣を望む。


岡崎城と夜桜
夜桜に浮かぶ岡崎城天守閣。その桜の下には多くの花見客。贅沢なロケーションで花見ができて羨ましい。


岡崎の夜桜
岡崎公園内は露店が並び、行き交う人でいっぱい。


岡崎城龍城堀
岡崎城の龍城堀と夜桜。


岡崎城天守閣
岡崎城天守閣。


龍城神社
天守閣に隣接する龍城神社。すっかり日が暮れた夜8時、正月でも祭礼日でもないのに参拝客で行列が…。


伊賀川
伊賀川堤の桜並木。


伊賀川
伊賀川の水面には桜の花びらが敷き詰められる。ここで一句。

春の夜に はかなき桜の 花筏


乙川(菅生川)河川敷
乙川(菅生川)河川敷ではパフォーマーが火を噴く。岡崎城下はサタデー・ナイト・フィーバー!


逆さ岡崎城天守閣
乙川(菅生川)に映る逆さ岡崎城。ライトアップされる夜桜と岡崎城天守閣、さくら祭りの期間中だけに見られる景観だ。


【旧東海道歩き 第12日目】名鉄知立駅→池鯉鮒宿→岡崎宿→名鉄岡崎公園前駅 歩行距離約21km

毎年ながら満開に咲くソメイヨシノを花見して、日本に生まれて良かったとつくづく思いつつ。夜桜見物を終えて本日の宿泊先、スーパーホテル岡崎へ。
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八丁味噌

池鯉鮒宿から岡崎城下へ辿り着き夜桜見物を楽しんだ翌日、じっくりと岡崎城址と城下を巡ることに。この日は”岡崎の桜まつり”の最大のイベント、家康行列が催行される。しかしながら雨雲が垂れ込めるあいにくの空模様、雨天中止なんてことにならないことを心配しつつ、宿泊先のスーパーホテル岡崎を出発し、乙川堤の桜並木を花見しながら、岡崎城下京方(西側)外れの矢作橋まで移動。ここから城下の旧東海道を辿りながら途中で家康行列を見つつ、岡崎城下江戸方(東側)端の旧投町(なぐりまち、現 岡崎市若宮町)まで散策する予定を立て、最後に岡崎城天守閣へ登城することに。

岡崎城下の旧東海道は”二十七曲り”と呼ばれ、京方から来れば八町村(現 八帖町)の矢作橋東詰にある鉤の手を最初に、城下江戸方(東側)端の欠町へ至る約4.5kmの道程に27ヶ所もの曲りが設けられていた。敵の侵入を容易にさせない防衛上の理由からとされる。その東海道二十七曲りの京方(西側)入口にあたる八町村は、岡崎城から西へ8町(約870m)の位置にあることが地名の由来。江戸時代には東海道沿いに町家が並んで町場を形成、太田家・早川家が江戸初期より八丁味噌の製造をはじめ、江戸中期以降には生産量を増大させて江戸等へ販路を拡大、全国にその名を知らしめた。現在は名古屋名物”味噌カツ”に欠かせない八丁味噌の発祥地として、”まるや”と”カクキュー”の2軒が今も江戸時代からの伝統製法を守り、味噌の製造を続けている。




乙川堤の桜並木
乙川堤の桜並木を見ながら矢作橋へ向かおう。


乙川堤の桜並木
雨粒が跳ねる水面をカモがスイスイと。


乙川堤の桜並木
乙川堤の桜並木。桜まつりが始まったばかりなのに、今日の雨は花落としの雨となりそう。


乙川河川敷
岡崎公園南側辺りの乙川河川敷。


乙川河川敷
河川敷には多くの露店が並び、これから訪れる花見客を待つ。


岡崎城天守と桜
岡崎城天守閣。


矢作(矢矧)橋跡
矢作橋より矢作川下流方向を望む。江戸時代に架けられていた矢作(矢矧)橋は東海道一の長橋、現在の矢作橋より少し下流側に架けられていた。日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と蜂須賀小六が出会った場所として知られるが、矢作橋の架橋は慶長6年(1601年)とされ、秀吉と小六が出会った頃には橋が無かったとも…。歌川広重は「東海道五十三次之内岡崎 矢矧之橋」の題を付け、大名行列が矢作橋を渡り岡崎城下へ向かう様子を浮世絵に描く。


Tokaido38_Okazaki.jpg
東海道五十三次之内岡崎 矢矧之橋
ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典「岡崎宿」より引用


矢作(矢矧)橋跡
広重はこの辺りからの風景を描いたのだろう。現在は旧道架橋地点に橋が無いため同じ構図にならず、悪天候のためか背景に描く山も確認できない。対岸に岡崎城の天守が何とか見えているのが救い。


矢作川と岡崎城
岡崎城天守をズーム撮影。左右に高い建物があり目立たないが、ここから天守が見えるのは素晴らしい。浮世絵の景観を保つため、建造物の高さを制限しているのだろうか。


矢作(矢矧)橋跡東詰
旧矢作(矢矧)橋の架橋地点が特定できないが、この辺りが旧橋の東詰と思われる。


旧東海道 岡崎市八帖町
矢作川左岸に残る八帖町の旧東海道。


旧東海道 岡崎市八帖町
京方(西側)から歩いてきて、旧矢作(矢矧)橋跡東詰の屈曲を一つ目とすると、ここは2つ目の曲り。その曲り角には「右 西京」「左 江戸」と刻む真新しい道標が設置される。


旧東海道 岡崎市八帖町
八丁味噌の郷を行く旧東海道。


八丁蔵通り
旧東海道からカクキュー裏手を北へ延びる八丁蔵通り。


純情きらり手形の道
八丁蔵通り入口にある宮﨑あおいさんの手形。ここ八丁蔵通りや味噌蔵等はNHK連続テレビ小説「純情きらり」のロケ地で、各所に出演者の手形が設置されている。


八丁蔵通り
八丁蔵通り。


光圓寺
八丁蔵通り沿いにある真宗大谷派、光圓寺。


八丁蔵通り
八丁蔵通りと光圓寺の桜。ドラマに使われたことが頷けるロケーション。


まるや八丁味噌
せっかくここまで来たので、八丁味噌製造元の一軒、”まるや八丁味噌”の工場を見学しよう。工場見学時間まで受付の建物内で待機、他に見学者が現れず、説明員の方に同行するのは私一人だけ。申し訳なく思いつつも、じっくりと味噌蔵を見学できてよかった。


まるや八丁味噌
まるやの味噌蔵。八丁味噌は蒸した大豆に麹カビをつけ、塩と水を加えて木桶に仕込む。木桶の蓋に重石を積み上げ、ニ夏二冬(約2年)もの熟成期間をおいて八丁味噌ができる。


まるや八丁味噌
味噌桶の蓋上に積まれる重石は、石積み職人の手により積み上げられている。


日吉丸石投の井戸
日吉丸石投の井戸。日吉丸とは豊臣秀吉の幼名。少年時代の秀吉が味噌の匂いに誘われてここに忍び込み、職人らに見つかってこの井戸に石を投じ、あたかも井戸に落ちたかのように見せかけ逃げたという。


まるや八丁味噌
まるやの北蔵は最も古く、江戸時代の建築。


まるや八丁味噌
まるやは幕府御用達の味噌醸造元で、北蔵の屋根瓦には三つ葉葵紋が見られる。


まるや八丁味噌
北蔵は「純情きらり」のロケ地。ドラマ撮影時の写真が壁に掲げられている。


まるや八丁味噌
まるや北蔵の内部。昔は味噌桶を竹の箍(たが)で締めていたが、現在は竹の箍を作る職人がいなくなり、代わりにワイヤーを巻いているのだという。北蔵の味噌桶には竹の箍が巻かれているようにみえるが、実は「純情きらり」の撮影時にNHKスタッフがワイヤーに被せた偽物とのこと。


まるや八丁味噌
工場内の売店で限定生産の”三河産大豆と神水仕込みの八丁味噌”と、江戸時代に家康も食していたという粒が残ったままの八丁味噌を購入して工場を後に。たまに異業種の工場見学をしてみるのも色々と興味がそそられ楽しいものだ。詳しくは”まるや八丁味噌”のホームページで↓

まるや八丁味噌
http://www.8miso.co.jp/index.html


早川橋
愛知環状鉄道線の高架橋下、旧東海道早川橋から京方を望む。左に行けば”まるや八丁味噌”、右が”カクキュー”。まるやの次はカクキューへ。


カクキュー
八丁味噌のもう1軒、カクキュー。こちらは代々当主が早川久右衞門を名のる八丁味噌の製造元で、江戸時代初期の創業。宮内庁御用達。


カクキュー
カクキューの工場内。明治40年建築の味噌蔵を改築し、史料館として一般公開している。時間の都合上、今回はこちらの工場見学ができなかったが、併設する売店で手に入れたかった”家康ラーメン”を購入。


カクキュー
国道1号よりカクキュー工場内を撮影。味噌桶に積まれるのだろう重石が。今年の仕込みに使われるのだろうか。岡崎近郊に訪れた際には是非とも八丁味噌の工場を見学してほしい。普段何気なしに食している味噌が、どれだけの手間ひまをかけて作られているのか実感できるだろう。

カクキュー
http://www.kakukyu.jp/


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岡崎宿 松葉町・板屋町・田町・下肴町・材木町・横町・連尺町・籠田町

江戸日本橋から数えて38宿目、京都三条大橋からならば16宿目にあたる岡崎宿。岡崎藩5万石の藩庁岡崎城の城下町であり、東海道や足助(七里)街道、矢作川等が交わる水陸交通の要地で、宿場町は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇り繁栄した。その礎を築いたのが豊臣家家臣の田中吉政。天正18年(1590年)小田原征伐の後、徳川家康が関東に移封されると田中吉政が岡崎城へ入城、城郭を拡張整備すると共に菅生川(乙川)の南側を通っていた東海道を城下に引き入れ、今に残る近世城郭と城下町の原形が造られた。城下町の整備は田中吉政に代わり岡崎城へ入った本多康重に引き継がれ、東海道が城下東西から城の北側を複雑に曲がりながら囲繞する”二十七曲り”や、江戸時代に最長の矢作橋は康重時代に完成をみた。二十七曲りは外敵の侵入を容易にさせない防衛上の目的の他に、城下を通る東海道を長くすることで好適な商業地を多く確保する狙いがあり、岡崎城下の発展に大きく貢献した。

岡崎城下の旧東海道は京方から来れば矢作川左岸の八町村(現 八帖町)にはじまり、次の松葉町から松葉総門を入って板屋町、田町、下肴町、材木町、横町、連尺町を抜け、籠田町で籠田総門を出て伝馬町、両町、投町、欠村に至る約4.5kmの道程。この間に27ヶ所もの曲りが設けられていたわけだが、現在の”二十七曲り”の道筋は一部失われたり、はっきりしない部分もあり、道筋や曲りに諸説ある状況。地図に示すルートは現地の解説板や道標を参考にした。天保14年(1843年)当時の岡崎宿人口6494人、家数1565軒、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。本陣は中根甚太郎(西本陣)、服部小八郎(東本陣)、大津屋勘助の3軒、脇本陣が鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒。名物は前の記事に紹介した八丁味噌とあんかけ豆腐あわ雪。




松葉総門跡
旧松葉町西端、岡崎城総曲輪の京方(西側)出入口にあたる松葉総門跡。江戸方出入口の籠田総門と共に承応3年(1654年)の設置、番所を併設し通行者を改めた。門前に松葉川が流れ松葉橋が架けられていたが、現在は旧東海道と国道248号の交差点になっており、門をはじめ川や橋の痕跡は見られない。交差点南西角に「松葉総門跡」の石碑があるのみ。


松葉総門跡
板屋町(江戸方)より松葉総門跡を望む。交差点の向こう側は旧松葉町の町並み。城西に位置する松葉町・板屋町・田町の地は古く沼地で、田中吉政が城下建設の折、城北の天神山を削り沼地を埋立て町を造成したと伝わる。


二十七曲り板屋町角
二十七曲り板屋町角。西から北方面へ鉤の手に曲がる。


旧東海道 板屋町
板屋町という地名は埋立地に板屋を建て町を造成したことに由来。文化年間(1804年~18年)頃から茶屋女を置く茶屋商売がはじまり、明治期以後は遊郭に発展、伝馬町と並ぶ繁華街だった。


旧東海道 板屋町
板屋町の北側で旧東海道の道幅が急激に広がる。


国道1号 田町
板屋町から田町へ。旧東海道は国道1号を挟んで連続する鉤の手の道筋。


二十七曲り田町
二十七曲り田町角。


旧東海道 田町
二十七曲り田町角より北側、田町の家並み。町名は町造成時の地形を指すのか、沼田に由来するという。江戸時代に伝馬町と共に塩座が設けられ、塩の専売権を有していた。そのため塩問屋をはじめ塩仲買の商家が多くあったが、明治維新で塩座が廃止され、岡崎塩座は消滅した。


志貴小児科醫院
田町の旧東海道筋にある志貴小児科醫院。レトロ感たっぷりの佇まい。


旧東海道 田町
田町の鉤の手跡。旧東海道はこの辺りで右折し、すぐに左折の道筋だったが、現在は民家が建ち消失している。


国道1号 田町
田町鉤の手跡付近東側に残る旧東海道の小路。


二十七曲り田町北角
二十七曲り田町北角。


三清橋より伊賀川下流を望む
三清橋より伊賀川下流を望む。天守が建物に遮られていなければ岡崎城の撮影スポットなのだが…。


二十七曲り下肴町より田町角
三清橋東詰、二十七曲り下肴町より田町角。


下肴町跡(伊賀川)
下肴町跡を流れる伊賀川。明治45年(1912年)より伊賀川の改修工事があり、現在の流路へ変更。東海道沿いに並んだ下肴町の町家は消失した。はじめ肴町と称したが、正保年間(1645年~48年)伝馬町近くに上肴町が成立、下肴町に改称する。両肴町は岡崎藩主より魚鳥類の専売権を認められ、魚商売の家が多くあった。


白山神社
伊賀川左岸、魚町に鎮座する白山神社。


白山神社の大椋
白山神社の大椋。岡崎市ふるさとの名木に指定。


下肴町跡(伊賀川)
柿田橋より旧東海道下肴町跡の伊賀川を望む。


旧東海道 材木町
柿田橋東、材木町西端の旧東海道(材木通り)。


唐弓弦の旧商家
材木町に残る唐弓弦の旧商家。唐弓弦とは江戸時代に使われた綿打ちの道具。岡崎には三河木綿に関連する職人や商人が多くいて重宝された。1枚板に「唐弓弦」と彫られた当時の看板を今も掲げる。


二十七曲り材木町角
二十七曲り材木町角。材木町の地は田中吉政が城下建設の折、伐り出した材木を積み置いた場所で、町名の由来になったとされる。江戸期を通して鍛冶職人や指物職人等が多く住む職人町だった。


材木町1丁目交差点
材木町1丁目交差点。旧東海道は写真左から正面のマンション(藤和シティホームズ岡崎公園)敷地を通り、右斜め奥に通じていた。


二十七曲り材木町口木戸前
二十七曲り材木町口木戸前。旧道消失方向を望む。


旧東海道 旧横町
材木町口木戸前より南方向。ここから旧東海道筋東側が旧横町の町域と思われる。角川日本地名大辞典によれば、「横町は岡崎城の北東、外郭内の東海道往還筋に面し、連尺町に交差して南北に通じる。南端は城内の横町口木戸で限り、北は信濃見附門で限る。(中略)町の中央から南へ斜めに連尺町へ出る通りを茅町と称し、三角屋敷と呼んだ。岡崎城の大手門に近く、徳川家康在城の頃は当町南端は武士の屋敷地であった。」とあり、手掛かりはこれくらい。南北に細長い町域を持っていたようだが、大正6年(1917年)連尺町・康生町・本町に組み込まれ横町の地名は消滅した。地図に示す旧横町は辞典の説明を基に想像で作成、大きく外れていることはないだろう。


二十七曲り岡崎城対面所前角
二十七曲り岡崎城対面所前角。


岡崎城対面所前角
岡崎城対面所前角より本町1丁目交差点を望む。この交差点南西角、ショッピングセンター”岡崎シビコ”(写真右)が建つ場所は、岡崎藩藩校の允文館・允武館跡。明治2年(1869年)藩主本多忠直が開設。明治4年(1871年)廃藩置県による岡崎藩廃藩に伴い、僅か2年余りで藩校閉鎖となった。


旧東海道 連尺通
連尺通1丁目交差点付近の旧東海道。連尺町は岡崎城下で最も古くからある町。享禄年間(1528年~31年)徳川家康の祖父松平清康が菅生川南岸明大寺にあった岡崎城を廃し、龍頭山砦を拡張して新たに岡崎城を築城。この時に開かれた町家が連尺町の起源で、はじめ大殿町と称したという。


旧東海道 連尺通
江戸時代後期の連尺町は荒物商や木綿商・古着商をはじめ、様々な店が軒を連ねる商人町。明治から大正期にかけて呉服商が急増、千賀呉服店や山沢屋をはじめとする大店が建ち、さながら呉服町の様相だったとか。現在も数軒の呉服屋が見られるが、千賀呉服店や山沢屋は見当たらない。しかし、コンビニエンス”TACMATE”(写真右手前の商店)にセンガの文字が!ここが旧千賀呉服店なのかも。


旧大島屋
コンビニエンス”TACMATE”の店先に「此処店便利店 大島屋」の木製看板があり、老舗の店であることは確かなようだ。呉服屋から食品や日用品を扱う店に転業したのだろうか。ちなみに山沢屋の場所はわからない。


二十七曲り籠田町より連尺町角
二十七曲り籠田町より連尺町角。大竹屋呉服店辺りが連尺町東端、ここで旧東海道は西から南へ鉤の手に曲がり籠田町に入る。


籠田公園
籠田町の旧東海道は籠田公園になり消失。現在はハトが闊歩している。


旧東海道 籠田町
連尺町角より籠田総門にかけての東海道筋に籠田町の町家が並んでいたが、昭和20年(1945年)の空襲で全焼、土地区画が整理され、現在旧道跡は籠田公園と広い中央分離帯を持つ幅広な道となって面影を留めていない。江戸末期には雛店や玩具屋が多くあったという。


田中吉政像
籠田公園前、旧東海道跡の中央分離帯にある田中吉政像。今に見る城下町岡崎の礎を築いた人。岡崎城主の時は豊臣家家臣だったが、関ヶ原合戦で徳川方の東軍に与し、合戦後に逃亡中の西軍石田三成を捕える勲功を挙げ、筑後一国柳川城32万石を与えられた。


籠田総門跡
籠田総門跡。中央分離帯に総門を模したモニュメントを置く。


籠田総門跡
写真右の青いビル辺りで旧東海道はクランク状に曲折し、手前道上辺りで籠田総門に入っていたようだ。現在は籠田総門をはじめ、クランク状の曲折や南北に延びていた外堀の形跡は全く残っていない。籠田総門は岡崎城総曲輪の江戸方(東側)出入口にあたり、籠田町と伝馬町の境をなした。松葉総門と同じく承応3年(1654年)の設置。


撮影日:2015年4月5日(日)
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プロフィール

しまむー

Author:しまむー
自称りーまんな旅人。
北海道旭川市出身。18歳で実家を出て千葉県に移り住んで約30年、2022年11月転勤をきっかけに千葉県柏市から茨城県土浦市へ引っ越し。今は茨城県民として筑波山を仰ぎ見ながら日々を過ごす。

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高札場
【川越街道 旅の報告】
2013年1月13日(日)
武蔵国板橋宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、川越城本丸御殿に到着しました!
川越時の鐘
【成田街道 旅の報告】
2012年7月8日(日)
下総国新宿を発ってから…
約5ヶ月の月日をかけて、成田山新勝寺・寺台宿に到着しました!
新勝寺大本堂と三重塔
【会津西街道街道 旅の報告】 2012年1月22日(水)
下野国今市宿を発ってから…
約1年6ヶ月の月日をかけて、
会津鶴ヶ城に到着しました!
鶴ヶ城
【 水戸街道 旅の報告 】 2010年5月5日(水)
武蔵国千住宿を発ってから…
約3ヶ月の月日をかけて、
水戸の銷魂橋に到着しました!
水戸弘道館
【 日光街道 旅の報告 】 2010年1月10日(日)
江戸日本橋を発ってから…
8ヶ月の月日をかけて、
東照大権現が鎮座される
日光東照宮に到着しました!
日光東照宮陽明門
【 中山道 旅の報告 】
2008年10月13日(月)
江戸日本橋を発ってから…
1年10ヶ月もの月日をかけて、 ついに京都三条大橋に到着しました!
京都三条大橋

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