岡崎宿 伝馬町・両町・投町
岡崎城総曲輪の江戸方(東側)出入口、籠田総門から伝馬町へ。伝馬町の成立は慶長14年(1609年)、その町名が示す通り伝馬継立を目的に形成された町で、本陣・脇本陣や問屋場をはじめ旅籠屋等、様々な商家が軒を連ねた岡崎宿の中心、岡崎城下にあって最も賑わいをみせ、享和2年(1802年)の書上によれば112軒もの旅籠屋を数えた。町は西から上之切・中之切・下之切に分け称し、上之切南側には御馳走屋敷を置き朝鮮通信使やお茶坪道中等が休泊に利用、下之切には塩座商人国分家の屋敷があった。本陣ははじめ浜島家と中根家(西本陣)が務め、享保年間(1716年~35年)頃に浜島家が衰退し代わって磯谷家、享和年間(1801年~04年)より服部家(東本陣)が継ぐ。中根家は江戸期を通して本陣を務め、文政5年(1822年)新たに大津屋を本陣に加え、江戸時代末期の岡崎宿には3軒もの本陣が置かれた。これら本陣や旅籠屋に魚鳥類を供給していたのが上肴町、魚鳥類の専売権を有する肴町(旧下肴町、現岡崎市魚町)より分かれ成立した町で、伝馬町上之切から北側、誓願門前にかけて町域を持っていた。

籠田総門跡付近、旧伝馬町(現 伝馬通1丁目)を行く旧東海道。伝馬町には江戸中期頃から飯盛女を置く旅籠が増え、「岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆はよい女郎衆♪」と流行り歌になるほど有名な花街を形成していた。

岡崎信用金庫資料館。大正6年(1917年)岡崎銀行本店として建造、赤レンガが印象的な西洋建築で、建築当時は異彩を放つ存在だったのだろう。現在は資料館となり貨幣に関する展示コーナーを設ける。国の登録有形文化財。

旧東海道から誓願寺へ延びる小路。この先は上肴町の町家が並んだ。

旧東海道・吉良道の分岐点。交差点の左折が旧東海道、右折は旧吉良道で西尾城下や吉良(現 西尾市吉良町)方面へ通じていた。

旧東海道・吉良道の分岐点に立つ道標。明治2年(1869年)建立.。道標3面に「東京みち」「西京いせ道」「きらみち」と刻む。

二十七曲り西本陣前角。写真奥のミニストップが中根甚太郎家(西本陣)跡。旧東海道は手前から交差点右折のルート。

中根甚太郎本陣(西本陣)跡。現在はミニストップになっているが、以前は岡崎グランド劇場という映画館だったらしい。

新しい建物が並ぶ伝馬町にあって宿場時代を偲ぶ貴重な一軒、永田屋精肉問屋と旧紙問屋糸屋惣七郎(永田屋左隣)。永田屋は明治23年(1890年)創業、大正期に現在地へ移転。左隣の旧紙問屋糸屋惣七郎は近年に廃業したらしい。

岡崎宿の中心だった伝馬通り沿いは昭和20年(1945年)の空襲でほぼ焼失、奇跡的に焼失を免れた永田屋と旧紙問屋糸屋惣七郎(写真左手前)、漢方薬店の大黒屋(写真右手前)ぐらいが歴史を感じさせる佇まい。写真右奥の市川メガネが脇本陣鍵屋定七跡。

伝馬通りで家康行列を見物することに。遠くに行列の先頭が見えてきた。

西本陣跡前を行く家康行列の先頭。後ろに続く高級車には徳川宗家や徳川四天王家末裔の当主が乗車。

岡崎市と親善都市を提携する関係で、はるばる沖縄県石垣市から参加の一団。ミス八重山の二人が沿道に笑顔をふりまく。

おかざきPR隊。車上には”オカザえもん”とお笑い芸人”はんにゃ”の二人。

テレビで何度か見た”オカザえもん”。インパクトのある奇怪なゆるキャラだけに知る人は多い。船橋市のふなっしーと同じく地元自治体の非公認キャラクターだが、岡崎市の認知度向上に貢献していることは間違いない。

グレート家康公「葵」武将隊。

子供たちに曳かれる龍城神社の東照宮神輿。

忍者に扮した多国籍な一団。

行列に参加する忍者に貰った折り紙の手裏剣。記念にします。有難う!

毛槍を持ち大名行列のような一団、いよいよ武者行列のお出ましか。

これから勇壮になるのだろう少年武者の行列。

於代の方を先頭に亀姫や築山御前、千姫の舞台車が通過。肝心の女性陣は悪天候のためバス移動。

薙刀を持った少女隊が後に続く。

法螺貝を吹く隊列。武者行列らしくなってきた。

いよいよ現れた武者行列の本隊、まずは岡崎三郎信康。徳川家康の嫡男に生まれたが、織田信長に武田家内通を疑われ自刃した悲運の武将。

次に登場は徳川四天王の一将、井伊直政が率いる赤備え。

井伊直政は「井伊の赤鬼」と称された勇猛果敢な豪傑。兜はまさしく鬼の角だ。

続いて本多忠勝の隊列。

鹿角脇立兜をかぶる馬上の人は徳川四天王の一将、本多忠勝。名槍”蜻蛉切(とんぼきり)”を手に戦国時代を戦い抜いた猛将である。

松平元信の隊列。家康元服時の名が元信、少年期の家康である。

次に登場は松平元康。家康が正室の築山殿を娶った青年期にあたり、”元”の字は今川義元の名から一字を与えられたもの。桶狭間の合戦を迎えた時の名である。金箔の甲冑を身に着けた武将が元康。

松平元康の次に家康。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、今川家を離れて改めた名が家康である。

いよいよ大御所の登場、徳川家康の隊列。

風格を感じさせる徳川家康。さすが300年にも及ぶ徳川の世を築いた偉人。

家康に続くのは榊原康政の隊列。

徳川四天王の一将、榊原康政。武勇では本多忠勝に劣るが、指揮官としての能力は忠勝より高く、井伊直政に匹敵したという。何となく徳川四天王にあっては地味な印象だが、家康を支えた知勇兼備の武将と言えよう。

家康行列の殿(しんがり)は、酒井忠次の隊列。

酒井忠次は徳川四天王にあって最年長、徳川家康より一回りを超える年上の武将。今川家の人質だった幼少期の家康に仕え、晩年まで家康を支えた功臣。徳川四天王の筆頭格と言われる。

家康行列を見送り岡崎宿の散策を再開。伝馬交差点北東角の花一生花店(写真右手)が服部小八郎家(東本陣)跡、南西角に天明2年(1782年)創業の備前屋藤右衛門(写真左奥)。備前屋で製造販売する”あわ雪”は、岡崎宿投町の茶屋で売られた名物、あんかけ豆腐あわ雪を偲び、三代目藤右衛門が創作。新製品の”あわ雪豆腐”は当時のあわ雪を豆乳菓子で再現している。
備前屋
http://www.bizenya.co.jp/index.htm

二十七曲り両町より伝馬町角。両町に入り旧東海道は伝馬通りからファミマ裏の道に右折する。

両町に入って2つ目の鉤の手。旧東海道は写真手前から左折。

両町を行く旧東海道。両町は当初東海道の北側だけに町家を並べたが、慶長12年(1607年)矢作川氾濫で壊滅的被害を受けた八町村の住民が移住し、南側にも人家を並べたことから両町の名が付いたとされる。

両町3丁目交差点を境に両町から若宮町へ。

根石寺(旧根石原観音堂)。本尊の聖観世音菩薩は和銅年間(708年~15年)悪病退散を祈願するため行基が作製したと伝わる。徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康が初陣の折にこの観音像に祈願し、見事に軍功を挙げたと云う。

若宮町、岡崎げんき館の南側を行く旧東海道。

岡崎宿東(江戸方)端の旧東海道筋は江戸時代に投(なぐり)町と称した地域、大正6年(1917年)若宮町へ改称され、現在は地名にその痕跡を残していない。投町には茶屋が多くあり、ここで食せるあんかけ豆腐”あわ雪”は岡崎宿の名物だった。

岡崎げんき館の南東角。「二十七曲り欠町より投町角 岡崎宿東入口」と刻む道標の他に岡崎城下二十七曲りの説明を刻む石標を置く。

旧投町と旧欠村の境に設けられる冠木門のモニュメント。岡崎宿の江戸方(東側)出入口にあたる。つまり江戸方から東海道を来れば、ここが一つ目の曲り角になるのだろうが、地図で曲り角を数える限りどうしても27にならない。何故なのか、謎である。
撮影日:2015年4月5日(日)

籠田総門跡付近、旧伝馬町(現 伝馬通1丁目)を行く旧東海道。伝馬町には江戸中期頃から飯盛女を置く旅籠が増え、「岡崎女郎衆、岡崎女郎衆、岡崎女郎衆はよい女郎衆♪」と流行り歌になるほど有名な花街を形成していた。

岡崎信用金庫資料館。大正6年(1917年)岡崎銀行本店として建造、赤レンガが印象的な西洋建築で、建築当時は異彩を放つ存在だったのだろう。現在は資料館となり貨幣に関する展示コーナーを設ける。国の登録有形文化財。

旧東海道から誓願寺へ延びる小路。この先は上肴町の町家が並んだ。

旧東海道・吉良道の分岐点。交差点の左折が旧東海道、右折は旧吉良道で西尾城下や吉良(現 西尾市吉良町)方面へ通じていた。

旧東海道・吉良道の分岐点に立つ道標。明治2年(1869年)建立.。道標3面に「東京みち」「西京いせ道」「きらみち」と刻む。

二十七曲り西本陣前角。写真奥のミニストップが中根甚太郎家(西本陣)跡。旧東海道は手前から交差点右折のルート。

中根甚太郎本陣(西本陣)跡。現在はミニストップになっているが、以前は岡崎グランド劇場という映画館だったらしい。

新しい建物が並ぶ伝馬町にあって宿場時代を偲ぶ貴重な一軒、永田屋精肉問屋と旧紙問屋糸屋惣七郎(永田屋左隣)。永田屋は明治23年(1890年)創業、大正期に現在地へ移転。左隣の旧紙問屋糸屋惣七郎は近年に廃業したらしい。

岡崎宿の中心だった伝馬通り沿いは昭和20年(1945年)の空襲でほぼ焼失、奇跡的に焼失を免れた永田屋と旧紙問屋糸屋惣七郎(写真左手前)、漢方薬店の大黒屋(写真右手前)ぐらいが歴史を感じさせる佇まい。写真右奥の市川メガネが脇本陣鍵屋定七跡。

伝馬通りで家康行列を見物することに。遠くに行列の先頭が見えてきた。

西本陣跡前を行く家康行列の先頭。後ろに続く高級車には徳川宗家や徳川四天王家末裔の当主が乗車。

岡崎市と親善都市を提携する関係で、はるばる沖縄県石垣市から参加の一団。ミス八重山の二人が沿道に笑顔をふりまく。

おかざきPR隊。車上には”オカザえもん”とお笑い芸人”はんにゃ”の二人。

テレビで何度か見た”オカザえもん”。インパクトのある奇怪なゆるキャラだけに知る人は多い。船橋市のふなっしーと同じく地元自治体の非公認キャラクターだが、岡崎市の認知度向上に貢献していることは間違いない。

グレート家康公「葵」武将隊。

子供たちに曳かれる龍城神社の東照宮神輿。

忍者に扮した多国籍な一団。

行列に参加する忍者に貰った折り紙の手裏剣。記念にします。有難う!

毛槍を持ち大名行列のような一団、いよいよ武者行列のお出ましか。

これから勇壮になるのだろう少年武者の行列。

於代の方を先頭に亀姫や築山御前、千姫の舞台車が通過。肝心の女性陣は悪天候のためバス移動。

薙刀を持った少女隊が後に続く。

法螺貝を吹く隊列。武者行列らしくなってきた。

いよいよ現れた武者行列の本隊、まずは岡崎三郎信康。徳川家康の嫡男に生まれたが、織田信長に武田家内通を疑われ自刃した悲運の武将。

次に登場は徳川四天王の一将、井伊直政が率いる赤備え。

井伊直政は「井伊の赤鬼」と称された勇猛果敢な豪傑。兜はまさしく鬼の角だ。

続いて本多忠勝の隊列。

鹿角脇立兜をかぶる馬上の人は徳川四天王の一将、本多忠勝。名槍”蜻蛉切(とんぼきり)”を手に戦国時代を戦い抜いた猛将である。

松平元信の隊列。家康元服時の名が元信、少年期の家康である。

次に登場は松平元康。家康が正室の築山殿を娶った青年期にあたり、”元”の字は今川義元の名から一字を与えられたもの。桶狭間の合戦を迎えた時の名である。金箔の甲冑を身に着けた武将が元康。

松平元康の次に家康。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、今川家を離れて改めた名が家康である。

いよいよ大御所の登場、徳川家康の隊列。

風格を感じさせる徳川家康。さすが300年にも及ぶ徳川の世を築いた偉人。

家康に続くのは榊原康政の隊列。

徳川四天王の一将、榊原康政。武勇では本多忠勝に劣るが、指揮官としての能力は忠勝より高く、井伊直政に匹敵したという。何となく徳川四天王にあっては地味な印象だが、家康を支えた知勇兼備の武将と言えよう。

家康行列の殿(しんがり)は、酒井忠次の隊列。

酒井忠次は徳川四天王にあって最年長、徳川家康より一回りを超える年上の武将。今川家の人質だった幼少期の家康に仕え、晩年まで家康を支えた功臣。徳川四天王の筆頭格と言われる。

家康行列を見送り岡崎宿の散策を再開。伝馬交差点北東角の花一生花店(写真右手)が服部小八郎家(東本陣)跡、南西角に天明2年(1782年)創業の備前屋藤右衛門(写真左奥)。備前屋で製造販売する”あわ雪”は、岡崎宿投町の茶屋で売られた名物、あんかけ豆腐あわ雪を偲び、三代目藤右衛門が創作。新製品の”あわ雪豆腐”は当時のあわ雪を豆乳菓子で再現している。
備前屋
http://www.bizenya.co.jp/index.htm

二十七曲り両町より伝馬町角。両町に入り旧東海道は伝馬通りからファミマ裏の道に右折する。

両町に入って2つ目の鉤の手。旧東海道は写真手前から左折。

両町を行く旧東海道。両町は当初東海道の北側だけに町家を並べたが、慶長12年(1607年)矢作川氾濫で壊滅的被害を受けた八町村の住民が移住し、南側にも人家を並べたことから両町の名が付いたとされる。

両町3丁目交差点を境に両町から若宮町へ。

根石寺(旧根石原観音堂)。本尊の聖観世音菩薩は和銅年間(708年~15年)悪病退散を祈願するため行基が作製したと伝わる。徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康が初陣の折にこの観音像に祈願し、見事に軍功を挙げたと云う。

若宮町、岡崎げんき館の南側を行く旧東海道。

岡崎宿東(江戸方)端の旧東海道筋は江戸時代に投(なぐり)町と称した地域、大正6年(1917年)若宮町へ改称され、現在は地名にその痕跡を残していない。投町には茶屋が多くあり、ここで食せるあんかけ豆腐”あわ雪”は岡崎宿の名物だった。

岡崎げんき館の南東角。「二十七曲り欠町より投町角 岡崎宿東入口」と刻む道標の他に岡崎城下二十七曲りの説明を刻む石標を置く。

旧投町と旧欠村の境に設けられる冠木門のモニュメント。岡崎宿の江戸方(東側)出入口にあたる。つまり江戸方から東海道を来れば、ここが一つ目の曲り角になるのだろうが、地図で曲り角を数える限りどうしても27にならない。何故なのか、謎である。
撮影日:2015年4月5日(日)

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